獨立守備隊の軍犬班の現況を申しますと、現在軍犬班に飼はれてゐるシエパードは昨年の春、青島のシエパード愛好者から寄贈された約七十頭の犬と、ハルピンで購入した約八十頭の犬が大部分を占め、その後死んだものもあるので、今春内地第一回の買上げ犬が加つて、現在數百五十頭程になつてゐます。
何しろ彼方では仕事の割合に兵が尠く、手不足で困り切つてゐる上に、常に部隊で使役してゐて、訓練等も思ふやうに行ふことは出來ず、この點は何時も悩みの種となつてゐます。それで彼方で軍用犬が何に一番役立つてゐるかと云ひますと、警戒です。警戒なら多少質のよくないものでも十分やりますし、又今も云ふ通り訓練をみつちり行ふ時間が無いので、いろ〃むづかしいことに使はうとしても使へないのです。
警戒の種類は鐵道線路の巡察、斥候歩哨につけたり、格納庫、停車場、線路分遣所等の夜間の番をさせますが、その他夜のあらゆる勤務に、犬をつけて貰ひたいと云ふのが群の希望で、殊に満洲の第一線に働く人達は、無限の廣野を尠い人數で守つてゐるのですから、どれ丈け犬をつれて居るのが心強いか知れないのです。自然満洲ではさうした條件に最もあてはまる軍用犬を要求するのであります
獨立守備隊一等獣医 湯川忠一『満洲の軍用犬の實情を述べ、内地シエパード界へ衷情を披歴する』より 昭和8年
満州事変以降、多忙極まる抗日ゲリラ対策のため何とか犬をやり繰りしていた関東軍獨立守備隊。早くも限界を迎えつつあった昭和8年、本格的な訓練施設と調達システムの構築が図られます。
関東軍軍犬育成所と満洲軍用犬協會は、こうして発足したのでした。
【軍犬育成所発足】
千葉県の陸軍歩兵学校軍犬育成所と共に、軍用犬研究の中心であったのが「関東軍軍犬育成所(第501部隊)」。日本陸軍で「軍用犬部隊」と呼べる規模のモノは、この2つくらいでしょう。
陸軍歩兵学校の軍用犬研究は大正2年から始まっていましたが(實地研究は大正8年スタート)、長らく日陰の存在でした。日本軍の上層部は、犬の能力など全く評価していなかったのです。
軍犬の活躍が一般に知られるのは、那智・金剛・メリーの戦死が報道された昭和7年になってからのこと。関係者にとっては「苦節20年、ようやく巡ってきたメジャーデビューのチャンス」でした。
陸軍歩兵学校軍犬育成所前にて、ハンドラー候補生(千葉県)
関東軍軍犬育成所の教官と訓練生たち(遼陽)
満洲事變と共に〇〇獨立守備隊に軍犬班を編成して當面の業務を處理したるも、事變の推移と守備隊の實情とに鑑み軍犬の補充育成教育訓練等の廣汎なる業務を徹底せしむるためには守備隊より獨立せしむるを有利と認め、昭和八年十二月二十四日始めて當所を遼陽に開設せらる。次で昭和九年五月十五日編成を改變して〇〇守備隊司令官の隷下に入り今日に至れるも、固有の使命たる軍犬の生産、育成、訓練、補充並に軍犬取扱基幹員の教育に関する事項に就ては直接軍司令官の指揮を受く。
所内業務分担は前期の任務を遂行するため庶務、経理、訓練、育成、衛生の五係となしあるも、目下各部隊軍犬班要員の養成急を告ぐるの實情に鑑み、軍犬取扱基幹員の教育は最も重要なる任務となし、所員を挙げて之を担當しつつあり
関東軍軍犬育成所『満洲に於ける軍犬事情』より 昭和13年
獨立守備隊の軍犬班。起立している将校が貴志大尉、列手前が宍戸軍曹。昭和7年
関東軍軍犬育成所は、もちろん奉天獨立守備隊の軍用犬班が源流となっています。その功労者といえるのが、同守備隊の貴志重光大尉でした。
