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陸軍獣医資材本廠

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陸軍獣医資材本廠廠歌

水野廣徳 作詞
山田耕筰 作曲

1、
都の真西武蔵野の 名残をここに松林
勲(いさおし)高く立川の 緑ぞ深く色きそふ
匂ふや紫 我等の色章(しるし)
陸軍獣医材料廠

2、
皇紀は二千六百年 めでたき年に礎(いしずえ)を
初めて据ゑし職場に 集まる男女幾千人
献身奉公 我等の信條(ちかい)
勉めよ励め諸共に

3、
玲瓏(れいろう)富士の偉容(すがた)をば 朝夕高く仰ぎつつ
心は清く身は強く 絞れる弦の弛みなく
忠君愛國 我等の精神(こころ)
鍛へよ磨け日本魂

4、
炎熱夏の汗しぼり 厳寒冬の血は凍る
暁霜を踏みゆきて 夜半の星に送らるる
銃後の固めは 我等の責務(つとめ)
守れや防げ 皇國日本(おほみくに)



立川
立川に設立された陸軍獣医資材本廠

日本軍が規定する軍用動物は、ウマ、イヌ、ハト、ロバ、ラバ、ゾウ、ラクダ、トナカイでした。
これら多様な動物を大規模配備していた日本軍は、健康管理や医療を担う獣医団を編成。
獣医師の支援機関としては、陸軍省兵部局獣医課をはじめ、獣医部将校を育成する陸軍獣医学校、そして獣医用器材を調達補給する獣医資材廠などがありました。
また、「活兵器という呼称は馬や犬をモノ扱いする弊害を生む」として「軍用動物」へ改めさせたのも、かれら陸軍獣医団の将校たちでした。
しかし旧世代の軍人たち(その多くが昇進した偉いサン)は相変わらず「活兵器」と呼び続け、マスメディア側もそちらに便乗。陸軍獣医団の苦労も空しく、戦後の日本人まで「動物兵器」などという造語を生み出しております。
言葉の持つイメージとは、なかなか変え難いものがあるのですね。

今回ご紹介するのは、立川にあった陸軍資材本廠です。
日本の獣医学史を辿るには、軍用動物の医療衛生分野についても取り上げる必要があります。黒歴史として直視しないのも結構ですけど、そうなると馬関係の記録がゴッソリ削られることに。

陸軍では活兵器として益々重要性を増してゐる軍用動物の資源確保のため、新たに陸軍獣医資材廠を設置することとなり、二十日付官報でこれについての勅令を公布、八月一日から實施する。
今事変に勇士達の手足となり、或は通信に或は連絡、運搬に活躍してゐる軍馬、軍用犬、鳩等の涙ぐましい働きは既に銃後にも知れ渡るつてゐるが、これ等軍用動物の病気の治療と豫防に完璧を期して将来戦に備へるため、従来衛生材料廠内で行はれてゐた獣医材料及び蹄鉄の製造研究等を分離獨立させて、新設の獣医資材廠で行ふ。
例へば馬の鞍傷を防ぐために愛馬袴の製造改良を行ふとか、軍用動物の風土病の豫防薬や傳染病の注射液の研究や補給を司るなど、治療から一歩を進めて豫防に重點を置き、本廠を東京(立川市)に、支廠その他を所要の地に置いて物言はぬ兵士の戦力増進に貢献する事になる。

犬界二ユース「陸軍獣医資材廠新設さる」より 昭和15年

以下は陸軍獣医団の史料より。

創設と開廳祝賀式の概況

一、獣医資材廠創設前の状況

我が陸軍に於ける獣医材料の補給業務は、明治三十一年以前に在りては専ら陸軍省騎兵課に於て處理し、又之が制式の改成等に就ては軍馬衛生會議に諮詢し決定するの制なりしが、明治三十一年三月勅令第四十二號陸軍衛生材料廠條令公布せられ、獣医材料は同廠に於て取扱ふこととなり、獣医部職員(獣医は兼勤とし、一等蹄鉄工長を専任す)配属せらる。
而して其の後に於ける獣医材料の整備、補給関係法規改廃等を按ずるに、當時者竝諸先輩の跡歴然たるものありて、今日獣医資材の躍進的發達と本廠の創設に想ひを致す時、實に感慨無量なるものあり。
翻つて獣医資材廠獨立の必要性に関しては、すでに明治三十二年十月(陸達第百十一號)衛生材料、獣医材料取扱規則の改定に依り、陸軍衛生材料廠は専ら戦用品の保管竝各地衛戍病院の依託品調弁を取扱ふこととなりたる際、早くも獣医材料の取扱を分離すべき態勢を胎蔵せるものと謂ふべく、爾来先輩不断の努力に依り、幾多の曲折を経て偶々昭和十二年支那事変勃發に伴い獣医材料の整備補給の畫期的進展を見るや、遂に昭和十四年六月陸軍省馬政課より「陸軍獣医材料廠の獨立に就て」具體的意見提出せられ、関係者の絶大なる努力と當局者の正しき理解とに依り、茲に年來待望せる本廠の創設を見たるものなり。

二、獣医資材廠の創設と現況
前述の如く、獣医資材の補給業務は従來陸軍衛生材料廠の一分課として實施し來れるも支那事変以來補給資材厖大となり、仕事量は豫算に於て衛生材料の二分の一以上に達し、事変前に比し三十餘倍に増加し、且加ふるに獣医資材と衛生資材とは資材の性質に於て大いに相違あるを認識せられ、茲に多年の待望結實し、昭和十五年七月勅令第四百八十一號を以て獣医材料廠の創設を見、同年八月一日本廠を東京に、支廠を奉天(同時に大連出張所を有し、其の後昭和十七年五月一日釜山出張所を開設)に、本廠亦出張所を大阪に夫々獨立して、其の業務を継續せり。
而して本廠は東京府下立川に、支廠は奉天郊外(北方○粁)○○屯に夫々土地を取得し、本廠は同年十月下旬より工事に着手し、同十六年五月以降工事の進捗に伴ひ時局補給業務を處理しつゝ、傍ら逐次移転を始め、同年七月七日立川に於て本廠の事務を開設し、最も困難なる製造部の諸施設を移し、本年十一月を以て全部移転完了を見るに至れり。
奉天支廠の建設も亦概ね本廠と前後し着々進歩し、昭和十六年十二月、殆んど主力は移転を了したり。
又本廠大阪出張所は昭和十七年四月、兵庫縣川邉郡伊丹町の北方地區に目下建設工事中にして、昭和十八年五月頃には移転し得る見込みなり。
斯の如く本支廠共に関係各方面の絶大なる盡力により建設の基礎成り、爾後順調なる發達を遂げ、諸施設概ね完成せるを以て、奉天支廠は昭和十七年十月一日、本廠は同年十一月一日、夫々開廳の式典を挙行せり。

「陸軍獣医資材本廠便り」より 昭和18年


陸軍獣医資材本廠
自宅の資料棚を漁ったら出てきたブツ。
獣医資材本廠は、このような品々の補給を行っていました。


立川に住んでいた頃、あの街にそんな施設があった事など知りもしませんでした。


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