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Channel: 帝國ノ犬達
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マドンナ・フォム・ハウスシュッチング SZ40375(種牝犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牝

地域 山東省青島市

飼主 アジアケネル・李聖軒氏

 

李氏は青島に於ける華人中最もシエパードを愛する温厚なる士にして邦人に友人多く、最近英國シエパード界に於て名聲あるピカーデー・ケネル(ボールドウイン少佐)の作出による牝アライアンス・オブ・ピカーデイ號、牝マドンナ・フオム・ハウスシユチング號の二頭、最近のハンブルグ上海メールの獨逸船にて輸入さる。

二頭共に中型の體型を有し、毛色背黒にして詳細は一九三二年のアワードツグ・クリスマスナムバーに記載されてゐる。

佐々木米次郎「青島シエパード界近況」より 昭和7年


ベッケン・フォン・ブランジェンベルヒ SZ368808(種牡犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牡

地域 山東省青島市

飼主 アサヒケネル・乾真五郎氏

 

本犬は獨逸SV倶楽部の選定により六月十二日獨逸船サール號にて青島に輸入せられ、本欄にて左の記録を有す。

Pecken v.Blansienberg

KORZUCHT.SchH.SZ368808

獨逸フランクフルト、リゲネツツ等の展覧會に於てローズベツク博士等の審査員により姿體、訓練にてV賞SG賞拾二回入賞せるものにして、毛色背黒にして身高六四センチありて、頗る恵まれたコンデツシヨンで到着し、種牡として當地一般から注目されて居る。

又同ケンネルの種牝ベアター・フオム・チヤイナーパール號は元コウベケネル、森本氏のフオルカー・フオム・ベルン號と配し優良なる犬兒を作出し、目下生後五十日との由。

昭和7年

 

満洲シェパード犬界への影響で知られる森本元造氏ですが、青島シェパード犬界とのつながりも強かったんですねえ。

森本さんと満洲軍用犬協会のバトルは、日本から来た一人のハンドラーに翻弄されるほど満犬のレベルが低かった証にもなっております。まあ、気息奄々のトコロをドッグレースで盛り返したんですけどね。

 

犬

フォルカーについてはこちら。

http://ameblo.jp/wa500/entry-12004379453.html

 

なお、ベッケンの仔「マロー」は関東軍軍犬育成所へ寄贈されています。

軍犬の価値を軽視していた当時の関東軍は、育成所の閉鎖を検討中でした。これを回避したい育成所側は、精鋭の伝令犬たちを演習へ投入します。

その年の冬季演習にて、ハイテクを誇る最新型無線機器が次々と凍結故障する中、マローたちは通信網維持のため大活躍。

関東軍の認識を一変させ、育成所の存続へとつなげたのです。

 

マローについてはこちらを。

http://ameblo.jp/wa500/entry-10319443319.html

隠れ狂犬病と疑似狂犬病 大正14年

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狂犬病(の管轄)が農林省から内務省へ移つてから幾分減じたかどうか、又野犬の數は減じたかどうかに就いては、私は寧ろ増加の傾向があるのではないかとも考へてゐる。

しかし警視廳管内は確かに近年になつてから狂犬病を減じた。これは毎年一斉に豫防注射をする為と野犬の捕獲に依るものであらう。

野犬の捕獲に就ては人道上から感心しないように云ふ人が一部にあるが、今日の如く野犬の横行するに際しては是非ない手段であらう。

 

警視廳は本年から犬の去勢を實施するそうであるが、之は野犬を減じる上に必要の手段である。又各地方でも犬の去勢を段々に行つて居るが、その結果は確かに良いようである。

狂犬病の多發する所では犬の本病に對する抵抗力も段々高まる為にか、病状を現はさない狂犬病のものを時に見ることがある。之に咬傷された人畜は發病するが、病犬の方は長い間健在である。

こう云ふ例が昔から多少はあつた。故に狂犬病が流行した場合は例へ健康犬にかまれても豫防注射を受ける必要がある。

然し警視廳管内の如く狂犬病が少なくなつて來ると、こう云ふ潜在性の病犬が殆んど居ないことになるので、以上のような危険は少なくなる。従つて健康犬に咬まれた場合には豫防注射をしないでも、恐らくは狂水病になることはないと云ふことになる。健康犬の如く見えて實は病犬であつた例は色々ある。之に就ては他日稿を改めて論じようと思ふ。

 

狂犬か否かの診定は易しいようで六つかしいものである。多くの病犬が狂犬病と誤診される例もあろう。

嘗て中央獣医會に吉田雄次郎氏が「寄生虫に原因する犬の狂犬類似症の一例」を報じたことがある。今その症状を抄録すると次の如くである。

 

営養佳良なるも被毛光澤を失ひ、眼球結膜は著しく充血し、絶へず地上を睥睨する如く、而して舌を吐き涎を垂れ、時々乾咳を催し尾は力なく垂れて股間に巻入し、音聲は嘶嗄して歴んど無聲となり、只一種異様の苦悶状ウメキを聞くのみ。全身戦慄、顔面頸部上肢の諸筋に發作性に時々波動状の痙攣を認む。興奮する時は俄に奔躍し、或は躁狂し頻りに咬噛す。

その症状は甚しく狂犬病に類してゐた。然し乍ら撲殺後に脳を検査したが病状なく、且つ腸に條虫を發見した外に異状はなかつた。要するに條虫の多數寄生に依て病的興奮状態に陥つたものである。

この外にも病的に亢奮し、又は鬱憂する例は多數にある。その亢奮の場合に人を咬んで狂犬病とされ撲殺されることも随分多いように聞いてゐる。

小兒の悪戯を怒つて之を咬んだ犬は疑症として拘禁される。之は随分氣の毒なことである。

 

狂犬病豫防の為に野犬を減じぜんとするには畜犬税を安くするを要する。畜犬税が高いとどうしても野犬の増加するのは防ぎ得ない。然し此畜犬税は府縣税であるから、色々な原因、條件を以て課せられるものと思ふ。

或地方は活花の師匠に對する免税の代りに畜犬税を増したなどと云ふ例もあるとか。

兎に角此減税運動は必要であると思ふ。

白井紅白「狂犬病の問題」より 大正14年

コッカー・スパニエルの日本史

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スペインの鳥猟犬を源流とする犬ですが、後に愛玩犬として品種改良されました。
美しく愛らしい犬であり、しかし容姿に似合わず食い意地が張っていてアゴの力も意外と強かったりします。もと猟犬のくせにスタミナに乏しく、散歩中に疲れると地面にヒラメの如く張りついて歩くのを拒否したり。
そうやって拗ねたり甘えたり、やたらと人間じみた仕草も魅力のひとつですね。
皮膚が弱く耳も蒸れやすいので、高温多湿の日本では健康管理も大変。しかし、室内犬としてキチンと飼育すれば問題はないでしょう。

で、コッカーの日本史ですが
我が国におけるコッカーの歩みをネットで検索しますと、例によって例の如く「昭和30年代から知られるようになった」という間違い解説ばかり。
真面目に調べてないなら「戦前の状況は不明」とでも書いとけばいいのにねえ。

そういう訳で、コッカースパニエル来日の経緯は不明です。

ただし、イングリッシュやアメリカンは戦前の日本でも人気犬種でした。このブログでも戦前のコッカーに関する記録を幾つも載せていますよね。
だから、戦前からコッカーのことは普通に知られていました。
「戦前の日本人はコッカーを知らなかった」と思っているのは現代の日本人だけです。

 

「日本のコッカーといえば今も昔も愛玩用」という先入観があったので、大正時代に猟犬として用いられた記録を見つけたときは驚きました。

 

m5

戦前、日本に輸入されたイングリッシュ・コッカースパニエル

 

コツカー・スパニエルの可愛い姿を見たとき、これが猟犬種に属するものであることより、愛玩用として家庭を賑すものに属すると思ふ方のほうが多いと思ひます。
猟野に立ち働くものとしては余りに可愛らしい。そして餘りに小さい。
彼コツカー・スパニエルの體躯から観察して、其は當然のことでありませう。

彼の種が現在猟用としての以外、愛玩用としての方面に発展すべき一の地歩を有し、共進會場の花として観る人に好感を與へるのは、彼が大変に怜悧であるのと他の猟犬よりも一等可愛いらしい犬と云ふ點に於て、優れて居るからでもありませう。
最近コッカー飼育熱は一部愛好家の方より高唱されて、日本にも良い犬が殖へて来ました。誠に喜しい事であります。

スパニエルがセター種を造る用に供されたものであると否とは別の問題として、同種が数多くの猟犬種の中でも古い歴史を有して居る事は何人も否定しない處であります。そして欧米に今日猟犬として最も優秀なるもの、セター、ポインターの犬種があるにも関らず今日彼は其等の猟界の人々から忘れられないで、見捨てられないで、益々盛んに猟用に使用されて居ることは、彼の種が、猟犬としての本質及働きに凡ならざる處があるからであります。
別して日本の猟野の如く水邊を渉猟する場合の多い地勢に於ては、最も適した猟犬であります。

彼の高名なるゴールドン・スミス氏が、日本に最適當の猟犬種としてコツカー・スパニエルを第一に賞揚されたと聞いて居ます。同種は日本の猟野の地勢に適する猟犬であると共に、又我國風土気候に適して居ます。
其實證として成育の率が大変に良いことであります。
私は古くよりコツカー・スパニエルを使用して、今日でも一頭飼養して居ます。そして英ポインター種やセターの丙種の種々を使用して居ますが、矢張り彼コツカー・スパニエルを捨てゝ他の種類のみで猟をする気になれません。
捨て難き妙味、其處には彼の本質や芸能の上に凡ならざる處があるが故で無くて何でありませう。

獲ることのみに熱中して殖すことを知らない我國の猟者は最近お互にゲーム難をかこち、猟犬も優良なものを選びます。然しそれでも中々鳥が獲れません。
だからあの小ぽチたチヨコ〃走るコツカーで鳥が獲れるものかと云ふ人があるかも知れません。

一応は御尤の様であるが、捜索範囲の廣い英ポ、英セは兎角、捜索が荒い為に獲物を残すうらみがある。
スパニエルの捜索が頗る細心を極め彼の捜索網は獲物が逃ぐるによしないのであります。
この凡ならざる彼の芸能の妙味は一回や二回使用したのでは一寸判りません。度重なる毎に真價が知れるのであります。
荒れた鳥、二月頃藪や荊棘の中にひそむ鶉山鴫の追出しにはコツカースパは特に優れて居る。
この點は英セターやポインターが遠く及ばないのであります。

犬
大正時代のコッカーは猟犬としての飼育が中心でしたが
一部では愛玩犬としても広まりつつありました。大正15年の記録より


體躯の小なる故を以て連日の猟に堪へ得ないであろうと案じる人があるかも知れないが、英セターやポインターに比較にならない程貧弱な體躯ではあるが、彼の全身にみなぎる狩猟慾は決して彼を弱らしめない。
そしてセターやポインターの猟獲に比して劣る様な事は無く、時には又猟場に依つては意外の働きをして猟者を喜ばすのであります。

ポイントが無いと云ふ缺點があります。
然し鳥に接近して追出す迄の動作は元来體臭に依らずして、足臭に依るのであるから一寸手間取るの嫌はありますが、従つて鳥が近きか遠きかは、動作の上に表現せられ来る。
だからポイントすると同様に猟者はゲームの遠近を知る事が出来ます。田丸氏・小林廣正氏はスパニエルにポイントを訓練する事が出来ると申されて居るが、性質怜悧な彼の種の事であるから至難な問題では無いでせう。
創作の範囲も相當に遠走する事あるを見れば、廣める事も難事ではありますまい。

兎角嗅覚の鋭敏と云ふ點よりも視力に於て優れて居る彼は負傷鳥の運搬が、頗る巧者である。
従つて鷭、くいなの如き姿を見せて走る鳥に對しては、追鳴きをして追跡し、熱心に捜索して長時間かゝつても必ず追出ねば止まない特性がある。
だから欧米の如く捜索犬と運搬犬の区別されて居る所では、レトリバー種と同様運搬専門に使用されて居ます。

兎も角コツカー・スパニエルは體躯小にして管理容易、性質怜悧且つ勇敢、敏捷でありますから、猟犬としての素質を冨にもち使用する吾人等に満足を與へて呉れます。

速射手生「愛すべきコツカースパニエル」より 大正14年

 

続いて昭和の記録に登場するのは、秋田犬ブリーダーであった宮本翠夢庵氏。名猟師(自称)吉村九一氏と仁義なきバトルを繰り広げたあの人です。

 

