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満洲国の畜犬史・その1 満洲の在来犬たち

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満洲國の展覧會だから、満系の出陳犬も多分にあることであらうと思つてゐたが、それは絶望であつた。
首都に於てさへも日満の社会的提携は却々むづかしいものか、一寸街路に立つて観察した所では日人が満人を軽侮するの悪風は、昔ほど顕著ではないがまだまだ改善を急務とするものがあるのではなからうか。それは軍用犬を通じてでもいゝ、規善の糸口を作るべきだ。

陸軍歩兵大佐今田荘一『新京みやげ話』より  昭和15年

 

「去年中国へ行ったらな、爺ちゃんが満鉄時代に住んでいた家が残っとったぞ」

「へー。満鉄ではどんな仕事してたんスか?あじあ号の運転手?」

「いや、僕は通信の技師だった」

「そういえば、満鉄では警備用にシェパードを飼ってたそうだけど。知ってます?」

「セパード?ラリーの事か?」

「ラリーは15年前に飼ってた犬でしょ。満鉄の話」

「満鉄か。ああ、また満洲へ行きたいなあ」

「満洲はもうありませんよ。当時の写真とか残ってないの?」

「そんなもん、引き揚げの時に全部捨てた。ソ連が攻めてきたからな」

「終戦の時は大変だったみたいですねー」

「ソ連の大砲の音は物凄くてな、目玉が飛び出るかと思った」

「で、満鉄警備犬の話なんd「それから引き揚げ船に乗るまでが大変でな、汽車に飛び乗ったはいいが(以下、3時間分省略)」

元満鉄職員紅殻祖父「満洲むかし話」 より 何かの飲み会にて

 

帝國ノ犬達-満州軍用犬
チチハル駅貨物置場を監視中の満鉄警戒犬ナア号。昭和10年

 

日本畜犬史を調べる上で幸いなのが、外国(進駐軍含む)の介入が極めて少なく、外来犬と在来犬が明確に区分され、各々のルーツを容易に辿れること。巨大な犬界が構築されていたゆえ、戦災を乗り越えた記録も豊富に残っていますしね。

いっぽう、台湾や韓国で犬の歴史を調べようとする人は、ひとつの問題に直面する筈です。ある時期まで歴史を辿ると日本が割り込んできて、そのまま官民ともに犬界の主導権を奪ってしまうのですから。

他所者によって犬界を変革されたコトへの憤りと、それで歴史が断絶したという事実。日本側からロクでもない記録ばかり漁って、あんな酷いことをしていた、こんな悪行を働いていたと非難したくなる気持ちも分かります。

しかし、それで何が得られるのでしょうか?犬への愛も何も無い、薄っぺらで殺伐とした年表が出来上るだけなのに。

……などと思いきや、ワレワレ側の態度も同じく酷いものです。「俺たちが発展させてやった」と統治者気取りのくせに、統治下の犬界に関するデータベースはほぼ皆無。その体たらくで、ナニをどう発展させたか説明できるんですか?

 

日本がチョッカイを出した地域として、他には南樺太と満洲国があります。

特に満洲国では、日本人の手によって意図的に、計画的に、組織的に、国策として独自の犬界が構築されていました。統治下の犬界は「近代日本犬界の地方支部」的扱いに過ぎませんでしたが、満洲国犬界だけは日本犬界の双生児であったのです。


四方を海に囲まれた閉鎖的な島国であった日本。
多様な民族・文化が混在する大陸に、馬賊や抗日勢力や密輸団が跳梁し、国境を挟んでソ連や中国と対峙していた満州国。
それぞれの近代犬界も、国情や地理的条件を反映したものとなりました。

全く似ていない双子ではありますが、「満洲国の犬界史」だけは日本人の手で編纂する義務があるのでしょう。

 

それも、本来はきちんとした研究者が為すべき仕事なんですけどね。

私のようなガリンペイロ型が宝石職人の真似事をしても、このように石コロが並んだショーケースしか拵えられない訳です。ホゲー。

 

