この15年間に田中友輔・浅六(ペンネームは田中千禄)父子の話は何度も取り上げていたのに、肝心の大日本猟犬商会の記事がなかったという。我ながらビックリ。
日本ペット界の黎明期において重要な役割を担った、大日本猟犬商会と日本畜犬商会について解説します。
溺れていたところを愛犬「釜」に救われた田中友輔は、感動のあまり家業のヒゲタ醤油を継がずにペット商をはじめてしまいます。
それが明治30年創業の「大日本猟犬商会」。
まだカメ(洋犬と和犬の交雑犬)が大多数を占めていた明治後期、ポインター、セッター、コッカースパニエルといった猟犬種の普及に貢献します。
明治43年の関東大水害では浸水被害を受けますが、幸いにも犬は無事でした。
大正5年
拾年前洪水のあつたのは丁度八月の八日で、此の八日と云ふ日は毎月惡日だと老人は迷信から稱へて八日にはなるべく家内中一同を外出させぬやうにして居るのだ。
老人の迷信でつまらぬ事だと思つて居る八日の夜に恐ろしい洪水に襲はれたのであつた。
「どゞゞ泥棒です」と怖ろしさうに女中の一人が父の居間へ告げた。
「何、泥棒だ」と父は日頃寝床の傍に置いてあるピストルを手にしながら飛び起きた。
「何處だ」と女中に問ふと、女中はブル〃身を凛はしながら、「御臺所の戸をこぢ開けやうとして居ます」と答へた。
「千禄々々」と父の大きな聲が私の夢を破つた。
「泥棒ださうだ」と父は私に告げた。
「犬が居るのに吠へないぢやーありませんか」と私は不思議に想ひながら父に問ふと
「臺所の戸をこぢ開けて居るんだ」と父が云ふので、私は二連發の獵銃へ彈を込めて臺所へ行つた。
「ミリ〃」と云ふ音をさせて臺所の戸を成程こぢ開けやうとして居る。
「誰だ」と私は破れんばかりの大きな聲を出した。
「ミリ〃」私の聲に關せず、不相變こぢあけやうとして居る。
「先んずれば人を制す」とやら、私は勇氣を出して戸の錠を外して獵銃を片手に戸を開けた。突、入り來れるは賊に非ず犬であつた、愛犬グリーであつた。
「御父さんグリーですよ」と私は少し安心したやうな聲を出して父に告げた。
「何んだ馬鹿らしい」と一同が笑つた。
「あんまり雨が強いのでグリーが寝床が濡れたから、それで臺所へ入らうと思つたのだらう」と私が云はぬ内に臺所の土間へ、それは丁度船の底に穴が開いて水が入るやうに、音もなく水が入つて來るのであつた。
「おや」と叫んで居る内に臺所の土間は水が一杯になつた。
「大水だ〃」と一同はあわてふためいた。それまでにも二、三度水に襲はれた事があるので三尺程の木製の臺も準備されてあつた。
犬を犬舎へ助けに行つた殘りの者は、此の臺の上に畳を乗せて、其上へ箪笥や長持や總ての家財道具を運ぶのであつた。
私の家は其の頃往来から四尺程低く、丁度川の中に家が建てられてあつたやうなもので、助けた犬は向側の水に安全な家や、忠臣蔵で有名な寺坂吉右衛門の祭られてある曹渓寺の厚意で其處へ連れて行つた。
犬を運び出す、家財道具を高い所へ運ぶ、其の三十分間と云ふものは主人も奉公人も夢中だ。臺所の土間に水を見てから三十分間後には床上五寸迄水は増して來て居た。「犬はみんな無事だつたので何よりだ」と父は喜んでニコ〃して居る。女達は床上に水が來たので岡崎と云ふ家へ避難をした。
跡に殘つたのは父と私、夫れから近所から手傳ひに来て呉れた五名の人と、一名の書生とであつた。
「水は刻々と増して來る」「どんなに増したつて三尺の此の木脚の上へは来ないから大丈夫さ」と父が云ふ頃には床上二尺になつて、跡一尺で畳の乗せてある木製の臺も役をせぬわけだ。
「若し三尺以上出たら何から何迄水浸しになるが、外へ持つて出れば此の大雨で何にもならぬ。仕方がないから此の儘にして置くより手段はない」と私は心細い事を云ひ出した。
「大丈夫だよ」と父は口にこそ云つて居るが、喘息が持病の父の顔色は惡い。
「御父さんは岡崎の宅へ御出なさい。私がみんなと殘つて居りますから」と私が云ふ頃は、雨の爲に電線に故障が生じたのであらう。電燈が消へて真の暗になつた。
「提灯だ〃」と父は叫んだ。天井につるしてあつた提灯は無事であつたが、マツチはみんな濡つて居て、提灯に火を點ずる事も出來ない。眞暗の中に血色の惡い人々の顔が水に影じて微に見へる。
「それぢやー俺は岡崎の家に行くが、おまへも跡から来なさい」と父は書生に背負つて貰つて往來に出やうと門を開けると拾疋程の犬が競ふて父と入れ違ひにザブ〃と泳ぎながら入つて來て、眞暗な家の中をクン〃云ひながら右往左往する。