小林廣正氏はコツカー・スパニアルの黒毛のもの進呈するから使つて見ないか?と問ふて來られた。

「ヤマドリ猟に於るスパニアルの滋味は忘れること出來ないが、黒と云ふ色は、ヤマドリに對して良くない色である故、スパニアルの此猟への使用の意味を減ずる故」と辞退した。

蓋し我儘千萬あもらひ手である。

小林氏の曰く、

「英ポ英セのある限り、雉猟に於てはスパニアルは使はぬが、鴫猟では稲田の中で差障らぬので、私はスパニアルを愛する。従而ヤマドリ猟での犬の色のことは知らぬ」と、こんなことであつた。

なる程、處変れば何とやら、ヤマドリ猟のスパニアルの味も未知であらうと肯いたことであつた。

私も只今まで種々のポインテング・ドツグを使用してはゐるが、それでも數年前ヤマドリ猟に使用した數頭のスパニアルの味を忘れ兼ねる。

夫は猟野に於る如何にも忠順快活其物の様な可憐な愛らしさにもよる。

 

ヤマドリ猟場の山中険阻荊蕀に於て、小柄なスパニアルはどうかと考へる人もあらうが、どうして、スパニアルはあの小さな體で、ポインテング・ドツグの這入れぬ荊蕀灌木を潜つて、自在に狩立てゝくれる。彼の體躯の構成は、よく険阻をこなす。

只體の小さい関係上、雪が深くなれば其の活動力を減ずることは止不得まい。

 

一體、嗅の濃い、飛立の鈍い草原の鶉猟や、内地の雉猟位ならば何と殊更に型の悪いのを我慢して、トライアル系を使用するに當らない(私はトライアル系の使用者であるが)。

シヨウ系の犬でも、系統と選抜よろしきを得ば、結構見事な用足しをするポインテング・ドツグを得ることが出来る。

是等の猟に於てこそ、愛犬家は、シヨウ系の艶美と猟味を併せ楽しむべきである。

 

然し、地利の悪い山中の、猟師のいぢめ抜いたヤマドリとなると、其處等の自称天狗の英ポでは、頭の悪いところが熟練なハンドラーを以てしても補ひ切れぬことが多い。

英ポ、英セの様な大柄の犬のガサ〃の音で、鳥はドンドン走つて、なか〃ポイントさせぬし、ポイントしても、一體何處にゐるか見えぬことさへある。これは良い犬を以て、多少延びを利かして使ひ得る様にヤマドリ猟に熟練して來るとも、この不満は折々はある。

のみならず、一般に(例外はある)英ポ、英セが群鳥を整理することの下手なことは、犬の能力訓練にもよるけれども、あの大きな躯幹と、鮮明な派手な毛色も大きな影響をしてゐるらしい。

 

さてスパニアルの藪の下を潜つて、カサコソと行く捜索振りと、鳥の出る前の小さな叫聲―この咆え聲は一羽鳥、群鳥によつて異なつて來る―は、山や、樹立や、荊蕀が深くなればなる程、有難味が増して來る。

 

英ポ、英セはフラツシユせずに鳥を突止めて、ヨシの號令で飛ばしても、スパニアルで飛ばす鳥とは大いに異なる。即ち大柄の犬に出された鳥は、鳥のスピードも迅く且つ遠方へ飛去る。

大抵の大きな山嶺は一挙に越え去る場合が常であつて、追返しと云ふものが利かない。

然しスパニアルで追出した鳥は、手の届く様な灌木に上る鳥もあり、馬鹿にして犬の背の上でバタ〃羽搏したり、澤中から飛んでも、近くの斜面々々へ降りて、是等を追返しの選み射ちする愉快もある。プロの様な銃で、良いスパニアルを使つて、群鳥に出会つたら、追返しする迄もなく、油断した鳥の飛方によつて主人に大手柄を樹てさせる。

 

運搬に於ては、スパニアルのあの自分の體が隠れる大きいヤマドリの雄を咬へて來る姿は、まるでヤマドリの化物が浮いて來る様で、まことに可憐なもので猟人の一つの楽しさである。

 

英ポ、英セでの平野の雉や鶉の猟は、まことにベビーゴルフ的で面白いが、渋味と云ふことの解る猟人は、凝つた、滋味深い、スケールの大きい、ヤマドリ猟や獣猟などに特色ある猟と、これにともなふ犬の醍醐味を識るべきである。

「和犬揚げ犬とコツカー・スパニアル」より 昭和7年

 

なかなかの人気犬種だったコッカーですが、戦前の日本で愛好団体が設立された形跡は今のところ見つけられません。

戦時下のペット撲殺論とハンター 昭和15年

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昭和13年、商工省は野犬毛皮を統制下に置きました。三味線などのゼイタク品として消費されていた犬皮を、国家の軍需物資としたのです。

 

この動きに便乗する輩も続々と現れました。中でもぶっ飛んでいたのが「役立たずの駄犬は陸軍が撲殺すべき」と陸軍大臣にねじ込んだ北代議士。

畑陸相が「愛犬家の気持ちも考えないとね(そもそも、畜犬行政は陸軍省じゃなくて内務省の管轄だろ)」とやんわり拒否して終わったのですが、この手の選良や官僚や一般庶民は多数派を占め始めます。運が悪いことに、同時期の節米運動も拍車をかけました。

商工省と並んで犬を敵視したのが農林省。そもそもの発端は、家畜の毛皮生産が落ち込んだことでした。

狩猟法を管轄する関係から各地の猟友会に野獣毛皮の献納を呼びかけた(いわゆる「狩猟報國運動」です)ものの、結局は焼け石に水。鳥獣の毛皮すら足りなくなった昭和16年、農林省も犬皮を統制対象としました。

農林省の動きは、ハンターたちに少なからぬ動揺を与えたようです。

 

 

強心臓の所有者を以て自認する諸兄の中にも、過去に存在した一部贅澤な道楽趣味的の狩猟家と誤認されるを惧れてか、随所に行過ぎの萎縮者を見うける。

この事は、「狩猟報國」を以て、銃後奉公の任を全うせんとする、我が猟界人のため慨歎に堪へない次第ではあるまいか。

狩猟報國とは、云ふまでもなく農作物の害鳥獣を駆除し、毛皮、肉類等が戦時経済に寄與する處を指すものであつて、各個人の猟獲に依る數字は僅少なれども、これが全國の狩猟家を網羅した統計となれば、實に驚くべき數字を示し、その戦時経済に及ぼす點も、なか〃ゆるがせにならないのである。

従つてこの戦時下に於て、貴重なる物資を弾丸の材料として消費はするが、一面から見る時は、我々が狩猟によつて得るところの、毛皮、羽毛、肉類、また各自の納税金等々が、實際的に國家に裨益して居る点も大きい。

然して我々猟友は、一般銃後勤労に努め、中でも大阪府に於ては、府下猟友團體が結成し、国防義勇團として活躍して居るのも刮目に値する。

また兎皮、羽毛の献納に於ても、各自が一層猟獲に努力するなれば、より増産の可能性あり、例へば嘗つて穂洲先生の名文になる「ネド安」式の猟法に依るなれば、失中は猟獲に逆比例するであらうが、聊かアン・フエアー氣味ではある。

 

我國では「犬の仔は只で貰ふものなり」と云ふ先入観や、或は「犬も歩けば棒にあたる」とかの諺等から、一般人は総てに犬を見る眼が皮相的であつて、中に は實物に比すべき優良な猟犬にまで、自粛の履き違えから圧迫を加へやうとして居るが、これは明かに國家的の損失を招くものを云ふべきである。
即ち戦時下食糧問題に籍口して、畜犬絶滅論を唱へるものが名士?と称するものゝ中にあるのがその類であつて、斯る論は皮相の見に基く愚論でしかあり得ない。

 

しかもそれに依つてゞはあるまいが、穂洲先生の謂はれる如く、近頃モグリ犬殺しの横行は實に慨歎に堪へない。或る友人は白晝寸時の間に愛犬を盗まれ、或る友人は夜間運動に出して、一寸の油断からこれも犬泥棒に盗まれて憤慨して居る。

諸兄よ、宜しく犬泥棒と犬殺撃退の自衛手段を、各自に於て講ずべきである。


嘗つて神聖なる議会で、畜犬撲殺論なる暴言を臆面もなく吐いて、世の真の愛犬家からノツク・アウトを喰つた政治家があつた。
これは自身では名論と思つて居るかは知らないが、それは自らが犬の真価を知らぬものであつて、犬の中には徒食して居る人間様よりも、はるかに有要な働きをしつゝあるものがある。

だから一概に犬と云つてもピンからキリまであり、猟犬や真の軍用犬の如く、有要な働きを為しつゝある犬と、単なる愛玩的の犬や野良犬と混同すべからずである。随つて名を軍用犬にかりてその能力なきもの、或は野良犬等は、片端から眠らせて貰つて一向に差支へはないのである。

 

一般の猟犬が國家に齎す實益なるものが正しく認識されば、猟犬と非猟犬の存在的價値が判然とするであらう。

茲で試みに、實際に猟犬が食糧問題に寄與する點に就て、概略的な數字を挙げて見ると、全國の猟犬拾萬頭とし、一日三合の米を給與するとして年額僅々三萬石餘に過ぎない。中には家庭の残肴によつて飼はれて居るおmのもあるから、それ等のものは殆ど給食問題とは無関係のものであるとも謂へる。

然るに我が國に常住し、或は季節的に渡來する野鳥獣の數は數百千萬を越ゆるもので、これ等鳥獣の農作物に與へる被害たるや、蓋し想像以上に莫大なるものであり、最低に見積つても米拾萬石を下らないであらう。

それ等は秋稲の収穫される前に獲つた、鳥の胃袋から現はれる夥しい籾によつて、その害の如何に甚大であるかゞ首肯されるであらう。

この點に就て、よく農作物に於ては害蟲の被害が問題になるが、害蟲が作物の種子に對する害は僅少であり、また害蟲發生の害は、その害が部分的のもので、全國的から見る時は、その害たるや割合に少いにも拘らず、それが目立つものであるが、野鳥獣の被害は全般的であつて、それが割合に表面には目立たぬが、その實害たるや、我々の想像以上のものがあるのである。

 

諸兄も経験があられる事であらうが、禁猟區の付近を銃を持つて通行すると、農夫が野鳥獣の實害を訴へ、中には内密で打つて呉れと懇願される事がある。

この點によつて見ても野鳥獣が農作物に與へる害が如何に甚大であるかゞ知られるのであるが、現在の法をもつてする時は、狩猟免状の下付を受けたもの以外は、それ等の害鳥獣を捕獲する事が許されない。

随つて農夫等はたゞ姑息なる手段によつて、その害を除かうとして居るが、實効はなく、たゞ指を咥へて見るのみで、その害を除くは、狩猟家に限られて居る。

 

狩猟に於ては、猟犬が常に主役となつて鳥を狩出し、射手がそれを射獲するのであるが、その鳥獣は、狩猟法の定めるところによつて害鳥獣以外のものではない。随つて猟犬は害鳥獣捕獲の主役的な存在であり、その獲物の毛皮、羽毛、肉類は物資乃至食料となつて、國家に貢献するところが甚だ多い。

即ち猟犬は狩猟家の片腕となつて、鳥獣の害を除く一役を勤め、且つ自己の食料に幾倍かする食糧や物資を提供して居る事に世人は刮目すべきである。

 

されば、猟犬の役目たるや、實利正に一石數鳥とも謂ふべく、それが一般の飼犬と同一視されて居て、暴論ながら、撲殺論の中に巻込まれるは如何なものであらうか。

凡兒主人公の言にはあらねど「聯合猟友會のお歴々は何をして居る乎、猟犬の食料問題は如何になつて居る乎」と聲を大にして叫びたいのである。

我が愛する諸兄よ!この際、聊か我田引水論の傾きはあるとも、平素の真臓を發揮して猟界犬界のため、正しき論陣を張るべきではあるまいか。

 

長谷川三葉亭「猟界漫筆」より 

 

「お前は何を言っているんだ」的なこの詭弁こそが、戦時下におけるハンターのサバイバル術。

軍用犬団体も、猟犬団体も、他の犬を犠牲にしてでも自分たちの犬だけは守ろうとしました。

愛玩犬をイケニエに捧げる彼らの戦術はある意味成功したのですが、分裂した日本犬界は組織的抵抗の術を喪い、各個撃破された挙句に昭和19年のペット毛皮供出運動へ至ります。

もしも昭和16年前後に日本犬界が一致団結していたら……、戦争末期に殺されたペットの数も少しは減ったかもしれません。

 

戦前からドッグファイトを繰り広げていた団体(帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会、日本犬保存会と日本犬協会など)があったりして、どだい無理なハナシではあったんですけどね。