犬

康徳6年の広告より、ドイツで生れ、来日後は日本シェパード犬協會と帝国軍用犬協會に所属し、満洲に渡ったけれども満洲軍用犬協會には登録されていないシェパード。

日満犬界の間を、たくさんの犬が行き来していました。

 

昭和6年9月18日、柳条湖で爆破工作を仕掛けた関東軍は軍事行動を開始。満洲全土の奪取を狙い、満洲事變を引き起しました。

国際社会の非難を避けるため、翌年には傀儡国家である「満洲国」が建国されます。大陸での権益確保を狙う日本は、莫大な費用を投じて満洲にインフラを構築しました。
奪ったが故に、奪い返されないための軍事力も増強されます。しかし、余りにも広いエリアを守るには人間だけではとても無理でした。
やがて、施設警備、国境監視、治安維持、入植者支援を目的とした、日本とは全く異なる使役犬達が運用され始めます。

ソ連軍と対峙する関東軍の軍犬、満鉄が配備した鉄道警戒犬(社線)や鉄道警備犬(国線)、鉄路愛護村や入植者に貸与された牧羊犬、満洲国税関の国境監視犬や阿片探知犬、満洲国警察の警察犬。

それらの資源母体・財源確保としての満洲軍用犬協会の賽犬や民間ペット界。

僅か13年で消え去った満洲国には、巨大な畜犬界が存在したのです。

 


島国日本で生れ育った私には、“大陸の広さ”というモノがなかなか実感できません。初めてアメリカや中国を旅した時など、車でいくら走れども途切れない地平線に唖然となった記憶があります。

所詮は日本人、狭い土地に寄り添って暮らしている方が落ち着くのです。


長引く不況と急激な人口増加。更には昭和恐慌の影響で、戦前の日本は都市も農村も疲弊していました。

閉塞感漂う日本から「王道楽土」と謳われた満洲での可能性を求めて移住した人々は数多くいます。
今は故人となった私の祖父も、大連で働いていた兄を頼って渡満した一人でした。南満州鉄道株式会社(満鉄)へ入社した後は、奉天で技師として働きはじめます。
新天地での生活も、ソ連の対日参戦によって終わりを告げました。
満洲崩壊に巻き込まれた祖父は、着の身着のままで故郷へ引き揚げてきます。一歩間違えれば父や私は生まれて来なかった訳ですね。


そんな目に遭いながら、卒寿を前に「もういちど満洲へ行きたい」などと云い出した祖父。「おじいちゃん、満州はもう無いんですよ」という周囲の説得にも耳を貸さず、とうとう中国旅行へ出かけてしまいました。
昔とは風景も変わってしまった筈ですが、受け入れ側の知人が案内してくださったお蔭で、充実した旅になった様です。
若い頃に住んでいた満鉄の社宅がそのまま残っていたとかで、家族の心配や周りの苦労を他所に本人は結構喜んでいました。
めでたしめでたし。

……ではなくて犬の話。
子供の頃は、祖父が懐かしがっている“マンシュウ”とやらが何モノなのか、さっぱり判りませんでした。おそらくは柔らかくて温かい食べ物ではなかろうか?などと想像していたのですが、どうやら国の名前らしいと知ったのはだいぶ後のこと。

幸いにも、図書館へ行けば満洲や満鉄に関する書籍や写真集が沢山並んでいました。

早速借りてきた満鉄の写真集をパラパラ捲っていると「満鉄警戒犬」なるシェパードの写真を発見。何だコレ?

