明治己己二年
香林女轉性慈福霊
十月二十一日
藩知事島津公母夫人嘗有所畜小狆、本武州糀街生世也自従地召育側馴致異他也
然彼狆漸六歳而具日州佐土原日月鍾愛尤篤
焉平日抱襟懐臥衣裾夜則護寝室 凡見異色人雖白昼吠之
曩致鹿府此時亦具乗與須臾不去 我側馴致浴恩為日久矣
明治二年自己初夏老躬漸痺麻鼈躄 医薬無験如睡十月廿一日終歿
我囲鳴乎痛哉
享年十有二也
是以追慕之情乞僧埋葬大池山
嘗聴昔仲尼之畜狆歿 使門人子貢埋之曰 吾聞之弊旧帷不棄為埋馬 弊古蓋不棄為埋犬也
夫人亦慣之託佛子受経馬蓋
十二年間以馴致吾側
故欲使後人建一小碑 以傳無躬而己矣
(訳)
藩知事島津公母夫人、嘗て畜(やしな)ふ所の小狆有り。本武州(武蔵の国)糀街の生れなり。
自ら地に行きて召し、側に育み、馴致すること他に異れり。
然して彼の狆、漸く六歳にして日州佐土原(日向の佐土原)に具し、日月鍾愛すること尤も篤し。
平日は襟懐に抱き、衣裾臥せしめ、夜は則ち寝室に護る。凡そ異色の人に見ゆ、白昼と雖も之に吠ゆ。
曩に鹿府(江戸)に到る。此の時も亦具して與に乗り、須臾(僅かの間)も去らず、我が側に馴致し、恩に浴すること為に日久し。
明治二年自己初夏、老躬(老いた体)漸く痺麻し、鼈躄(足が弱ること)たり。医薬験無く、睡るが如く十月二十一日終に没す。我囲(狆の檻)に鳴けり。痛(いたまし)いかな。
享年十有二なり。
是に追慕の情を以て僧に乞ひ、大池山に埋葬す。
嘗て聴く、昔仲尼(孔子)の畜狆没す。門人子貢をして之を埋めしめて曰く、吾之を聞く、弊旧帷(破れて古くなった帷)棄てざるは、馬を埋めんが為なり。弊古蓋(古くなった馬車の屋根)棄てざるは、犬を埋めんが為なりと(※禮記掲載の、愛馬や愛犬を埋葬する際、その上に帷や屋根を載せて覆いにするという故事)。
夫人も亦之に慣ひ、仏子(仏門の人)に託し、経を受け、馬蓋して埋葬す。
十二年間、以に我側に馴致す。
故に後人(後世の人)をして一小碑を建て、以て無躬(永遠)に傳へしめんと欲するのみ。
香林女轉性慈福霊の碑文。翻訳は、高橋論氏「お犬さま」より
佐土原藩主島津忠徹の夫人、 島津随真院(随姫)の愛犬「福」の墓。福は文久2年(1862年)に江戸で生まれた狆で、明治2年に九州の佐土原(現在の宮崎市佐土原町。妖怪首おいてけの居城があった場所です)で生涯を終えました。
江戸時代の犬の墓碑は、出土品を含めて幾つも確認されています。大部分は特権階級の愛犬のものですが、「犬墳の碑」のような庶民のペット慰霊碑・義犬塚も現存します。
中でも、特権階級や裕福層に愛されたのが狆(ちん)でした。
いわゆる「狭義の日本犬」とは異なる姿の、おそらくはチベットや中国をルーツとする日本古来の愛玩犬。
その狆を筆頭に、我が国で作出された「広義の日本犬」たちがいます。
今回は、国際交流の中で誕生した犬について取り上げます。
眉毛がステキ。
現代においては、「日本犬界のエリア=日本列島」とイメージするのが当たり前。
しかし、近代日本では違いました。あの時代、南樺太、朝鮮半島、台湾、関東州、そして南洋の島々も日本領だったのです。ついでに傀儡国家の満州も誕生し、「日本犬界のエリア」は相当にアヤフヤなものとなっていました。
だからといって、21世紀の現代にカラフト犬(南樺太)や珍島犬(朝鮮半島)や高山犬(台湾)を「アレも広義の日本犬」と主張しても通用しません。
近代日本の犬のブログとしては、どこで線引きしたものやら。勿論、島国視点が基本なんですけどね。
混乱を避けるために、日本犬編では対象範囲を「和犬」に狭めることにしました。
http://ameblo.jp/wa500/theme-10042356010.html
そんな経緯で除外された樺太犬や珍島犬や高山犬は、樺太・朝鮮・台湾編で取り上げています。
http://ameblo.jp/wa500/theme-10073036157.html
同じく除外された「広義の日本犬」である、狆や日本テリアや日本スピッツや土佐闘犬はどうなるのか?