 

コロンビー(猟犬)

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生年月日 昭和2年生まれ

犬種 イングリッシュポインター

性別 牡

地域 愛知縣名古屋市

飼主 名古屋洋犬牧場

 

昭和5年の広告より

 

レモ(種牡犬)

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生年月日 昭和2年 ドイツ生まれ

犬種 シェパード

性別 牡

地域 愛知縣名古屋市

飼主 名古屋洋犬牧場

 

昭和5年の広告より

名古屋洋犬牧場

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昭和5年の広告より

 

名古屋で流通していた品種がよく分かります。

しかも、またまた未知の犬雑誌が……。


ネラーとフランク(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 ポインター

性別

地域 兵庫縣 

飼主 山形忠吉氏

 

昭和5年の広告より

 

クラウン・オブ・オウチェンプレック(種牡犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牡

地域 兵庫縣

飼主 大橋倉一郎氏

 

昭和5年の広告より

 

ファンデル・フライア(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 ポインター

性別 牡

地域 兵庫縣

飼主 大橋倉一郎氏

 

昭和5年の広告より

レリー・ワッチ(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 イングリッシュセッター

性別 牡

地域 大阪府

飼主 岡田元之進氏

 

 

昭和5年の広告より

キングカラー(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 イングリッシュポインター

性別 牡

地域 京都府

飼主 竹内安吉氏

 

竹内さんのスリーパー號についてはこちらを

http://ameblo.jp/wa500/entry-12250936266.html

 

 

昭和5年の広告より

 

ステイトン・スプリッグ(猟犬)

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生年月日 大正15年生まれ

犬種 イングリッシュポインター

性別 牡

地域 大阪府

飼主 向井良水氏

 

 

昭和5年の広告より

 

トムとメイ(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 ポインター

性別 

地域 高知縣

飼主 依光宏之助氏

 

昭和5年の広告より


日本の洋犬史・その1 唐犬と南蛮犬

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「犬」
小ヲ狗ト云、大ヲ犬トス。
春秋考異ニ曰、狗ハ三月ニシテ生ル也、陽ハ三ニ生ス故ニ狗各高キト。
三尺格物論ニ曰、犬ハ家畜也。以吠テ守犬ハ懸蹄(けんてい)ノ者、龐(ほう)ハ多毛ノ者、獫長ハ長喙ノ者、歇ノ驕ハ短喙ノ者、狎ハ短脛、狠ハ猛犬、猘ハ狂犬、宋ノ促韓ノ獹ハ俊犬、獒犬高八尺ト云云。或書ニ道犬(たうけん)之ヲ大犬(だいけん)ト云、今呼デ唐犬(たうけん)ト称スル者也ト云リ。
多識編ニ曰、獫(けん・口の長い犬)波志那加伊奴(はしながいぬ)、今案ズルニ多加伊奴(たかいぬ)猲(かつ)ハ波志美志加伊奴(はしみしかいぬ)、今案ズルニ多加伊奴(たかいぬ)、獒犬ハ於保伊奴(をほいぬ)、 今案ズルニ唐犬ト云々。

「武用弁略(圖解)」より

 

犬

九州北部に渡来、帰化していた獒犬(ごうけん・「大きな犬」の意)。

江戸時代の図譜より

 

次期学習指導要領から「鎖国」が消えるというニュースが流れた直後、また復活させるとかで騒がしい2017年。

新たな史料の発見による教科書改訂ならば大変喜ばしいのですが、今回のは「解釈を変えます」というだけの話であり、そんなもんはゆとり教育導入とかの時にやっとけと。

 

歴史上の通説や常識とは、新事実の発見や解釈変更ごときで覆されてしまう程度のもの。古いカーナビが役立たないのと同じで、どんどん上書きしていけばよいのです。

我々の世代は背筋ピーンだったティラノサウルスの復元図が、次世代では水平に近い前傾姿勢へ変わり、いつの間にやらオシャンティな羽毛まで生えてしまい、「なんだかんだ二転三転し、今はもうどうなってるのかよく知らん!!」と叫んでいた仲村叶さん(※「トクサツガガガ」の人)の如く、後出しジャンケンを受け入れる餘裕が必要なのでしょう。

 

自国の歴史が恐竜の復元図並みにアヤフヤなのもアレですが。

 

 

これに倣って、犬の日本史もどんどん改訂すべきなんですよ。せめて、「洋犬に関するアレやコレやは戦後にアメリカからもたらされた」とかいう犬界鎖国説は「犬の歴史教科書」から削除しなければ。

あの説を唱える人々は、「近代日本」の捉え方を根本から間違えています。

幕末の開国から昭和20年8月15日までの90年間、諸外国との交流は(敵対関係も含めて)拡大しました。海外から膨大な情報とモノが流入する中で、「日本犬界だけは情報封鎖を続けていた」とでも思っているのでしょうか?欧米を旅行した日本人愛犬家や、来日した外国人愛犬家たちがいた事を想像すらできないのでしょうか?

 

日本犬史にとっても、洋犬史にとっても、昭和の敗戦をスタート地点と勘違いした進駐軍理論は害悪でしかありません。

 

近世犬界から近代犬界への転換(幕末)は、洋犬という「黒船」の渡来によるもの。まさにイヌの世界が一変した出来事でした。

近代犬界から現代犬界への移行(敗戦)は、戦前犬界が戦争で崩壊し、復興し、再生するまでの自助努力の過程です。進駐軍の役割といえば、復興を加速させただけ。

戦後にアメリカからもたらされた「洋犬文化」って何でしょう?どれもこれも調べてみれば、戦前から日本に持ち込まれていたモノの焼き直しばかりなのですが。

 

破滅へ向かって突き進んだ15年戦争と、それに続く10年間の戦後復興期。暗い時代へ現れたアメリカのペット文化に眩惑され、日本人は戦前犬界の記憶を忘れてしまいました。

その結果、戦後に編纂された犬の日本史は、忘却と思考停止の産物と化します。「洋犬文化は戦後から始まった」というデタラメを教えられた世代は、それを鵜呑みにしたまま21世紀へ伝承してしまいました。

やがて登場したインターネットは、そのデマを更に拡散させてしまいます。

一方で、書籍の時代では不可能だった反論の手段も与えてくれました。

 

「戦後にアメリカから」を連呼する進駐軍論者の排除は、実は簡単なんですよね。戦前犬界の史料を調べ、その記録を提示すればよいだけですから。

そういうワケで、今回から戦前の日本に花開いた洋犬文化について解説しましょう。

 

犬

川端康成先生と愛犬エリー(ワイヤーヘアードテリア)。昭和6年の撮影です。

 

【洋犬とは何か】

 

何年か前、日本犬の歴史を取り上げました。

http://ameblo.jp/wa500/theme-10042356010.html

 

「日本犬とは何ぞや」というテーマだったので、対象も「日本列島の在来犬」に限定したんですよ。しかし、日本で暮らしてきた犬は和犬だけではありません。

「日本犬の歴史」と対比する存在として、「洋犬の日本史」が必要なのです。

 

「では日本の洋犬史とやらについて調べてみよう」と思い立ったのが3年前。そこから迷走が始まりました。

 

そもそも、「洋犬」の定義って何なんですかね?「西洋の犬」の略称?では、東洋の犬はどう呼べばいいんだろ?

「西洋・東洋」の定義もイロイロあるけど、洋犬には中近東の犬も含まれるの?中央アジアのアフガンハウンドは洋犬?だったらアジアのどこまでが「洋犬」のエリアなの?

極東の場合、ロシアの犬はどうなる?ボルゾイはともかく、サモエドに至っては旧日本領の南樺太まで「原種に近いサモエド型カラフト犬」が南下していたんですけど。

サモエドが洋犬だったらカラフト犬は洋犬?広義の日本犬?カラフト犬にも様々なタイプがいたことすら知られていないのよね。

 


昭和7年に日本で生まれたボルゾイ。大正元年に来日したボルゾイは、国内での蕃殖も確立されていました。

 

いっそのこと「海外の犬」はすべて洋犬で纏めてしまうとか?でも、日本犬の渡来ルートを考える上でそれはダメでしょう。中国のチャウチャウや韓国の珍島犬も「洋犬」ではありませんよね?

「日本」のエリア自体が、時代によって膨らんだり縮んだりしてああもう面倒くさい。ついでに、「洋」って字がゲシュタルト崩壊してきた。

 

悩みまくる私と違い、中近世の日本人は和犬と対比する便利な名称を編み出しました。

それが「南蛮犬」と「唐犬」です。
 

帝國ノ犬達-湿板

幕末の湿板写真(私物)より。セッターかレトリヴァーでしょうか?

 

【唐犬と南蛮犬】


「日本在来の犬」といえば日本犬。
しかし、明治以前の日本にも中国やヨーロッパから様々な外国犬が渡来していました。中・近世の日本犬界も、意外と国際化されていたのです。


外国からきた犬として有名なのが、中国の「唐犬」と西洋の「南蛮犬」です。

古くは北条高時が闘犬に使った唐犬などもその一つ。1500年代に日本進出を図ったヨーロッパ各国も、有力な戦国大名に南蛮犬を献上していました。また、大名同士でも外国犬の贈呈がおこなわれています。
その姿は容易に確認でき、例えば17世紀の「南蛮屏風(狩野内膳画)」には、長崎へ上陸したグレイハウンドらしき洋犬たちの姿が詳細に描かれています。

更に驚くべきは、チワワと酷似した小型南蛮犬の絵画もあったりします。


犬
江戸時代の日本にいた代表的な品種、和犬、獒犬、ムク犬。これに狆が加わります。
寛政元年(1789年)に出版された「頭書増補訓蒙圖彙」より

 

この時代で頭を悩ませるのが、東洋の唐犬と西洋の南蛮犬の区別がハッキリしないこと。グレイハウンドらしき南蛮犬と唐犬の「獒犬」のように、似たような容姿の犬は識別が困難なのです。

中国にグレイハウンドがいるのか?と思われるかもしれませんが、実はいるんですよ。

それが細狗という猟犬で、満洲の土着犬を総称する「満蒙犬」の一種として知られていました。

 

細狗

獒犬とよく似た満洲の猟犬「細狗」。1927年10月撮影

蒙古犬
蒙古名ネリン、ノヘイ、譯して細狗といふ。
細狗の最も優秀なるものは柳條邊の近くに居り、興安嶺地方に入るとやゝ劣り、興安嶺を西に超ゆれば全く居ない。恐らくは蒙古人古來の家畜ではなくて、その移住以前からこの地方に飼はれてゐたものだと思はれる。遼代の墓から発掘された犬の木塑の如き明かに之を示すものである。
挙動頗る軽快、番犬より狩猟用に使ひ、普通では耳を切る。それは狼に噛りつかれぬ用心である。

写真のキャプションより

 

細狗型唐犬の容姿は、戦前のニホンオオカミ論にも影響を与えていました。有名な三嶺神社の狼の護符も、「あれはオオカミではなくグレイハウンドを描いたものである」と言い出す人が現れたり。

誰だそんなヨタを抜かした奴は!といいますと、日本犬の権威であった高久兵四郎氏です。すごくツッコミ難いぞ。

 

【唐犬のルーツ】

 

「日本の唐犬」については、その立ち位置がよく分かっていません。圧倒的多数の和犬の中で、どのような勢力範囲を維持していたのでしょうか?

 

海で隔てられていたといっても、古代~中近世の日本犬界は中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けていました。

渡来した唐犬たちも、特権階級のペットや猟犬として囲い込まれたもの、短期間で廃れたもの、地犬と交雑化したものなど様々であったことでしょう。

それが現代に残る狆であり、江戸時代に姿を消した唐犬やムク犬であり、明治初期まで残存していた獒犬であったりするのです。

 

江戸時代だけで260年も続いた訳で、その間にペット観や犬の姿も変化していきました。現代の日本人と、近代の日本人と、中近世の日本人が見ていた「日本の犬」が、同じ姿であったという保証などありません。

唐犬や南蛮犬が根付く地域が存在したかも、などと想像するのは楽しいものです。

 

唐犬といえば、里見八犬伝に登場する「八房」も、元は中国のポケモン義犬「盤瓠」がモデルとなっています。

上の画像のリード、犬追物で使われていた品と似ていますね。

 

犬

八房のモデルとなった盤瓠。暁鐘成 嘉永7年

 

盤瓠は中国の義犬談なのですが、鐘成さんは当時の日本犬の姿で描いています。江戸時代の日本人に「唐土の犬を描け」というのが無理な話で、これは仕方ありません。

江戸の人々が想像していた唐土のイヌはどのような姿だったのか。

中二病感満載の想像図をご覧ください。

 

犬

江戸時代の日本で、中国に棲むと信じられていた唐犬たちの圖。

「唐土訓蒙圖彙十三 禽獣」より 

 

犬

 

実在の犬から狐狸の類、果ては想像上のイヌ型UMAまでイロイロと描かれていて楽しいですね。狆と同類と記された「矮爬狗」は、ペキニーズやラサ・アプソあたりの小型愛玩犬でしょうか?

