◆ハテ之は遙かに上方を通過すると見えたり。
残念至極と思ふ間もなく、枝君持場方向にて一發。銃声より察するに竹内氏らしく、續いて一發。愈々仕留めたるが如しと、正木、土居氏と駆け付け見れば、猪は竹内氏の一發に右下あごより左脇下に撃ち貫かれ、流るゝ鮮血を枯葉に染めて、翻つて檜林に踊り入りたる處にて、未だ致命傷に非ざれば怯まず、犬と格闘を始めたる際にて候ひし。
次で枝君の二の矢を、竹内君三の矢を撃ち込みたるも斃す能はず。
一匹、二匹と馳せ來る猟犬は猪の側面より、或は後部より巧に猪に猪に肉薄するにぞ、猪は歯をむき毛を逆立たせ、恐ろしく群がる犬を大輪に振り返り様に拂ふと見れば、犬群に猪突、一匹を地上に磨りつけ申候。
磨り付けられたる犬は、悲鳴をあげて一時後退致し申し候。
之は福留氏の勇敢なる幼犬に候。幼犬なるが故に転はし損じて猪の牙にかけられ、右後肢のつけ根にゴブリと穴を穿たれ申候。
◆背部全身灰色の毛を逆立たせたる處は四、五十貫もあらんと思はれ、したゝる血潮を物ともせず、ハーツ、ハーツ〃とあえぎ〃格闘する凄愴の有様は、迚も筆紙に盡し難く候。
斯く手負となれば、無論人間をも襲ふ譯なるも、今は只犬に肉薄せられ、之を防ぐに全力を盡し居れば、危険は無之候。
格闘約三十分間にして、さしもの猛猪も深手に気力次第に衰へ、遂に其處に斃れ申候。
されども尚波の如く喘ぐ気息は、大なる體を揺がし、叶はざる迄も起き上り〃、犬を振り拂ひ闘ふ様すさまじく、犬は猪の急所へ急所へと、猛然として噛附き申候。
◆竹内氏は最早大丈夫と見て、ヤオラ山刀を引き抜き、彼の肺臓に一刺を呉れ申候。
瀧の如き血を鼻口より吐くと同時に、ピリ〃と四肢をふるはし敢なく最期を遂げ申候。時に午後五時、己が獲物と許り死體に肉薄する犬を引き分ちて繋留し、猪を搬出すべく荷造にかゝり申候。
目方を試むるに、豫想に反し約八斗目(三十二貫)ある牡猪にして、牙の長さ三寸餘、長身肥大なる大獲物に、一同大に喜び携ふるウイスキーに祝杯を別ち、三人掛りにて担ぎ上げ、ヤツト北の川路上に搬出致し候。
其れより自動車にて田野々に引揚げ、更に祝宴を開き、気焔萬丈當るべからず。夜半に至る迄痛飲致し候。
此猪は第一矢を放ちたる、竹内氏の持場に突出する前、枝氏の前方十間位の處に來り立止まり、小路の様子と人の気配を窺ひしたるらしく、ハツ〃ハツと怖ろしく喘ぎを聞きたる瞬間、枝君の気配を嗅ぎ知りたりと見え、バサ〃と鳴る間もなく、下方竹内氏の持場の足許に突如現れ、同氏は銃口前二尺にて只一發を呉れたるに、一躍竹内氏を一廻転して、下方の檜林に転び入り、順次追ひ縋る犬と大格闘を始め申候。
枝君及竹内氏が二の矢三の矢を射たるも、五匹の犬が集り來りたる時は、最早射撃の危険なるより、只此光景を眺むるのみにて候ふし。
◆明日は葛籠川方面に大正七年頃より棲息しつゝある、俗名を「犬切り」と称し、既に猟犬数頭を其牙にかけて殺せし、四十餘貫の大猪を狩る計畫を定め申候。
◆昨二十日の猟果意外に大きかりしに、勇気百倍したる一行は、更に葛籠川の猟場に、犬切りの大猪を屠るべく、午前四時出發。折柄肌を劈く如き烈風を冒して、九十九折の山道を登り申候。
葛籠川は田野々の南西、二里半餘にして、海抜八百五十七呎の堂が森に續く連山の東北に面し、岡崎山其他の小山に連り、野々川、奥留、黒川等の小部落の點在する處に御座候。
途中偶〃行人の話に葛籠川の猟師山本庄吉氏一頭の猟犬を率い起したれども、餘りに大猪なるを以て、猟犬其跡を追はず。犬を尻目にかけて悠然と歩む様、實に稀代のものなりとの報を得、一行は爰に仁田四郎を夢みて山本方を訪れ、同氏より其事實なるを聞き、直に作戦を巡らし、晝食を認め申候。
