余は土地の獵友、月山獵夫、大森獵士、七峯生の三名と新町地方へ獵遊を爲さバやと、郷里を立出でゝ同地に着したるハ丁度昨年十二月八日の事なりき。
其日は山を越へ渓を渉りて凹凸なる道路の上に、かてゝ加へて降り積りし雪道に一天忽焉掻き曇り水霰を降らし、御姥颪の嵐に身体も凍える計りの艱難を極めければ、一同疲労を覺へけるが、中にも大森獵士は終日の旅行に寒濕を受け、旅宿に着してより腹痛の上に上痢甚しく、大弱りに弱り込み、斯んな事なら來なけれバ宜かつた明日は早々歸路に就く杯と悼く細音を出したること笑止なり。
然れども余は見て居るも氣の毒なれば、早速下婢をして醫師を迎かへしめしに、稍ゝ二十分時程にして入り來れるが、元來此辺は極の山奥にして醫師を呼ぶには二三里も行かねば成らざるも、幸にして此土地は山中の一小都會にてありければ、斯くは速かに來るならめ。
而して、先づ診断を終り、之れは寒気を受たので明日はスツカリ平癒りますと云ひながら、鄭重にも醫師自から薬鍋に何やらん木の根らしき薬を投じて煎じ出し與へたれば、大森氏は顔を顰めながらグイと呑みほし其儘臥戸に入りたり。
余等残りの者共は晩餐を喫し、土地の獵夫を呼び寄せ明日出獵の計畫を爲したりき。
其翌日は前日とは打て變つて稀なる好天氣に皆々小踊りなして、土地の獵夫四人を案内兼荷物担ぎに雇ひ、御姨の深山に踏み入りたるが、中軍は大森月山の両君、左右は七峯君と余にてありき。
然るに大森氏は前日の不元氣とハ似もやらで、東奔西走突進する有様ハ實に天晴、中軍の御大將とこそ見へにける。
忽ち一發轟然として山岳震ひたれば、一番槍の功名何れにありやと瞳を定めて窺ひ見るに、今や中軍の月山君は猿猴一頭を斃し給へり。
而して、敢なく進む程に余が愛犬カルは傍の荊中より肥兎一羽を追出しけれバ、斯は天の賜、逃すものかはと銃追取り直して一發、美事に撃留めたれば、漸くにして少しは意ろも落付き獵犬に向つて一層励みを與へ、且手並をサンクスしたり。
偖、行く事數丁にして右軍將に従へる案内者の牽き連れし獵犬(耳尖りて狐に彷彿たり)はきやん〃、ぐわつ〃と無闇に駈け廻り、けな氣にも一雄雉を追上げたり。今や七峯君が撃ち落さるゝならんと思ひの外、森林鬱蒼として忽ち其影を失へるものと見へ鳥ハ遙かに中陣の方翔け來りたり。此時、最前よりして切歯扼腕せる大森氏は隙かさずドーンと旨く撃留められたり。
彌進めば積雪三尺に近く、最早此上到底進む事能はず。
且つや時三儀は十二時を報じければ余は獵僕と倶に老松の下に憩ひ、日頃愛するポインタ種カルの頭を撫でながら同行者の到るを待ちたりしに、稍ありて一同茲に落合ひたり。
依て皆々午餐を喫し、枯木を伐裁して火を焚き以てカツヒー入の角砂糖を溶解(銃猟新書にある弁當入を以てせ志に甚だ宜し)して、一杯咽喉の渇を濕しながら今日の不獵を嘆ち、一同落胆して此山嶺を下るの元氣も無さそうに見へざりけり。
其時早くも狐似犬は一聲吠ゆると見る間もあらせず一雉を追出したれば七峯氏は恵此壽然として撃ち留められたり。
間も無く日は西山に没せんと欲する有様なれバ、案内者に従ひて水内村を過ぎ全く歸宿せしハ稍々點燈の頃ひにてありき。
夫より一同晩餐に取掛りたれども、此日の不獵なるが故か精神鬱々として食事も何となく進まず(と云ふものゝ四五杯位宛は食せり呵々)。
然れ共、一敗を以て志を動かすべからずの格言に従ひ評議、否、軍議を凝らして、明日は鳥獣の夥しき所へ行かんものをと又々心利きたる獵夫等を雇ひて鳥獣の多栖する場所を問ひたるに、是より西南纔にして木崎、青木の二湖あり、之には鴨多く且つ又其の近山には雉兎獣類が澤山居るとの事なれば、皆々勇氣を鼓舞しつゝ、吾こそ明日は雉兎の十羽位は撃ち取りて、本日の不愉快を恢復し呉れんものと其用意を爲し、案内者には明日夜明けに出立すべけれは其用意して必ず後れじなど堅く云ひ付け、各々東天紅をこそ待にけり。
