ピチ（盗難犬）

生年月日　昭和8年生れ
犬種　プードル
性別　不明
地域　東京府
飼主　麻生豊氏


麻生豊「無題」より、ピチ　昭和8年

Xマスも、もはや幾日もない街は、まるで眼を吊上げた病犬のやうな落着かぬ興奮をみせてゐた。
ジンタや、安物のレコードや、上ずつた叫びをネオンのどぎつい光の中いつぱいに廣げて、人々を一層いら〃さしてゐた。

私は珍しく早く家に向つたので、その盛場である××坂喧噪の中を人々の肩にもまれて商店と露店の間をウロ〃登つてゐつた。坂はゆるい勾配だつたので歩くのに左程足にも感じない位で、うつかりするといつの間にか登りきつてしまつて、坂上の電車道に出て、オヤもう登つてしまつたのかと思ふ位だ。

私のその坂の途中のチヨツと薄暗い所に五六人の人々が何か覗いてゐるのを見た。
何の気なしに近づいて人々のしてる様に前の人の方でジロ〃覗いて見た。ビール箱のやうなものゝ中に何やら動いてゐる。
仔犬らしい。
よく見ると、箱が二つあつた。両方とも四五匹の仔犬がお互ひの腹の下にもぐり込まふとして丸い體をもぐ〃さしてゐるのである。

私は前の人が立去るのを待つて前に出た。
仔犬は皆雑種だつた。それもポインター系らしい體つきだ。犬屋の主人は廿五六位の若者で、仔犬を運ぶリアーカーの横に馬穴の火鉢に股を擴げて、時折鼻をすゝり乍ら人々に声をかけたそうにしてゐた。
私が立去りそうにした時、リアーカーの箱の中で、ブル〃と身震ひする音がして犬の顔が見へた。
オヤまだ居るのかと思つて、そちらを覗くと、これは可也り大きい犬だ。よく見ると茶色の毛深いプードルらしい。
私の家にプードルが居て、、かね〃いゝ雄が居たら欲しいと思つてゐた矢先だつたので
「君、チヨツと出して見せてくれないか」と、主人に頼んだ。彼は腰かけた儘、鎖を手ぐつて、吊上ぐる様にして下ろして呉れた。
私は二三歩下つて見直した。
ヒヨロ〃と、立つてゐるのも辛いと云つた風に見へる犬は首をたれたまゝ、毛筋一つ動かさなかつた。
「君、これはいくつ位だ」
私は見當がつかないので尋ねた。
「まだ子供ですよ。八ヶ月でせうか。小便するのにまだ足もあげねえンですから」
さう云ひ乍ら犬の口に手をかけて歯を見せて
「こんな歯をしてるんですからネ」

犬は節穴のやうな眼をモジヤ〃の毛の奥からオド〃覗かして、される通りにしてゐた。
「素性のわかつたプードルですよ」
置きもののやうに黙りこくつた犬を見下ろしてゐた私は、突然「ピチ」と呼んだ。
そしてハツとした。
どうしてピチの名を無意識に口にしたのだろう。
ピチは去年の夏生れたプードルの仔犬の名だ。恰度、家内が病院でお産をしたのを見舞つて、雨の中をはづみ切つて帰つて來ると、戸の外の雨の音に交つて、クン〃と仔犬の鳴声がするのだ。
オヤと思はず服を脱ぐのを止めて戸をあけて見た。その声は雨樋の下あたりから聴へて來た。
下駄をつツかけて廻つて見ると、真黒い中にチコの尻尾を振るらしい音がして、眼玉がチラ〃光つて見へた。

懐中電燈を持ち出して見ると、濡れ鼠になつたチコの腹の下に、生れたばかりの仔犬が乳を求めて、これも水びたしになつてもがひてゐるのである。
「こりや驚いた。内でもお産か。チコの馬鹿、どうしてこんな所で生むんだ。見ろ赤ちやん、水びたしぢやないか」

私の声に半分叱つた語気があつたので、チコは頭を下げて上眼づかひに私を見上げた。
その鼻の先からポタ〃と滴が仔犬の背中を流れた。暑いので穴を掘つてお産をした途端に雨になつたらしい。それが運悪く、雨樋の下だつたので穴は忽ち池みたいになつてしまつたのだ。
その時の仔犬の中の一頭がピチだつた。
親に似て毛深く、今年の春頃になると親以上に見事になつた。それが、私が大阪に行つた留守の間に盗まれてしまつたのだ。

私が今、この半病人のやうな犬にピチと呼びかけて、自分自身驚ひた瞬間、ピチの姿が思ひ出された。
そして猶驚いたことに、その幻が今こゝに居る犬にスツポリ重なつてしまつた事である。
茶色の丸い眼と云ひ、茶色の中に胸から右足にかけてある白い筋、それから右足の先にチヨツピリ染め残された白。
私は危うく、“君、これは盗まれた僕の犬だ！”と云ふ所だつた。
併し私はやつとそれを我慢して帰つて、家内にその話をして、私の記憶が間違ひでないかをたしかめた。
家内一同の確からしい、そして可愛そうなピチを買戻すことに同意を得て、心強くなつて、その翌晩、私はピチを圓タクで家に連れ帰へつた。
やはり間違ひではなかつた。仔犬で跳ね廻つてゐたピチがふくらんで帰つた代りに、昔の元気は私たちの記憶といつしよにどこかに忘れて來たのであつた。

麻生豊「可哀さうなピチ」より　昭和9年