◆西の烈風は益々吹き進み、忽ち大雪となりし呎尺を弁ぜざるより一先づ休息し、小歇みを待つて出猟する事に致し候。暫時にして雪は稍や薄らぎたれども、風は益々吹荒み、何時止むとも見えざるも、一行は土居君の動議に由り、強風積雪を突いても大猪の伏す、南の川を征する事に決し、二時到着各部署につき申候。
即ち福留、竹内、山本の三氏は猟犬を引き具して勢子を勤め、土居、正木、枝、宮崎氏及び小生は各猪垣につき申候。
待つ事約半時にして銃声一發微かに響くや否や、對山の山腹を六頭の猟犬に約十間を隔てゝ追跡されつゝ、西方に疾走する大猪を認め申候。其猪の大なること實に犢(小牛)の如く、思はず戦慄を覚へ申候。
軈て猪は枝君の猪垣に向つて逃れんと、山を降らんとして樵夫の木を伐る音に驚き、翻つて山を東に逆戻りせんとするとき、追縋る六頭の猟犬に包囲せられ、大格闘となり申候。
犬の吠へ声かしましく、吹く烈風に和して勇壮限りなく候。戦闘頗る激烈を極めつゝ、大羊歯の中を姿を没し申候。程なく犬の吠へ声も止みたれば、如何にせし哉と不安にかられ居り候折柄、二頭の猟犬は雄々しくも血まみれとなりて帰り來り候。
之即ち福留氏の猟犬が犬切の牙にかけられたるものにて、犬は當分使用不可能の如く見え申し候。
大猪は猟犬をまくし立て重軽傷を負はせて追ひ拂ひたる後、對山を瞬く間に降りて、正木君の潜みたる猪垣と、宮崎氏の固守する猪垣の中間に現れ、横着にも小道をノソリ〃と歩み、宮崎氏を去る二十間の所に近づき申候。
宮崎氏は充分之を近づけて射止めんとせる際、猪もさるもの之を覚り、俄かに巨躯を躍らして飛び返り、山上に逃れ入り候。
其時早くも追射二發を見舞ひたるも、樹木に遮られて命中せず。爰に於て一行は全速力を以て、猪の先き廻りして大渡りの猪垣に馳つけ申候。
然れども如何せん猪は弦を走り、吾は弓を走る地形なれば、猪は既に通過したる後にて、落胆限りなく、時刻も夕方に近ければ、本日の戦闘は先づ之にて止め、更に明早朝より狩る事にし、犬を呼び集め申候。
六頭の猟犬は福留氏の犬を除くの外は、軽傷に候事は一行の為に幸に御座候。
◆此猛猪を最も近く、正體を見届けたる宮崎氏は曰く、稀代の老猪にして四十貫を下らざるべく、大正七年頃より黒川及葛籠川附近に出没して、田野々、山本彦次郎氏の名犬を其牙にかけ殺し、窪川町青木氏の名犬二頭をも殺し、其他数頭の犬を牙にかけたる爪磨れ(爪ずれとは足の爪の一方に偏して磨滅せるを云ふ。即ち老猪は體躯の重量の為に、爪の一方の割れが年と共に摩滅し、長短を生ず)にして、當地猟者が「犬切り」と渾名を附したる逸物の由に候。
宮崎、福留両氏が曩日十日間を費し、捜索に苦心したるも、遂に発見し能はざるものなる事を確め申候。
◆一同は何處迄も追跡して射止めんと決心し、二里半を隔つる田野々の宿に帰りては、明早朝の追跡に遅るゝを慮り、其夜は葛籠川の谷奥なる、竹内信吉氏に一夜の宿を乞ひ申候。
同家は山奥の一軒家にて、多数に供給すべき白米の準備なく、玄米のみなれば、一行の茶目公正木君は、大阪の土居君に此の米搗き役を司らすべく、巧に交渉を纏め、遂に貴公子土居君をして、踏臺に登らせ申候。
悪戯之れ足らぬ茶目公の辛辣振りを極め申候。土居君不承々々に廿五貫の體を運び、異様の足踏みを以て搗く様に一行は腹を抱へ申候。搗く事五六度、迚もたまらず、這々の體にて囲炉裏の側に逃げ去り申候。
竹内氏は一行の為に米を搗き、寒さも厭はず歓待務められたるは、感謝に堪へざる次第に御座候。
勢ひよく燃ゆる囲炉裏の榾火(ほたび)を取り囲みて猟装も解かず、大猪の逃げ潜みし場所の判断に頭を悩ます。山本、竹内、宮崎、福留の四氏は折々意見を交換し、枝君は無言のまゝ肯き候。
