昭和9年7月、帝国軍用犬協会が福岡県で開催した軍用犬耐久マラソンは、6頭もの出場犬が熱中症で死亡する事態となりました。
各方面からの非難を浴びたこの事故、当時の資料を読んでいたら目撃者を発見。安全管理も何も考慮しない、精神主義が招いた惨事だったことが分かります。
翌年2月17日に開催された第二回耐久レース。前年の失敗に懲りたか、さすがに夏期レースは回避されました。
日中戦争が始まる前から無用な犠牲を出しといて、「弔ひ合戰」も何もありません。
随分暑くなつて來ました。その後おかはりはありませんでしたか。ちよふど中央の試験がすんだ頃だらうと思ふが、この暑さに試験勉強とは相當弱つた事だらう。
僕は一昨日から帰國してゐる。別にかはつた事もなく、元氣といふよりは生きているのが関の山で、實際今年の夏はやり切れない。
単調な生活と、近所に友のいない淋しさとか、暑さにわをかけて僕を苦しめる。泳がんとして水遠く、遊ばんとして友なく、學ばんとするにはあまり暑く……つて譯さ。ハゝゝゝ。
所でエデイーはあれから元氣かひ?無事懐妊してるさうだが、一般の経過はどうだらうか。この暑さでエデイが口をあけて舌を出してハアハア言ふてゐる聲まで聞えるやうでたまらない。
七月一日に福岡でははぢめてのシエパードマラソンがあつたよ(某協會主催、九州日報社主催)。僕は単に途中見物人の一人だつたのみで、マラソンの距離さへはつきり分らなかつたのは残念な事だが、何しろエライ人氣だつたし又犬も大した疲れ方だつたよ。
自転車ではげましつゝ犬を引張つて行く主人。
身體中水と泥とにまみれながら必死にアスフアルトをけり行く犬。
それを見て僕は一種の涙ぐましい感激に浸らずにはおられなかつた。然し一面に於て、精魂のつきた、も早はらへるだけの努力を主人のためにはらつたゞらう愛犬に、自転車上の主人ははげますのか、叱るのか……。手ひどく鞭を加へ引張りつゞける犬は、己が名前を主人の怒聲として聞く度におびへたやうに又如何にも嘆願するやうに力なく主人の顔を見上げてゐるその瞳の中にうつる、泣き出したいやうな、さみしい影を見ては青筋立て猛り狂ふてる主人が癪にもさはり、馬鹿にも見へる。
實際僕は何ともいへなく憤怒を覚えずにはおれなかつたよ。
犬には解せない人間社會上の名聲と評價のために、犬に必死以上の努力を強要する程人間的な人間には、成程、鞭下に犬を斃しても、敢て人たるを得、勝を博しようと青筋たてるだらうて。
軍犬報國の重大名をかぶつて犬を食ひ物にしようて奴なんだね。
俺や―あんなのが軍犬報國の第一歩なら、軍犬報國大反對だね。軍犬だなんて要するに軍隊並びに其方面の機関に托して養成すればよいんだね。個人は飽く迄趣味として一貫し生活に潤ひを供へ得ればそれでよいと思ふんだが……。又々變な方面に飛火しちやつたね―。いつでもかふだから困るよ、ハハ……。
何しろ癪だからね。いやもう止すよ。
所でね君、先日はね、めづらしく上田君から便りがあつたんだよ。
その中で、エヴイ―(彼はエデイーを上のやうに呼ぶ)の事とベルノ??の事とか、一應の愛犬熱を吹いてから、さて最後にだね。「君同伴にて七月二十日午後八時出帆高知行き汽船に乗船する事の出來る様に神戸驛に來られたし。さすれば高知へ三人で行こうではないか……中略。若し來るなら六月下旬まで小生の宿まで通信ありたし……云々」つて、これやー本當かい?
どうも上田氏の手紙には、時々こんな事がありがちで困るのだが、おい本當の事なのかい。あてになる事なのかい。で、君からは近頃何とも便りがないし、君から一應聞いてからでないとウツカリ乗れないからね。
七月二十日といへばエデイ―がそろそろ分娩しやしないかね。第一そこがあやしい點だよ。本當とあればどうにか都合して行つて見たい氣もするのだが、まあすぐ返事をくれ給へよ。
ぢや今度はこれで失禮しようか。気候が悪いから充分身體に御注意下さい。エデイ―にも宜敷く皆々様にもよろしく御傳へ下さい。
では又。
昭和九年七月六日朝 FH生