戦前の日本では、流通・通販・譲渡・転居・旅行などの理由で大量のペットが運ばれていました。
輸送の苦労談や感染症予防の犬箱消毒要請といった記事はこれまでも載せてきましたが、今回は特に神経を遣う仔犬の輸送記録をご紹介します。
文中に出て来る高千穂丸やはるぴん丸は、いずれも戦時中に撃沈された様ですね。「犬好きのボーイさん」は無事だったのでしょうか。
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熊本の野田氏が自家所産の仔犬を臺湾と大連へ各一頭宛送られるので、門司に於ける船への輸送方を依頼して来られた。
Odin v.Stolzenfels ― Delfi vom Siekerfelde 418054 SchHの仔で、生後三か月の牡。
犬ボーイさんから受取つて犬舎に入れると半立ちの耳をヘラヘラさせて頻りに吠へる。呼んでやれば吠へながら尾を振て来て、僕の手をペロペロなめる。可愛い盛りだ。
出帆まで三日間に僕にスツカリ馴染んだので、モーターボートに乗せて沖の高千穂丸へ行つた時には、自分の飼犬を遠方へ遣る時のやうな感じがした。幸ひに高千穂丸の担當ボーイさんは大のS犬フアンだつたから、船中の世話万端を極めて快く引受けてくれたので大変嬉しかつた。
大連航路のハルピン丸も同日同時刻に岸壁出帆だつた。
重ね重ね幸ひな事には、此の船の担當ボーイさんも非常な犬好きである上に、ボーイの取締さんもフアンだつたから、僕の色々の申出を注意深く聴き入つて「大丈夫です、御安心なさい」と氣持のいゝ承諾の返事をしてくれた。
仔犬の輸送に関係する度毎に、僕は常に遺憾を感じ、或一種の強い自責の念に駆られるやうに思ふのは、職業柄にも拘らず、自分が仔犬の輸送に就いて少しの研究も出来てない事である。仔犬の輸送は勿論、彼の耐久テストなどゝは全然異ふのだから、耐久テストの際に行はれるやうな厳密詳細なる疲労度の調査研究は實施も出来ないだらうし、また其の必要もあるまい。
だが凡そ仔犬を輸送するには、此の點は斯くして彼の點は斯くすれば仔犬が安全に目的地に着くと云ふ點だけを的確に知つて置きたい。そしてそれを知るには自分は何人よりも便利を具有して居るのだと思ひながら、行使の仕事に追はれて今日未之れを果してゐない。
船で送る場合には積込みの際に乗組員に給餌其他をよく頼んで置きさへすれば先づ先づ心配はないやうだが、鉄道輸送の場合には必ずしも常にそうとは限らない。これは船と汽車とは種々の點に於て著しい差異があるのだから或程度迄は止むを得ないだろう。
鉄道輸送の場合でも、汽車が朝出發して其の日の中に目的地へ到着する程度の輸送時間ならば殆んど心配は要らないだらう。
だが三十時間以上に亘る場合には注意しないと思はぬ不結果に驚愕する事があるだらう。
實際上蕃殖者が非常なる遠隔の地へ仔犬を輸送する場合は比較的稀のやうだ。けれどもたとへ僅少の場合にして、あたら名犬の仔を輸送のために無惨にいためる事がありとすれば、此の上もない痛恨事だ。
遺憾ながら現在國有鉄道に於ける犬輸送に関する制度施設は充分でない。鉄道職員の犬に関する理解も亦薄い。
僕は職掌柄是等の點に関しての犬の為めに絶へざる努力を續けて居り、今後も更に續けるであらうけれど、厖大なる國有鉄道を、微力なる僕等一人や二人の力で急に之を改変することの難事なることは縷説するまでもないであらう。
そこで吾等仔犬を送る立場にある各人が自衛上差當り是等の缺陥を補はねばならぬ。此の意味に於て僕は先輩の研究や経験家の實験の発表を切望するのである。
参考資料にでもならばと思ひ、僕の取扱の例の若干を下に記すれば
第一例・生後二ヶ月半の牡
1.輸送區間
上野―札幌間
2.輸送時間
二十七時間(現在では約四時間短縮されてゐる。接續驛に於ける連絡車船待合時間を含む。以下同じ)
3.輸送時期
十一月初旬
4.輸送容器
鉄道省の犬箱。前日驛の諒解を得てクレゾールで消毒。箱の底には寝藁若干
5.仔犬の取扱
積込二時間前に常食給與。排便の有無不明(持込前)。函館まで出迎へ(発車後約二十時間経過)。上等の生牛肉約二十匁と牛乳約一合給與。食欲通常。寝藁は大小便のため少々不潔につき新品と取替へ。
6.到着後の状況其他
極めて元気、水を與へたらよく飲む。大小便による體の汚れを拭つてやり、約三十分の後、粥と生牛肉少量を與ふ。食欲旺盛。到着後第一回の便は普通。第二回軽度の軟便。爾来何等の異変なく発育完了。
第二例・生後八十日の牡
1.輸送區間
上野―札幌間
2.輸送時間
二十七時間
3.輸送時期
二月初旬
4.輸送容器
驛の諒解を得て前日箱を湯で洗ひ、特別の消毒をせず。寝藁使用。
5.仔犬の取扱
積込二時間前に常食給與。排便の有無不明(持込前)。輸送に関する連絡上の手違ひから青森驛に空しく十二時間留め置かれたので、青函連絡船中(発車後約二十八時間経過)で牛乳一合、生玉子一個、煮たる牛肉少量給與。寝藁を取替へる。
6.到着後の状況其他
