生年月日 不明
犬種 赤犬
性別 牝
地域 神奈川県
飼主 正岡蓉氏
ぼくらの生活と一緒に切実な愛憎を経て来た赤犬―チヤ子と云ふ名だが、そのチヤ子は、然るに飼ふこと年餘にして、ぼくらは突如、ある事情から東京へ住むことになり、そのとき、心ならずも小田原へおいてきたまゝにしてしまつた。
凡そ三千世界の愛犬家に鞭打たれても仕方ないほど、それは可哀想な事實であつたが、全く、そのときは、こちらの生活が手ひどくさし迫つてゐたので、近くで御飯ぐらゐはくれる人のあることを、せめてもの良心の申譯にして、ぼくらは東京へ引越してしまつたのである。
雨降り風間―。
が、ぼくらは文字通り雨降り風間に、チヤ子の起臥をよくかんがへた。
かんがへずにはゐられなかつた。
名人圓喬の「おせつ徳三郎」刀屋のくだりで、そこのあるじが「うちにもお前さんのやうな年ごろの道楽息子があつて、勘当したが、風の吹く日や寒い晩には思ひ出しますよ」と云ふ一齣が舊い速記に遺つてゐて、云ひがたなき人情をひしひしとかんじさせるが、ぼくの場合はこつちが叩いたりしたことこそあれ、相手は道楽息子でも何でもない許りか、一箇、怜悧で愛しい小犬が、今や遠隔の海岸街で、ルンペンになつてゐるのだ。
その責任も、さうして全く、こちらにあること無論だ。
いや全く今だから、こんなこともかいてゐられるが、當時次々とおもひ廻せば、ぼくらはくるしくて、すまなくて、しまひには神前へ朝な夕な祈りをするとき「チヤ子にすまないことをしました。神さま、どうぞ、ゆるして下さい」と、まじめにざんげしたほどであつた。
加ふるに相前後して猫を飼ひ、忽ち多大な愛着をおぼえ、何匹もの猫どもを愛せば愛すほど、一としほ、思ひ募るのは、相模の果てにおいてきた遠い日の犬、チヤ子であつた。
さうして、四年の歳月が経つた。心ならずも経つたのである……。
この夏、偶々、妻がおとづれた小田原の地で、チヤ子は、りつぱに成長してゐた。太陽(おひさま)の情、草木の恵み、光る風にも、濡るゝ雨にも、チヤ子は、こよなく主なき足かけ五年を育てて貰つてきてゐたのだらう。
而も、年餘を飼はれたのみの妻の顔を見知つてゐて、怨むどころか驚喜し、乱舞し、あらゆる愛情を示したと云ふのだ。―もう棄てゝおく場合でない。
間もなく、ぼくらは、この犬を鐡道便で我が家へはこぶと、漸く自家の犬として小田原以來、五年ぶりで、始めて、鑑札をうけてやつた。さるにても、その日、この赤犬が、屯所(けいさつしょ)から下げ渡された鑑札を首につけたとき、いくたびか身をすりよせて、「これみよ」と許り、ぼくらに示した複雑な歓喜の表情を、自分は、生涯、忘れ兼ねやう。
チヤ子の生活は、而しその以後平安で、夙くもブル擬ひの黒犬を産み、母子健全―この秋の日に、うら〃と五匹の猫の跳躍にまじつて赤い毛並をかゞやかせてゐる……。
(中略)
それから、おしまひにもう一と言溯つて身邊を云はせてもらふ。
赤犬チヤコと再会すべく、この夏、小田原へいつたワイフは、じつは、そのとき、ぼくと空前のひどい夫婦喧嘩をした揚句、ひとり飛びだしていつたのだ。さうして、それは自分が朝夕の神前に「チヤ子をよく虐めたのを許して下さい」と祈り出してから二た月めだ。
「あれはチヤ子が、わざと喧嘩をさせて、連れ戻しに呼んだのよ」と、だからこのごろ、妻はチヤ子に愛情を示すたび云ふ。
或はそんなことかも知れない。なぜなら、以來―めつきり、商賣繁昌しだしたぼくのところではあるからである。
正岡蓉(後の正岡容)『愛犬ゆうもれすく』より 昭和9年
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チヤ子(正岡容の愛犬・その1)
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