東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より
大正12年7月12日診察
ゲイソンではなくロサンゼルスの誕生日が7月12日
四月以來私は所用あつて呉市に數回往復した。呉は海軍の鎮守府がある丈けに中々活氣に富んだ町である。何時も雨にばかり降りこめられて、用事が済むと這う這うの體で逃げて來るのであるが、五月の初旬久し振で好い暖い天気にぶつかつた。折角だから博覧會でも見たらと勧めらるゝが儘に、僅かな暇を利用して見物することにした。
第一會場の奥の方に本願寺の出張が出來て居るのが目に止まつた。
善男善女が財布の底をはたいたお賽銭の山、流石は偉いものだと感心した。ずつと中の方へ入つて見ると、親鸞聖人の御誕生から入寂に至る迄の場面が、頗る巧妙に現はされて居るので、宗教心に乏しい者でも自ら敬虔の念にうたれざるを得なくなる。
夫等の場面の中に白犬が聖人の徳を慕つて、彌陀の説法を聞いて居るがの如き光景があつた。聖人と犬、詳しく研究して見たら、唯興味あることゝ思つた。
呉には至る處に荷車を牽かした犬が居る。丁度土佐の雑種らしい。是れが中々訓練されて居て忠實に良く主人を助け、一生懸命荷物を引張つて居る。そして主人が車を離れる時は、その下に入つてちやんと看守に勤めて居る。見た處別段立派な犬舎や、営養食も與へられて居る様子も思へない。之れを見た吾々シエパード党、作業犬云々も聊か恥しい様な気がした。
六月になつてからも、二度ばかり往復した。
何時も暇がある様で又ない様な、割合忙しい旅行なので、好きなシエパードの姿さへ實はまだ見て居なかつた。
夫故今度こそはとJSV(社団法人日本シェパード犬協会)會員名簿を用意して來た。之れで見ると當地にも會員が二名ばかり居られる。是非一度お目にかゝつて状況を承はり、且又愛犬家にも御紹介を願ひ度いものあと、態々遠方迄お訪ねしたが生憎行違ひで残念であつた。
呉市にはF氏と云ふ愛犬家がある。看板こそ掲げては居れ営利主義一方ではなく、従つて造詣も中々深く、又親切に病犬の相談相手ともなつて、よく愛犬家のお話をして居られる。こんな人があればこそ呉市のシエパード熱も、急激に盛んになつたことゝ思はれる。
同氏のお話によると、當地のシエパード犬は、数に於ては可なり居るが、少数の優良のものを除く外、殆んど青島系が占めて居るとのことで、甚だ遺憾に思つた。
所謂禮節の前の衣食時代だと思へば又止むを得ないのである。私は暇さへあればF氏のお店に邪魔をした。
其處へは絶へず色々の人が入つて來る。或る時島から一匹の小型犬を連れて來て「此犬にはブルが少し交つて居る様だと近所の人が云ひますが、若しさうだとすれば賣つて仕舞ひ度いと思ひます。一寸見て下さい」と真面目に聞かれた。
そこでF氏もどう答へてよいか、躊躇して居られたので、私はお気の毒だとは思つたが、正直に教へて上げた方が却つて親切ではないかと思つて、「全く此犬にはシエパードが係かつて居る様です。良い買手があるならお賣りなさい」と即直にお答へした。
續いてF氏も同じ様な意味で親切に教へられたので、大変喜んで帰つて行かれた。
こんな話は此處では決して珍らしくないさうで、海軍の人達が青島邊りから安物を連れて來られるのが、転々として居るとの事でさもある可きことゝ思つた。だが併し熱心な愛犬家達によつて、先頃シエパード犬の會が造られ、會員も既に百名を突破したとの事で、必ずや堅實な發展が齎される事と思ふ。
藤田治夫『近況一束』より 昭和10年7月12日