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鈴鹿山脈の手負い猪 昭和14年

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戦時中の猪猟の記録。

イノシシの牙で猟犬が重傷を負った話はよく聞きますが、内臓が露出するような重傷を負った姿をリアルタイムで目撃したこの記録は、応急処置の様子も含めて貴重だと思います。

 

 

「さあ大変だ、東京の旦那、射ちそんじて、手負猪となつたら奴め、目を真赤にして雑木をばりばりおつぴしをり、土を蹴あげ、岩をくだき、まつしぐら大砲の弾のやうに飛んでくる……」

「さうしたら、甚左衛門さん、ころりと横になつて死んだふりをすりやいゝんでせう」

「とんでもねえ!さうしたら、おめえ様の體は、雑巾のやうにずた〃になつちまひまさあ!そりや客人、熊のことですよ。困つちまふなあ」

日本一の猪狩の名人、森川甚左衛門さん、しゆんと大きな鼻をこすると、あはゝゝゝと顔を皺だらけにして笑つてしまつた。

 

「明朝はあの鈴鹿山脈、白旗山へ勇ましく猪狩に行くんでごわす」

ふしくれだつた甚左老人の指さきには、宿の腹ごしに見える連峰、雪をいたゞき、夕陽をあびて、赤々と酔拂ひの如し。

「わしやあの山のいたゞきで、その手負猪に追ひかけられちやあ、ちと困る。こんな事なら、東京の親と水盃をしてくればよかつたわい」

「だから、もしさやうなことがあつたら決して、股をひろげてはなりませぬぞ。よろしいか。猪が股にはいつたら、もう手はごわせん。びようと飛んで來たら、やあと両手で敵の耳をつかむのぢや。さうしてがんばつてをれば、わしが助けに行く」

「そんなに簡単に申されるが、仁田四郎のやうなことは出來ますかい」

「人生、すべて精神力でごわす」

名人、ぽんと煙管をたゝいた。

 


所は三重縣阿山郡丸柱村といふ一寒村。猪狩隊の根拠地である。

三重縣警察部の石橋豊氏、産業組合中央會三重支會の黒川達氏、井岡正雄氏、農林主事の森野要氏も、僕同様この手負猪防禦法には、ちと不安になつて來たのである。

「いや、皆さん。さう静かにならんでもよいでごわす。わしの鐵砲には狂ひはごわせん。いつも一弾にて、心臓を射とめる」

「ほんとですか」

「さやう。猪をうつには鼻づらをねらふ。するとちやうど心臓にあたる。いかに猪が早いかがわかるでごわしよ。それで猪をうつことを、コロリポンと申す」

「なんですか、それは」

「つまり、弾があたつて、ころりと転がつてから、ぽんといふ銃聲が聞えるといふ」

「大変なスピードですな」

「さやう。近年、この三重縣下には猪が非常にふえました。非常時局の今日、資源開發の意味でも、大いに猪狩は意味のあることでごわす。将来猪の鞣皮はいろ〃利用法があると思ひます。それにあの背の毛なぞは靴をぬふ針に非常によいと註文がごわす」

「なにせい、狩猟は、射撃の上達をはかるにも、非常時日本に大いに奨励すべきです」

石橋技師は、ヒツトラーの如く手を上げました。

「猪武者とも申し、進むばかり、退くことを知らぬなどとは、猪といふ奴は、我が皇軍と同じく、勇敢なものではありませんか」

「さやう〃」

「それでは猪のために乾杯をしませう」

猪が聞いたら、びつくりしたことでせう。

「ちえつ、俺のために乾杯だつてさあ。面白くもねえ。それにつけても、支那事変がおいらたちまで影響するとは、夢にも思はなかつたよ。森川甚左衛門と聞くと、身ぶるひがするよ。桑原、桑原」

猪は、ない頸を縮めたことでありませう。

 

名人甚左氏は、大分ご機嫌がよくなつて來たらしい。

「わしやあね、十七の時から猪をとつてゐるんね。生けどりにしたこともありますぞ。昨年は六十五頭うちやした。それに、勇敢なわしの日本犬がまたすばらしきものぢや。身をさかれても猪と戦ふ」

「甚左殿、さう酔拂つて、明日は大丈夫ですかね」

「大丈夫、わしの親父は、猪をかりながら腰の瓢からがぶ〃酒を飲んでをつたな。うーい、……では明日、寝坊せんでな」

甚左氏を送つて戸を開ければ、凍りついた雪肌をなでる風が身にしみた。

 