昭和6年の板倉至大尉と那智・金剛・メリーの戦死を、後任の貴志大尉(板倉大尉と同じ軍犬の専門家)は軍犬配備拡大に利用します。
昭和7年5月以降、貴志大尉は獨立守備各大隊(当時は6個大隊)に軍犬150頭を分配したのをはじめ、満洲建国後も抗日ゲリラ討伐作戦に軍犬班を投入。実戦経験を積ませる一方で内地メディアには那智・金剛の武勇伝を発表しまくるなど、宣伝活動にも積極的でした。
その行過ぎた宣伝が軍犬への誤解と過度な期待を生み、現実との齟齬をきたすようになってしまいます。犬取扱兵も「犬を連れた歩兵」に過ぎず、ハンドラーとしての専門訓練はなされていませんでした。
民間犬界との窓口や犬の調達システムも確立されておらず、遂にはとんでもないトラブルへと発展してしまいます。
調達窓口を持たない関東軍では、内地の帝国軍用犬協會に軍犬の購買を委託しました。しかしこれが大失敗。歩兵学校軍用犬研究班まで動員したにも拘らず、畜犬商から不適格犬ばかりを掴まされてしまったのです。
獨立守備隊は、到着した購買犬を受領するため駅へと向かいました。すると、ケージの中からは不適格犬がゾロゾロと現れます。
湯川獣医らが悲惨な状態の犬たちに囲まれて呆然と立ちつくしているところに司令官が訪れて、ひとわたり見まわしてから「湯川、セパードはどこにいるのか」とたずねた。
今川勲著『犬の現代史』より
大失敗に終わった昭和8年3月の第一回軍犬購買。第二回からは湯川獣医が立ち会い、血統などを厳しく審査するよう改められました。
激怒した関東軍関係者が各メディア宛に内部告発したことで、この「セパードはどこだ?」事件は表沙汰となります。
満洲獨立守備隊司令部軍犬班の名で「最近の補充犬から見たる内地軍用犬界の展望」なるパンフレツトがごく最近に関係各方面に配布されたが、それにはこの春行はれた買上げ犬に對する不満が明に表示されて居り、軍犬報國の聲は耳にたこが出來る程聞かされてゐるけれど、内地シエパード飼育者には、さうした観念は空無ではないかと極論されてゐる。
その大意を掲げると、種犬廿頭、基礎犬十頭を買上げたのであるが、實際の買上げ犬は現在守備隊で飼育するものより遥かに劣るものが多く、その血統の如きも僅かに一頭のみ判つてゐるに過ぎない。體型も中にはポインターの雑種かと思はれるやうなものもあつた。
これを要するに内地軍用犬界に軍犬報國の念希薄なためか、飼育を誤つてゐるか、或は偏性的な發達をなしてゐるか、畜犬商が悪いためではないかとあり、内地シエパード界をして殆んど顔色なからしめてゐる。内地と守備隊とではシエパード界の現状に對する理解の相違もあるであらうから、一概に云ふわけにもゆくまいが、しかし軍犬報國をモツトーとする内地のシエパード飼育者もこれに目覚め、この次の買上げには守備隊のホク〃喜ぶやうな優秀犬を競つて提供するやうにしたいものである。
匿名者『守備隊軍犬班から内地シエパード界へ』より 昭和8年
関東軍の第二回軍犬購買会。改善された購買参加資格に注目。
第二回軍犬購買會に立ち会う湯川獣医。昭和8年11月
今度こそ大丈夫!と思ったのも束の間、満洲に到着した犬は次々と病死してしまいました。
先般関東軍軍犬育成所新設に伴ひ種犬として、東京、大阪、神戸方面よりシエパード種十四頭を購入し、無事遼陽軍犬育成所に到着せるも、其の後一ヶ月を経過せずしてカタール性肺炎二頭(シエレー、フリツツ)、心臓麻痺一頭(カツピ)の斃死を出し、尚カタール性肺炎及胃腸カタールの爲入舎中のもの三頭ある等、輸送後成績思はしからざるものあり。斯の如き状況に於ては真に軍犬将來の爲憂慮に堪えざる所なり。