これらの唐犬が、実際に日本へ渡ったのかどうかは不明。

 

犬

 

犬

「和名ちん」とある矮爬狗。

 

犬

このような小型犬のルーツかもしれませんね。

 

犬

 

犬

 

犬

 

犬

 

犬

 

唐土訓蒙圖彙には、イヌとは思えない異形の唐犬たちも描かれています。

当時の日本では「実在する」と信じられていたのでしょう。

 

犬

草食動物と肉食動物を掛け合わせてみました、的な。

 

犬

豹+牛+犬。

 

犬

ポラカントスっぽいのもいます。唐土は魔界扱いだったのでしょうか?

 

和犬とは異なる姿で描かれた唐土の犬たち。

しかし海外旅行など不可能な時代、見慣れた和犬の姿で中国の忠犬談を描く絵師もいました。

 

文化6年(1809年)に日本で描かれた唐土の唐犬(ややこしい)。


犬

唐土の忠犬談「忠犬草を湿して野火を防ぐ(暁鐘成画・嘉永7年)」より。こちらの唐犬も江戸時代の日本犬の姿で描かれています。

 

現代と違い、江戸時代の和犬は斑模様が普通でした。これらの和犬は雑種と間違われ、ペット商からも忌避され、いつしか淘汰されてしまったのでしょう。

「日本犬のスタンダード」なるモノは、昭和初期に登場した新しい概念に過ぎません。いにしえの和犬の姿すら誤解されているのに、唐犬や南蛮犬の姿を探るのは更に大変なのです。

 

【来日した唐犬たち】

近世の和犬・唐犬・南蛮犬たちの姿を伝える書物や絵画は数多く残されています。冒頭で取り上げた「頭書増補訓蒙圖彙(寛政元年刊)」には和犬、唐犬、ムク犬の三犬種が記載されていますね。
今回は、私の所有している「繪本寫寳袋(享保5年)」の原本から引用してみましょう。

犬

獒犬(からいぬ・ごうけん)
獒犬とは「大きくて強い犬」の意味。
当時の日本人からすると目を見張るような大きさだったと思います。銀魂のサダハルみたいな感じで。
しかしサイズが四~八尺って、グレートデンか何か?

犬

「輸入犬の内次に位するものは唐犬であります。所謂唐犬権兵衛の唐犬であつて、唐の犬であります。

太平記に見える例の北条高時の犬合せ、租税にかへて強犬を求め、錦を着、魚鳥に厭きたる犬鎌倉中に充満とありますので、當時既に支那から大型の唐犬の輸入があつたらうと考へるのでありますが、今日迄の調べてはその方の文献が出て参りません。

唐犬としての記録が盛んに出て來るのは、慶長頃以後でありまして、家康等も慶長十七年に遠江の二川山で唐犬六七十匹を以て鷹狩りを行つたと云ふことが記されて居りますし、駿河大納言忠長は、行列の先に唐犬を引かせて、御先きを追はしめたと云ひ、紀州頼宣等も大変愛育されて居り、諸大名も之にならつて唐犬を飼ふことが「大名役の如くになりけり」と記録されて居る位であります。

此の大型の唐犬、今日に残る絵で見ますと、短毛垂耳の大きい犬でありまして、稀には支那の細狗、即ち蒙古グレイハウンド型の犬も或は南蛮渡來の短毛のマスチフの様な犬も唐犬と呼ばれて居る様でありますが、之等の犬が各大名の江戸の藩邸に飼はれ、参勤交代の度に、地方の藩地と往復し、その城下或は街道筋に大型の所謂街犬なるものが出來たのではないかと考へられます。

九州大宰府の近所の小郡と申します土地に、明治初期迄残りました獒と云ふ大型犬、これ等は明かにこの子孫と思はれますし、幕末來朝のシーボルトの持つて行つた資料によつて刊行されたフアウナ・ヤポニカ(日本の動物)と云ふ本の犬の絵を見ても、狩り犬は立耳であるのに、街犬は耳先き垂れて居るなどは、此の町の大型犬が垂耳の血を多分に含んで居ることを明示するものでありませう」

齋藤弘「ラヂオ犬談の夕べ」より 昭和12年


農犬(のうけん・むくげいぬ。農はケモノ偏)
ムク犬とは体毛がふさふさした犬のこと。
現代ではどの品種に該当するか不明ですが、狆とは別の長毛種だったのでしょう。
ペキニースやラサ・アプソのような唐犬なのか、朝鮮産のムクイヌなのか、ヨーロッパから来た南蛮犬なのか。
習性は「よく水中に入」「水犬なり」と解説されており、ますます正体不明。

犬

これら和犬、唐犬、ムク犬、狆が江戸時代の中心を占める犬種となりました。
そのうち、現代にまで生き残っているのは日本犬と狆のみ。他の犬種は、時代が移り変る中で姿を消してしまいました。

 

【幕末の洋犬たち】

 

幕末の神奈川県内を遊覧する外国人一家と愛犬。

 

嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船が来航、翌年には日米和親条約の締結によって日米の交易が始まります。長崎方面などに限定されていた外国人の居留は、エリアを拡大していきました。

来日する外国人によって、各種の洋犬も持ち込まれます。
 

在留外国人が飼育していた洋犬

 

長年に亘って品種改良され、「人間の友」となった洋犬。その辺をうろつく地犬と違い、フレンドリーな洋犬は舶来品大好きな日本人の目を惹きました。

幕末の錦絵などには、町中を歩く洋犬たちの姿が描かれるようになります。

続く明治の文明開化によって、洋犬は「高嶺の花」ではなく庶民のペットと化しました。それに伴い、日本犬界の勢力範囲は激変していったのです。

 

(次回に続く)
 

2017年5月度月報

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新入社員たちの初期研修も終わり、これから配属先に分かれて技能研修とOJTへ移行します。幸いにも、五月病を心配するような兆候は見られません。あくまで今のトコロですけど。
いっぽうの中途採用は難航中。
中堅クラスの転職組は引く手数多だし、シニア層もそれはそれでマッチングが難しかったりします。

先日応募された女性は、「定年後も働きたい」「この会社でも自分の経験を活かせる筈」と積極的なご様子。
条件が折り合えば当社としても是非ということでトントン拍子に進んでいたのですが、二次面接の日、なぜか旦那さんがくっついて来ました。
妻の再就職先がどんなトコロか、その目で確かめたかったのでしょうか?仲の良いご夫婦なんですねえ。
……と思ったら大間違い。

私は某大手企業に定年まで勤め上げた(知らねえよ)というマウントから始まり、我々の会話に横からああだこうだと口を挟んだ挙句、「その勤務時間帯だと、俺の食事を作れないだろ!」と本音をポロリ。
ああ、老後も身の回りの世話を押し付けたいのね。

お帰りいただいた後でゴニョゴニョ話し合った結果、採用は見送ることとなりました。女性の社会進出が捗らないワケですわ。
上の世代に対し、今さらどうこう言うのもムダでしょう。



PCでの操作が基本だったこのブログ。しかしタブレットからアクセスすることが増えた近頃は、広告表示が気になりだしました。
見た目がアフィリエイトブログみたいで何だかなあ。
でも、無料でやらせて貰っている以上は仕方ないか。
……などと諦めてたのですが、ちょっと調べたら有料プランで広告を消せることが判明。見た目なんかどうでもいいわと思考放棄していたのがダメだったんですね。
しかしどこにもそんな手続き欄はねえぞ、何だそれ?と調べたところ、私のブログ形式では窓口が表示されない様です。そりゃ気付かんわ。
試しに有料へ変更したらアラ素敵、広告が魔法のように消えてしまいました。快適快適。
今までの我慢は一体何だったのだと思いつつ、8年目に突入。

戦前の廃犬届

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足立區千住橋戸町會社員間瀬六郎氏方では、セツターの牝犬をメリーと名づけて可愛がつてゐたが、一か月前相思のジヨン君と駆落ち。

心配してゐたところ四、五日前メリー嬢は帰つて來たが、ジヨン君との愛の結晶を宿してゐる上、ガラリト性質が変つて手に負へないので、間瀬さんは涙をふるつて勘當することとし、二十三日千住署へ廃犬届をした。

ところがその夜、メリー嬢、いやメリー夫人、産氣づいて警察の犬小屋で仔犬を三匹生み落し、急にもとの素直さに返つた。間瀬さん「あの凶暴もツワリのためだつたのでせうな」と勘當を許したが、この帰参遅れたらメリー夫人危ふく地獄に勘當されてしまふところだつた。

東京朝日新聞 昭和11年

 

一件落着めでたしめでたし。ところでジョンはどこ行ったんだ?

現在では保健所の管轄ですが、当時は最寄りの警察署がペットの飼育登録や狂犬病予防注射の窓口でした。これを元に地域の犬籍簿を管理し、畜犬税を徴収し、そこから漏れた未登録のペットは野犬扱いで駆除していたのです。

放し飼いや捨て犬といった飼主のマナー違反が横行し、狂犬病も存在した時代。平時の畜犬行政として当然の措置ではあったのですが、戦時下のペット毛皮供出ではこの登録制度がアダとなってしまいました。

 

飼育届を出す以上、飼育を止める時は廃犬届を警察に提出します。愛犬が死亡した、行方不明になった、飼いきれなくなったから殺処分してほしい、などという場合に作成する書類です。

内容はどんなものだったのか、大正時代の廃犬届を取り上げてみましょう。

 

 

大正2年、愛犬が死亡したので廃犬届を出したケース。記標(鑑札)を紛失したので、そちらも届出ております。

 

一緒に提出されたドッグタグの紛失届。

宛先は市長名で、提出窓口は警察署となっています。市側が指定する書式などは特に無かった様ですね。

 

戦前にもこういった飼育届が各道府県市町村別に存在した筈なのですが、公的な書類の割にナカナカ見かけません。当時の地域犬界を知る上で重要なデータなのですが、廃棄されちゃったんだろうなあ。

日本の洋犬史・その4 新たな日本犬たち

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明治己己二年
香林女轉性慈福霊
十月二十一日

藩知事島津公母夫人嘗有所畜小狆、本武州糀街生世也

自従地召育側馴致異他也

然彼狆漸六歳而具日州佐土原日月鍾愛尤篤

焉平日抱襟懐臥衣裾夜則護寝室 凡見異色人雖白昼吠之

曩致鹿府此時亦具乗與須臾不去 我側馴致浴恩為日久矣

明治二年自己初夏老躬漸痺麻鼈躄 医薬無験如睡十月廿一日終歿

我囲鳴乎痛哉

享年十有二也

是以追慕之情乞僧埋葬大池山

嘗聴昔仲尼之畜狆歿 使門人子貢埋之曰 吾聞之弊旧帷不棄為埋馬 弊古蓋不棄為埋犬也

夫人亦慣之託佛子受経馬蓋

十二年間以馴致吾側

故欲使後人建一小碑 以傳無躬而己矣

 

(訳)

藩知事島津公母夫人、嘗て畜(やしな)ふ所の小狆有り。本武州(武蔵の国)糀街の生れなり。
自ら地に行きて召し、側に育み、馴致すること他に異れり。
然して彼の狆、漸く六歳にして日州佐土原(日向の佐土原)に具し、日月鍾愛すること尤も篤し。
平日は襟懐に抱き、衣裾臥せしめ、夜は則ち寝室に護る。凡そ異色の人に見ゆ、白昼と雖も之に吠ゆ。
曩に鹿府(江戸)に到る。此の時も亦具して與に乗り、須臾(僅かの間)も去らず、我が側に馴致し、恩に浴すること為に日久し。
明治二年自己初夏、老躬(老いた体)漸く痺麻し、鼈躄(足が弱ること)たり。医薬験無く、睡るが如く十月二十一日終に没す。我囲(狆の檻)に鳴けり。痛(いたまし)いかな。
享年十有二なり。
是に追慕の情を以て僧に乞ひ、大池山に埋葬す。
嘗て聴く、昔仲尼(孔子)の畜狆没す。門人子貢をして之を埋めしめて曰く、吾之を聞く、弊旧帷(破れて古くなった帷)棄てざるは、馬を埋めんが為なり。弊古蓋(古くなった馬車の屋根)棄てざるは、犬を埋めんが為なりと(※禮記掲載の、愛馬や愛犬を埋葬する際、その上に帷や屋根を載せて覆いにするという故事)。
夫人も亦之に慣ひ、仏子(仏門の人)に託し、経を受け、馬蓋して埋葬す。
十二年間、以に我側に馴致す。
故に後人(後世の人)をして一小碑を建て、以て無躬(永遠)に傳へしめんと欲するのみ。

