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満洲国の畜犬史・その5 関東軍の犬たち

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獨立守備隊の軍犬班の現況を申しますと、現在軍犬班に飼はれてゐるシエパードは昨年の春、青島のシエパード愛好者から寄贈された約七十頭の犬と、ハルピンで購入した約八十頭の犬が大部分を占め、その後死んだものもあるので、今春内地第一回の買上げ犬が加つて、現在數百五十頭程になつてゐます。

何しろ彼方では仕事の割合に兵が尠く、手不足で困り切つてゐる上に、常に部隊で使役してゐて、訓練等も思ふやうに行ふことは出來ず、この點は何時も悩みの種となつてゐます。それで彼方で軍用犬が何に一番役立つてゐるかと云ひますと、警戒です。警戒なら多少質のよくないものでも十分やりますし、又今も云ふ通り訓練をみつちり行ふ時間が無いので、いろ〃むづかしいことに使はうとしても使へないのです。

警戒の種類は鐵道線路の巡察、斥候歩哨につけたり、格納庫、停車場、線路分遣所等の夜間の番をさせますが、その他夜のあらゆる勤務に、犬をつけて貰ひたいと云ふのが群の希望で、殊に満洲の第一線に働く人達は、無限の廣野を尠い人數で守つてゐるのですから、どれ丈け犬をつれて居るのが心強いか知れないのです。自然満洲ではさうした條件に最もあてはまる軍用犬を要求するのであります

獨立守備隊一等獣医 湯川忠一『満洲の軍用犬の實情を述べ、内地シエパード界へ衷情を披歴する』より 昭和8年

 

満州事変以降、多忙極まる抗日ゲリラ対策のため何とか犬をやり繰りしていた関東軍獨立守備隊。早くも限界を迎えつつあった昭和8年、本格的な訓練施設と調達システムの構築が図られます。

関東軍軍犬育成所と満洲軍用犬協會は、こうして発足したのでした。

 

帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所

 

【軍犬育成所発足】

 

千葉県の陸軍歩兵学校軍犬育成所と共に、軍用犬研究の中心であったのが「関東軍軍犬育成所(第501部隊)」。日本陸軍で「軍用犬部隊」と呼べる規模のモノは、この2つくらいでしょう。

 

陸軍歩兵学校の軍用犬研究は大正2年から始まっていましたが(實地研究は大正8年スタート)、長らく日陰の存在でした。日本軍の上層部は、犬の能力など全く評価していなかったのです。

軍犬の活躍が一般に知られるのは、那智・金剛・メリーの戦死が報道された昭和7年になってからのこと。関係者にとっては「苦節20年、ようやく巡ってきたメジャーデビューのチャンス」でした。

 

帝國ノ犬達-歩兵学校軍犬育成所
陸軍歩兵学校軍犬育成所前にて、ハンドラー候補生(千葉県)

帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所
関東軍軍犬育成所の教官と訓練生たち(遼陽)

満洲事變と共に〇〇獨立守備隊に軍犬班を編成して當面の業務を處理したるも、事變の推移と守備隊の實情とに鑑み軍犬の補充育成教育訓練等の廣汎なる業務を徹底せしむるためには守備隊より獨立せしむるを有利と認め、昭和八年十二月二十四日始めて當所を遼陽に開設せらる。次で昭和九年五月十五日編成を改變して〇〇守備隊司令官の隷下に入り今日に至れるも、固有の使命たる軍犬の生産、育成、訓練、補充並に軍犬取扱基幹員の教育に関する事項に就ては直接軍司令官の指揮を受く。

所内業務分担は前期の任務を遂行するため庶務、経理、訓練、育成、衛生の五係となしあるも、目下各部隊軍犬班要員の養成急を告ぐるの實情に鑑み、軍犬取扱基幹員の教育は最も重要なる任務となし、所員を挙げて之を担當しつつあり

関東軍軍犬育成所『満洲に於ける軍犬事情』より 昭和13年

 

