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10月10日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正12年10月10日診察

 

兵庫縣加古郡天滿所在溜池五十町歩は本年三月禁獵區に設定されて以來、カモ、バン、カイツブリ、クヒナ、シギ等の水禽類渡來棲息し、成績極めて良好であるが、聞く所によると故意に溜池内に猟犬を入れて水禽を脅威し、禁猟區域外に飛翔するを待つて捕獲する者あり。
充分禁猟の目的を達する事が出來ぬので、同區域の周囲百余町歩を十月十日附兵庫縣第七五九號を以て銃猟禁止區域に設定する旨告示された。 

大正14年

 

今日秋田犬の歴史を考へるとき、最も遺憾に感ずることは、名犬として名を傳へられるものも、何等の記録も、寫眞も残さぬ事であります。凡そ、大館人の犬を語るもの、先づ、通称中の寺」といふ浄應寺なるお寺のモクといふものをあげます。昭和六年十月十日、古老座談會を開いたとき、安政年間生れの御老人達が、口を揃えてモク禮讃をいたしました。六十五歳から七十五歳迄の人々の幼記憶は、よく、この英雄犬の俤を再現させたものであります。出生地は秋田縣北秋田郡早口村岩野目で、一疋者ツマリ一人息子と生れました。衆議の推定は高肩丈二尺八寸位と決定しました。力の强い事は無頼で、米袋二十入りを左右にかけ、子供なら二人は乗せ、青年を乗せて一里位歩いた。大人が乗つてもつぶれなかつた。従つて闘志満々たるものがあり、しかも、二三頭を相手としても、決して劣けることがなかつた、等、口々に語られました。
安政から明治に生きのび、四年頃(?)士族某のために鎗で突き殺されたそうであります。モクの仔は、大きさは到底親には及ばないが、毛色と型は同じであつたと言はれます。
明治二十年代から三十年代にかけては、尚純和犬の闘犬があり、モクに次いで、勇名を傳へて居るものは、新澤(村名)のサク(白黒交りのこと)、弁蔵様のゴマ、麻當(村名)のジク(臆病の方言)、味噌内(村名)の赤等をあげます。
明治初年から一方、洋犬雑りの闘犬が臺頭して來ました。阿仁銅山の外人技師のつれて來た犬から、同地方に雑種が出來、専ら闘争を目的に、大きくて強くといふ目標のもとに、純和犬もどし〃混血しました。

秋田縣史蹟名勝天然記念物調査會委員 小野進 昭和6年 

 

ぼど

カロール・フォム・コンステッテル・レンドヒェン(陸軍病院での通称はボド)

1937年10月10日生まれ

一九三九年二月二日ポツダム誘導犬訓練學校二入學。
      四月十七日卒業。
      同月十八日シヤルンホルスト號デ獨逸ブレーメン港ヲ出帆。
      五月二十六日神戸着。
浅田甚右衛門氏ノ所有トナリ、八月七日迄蟻川定俊氏ノ手ニ依リ再訓練サレ、同日陸軍第一病院第二外科二於テ両眼戰傷者歩兵准尉舛田宇三郎取扱責任者トナル。

陸軍省醫務局『戰盲勇士の誘導犬記』より

 

昭和十四年四月十一日、我部隊は重任を拝し、渡滿以來山村の地に警備の任に在りましたが、東亜の風雲急を告るや、断乎として起ち同年八月二十一日勇躍征途に就いた軍犬トミー號も亦其の名、世界に知られたる當時猪鹿倉部隊通信班軍犬として征途に就く。
同年〇月〇日、天鎮付近の戰闘に於て夜間部隊誘導犬として我部隊の急を救ひ、軍の作戦に有利を與へた。
○月〇日、大同付近の戰闘、〇月〇日、鐡角嶺の戰闘、同年十月十日原王鎮付近の戰闘、〇月〇日忻口鎮付近の戰闘、同年〇月〇日太原付近の戰闘、〇月〇日晴の太原入城にも、隊の名と共に軍犬トミー號の名も輝きました。
昨年八月、ノモンハン事變に再び志賀通信班長の指揮下に入り、酷暑、炎熱と戦ひ、ホロンバイル草原、ハルハ河畔の附近の戰闘に於て良く傳令犬の任務を完うし、名聲を博し、十月原駐地に帰還しました。

○月〇〇日
柏部隊中出隊軍犬係 八子武 

昭和15年

 

 

 


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