抑々今回内地種犬購買の状況は目下軍犬熱興隆の絶頂に在り、従つて集合犬の資格も十分ならず、殊に牝犬の集合尠く資格著しく不良にして、且つ一般に高價なりし関係上、豫想通りの種犬を購入し得ざりしとの事なりしも、一頭平均價格三五〇圓(最高六〇〇圓、最低一八〇圓)にして、入所當時に於ける一頭平均體重二六、五三粁、體高六三、二五糎、體長六五、四八糎、胸囲六七、二九糎にして、一般に細格骨量に乏しく、且つ肢勢不良なるの謗りは免れ難く、余等の豫想に返し種犬としての資格に乏しかりしを遺憾とせり。
蓋し軍犬界の寵兒として流行犬として徒らに仔犬の生産に汲々たるの現況に於ては亦、己を得ざる事と信ず。東奔西走して購買せられたる購買官の努力に對し深甚なる感謝の意を表すると同時に、當所最初の種犬として、而も向寒の期に輸送せられたる、この珍客を如何にして気候風土に馴化せしむべきかに関し所員一同最善の努力を拂へしにも拘はらず、入所後未だ一ヶ月を経過せずして相次で三頭の斃死を出せり。洵に脾肉の嘆に絶えざる所なり。
是れ果して飼育の失宜にありや、氣候風土に在りや、将又犬に在りや、因て來る死因を考究し、犬界諸賢の考慮を煩し、以て将來軍用犬が真の作業犬として改善増殖發達せん事を切望する次第なり。特に将來戰を顧慮せば我が國軍犬の活舞臺は満蒙の地に於て求め難きを以て、克く此の地に活躍し得る真の實用犬を要求するものにして、徒らに流行を追ひ毛色の繊美を好み、容貌優美を望み仔犬の生産に汲々とし、資質の改善淘汰を缺くが如き観念に基く愛犬家は吾人の欲せざる所なり
関東軍軍犬育成所 川澄愛『非常時日本の愛犬家に告ぐ』より 昭和9年
……この川澄愛さんって誰?川並密大尉(階級は当時)のペンネームかな?
発足したばかりの関東軍軍犬育成所では、斯様にイロイロな苦労があったのでしょう。
関東軍軍犬育成所での犯人護送訓練
貴志大尉や湯川獣医個人で成し得ることには限界があります。軍犬やハンドラーの活用には、専門の教育訓練施設が必要でした。調達価格高騰を招く投機的なシェパード繁殖も、帝国軍用犬協会のような調達窓口の設置で抑制する必要がありました。
関東軍で現在飼育してゐる軍用犬シエパードは、僅かに獨立守備隊に約百五十頭ゐる丈けです。これを各大隊に二十頭乃至二十四、五頭づゝ配属し、必要に應じて使用してゐますが、この位の數では到底現在の要求に應ずることが出來ません。それに蕃殖と云ふ方面が全然考慮されてゐないので、今度遼陽に関東軍軍犬育成所が新設され、犬舎も新築なつて、今年度約三十頭の種犬を収容することになりました。その種犬を購入の目的で内地へ帰り、既に東京及び阪神で、かねて陸軍省及び帝国軍用犬協會の斡旋により募集された候補犬の中から、適當と信ずるものを選抜したのでありますが、内地に帰つて驚いたことは、餘りにシエパード熱が高く、シエパード市價の高騰してゐること、及びシエパードが引つ張り凧の有様で、手離さうと云ふ人の尠いことであります。しかも軍部に於ては、一定の豫算のもとに行ふのですから、市價が高いからと云つて、民間のやうにおいそれと購入する譯にはゆきません。その結果、折角あちらで希望してゐたやうな優秀なる種犬は、容易に入手されないのではないかと、それが目下の頭痛の種です。そこで一部では今すぐ三十頭とは云はず、追々に補充して行つたらどうかとの説もありますが、関東軍としては明日の戰争に備へると云ふよりも、今日の必要に應じたいのであつて、出來れば一日も早く完備して、有終の美を納めたいと思つて居ます
