ブルドッグ愛好団体誕生
中島
大正十四年四月に、福田梁水氏が主宰する大日本ブルドツク倶楽部が創立されました。
そしてその集りには、會費一圓で抽籤によつて一頭にはブルの仔を與へたものです。第一回の時は、素晴しいブルが出ましたが、第二回の時は犬をバスケツトに入れて置き、抽籤して一頭に當つた人がそれを開くと、馬の頭みたいな長い顔のブルが出ました。
これに嫌気が差したか、第三回からは人が集まらなくなつて了ひました。
ブルドツクの単独雑誌が出たのもこの時が最初のやうに記憶してゐます。
伊藤
あの頃はバスターが一番活躍しましたネ。
鶴見
大正十五年三月、バシーとデデーの二頭が加奈陀から輸入されましたが、両方とも真白の優秀犬で、バシーは大津氏、デデーは尾形春吉氏の處へ行き、種牡として大いに貢献しました。
伊藤
同じ頃、浅野氏のホワイト・ウオンダーも有名でした。
鶴見
その年の七月、前川太郎兵衛氏が中心となり、鹿島登善氏、清水亀太郎氏、久保重五郎氏及私共が発起人となつて、東京ブルドツク倶楽部を設立し、東京ブルドツク界の統制を計ることに努めましたが、不幸にして、これも数ケ月で解消しました。
私共の反對派とも云ふべき福田梁水氏の一派、中島基熊氏、富田数雄弁護士、秋山亮特許弁理士、河合栄三郎氏、久松敏定氏等が十一月日本ブルドツク倶楽部を再興し、立派な機関雑誌「ブルドツク」第一號を発行しましたが、これも自然消滅となり、その後は群雄割拠の形で、東京側では福田派、高塚派、久松派、守安派が互に優秀犬の作出に努め、横濱側では伊藤派、大津派、浅野派又互に優秀犬の作出に努力し、京濱相呼応して大いにブルドツク界のために気勢を上げた為め、関東のブルドツク界は著しく発達して、正に第二期のブルドツク全盛期を現出しました。
この頃、関東から関西方面に賣れて行つたものは並物で百圓以上、少し良いものは四、五百圓といふ良い値のものもありました。斯ういふ値段は、當時では到底他の犬種に見られぬ豪勢なものでした。
當時、米國及び加奈陀では、吾國と同様に英國からも盛んに輸入し、チヤンピオン・ブカニア、チヤンピオン・ミラボンサイド・チヤレンジヤー、チヤンピオン・タフネル・ラウンテツト、チヤンピオン・ボルトニア・バリスター、チヤンピオン・ヘフテイパトリシア、チヤンピオン・グロリア・サブリクレツトなど、米國各地の共進會で、盛んに覇を争つたものです。
伊藤
その中、ヘフテイ・パトリシアは、鶴見氏が使者となつて、わざ〃米國まで行き、前川氏のために連れて来ました。
鶴見
吾國のブルドツクの歴史といふと、大體こんなものです。
中島
昭和二年の四月、上野に萬國博覧會が開かれた時、同會場で日本最初で而も最後のブルドツク単獨の共進會が開かれました。これは主に久保氏と私がやつたもので、出陳犬は四十頭あり、廣場の両側にづらりと列べたものです。恐らくこの時がブル流行の絶頂でしたろう。
鶴見
その年の十月一日、中央畜犬協會主催第十一回共進會にも、ブルドツクが三十二頭出陳され、近来にない盛況でした。この時のブルドツクは、単に数が増加したばかりでなく、その質に於ても著しい進歩改良の跡が見えてゐました。
中島
私はホワイト・ナイトといふ、純白の素晴しい奴を、福田氏と共に輸入したが、この犬は途中ポートサイドで斃れてしまひ、それから断然ブルをやめてシエパードに転向しました。
これを殺したのは、全く美人に死なれたやうな気がしましてナ。
なんか、ブルドッグの日本史も波瀾万丈なんですねえ。
次回は昭和のブル史。フレンチブルの話が出て来ないッス。
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ブルドッグとフレンチブルドッグの日本史・その4
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