香林女轉性慈福霊の碑文。翻訳は、高橋論氏「お犬さま」より

 

犬

佐土原藩主島津忠徹の夫人、 島津随真院(随姫)の愛犬「福」の墓。福は文久2年(1862年)に江戸で生まれた狆で、明治2年に九州の佐土原(現在の宮崎市佐土原町。妖怪首おいてけの居城があった場所です)で生涯を終えました。

 

江戸時代の犬の墓碑は、出土品を含めて幾つも確認されています。大部分は特権階級の愛犬のものですが、「犬墳の碑」のような庶民のペット慰霊碑・義犬塚も現存します。

中でも、特権階級や裕福層に愛されたのが狆(ちん)でした。

 

いわゆる「狭義の日本犬」とは異なる姿の、おそらくはチベットや中国をルーツとする日本古来の愛玩犬。

その狆を筆頭に、我が国で作出された「広義の日本犬」たちがいます。

今回は、国際交流の中で誕生した犬について取り上げます。

 

眉毛がステキ。

 

現代においては、「日本犬界のエリア=日本列島」とイメージするのが当たり前。
しかし、近代日本では違いました。あの時代、南樺太、朝鮮半島、台湾、関東州、そして南洋の島々も日本領だったのです。ついでに傀儡国家の満州も誕生し、「日本犬界のエリア」は相当にアヤフヤなものとなっていました。

だからといって、21世紀の現代にカラフト犬(南樺太)や珍島犬(朝鮮半島)や高山犬(台湾)を「アレも広義の日本犬」と主張しても通用しません。

 


近代日本の犬のブログとしては、どこで線引きしたものやら。勿論、島国視点が基本なんですけどね。

 

混乱を避けるために、日本犬編では対象範囲を「和犬」に狭めることにしました。

http://ameblo.jp/wa500/theme-10042356010.html

そんな経緯で除外された樺太犬や珍島犬や高山犬は、樺太・朝鮮・台湾編で取り上げています。

http://ameblo.jp/wa500/theme-10073036157.html

 

同じく除外された「広義の日本犬」である、狆や日本テリアや日本スピッツや土佐闘犬はどうなるのか?

洋犬でもなく和犬でもない彼らは、日本の洋犬史で取り上げるしかないんですかね。

 

浮世絵1

 

【狆と日本人】

 

日本の国犬である狆は、古くから愛されてきた品種でした。私も幼稚園の頃(昭和50年代)、隣家の住人が飼っていた狆と遊んだ記憶があります。

しかし最近は、狆の姿を見かけることも少なくなりました。

 

犬

 

狆は海外から渡来した犬を源流としますが、その由来はハッキリとしません。奈良時代あたりから、大陸の犬が天皇へ献上されていたとの記録があるだけです。
それらの小型犬は、上流階級の人々から寵愛されるようになりました。

 

浮世絵2


座敷犬として愛された狆ですが、結局のところ詳しい来歴は不明。古い時代に渡来したチベタン・スパニエルなのか、中・近世に持ち込まれたペキニーズなのか、源流もハッキリしません。

 

 

この狆と思はれる犬の渡來は、文献では古く一千二三百年前、渤海國或は新羅の貢物の中に、蜀狗或は矮狗と記してありますが、之等はしばらく置き、盛んに輸入されたのはやはり徳川時代と考へるのでありまして、阿蘭陀人之を持ち來るとか、紅毛人より傳はる等と記されて居ります。

この狆と云ふ意味は、小さい犬は皆狆と呼んだものでありまして、古くは小犬と書いてチイサイヌと讀み、それより転じてチイヌ、チヌ、チンと変化致して居ります。

今日の日本テリア等と云ひます様な、短毛の四肢の細いすつきりとして日の丸斑の犬も狆の中の一種。鹿立ちと称へられて居ります。

當時狆に関することは舊幕府時代麹町に住して居つた狆医者の著と云はれる「狆飼育書」にその種類、系統、由來、飼育、蕃殖、治療法等が書かれてありまして、遂には江戸の狆は、渡り即ち輸入ものよりも、長崎・京・大阪のものよりも、その交配によつてはるかに小さく、はるかに釣合のとれた、品良いものを作り上げたと記述してあります。此の狆は主として諸大名に愛育されたものであつて、天明元年酒井雅楽頭が将軍家の使として、上洛のときに、その愛育の狆がどうしても側を離れず、遂に御供して京都まで参つたことが天聴に達し、畜類ながら主をしたふ心あはれなりと六位の位を賜り、當時「喰ひつく犬とは豫て知りながら、みな世の人うらやまんわん〃」と云ふ様な狂歌が残つて居ります。又、福岡の藩主黒田候の著述に、ちぬの考と題し、狆の故事來歴、種類、系統等を詳しく書いたものが残つて居りますが、大名の犬の書は珍しいものであります。

又、私の知人のある考古學者が、先年東京の某寺の過去帳を調べて居りますと、畜女、即ち女性の畜と女と云ふ字のついた戒名が盛んに出るので、不思議に思つて、墓をそつと掘つて見ました所が、狆の骨が出て來たので、畜女の謎がとけたと云ふことを聞きました。

之等は如何に大名、奥方、女房等が狆を愛育したかと云ふことを物語るものでせう。

齋藤弘「ラヂオ犬談の夕べ」より 昭和12年


明治になると品種として固定され、庶民のペットとなった狆。

しかし、ブームが去った大正以降は飼育頭数も減少してしまいました。

昭和9年の東京エリアで、狆の登録数は377頭程度。全国規模ではどうだったのでしょうか?

 

お姐さんたちと狆みたいな小犬。彩色写真なので、この毛色が正しいかどうかは不明。
 

狆

 

狆

 

戦前の写真でよく見るのが、女性と狆の取り合わせ。花街の女性たちにとって、愛犬は心の慰めでもあったのでしょう。

愛犬・愛猫が死んだ後、動物霊園へ熱心に墓参する人も多かったそうです。

 

狆

 

画像は狆ブリーダーであった下川いね子氏と愛犬たち。スプラッツ社製ドッグフードの缶が写っているとおり、食餌にも気を配っていたことが分かりますね。

「舶来品を入手してでも愛犬の健康を保ちたい」という愛犬家心理を理解できない人が、「日本初のドッグフードは戦後に輸入された」とか言い出すワケです。

昭和10年撮影

 

イラストを描いた下川いね子さんは、長くアメリカで暮らしていました。戦前日本で、日米の狆の架け橋ともなっています。

 

狆や日本テリアは座敷犬として女性に愛されていたことが分かります。男性の愛好家も多かったのですが、「オッサンと狆」の組み合わせ写真は意外と見つかりません。

 

ハナ

やんごとなき宮内省飼養の狆ですが、大正天皇の愛犬なのかどうかは不明。大正2年撮影

 

ターナー

狆は外国人にも人気が高く、黒船で来航したペリーも二頭の狆を持帰り、一頭はヴィクトリア女王へ献上しています。明治28年にはイギリスで「ジャパニーズ・チン・クラブ」が発足。フランクフルトの展覧会でも狆が入賞しました。

画像は、昭和14年に来航した米重巡洋艦「アストリア」のケリー・ターナー艦長が夫人へのプレゼントとして購入した狆。2年後に始まった太平洋戦争で、‟テリブル”ターナーは対日戦の指揮をとりました。

 

【日本テリア】

 

日本テリアも「江戸時代に渡来したフォックステリアが源流」と言われていますが、詳細は不明。品種として固定化されたのは大正時代になってからです。確かな事実は、昔から国産の小型愛玩犬として人気だったことだけ。

 

犬

 

犬

 

犬

 

inu

個人的に「鏡餅」と呼んでいる日本テリア。お姐さんがたからモテモテ王国です。

 

犬

日本テリアも熱烈な愛好家が多く、同好会が幾つも設立されています。

 

【日本スピッツ】

 

スピッツ

戦前のスピッツ。人気犬種だった割に、ブリーダーの記録はなかなか見つかりません。

 

日本スピッツについては、大正時代に原種が来日したという記録がある程度とか。白毛のジャーマン・スピッツあたりを固定して、品種として確立したのでしょう。

日本スピッツとサモエドとの交配に関しても、詳細は不明です。サモエド自体は戦前から愛好団体が結成されるほどの人気でした。人気犬種同士を掛け合わせて……と考えた人がいたのかもしれません。

 

犬

戦前の南樺太で翻訳家の秦一郎が撮影した、サモエド型カラフト犬。本土の愛犬家も「何で樺太にサモエドがいるんだ?」と驚く程でしたから、知名度はゼロ。日本スピッツへ与えた影響は皆無でしょう。

 

 

サモエド

戦前のサモエド・ブリーダーであった加納さんは、愛好団体も結成しています。

 

スピッツの輸入は昭和15年で途絶え、以降は国内蕃殖個体のみが流通します。ペット商のカタログで日本スピッツの販売が確認されるのは昭和18年まで。以降は戦況が悪化する中、愛好家が細々と飼育を続ける状態に陥りました。

 

犬

日本スピッツは、毛皮供出運動や空襲に晒された過酷な戦時下を何とか生き延びました。

画像は戦時下(ペットの毛皮供出は終了していた時期)、空襲の被災地でスピッツと暮らす女性。

 

犬

このような小型愛玩犬以外に、近代日本では大型の犬も作出されました。

狩猟界や闘犬界では和犬と洋犬が盛んに交配され、より優れた猟犬や闘犬の作出が試みられます。

 

【土佐闘犬】

 

土佐闘犬

 

四国の在来犬に洋犬を交配して作出された闘犬。

四国では闘犬禁止令の影響もあり、その後は闘犬が盛んな青森・秋田県でも品種改良が続けられました。

闘犬としては、土佐闘犬や土佐ブル・土佐佐テリと呼ばれる犬が作出されています。

 

「土佐犬」で混同されていた在来の「四国犬」と新種の「土佐闘犬」が区別されるようになったのは、昭和初期のことです。

手当たり次第の交配が重ねられた結果、土佐闘犬が成立していく過程は良く分からなくなってしまいました。

これは秋田犬も同様で、闘犬目的の無軌道な交配で雑化が進んでしまった時期もあります。

白木正光

土佐犬の固定された體型とはどんなですか。

中島凱風

さあ一寸簡単には云へぬが、マスチフ、デンその他新しく新しく外國種をかける必要はなく、現在の土佐犬の缺點を除けばよいと思つてゐます。分類としては大、中、小と分け、大型は二尺一寸以上で十一貫以上、中型は一尺九寸以上で九貫以上、小型は一尺七寸以上で七貫以上とします。土佐犬は雄大な感じを尚ぶので、七貫以下は考へられません。毛色は赤一枚、爪黒、口黒、鼻黒、目黒―で、かういふのが一般にいゝといふからよいのでせう。土佐犬にどういふ血が混じつてゐるかといふ問題は、闘技に目標を置いて内緒で苦心して掛けたので、記録は見當らず、中間の所は判つてゐません。この中間の所は學問的研究に任せたい。

京野兵右衛門

闘技は古いが、現在の土佐犬を闘技犬として使用する様になつたのは明治の初め頃からです。

齋藤弘

嘉永頃に外國種がかかつたと傳へられます。

岡澤常夫

今の體型はどうか、それを一つ。

中島

土佐犬は現實に優秀性が明瞭で、優秀犬と交配する結果、體型は世界的だと思ひます。その精神は勇敢にして戦闘的です。しかし決して無頼漢ではなく、スポーツ精神を有し、真情に溢れてゐます。その體躯は敏捷にして耐久的で、毛色は赤又は赤斑。その魂は大和魂です。他犬との比較は、他犬を知らないので、何とも云へません。

京野

體型から云ふと、マスチフの様なものにあらず、デンにあらずして、その中間と云つたものです。英國のブル・マスチフ、これが日本の土佐犬に類似してゐます。私が初めて土佐の闘技を見た時は、小學一年の頃でしたが、その當時のものはポインターを小さくした様なものでした。興行して歩いてゐたので、大きなものはなく、敏捷、身軽でした。しかし中にはいくらか大砲などいふ太つたものもゐることはゐた様でした。ブルの混じつたらしいものもゐましたが、口はブルが濃厚に出ず、細かつたものです。それらが段々時代が経つにつれて、マスチフの様に太いものが使用される様になりました。マスチフ型です。