信山獵夫「獵遊記」より 明治25年
『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より
いずれも大正12年12月8日診察
ブレイガー號
生年月日 昭和8年12月8日 廣島生まれ
犬種 シェパード 黒―褐色
性別 牡
本犬は昭和十年四月二日第○師団軍犬班に補充されたものである。昭和十二年七月(字欠け)日、動員下令に依り○隊軍犬班傳令犬として勇躍出征した。
時恰も灼熱下料子台付近の戰闘に於ては峻嶮重畳極る山岳地帯の悪路に水なく飢渇難行を続行し敵弾猛射に叱咤せられ、軍犬特有の迅速機敏なる通信連絡に従事し激動に堪へ、傳令犬としての任務を遺憾なく達成し、続いて東西加闘忻口鎮付近の激戰に参加、克く其任務に服した。
太原付近の戰闘に際しては○隊に配属せられ、第一線中隊との連絡に服し、又敵捕虜逃亡に際しては逸早く發見、猛然襲撃を行ひ負傷を加へ、捕虜をして顔色なからしめた。砂領の同本部を起點として沂河の向岸に頑強に抵抗する敵を攻撃中の第一中隊との通信連絡を(三月十四日より三月十八日まで)行つた。
其間熾烈なる敵火に各本部の傳令兵相続いて斃れ、第一線との連絡は愈々困難の中に有つて該犬は最も特意とする身體の軽快なるに委ね、何等臆するところなく神速を以て敵彈雨飛の中を連絡を全うした。
続いて沂洲川付近の戦闘に於ては○隊本部第二中隊間約八粁の長距離傳令に成功したが、連日連夜間断なく往復傳令に服し、疲労困憊の極に達したが、該犬は銃砲聲に耳を欹てゝは士氣を鼓舞し、恰も當時の状況を認識するが如くに見受られ最大の能力を發揮した。
沂洲付近の戰闘中、大嶺攻撃に於ては○隊本部、第三中隊間距離約四○○米の傳令中、第一線より敵情に関し報告書を持参し、起點たる○隊本部、第三中隊間距離四○○米の傳令中第一線より敵情に関し報告書を持参し、起點たる○隊本部に戻らんとした所、約五○米の途上に於て敵機關銃の猛射を浴び、一弾は遂に頭部に命中、貫通銃創を受け打倒れた。
併し該犬は克く自己の重大なる任務を痛感したか再び起き上り、蹣跚めく體を辛じて支へ、本部に向つて前進を起すも傷の苦痛に堪へかね、幾度か倒れたが遂に本部に到着し、任務を達成した其の責任観念の旺盛なる事は人間と比して何等遜色を認めない所のもので、實に軍犬としての亀鑑である。
南支作戦に於ては長期の船舶輸送に堪へ、上陸に際しては先遣隊に属し、酷暑の中に険峻なる山岳地帯、膝をも没する泥濘地、蜿蜒たる河川の渡河をなし、昼夜の区別なく想像だも及ばざる困苦欠乏に堪へ、傳令犬としての任務を全うした。
該犬は飼育者に對しては極めて温順、思慕の念厚く、如何なる情況困難なる場合に遭遇するも必ずや任務を遂行する氣概あり。傳令犬としての信望厚く今尚健在である。
右の如く本犬は北支に出征以来中支、南支と各種の戰闘に参加、通信機關皆無の場合にあつて唯一の容易なる通信機關として常に猛烈なる敵火を冒し傳令犬として活躍し、幾多の戰闘に於て部隊の行動を容易ならしめたるものであつて其の武功抜群なるものがある。
歩兵○○部隊軍犬班 昭和14年
中村鶴吉氏
愛犬エン・ベー・カー・ユワ號も、エン・ベー・カー・ユリ號も、日本犬保存會展覧會で推奨されたので大得意。その上ユワ號とマキ號の直系子が十二月八日に生れて一層有掛に入つてゐる
昭和9年
役員會(昭和11年12月8日)
於銀座末廣
出席者 中元、池野、坂上、野田、鈴木、金澤、杉山、高橋、許斐の各理事及森田監事
