是れは餘り他に類例のなきことにて、而も動物愛護の徹底的施設として廣く世間に紹介するの價値あるものと認めたる次第に有之候。
或は既に御承知にも可有之歟(これあるべきか)、當地には岩田民次郎氏なる篤志家あり。獨力養老院を創めて多数無告の老者を救恤撫育すること茲に十數年の久しきに及び候が、この人啻(ただ)に人間の老廃者を憐れむに篤きのみならず、總ての動物の老廃せるものを恵の志、亦甚だ深く、牛馬犬猫は申すに及ばず、猿、羊、鶏、鳩、鼠、鵞、魚鼈の類に至るまでも、其の病み、老ひ、傷つき若しくは虐げられ捨てらるゝを見ては、惻隠の情、寸時も之を看過する能はず。人の之を持ち來るに待つまでもなく、苟くも目に触るゝ所のものは、自ら進んで之を請ひ受けるとか、或は購ひ求めねばすまぬと云ふやうな譯にて、同氏経営の養老院には、別にまた動物の養老院又は救ひ小屋とも称すべき施設が附属せられ居り候次第に有之。
跛せる牛、盲しいたる馬、病める猫、傷ける犬、鳩の巣、鼠の宿、老ひ耄びたる鶏鵞なんどの雑然として其間に餘生を楽めるの態、宛然たる動物極楽土の活圖畫とも可申、真に人をして忍性法師の有りし昔の動物悲護の実景をば現代に寫し出したるの想ひあらしめ申候。
徳孤ならず必ず隣ありとか、茲に又動物愛護に熱心の同志あり。真言宗の僧侶にて名を伊藤嶺随と称す。
大阪府下泉南郡南掃守村念佛寺の住職として檀越の信望も亦甚だ厚し。資性最も慈悲心に富み、殊に牛馬六畜を撫はるの志極めて深く、常に幾十匹となき、而も人の投捨てたる、若しくは遣り場に窮した犬猫の類を快よく餌ひ養ふことを以て法楽とするのみならず、牛馬犬猫を問はず、若し斃死するものありと聞くときは、遠きを厭はずして馳せて、自ら之を埋葬するの任に當る。
動物に對する已にかくの如し、況や人に處するに於てをや、里人の其の徳行に感孚するの深きこと知るべき也。
師偶々岩田氏の美挙を耳にして心動けるの時に際し、更に動物愛護の時論に聴きて大に感奮する所あり。蹶然起つて、斯業に献身するの志を定め、檀信徒の挙つて苦止懇制して措かざるにも拘はらず、終に岩田氏に來り投じ、専念氏を助けて動物愛護の事に當らんことを求む。
岩田氏亦その志に感じて之を快諾し、動物楽園主催の任務を以て之を師に託す。而して師の率ひ來し所の犬族猫族總て十何疋、再び其親める恩主の下に、更に確實なる安住の所を得て嬉々申々たるの光景は、實に錦上花を添ふるものとでも形容可致歟、他に多く見るを得ざるの圖と可申。
動物愛護の真意義はこゝに至つて初めて徹底したりと断言し得られ候義と確信仕り候。
此篤志家とこの好施設と、是非動物愛護家の一訪を希望する所に有之。
小河滋次郎「動物改良の参考資料」より