解説では、「満鉄が鉄道施設の警備に使っていた番犬」と書いてあります。
祖父が大型犬ばかり飼っていたのは、この辺に理由があったのでは?そうでなくても、満鉄の犬について何か知っているかもしれません。
などと思って訊ねたのが冒頭に挙げたヨッパライ同士の会話。

アレコレと聞いてみたのですが、結局「僕の職場にセパードなんかいなかった」との返事でした。
「会社が犬を飼っていた事は?」
「知らん」
あら、ソウデスカ。

 

えー、導入部のネタも空振りに終わりましたので、満洲国犬界については次回以降に取り上げていきます。

さて、近代的な犬界が成立し、洋犬が普及する以前の満洲にはどのような犬がいたのでしょうか?よそ者たる日本が持ち込んだ満鉄や関東軍の犬を語る前に、「そもそもの満洲犬界」へ目を向けてみましょう。

 

満洲

 

【さまざまな在来犬たち】

 

狭い日本列島の在来犬だけでも、北海道犬から琉球犬まで各地域のタイプに分化しています。広大な満洲では、更に多様な地域性が見られました。時代によってモンゴル民族、満洲族、漢民族と勢力範囲も変遷し、そのたび彼らの飼う犬も入れ替わります。

これら満蒙犬(満洲犬や蒙古犬の総称)の大部分は、愛玩動物というより家畜扱いでした。夜番や汚物処理などに用いられるほか、死しては皮革や食肉として利用されたのです。

政治的變動と、終始軍事的な災害、匪賊、馬賊の被害を蒙ることに慣らされていたこの蒙古、漢人は、自衛といふことには早くから目覚めさせられ、この爲に番犬として犬が大いに重要視されて、一軒には少くとも二頭、多いところでは十四五頭も飼つてゐます。牧畜をやる関係から多いと見る方もあらうが、決してさうではなく、私には凡てこの自衛の立場から、家犬が飼育されてゐるやうに思はれました。

此地方の家畜は泥土で塗れてあり、遠くより望むとたゞ楊の木が植つてゐるため、人里があるといふことが判る位のもので、夜分などはこの番犬が、外來人の來るのを知つて、まづ一キロ半位の所から吠え立てるので、その吠聲で、村落の近いのを知る譯です。

(中略)

愛玩の目的はあるかといふと、訓練はよく行きとゞいてゐますが、頸輪の如きものは見當らず、犬を扱ふ上において只實用的立場より飼つてゐるとしか思へませんでした。スパニールの類を見たのが北京・天津系の赤毛の狆で、それも僅かしか見ませんでした。

農林省嘱託 岸田久吉『満蒙の犬の話』より 昭和9年

 

残念ながら詳細な調査はされなかった為、現在知りうるのは下記のような分類のみ。

 

満洲犬は体型性能上概して南満地方のものと北満地方のものと區別し、且つ山地帯のものと平地帯のものとし區別して観察することを得。即ち南満平地方面に棲息するものは一般に垂耳にして性鈍重なるも北満山地方面に棲息するものは立耳のもの相當散見せられ、野性味を有し、性概して悍威にして行動敏活警戒性旺盛なるもの多きが如し。殊に東邊道及東部國境山地方面に於ては大型なるものはシエパードに、小型なるものは日本犬に類似する体型と性能を有するものあり。

古來蒙古犬は性勇敢なりと称され、且つ耳立の種類あり。又北方ロシヤより満洲北方地方に在來せりと称せらるる所謂ロシアシエパード(俗称ハルピンシエパード)は体型素野なるも稟性悍威に猛け、警戒心旺盛なるが如し。此の犬種以外にありても一般に北方山地に棲息する九種は野生的本質を保持し、稟性警戒犬に適するもの多きが如し。

関東軍軍犬育成所『満洲在来土犬を軍犬として利用價値の研究』より 昭和14年

 

【狗】

 

明治37年、日露戦争に従軍した兵士たちは、満洲の地で大型犬に遭遇します。

それが「狗(ゴ)」と呼ばれた満蒙犬でした。秋田犬とよく似た犬で、性格は極めて獰猛。人里で暮らすものと、群れで原野を徘徊して死肉を漁るものがいたそうです(実際、私の手許にある史料にも戦死体を漁る満蒙犬の写真が載っています)。

 