先づ中元理事長より本年度納めの會としての挨拶があつた後、明年度の計畫に付各役員の意見開陳方求めらる。結局議題に上り決定せるもの左記の通りであつた。
一、明十二年一月末例會を兼ね新年宴會開催のこと。
一、明十二年十月にエアデールテリアの訓練競技大會を挙行すること。但し出場犬資格は限定を加へず廣く會員外のエアデールも歓迎すること。
一、會誌に會員所有犬寫眞を順次掲載するこゝとし、以て各時代に於けるエアデールを観るの好資料となす好材料となす様努めること。
一、會員所有犬の譲渡又は譲受に付會員の便宜を圖り適當に會誌利用の途を開くこと。
尚席上坂上理事より、豫て理事長からオリンピツク委員として獨逸へ赴かれた一又安平氏に依頼し、RDH(※ナチスドイツ畜犬連盟)會長グロツケナー博士に面會し、獨逸犬界の状勢聴取方依頼し置きたるも、生憎同氏は大會直後急遽赴佛渡英の要出來、乍残念目的を果し得なかつた御詫びの返事を披露する所あつた。又席上今月の犬の研究誌上に掲載したるエアデール統制強化の座談會なるものに付、之に出席せる中元、野田、池野、高橋の各理事から、その真相を一應別項「参照」の通り聴取した。
(参照)
前記十二月八日の役員會席上話題となつたエアデールの統制強化の座談會記事に関し、一見如何にも何か協會より話を進め居る哉に誤解されるので、之に出席せる各理事からの御話及之に関する談話要旨を御参考迄に左に掲ぐることゝする。
野田、池野両氏は同座談會終了間際に出席せられ、且つ中元氏も前二者同様、犬の研究社およびドツグ社主催の同座談會は、今や我國人氣の集點であるエアデールの、単なる座談會と思考して出席したる旨御話あり。そこで一同期しずして、高橋理事の説明を求めたるも別段の御話なく、結局役員一同は同座談會は雑誌の日頃その主張とせる犬界統制問題に就ての一つの試みなるべしと推察した。
その際許斐理事は發言し、この種の話は決して今に始まつた問題ではなく、本協會の設立以來、過去他より働きかけられたる事例として、當時歩兵學校附某軍医より、又帝犬設立當時に於ける本協會との経緯、今田氏の関係せられた全日本エアデールテリア倶楽部なるもの及日本カナイン倶楽部等より、種々提案があつた場合に對し、その節本協會の採りたる處置態度に付披露し、且つエアデールの現状より本犬種の真の温床、換言せば慈母の心を以て子の成功を見守るエアデールの會の必要性あることを説き、且つ國家的見地より犬界統制方法或は血統書等の問題に就て述ぶるならば、単に犬を知れる関係両當路に於て、赤誠を以て實質的に問題を折衝せば、自ら提携の途開ける筈で、大した問題でもないと附言し、但斯様な問題を講ずるには自ら順序がある、而も本協會としては種々主張はあるも、目下他へ助を請ふべきは何等の事故を存在せず、協會訣立の趣意には悖らず年々堅實なる發達を遂げつゝある事は衆知の蔽ふべからざる事實である。
何れにしても會員の絶對信頼の下に推薦せられたる役員の言動は、エアデールの本質を把握して無私公平、責任を以て慎重には慎重を期し、以て會員諸兄に應へなければならぬ當然の理から云つても、今度とも御互に戒心を要すると、切々として述ぶる所があつた。
中元理事長は笑つて之を制し、本件は何等具體的な問題ではなく、単なる話題で、未だ表向き協會の議題とすべき程のものでないと述べ、結局本件の談義はその儘打切りとなつた。
日本エアデールテリア協會
今田荘一陸軍大佐「それでは、之をあなたは何時頃手に御入れになりまして、それから訓練の手ほどきと云ふ辺迄、どう云ふ風に御苦心になつたものか其辺を承りたいと思ひます」