獨立守備隊の軍犬班。起立している将校が貴志大尉、列手前が宍戸軍曹。昭和7年
 

関東軍軍犬育成所は、もちろん奉天獨立守備隊の軍用犬班が源流となっています。その功労者といえるのが、同守備隊の貴志重光大尉でした。

昭和6年の板倉至大尉と那智・金剛・メリーの戦死を、後任の貴志大尉(板倉大尉と同じ軍犬の専門家)は軍犬配備拡大に利用します。

昭和7年5月以降、貴志大尉は獨立守備各大隊(当時は6個大隊)に軍犬150頭を分配したのをはじめ、満洲建国後も抗日ゲリラ討伐作戦に軍犬班を投入。実戦経験を積ませる一方で内地メディアには那智・金剛の武勇伝を発表しまくるなど、宣伝活動にも積極的でした。

 

その行過ぎた宣伝が軍犬への誤解と過度な期待を生み、現実との齟齬をきたすようになってしまいます。犬取扱兵も「犬を連れた歩兵」に過ぎず、ハンドラーとしての専門訓練はなされていませんでした。

民間犬界との窓口や犬の調達システムも確立されておらず、遂にはとんでもないトラブルへと発展してしまいます。

 

調達窓口を持たない関東軍では、内地の帝国軍用犬協會に軍犬の購買を委託しました。しかしこれが大失敗。歩兵学校軍用犬研究班まで動員したにも拘らず、畜犬商から不適格犬ばかりを掴まされてしまったのです。

獨立守備隊は、到着した購買犬を受領するため駅へと向かいました。すると、ケージの中からは不適格犬がゾロゾロと現れます。

湯川獣医らが悲惨な状態の犬たちに囲まれて呆然と立ちつくしているところに司令官が訪れて、ひとわたり見まわしてから「湯川、セパードはどこにいるのか」とたずねた。

今川勲著『犬の現代史』より

 

セパードはどこだ事件

大失敗に終わった昭和8年3月の第一回軍犬購買。第二回からは湯川獣医が立ち会い、血統などを厳しく審査するよう改められました。

 

激怒した関東軍関係者が各メディア宛に内部告発したことで、この「セパードはどこだ?」事件は表沙汰となります。

満洲獨立守備隊司令部軍犬班の名で「最近の補充犬から見たる内地軍用犬界の展望」なるパンフレツトがごく最近に関係各方面に配布されたが、それにはこの春行はれた買上げ犬に對する不満が明に表示されて居り、軍犬報國の聲は耳にたこが出來る程聞かされてゐるけれど、内地シエパード飼育者には、さうした観念は空無ではないかと極論されてゐる。

その大意を掲げると、種犬廿頭、基礎犬十頭を買上げたのであるが、實際の買上げ犬は現在守備隊で飼育するものより遥かに劣るものが多く、その血統の如きも僅かに一頭のみ判つてゐるに過ぎない。體型も中にはポインターの雑種かと思はれるやうなものもあつた。

これを要するに内地軍用犬界に軍犬報國の念希薄なためか、飼育を誤つてゐるか、或は偏性的な發達をなしてゐるか、畜犬商が悪いためではないかとあり、内地シエパード界をして殆んど顔色なからしめてゐる。内地と守備隊とではシエパード界の現状に對する理解の相違もあるであらうから、一概に云ふわけにもゆくまいが、しかし軍犬報國をモツトーとする内地のシエパード飼育者もこれに目覚め、この次の買上げには守備隊のホク〃喜ぶやうな優秀犬を競つて提供するやうにしたいものである。

匿名者『守備隊軍犬班から内地シエパード界へ』より 昭和8年

 

関東軍軍犬購買1

 関東軍の第二回軍犬購買会。改善された購買参加資格に注目。

 

湯川獣医

第二回軍犬購買會に立ち会う湯川獣医。昭和8年11月

 