上述の事由により此の仔犬は上野札幌間を三十八時間で輸送されてゐる。大小便による汚れはあつたが元気、食欲共に頗る旺盛。初め数回の食事は粥と生の挽肉少量宛與へて観察したが異変なく、排便も第一回より引續き良好。
第三例・生後八十日餘の牝
1.輸送區間
大阪より北陸線廻り青森経由札幌間
2.輸送時間
三十八時間半
3.輸送時期
十一月中旬
4.輸送容器
新造の専用犬箱。寝藁使用
5.仔犬の取扱
発送人は仔犬に周到なる注意を拂ふ人であつたから、犬箱には寝藁の準備を括りつけて仔犬の玩具用として牛乳の空瓶一本、十六ミリ活動写真用の空枠一個を犬箱に入れてあつた。積込前の給餌時間は不明なるも「遠距離輸送には空腹を可とす」と言つて居られた。積込前に獣医に健康診断せしめ其證明書が添付せられ、且積込直前に仔犬の体重を量つて、到着直後の体重との差を報告すべき要求があつた。途中秋田(積込翌日の正午過ぎ、發驛發車後約十九時間経過)に於て牛乳一合、生玉子二個給與。函館(發驛發車後約二十時間経過)に於て牛肉約三十匁、牛乳一合給與、食欲元気共に頗る旺盛。寝藁を取替へる。
6.到着後の状況其他
到着直後検量したるに、積込直前のそれに比して三百匁減量。食欲元気共に盛んだが下痢あり。翌日、到着後三回目の排便中に成育したる回虫二疋排出せられ、下痢は漸次憎悪の観がある。駆虫剤を投じたいが先づ輸送の疲労及び蹴りの回復を待つことにする。一週間経過、疲労は全く回復したらしいが下痢は一進一退。獣医に相談の上アネー二個投與したら翌日回虫十六疋排出。元気と食欲は愈盛んだが、下痢は漸次悪化の観がある。再び獣医の来診を求めた所、排便検鏡の結果多数の十二指腸虫卵を検出するの報告を受けた時には下痢は血便にまで憎悪してゐた。十二指腸虫は其後獣医によつて駆除された。幸ひに犬は強くて下痢が全く治癒するには到着後三ヶ月以上を要したに拘らず、シエパード犬の標準から見て堂々たる牝犬に成長した。十二指腸虫は何處から持込んで来たか僕には判らない。
第四例・生後八十日餘の牡
1.輸送區間
門司―札幌間(東京驛―上野驛間自動車)
2.輸送時間
四十六時間(門司―東京間及上野―札幌間輸送時間の合計)
3.輸送時期
四月初旬
4.輸送容器
自家専用犬箱。前回使用後熱湯消毒して自宅の物置の中に蔵つてあつたのを掃除して使用。寝藁の類を使用せず。
5.仔犬の取扱
積込三時間前に常食を少しく減量して給與。犬箱に入れる直前に排便せしめ得た。東京驛着(門司發船後約二十時間経過)の時には已に犬箱内に未消化の食餌を吐いた跡があり元気なし。自動車で目黒の友人宅へ運んで約十時間休ませたが、其の間に元気回復。東京着後約一時間半で牛乳一合生牛肉約二十匁給與したるに食欲はあつたが間もなく吐く。其後四時間経過して(上野驛積込前約三時間)牛乳少量與へたるに、喜んで飲んだが間もなく吐く。獣医を招いて葡萄糖の注射を受けたそうだが其の濃度及分量不明。幾分元気は悪いが止むなく上野驛より積込み、其後途中何等の手當を行はず。
6.到着後の状況其他
札幌到着の時は元気極度に衰へてゐて、殆んど立つ事も出来ず食欲亦皆無につき専ら安静を保たしむ。翌日より極めて徐々に元気も食欲も回復したが、到着後七十餘日を経過した今日、まだ完全に健康犬になつてゐない。発育上相當大なる影響を及ぼすのではないかと惧れてゐる。
付記
前年の十二月下旬、生後三か月の牝を本例と全く同一の条件で同一人に輸送したが、何等の故障なく安着した一例がある。
第五例・生後五ヶ月の牡
1.輸送區間
大阪―奉天間(関釜連絡船経由)
2.輸送時間
四十五時間
3.輸送時期
十二月初旬
4.輸送容器
鉄道の犬箱。底には寝藁を使用。其他不明。
5.仔犬の取扱
積込前後の模様通知なきにより不明。下関驛で(大阪發車後十時間餘)牛乳一合、生牛肉百匁給與。元気旺盛。敷藁は小便のために濡れてゐたので之れを取替へ。驛前廣場で緩速度の散歩して排便せしむ。釜山で(大阪發車後十八時間餘経過)生玉子一個牛乳一合給與。
6.到着後の状況其他
詳細不明だが受取人から間もなく安着通知の丁寧な禮状を受けた。
第六例・これはシエパード犬種ではないが、最も乱暴なる仔犬輸送例として最後に加へる。
生後二ヶ月餘のアイヌ犬牡。
1.輸送區間
北海道自宅―門司間
2.輸送時間
四十八時間
3.輸送時期
八月中旬
4.輸送容器
鉄道の犬箱。寝藁使用。其他不明。
5.仔犬の取扱
發送人から發送した旨の電報通知を受けただけで一切不明。青森から北陸線廻り大阪積換へだつたらうと察する。發驛の積込列車は判つたが、北陸線の主要驛、大阪驛等へ發した電信電話の照會は全部徒労で、輸送経路、積込列車は終に不明。推定六十時間以上経過後漸く門司に到着。
6.到着後の状況其他
極度に疲労衰弱、呼べば微かに尾を振るが起つ気力もなく食欲絶無のまゝ到着後二日目の午后、即ち三十三時間経過後斃死。
吉川美男「身邊雑記」より 昭和11年
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仔犬の輸送・戦前編
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