洋犬でもなく和犬でもない彼らは、日本の洋犬史で取り上げるしかないんですかね。
【狆と日本人】
日本の国犬である狆は、古くから愛されてきた品種でした。私も幼稚園の頃(昭和50年代)、隣家の住人が飼っていた狆と遊んだ記憶があります。
しかし最近は、狆の姿を見かけることも少なくなりました。
狆は海外から渡来した犬を源流としますが、その由来はハッキリとしません。奈良時代あたりから、大陸の犬が天皇へ献上されていたとの記録があるだけです。
それらの小型犬は、上流階級の人々から寵愛されるようになりました。
座敷犬として愛された狆ですが、結局のところ詳しい来歴は不明。古い時代に渡来したチベタン・スパニエルなのか、中・近世に持ち込まれたペキニーズなのか、源流もハッキリしません。
この狆と思はれる犬の渡來は、文献では古く一千二三百年前、渤海國或は新羅の貢物の中に、蜀狗或は矮狗と記してありますが、之等はしばらく置き、盛んに輸入されたのはやはり徳川時代と考へるのでありまして、阿蘭陀人之を持ち來るとか、紅毛人より傳はる等と記されて居ります。
この狆と云ふ意味は、小さい犬は皆狆と呼んだものでありまして、古くは小犬と書いてチイサイヌと讀み、それより転じてチイヌ、チヌ、チンと変化致して居ります。
今日の日本テリア等と云ひます様な、短毛の四肢の細いすつきりとして日の丸斑の犬も狆の中の一種。鹿立ちと称へられて居ります。
當時狆に関することは舊幕府時代麹町に住して居つた狆医者の著と云はれる「狆飼育書」にその種類、系統、由來、飼育、蕃殖、治療法等が書かれてありまして、遂には江戸の狆は、渡り即ち輸入ものよりも、長崎・京・大阪のものよりも、その交配によつてはるかに小さく、はるかに釣合のとれた、品良いものを作り上げたと記述してあります。此の狆は主として諸大名に愛育されたものであつて、天明元年酒井雅楽頭が将軍家の使として、上洛のときに、その愛育の狆がどうしても側を離れず、遂に御供して京都まで参つたことが天聴に達し、畜類ながら主をしたふ心あはれなりと六位の位を賜り、當時「喰ひつく犬とは豫て知りながら、みな世の人うらやまんわん〃」と云ふ様な狂歌が残つて居ります。又、福岡の藩主黒田候の著述に、ちぬの考と題し、狆の故事來歴、種類、系統等を詳しく書いたものが残つて居りますが、大名の犬の書は珍しいものであります。
又、私の知人のある考古學者が、先年東京の某寺の過去帳を調べて居りますと、畜女、即ち女性の畜と女と云ふ字のついた戒名が盛んに出るので、不思議に思つて、墓をそつと掘つて見ました所が、狆の骨が出て來たので、畜女の謎がとけたと云ふことを聞きました。
之等は如何に大名、奥方、女房等が狆を愛育したかと云ふことを物語るものでせう。
齋藤弘「ラヂオ犬談の夕べ」より 昭和12年
明治になると品種として固定され、庶民のペットとなった狆。
しかし、ブームが去った大正以降は飼育頭数も減少してしまいました。
昭和9年の東京エリアで、狆の登録数は377頭程度。全国規模ではどうだったのでしょうか?