今度こそ大丈夫!と思ったのも束の間、満洲に到着した犬は次々と病死してしまいました。

先般関東軍軍犬育成所新設に伴ひ種犬として、東京、大阪、神戸方面よりシエパード種十四頭を購入し、無事遼陽軍犬育成所に到着せるも、其の後一ヶ月を経過せずしてカタール性肺炎二頭(シエレー、フリツツ)、心臓麻痺一頭(カツピ)の斃死を出し、尚カタール性肺炎及胃腸カタールの爲入舎中のもの三頭ある等、輸送後成績思はしからざるものあり。斯の如き状況に於ては真に軍犬将來の爲憂慮に堪えざる所なり。

抑々今回内地種犬購買の状況は目下軍犬熱興隆の絶頂に在り、従つて集合犬の資格も十分ならず、殊に牝犬の集合尠く資格著しく不良にして、且つ一般に高價なりし関係上、豫想通りの種犬を購入し得ざりしとの事なりしも、一頭平均價格三五〇圓(最高六〇〇圓、最低一八〇圓)にして、入所當時に於ける一頭平均體重二六、五三粁、體高六三、二五糎、體長六五、四八糎、胸囲六七、二九糎にして、一般に細格骨量に乏しく、且つ肢勢不良なるの謗りは免れ難く、余等の豫想に返し種犬としての資格に乏しかりしを遺憾とせり。

蓋し軍犬界の寵兒として流行犬として徒らに仔犬の生産に汲々たるの現況に於ては亦、己を得ざる事と信ず。東奔西走して購買せられたる購買官の努力に對し深甚なる感謝の意を表すると同時に、當所最初の種犬として、而も向寒の期に輸送せられたる、この珍客を如何にして気候風土に馴化せしむべきかに関し所員一同最善の努力を拂へしにも拘はらず、入所後未だ一ヶ月を経過せずして相次で三頭の斃死を出せり。洵に脾肉の嘆に絶えざる所なり。

是れ果して飼育の失宜にありや、氣候風土に在りや、将又犬に在りや、因て來る死因を考究し、犬界諸賢の考慮を煩し、以て将來軍用犬が真の作業犬として改善増殖發達せん事を切望する次第なり。特に将來戰を顧慮せば我が國軍犬の活舞臺は満蒙の地に於て求め難きを以て、克く此の地に活躍し得る真の實用犬を要求するものにして、徒らに流行を追ひ毛色の繊美を好み、容貌優美を望み仔犬の生産に汲々とし、資質の改善淘汰を缺くが如き観念に基く愛犬家は吾人の欲せざる所なり

関東軍軍犬育成所 川澄愛『非常時日本の愛犬家に告ぐ』より 昭和9年

 

……この川澄愛さんって誰?川並密大尉(階級は当時)のペンネームかな?

発足したばかりの関東軍軍犬育成所では、斯様にイロイロな苦労があったのでしょう。

 

関東軍軍犬育成所での犯人護送訓練

 

貴志大尉や湯川獣医個人で成し得ることには限界があります。軍犬やハンドラーの活用には、専門の教育訓練施設が必要でした。調達価格高騰を招く投機的なシェパード繁殖も、帝国軍用犬協会のような調達窓口の設置で抑制する必要がありました。

関東軍で現在飼育してゐる軍用犬シエパードは、僅かに獨立守備隊に約百五十頭ゐる丈けです。これを各大隊に二十頭乃至二十四、五頭づゝ配属し、必要に應じて使用してゐますが、この位の數では到底現在の要求に應ずることが出來ません。それに蕃殖と云ふ方面が全然考慮されてゐないので、今度遼陽に関東軍軍犬育成所が新設され、犬舎も新築なつて、今年度約三十頭の種犬を収容することになりました。その種犬を購入の目的で内地へ帰り、既に東京及び阪神で、かねて陸軍省及び帝国軍用犬協會の斡旋により募集された候補犬の中から、適當と信ずるものを選抜したのでありますが、内地に帰つて驚いたことは、餘りにシエパード熱が高く、シエパード市價の高騰してゐること、及びシエパードが引つ張り凧の有様で、手離さうと云ふ人の尠いことであります。しかも軍部に於ては、一定の豫算のもとに行ふのですから、市價が高いからと云つて、民間のやうにおいそれと購入する譯にはゆきません。その結果、折角あちらで希望してゐたやうな優秀なる種犬は、容易に入手されないのではないかと、それが目下の頭痛の種です。そこで一部では今すぐ三十頭とは云はず、追々に補充して行つたらどうかとの説もありますが、関東軍としては明日の戰争に備へると云ふよりも、今日の必要に應じたいのであつて、出來れば一日も早く完備して、有終の美を納めたいと思つて居ます