狗は生きている人間も遠慮なく襲撃しました。

日露戦争当時から、兵士や従軍記者の被害が記録されています。「野犬くらい銃で追い払えばいいだろう」と思われるかもしれませんが、相手が悪すぎました。

被害者たちの証言をどうぞ。

 

帝國ノ犬達-野犬

沙垞于方面の敵頑強なりしため、我が軍多數の死傷者を出し、其の結果數日間是れを後方に運ぶこと能はず、夜に入れば野犬多く集りて死體を漁り、為めに負傷者の如きは終夜自己の飯盒を鼓いて野犬の近づくを防ぎたるほどなり。

 

處が此野良犬といふ奴は満洲何れの地にも此等野犬は群をなして横行してゐる。敵味方の死屍は常に食物に飢えてゐる彼等に於いて屈強の御馳走である。
否死屍而巳(のみ)ならず時としては我我健全者をも喰はんとする事がある。現に或日の事、私は夜間勤務で二三人と共に隠蔽物に據りながら勤務してゐると、一人の同僚の背中に突然喰付いたものがあると。暗夜といひ不意のことであるから同僚は大いに驚き、銃剣取る間も無く喰い付いた奴をいきなり取つて押へると、何ぞ圖らん其對手は名にし負ふ満洲の野良犬であつたのである。
此方も再度吃驚したが野良犬も大きに驚いて、押へられた手を振放し宙を飛んで何處とも無く逃去つて仕舞つたが、犬の方では我々がじつとして動かぬのを見て、多分死體とでも思つたのでありませう。戰争に出て、敵に殺されないで犬に喰殺さるゝやうな事があつては名誉の戰死所か、それこそホンの犬死にだと一同笑つたことです。

絵と文・戦時畫報より 明治38年

 

帝國ノ犬達-鹵獲
潘家台の鹵獲物資集積所にて、大型犬と戯れる日本兵

明治38年

 

十月三十一日
暁發獨り紅賽山に登りて戰況を遠望す。彼我の砲弾發又發其光景言ふべからず。ノートを収め帰途につく。一里餘にして満洲犬の包囲に遇ふ。大喝すれども去らず、石を投ぐれども逃ず、棒打すれども寸毫も動かず、牙を現はし咆吼しつゝ我に向つて迫る數尺、腰間のピストルに弾を込むるに暇あらず、百計尽き、遂に君子危きに近らずの法を取つて一散に……。

 

野犬

狗の群れと対峙する蘆原記者(自画像)

蘆原緑子特派員『繪畫日誌』より 明治37年

 

蘆原さん、2ヶ月くらい後にまた襲われています。

横井君の宿舎で一杯傾け、さらば御免又來らんと別れて三里の長堤(レール道)途中で日は暮れ、往復六里餘の道に靴下の破れから豆を踏み出し跛足引き〃宿舎を引きつける思ひにて急ぐわれを、何んと見てか不意に襲ふ野犬の群、足許に噛み付く様の恐ろしく、手早く外套投出し腰なる拳銃取るより早く一發放せば、砲に音あつて向ふに手答へなし、しまつたと氣をあせれば次の弾見事三發外れて相手は愈々猛る、ホウ〃の體で逃る姿の見苦しさ、犬なればこそ笑ひもせまじきが、おー恐かつた。

 

帝國ノ犬達-沙河会戦

再度追いかけられる蘆原記者(自画像)

 

狗とのトラブルは満洲事變以降も頻発。野犬群に襲撃された歩哨が発砲し、それを匪賊の夜襲と勘違いした日本軍部隊が全力で応戦し始めたという珍事もありました。

その他の証言を幾つか。

 