獨立守備隊一等獣医 湯川忠一『満洲の軍用犬の實情を述べ、内地シエパード界へ衷情を披歴する』より 昭和8年
関東軍軍犬育成所の正門
歩兵学校および関東軍の軍犬育成所が正式承認されたのは、昭和8年8月のこと。関東軍の場合、遼陽の中古物件(もとロシア軍旅団司令部)を貴志大尉と宍戸軍曹が見付け、そこへ軍犬兵の教育施設を移転したのが始まりです。当初は予算もなく、犬用の暖房施設は病犬舎のみで職員もペチカで暖を取っていたとか。なかなかのスパルタ施設だったのですね。
分娩犬舎(関東軍軍犬育成所)
成犬舎の一部(関東軍軍犬育成所)
同所軍犬診療所
同所軍犬研究室
時を同じくして、満洲軍用犬界の連携もはかられました。満鉄では昭和9年2月24日に社団法人満洲軍用犬協会(MK)の発会式と関東軍軍用犬訓練所の開所式を遼陽偕行社で開催。軍犬育成所長とMK専務理事には貴志少佐(昇進)が就任しています。
育成所とMKとKVはドイツ留学中の若松獣医へ委託し、種犬50頭を購入(獨逸シェパード犬協會ではなく、伯林シェパード協會が窓口)。協同での繁殖活動に着手します。各支部に対しては、警備犬普及活動や訓練所設立に関する助成金支援も積極的に展開されました。
物品監守訓練(関東軍軍犬育成所)
樹木登攀訓練(関東軍軍犬育成所)
【調達窓口の確立へ】
満洲軍用犬協会の発足により、内地だけではなく満洲国、朝鮮、青島方面での軍犬調達も活発化します。
遼陽関東軍々犬育成所では、去る一月種犬を民間より買上げることになり、一般より募集した處、大連より十三頭、安東より六頭、遼陽より三頭、合計二十二頭の應募があつたので、厳重審査の結果、大連より三頭、遼陽より一頭、安東より二頭、合計六頭の牡犬を買上げた。尚、價格は最高五百圓、最低二百圓であつた
満洲軍用犬協会『満洲で軍犬買上げ』より 昭和11年
行軍休止中の関東軍軍犬育成所
関東軍より十一月二十日付朝鮮軍司令部へ部隊犬購買に関する通牒を受けたる故に、軍獣医部は軍用犬協會朝鮮支部へ優良提供方指達あり。當支部では急遽全會員宛通報、左記条項で軍犬購買會は十二月六七日両日に渡り京城訓練所で實施された。
要項
一、購買頭數 約三十頭
二、年齢 満一ヶ年乃至二年以内
三、性別 牝、牡何レニテモ可
四、購買期日及検査開始時刻 昭和十一年十二月六、七日午前十時ヨリ
五、購買地及検査場 京城訓練所(軍司令部前)
六、犬種 軍用適種犬
七、血統書ヲ有スモノハ検査當日検査官ニ提出スル事
八、購買候補犬名簿ヲ作製、十二月三十日迄軍獣医部ヘ到着スル様ニスル事
當日京城訓練所には関東軍軍犬育成所より本間一等獣医、大西属が購買官として來所あり。出場の購買犬五十二頭を六日午前十時より逐次健康状態、歩様、體格、性能と流石に周密なる検査は行はれ、厳選の結果牝牡計十六頭を選出し、意義ある購買會を翌七日午後二時を以て終了、同七時四十分發の列車で華々敷く関東軍育成所へ向つた。
國防第一線に活躍せる彼れ等無言の勇士として選出された栄ある飼養者には全員、驛に或る者は全家族が恰も愛児の出征見送りかの様に、或る者は最後の生別れにと水又はパン等与へるなど如何にも惜別の情禁じ得なかつた向きもあり、傍で見る人をして感激せしめる所があつた。