獨立守備隊一等獣医 湯川忠一『満洲の軍用犬の實情を述べ、内地シエパード界へ衷情を披歴する』より 昭和8年

 

関東軍軍犬育成所

関東軍軍犬育成所の正門

 

歩兵学校および関東軍の軍犬育成所が正式承認されたのは、昭和8年8月のこと。関東軍の場合、遼陽の中古物件(もとロシア軍旅団司令部)を貴志大尉と宍戸軍曹が見付け、そこへ軍犬兵の教育施設を移転したのが始まりです。当初は予算もなく、犬用の暖房施設は病犬舎のみで職員もペチカで暖を取っていたとか。なかなかのスパルタ施設だったのですね。

 

関東軍軍犬育成所

分娩犬舎(関東軍軍犬育成所)

 

関東軍軍犬育成所

成犬舎の一部(関東軍軍犬育成所)

 

同所軍犬診療所

 

同所軍犬研究室

 

時を同じくして、満洲軍用犬界の連携もはかられました。満鉄では昭和9年2月24日に社団法人満洲軍用犬協会(MK)の発会式と関東軍軍用犬訓練所の開所式を遼陽偕行社で開催。軍犬育成所長とMK専務理事には貴志少佐(昇進)が就任しています。

育成所とMKとKVはドイツ留学中の若松獣医へ委託し、種犬50頭を購入(獨逸シェパード犬協會ではなく、伯林シェパード協會が窓口)。協同での繁殖活動に着手します。各支部に対しては、警備犬普及活動や訓練所設立に関する助成金支援も積極的に展開されました。

 

関東軍軍犬育成所

物品監守訓練(関東軍軍犬育成所)

 

関東軍軍犬育成所

樹木登攀訓練(関東軍軍犬育成所)

 

【調達窓口の確立へ】

 

満洲軍用犬協会の発足により、内地だけではなく満洲国、朝鮮、青島方面での軍犬調達も活発化します。

遼陽関東軍々犬育成所では、去る一月種犬を民間より買上げることになり、一般より募集した處、大連より十三頭、安東より六頭、遼陽より三頭、合計二十二頭の應募があつたので、厳重審査の結果、大連より三頭、遼陽より一頭、安東より二頭、合計六頭の牡犬を買上げた。尚、價格は最高五百圓、最低二百圓であつた

満洲軍用犬協会『満洲で軍犬買上げ』より 昭和11年

 

行軍休止中の関東軍軍犬育成所

 

関東軍より十一月二十日付朝鮮軍司令部へ部隊犬購買に関する通牒を受けたる故に、軍獣医部は軍用犬協會朝鮮支部へ優良提供方指達あり。當支部では急遽全會員宛通報、左記条項で軍犬購買會は十二月六七日両日に渡り京城訓練所で實施された。
要項
一、購買頭數 約三十頭
二、年齢 満一ヶ年乃至二年以内
三、性別 牝、牡何レニテモ可
四、購買期日及検査開始時刻 昭和十一年十二月六、七日午前十時ヨリ
五、購買地及検査場 京城訓練所(軍司令部前)
六、犬種 軍用適種犬
七、血統書ヲ有スモノハ検査當日検査官ニ提出スル事
八、購買候補犬名簿ヲ作製、十二月三十日迄軍獣医部ヘ到着スル様ニスル事