「馬鹿な!」おまへ達こんな所へ来ると死んで仕舞ふよ」と私が云つても犬に通ずるわけがない。寺へ繋いで置いた犬が鎖を離れて帰つて來たのだ。
水は段々と増して床上三尺位になつたから、木製の臺の上の畳へ水が浸潤して來た。犬も此の儘にして置けない。往来へ連れ出さうと云ふので、いやがる犬を一同で無理に往來の方へ連れて行く。
背の低い男などは床の下へ降りれば背が立たないから犬を泳ぎながら往來へ連れ出すのだ。往來も一尺位の深さの川と變つて居る。雨はいつまでも止みそうもない。
「ミシリ〃」と實に凄い物音がしたかと思ふと、「萬歳々々」と云ふ叫び声とザブンと水中へ何か飛込む音が聞へる。
「染物屋の工場が遂々流れました」と手傳ひに来て居た近所の男の一人は云つた。染物屋の主人が工場の屋根に職人と共に上つて居つたが、愈々恐ろしい水の力で工場が流されたから、思はず萬歳と叫んで水中へ飛び込み避難したのであつた。
「萬歳々々」
喜びの時而巳に使はれる萬歳の聲も、此の場合には悲哀が充分に含まれて居た。人間は負け惜しみの強いものだ。
水はいやが上にも増して來て、三枚四枚の畳も見へずなり、箪笥の下の引き出しもそろ〃水が浸つて居る。私は萬歳とは云はぬが、「もう仕方ない」と思つた。
鴨居の釘にかけてある寫眞器の入つた鞄は水面とすれ〃になつた。
「あの寫眞器へ水が届けば水が増すのだ」と私は云つた。こんなに水が増して來ても、今に少しでも減りはせぬか〃と云ふ氣がある。
寫眞器は水の増減を計るべき器械になつた。寫眞器の鞄は半分水で蔽されて仕舞つた。寒くはなるし、私も長く水中に我慢をして居られなくなつて、一同を促して岡崎の家に避難をした。
父や母は私を心配して居て「何故もつとはやく引き揚げて來ないのだ」と小言を云つた。斯様云ふ小言は嬉しく感ずるものだ。
其處の宅で御湯に入つて又私は家の傍へ見廻りに行つた。私の姿を見ると方々から犬が集まつて來て、クン〃云ひながら心配さうな顔つきをして居る。
「今頃はおまへ達の家も染物やの工場も共に流されたらう」と私は犬に向つて云つたが、犬は返事をするわけもない。
やがてピカリ〃と光つたかと思ふと、遠くの方で雷の響がする。そうして雨は小降りになつて來た。私は門の扉へ乗つて家の中を眺めた。
いつの間にか電氣が點じて、家の中の混乱を私に見せて呉れる。
荷物は水の爲に揉みに揉まれて家の中に滿ちて居る。箪笥が傾いて船のやうに浮いて、其の上にポチと云ふテリヤ種の犬がいつの間に入つて居たのか、恐ろしさうに乗つて居る。犬の頭は天井に迄届いて居る程で、水は遠慮なく鴨居近く迄浸したと云ふ事も判つた。
空がほんのりと明るくなつた頃、往來も人通りの出來るやうになつた頃、ポク〃と靴の音がする。
門の扉にボンヤリ家の中を眺めて居る私に靴の人は手帳を出して「皆さんは何處へ御立退になりましたか」と問ふから「岡崎と云ふ家へ参つて居ります」
「あの區會議員の岡崎さんの御宅ですか」と判り切つた事を云つて「犬は何處へ避難させましたか」とは聞いて呉れないのを私は不服に思つた。
「別段御怪我はありませんでしたか」と、未だ警官は其處に居た。
私は門の扉に馬乗りになりながら「犬も無事でした」と態々犬と云ふ事をこちらから云ひ出した。
「成程、御宅には犬が澤山で大変でしたらう。犬は幾匹か流されましたか」と此處ではじめて犬の安否は警官の口から問はれた。
「御かげで一匹も死にませんでした」と妙な處へ私は御かげを付けた。そうして今頃になつて、警官が御役目的に見舞つて呉れたつて何になる。あの騒ぎの最中、一匹の犬でも避難さして呉れたらと云ふ私の不滿は確かにあつた。
「犬屋の犬が全部死んで仕舞つた」と誰云ふとなく傳はつたものだ。
其犬屋の不幸を見物すべく、集るは〃往來は御祭でもあるやうに、そうして其水害の状況を見物する人達は女なら白粉をコテ〃塗つて「犬は何處に死んで居るんですか」と圖々しくも門の扉の上に居る私に問ふたものだ。
「犬ですか。みんな流れて仕舞つたんです」と嘘の事を私は答へた。
「おや可愛想に」と此の女は云つたが、眞實に犬を憐む心から此の言葉が出たのであらうか。
田中千禄「洪水と犬(大正9年)」より
警視庁警察犬バフレー號。まだシェパードは来日前であり、警察犬はコリーやグレートデーンで構成されていました。