これは闘犬に用ひて見た感じはよいが、寝業などに敏捷かどうかは問題でした。現在のは、前にも云ふ通り、マスチフに非ず、デンに非ずと云ふ、その中間で、闘技にも働けるものが選ばれて來ました。

中島

未だ土佐犬は標準體型はないが、既に固定されたと云つてもよく、どうも日本犬の権威者が二人もゐるので云ひにくいが(笑聲)、日本犬より固定されてゐるでせう。

「闘犬を再検討する・土佐犬座談會」より 昭和11年

 

現代の我々が知る土佐闘犬と、明治初期の姿はどうやら違っていた様ですね。

賭博との関りを警察当局に攻撃され、動物虐待だと愛護団体から非難され、闘犬禁止の鬱憤を路上のドッグファイト(散歩中の犬に喧嘩を吹っ掛けること)で晴らす不届き者は後を絶たず、闘犬家の肩身はどんどん狭くなっていきました。

クリーンな闘犬として再出発したものの、今度は戦争が始まってしまいます。

戦時体制下で闘犬のような娯楽は自粛へ追い込まれ、日本軍も国産の闘犬種など無視してドイツ産の牧羊犬(シェパードね)を配備し、役立たずとなった土佐闘犬は毛皮として供出されてしまいます。

敗戦を迎えた頃、生き残っている土佐闘犬は東北と九州に計20頭ほどでした。

 

【新日本犬】

 

 

大正時代になると、「和犬と洋犬を交配して、外国に見栄えの良い大型日本犬を作出しよう」という日本犬改造論が現れます。日本犬が消滅しつつあった時代、「和犬保護」ではなく「新日本犬作出」へ走ってしまったのです。

 

新日本犬論の提唱者だったのが、ペット商の田中千禄。闘犬嫌いだった田中さんですから、闘犬界に向けたリップサービスでもありません。

小さい狆より、でかくてカッコイイ国犬が欲しい!程度の願望だったのでしょう。

的外れな国粋主義というか、和洋折衷の犬が果たして日本犬と呼べるのかどうか。

日本犬という素晴らしい宝の価値に気付かず、「欧米に認められたい」という外面だけを気にする日本人の悪い癖が表面化したのでした。

 

しかし大正12年の関東大震災によって、田中さんを中心とする犬界サロンは崩壊。以降、言論活動ではなくペット販売に専念された様です。

関東犬界が復興した昭和3年から日本犬保存運動がスタートし、「新日本犬論」は立ち消えとなりました。

 


和犬と洋犬の狭間で生まれた日本の犬たち。
近代日本犬界の国際化を物語る生き証人であり、そこに関わった人々の思惑や努力を知るにつけ、興味深い存在であります。

(次回に続く)

 

 

 

 

日本の洋犬史・その2 明治の洋犬たち

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私は此種のものを見る時にいつも感ずる事は、それは何れも其人の獨創や、又は消化せられた知識から出るのでなく、猟と犬とに對する見識がなく、たゞ外國の書物を其儘翻訳せられ、而もそれが翻譯に陥る結果で誠に困つたといふことです。
私の知つて居る或る犬は「ネリーヒヤ」と通称され、知人間でも「ネリーヒヤ號は近頃芸が良くなつた」などゝ能く言はれますが、此犬元來ネリーと称するのです。
それを其飼主の魚屋さんが「ネリー、ヒヤ(ネリー来い)」と英語で御呼びになるので、他人は其全部を犬の名前と思つて居るのです。

小林廣正「猟野競技に就いて」より 大正9年

 

「本邦舶來」より、来日の挨拶をする洋服のカメ(洋犬)と、蕎麦で歓迎する和服の日本犬。

下では洋靴と雪駄が言い争っています。

 

明治になると、猟犬界を中心に西洋式の飼育訓練法が導入されます。

続く大正時代には、本場のヨーロッパで修業したペット商も登場。「洋犬のコマンドには外国語を用いるべき」という彼らの主張は、洋犬界の主流となっていきました。この魚屋さんのように、指導に倣う飼主も増加します。

外国人が愛犬に「カムイン(おいで)」と呼びかけるのを聞いて、洋犬が「カメ」と呼ばれるようになった幕末もこんな感じだったのでしょう。

 

開国と共に欧州の洋犬文化が流入し、明治日本はカメの時代を迎えました。

 

明治初期には、西洋の猟犬・レスキュー犬・牧羊犬が書籍で紹介されました。一番下は人を襲っているのではなく、「巨獒 善泅(泳ぎが上手い大きな犬) 」というニューファンドランドによる水難救助の解説です。

「博物新編」より 明治3年

 

【カメの渡来】

邦人、洋犬を呼びてカメとなすは、洋人の、犬を呼ぶにカムイン〃といへるを聞きて、犬のことゝなし、転化して終に其の名となしゝなりといふ。面白き語源なり

とあるように、横濱在住の外国人が「Coming」と犬を呼んでいたのを「洋犬の名称=カム」と誤解し、それがカメと変化して広まったというのが一般のカメ語源説。
しかし開国前より、一部地域では和犬や狼を「カメ(「咬む」が語源)」と呼んでいたそうです。

 

旧体制の崩壊と西洋文化の導入は、日本社会を大きく変化させました。各地で分断されていた「地犬」の世界も、カメの登場によって変貌します。


カメの渡来は各地の港から同時多発的に始まり、明治期を通して無軌道に続きました。在日外国人のペット、外国航路船員の小遣い稼ぎ、ペット商による直輸入など、輸入の目的や手段もさまざまです。

長崎、神戸、横浜といった国際港から上陸した洋犬たちは、各地に開通し始めた鉄道網や海路を介して急速に拡散。洋犬は行く先々で地犬たちと交わり、地域犬界の中心はカメに置換されていきました。

 

愛犬団体が存在しなかった明治時代、洋犬渡来に関する統計的な記録は残されていません。各犬種ごとに、断片的な証言を集めるしかないのです。

外國犬種が初めて我國へ輸入せられたのは、多くが海外へ旅行された人々が、趣味のまゝに持帰つたのが始りで、犬の賣買とか、採算とか蕃殖とか云ふ上からの考慮は全然無かつたので、従つて各種が輸入せられても、各自が嗜好に適した牝なり牡なりを輸入されたので、其種の改良と可保存とか増殖とか云ふ様な事の望み難きは當然です。そして多くは其犬一代で雑種となつてしまつたのであります。

狩猟界でも西洋犬は能く主人の云ふ事を聞くとか、耳が垂れて珍らしいとか云ふ様な事で、地犬に其れ等の犬を配したと云ふ様な事が進歩の始まりとも云へば云へ様と思ひます。

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

 

そのような状況を憂い、昭和になって日本犬界が成熟すると「これまでの洋犬渡来史を整理しよう」という試みがなされます。

しかし既に、明治・大正のペット業界談は昔話と化していました。古老や重鎮による証言をもってしても「集大成的な洋犬史」の編纂には失敗します。

この取り組みがもう少し早ければ、日本畜犬史における貴重な資料となった筈なのですが。

 

明治30年に田中一族が創業したペット商「大日本猟犬商會」。このような黎明期のペットショップが、明治・大正の愛犬家のニーズに応えました。ペット商を介して愛犬家たちのネットワークも構築され、同商会では傘下の愛犬団体「日本畜犬協會」も発足(大正6年)しています。

 

【カメの普及】

 

明治の洋犬史を支えたのが、犬を扱うペット商。いわゆる畜犬商の登場でした。

洋犬は欲しいが、直輸入では手間もかかって面倒くさい。そのような顧客の要望をビジネスチャンスに結び付けた人々がいました。

輸入した洋犬を販売する商人「畜犬商」が現れたのは、明治初期の頃。綾井、芹沢、時田といった商人が、ハンターからの注文に応じてポインターを入荷し始めたのです。

 

入荷ルートは直輸入だけでなく、「ポインターの飼主宅に通って仔犬を売ってもらう」「飼主宅にこっそり牝犬を放り込み、妊娠したところを回収」などの国産化手段もあったとか。

そうやって入荷した猟犬を、今度はペット商の店員が繁殖させて裏ルートで販売するなど、カメの普及はナカナカの黒歴史っぷりでした。

 

明治27年(日清戦争当時)には、上田辰太郎氏(後の関東畜犬組合長)が本格的なペットショップを出店。猟犬の繁殖や飼育用具の販売を拡大します。続く明治30年代には、大日本猟犬商会や東京養犬場なども設立されました。

 

猟犬界や闘犬界では、それぞれ同好の士たちがネットワークを構築し始めます。勿論インターネットなどは存在しないので、ペット商が主催する畜犬展覧会や会報などを介した繋がりでありました。

 

同時期、西洋式教育を受けた新世代の獣医師が各地で開業し始めます。当初は旧世代の馬医と衝突したものの、畜産家が頼りにしたのは最新の医療知識を有する若き獣医たちでした。

やがて家畜病院にペットが持ち込まれるようになると、犬猫を専門に診る獣医師も現れます。
 

個々の愛犬家を組織化し、情報共有の場となる愛犬団体。

犬や飼育具を供給するペット商。

健康管理を担う家畜病院。

地域の飼育ルールと防疫を管轄する畜犬行政。

 

こうして犬界発展の基盤は整いました。

明治最後の年、国民新聞主催による畜犬展覧会には300頭あまりが出陳される盛況ぶりだったとか。

 

ネットワークの構築と共に、地域を越えた犬の流通や飼育訓練知識の共有化がはかられていきました。

 

【公的機関と洋犬】


ペット文化の発展が加速し、「愛犬家」という日本語も現れた明治中期。

喜ばしいことばかりではなく、放し飼い、捨て犬、街頭での闘犬など、飼主たちのマナー違反も問題化します。

地域住民に咬傷被害などが出始めると、狂犬病対策に苦慮する行政側は相次いで畜犬取締規則を制定。飼育届と畜犬税を義務化することで、犬の飼育を警察のコントロール下へ置きました。

 

その辺の犬をテキトーに養っていた江戸時代と違い、明治の犬は「飼育届で警察に登録し、畜犬税を納め、狂犬病予防注射をした上で飼育が許可されるペット」と「それ以外の野犬」に区分されました。

未登録(脱税行為)の犬は、野犬扱いとして容赦なく駆除されます。犬税取締りにより、地域の和犬は急速に消滅していきました。

 

昭和になって甲斐犬が発見された時もそうですね。貴重な和犬の調査に訪れた安達検事と警察官を見て「犬税取締りだ!」と勘違いした住民が、猟犬を隠してしまうという悲喜劇が展開されております。

逆に、「対価を払って購入するステータスシンボル」であった舶来の洋犬は勢力を拡大していきました。

 

 

行政機関と犬との関係は、これだけにとどまりません。

洋犬の訓練知識が広まったことは、「公的機関の犬」が誕生する基盤となります。

 

西南戦争や日清戦争は、日本犬界に左程の影響を与えませんでした。

しかし明治37年の日露戦争において、日本軍はロシアの近代的軍用犬部隊に遭遇。軍馬の知識しか持たなかった日本軍は、馬と鳩と犬を駆使するロシア軍の戦術に驚愕します。

明治40年代、外国文献や欧州視察を通して「軍用犬」や「警察犬」の情報がもたらされ始めました。台湾総督府でも警察犬の配備をスタートしています。

 

これは誰かが計画的に推進したものではなく、各機関が試行錯誤する中から生まれたもの。

環境が整ったことで、日本犬界は模倣から応用の段階へ移行していたのでした。

 

帝國ノ犬達-ロシア衛生犬

赤十字ゼッケンを着用したロシア軍負傷兵捜索犬から身を隠す日本兵。当時の日本軍には、警備犬とレスキュー犬の区別ができなかったのです。

近時画報より、明治37年

 

それでは、明治時代に来日した洋犬たちを見ていきましょう。

 

【イングリッシュポインター】

 

 

猟犬界の主役とあって、ポインターの記録は大量に残っています。

日本にポインターが現れたのは明治初期のこと。

明治元年には「エス」というポインターが横浜や土佐へ持ち込まれ、一部は闘犬と交配された話があります。やがて「在日外国人や資産家の飼う舶来の狩猟犬」として盛んに輸入・繁殖されるようになりました。

 

一般庶民に猟銃の所持が認められた明治時代、西洋式のスポーツハンティングが大流行します。

ハンター達は西洋から来たポインターの能力に目を見張り、和犬は鳥猟の分野から駆逐されてしまいます。

 