當日京城訓練所には関東軍軍犬育成所より本間一等獣医、大西属が購買官として來所あり。出場の購買犬五十二頭を六日午前十時より逐次健康状態、歩様、體格、性能と流石に周密なる検査は行はれ、厳選の結果牝牡計十六頭を選出し、意義ある購買會を翌七日午後二時を以て終了、同七時四十分發の列車で華々敷く関東軍育成所へ向つた。
國防第一線に活躍せる彼れ等無言の勇士として選出された栄ある飼養者には全員、驛に或る者は全家族が恰も愛児の出征見送りかの様に、或る者は最後の生別れにと水又はパン等与へるなど如何にも惜別の情禁じ得なかつた向きもあり、傍で見る人をして感激せしめる所があつた。
「シツカリ御國の為めに働いてくれよ」と声を震はし帝國軍用犬萬歳の聲を後に彼れ等は遼陽さして出發した。彼れ軍犬よ、頑張れ、幸多かれと祈らざるを得ぬものがあつた

昭和12年

 

帝國ノ犬達-購買

満洲国だけではなく、内モンゴル方面へ配備する警備犬の購買もおこなわれていました。

 

【対ソ戦と軍犬】

 

関東軍軍犬育成所が想定していた敵はソ連でした。張鼓峰事件では夜襲部隊がソ連歩哨犬の警戒網に引っかかり、大量の警備犬を運用していたソ連国境警備隊も、平時ですら越境偵察や亡命者の支援にとって大きな脅威であったのです。

東部国境の部隊に軍犬巡回教育を施した関東軍軍犬育成所に対して、国境守備隊からは「ソ連軍用犬への対抗手段が欲しい」という訴えが相次ぎました。

そこで開発されたのが、敵軍用犬の嗅覚を妨害する「対犬材」。

結果、関東軍はピーフタ(北洋トドマツ)の樹液を利用した消臭剤、登戸研究所は誘惑剤や臭気攪乱剤の製造へとこぎつけました。

ピーフタ剤の研究は、日中戦争勃発の前年まで満洲に展開していた第16師団により進められています。

 

対犬材2

ピーフタの樹液を用いた実験。昭和12年

軍犬の嗅覚力防避法に就て
野砲兵第二十二聯隊 陸軍獣医少佐 立原一六

緒言
先年白系露人の一族八名は新興満州國に安住の地を求めんとし、密かに蘇満國境通過を試みたるもG・P・U(ソ連国家政治保安部・KGBの前身)の軍犬追及に屢々防害せられ、目的を達し得ず。
遂に窮余の結果一種の植物の樹葉を使用し、巧に人體臭を暗まし、完全に通過し得たりと謂ふ情報を聴取せり。
余は朝鮮に在職中なりしを以て該情報を深刻に調査研究し、前記植物を取寄せ植物学的研究を行ふと共に、朝鮮陸軍倉庫化学實験室に樹葉の分析を依頼し、一種 の精製油を得、更に樹葉と精製油との軍犬に對する使用實験を行ひ、以て防避の効果を確めたるを以て以下参考の為、其の概要を記述せん。

一、蘇領内に行はるゝ獣類嗅覚簡易防避法
蘇領沿海州地方にありては狩猟者の足跡臭を獣類に発覚せられ易きを以て、此足跡並に人體臭を簡易に防避せんが為、往時より一種の常緑樹ピーフタの葉を使用し、目的を達しつゝありといふ。

