生年月日 昭和2年3月5日生れ
犬種 シェパード
性別 不明
地域 不明
飼主 薮中桃水氏
エルと薮中さん 昭和15年4月29日
今日はエル號の一周年記念日である。
昨年五月五日、私の愛犬エル號が激烈なヒラリアの発作に罹り
(1)両後脚の運動神経は全部麻痺して微動も不可能となり、且つ其内側一帯には屢々痙攣を発動し、其の都度悲しそうに啼き
(2)歩行は一歩も出来ず
(3)従而大小便も自ら排出し得ず
(4)心臓は異状の結滞を頻発して衰弱を加へ、十三歳の老犬ではあり恢復の可能性は全然なくなつた。
然れども出来る限の看病と治療を加へ、一度は救はねばならぬと決心し、寝食を忘れて心より看病した効あつて三十日後には全快した。
十三歳の老犬の激烈なるヒラリアの為め、瀕死の重症となり死を待つ外なしと観念したのを九死に一生を救ひ得たる一周年記念が来たので、昨年五月を想起し懐舊の念に堪へないものがある。
昨年のエル號のカルテを出して観れば、其の時に執つた看病の處置や與へた栄養や投薬や老愛犬の苦しい闘病の状況を想浮かべることができる。
今日はエル號の起死回生の記念日だから、祝つてやらうといふので朝夕食とも心ばかりのエル號の好物―鶏の笹身、卵黄、葡萄酒(少量)、スープ等―を與へた。之は家内の心付である。
エル號に私達の気持ちが良く判ると見へて、今日は朝から特に喜々としてゐる。
あの瀕死の老病犬も今は壮健にて、日々十四年に亘る不易の愉快な日を繰返してゐるのである。
エル號は本年三月より十四歳になつた。
正確に言へば本年三月五日で満十三歳に達し、翌日より数へ年十四歳に入つたのである。愛育十四年間に三歳の時猛烈なテンパーに罹り、瀕死の重症が一ケ月續き、全快迄には六十餘日を要した。
之れと昨年のヒラリヤとで、エル號は瀕死の病床に二度臥したのである。
そして二度とも死線を突破したのである。十四年と言へば人生としては永くはないが、犬としては永い方である。
其の十四年間、エル號と私達とは精神的には融然一體の生活をしてきたのである。故に今では私達の顔色を見れば私達の感情を正當に理解するやうにまでなつてをる。
尚ほ十四歳になつてもゴロゴロ寝そべつてばかり居るやうなことはなく、朝夕私の足音や声を聞けば運動の催促をするのである。
永い間には私達はエル號が悪戯をしたときは叱ることも屢々あつたが、エル號は私達に不平を訴へたり不服の態度を見せたりしたことは一度もなく、終始一貫誠實を盡してきたのである。
十四年老犬になつても益々忠實な態度である。
顧ればエル號に對し忸怩の感に打たれることもある。
最早や老犬に對しては何物も求むるものははい。此の上は精々長く元気に生き延びることを祈るのみである。
エル號の仔犬達の中には多く亡くなつたものもあるが、エル號は屹度長生きするに相違ない。
それは今でも写真の様にこんなに元気だから。
終りに會員諸氏の愛犬の長生を祈つて擱筆する。
薮中桃水「記念日」より 昭和15年
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エル(愛玩犬)
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