◎イチ 松岡氏愛犬
◎中村 岡部氏愛犬
道具だて萬事形の如く出來上つて、今日の先鋒第一皮切の勝負が此一番である。せい〃面白い場面を見せて、見物に冷汗を握らせて頂きたいと、目玉を皿の様にして土俵を睨んで居ると、軈て両犬身仕度済んだとあつて、頗る元氣良く土俵に現はれた。
ソレイチヨ負けるな、中村シツかり……一二ノ三と手綱を放つと、猛犬一番両犬ワツとばかりに咬み合いたりツ、と、申述べたいのであるが、當て事と何とやらは向ふから見事外れて、イチ公先づクルリと横を向くと、中村殿前足をイチ公の背中にのせて、テク〃歩き出す。
土俵の真中でお馬の稽古でもあるまいに、ナーンだ、つまらねい。
遂に此勝負は八百屋の長さんに終る。
◎三郎 荒井氏愛犬
◎ヂヤツキー 森氏愛犬
◎ブル 大野氏愛犬
◎ブラ 大松氏愛犬
◎松 浅香野氏愛犬
◎久川 渡邊氏愛犬
◎チヨ 松川氏愛犬
◎ヨツ 稲春氏愛犬
◎ハヤテ 西村氏愛犬
◎リウ 塚本氏愛犬
◎牛若 猪飼氏愛犬
◎金時 小林氏愛犬
土俵に出るなり金時盲滅法牛若の背中に齧り付く。牛若途法もない處へ來たと云はぬばかりに首を取り、續いて下から足に行つたが、其儘上から押された。金時上から首を取ると同時に大混戰となり遂に引分け。
◎徳間 猪飼氏愛犬
◎剛 小野氏愛犬
相變らず堂々たる剛の體格、彼の獰猛なる目、先づ土俵を圧する。徳間も相變らずの精悍振りを發揮して之れに向つた。
剛は悠々猿臂を延ばして背を押ひ首を取つて頗る落着て振つた。徳間は下から剛の首を取つて大勢を挽回しやうとしたが、剛の力は遂に徳間を倒した。剛は徳間の首を取つたまゝ土俵の真中へと引摺つた。此處で徳間全身の力を出して立ち上らふとする刹那、剛は徳の耳を取る。
徳間猛然と振り返つて剛の上唇を取る。
剛は間断なく攻勢に出る。徳間相手の力を巧みに應用して應戰頗る務めた。丁々發止の混戰奮闘暫時互に耳と頬の取り合となり、雙方呼吸頗る乱れた。此處で一と息、飽く迄屈せぬ徳間再び飛掛らふとすると、審判から此位にしてはと中止の評議が始まる。
徳間の御主人側からは今十分間遣らせろとの御注文、土俵の中では一上一下火花を散らして居る。此處が特筆すべき大切な處であるが、殘念も殘念、審判員秋山牛郎氏が立ち上つて記者の視線を遮られた爲、お蔭で此記事は尻切れ蜻蛉で斯の如し。
◎ジヤキー 猪飼氏愛犬
◎トラ 小野氏愛犬
間々には此んな勝負……、線香花火の入乱れた様なのも頗る壮観である。早いは〃飛行機のプロペラ―宜しくで、筆も遂に廻り兼ねる有様。御免蒙つて間々を記して見ると、トラ先づ耳を取り、離れると今度は鼻つ先に行き續いて耳に行く。此處でジヤツキー一寸頬を取つたが一と溜りもなく振り放され、次にトラ耳から足と氣用に活動する虎の闘い振り頗る慣れたものなり。
◎アカ 駿河氏愛犬
◎アク 修養社愛犬
秋田同志の戰い、ムク〃同志の戰いなり。泣きが有つたの無いのと言ふ微妙な戰にあらず、キヤン〃の後に泣分れとなつた。
アカ先づアクの耳を取つて一と振り振るとキヤン〃〃とアク公泣いたのか笑つたのか、アカ得たりかしこしと益々振る。
アク痛い〃耳が千切れそふだよ放してお呉れとウン〃引張る。
漸く耳が放れると今度は俺が番だと、アクは首を取つて此野郎と振り付けると、今度はアカ殿痛いよ〃一寸待つてお呉れと聲を出す。遂に痛い〃の泣き分れ、アカ公もアク殿も喧嘩するなら無言でおしよ。
◎ブチ 伊勢和氏愛犬
◎グラン 横森氏愛犬

十二月、彼は何時退院しても良いと言ひ渡された。傷も癒え義眼も素晴らしい出來榮えで、フロードを帯同して颯爽と歩いて居る時全然盲人に見えないと言はれて居る。併し彼は少しも退院を喜んで居ない様に見える。犬を帯同して帰郷し、恩給が下る迄の約一ヶ年間、犬と自分は如何にして食つて行くかと言ふ問題が頭を占領して居るからであつた。
小石川の傷痍軍人失明寮に入つて其の時期を待つのは一番楽な方法であるが、盲導犬が未だに軍の採用する所と成つて居らない爲め、犬を連れて行けないのが、悩みの種である。病院での一日一日は盲導犬によつて、盲人の焦燥感から完全に解放せられ、獨立と自由とを贏ち得た生活であつたと考へて居たがさて退院後犬の援けによつて何んな職業が得られるかといふことに成ると皆目見當が付かないのである。實に不安である。さうかと言つて、失明寮での職業訓練の範囲は到底彼の若き心を滿足させるものではなかつたし、犬を離れて再び以前のあの『焦燥感』に囚はれる事は何にしても堪へられる所ではなかつた。終に彼は餓死するならば愛犬諸共にといふ決意を以て、十二月十四日犬を帯同して退院した。
戦盲軍人誘導犬フロード號と若松幸男一等兵について 昭和16年
平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より
昭和18年12月14日診察