二、蘇満國境脱避に応用せるピーフタの効果
蘇満國境に於ける蘇聯國の警戒にG・P・U(警戒兵)の配置網眼の如く、各屯所には訓練せる多数の軍犬を配置し、巡邏に當りては多数の軍犬を携行するを常とす。従つて之を密かに脱避越境せんとせば容易の業に非ざるなり。
先年サマルカ半島(蘇領沿海州家にして樺太南端西岸付近居住)白系露人一家族八名は當時蘇聯官憲の圧迫に堪へ兼ね、新興満州國に安住の地を求めんが為、浦塩付近に至り満領内に逃れんとせるも、GPUの警戒厳重にして許さず。
茲に於て窮余の一策として予て猟師の慣用しありと云ふピーフタの葉を背中脇下に入れ温め、以て一種の香気を発散せしめ、身體殊に足及其所持品等を拭掃し、 固有の人體臭を暗まし、途中屡々軍犬の追跡に遭遇せるも遂に追及発覚を免れ、國境線山中数ケ所に露営の上数日にして完全に越境し、満領内東興鎮(土門子東 方約四百粁)憲兵分駐所に届出たり。
而して該露人の言によれば前記要領によるピーフタの一回拭掃に依る防嗅有効時間は約三十分にして、時間の経過に伴ひ拭掃を反復するを要すと謂ふ。

 

関東軍軍犬育成所の歩哨訓練。

 

評価は下記のようなものですが、実際は効果がなかったそうです。

 

(1)軍犬に発見又は追及せらるゝを防避せんが為に、ピーフタ類以外人體臭を長く又は完全に消滅せしむべき薬物又は調剤による試験研究を必要と思考す。
(2)犬の嗅神経を麻痺せしむべき薬物又は調剤の研究を必要とす。足跡に對し犬の嗅覚麻痺薬を或一定距離に點滴し置かば、嗅神経麻痺の為足跡の判定を失はすことを得べし。
(3)犬の嫌忌すべき薬物又は調剤の研究を必要とす。足跡に對し犬の著しく嫌忌すべき薬物調合により發見追及を防避するの工夫研究を必要とす。殊に嫌忌薬をアンプール入となさば、第一線部隊に於ては其携行を便とせらるゝならん。
(4)犬の嗜好すべき香臭により足跡を誤導せしむべき芳香臭や薬物調合又は発情中の牝犬尿等により、人體又は足跡を他へ誤導せしむる如く創意工夫の研究を必要と思考す。

 

軍犬基幹要員教育風景(関東軍軍犬育成所)

 

関東軍軍犬育成所

同所の訓練風景

 

対ソ戦については、化学兵器防護の研究も盛んでした。

関東軍の生物化学戦部隊といえば、細菌戦の関東軍防疫給水部(731部隊)、化学戦の関東軍化学部(561部隊)、軍用動物を対象とした関東軍軍馬防疫廠(100部隊)が有名ですね。

第100部隊第2部(研究)要員の回顧録を読むと、日本から続々と到着する軍馬の検疫指導、満洲各地で頻発する家畜伝染病の封じ込め作業や地元畜産農家への予防接種巡回に大忙し。ソ連の畜産界に獣疫を広め、農畜産、食品、皮革、衣料、流通、工業、軍事分野などへ経済的打撃を与える細菌戦など夢のまた夢でした。
但し、第1部(防疫任務)、第3部(家畜病毒菌培養)、第4部(機材担当)といったセクションについては該書でも触れられていないんですよね。

これら秘匿性の高い部署について、実態は謎に包まれています。

そもそも、第100部隊に犬を絡めて語るべきなんですかね?

戦史において「イヌに対する細菌戦」なんてのも聞いたことがありませんし、例えば敵国に狂犬病を蔓延させようにも既にパスツール式豫防注射が普及していましたから(そもそも、どうやってソ連側へ感染犬を送り込むのか)。

犬の感染症で敵国に経済的打撃を与えようとしても、せいぜい行政と愛犬家とペット業界が困る位ですか。

 

関東軍としては、対犬材開発という現実路線がせいぜいでした。100部隊に関しても、犬は実験動物程度の関わりだったのでしょう。

軍犬の総本山たる関東軍軍犬育成所でも、軍犬の健康管理上ジステンパーやフィラリアの研究が最優先でした。また、対化学戦における軍犬防護研究にも熱心だった様です。強大なソ連化学戦部隊と対峙する関東軍にとっては、こちらの方が大問題ですからね。