ワン〃……。突然、足もとからほえついた犬がゐる。

「これ、吠えるでねえ。東京の客人ぢや」

「甚左殿、これが、すばらしきあの猟犬ですか。いゝ型をしてをりますなあ」

「さよう、どうも猪を見ると、吠えるくせがある」

「よしてくれよ。では僕を、猪と思つたのかい」

「さようでござらつせう」

「おい、甚左殿。あしたは、わしを猪とまちがへんやうにたのみますぜ」

「あはゝゝ、よろしい」

星が降るやうな夜空、あしたは上々天氣。


 

猪が降つて來た夢で目がさめた。宿の婆さんは「おや〃、景気のよい夢ですこと」

「とんでもない、こはかつたよ」

「でも、十圓札が降つたと思ふと、いゝぢやありませんか」

急ぎおにぎりを腰に、甚左老の家へ。はや、凛々しき猪狩の一隊は、朝の光をあびて勢揃ひ。

甚左老のウインチエスター銃をになつた肩に、かちかちときり火を切つた甚左氏の母は、目をつぶり何か祈るのでした。

それから一同、鰯と塩を噛み「そーれ、おー」と勇ましく出發です。私はラツパがあつたら、劉亮と吹きたい衝動にかられました。鰯を食べるのは、猪をいわすといふ洒落なのです。

甚左老に、お母さんは何を祈つて下さるのですかと、しばしたつてたづねましたら「お前が、あやまちで、人をあやめたり、犬をうたぬやうに、お祈りするのぢやと、いつも言はれる」と答へました。

母上のおかげでせう。今日まで一度も失敗がないといふ。

山はけはしく深くなる。せゝらぎの水も清らか、一月の空には、大鷲が悠々と輪をゑがいてゐる。

麓の坂道で、一隊は六つに別れて、これから雪にのこつた猪の足跡をしらべて、頂上に落ち合ふのです。私等は甚左老の後につゞく。

しばしして、はたと止まつた部隊長の足。

「しーつ!」

しーつと雪面をねめつけて、甚左老、こちらをまねいた。

 

「そーれ、これが猪の足跡」

點々と續く大きな足跡が、ぼて〃と林をぬつて谷に落ちてゐる。

「客人、これから、煙草をのまぬやう。それから静かに〃、よろしいか」

何か胸騒ぎがして來た。ばさりと雪が落ちても「それ、現れたか」と飛び上つて笑はれる。

今まで澄み渡つた冬の空が暗くなる。ごーと吹きまくる強風、山々になりひゞく。

甚左老は、かちりと銃に弾を装填した。雲はます〃低くなつて來た。

猪、現れたら耳をつかむのぢや。耳、耳、耳。心の中は耳がかけめぐる。

十分、二十分、三十分、山はだん〃変化して來た。

雑木林をぬつて、一行は甚左老の後にひし〃とつゞく。やがて部隊長、腰を伸ばすと、ぱつと煙草に火をつけて「ふゝん」と言つた。

「甚左老、猪はゐなかつたんですか」

「いや、なか〃大きいのがをる。足跡から見ると四十貫ぐらゐはあるぢやらう」

「こゝいらに、うろうろしてゐるんですか。僕は銃を持たんのですよ」

「なに、大丈夫、大丈夫。猪は西に行きました」

 

いつか雲は晴れ、太陽の光に雪が目にしみた。鈴鹿山脈の一番の高地、白旗山の頂上に着いたのです。

麓で別れた猟師、勢子、猟犬の面々が思ひ〃の峯から、ひよつこり〃こゝへあつまつて來た。別々の口からの猪道をしらべたところによると、その報告の結果「猪、西へ行く」といふことになりました。

こゝで猪のをる場所が、この山の西の一部にせばまれたわけです。

「腹がへつては軍はできぬ」

「こゝらで一つおにぎりを」

山刀で雑木は切りたふされ、眞白い雪の上にぱーつと火の色が眞赤に上ると、めら〃と燃え上つた。山頂の焚火の暖かさ、枝のさきに薬缶をぶらさげ、湯をわかし、お茶をくみかはし、餅を焼くもの、伊賀名産日野菜づけで腹をとゝのへるもの、十七人一党の山の食事がはじまる。

青葉ののこる青木をたちきり、これを火にあぶつて雪の上におき、座布團がはりに腰をおろせば、そのぬくもり言はん方なし。

腹も満腹、尻もぽか〃。旅のつかれでうと〃とねむくなつた。

「ほい、客人。のんきに船をこいでゐてはいけん。船は川でこぐもんぢや。さあ、これからいよ〃猪狩でおますそ」

それつと、勇壮なる部隊のしんがりにくつついて、山の西方なる松の傾斜を雪をけつて駆けおりる。

 

 