「シツカリ御國の為めに働いてくれよ」と声を震はし帝國軍用犬萬歳の聲を後に彼れ等は遼陽さして出發した。彼れ軍犬よ、頑張れ、幸多かれと祈らざるを得ぬものがあつた
昭和12年
満洲国だけではなく、内モンゴル方面へ配備する警備犬の購買もおこなわれていました。
【対ソ戦と軍犬】
関東軍軍犬育成所が想定していた敵はソ連でした。張鼓峰事件では夜襲部隊がソ連歩哨犬の警戒網に引っかかり、大量の警備犬を運用していたソ連国境警備隊も、平時ですら越境偵察や亡命者の支援にとって大きな脅威であったのです。
東部国境の部隊に軍犬巡回教育を施した関東軍軍犬育成所に対して、国境守備隊からは「ソ連軍用犬への対抗手段が欲しい」という訴えが相次ぎました。
そこで開発されたのが、敵軍用犬の嗅覚を妨害する「対犬材」。
結果、関東軍はピーフタ(北洋トドマツ)の樹液を利用した消臭剤、登戸研究所は誘惑剤や臭気攪乱剤の製造へとこぎつけました。
ピーフタ剤の研究は、日中戦争勃発の前年まで満洲に展開していた第16師団により進められています。
ピーフタの樹液を用いた実験。昭和12年
軍犬の嗅覚力防避法に就て
野砲兵第二十二聯隊 陸軍獣医少佐 立原一六
緒言
先年白系露人の一族八名は新興満州國に安住の地を求めんとし、密かに蘇満國境通過を試みたるもG・P・U(ソ連国家政治保安部・KGBの前身)の軍犬追及に屢々防害せられ、目的を達し得ず。
遂に窮余の結果一種の植物の樹葉を使用し、巧に人體臭を暗まし、完全に通過し得たりと謂ふ情報を聴取せり。
余は朝鮮に在職中なりしを以て該情報を深刻に調査研究し、前記植物を取寄せ植物学的研究を行ふと共に、朝鮮陸軍倉庫化学實験室に樹葉の分析を依頼し、一種 の精製油を得、更に樹葉と精製油との軍犬に對する使用實験を行ひ、以て防避の効果を確めたるを以て以下参考の為、其の概要を記述せん。
一、蘇領内に行はるゝ獣類嗅覚簡易防避法
蘇領沿海州地方にありては狩猟者の足跡臭を獣類に発覚せられ易きを以て、此足跡並に人體臭を簡易に防避せんが為、往時より一種の常緑樹ピーフタの葉を使用し、目的を達しつゝありといふ。
二、蘇満國境脱避に応用せるピーフタの効果
蘇満國境に於ける蘇聯國の警戒にG・P・U(警戒兵)の配置網眼の如く、各屯所には訓練せる多数の軍犬を配置し、巡邏に當りては多数の軍犬を携行するを常とす。従つて之を密かに脱避越境せんとせば容易の業に非ざるなり。
先年サマルカ半島(蘇領沿海州家にして樺太南端西岸付近居住)白系露人一家族八名は當時蘇聯官憲の圧迫に堪へ兼ね、新興満州國に安住の地を求めんが為、浦塩付近に至り満領内に逃れんとせるも、GPUの警戒厳重にして許さず。
茲に於て窮余の一策として予て猟師の慣用しありと云ふピーフタの葉を背中脇下に入れ温め、以て一種の香気を発散せしめ、身體殊に足及其所持品等を拭掃し、 固有の人體臭を暗まし、途中屡々軍犬の追跡に遭遇せるも遂に追及発覚を免れ、國境線山中数ケ所に露営の上数日にして完全に越境し、満領内東興鎮(土門子東 方約四百粁)憲兵分駐所に届出たり。
而して該露人の言によれば前記要領によるピーフタの一回拭掃に依る防嗅有効時間は約三十分にして、時間の経過に伴ひ拭掃を反復するを要すと謂ふ。
関東軍軍犬育成所の歩哨訓練。
評価は下記のようなものですが、実際は効果がなかったそうです。
(1)軍犬に発見又は追及せらるゝを防避せんが為に、ピーフタ類以外人體臭を長く又は完全に消滅せしむべき薬物又は調剤による試験研究を必要と思考す。