南謙吉氏「私の手に入つたのが丁度生後七十日でございました。昨年の五月三十日です。之に就て面白いことがあるのです。さあ仔犬の約束は出来たけれども、どうしてこちらに持つて来るか。どうも長い間仔犬を箱に入れて汽車の中で十六時間もやつたんぢやたまらないだらうと云ふので、特急で一つ送つて貰ひたいと話した所が、特急では動物の輸送は出来ないと拒絶せられて、それぢや飛行機で一つやつたらどうだらうと云ふので、飛行機の方へ交渉したが、飛行機もやかましいことを言つて居つたのですが、さあ特別に許可を得て、特別の施設をして送つて貰ふことになつたのです。最初は生後六十日で送つて来る話であつたのが、さて飛行場迄自動車で積んで行つた所が飛行機が天候の関係で出ない。
仔犬を往復自動車で運んだ為め犬が弱つて困つちやつたと云ふやうなことがあつて、又十日間恢復を待つて七十日の時に、天候晴朗の日を選んで送つて貰つたんです」
今田「特別の飛行機の施設とは……」
南「それは別に問題ないのです。箱ですな。箱の大きさとかさうして便とか何かに對する施設、外に迷惑にならぬやうな方法、勿論目方にも制限がありますが、大體そんなやうな所でありました。
是も航空會社として或は便宜に唯例外として扱つて呉れたのだか、其辺の所は私は能く分りませぬ。
兎に角さうして送つて呉れたのです。恐らく前の會報にも申上げて置きましたが、それは飛行機で軍用犬を送つたのが初めてゞはないかと思ふのですがね」
澤田退蔵氏「其前に此處から交配の為に送つたと云ふ事があります」
南「飛行機で……」
澤田「さうです」
南「それぢや、私の認識不足かも知れない。去年の何月頃です」
澤田「一昨年でしたか……・。それは會員ぢやありませぬが……」
今田「飛行機旅行の犬に對する影響と云ひますか、後の結果はどんなでしたか」
南「来ましたらひよろ〃です。動物を飛行機に乗つけると腰が抜けると云ふ話があり、ますが、あれは腰が抜けるのではなく酔ふのですな。我々が丁度船に酔つちやつて、陸に上つた時波に揺られて居るやうな氣持ちがしますが、あれですね。殊に仔犬なんかはすつかり弱つちやつて、唾液を出して、もうふら〃です」
今田「それに對する後の手當はどう云ふ風に……」
南「是の手當は私は直ぐ出して芝の上に置いて、さうして洗面器に冷い水を持つて来て口の中をすつかり洗つてやつた。それから顔から足を冷い水ですつかり拭いてやつたのです。さうして一時間程を芝の上で安静に休ませました。それから自動車に積んで自分の家に持つて来ました」
今田「食物はどう云ふ風に……」
南「食物は家に行つて二時間経つてから牛乳を一合やりましたら、それは飲みました。それから後はもう二三日牛乳でした」
今田「其ひよろ〃したやうなことをして、當り前の状態になるやうになつたのは着きましてから何時頃でした」
南「四五日の間でしたね」
今田「さうすると結論としますと、飛行機の輸送よりも汽車の方が多少時間が掛つても其方が宜くはないかと、斯う思はれますが」
南「さうです。私は飛行機で小犬を送ることは宜くない。矢張り汽車の方が宜いと思ひますね」
「昭和九年度訓練優勝犬を語る」より 昭和9年12月8日
本体に追ひ付かれては先發隊の役目を果されんと日の暮れぬ中にぐんと出る事にし、一鞭當てゝ數里の道を一気に突破した。
夕陽野に落ちる頃、とある部落に入つて露営する事になつた。
部落の飼犬は我家に入れまいと吠えかかつて来る。
一度我軍の行軍が杜絶した爲か住民共は住家に戻つて居つたが、私達の姿を見ると又来たぞと思ひしか、力ない足どりで付近の岡や森影に隠れて行く様子は物の哀れを感ぜずには居られなかつた。別に敗殘らしい者も見當らなかつたが、此處は敵國と思ふと心はいつも緊張して居つた。