岩の出鼻、真暗な杉の森などへ、一人々々猟師が消えて行く。めい〃部署につくらしい。

山はけはしく、谷へころげ落ちては命はなくなる。しかもなれぬ山道、いく度も足をすくはれる。かうなると登るより、おりる方が、これまた大変。

これで出会頭に猪の鼻さきでも現れようものなら、それこそもう最後である。

三人の勢子はいつの間にか見えなくなつたと思ふと、もう猟師今岡勇作さんたつた一人になつてしまつた。谷にそつておりるうちお、小さな中腹の畑地に出た。

「皆さんは、こゝに待つてゐてくだされよ。猪がその中腹から飛び出すからよう」

すた〃今岡勇作先生もゐなくなつてしまつた。残つたのは客人ばかりの四人である。心細いこと、かぎりがない。

「ようし、猪が出たら、これでぶんなぐつてやらう」

産業組合の井岡氏、竹藪から竹を切り出して、それで竹槍をつくり出した。雪の落ちたその山肌に雑木が風にうなつてゐた。

「私は現れたら、にげますぞ」

「わしは、えいと、前脚をつかんで、ねぢたふす」

ざあ〃と頭の上をかすめる疾風に、胸をさらして威張つてゐた黒川氏は、静かになつてしまつた。その後は、音一つしない。山までが沈黙だ。

なにか起る前の静けさだ。四人とも山肌に目をそゝいだきり動かぬ。突如、一瞬くづれんばかりの音響が頭の上に起つた。

うわーつ、四人は花火線香のやうにけし飛んだ。

自分でどう走つたかわからぬ。まだ猪らしいものは見ない中に、もう體が走つてしまつた。

 

ウワン、〃〃……、猟犬の決死の鳴き聲。山をつんざく銃聲、天も山も地もほこりつぽくぱつとけむつて、雲までがくづれ落ちたやうに目をかすめた。

何か走つてゐる。矢のやうに。

雑木はへしをれ、土煙はしぶきとなり、目がくらんだのか、山が頭にくづれ落ちるやうだ。

走つてゐる。走つてゐる。

猪だ、猪!

はじめて猪の映像が五體を震動させた。

犬が雲のやうに白くでんぐりがへつた。

猪はこつちに走つてゐるのだ。「甚左老、ジンザーロー!」と叫べど、聲はひあがつてゐる。黒川さん、石橋さん、皆の顔も見えない。

猪の血走つた正面の顔だ。はつきりとそれが突進してくる。どこへ。こつちだ。

見る〃中にせまつてくる。

シヤベルのやうな鼻づらは空氣を真二つに切つてくる。血走つた真赤な目だ。ぴーんと立つた逆毛が激流のやうだ。

あぶない〃。俺はにげるんだ。

足がすくんだ。もう一度、犬が空中にはふり上げられたのが見えた。

 

 

あとは、わからない。無我夢中で走つた、走つた。

足が軽くなつて、空中になげ出された。谷へ落ちたのか、あとはいと静かに、ほうつと気が遠くなつたのか、シヤボンの泡にくるまつて、ふは〃してゐるやうに、夢中に陥つてしまつた。何もわからない。

ぞーつと寒い。一體どこだらう。見れば僕のまはりに、皆が真黒に立つて、空も見えない。その顔がにこにこ笑つてゐる。

「いよう、氣がついたかい」

石橋さんは僕をだき起こしてゐた。どうも葡萄酒を飲まされたらしい。口がしぶい。

「しつかりしろよ。もう大丈夫だ」

立ち上がるや、ぞーつとした。

 

大きな猪が、腹を上に雪を真赤に染めてゐた。もうひとつ目を丸くしたのは、その向うで、猟犬が腹をゑぐられ、腸も露出してゐるではありませんか。

それを腹の中へおしこみ、甚左老が木綿糸でぬひつけてゐる真最中ではありませんか。

「しつかりしろ、、死ぬなよ。なあ、死ぬんぢやねえぞ」

甚左老の聲はふるへてゐた。

さつきからしつかりしろ〃と、かすかに響いてゐたのは、この甚左老の聲であつたのか。

 

 

あの恐ろしい手負猪の話が、ほんとになつたのです。手負となつた猪は、鋭い牙で犬の腹をさき、血まよひ、あばれ廻り、つひに僕の方向に飛んで來たのです。

夢のやうです、生きてゐるのが。毛が立つて走つて來た時は、牛ほど大きく見えました。

その日の獲物は二頭でした。担つた生木の棒がしなふほど重い猪でした。

村近くなつた時、僕は猪に追はれて目を廻したことなどどこへやら、まるで僕が射ちとめた凱旋将軍のやうに、そり身になつてをりました。何となれば、赤い前掛の村の娘さんが見てゐるからです。

 

 

腹をさかれた名犬が、命をとりとめたことは、ほんとに僕は嬉しかつた。村とはなれる時、名人甚左衛門氏や諸氏の方方には恐れ入りますが、この勇敢な名犬のことのみ頭にこびりついて離れませんのです。

 

小野佐世男「猪狩従軍記」より

 

 

 


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