(2)犬の嗅神経を麻痺せしむべき薬物又は調剤の研究を必要とす。足跡に對し犬の嗅覚麻痺薬を或一定距離に點滴し置かば、嗅神経麻痺の為足跡の判定を失はすことを得べし。
(3)犬の嫌忌すべき薬物又は調剤の研究を必要とす。足跡に對し犬の著しく嫌忌すべき薬物調合により發見追及を防避するの工夫研究を必要とす。殊に嫌忌薬をアンプール入となさば、第一線部隊に於ては其携行を便とせらるゝならん。
(4)犬の嗜好すべき香臭により足跡を誤導せしむべき芳香臭や薬物調合又は発情中の牝犬尿等により、人體又は足跡を他へ誤導せしむる如く創意工夫の研究を必要と思考す。
軍犬基幹要員教育風景(関東軍軍犬育成所)
同所の訓練風景
対ソ戦については、化学兵器防護の研究も盛んでした。
関東軍の生物化学戦部隊といえば、細菌戦の関東軍防疫給水部(731部隊)、化学戦の関東軍化学部(561部隊)、軍用動物を対象とした関東軍軍馬防疫廠(100部隊)が有名ですね。
第100部隊第2部(研究)要員の回顧録を読むと、日本から続々と到着する軍馬の検疫指導、満洲各地で頻発する家畜伝染病の封じ込め作業や地元畜産農家への予防接種巡回に大忙し。ソ連の畜産界に獣疫を広め、農畜産、食品、皮革、衣料、流通、工業、軍事分野などへ経済的打撃を与える細菌戦など夢のまた夢でした。
但し、第1部(防疫任務)、第3部(家畜病毒菌培養)、第4部(機材担当)といったセクションについては該書でも触れられていないんですよね。
これら秘匿性の高い部署について、実態は謎に包まれています。
そもそも、第100部隊に犬を絡めて語るべきなんですかね?
戦史において「イヌに対する細菌戦」なんてのも聞いたことがありませんし、例えば敵国に狂犬病を蔓延させようにも既にパスツール式豫防注射が普及していましたから(そもそも、どうやってソ連側へ感染犬を送り込むのか)。
犬の感染症で敵国に経済的打撃を与えようとしても、せいぜい行政と愛犬家とペット業界が困る位ですか。
関東軍としては、対犬材開発という現実路線がせいぜいでした。100部隊に関しても、犬は実験動物程度の関わりだったのでしょう。
軍犬の総本山たる関東軍軍犬育成所でも、軍犬の健康管理上ジステンパーやフィラリアの研究が最優先でした。また、対化学戦における軍犬防護研究にも熱心だった様です。強大なソ連化学戦部隊と対峙する関東軍にとっては、こちらの方が大問題ですからね。
育成所が化学戦訓練を実施していた記録もあります。
雪原で化学戦訓練中の関東軍。ソ連軍の化学兵器攻撃を想定し、軍犬もガスマスクを装着しています。
場所・部隊名などは非公開 昭和11年
これら化学戦防護装備は満ソ国境や中国戦線に大規模投入……された訳ではなく、満洲の地で行き詰っていました。
一連の冬期化学戦研究の結果、昭和14年までに問題点が発覚したのです。
「昭和十四年度冬季研究演習記事」より抜粋してみましょう。
ご覧の通り、なかなかの惨状です。
・極寒の満洲において、防寒着と防寒手袋でモコモコになった兵士が犬に防毒具を装着しようとした場合、平均6分半かかる。
・しかもガスマスクや防毒脚絆のサイズが小さ過ぎて、犬の体にフィットしない(要するに不適格品)。
つまり、ソ連軍が毒ガス攻撃を仕掛けてきた場合、満ソ国境の軍犬は防禦すらできずに壊滅するワケです。
この問題が改善されたのかどうかは不明。当時の軍犬兵教育マニュアルに「この犬用防毒面は試作品で、前線には支給されない」という書き込みを見つけた時は暗澹たる気持ちになりました。