然し此の大陸を小兵力で悠々行軍して歩けるのだから、やがては平和の到來も程遠くはあるまいと話し乍ら焚火を囲んで談笑した。
翌朝は夜もまだ明けきらぬ中に出發して十數里の豫定コースを急ぐのであつた。
之迄泥濘地や田舎の畦道を、しかも大部隊で行軍をし、遅々として歩んだ駒も天候と道路に恵まれ小部隊の行軍の爲か元氣一杯颯爽として進んだ。
道の西側は廣い廣い耕作地でクリークは殆んど見當らなかつた。自然の障碍物の無い處では、我が戰車の驀進を恐れてか敵は抵抗した影跡もない。荒廃されぬ野や畑には處々土饅頭(墓)があつて、附近の芝生も霜枯れて吹く寒風に清掃されてあつた。
野鳥は山野に餌を漁り、何處に戰争やあると云はぬ計りの長閑さであつた。
雉の一群が真紅のとさかを欹て優美な被毛を靡かせ乍ら漫歩して居るが逃げ様ともしない。内地では見られぬ悠長さである。彼の國民は濫りに野鳥を捕獲せぬ慣習もあつて、随つて野鳥迄が大陸氣分に成りきつて居る。
小休止の時に兵は近付いて捕へ様とするが餘り恐怖もせず遠く逃げ去ろうともしない。
騎銃を以て射たんとすれど、いや待て我々の武器は抗日軍閥を膺懲する爲のもので、何んの罪もない野鳥は射たれるかと自制した。
戰場地の住民達は苦境の巷で彷徨して居る中に野鳥は何んの制裁も受けず我が世の春を歌つて居る様は面白い對象であつた。
軍馬の足どりも軽く一里二里は早や過ぎて初冬の日足の短い時であつたが陽のまだ高い内に豫定地に着く事が出來た。私達より二日も早く先行した他部隊の駄馬隊に追ひ付いて其の夜は諫壁鎮と云ふ街に一斉に宿営する事になつた。
某隊の軍犬兵とも久方振りに會ふて種々想を語つた。
上陸以來數度の激戰に良く忠實に働いた軍犬でもあつて、今は生き殘りの大事な軍犬であつた。戰場に於ける人犬の親和は今や最高潮に達し、人間と獣類の區別を超越して真の一體となつて居る。
無言の戰友とはかかる軍犬を指称すべきものと思つた。
其の夜は街の茶館に休む事になつたが、此の街にも日本語を解す住民が居つて、彼は嬉しさうに宿営地を廻り歩いて世話をして居つた。
彼の言ふには御馳走は幾何でも上げるから火だけは付けんで呉れと云ふ。彼等は火災には閉口して居るらしい。
茶館の使用人らしい初老の二人は焚火をしたり炊事に手傳つて呉れたり、異國の人達の厚意に對して半可通の天好謝々と御世辞乍らも人情として禮を言はざるを得なかつた。
旅は道連れ世は情と思ふ。念力岩をも透すとか。茶館の主人の厚意を謝して目指す鎮口に急ぐのであつた。
街に近づく程に激戰の跡も生々しく、街の東南角は火煙天に沖して戰火は今尚止まない。
敵は逃れ去る時焦土戦術の置土産か、繁華な鎮口も哀れ、戰火の犠牲となる計りであつた。
武境啓「犬と兵隊」より 昭和16年
平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より
昭和14年5月20日診察 12月8日死亡
上海軍用犬倶楽部發會式は十二月一日午前十時から日本倶楽部に於いて廣江獣醫大佐、市岡部隊長、中野海軍大尉、領警白神所長、林雄吉氏その他會員四十名出席のもとに左記の役員其他會則等を決定した。
會長
林雄吉氏
顧問
吉村少将、廣江大佐、市岡部隊長、志柿海軍中佐、中野海軍大尉、領警白神所長、甘濃前民團長、頓宮福民病院長
理事長
田中清一氏
理事
十名
かくて十二月八日午後から、會員飼育軍用犬の観賞會を新公園で開催。
三十餘頭が集つた。
昭和15年
平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より
いずれも昭和18年12月8日診察