 

育成所が化学戦訓練を実施していた記録もあります。

 

帝國ノ犬達-防毒犬2

雪原で化学戦訓練中の関東軍。ソ連軍の化学兵器攻撃を想定し、軍犬もガスマスクを装着しています。

場所・部隊名などは非公開 昭和11年

 

 

これら化学戦防護装備は満ソ国境や中国戦線に大規模投入……された訳ではなく、満洲の地で行き詰っていました。

一連の冬期化学戦研究の結果、昭和14年までに問題点が発覚したのです。

「昭和十四年度冬季研究演習記事」より抜粋してみましょう。

 

 

ご覧の通り、なかなかの惨状です。

・極寒の満洲において、防寒着と防寒手袋でモコモコになった兵士が犬に防毒具を装着しようとした場合、平均6分半かかる。

・しかもガスマスクや防毒脚絆のサイズが小さ過ぎて、犬の体にフィットしない(要するに不適格品)。

つまり、ソ連軍が毒ガス攻撃を仕掛けてきた場合、満ソ国境の軍犬は防禦すらできずに壊滅するワケです。

この問題が改善されたのかどうかは不明。当時の軍犬兵教育マニュアルに「この犬用防毒面は試作品で、前線には支給されない」という書き込みを見つけた時は暗澹たる気持ちになりました。

 

帝國ノ犬達-防毒犬3

化学戦訓練中の関東軍伝令犬。マスクで嗅覚を阻害されるため、視覚頼りの短距離傳令しかできませんでした。

 

ドイツ式を手本とし、伝令犬を重視していた千葉県の歩兵学校軍犬育成所と違い、関東軍軍犬育成所は戦例を採り入れて警戒犬を重視した訓練方針をとっていました。
昭和13年頃からは地雷探知犬の研究や満蒙犬軍用化テスト、犬車(兵員運搬車)開発などの変った試みにも取り組んでいます。
「地雷探知犬はベトナム戦争で登場した」などと書いている書籍もありますが、日本軍の地雷探知犬が実戦配備されたのは昭和16年前後のこと。
我が国の軍用犬研究は、現代人が想像する以上に発展していました。

 

地雷3

鉄道沿線で爆発物捜索訓練中の関東軍地雷探知犬

 

歩校と遼陽の軍犬育成所には、多大な労力と費用が投入されました。得体の知れぬ軍用動物を歩兵学校は熱心に支援し続け、おかげで日本軍犬は実戦配備にまで漕ぎ着けたのです。

いっぽう、関東軍は軍犬を全く評価せず、昭和12年には育成所の廃止論まで出ています。

 

それを救ったのが育成所の軍用犬たちでした。

 

軍犬基幹要員教育。移動式犬舎の解説中です。

 

昭和12年、チチハルで関東軍の冬季演習が開催されます。閉鎖の瀬戸際に立たされた軍犬育成所は、選りすぐりの伝令犬をこの演習へ派遣。

演習は大陸の厳しい冬に慣れるのが目的だったものの、その寒さは日本軍の想像を越えていました。演習部隊が持ち込んだ通信機器は酷寒により次々と凍結。各部隊は通信途絶状態に陥ります。

昭和十二年度北満に於ける同演習第二期冬季演習は同年一月〇〇〇團の兵力を基幹として斉斉哈爾地方に行はれ、極寒の下に給水、給養、宿営等全く不完全なる状態に於て冬季戦を研究せられたり。幸にして関東軍々犬育成所保管犬十頭は同演習に参加を命ぜられ、通信機関の一部として其の試練の機會を與へられ、機械的通信機関と協力して作戰の使命を遂行し、極寒期通信機関として軍犬通信法が特異の性能あるを如實に説明し、北満戰場に凱歌を挙げたる實例を茲に記述し、軍犬の用法に関し認識を深めんとする。