化学戦訓練中の関東軍伝令犬。マスクで嗅覚を阻害されるため、視覚頼りの短距離傳令しかできませんでした。
ドイツ式を手本とし、伝令犬を重視していた千葉県の歩兵学校軍犬育成所と違い、関東軍軍犬育成所は戦例を採り入れて警戒犬を重視した訓練方針をとっていました。
昭和13年頃からは地雷探知犬の研究や満蒙犬軍用化テスト、犬車(兵員運搬車)開発などの変った試みにも取り組んでいます。
「地雷探知犬はベトナム戦争で登場した」などと書いている書籍もありますが、日本軍の地雷探知犬が実戦配備されたのは昭和16年前後のこと。
我が国の軍用犬研究は、現代人が想像する以上に発展していました。
鉄道沿線で爆発物捜索訓練中の関東軍地雷探知犬
歩校と遼陽の軍犬育成所には、多大な労力と費用が投入されました。得体の知れぬ軍用動物を歩兵学校は熱心に支援し続け、おかげで日本軍犬は実戦配備にまで漕ぎ着けたのです。
いっぽう、関東軍は軍犬を全く評価せず、昭和12年には育成所の廃止論まで出ています。
それを救ったのが育成所の軍用犬たちでした。
軍犬基幹要員教育。移動式犬舎の解説中です。
昭和12年、チチハルで関東軍の冬季演習が開催されます。閉鎖の瀬戸際に立たされた軍犬育成所は、選りすぐりの伝令犬をこの演習へ派遣。
演習は大陸の厳しい冬に慣れるのが目的だったものの、その寒さは日本軍の想像を越えていました。演習部隊が持ち込んだ通信機器は酷寒により次々と凍結。各部隊は通信途絶状態に陥ります。
昭和十二年度北満に於ける同演習第二期冬季演習は同年一月〇〇〇團の兵力を基幹として斉斉哈爾地方に行はれ、極寒の下に給水、給養、宿営等全く不完全なる状態に於て冬季戦を研究せられたり。幸にして関東軍々犬育成所保管犬十頭は同演習に参加を命ぜられ、通信機関の一部として其の試練の機會を與へられ、機械的通信機関と協力して作戰の使命を遂行し、極寒期通信機関として軍犬通信法が特異の性能あるを如實に説明し、北満戰場に凱歌を挙げたる實例を茲に記述し、軍犬の用法に関し認識を深めんとする。
(1)陣地攻撃に於ける軍犬の成績
同演習第二期(陣地攻撃)一月二十一日午前三時三十分黎明攻撃に際し、幕舎内に装置したる有線機は零下二十度乃至二十五度にして既に電池凍結し一時通信の用に堪えず。此の時乗馬傳令を發するも方向の維持不確實にして遂に行方不明となり、徒歩傳令亦偉大なる防寒具の妨害を受け歩行意の如くならず、時正に攻撃前進の時刻迫り萬策盡きて當惑中期せずして各隊長は「犬、犬」と異口同音に呼ぶに至れり。軍犬班は此處ぞとばかり午前二時勇躍軍犬を放ち、一刻を争ふ攻撃準備完了の報告を第二大隊本部より軍犬マロー號を以て聯隊本部へ傳へ、相次で聯隊本部より旅團司令部に傳へ、完全に通信連絡の使命を達して圧倒的好評を博せり。聯隊長及び旅團長はマロー號を抱いて痛く之れを賞詞し、深く其功績に感謝せりと云ふ
関東軍軍犬育成所『満洲に於ける軍犬事情』より
育成所から派遣された伝令犬たちは寒さをものともせず演習地を駆け回り、部隊間の連絡網維持に貢献しました。
苛酷な状況下では、ローテクがハイテクに勝ることを実証したのです。結果、育成所閉鎖案は撤回されました。
関東軍育成所は昭和16年10月より「満洲第501部隊」と改称され、西八里庄に再移転。 その後もハンドラーと軍犬を育成し続け、地雷探知犬など新たな運用法の開発にも貢献します。
しかし日本の戦況は悪化しつつあり、国境の向こうではソ連軍が侵攻の機を窺っていました。
(次回に続く)