天井、柱、家の構造を異様の目を以て見廻す土居君。ウインチエスター銃を餘念なく手入れする茶目公。恰も山塞に籠る山賊の如く相見え滑稽に候。
夕食も終り一同は明日の作戦を定めて、猟装のまゝ床に入り申候。四面たゞ寂寞、谷川の水音は、一夜の假寝を慰むるが如く、更け行くまゝにスヤ〃と夢路に入り申候。
◆二十二日目覚むれば既に六時を報ず。急ぎ起床、朝食を終へて出發せんとする際、田野々の銃士深瀬治太郎氏の参加するあり。一行九名と相成申候。
◆前夜の評議によりて決したる猪の落ち先は、如此大胆なる猪は遠く逃げ去るものに非ず。彼は必ず南の川より中横尾を逃げ、國有林松尾山を通過して、岡崎山に籠りたるものなるべしとの想定の下に、葛籠川上流の右岸に添ふて、奥深く進み入り申候。
程なく松尾山國有林に差しかゝれば、猪の足跡到る所に散見するも、殆ど古跡に属し大猪の跡を發見せず。然るに福留氏が約二丁を登りたる、杉林の中に大なる足跡を發見し、慥(たし)かに前日の猪の跡に相違なしと断定、一同力を得申候。
愈々岡崎山に籠り居る事を慥かめたる一行は、岡崎山の背後野々川越より攻撃すべく、山本、深瀬両氏を勢子として犬を率ひ、宮崎、竹内、福留の三氏は黒川方面の逃げ口たる、岡崎山北方面の猪垣を扼して退路を断ち、土居、正木、枝及小生の四名は、岡崎山の南麓、岡崎本谷「大イツチー」と称する、猪垣を受け持つ事と相成り申候。
此大イツチー猪垣は、此の地に於ける有名なる猪垣にして、野々川、黒川方面より葛籠川に來る猪は、必ず此の猪垣を通過すべく確定的に御座候。
四名の責任愈々重く、勇躍其守備に任じ申候。
◆烈風は雪を飛ばし、紛々として降しきる。六花は帽子、猟装、銃を忽ち白盡するも物ともせず、兵静かに真に嵐の前の寂寞に御座候。
凍ゆる手に力を罩(こ)め、雪と烈風に堪へて猪垣を守る事、約一時間を過ぐるも猪を起したる合圖を聞かず、待つ身の辛さを染み〃と味ひ喞(かこ)つ折しも、俄然吠へかゝる猟犬の叫び声に、スワ起したりと許り銃把を握りしめ申候。然るに又もや吠声は遙かに遠かりて猪は黒川方面に逃げ延びんとするものゝ如く、微かに聞えたるが再び山を迂廻して、勇ましき犬の吠え声近づき申候。
◆スワこそ御参なれ、いで撃つて手柄にして呉れんづと、手具脛引いて構ゆる瞬間、猪は前方の羊歯の中にパチ〃と云ふ音と共に、ハツー、ハーツと鼻息凄く、ゴソ〃と現れ申候。
驚くべし、前日遠くより目撃して戦慄したる以上の大猪にて、正木、土居両氏の立ちたる猪垣、枝君の立ちたる猪垣の中間約十間の所に迫れば、土居君のウインチエスター先づ轟然として火蓋を切り、次で正木、枝、小生と順次之れに一發宛を呉れ申候。
弾は確に各々命中したると覚え、血痕したゝり申候。されども急所をはづれたるか、大猪は只僅かに足の運びの緩になりしのみに候。
土居氏は更に振り返りざまに一發を見舞申候。
之れ亦命中猪體僅に崩れんとして踏み止まり、ノコ〃と歩み始め申候。
此時猛然として追跡し來れる、勇敢なる宮崎氏の犬は、血を見て奮然一声高く吠ゆるや、大猪の臀部に噛みつき續いて三頭の猟犬は三方より吠えかゝり、爰に猟犬と猛猪の大格闘は演出され申候。
(以下次回)
「土居緑氏一行の南海に於ける猟果」より
長くなるので複数回に分けて投稿します
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高知県の大猪「犬切り」討伐 昭和2年
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