丁度其時、一睡もしない疲れた瞳に映つたのは火を咬へた犬である。頻りに火を消さんとして居るのでよく見ると、子供の死體を火葬場から引出して居るのであつた。これは死體であるが、まだ呼吸の通つて居る戦傷兵に襲ひかゝつてものにしようとする犬が居る。某隊兵であるが、前には敵匪を控へ、腹背には恐ろしい野良犬の牙に襲はれ、同君は不幸足の肉を喰ひ切られて戦傷は快癒したが、まだ犬にやられたのが快らんと言つて居た。東邊道の山奥に行くとまだ耳の立つた立派な犬が少しは居る。著者は一頭手に入れて馴して見たがどうしても馴れない。殆んど二週間位馴して見たが遂に失敗して仕舞つた。満人の話によると、此奴は馬賊の襲撃を受けた時、猛然土壁を越へて賊を襲つたそうな。満人部落には大抵一軒に三、四頭の猛犬を飼つて居る。これ等は皆馬賊の奇襲に備へるのだそうである。

元関東軍獨立守備隊軍犬班 藤村高『軍犬と訓練』より 昭和10年

 

満洲の犬について。渡満後先づ目についたは、犬だ。「あつ!!」とびつくりしたのは、體形、毛色とも、愛好シエパードに似てゐる。一頭だけかしら、と思つて明くる日もその明くる日も、観察するが見れば見る程よく似て、その上心臓が強い。たゞ異つてゐるのは、毛がいやに深い。寒さの加減もあるだらう。そして密毛だ。耳がだらりとしてゐるが、中にはライオンの様な耳をしてゐて、目はラン〃と輝いてゐる。まつたく野生犬だ。實に毛色はシエパードそつくり。黒褐色、真黒な尾のくせのないのが居る。
自分が向つて行くと「ヴウー」。変な底力のある声をたてゝヂリ〃後すざりする。そしてバツと身をひるがえして兵舎の外へ、満人の家の彼方にかくれてしまふ。尾はだらりと下げてゐるものもあるが、大概先がまがつてゐる。一度見た犬は、丁度、ダツクスを思はす様な尾にそつくりの奴がゐた。
彼等は何を食糧にしてゐるか。先づ栄養百パーセントの兵食の残飯求めて炊事場に近より、我先にと飯箱に顔をつき込む。

久しぶりに暖いある日、ひまなまゝに研究した。初年兵が食器と残飯を入れた圓筒を持つて忙しさうに捨てゝ行く。それまでは何處に居るのか分らないが、さて二分とたゝぬ間に先づ、一番弱さうな犬が、四周を警戒しつゝ近づく。頭を入れものに差し込んでパクつき始める。食ふ度に、背中の毛がピク〃と動く。そうかうしてゐるうちに物凄い奴がのそり〃と四周を睨みながら近づく。弱い奴が「俺が折角栄養食にありついてるのに野郎來たな」と言ふ様な顔つきで低いうなり声を立てつゝあわてゝ残飯入れに顔、否首全體を入れて、あとはおきまりの喧嘩だ。

満州國三江省依蘭 〇〇部隊〇〇隊 船越輝和 昭和14年

 

関東軍軍犬育成所も満洲犬の軍用化テストを試みていますが、やっぱりというか途中で放棄。「犬というより猫みたいな性格」と評価を下しているのが面白いですね。

 

 

性質鈍重にして一般に無氣力無表情なり。殊に人犬の親和に於ては軍用三犬種(シェパード、ドーベルマン、エアデール)と其長短著しき差異あり。即ち三犬種にありては約十日間の親和を以て概ね訓練に入ることを得るも、満犬にありては二乃至三倍の親和期間を有するも、三犬種に比し其度は猶遠く及ばざるものあり。

満洲犬は土地に馴致するも人に對する馴致親和は著しく不良なり。今回の研究中、訓練の中期以降に在りても紐を脱するときは直ちに犬舎に逃皈り、招呼に應ぜざるもの多し。又犬舎内(一定の野繋場を含む)に在りては近接者に對し咆哮して威嚇的態度を表顕するも、野外に連行したる際、主人を背楯として威張る等の如も動作少し。

