『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より
大正12年12月26日診察
忘れもされぬ十二月二十六日、失心したロボツトの様に炬燵にヒツクリカヘツテ、死んだC號を追憶し、A號の豫後などを氣に病んで居ると電話である。A號を心配してくれた松本氏からの電話であつた。
ヘルガ號がA號に酷似した病氣をした事があり、尚他にも關西には、これに似た不可解の病氣があつた。斯うした治療をしてみてはどうかと細々、薬の名前等々を教へてくれた。受話器をかけたら涙がこみ上げてどうにもならなかつた。他人の犬にまで、かくも親切に配慮してくれる犬友の心づくしを思つた時、有り難いやら、うれしいやら、五尺の男と云へども泣かないでは居られなかつた。
A號の消化器が達者だから榮養療法をと考へ、肝臓にホーレン草をしき込んで、牛乳の空瓶に入れ、一日八百グラム位づゝ、口を押しあけて注ぎ込んだ。
體があたゝまるからとばかりに、新宿から馬肉を届けさせて、これも無理矢理に喰はせる。牛乳は一日に七八合、不思議に腹をこはさない。
あらゆる榮養、きくと云ふ薬から薬、ナムナジン、エレクトラゴール、銀エルクロイド、ヤトレン、ヒリン、トリパンブラウ、トリパフラビン、ロジノン、アベノン、ヂガレン等々高價薬であらうが、何であらうがヂヤンヂヤンやつた。月末の拂ひが出來ようが出來まいが、そんなことはどうでもいゝ。只A號を達者にしさへすれば、私のすべての望は叶ふのだ。
實を吐けば、餘りの長い経過に私はもうあはてゝ居るのだ。
私は自分がA號の體へもぐり込んで行つて、例へば血液の様にA號の體中をまはりまはつて、ひそみかくれて居る病原の奴郎を取り除いてやらうと思ひつめる位だ。第三者から見たら、阿呆らしいかも知れんが。
嵐文『ハツピイ、エンド』より 昭和8年
Hと言ふ齢の寄つた犬、夫れは天下の名犬であつた。山中郷の人々も、掛田の人も、金谷川の人も、みんな一斉に褒めそやした。
セツター種の温良そのものゝ雌だつた。
臭ひを攝つたら、二三間の處まで主人が行かなければ追立てなかつた。私は人間以上に悧巧なものだと感心した。
その犬が或る夜の八時頃、自宅前で丁屋の自動車に後足一本を轢断された。悲鳴に驚いて家内中が飛出た時は後の祭りだつた。
私の一家の悲嘆は譬へ様もなかつた。早速押田さんに來て貰つて應急の手當をした。獣医の曰く、若い犬なら骨がつながる事もあるが、十歳にもなつてゐては九分通り絶望との事である。其の翌日も押田さんに來て貰つた。
何うも見込み薄と言ふのであつた。
義足は如何とも仕方がないといふ。三本足でも丈夫に丈けして置きたい。そして自動車でゝも今一度Hと山に行き度いと念じた。
内出血で非常に苦痛だつたらしい。二日目に私は所用で相馬に行つて留守をした。
その夜Hは紐を切つて姿を消したが、遂に今日まで見當らぬ。押田博士曰く「悧巧な犬は死期近づくと行衛を消して主人に屍を見せぬものだ」と言ふ。
私が留守の夜、Hはヒン〃と二聲三聲鳴いたと言ふ。子供等が起きて牛乳とビスケツトをやつたら喜んで食べたと言ふが、その夜の中に何處へか行つて終つたのだ。
家内はそれがお別れだつたらうと嘆いた。
何と薄幸なるHよ。私は假りにお前が不幸にして大けがをして三本足になつても丈夫で一生私の側に居てさい呉れゝば、決してお前を粗末にはしなかつたものを。
考へれば考へる程、Hは優しい。山に行く時は私の後からついて來る。山に入れば嗅覚を鋭くして鳥の在所を教へて呉れる。
私は幾度か失策つてお前に済まぬと心で謝したか知れぬ。それでもお前は私から菓子切れ一つ貰ふと倦まずに次々の鳥を見付けてくれた。猫も追はず、鶏にも触れず、口こそ利けぬが人間と變りはなかつた。