大正元年に警視庁が直轄警察犬制度を採用すると、大日本猟犬商会もこれに協力。警察犬バフレー號(ラフコリー)も同会が警察犬係の荻原警部補へ提供したものです。
マスコミが「探偵犬無能」とバッシングする中、田中父子は警察犬擁護論を展開。
大正8年度に直轄警察犬制度が廃止された後、中野の警察犬訓練所は田中氏へ譲渡されました。
※失意の荻原警部補をアドバイザーとして迎え入れたのが日本陸軍歩兵学校だったのですが、大日本猟犬商会が陸軍の軍用犬研究をサポートしたかどうかは不明。
こうして友輔氏の事業は規模を拡大。大正時代には東京畜犬展覧会を開催するなど、東京ペット界の中心となっていきました。
二人の息子のうち、父を反面教師とした長男の淺右衛門は銀行員となりますが、父親譲りの愛犬家だった次男の淺六はペット商を継いでしまいます。
淺六氏は店名を「日本畜犬協会」へ変更し、商売以外のペット普及活動にも没頭しました。
警視庁警察犬係の荻原警部補も同会のメンバーでした。たまに警視庁警察犬の記事が載っていたりします。
やがて淺六氏はペット界での地位を確立。
かねてから夢見ていたドッグショーの開催も計画しますが、膨大な資金が必要だったことで、夫の道楽に心を痛めていた母親から大反対されます。
友輔氏も「展覧会よりは雑誌で犬を宣伝しろ」と息子を説得。こうして発行されたのが『犬の雑誌』でした。
趣味で始めた雑誌ながら、千禄さんの本には各界の愛犬家が続々と寄稿。
まあ、猟犬商ゆえ内容も猟犬が中心なのは御愛嬌でしょう。「洋犬と和犬を交配して、国犬たる大型ポインターを作出しよう!」などという、後の日本犬保存会が聞いたら卒倒しそうな主張も展開していました。
田中さん自身は動物愛護主義者であり、「闘犬の記事も載せてくれ」という読者からの要望に対し「闘犬は大嫌いだから絶対載せない」と公言しております。
編集者の個性を前面に押し出した、ユニークな愛犬雑誌でした。
ペット界の重鎮となった田中千禄に対し、兄の浅右衛門氏はイロイロと節度を促す手紙を書き送っております。
親愛なる弟よ。
「父上は犬が好きであつて、其の商賣に從事して居れば夫れが親孝行だ」と御まへは云ふが、親の膝下に居る而巳が親孝行ではない。
親の膝下に居て、犬の商賣に從事して居たのでは家名再興は難しいと考へた私は其の當時、一獲千金を夢みた事もあつた。
いざ親の膝下を離れ孤立となつて見ると心細い事は一通りではなかつた。丁度獵友であつた實業家の根津嘉一郎氏に會して親の膝下を離れて一攫千金の私の胸を同氏に語つた。
同氏は「君夫れはいけない。人間と云ふのは階段を一段〃と昇つて行かねば成功せぬ。一段から急に六段七段へ飛び上らうとすると怪我をして落ちるに極つて居る」と親切に教へて呉れた。
私は同氏の此の訓戒にはじめて夢から醒めたやうな氣になり、此の教訓に基いて奮励の結果兎に角銀行の支店長にもなり、益々私の目的に向つて突進しつゝあるのです。親に不孝を重ねて居る事を知つて孝養を盡さぬ人間は故殺に非ず謀殺で宜しく死刑に處すべしです。
然し私は良心まで麻痺して居ないつもりです。親不孝は居ないつもりです。廣い世界に唯一人。即ち唯一の弟を持ち東西に離れて生活すると云ふ事は實に忌むべき事です。
一日も早く歸郷して老ひ行く兩親により以上の安心を與へてあげたひ。けれども現在は事情が許さない。
私は或る目的を達し、そうして御兩親を喜ばせたひと今は折角奮鬪中です。
親愛なる弟よ。
おまへが居ればこそ私は安心して親の膝下も離れて居る事も出來るのです。
どうか此の兄の意を諒し、親の膝下に於ける孝養は私の分迄もおまへに負つて貰ひたひものだと切に御頼みする次第であります。
田中浅右衛門『親愛なる弟に答ふ(大正9年)』より
軍需皮革統制をはかる商工省や戦時食糧難を予測した農林省がペット殺処分計画を始動した昭和16年、田中千禄が訴えたペット保護論。
千禄氏のペット店自体は戦後あたりまで経営を続けたものの、『犬の雑誌』は関東大震災の影響で休刊。
そのまま二度と発行されませんでした。
戦時中の国民精神総動員運動でペットの飼育が白眼視されるようになると、千禄氏は「犬を迫害するな」と論陣を張ります。彼の勇気ある行動は誰からも顧みられず、昭和19年の畜犬献納運動へ至りました。
こうして、明治時代からペット商が支え続けた近代日本犬界は崩壊したのです。