満洲土犬は土地及主家(犬舎)に對する守護防衛性を有し、外來者に對し威容を示すも、其警戒領域を離脱するときは全く臆病となり、攻撃氣勢頓挫するもの多し。古來「犬は人附き、猫は家附き」と称せらるるも、此點満洲犬の習性は概して猫族に類似しあり(関東軍軍犬育成所)

 

【細狗】

 

満洲の犬には、サイトハウンド系の細狗(シーゴー)もいました。こちらは満洲犬と蒙古犬のどちらに属するのか、資料によって混乱が見られます。
細狗

蒙古犬 蒙古名ネリン、ノヘイ、訳して細狗といふ。細狗の最も優秀なるものは柳條邊の近くに居り、興安嶺地方に入るとやゝ劣り、興安嶺を西に超ゆれば全く居ない。恐らくは蒙古人古來の家畜ではなくて、その移住以前からこの地方に飼はれてゐたものだと思はれる。遼代の墓から発掘された犬の木塑の如き明かに之を示すものである。
挙動頗る軽快、番犬より狩猟用に使ひ、普通では耳を切る。それは狼に噛りつかれぬ用心である。
満洲風俗寫眞より、細狗の解説。1927年10月撮影

中近世の日本にも南蛮犬や唐犬が輸入されていました。その中には、大陸の犬も相当数混じっていた筈。
下の犬は欧州から来たグレイハウンドなのか、大陸の細狗なのか。

 

犬

江戸時代の図譜より、九州北部に渡来、帰化していた獒犬(ごうけん・「大きな犬」の意)。

 

近代に入ると、細狗を輸入する日本人も現れています。
大原芳夫氏 
蒙古の貴族犬、細狗(シーゴー)の花子さんの管理に手が廻らぬので、一日も早く愛犬家に可愛いがられて幸福に暮らすやうにしたいと、この際彼地から運んだ實費程度のごく低廉の値でお譲りするとのことであるが、この防共花形を引取る篤志家はありませんか。

『人の噂』より 昭和14年

 

例によって関東軍も「蒙古犬」としてテストしていますが、評価は芳しくありません。

 

・体質及抵抗力

蒙古犬は當該地方の氣候風土に對しては能く馴化し体質亦極めて強健なるも、地理的に都市より全く隔離せられありしため、消化器寄生虫及犬族特有なる傳染病等所謂文化の洗禮を受けあらざるを以て、此等病原に對する感受性は案外敏感なるのみならず、一度病原に感染するや其の抵抗力は薄弱なるが如きと考察す。

・体型習性ト性能

蒙古犬は古來蒙古人と共に其の地に土着して番犬に使役せられありしため、監視警戒の本能は相當に保存せられあるも、別紙(附表第四)体格測定の成績に徴すれば、其の体格一般は速力系なるを以て一瞬時の快速を發揮し得べきも、シエパード犬の如く持久力を要求し得るや否や。従て行軍力の點に於て将來の研究を要すべきものなり。

・犬種的観察ト能力

近時蒙古地帯に於ける支那人の移住に伴ひ、支那犬侵入し漸次純蒙古犬は自然雑種化せられんとしつつあり。元來蒙古犬は毛色淡褐を主とし黒色、灰褐色之に次ぎ、顔面骨細長鼻端光り口角深く切れ、歯牙鋭利にして小耳は直立して体躯細長、腹は著しく撒縮し四肢長く、運動軽快稟性悍威に富むを特長とせられあるも、本試験犬の成績に徴すれば、概して稟性に乏しく耳は弛緩し精悍の相を備へざる所より見て、古來の蒙古犬は漸次凡庸化せられつつあるものと推定すると共に、其の能力も亦必ずしも一律に期待し得ざるにあらざるや(関東軍軍犬育成所・昭和14年)

 

 

【内蒙古の犬たち】

 

日本は内蒙古(南モンゴル)も勢力下へ置き、昭和12年には蒙古聯盟自治政府(後に蒙古聯合自治政府へ統合)を発足させます。

この地域に分布していたのが「蒙古犬」。もともと蒙古犬と満洲犬は別種でしたが、交雑化が進んだことで「満蒙犬」などと総称されるようになりました。

この犬を科学的に調査した記録は少なく、旅行記などで語られる程度です。

 