英ポ来日の経緯は下記のとおり。

洋犬が我が國に初めて渡來せるは今より約八十年前(幕末)、某和蘭医の下僕チヤーレーなるものが本國より輸入した一頭が最初であり、次いで明治の初年英人のベルタン氏が英ポインターを横濱に舶來し、尚本國より輸入した十數頭が漸次蕃殖を遂げ、その内の一頭を明治七年故河村伯が譲り受けたのが邦人で洋犬飼育の開祖であるとの事である。

宮城猟友會「洋犬のはじまり」より 昭和6年

我國に英ポインターの始めて輸入せられましたのは、明治の初年に横濱の八十一番館で貿易に従事して居りました英國人ベルタなる人が、其本國より取寄せたものでありまして、明治三十四年六十四歳で病死する迄、絶へず十數頭を飼養して居つたそうで御座います。

明治七年頃、故河村伯が傳手を求めて、ベルタと交際し日曜毎に猟場に東道の主人となり苦心の末、其手により漸くポインターの犬兒を割譲せられて、飼育したのが日本人としては初めてだ相で御座います。

伊藤卓蔵「英ポインター種に就て」より 昭和7年

 

【ジャーマン・ポインター】

 

m27

「猟友」より 明治27年

 

イングリッシュ・ポインターと共に人気だったジャーマン・ポインター。

日本の英ポと独ポは交互に流行期を迎え、結果として英ポ主流に落ち着いたそうです。

獨逸ポインターでは神戸の鈴木商店主が犬の研究に獨逸に行かれて居つた田丸亭之助氏に依頼して、牝牡を帰朝の節に輸入せられた。
之れ等が牝牡揃つて輸入せられた最初の様に思ひます。

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

 

【セッター】

 

ライオン

大正2年撮影のセッター

今から四十餘年前に、其當時の茨城縣知事が英吉利セツターの黒二毛斑の牝牡を持帰られて、其れが病氣となつたのを同地農學校長をして居た義兄が一時預つて居り、全快の御禮として其仔を一頭贈られたので飼育して居つた事がありました。

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

「私が新潟を去るとき、大勢の親切そうな群衆が運河の岸までついてきた。外国の婦人と紳士、二人の金髪の子ども、長い毛をした外国の犬がお伴をしてこなければ、人目を避けることもできたであろう。
土地の人たちはその二人の子どもを背にのせてきた。ファイソン夫妻は、私に別れを告げるために、運河のはずれまで歩いてきた」

イザベラ・バード著 「日本奥地紀行」より 高梨健吉訳

 

帝國ノ犬達-m26
明治26年の狩猟雑誌より、猟犬の普及ぶりが分かります。

 

【ドロッパー】

 

セッターとポインターの長所を併せ持つミックス猟犬・ドロッパー。
ヨーロッパでは18世紀から用いられてきたそうですが、明治時代の日本のハンターたちがドロッパーを作出していた記録もあります。

セツタとポインタの〇〇〇〇(即ちドロツパ)は随分役に立つものあれど、馬鹿ものも多し。
又決して數代蕃殖するものに非ず。故に此相の子を絶やさぬ様せんには先づ別にセツタとポインタを絶やさぬ様せざる可からず。

扨て〇〇〇〇は永続せぬと云ふ患あるが我國の猟士兎角犬の純血と云ふとに不熱心にして勝手気儘に雑ぜ物を造らんとするの傾きあれど、自然は容易に左様な急激なる変化を許すものに非ず。異種混合も有害なれど、又同種中餘り親近のもの絶へず混合するも宜しからず。
犬にては経験上血族婚姻をさせた強ち悪るきにあらねど、餘り數代続けては有害なり。成るべく他血を混ずるとなすべし。雌犬は二年に一度位は子を産ますべし。毎年一度でも宜し。孕ますには二回雄を掛ければ充分なり。
雄は盛りの付きたる雌さへ見れば気が立つものなれど、餘り制限を加へずとも宜し。

猟友「廣島のOM生君に答ふ(質問文は畧す)」より 明治25年

 

【コッカースパニエル】

 

フリース

大正2年に撮影されたコッカー「フリース」。

コツカースパニエルは三十餘年前に相馬子爵が黒二毛の牝牡を輸入せられて、其仔を一頭飼育致しましたが、不幸にして成犬とならぬ内に失いました。

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

 

愛玩犬ですが、一部の日本人が本来の猟犬として使用した記録もあります。

 

【ダックスフント】

 

ダックス1

日本におけるダックスフントを使ったsuの様子。 明治26年

此猟に最も適するしはダツクスフンドと云へる犬種なるが、此種は疾くより我國に渡り、雑種と成りて残りあるもの東京市中などには中々多く見掛くるなり。又、在留の外人中其純粋に近きを飼養するもの尠からざれば是又得難きには非ざるべし。
偖、ダツクスフントは圖に示したるが如き格好の小犬にて胴の長き割には四足甚だ短く、前足二本は屈曲して(屈曲せざる者もあり)モグラモチの如く、又此足にて能く地を掘るの性を有す。
顔長く耳大にして下に垂る。毛色は真黒にして腹部と足先だけ茶色なるが普通なれど總身茶色なるものもあり。
毛も短きと長きと両様あるが、今圖に出したるは短毛のものなり。性怜悧にして体格矮小と雖も極めて活発且根性骨の太き犬なり。
素と獨逸國の犬なれど、殆ど全世界に行き渡りて能く繁殖す。其用は第一獣類の穴中に匐ひ込まするにあれど、地上の兎狩にも用ゆべし。但し、鳥猟には余り適せずとなり。
又欧州の料理人が鳥を焼くとこ此犬にて回はさしむることありと、いつぞや動物居士が本誌上にて鳥焼犬と云ふとを言はれたのは即ち此犬のことぞ。

丸山猟士「 犬を使用して穴中の狐狸を捕ふる法」より 明治25年

其頃佛國大使館員がダツクスフンドの茶色の牝牡を飼つて居りましたが、其牡を貰ひ受けて飼養致した事がありました。

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

ダツクス・フンドも優秀なものが、明治時代の大都市には澤山居たものである。

高久兵四郎 昭和11年

 

【ブルドッグ】

 

ジョーカー

大正2年撮影のブルドッグ

白木
ともかく今の犬界人はブルドツクの智識に乏しいと思ひますから、まづ日本で流行した歴史から始めていたゞきませう。
鶴見孝太郎
それは伊藤さんの領分だ。
伊藤治郎
それでは私から簡単に日本にブルドツクの流行した歴史を申上げますと、相當古いもので、彼のセツターやポインターが人気を博したのは欧州大戦後(※第一次世界大戦)ですが、それ以前に既にブルドツクは全盛を極めてゐて、セツターやポインターが下火になつてからも、なほブルドツク丈けは騒がれたものです。當時は雑種でもブルのかゝつたものと云ふと喜んで買つたもので、犬の話となると、大抵ブルと決つてゐました。
此の犬が何時頃日本に渡つたか、明確な記録はありませんが、関東で純粋のブルドツクの最初のものと思はれるのは、明治三十六、七年の頃、有名な闘犬師で、横濱の小林八十八氏の飼つてゐたフエーモスと云ふ牝犬です。これは白地にレモン班があり耳も尾も切つてありました。
このフエーモスの他に、神戸から来た総虎毛の小型な犬も居ました。これをフレンチ・ブルドツグといつてゐましたが、後に私が廿圓で買ひ取りました。これが私のブルを飼ひ出した最初です。

その頃、横濱山下町の英國海軍病院に、當時としては優秀なブルドツクが数頭飼はれてゐました。
この仔犬が各方面に散つて、明治四十年頃、山手百五番にはドクターといひ、ボストンテリアのやうな斑のある立派な牡が居り、終始馬車の後に従いて走り歩いてゐました。ドクターの名は海軍病院から出たからだと云ふことでした。
又山手ニ百十六番のライジングサン社長デビス氏邸にも、白地に黒斑の牡が居て、ドクターに次ぎ立派なものでした。尚この地に総虎毛の牝が一頭居ました。

一方京濱間に初めて汽車が開通した時、その運転をしたといはれる人で、俗にサツマと称された太つた爺さんが大の愛犬家で、ゴールドン・セツター、プードルなどを飼つてゐたが、この人がドクターの仔の総虎毛の牡を飼ひ、その牡と、當時鎌倉方面で唯一のブルドツクと称された車夫で犬好きの猪俣伊三郎氏の牝タケ……この犬は一見グレートデーンの雑種といつた白地に黒斑のある犬でしたが……と、その頃廿歳位の私や、横濱で犬では最も古顔の入江隆平氏が肝煎りでコツクやボーイに話して交配させ、その結果数頭の仔を得ました。
これ等が鎌倉に擴がり、私も横濱へ二頭持つて帰りました。日本人の間にブルドツクが擴がつたのは主にこれの系統です。

それから明治四十五年頃にはブルも相當の数になり、外人の持つて来た立派なものが日本人の手に入つたりして東京へも連れて来られ、當時羽振りのよかつた堤の婆さんや益田太郎氏等が、ブルを買ひに入江の處へ出入りしたのもその頃です。

白木正光「ブルドッグの華やかなりし流行のあとを語る」より 昭和9年

 

他にも、明治初期にブルを連れた宣教師が四国へ赴任した話が伝わっています。こちらは土佐闘犬と交配されたとか何とか。

 

【ラフコリー】

 

スカ

西尾忠方子爵の愛犬「スカ」 大正2年撮影

 

牧羊犬

「下総御料牧場事業報告」による牧羊犬のリスト。 

明治37年

 

コリーは牧羊業の導入と共に渡来し、下総御料牧場をはじめとする種畜場で牧羊犬として使われていました。また、シェトランド・シープドッグを始めとする各種牧羊犬(短毛種含む)も明治後期の横濱に来日していたそうです。

先日新聞にコリーのことが出て居た。其説に同種は大正年間子安農園で始めて輸入したと出て居たけれど、實はコリーは明治の中葉から輸入されたもので、栃木縣の那須野原の松方さんの牧場には、明治十八、九年の頃からコリーを使つて牧羊をやり、其血統は今でも現に残つて居るし、横濱の外人屋敷や愛犬家間でもコリーは珍らしい犬ではなかつたのである。
伊藤治郎氏なども子安農園で輸入する以前に耳の立つたのを飼つてゐた事がある。元來以前は今の如く、発表の機関が整つて居なかつたので、何種が何年に初めて輸入されたと云ふ様な事は、よく判らない。

高久兵四郎「明治から昭和へ 犬種今昔物語」より 昭和12年

 

【セントバーナード】

 

犬

大宮季貞「感ず可き犬の實話」で紹介されたアルプスのセントバーナード。明治43年

 

セントバーナードは昔から有名な犬で、明治初期の書籍でも「アルプスの救助犬」として紹介されていました。明治35年には、八甲田山遭難事件の救助活動にも出動しています。

自二月二日 至二月九日

二月七日
本日は特に東京の人小林善兵衛が特志を以て死體捜索に使用せんが為、店員岡部某をして携行せしめたる「セントバーナート」種猟犬を監澤捜索(※監澤義夫大尉指揮の第2捜索隊)に附して之を試みしも、犬は未だ其目的を解せざる者の如く効果を収むる能はざりき。
八日
捜索諸隊は午前八時より捜索に従事し小林氏の飼犬は更に種々なる方法を以て捜索に試みしも、遂に効果を得ずして帰還せしむるに至れり。

歩兵第五聯隊「遭難始末」より

 

セントバーナードに続き、2月9日~18日にかけての第3期捜索では新たなレスキュー犬が投入されます。
この時北海道から招聘されたのが、雪山での狩猟経験豊富なアイヌの民とその猟犬たちでした。

 

【ブラッドハウンド】

 

PH2

山岳民族の抗日蜂起に苦慮する台湾総督府は、台中庁警察に警察犬を配備しました。リストには「ブロート種」の名がみえますね。

明治43年

 

明治44年、一年間の訓練を終えたジョン、ベル、ポチ(画像の「ポケ」は誤植)は山岳地帯の討伐作戦へ投入されます。警察犬により動きを察知され、得意のゲリラ戦を封じられた山岳民族は潰走へと追い込まれました。

 

【スカイテリア】

 

スカイテリア

大正2年に撮影されたスカイテリア

 