お姐さんたちと狆みたいな小犬。彩色写真なので、この毛色が正しいかどうかは不明。
戦前の写真でよく見るのが、女性と狆の取り合わせ。花街の女性たちにとって、愛犬は心の慰めでもあったのでしょう。
愛犬・愛猫が死んだ後、動物霊園へ熱心に墓参する人も多かったそうです。
画像は狆ブリーダーであった下川いね子氏と愛犬たち。スプラッツ社製ドッグフードの缶が写っているとおり、食餌にも気を配っていたことが分かりますね。
「舶来品を入手してでも愛犬の健康を保ちたい」という愛犬家心理を理解できない人が、「日本初のドッグフードは戦後に輸入された」とか言い出すワケです。
昭和10年撮影
イラストを描いた下川いね子さんは、長くアメリカで暮らしていました。戦前日本で、日米の狆の架け橋ともなっています。
狆や日本テリアは座敷犬として女性に愛されていたことが分かります。男性の愛好家も多かったのですが、「オッサンと狆」の組み合わせ写真は意外と見つかりません。
やんごとなき宮内省飼養の狆ですが、大正天皇の愛犬なのかどうかは不明。大正2年撮影
狆は外国人にも人気が高く、黒船で来航したペリーも二頭の狆を持帰り、一頭はヴィクトリア女王へ献上しています。明治28年にはイギリスで「ジャパニーズ・チン・クラブ」が発足。フランクフルトの展覧会でも狆が入賞しました。
画像は、昭和14年に来航した米重巡洋艦「アストリア」のケリー・ターナー艦長が夫人へのプレゼントとして購入した狆。2年後に始まった太平洋戦争で、‟テリブル”ターナーは対日戦の指揮をとりました。
【日本テリア】
日本テリアも「江戸時代に渡来したフォックステリアが源流」と言われていますが、詳細は不明。品種として固定化されたのは大正時代になってからです。確かな事実は、昔から国産の小型愛玩犬として人気だったことだけ。
個人的に「鏡餅」と呼んでいる日本テリア。お姐さんがたからモテモテ王国です。
日本テリアも熱烈な愛好家が多く、同好会が幾つも設立されています。
【日本スピッツ】
戦前のスピッツ。人気犬種だった割に、ブリーダーの記録はなかなか見つかりません。
日本スピッツについては、大正時代に原種が来日したという記録がある程度とか。白毛のジャーマン・スピッツあたりを固定して、品種として確立したのでしょう。
日本スピッツとサモエドとの交配に関しても、詳細は不明です。サモエド自体は戦前から愛好団体が結成されるほどの人気でした。人気犬種同士を掛け合わせて……と考えた人がいたのかもしれません。
戦前の南樺太で翻訳家の秦一郎が撮影した、サモエド型カラフト犬。本土の愛犬家も「何で樺太にサモエドがいるんだ?」と驚く程でしたから、知名度はゼロ。日本スピッツへ与えた影響は皆無でしょう。
戦前のサモエド・ブリーダーであった加納さんは、愛好団体も結成しています。
スピッツの輸入は昭和15年で途絶え、以降は国内蕃殖個体のみが流通します。ペット商のカタログで日本スピッツの販売が確認されるのは昭和18年まで。以降は戦況が悪化する中、愛好家が細々と飼育を続ける状態に陥りました。
日本スピッツは、毛皮供出運動や空襲に晒された過酷な戦時下を何とか生き延びました。
画像は戦時下(ペットの毛皮供出は終了していた時期)、空襲の被災地でスピッツと暮らす女性。
このような小型愛玩犬以外に、近代日本では大型の犬も作出されました。
狩猟界や闘犬界では和犬と洋犬が盛んに交配され、より優れた猟犬や闘犬の作出が試みられます。
【土佐闘犬】
四国の在来犬に洋犬を交配して作出された闘犬。
四国では闘犬禁止令の影響もあり、その後は闘犬が盛んな青森・秋田県でも品種改良が続けられました。
闘犬としては、土佐闘犬や土佐ブル・土佐佐テリと呼ばれる犬が作出されています。
「土佐犬」で混同されていた在来の「四国犬」と新種の「土佐闘犬」が区別されるようになったのは、昭和初期のことです。
手当たり次第の交配が重ねられた結果、土佐闘犬が成立していく過程は良く分からなくなってしまいました。
これは秋田犬も同様で、闘犬目的の無軌道な交配で雑化が進んでしまった時期もあります。
白木正光
土佐犬の固定された體型とはどんなですか。
中島凱風