帝國ノ犬達-蒙古犬


帝國ノ犬達-蒙古犬
内モンゴルのゲル(中国語ではパオ。遊牧民の移動式住居)で飼育される蒙古犬。

関谷獣医少佐撮影

 

この蒙古犬を飼い慣らした日本人もいました。日露戦争で後方攪乱任務に従事した軍事探偵・中村三郎がその人です。

明治35年に渡満した軍事探偵たちは、2年後に日露戦争が勃発すると行動を開始。中村少年も、ロシア軍の背後で偵察・諜報・破壊工作を展開します。
戦いの日々を送る中村三郎には、一頭の蒙古犬が同行していました。

軍事探偵と云へば中には非常に派手な仕事のやうに思ふ方もあるかも知れませんが、映畫に出て來る様なものではありません。軍事探偵位凄惨を極めた仕事はない。明治三十六年頃のまだ火蓋の切られない間の軍事探偵の苦心は火蓋を切つた後の苦心よりはるかに大きいものであります。
私は明治三十五年十二月五日……、明治三十五年と云へば日露戦争は夢にも考へて居らない時であります。……その十二月五日に日本を出發しまして、一番先に奉天から汽車で今日は三時間かゝります新民屯に参りまして約三ヵ月、その後コロンバイルに這入つたのであります。その時今申し上げました蒙古犬の生後八ヶ月許りのを私の親友の橋爪君から貰ひ受けて來て、今日から連れて行かうと云ふことになりました。
名前は最初蒙古名があつたのでせうが、この蒙古犬は恰度狛犬のやうに如何にもトボケタ顔で愛嬌があるので、友達の橋爪と『トボケ〃』と呼んで居りましたところ、自分の名が『トボケ』と云ふのだと思つてしまひまして『トボケ』と云つてもすぐとんで來る。
この犬のお蔭で夜の世界に安心して眠ることが出来ました。
犬が居なかったら安心して眠ることは出来ない世界であります。諸君のやうに屋根のあるところではなし。軍事探偵の寝るところは殆ど森の奥か、縁の下、或は倉庫の中……、倉庫の中は上等な方で……、大抵縁の下で(中村三郎)

 

トボの品種については「西蔵蒙古犬」とされていますが、チベタンマスティフのことでしょうか?
トボは軍事探偵を追跡する露探(ロシア軍に雇われた軍事探偵)の待ち伏せを察知したり、病気で落伍した仲間を探し出すなど大活躍。戦時を通じて軍事探偵たちをサポートし続けています。訓練すら受けていなかった犬ですが、中村少年にとってはかけがえのない戦友となりました。

中村さんはトボのことを忘れず、後年になっても人々にその功績を語り聞かせました。

 

かの偉人、中村天風の若き日のエピソードです。

 

帝國ノ犬達-中村天風

昭和11年のイベント告知より、この席でもトボの話をされています。

 

【ハルピン系シェパード】

 

このような在来犬が闊歩していた満洲の地に、大正時代から大量の洋犬が流入し始めました。それが革命から満洲へ逃れてきた白系ロシア人のペット「ハルピン系シェパード」です。
ドイツ租借地の山東省青島へ移入された青島系シェパード、国際都市上海に輸入されるシェパードなど、ドイツから輸出されたシェパードたちは南北複数のルートを辿って東アジアへ到達したのです。
 
このハルピン系こそが、青島系シェパードと共に日満シェパード界の黎明期を支えた存在でした。
しかし現在は、青島系と共に存在自体が黙殺されています。青島系やハルピン系に頼っていた過去を忘れ、まるでドイツ直輸入ルートが日本シェパード界の源流の如く語られているんですよね。挙句、戦後になると「あれは雑種だった」などと黒歴史抹消を画策する始末。
東洋犬界軽視も極まれりで、欧米ばかり有難がっている日本の愛犬家は自分たちのルーツすら辿れないのです。