明治初期に渡来した洋犬には、多数のテリア種が含まれていたと思われます。しかし、室内犬ゆえに日本人が目にすることも少なかったのでしょう。

明治11年に日本各地を旅行したイザベラ・バードは、東京で出会ったスカイ・テリアについて記しています。

召使いは誰もが、全くしゃくにさわる波止場英語しかしゃべれないが、利口で忠実に仕えてくれるので、そのめちゃくちゃな英語を補って余りあるものだ。彼らは、玄関の近辺から姿の見えぬことはめったにないし、来客名簿の受付や、すべての伝言や書信を引き受ける。
二人の英国人の子供がいる。六歳と七歳で、子供部屋や庭園の中で子どもらしい遊びを充分に楽しんでいる。
その他に邸内に住んでいるのは、美しくてかわいらしいテリア犬である。
これは、名をラッグズといって、スカイ種であり、家庭のふところに抱かれるとうちとけるが、ふだんは堂々たる態度で、大英帝国の威厳を代表しているのは彼の主人ではなく彼自身であるかのようである

イザベラ・バード「日本奥地紀行」より

 

【エアデールテリア】

 

大正初期に警視庁が採用した警察犬たち。当時の警邏犬や探偵犬は、エアデール、コリー、ブルテリア、グレートデンなどでした。この時点で、まだシェパードは渡来していません。

バフレーは「日本最初の警察犬」として有名ですね。

一般の形勢は日軍のために利方と見えたり。然れども露軍も亦未だ辟易の色なし。
余は露軍陣地の一部をなせる山頂を見てありしが、二百名ばかりの兵突如として肩々相摩しつゝ頂界線に現はれ、漸く望遠鏡の視界に入らんとせしが、余は思はず一声叫びて同伴者に指示せんとして望遠鏡を外したり。
再びこれを執りて望めば、最早一名も見えず。
蓋しこの一團は露の援兵にて、頂界線の南側なる塹壕に入りたるため姿の隠れたるなり。
同伴某氏はこれより先困循となり居りしが、茲に至りて彼は相當の時間までに余を司令部に送り届くべく約したれば、「今より帰路に就かざれば迷惑なり」と主張して止まず。
奈如ともせん術なければ、厭々ながらも戦ひの半を見残して帰途に就く。

馬上帰途に向ふ間もなく、大なる満州のドラ犬に追はれて困しめる英國種のテリヤー犬に出會ふ。
支那人が今石を投げてドラ犬を追ひ遣り、テリヤー犬は咽喉を噛まれて出血し居りしも健気にドラ犬を追ひ行くところなり。されどドラ犬は機會さへあれば再び噛み傷つけんことは明かなり。
余はこの光景を見て口笛を吹きしに、憫むべし四方八方亜細亜人のみの間に己れと同族の欧人を見て嬉しかりしと見え、悦び勇みて余に付随へり。
支那人は何か余に請求せん模様なりしかば、馬の脚を進めしに犬は後れず続き來れり。
斯て一二哩も進みしと覚しき頃、何事か悪しき事の心に浮びしと見え、突然路傍に坐して余が生來未だ聞きしことなき哀れの調子にて一声の悲鳴を揚げたり。
余は殆どその哀れさに堪へざらんとせしも、暫くして余の心寛げり。
彼は相変らず機嫌よく踊り進み來りたればなり。

英国陸軍中将イアン・ハミルトン著「日露観戦雑記」より 

 

上記は、日露戦争に従軍していた観戦武官イアン・ハミルトンの手記。イギリス軍人とイギリス産テリアが、祖国から遥か遠く離れた満州の地で出会ったのです。

対日戦に備えるロシア軍は、ドイツやイギリスから軍用犬の専門家を招聘し、最新の軍用犬部隊を編成していました。イギリスからは数十頭のエアデールテリアが購入され、鉄道警備任務などに就いています。ハミルトンが出会ったのも、その中の一頭だったのでしょう。

日露戦争で鹵獲したロシア軍のエアデールが、皇太子(後の大正天皇)に献上された記録もあります。

 

【ブルテリア】

 

帝國ノ犬達-ペシ

明治41生まれのブルテリア「ペシ」。後ろの仔猫の名前は不明。尾形春吉氏の愛犬でした。

 

イギリスの闘犬「ブル・アンド・テリア」を元に愛玩犬へ改良されたブルテリア。

日本へ渡ったブルテリアは闘犬と勘違いされ、土佐テリなどの闘犬種作出に利用されました。

 

【レトリヴァー】

 

カラー

長谷部純孝氏の愛犬「カラー」 大正2年

 

レトリヴァー
足立美堅著「いぬ」より 明治42年

レトリヴァーが日本に紹介されたのは明治15年。フランス軍獣医アウギュスト・アンゴーが著した「猟犬訓練説」にて登場します。
フラットコーテッドなどは大正初期から少数が輸入されており、大正2年に撮影された長谷部純孝氏愛犬の「カラー」号や岩崎男爵が飼育していた「ボス」号などの写真が残されています。

猟犬界で流通していた記録を偶に目にする程度で、希少犬扱いでした。

 

【ポメラニアン】

 

ポメラニアン

画像は奥田謙次氏が飼っていたポメラニアン「リカ」。 大正2年撮影

 

ポメラニアン

昭和14年の広告より

 

大演習後の賜宴で、上原師團長以下の労を犒はせられた席上に於て、偶々犬が御話題に上つた際、上原師團長は近くに着席してゐた横地長幹聯隊長を一瞥して、大正天皇に、犬ならばそこの横地が二頭の名犬を持つて居りますると申上げたとのことである。
此時聡明な横地聯隊長は、殿下は屹度自分の犬を御所望に相成るに相違ないと直感したので、大急ぎで立派な箱を二個誂へて恩命の下るのを待つた。
而し、翌日は何んのこともなくて過ぎ、其翌々日に成つてから横地聯隊長に出頭せよとの御下命があつたので、聯隊長の横地は早速二頭の名犬を用意の二つの箱に入れて参殿の上賜謁の光栄を有したが、殿下は果してお前は非常に良い犬を持つてゐるさうだが夫れを見せろと仰せられたのである。
御申付けの犬ならば只今持参して居りますると申上げると、横地の気転を大層御嘉賞に相成り、それでは直ぐその犬をこゝに伴れて来いとの御言葉があつたから、横地聯隊長は待たしておいた犬を聖覧に供した所が、一目御覧になった殿下は痛くその犬が御気に入つたと見えて、一頭を譲受けたいとの仰せであつた。
仍て、聯隊長横地は是れを無上の光栄として、實は二頭共に献上申上げる積りで二個の箱を拵へて参殿致した次第で御座りますると申上げた。

殿下は、二頭共献上すると云ふお前の言葉は喜ばしく思ふが、二頭共貰つてはお前の子供達に済まぬとの畏れ多き言葉を拝聞して、横地は電気に撃たれたやうな感激を覚え、御言葉は恐懼に堪えませぬが、二頭共に御嘉納賜はる様に御願申上ますと御答へ申上ぐると殿下は大変御悦びに相成り、お前が夫程云ふならば二頭共に申受けて、一頭は御母君に差上げる事にしやうとの御言葉であつたとのことだ。
「お前の子供達に済まぬ」と云ふ御言葉は何んと有難き思召しではあるまいか。蓋し是れは歴代天皇の民草に對する一貫共通の大御心である。

廣井辰太郎「大正天皇の御逸話を拝聞して」より 昭和18年

 

上記は、ロシア~樺太経由で旭川に「ポーランド産の狆」が来日した記録です。ポメラニアンなのかどうかは不明。

 


【スタッグハウンド】

犬

帝國ノ犬達-スタッグハウンド
大日本猟犬商會カタログより 大正6年

 

數年前、予が大磯別荘にスタツグハウンド種属番犬牡一頭牝二頭を飼養しつゝありしに、或夏の夜二時頃其愛犬の内フリート、予が寝間の雨戸を破らんばかりに飛びかゝり、頻りに吠へ何にかを告ぐる如くをなすを以て、不審に思ひ、雨戸を開き見しに、庭内の一隅に盗賊悲鳴を揚げつゝ愛犬ヒーロー及ジヤキと闘争の最中にて、ヒーローは肩部に噛み付き、ジヤキ袖を銜へ居りたり。
予は直ちに戸棚より護身用のピストルを取り出し空砲を發を見舞ひたり。
盗賊は實弾と思ひてか狼狽、取るも取りあえず逃げ去れり。
翌朝其場所を検せしに、鮮血の斑點地上所々に印せられ、殊に裏門の扉にも多く印せるを発見せり。
其場所の傍に二尺余の抜刀と片袖落ちあるを見出せり。
予が是迄多年経験せる番犬の盗賊に對する行動、此時より大なるはなし。愛犬の内ジヤキは過般故伊藤公爵の御懇望により譲り渡したり。
怜悧なる番犬は番人五人前位の働きをなすを以て、経済上得策なるのみならず、平常愛玩用の道具となるを以て欧米各國にては中流以上の家には必ず二頭飼養せざるはなし。
我國にても年々飼養者増加しつゝあり。

田中友輔「番犬飼養法の注意」より 明治44年

この「スタッグハウンド」が、絶滅してしまったイングリッシュ・スタッグハウンドなのかアメリカン・スタッグハウンドなのかは不明。
明治時代の日本に輸入され、ペット店で流通していたことだけは事実です。
 

【ビーグル】

 

ポインター

大正2年に撮影されたビーグル

九州地方でビーグルと云へば、殆ど鹿兒島から來たものゝみであります。鹿兒島と云へば御承知の如く、名士が澤山その土地から出た所で、それ等の方が洋行されて持帰られ、それがまた名士に贈られなどしたものでありまして、「西郷系」とか「樺山系」、或は「東郷系」と云ふ風に、土地のものが出鱈目に、その系統名を申して居ます。
以上の系統の外に、「松方系」とか、「外人系」と云ふものがあります。この外人系と称するものは、鹿兒島舊本線に八獄トンネルと云ふがあり、それがとても大難工事で、當時外人技師が、その工事の技師として來ました。
その技師が、牡牝二頭のビーグルを連れて來て居たと申しますが、その犬はビーグルと申すよりも、バセツト・ハウンド型の犬であつた様に、土地の者は申して居ります。
その二頭の犬は、兎猟の名犬であつたと土地の者が申して居ますが、これの系統が段々鹿兒島付近に廣まつて、鹿兒島のビーグルと云ふ様になつたらしいのであります。
鹿兒島のビーグルに就ては、鹿兒島市内の者、或は田舎の好者も、一般にバセツト・ハウンド型の、耳附きの低いものを賞美した様で、以前鹿兒島で毎年犬の品評會がありまして、その都度澤山ビーグル種が出陳されましたが、殆どバセツト・ハウンド型のものが多かつた様に見受けました。

黒頭巾生「九州系のビーグルに就て」より 昭和15年

 

明治時代に広まったビーグルは小型獣の狩猟に用いられ、薩摩ビーグルの作出にも利用されました。

 

【ウィペット】

帝國ノ犬達-ウィペット
樋口金三郎氏が飼育していたホイペット「グレー」號。明治44年生れ。

 

ウィペット(ホイペット)の来日時期も例によって詳細不明。記録としては、明治生まれのウィペットが撮影されているだけです。
下の詩を読むと、日本のウィペットは昭和になっても希少種のままだった様ですね。

立ち止れば 二頭の狆の涼しげな眼が いとしくも我を凝むる。
雪白のマルテイスの毛に 抱くひとの指のダイアに 燃ゆる入陽よ
そのテリア 曳える博多の姐さんの その襟あしといづれが白き
「まあ可愛い」「ワイヤーもいゝね」「有名なベンスキンの仔よ」「高價だらうな」
日本に未だ四頭しか 居ぬと云ふホイペツト その犬も抱けば頬を舐めにき
吠えくるひ ベンチの柱ぬけむとす グレートデーンよ何を怒るや
芝犬は良し 我が曳けば尾を巻かず 抱けど馴染まず…… そを愛ほしむ

中村榮一「犬展のぞ記」より 昭和10年

 

【グレートデンとマスティフ】

 

帝國ノ犬達-グレートデン

昭和18年の広告より

 

グレートデンは明治・大正・昭和の戦争後期まで人気犬種であり、愛好団体も結成されていました。

来日時期は不明ですが、明治期に渡来したとの証言があります。

上田辰次郎

「昔の大型犬は非常に大きかつた。赤星さんのマスチフなどはつないでおいた自動電話を引き倒すした程力が強く、これは土佐の血が少し混つてゐましたが十七貫以上でした」

三木犬心

「明治何年かわすれたが、その當時人力車に乗つてゐて、頭のさすれるほど大きなグレートデンがゐた」

西村和介

「そう〃、鼻のさきから尾までが六尺餘りあった」

鈴木仙之助

「昔も何でもゐましたよ」

華蔵界能智「私の見た帝國畜犬發達史」より 昭和9年

 


日本犬界が大きく変化した明治時代。
和犬からカメへと交代したことで、大正のペット文化が花開く土壌は整いました。

(続く)

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