父は死の五日前まで朝夕犬と共に散歩に出るのを唯一のたのしみにして居りましたのに……。ほんの五日ばかりのわづらひで他界しようなどと誰れが想像いたしませう。
平生からどんな事が起つて腹が立つても、愛犬達の顔を見てゐると、一瞬にその不愉快な氣分も忘れてしまふとよく言つて居りましたのに……。
病氣中も何時も犬の事を思つてゐたのか、寝床より起き出でつ、ヒーローやビユーテイーと愛犬の名を呼んではニコ〃とほゝゑんでゐました。犬を可愛いがる時は、人一倍に可愛いがる代り、一寸氣にいらないと、生來が短氣なものですから、大變ひどく叱りつける事がありました。
息をひきとる三時間程前、愛犬ビユテイーが何時になくやかましくなき、隣の病室の方へ行きたがるので、放してやるとよろこんで寝床の所へ行き、さもうれしさうに尾をふつてよろこんでゐるのを見て、「お前達の顔をみていると、一寸も腹が立たないなあ!」と云つて、 沁々ビユーテイーの顔を眺めて居ました。
今にして思へば、それが愛犬との最後の別れだつたのでした。
けれど畜類のかなしさに「お前の御主人はなくなつたんだよ」と話して聞かしたとて、詞の通じる由もなく、どうして居ないのだらう位に思つてゐる事でせう。
告別式の日などたくさんの人が集まつて、何をしてゐるのかしらと不審さうな顔をして、チーン〃と鐘の音と共に讀經が始まると、さも不思議さうにワン〃と咆えたててゐた愛犬たちでした。
祭壇高くつみかさねられた造花や、まはりの花環など彼等は何と感じた事でせう。御通夜の時など何時になくおとなしく、幕の下から祭壇の方を眺めてゐる姿をみるにつけ、何となく可哀さうでなりませんでした。
何時になつたら彼等は父の死を知るのでせう?
葬儀の日は、父が生前特に可愛いがつてゐたビユテイーとヒーローを火葬場までつれてまゐりました。
平生自動車と云へば展覧會へ行けるものとのみ思つてゐる愛犬達も、この日は何んと感じた事でせうか。
こうして父と永久の御別れを告げた事を知らず、何時の日かまた歸るもんと信じてか、玄關に近づく足音にも、モシや歸つて來たのではないかと耳をすましてゐる姿を見るにつけ、畜類のあはれさを感じさせられます。
今日や歸る、明日や歸ると、霜ゆき冬のあしたも、寒夜にひゞくコツコツの靴の音にも、飼主を忘れ得ないその動作を見るにつけ、なほ一層淋しさが蘇つて参り、今更ながら過ぎ去つた思ひ出に胸を打たれる思ひが致します。
(一二・一六)
林隆子『亡き父と愛犬』より 昭和10年