哈爾濱は全満を通じて最も犬、飼犬の多い都會で、現在犬牌を持ち、従つて畜犬税を拂つてゐる飼犬が一萬數千頭の多數に及んでゐる。

之は白系ロシヤ人が他のヨーロツパ人と同様(或ひはそれ以上に)動物に愛着を持ち、従つて殆んど例外のない迄に大なり小なり、純粋種なり雑種なりを飼育してゐる事が最も大きな要因であらう。又國際色の濃いだけに番犬の必要も他の都會より切實なものがあるのかも知れない。

事實何處に行つても犬のニ三頭を見ない路はなく、あのヨーロツパ風の背の低く、間をすかせた垣根越しに廣い芝生の上を子供達と戯れてゐる犬の姿は、全く内地や、又満洲でも他の都會では見られないもので旅愁をなぐさめて呉れると同時に、内地の多くの犬達の生活と思ひ比べてうらやましく感じた次第であつた。

従つてシエパードの數の多い事も尤もであらう。そしてそれ等シエパードを見る時、ニ三の共通點のある事に気が附く。即ち一般にハルピンシエパードと云はれてゐる一つの型である。

これ等の犬の祖先は多く白系ロシヤ人が欧露からシベリアへ、そして又シベリアから満洲へと逃避して來た、それに従つて來たのか、東支鐵道時代鐵道(※満鉄の前身となった路線です)官吏に伴はれて來たシエパードであるが、所謂ハルピンシエパードとはこの様な血統的な區分よりも、むしろ外貌的な一つの型を云ふのであつて、大體左の様なシエパードに對して俗称されてゐるのである。

一、骨格の構成が繊弱な感じを與へる。即ち口吻細く且つやゝ短く、四肢は細く角度不十分、胸郭部狭く、従つて體幅も狭い。

二、毛色は灰色を基調として褐灰―銀灰が多く、黒―褐色でも鞍部の黒色の部分は極く小さい。被毛は短かいが下層毛は發達してゐる。

三、過剰爪(狼爪)のあるのが目立つが、之は切除されない為めに内地の犬と比較してもこのやうな感じを與へるのかも知れない。

四、耳朶は比較的小さい。

五、眼色は相當明るいものもゐるが、反面暗いのも多く、この點では内地産犬と餘り差はない様である。

六、サイズは體高的に見れば相當大型もゐるが、前述の様に體幅不足の為めに餘り大きな感じはしない。そして一般に體高は小さい。

以上の様であるが、御氣付かも知れないが、所謂「青島シエパード」に酷似してゐて、要は無計畫な蕃殖、無関心な飼育管理の結果に依る一つの退行的現象とも云ふべきもので、特殊な系統的特徴と見る事は出來ない。

これ等シエパードの型を打破して近代的な(よい意味に於て)シエパードに鋳直さうと云ふのが満犬(※満洲軍用犬協会)哈爾濱支部の最大の仕事である。併しこの事業たるや一朝一夕にして成るものでなく、まことに多難な前途が横つてゐると考へてよいであらう。

幸ひ幹事長に熱の人として全満軍犬界と云ふより畜産界に重きを為す秋山次郎氏、之を援ける高桑、太田のコンビ、其他秋山氏の命令一下、市公署の防疫課はたちどころに總動員の態勢をとり得る機構は、この困難な事業を着實に一歩一歩切開きつゝある。

刈田尚志『満洲犬信』より 昭和16年

 

以上、日本が介入する以前から「満洲犬界」というものはあったワケですね。満洲建国以降、これとは全く異質な「満洲国犬界」が構築されてゆくのです。

 

満洲の地を巡り、各国の野望がぶつかり合った時代。日本もその争奪戦に加わったことで、日本犬界と満洲犬界は深い関係を持つことになりました。

 

(次回へ続く)

 


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