さあ一寸簡単には云へぬが、マスチフ、デンその他新しく新しく外國種をかける必要はなく、現在の土佐犬の缺點を除けばよいと思つてゐます。分類としては大、中、小と分け、大型は二尺一寸以上で十一貫以上、中型は一尺九寸以上で九貫以上、小型は一尺七寸以上で七貫以上とします。土佐犬は雄大な感じを尚ぶので、七貫以下は考へられません。毛色は赤一枚、爪黒、口黒、鼻黒、目黒―で、かういふのが一般にいゝといふからよいのでせう。土佐犬にどういふ血が混じつてゐるかといふ問題は、闘技に目標を置いて内緒で苦心して掛けたので、記録は見當らず、中間の所は判つてゐません。この中間の所は學問的研究に任せたい。
京野兵右衛門
闘技は古いが、現在の土佐犬を闘技犬として使用する様になつたのは明治の初め頃からです。
齋藤弘
嘉永頃に外國種がかかつたと傳へられます。
岡澤常夫
今の體型はどうか、それを一つ。
中島
土佐犬は現實に優秀性が明瞭で、優秀犬と交配する結果、體型は世界的だと思ひます。その精神は勇敢にして戦闘的です。しかし決して無頼漢ではなく、スポーツ精神を有し、真情に溢れてゐます。その體躯は敏捷にして耐久的で、毛色は赤又は赤斑。その魂は大和魂です。他犬との比較は、他犬を知らないので、何とも云へません。
京野
體型から云ふと、マスチフの様なものにあらず、デンにあらずして、その中間と云つたものです。英國のブル・マスチフ、これが日本の土佐犬に類似してゐます。私が初めて土佐の闘技を見た時は、小學一年の頃でしたが、その當時のものはポインターを小さくした様なものでした。興行して歩いてゐたので、大きなものはなく、敏捷、身軽でした。しかし中にはいくらか大砲などいふ太つたものもゐることはゐた様でした。ブルの混じつたらしいものもゐましたが、口はブルが濃厚に出ず、細かつたものです。それらが段々時代が経つにつれて、マスチフの様に太いものが使用される様になりました。マスチフ型です。
これは闘犬に用ひて見た感じはよいが、寝業などに敏捷かどうかは問題でした。現在のは、前にも云ふ通り、マスチフに非ず、デンに非ずと云ふ、その中間で、闘技にも働けるものが選ばれて來ました。
中島
未だ土佐犬は標準體型はないが、既に固定されたと云つてもよく、どうも日本犬の権威者が二人もゐるので云ひにくいが(笑聲)、日本犬より固定されてゐるでせう。
「闘犬を再検討する・土佐犬座談會」より 昭和11年
現代の我々が知る土佐闘犬と、明治初期の姿はどうやら違っていた様ですね。
賭博との関りを警察当局に攻撃され、動物虐待だと愛護団体から非難され、闘犬禁止の鬱憤を路上のドッグファイト(散歩中の犬に喧嘩を吹っ掛けること)で晴らす不届き者は後を絶たず、闘犬家の肩身はどんどん狭くなっていきました。
クリーンな闘犬として再出発したものの、今度は戦争が始まってしまいます。
戦時体制下で闘犬のような娯楽は自粛へ追い込まれ、日本軍も国産の闘犬種など無視してドイツ産の牧羊犬(シェパードね)を配備し、役立たずとなった土佐闘犬は毛皮として供出されてしまいます。
敗戦を迎えた頃、生き残っている土佐闘犬は東北と九州に計20頭ほどでした。
【新日本犬】
大正時代になると、「和犬と洋犬を交配して、外国に見栄えの良い大型日本犬を作出しよう」という日本犬改造論が現れます。日本犬が消滅しつつあった時代、「和犬保護」ではなく「新日本犬作出」へ走ってしまったのです。
新日本犬論の提唱者だったのが、ペット商の田中千禄。闘犬嫌いだった田中さんですから、闘犬界に向けたリップサービスでもありません。
小さい狆より、でかくてカッコイイ国犬が欲しい!程度の願望だったのでしょう。
的外れな国粋主義というか、和洋折衷の犬が果たして日本犬と呼べるのかどうか。
日本犬という素晴らしい宝の価値に気付かず、「欧米に認められたい」という外面だけを気にする日本人の悪い癖が表面化したのでした。
しかし大正12年の関東大震災によって、田中さんを中心とする犬界サロンは崩壊。以降、言論活動ではなくペット販売に専念された様です。
関東犬界が復興した昭和3年から日本犬保存運動がスタートし、「新日本犬論」は立ち消えとなりました。
和犬と洋犬の狭間で生まれた日本の犬たち。
近代日本犬界の国際化を物語る生き証人であり、そこに関わった人々の思惑や努力を知るにつけ、興味深い存在であります。
(次回に続く)