生年月日 昭和8年
犬種 シェパード
性別 牝
地域 新潟県
在りし日のエルガ
三月二日、主治医に退院を宣せられた慶びの日だ。
それだのに何と云ふ皮肉だ。愛犬エルガの死を知らず、電報を病院の一室に於いて受け様とは。
エルガの死が九死に一生を得た小生の身代りになつたのかと想ふ時、一入と同情を禁じ得ぬものがある。
行年三歳と二ヶ月、仕事に忠實で温和しい性質であつた。
生後五ヶ月にして生家を後に小生の許で寵愛を一身に受け、病一つ知らずに忠實を守つて育つて来た。併し主運の悪い彼女は、小生の公務に多忙な為めから赤羽の養成所(※KV第1軍用犬養成所のこと)に預けられる身となつた。
それは確か忘れもしない昨年七月十二日の夜であつた―多額な保険を身につけて夜汽車に送られて―。
別れるのが辛かつたのか、それ共今日の日を蟲が知らしたのか、何時もの彼女にも似もせず落ちつかなかつた。
養成所に在つても至極元気で親切一方ならぬ所員の方々に愛され乍ら、主人の為めに嬉々と学んだ。
けれ共間も無く小生の病を得て入院するの身となるに及んで、一度も彼女を訪ねてやらなかつた。のみならず軍用犬候補試験に難無くパスし、規定の訓練課目を美事修得して晴れの退所の日限が参つても、病床に呻吟する身の主人は遂に之を歓び迎へる事が出来得なかつた。
止むを不得、小生の退院迄入所期間の延長を願つて一方、彼女の天稟を伸ばして頂く事にした。
それなのに日頃一倍健康な彼女も一月十一日に恐ろしいフイラリヤ寄生に因る心臓弁膜症に侵されて終つた。
不吉な豫感がチクリと神経をさした。
その頃ズツト好転しつゝあつた小生の病気が急激に悪化して、充分注意せよと主治医に申し渡され真剣であつた。
二月に入つてホツトするのも束の間、再び天はエルガに幸せずテンパーに見舞れ、越えて三月一日養成所の方々や専任獣医師の手厚い看護も其の甲斐無く、主人の退院の日を待たで忽焉として逝つて了つた。
エルガ疾病及死に至る経過
自一月十一日 至二月十日
フイラリヤ・インミチス寄生に因る心臓弁膜症。
自二月二十六日 至三月一日
ヂステンパー性急性肺炎
而して三月一日 斃死
以上
エルガが不運にして未だ世に功績を残さざるとしても、主人の身代りともなつて逝つた忠節は良く主人初め一同にとつて忘れ得ぬものがある。
逝くものは再び帰るまい。
せめて彼女の冥福を心から祈つて此の文を記す。
荒木むさし「エルガの死を悼みて」より 昭和11年
↧
エルガ(愛玩犬)
↧