僅かの間ではあつたが、お前と共に楽しい生活が出來た。疾走の自動車が、運転手が恨めしく思ふ。併し私の不注意がお前を悲惨な目に逢したかと思ふと、私は何とも申譯がない。けれども皆運命として呉れ。
只だ私は無性にお前が可愛い。
昭和十年十二月二十六日
「Hよ!今何處」より
軍馬、軍犬、軍鳩等の軍用動物が機械化戰、科學戰の今日に於ても如何に大きな役割を演ずるかは、今次の事變でも充分證明せられた所で、騎兵、斥候、傳令、或は砲兵馬の活動、其他大行李、小行李の運搬の如きは一に軍馬の働きに他ならない。
又斥候、傳令、歩哨、救護、運搬等々の用役に服する軍犬、數百粁の隔地より傳令の任を帯びて良く之を完する軍鳩等、彼等無言の戰士の功績は等しく萬人の認める所で、今更ここに呶々の要がない。
この犠牲動物の霊を慰め、國家に捧げた功績に對する感謝の意を表する爲めに軍部並に民間の有志の發起に依り、昭和八年騎兵の長老たる森岡大將を會長とし、副會長には木原清中将、丸山鶴吉両氏を推して軍用動物慰霊會が設立せられ、陸軍省恩賞課内に事務所を置き、爾來五年営々の経營の効あつて、代々木原頭に巨大なる軍用動物慰霊碑が建設せられ、舊臘二十六日除幕式が擧行せられた。
無言の戰士―軍用動物慰霊碑除幕式と同碑前での軍用動物慰霊祭は、舊臘二十六日午前十時から東京代々木練兵場北隅、小田急参宮橋停留場脇で盛大に執行された。
飯田近衛師團長をはじめ藤井軍醫中將、近衛獣醫部長田崎少將、大島中將、坂本少將等軍部關係者百餘名と軍馬、軍犬、軍鳩の代表が参列。
軍用動物慰霊會副會長木原中将の開式の辞、靖國神社芝小路神官の修祓があつて、奏楽裡に木原中将の令嬢司都子さんと、出口獣醫少將の令孫直文さんの二人によつて紅白の幕は落された。
これと同時に中野電信隊の軍鳩數百羽を放鳥、鳩群は同僚の慰霊碑の上空を旋回、ついで會長、來賓、参列者代表者等が玉串を奉奠、最後に軍馬、軍犬、軍鳩がそれ〃飼主に伴はれ碑前に進んで参拝、同十一時終了した。
日露戰役以來諸戰役に於ける犠牲動物は、軍馬を主とし其數約四萬に達して居り、之等物言はぬ戰士の功績の偉大なることは茲に更ためて申す迄もなきことで、之が慰霊の爲めの企ては夙に唱導せられ來つたのでありますが、遂に其機運熟して昭和八年七月本会の創立を見るに至りましたところ、畏くも陸軍の各宮殿下を初め、各種關係有志其の他内地、鮮、滿各部隊等の將兵諸君の御後援を受け、今日迄實に四年五ケ月を経、其の間本碑の建設位置及び設計にも幾多の變更を見ましたが、遂に代々木原頭に御覧の通り巍然たる建碑を見るに至りましたことは誠に御同慶に堪へざるところであります。
本碑の形式は美術家であり、又本會の有力なる後援者である安田周三郎氏の考案によりまして、一切外國風を避け純日本式により自然石を用ゆることゝ致しましたところ、漸く之を維新史にて有名なる常陸の國加波山の山頂に近き數百米の高所に發見したのであります。
重量實に一萬三千餘貫に達し、道路を新設し、橋梁を架し、多大の困難と危険を冒し山より下したのであります。
又鉄道の如きも本邦輸送規程上許し得る最大限度の制限に達しましたが、幸にも途中何等の事故もなく現在の通り落成致したのであります。
従つて、工事上の困難も相當なものでありました。
碑の後方には地下室を設け、さゝやかながら保食大神の御宮を安置致し、骨又は名簿、記念物等を収納し得る様になつてをります。
本碑の除幕式に當つては、年末に際し殊に時局御多端に係らず参謀總長宮殿下の御代理竝に陸軍大臣、教育總監閣下の御代拝を初め、各關係官公衛各種團體各閣下各位多數の御臨場を辱うし、又東京以外遠隔の地よりの御來場者を迎へましたことは、吾々關係者一同の光栄に存じ感銘に堪へざるところでありますと共に、地下諸動物の霊も定めし感泣致したことと存じます。
軍用動物慰霊會副會長 陸軍中将 木原清 昭和12年
昭和20年12月26日 北海道ケネルクラブ