彫刻家・藤井浩祐の奥様。
藤井さんと愛犬 昭和9年
省線の日暮里驛を降りて、七面坂を下る人二は耳をすましてゐると、大小とり〃の犬の吠えるのが聴えるであらう。
その声をたよりにハタと足を止めるなら、唐竹を組んだ凝つた塀の中から、愈よ此の声は擴大される。
これなん日本美術院の大御所で、天下の犬通として自他共に許すところの、藤井浩祐氏の家なのである。おまけに此の家の門は犬好きも余程の犬好きでない限りは、うつかり開けられない。
まして犬嫌ひにとつては正しく此の垣一重がくろがねである。
ボルゾイ、コリー、グレーハウンド、テリヤ等々凡そ高級に属する程の犬なら、なんでもござれと云ひ度い程居るは〃。
アトリエに続いて、金網こそ張り繞らしてはあるが、此奴ウサン臭いと見られたら最後、家の中へ逃げ込むまでは吠えられるのだから堪らない。接待のお茶を息もつかずに飲んで、お代りを所望したなんて連中さへある位なんだから……。
そこで、まあ一體どうしてこんなにも犬好きになれたものかと、御主人に敗けない程の奥さんのお諠託をうかゞつて見るなら―。
「この世の中に犬や猫、又あらゆる動物を飼ふといふことが、馬鹿に好きな人があつたり、又馬鹿に嫌ひな人があつたりするといふことは、一體どういふ譯なのでせう。
犬を可愛いがつてゐる人―つまり好きな人、それを嫌ひな人が見た時には、まあどんな氣持なんでせう。
この反對のことも云へる譯ですね。
私は生物が好きになるといふことは、なか〃人から云はれても、容易になれるものではないといふことが、やつと近頃になつてよく解つて来ました。
それには先づ「是非犬を一匹お飼ひなさい、家に出来た仔犬を差上げませう」とお薦めして飼はして見ても、やつぱり嫌ひな人は、なか〃好きにはなれないと見えます。
ですから、いくら此の犬はこう〃だから、こういふお役に立つから―又こんなに可愛らしい犬ですからと申上げて、犬のためにお太鼓をたゝいて見ても、お提灯持ちをして見ましても、嫌ひな人にはどうしても駄目らしいのです。
それでは好きな人にはどうしてなつたかと、静かに目を閉じて考へて見ますと、それは子供の時の環境だと思ひます。
つまりまだ匍つて歩いてゐる子供の時代から、犬に親しむ機會が多かつた―猫などの場合も同じです。
さういふ家庭に育つた人でないと、ほんとうに生物が好きになれないやうです。
こんなことを考へると「お前の家には子供が居ないから、犬を飼ふんだ、―好きなんだ」と或は云はれるかも知れませんが、事實宅には子供が無いんですから、結局は水掛論になりますけれども、假りにあつたとしたら、もつと澤山犬を飼ふかも知れません。
また犬位、子供のおもちやに良いものはないと、自分は思つてゐます。
それは犬の嫌ひな親が子供の為めに犬を飼つてやるといふことなんです。これさへ出来れば、ほんとうにいゝと思ふんですが、やつぱりむづかしいでせうね。
でも子供に動物愛護といふ概念―それ程理屈つぽくなくても、生物を愛する気持、こんなことを幼い時代から、心に植付けて行くといふことで、犬の嫌ひな親達も我慢すればいゝと思ふんですが、如何ですやつぱり駄目でせうか。
これ以外に、生物が好きになつたといふ例を私は未だ會つて知らないのです」
林善次郎・藤井たけを「どうして犬が好きになるか」より 昭和9年
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藤井たけを
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