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Channel: 帝國ノ犬達
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上野駅にて

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午前十一時頃、秋霖晴れて輝かしい上野驛。
「立派なシエパードですね」と、四十位の男が、犬を審査する様な恰好をして、荷札を買つて居る青年の左に、尾を巻いてふるへて居る六七ヶ月のシエパードをみて居る。
「いや」
と青年は軽く返事をする。
「何ヶ月ですか」
「六ヶ月です」
「何處かへ御送りになるんですか」
「え?今買つて来た途中ですが、田舎の弟に送つてやる所なんです」

売り子の手から荷札を受け取らうとした瞬間、握つて居つた紐が、手からスルリと抜けたと思つた途端、犬は一目散に、方向も何も滅茶苦茶に、逃げる逃げる。
脱兎の如くどころか、脱犬そのものゝ快足で、走る逃げるわ、混み合ふ人、人、人の脚を縫ひ裾をくゞつて。

しまつたと思つた青年の顔色は蒼ざめた。と、脚に自信のある青年は、百米のレースでもやる様な勢で、コンクリートに滑べる靴をたくみにうまく追ふわ追ふわ。
だが如何に俊足の彼氏でも、本心を失つて、無茶苦茶に逃げるシエパードには叶はない。叶ないとみてとつて彼氏は、ついに悲鳴をあげて「捕へてくれ〃」と叫び、叫び乍ら追つて行く。
人にぶるかり、柱に衝突し乍ら。

犬は上野驛の廣場を、さんざ逃げまはつた後、いよいよ自由の電車通りへとび出した。
「捕へてくれ〃」
青年が、あ!と思つた瞬間、疾走し来つた自動車に、犬の體はサツトさへぎられた。捕へてくれ〃と叫ぶ声をきゝつけた、気の早い連中は、刑事が泥棒でも追跡して居るのだと思ひ込んでか、應援に来る奴も居る。

てつきり自動車に、ひき殺されたと思つた犬が、向ふ側の人道を、一目散に逃げ行く。
「捕へてくれ〃」と青年は無我夢中で追つて行く。親切に捕へてやらうと、犬に手を出すと、犬の奴、犬に睨まれた猫の様に、フアーツと歯をむき出して人に迫る。人は手を引つ込める。

自信の脚も、つひには犬に及ばず、霖後の強い秋の陽につかれた青年は、コンペキの空に大きくためいきをついた。
風にあふられたコスモスの様に。

嵐父「嗅ぎ歩くの記」より 昭和8年


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