桂玉(けいぎょく)は、嫌ひだつたとも見えませんでしたが、犬をあんまり可愛がつてくれませんでした。魚のあらだの肉だのをやつてくれと渡しましても、どうもやりたがらなくて變だと思つて居りました。
或る日、義夫がビスケツトを兩手にかゝへて、犬を呼んで居りましたら、桂玉は嘆息して申しました。
「アイヤ坊ちやん。犬にお菓子をやるですか。滿洲人はね、人間だつて中々そんなお菓子は食べられないのよ」
私ははつと致しました。胸が痛う御座いました。
この子はそんな事を考へて、魚や肉を犬にやり度くなかつたのでせう。いぢらしい子だと思ひました。
私はふと、アメリカの貴婦人の事を思ひ出しました。
その方は米國大使館づきの武官の夫人で(※日本人道会の動物愛護運動指導者・バーネット大佐夫人のこと)、親日家として有名な方で御座いました。或る日、途上で犬殺しに捕まつた犬を御覧になつて、あんまり可哀想なやり方だ、狂犬病の豫防注射を普及させたがよい、野犬狩りももつと野蠻でない方法があるだらうとおつしやつたさうで、二三日にしてから或る大新聞の投書欄に、犬も可哀想ですが、一匹の狂犬の爲めにどの位の人間が害を受けるか分かりませんよ、と載つて居りました。
私は思はず微笑致しました。どつちも本當だと思ひました。さうして、さんなに繊細な感情を持つ米國婦人達が、何故、血塗れにならなければ興味が薄いと云ふあの拳鬪などを好むのかしら、矛盾なことと思つたので御座いました。
郷里から戻つて來た桂玉は、私に日本人の横暴を訴へました。兵隊さんの宿舎にする爲めに學校が奪られてしまつたと云ふのです。
私は早速その事情を調べて頂きました。
「桂ちやん、あそこは匪賊が多かつたり、又外國と近くて何かといけない事が起り易いので、早く兵隊さんにゐて貰ふ爲に、他に兵隊さんが入れるやうな大きな家がないから仕方なくさうしたんですつて。その代り、もつとよい學校が出來るやうにお金も澤山上げてあるし、土地も探してゐるさうですよ。匪賊があばれたり、外國の兵隊でも入つて來たりしたら、それこそみんな困るでせう。だからしばらくの間、新しい學校が建つまで辛抱するのね」
「アイヤ奥さま。學校の先生誰もそんな事知らないよ。たゞ、日本人が學校奪つた、みんなお勉強出來ないつて、先生も生徒も泣いてるの」
「をかしいのね。ちやんと新しい學校の事もきまつてゐますつてよ。何故知らないのかしら」
「奥様、いつでもさうよ。日本人ね、何も譯を教へないで、かうしろあゝしろつて云ふのよ。何か云ふと撲たれるから、みんな怖がつて、分らなくても黙つて好々(ハオハオ)つて云つてゐるのよ」
桂玉はこゝまで云ふと急に怒りを感じたやうに高調して申しました。
「アイヤ奥さま。日本人ね、滿洲人に何話しても分らないと思つてる。滿洲人だつてよく話してくれゝば何でも分る。學校の先生がそんな没分暁漢(わからずや)ではありません。奥様の云ふやうに話してくれゝばみんな嬉しい〃つて喜びます。滿洲人、日本人のする事何も分りません。何も教へないからです。だから滿洲人思ひます。滿洲の土の下には金や鐵や石炭が澤山です。日本人それが欲しいのでせう。滿洲人の爲めだ、それは嘘でせう。日本人、何の爲めに滿洲に來ましたか。日本人、立派なお家にゐる。みんな金持です。奥さん、お嬢さん、みんな高い〃の着物着てゐます。私達澤山貧乏です。そして學校もとられます」
「桂ちやん、もう暫く見てゐて頂戴。私を信じて頂戴。嘘を云はない事を信じて頂戴。きつとよくなります。何も彼も―」
私は泣いてしまひました。さう云ひ切るにはあまりに未熟な、あまりに意氣地のない私自身のすがたで御座いました。私は限りない寂しさをどうしもようもなかつたので御座います。
泉掬子『桂玉のことば(康徳5年)』より
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泉掬子氏
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