(1)陣地攻撃に於ける軍犬の成績

同演習第二期(陣地攻撃)一月二十一日午前三時三十分黎明攻撃に際し、幕舎内に装置したる有線機は零下二十度乃至二十五度にして既に電池凍結し一時通信の用に堪えず。此の時乗馬傳令を發するも方向の維持不確實にして遂に行方不明となり、徒歩傳令亦偉大なる防寒具の妨害を受け歩行意の如くならず、時正に攻撃前進の時刻迫り萬策盡きて當惑中期せずして各隊長は「犬、犬」と異口同音に呼ぶに至れり。軍犬班は此處ぞとばかり午前二時勇躍軍犬を放ち、一刻を争ふ攻撃準備完了の報告を第二大隊本部より軍犬マロー號を以て聯隊本部へ傳へ、相次で聯隊本部より旅團司令部に傳へ、完全に通信連絡の使命を達して圧倒的好評を博せり。聯隊長及び旅團長はマロー號を抱いて痛く之れを賞詞し、深く其功績に感謝せりと云ふ

関東軍軍犬育成所『満洲に於ける軍犬事情』より

 

育成所から派遣された伝令犬たちは寒さをものともせず演習地を駆け回り、部隊間の連絡網維持に貢献しました。

苛酷な状況下では、ローテクがハイテクに勝ることを実証したのです。結果、育成所閉鎖案は撤回されました。

関東軍育成所は昭和16年10月より「満洲第501部隊」と改称され、西八里庄に再移転。 その後もハンドラーと軍犬を育成し続け、地雷探知犬など新たな運用法の開発にも貢献します。

しかし日本の戦況は悪化しつつあり、国境の向こうではソ連軍が侵攻の機を窺っていました。

 

(次回に続く)

 


満洲国の畜犬史・その4 満洲国政府の犬たち

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今日皆様にシエパードのお話をするのも皆様に國の爲シエパードを飼つていたゞき度いからであります。最近露國ソビエート満洲國境に兎角問題が起り勝でありますが、露國ソビエートでは國境の第一線に澤山のシエパードを配置した爲日本や満洲の兵士が非常に困つてゐると云ふ事であります。

之に對抗して我々も國防上シエパード犬を殖やす事は國民目下の急務でありませう。満鐵の警備にもシエパードが大に使はれる様になりましたが、一頭のシエパードは人間三人分の警備を果すと云ふ事であります。撫順の炭鉱では石炭が盗まれて仕方がないので、最近シエパードを番犬として使ひました所、之で石炭が盗まれなくなりました。そして皮肉の事に澤山の風呂屋が倒れたと云ふのです。

謎の様な話ですが、之まで石炭盗人から安い石炭を買へてゐたのが買へなくなつた爲だと云ふのであります。

満洲の税関でも多數のシエパードを使つて密輸入者を取締つてゐます。一頭で數人の密輸入者を捕へる事が度々であります。シエパードを飼ふのも國民として一つの忠義であります。

JOJK金澤放送 加藤次郎『獨逸シエパード犬の話』より 昭和11年

 

満洲国においても国策としての軍犬報国運動が展開され、児童を含む一般国民への浸透が図られました。しかしそれは日人中心のもの。五族協和のタテマエとは違い、満系や露系の人々にとっては「国策による犬の飼育」など大きなお世話でした。

 

【満洲国の軍犬】

 

「一戸一犬」をスローガンに掲げた満洲軍用犬協會の活動もあり、満洲の軍犬報國運動は軌道に乗りつつありました。

だから満洲国軍の軍犬班も大活躍……していたのかと思えば、実はそうではありません。

軍犬を連れた満洲国軍兵士の話は、満洲旅行記にもチラホラ登場します。しかしそれはシェパードではなく在来犬だったり、たった一頭連れているだけだったり、もしかしたらマスコット犬じゃないの?みたいな事例ばっかり。

支援窓口たる満洲軍用犬協會や関東軍軍犬育成所のネットワークからも、なぜか満洲国軍へのリンクは途切れているのです。満鉄や関東軍は自前の犬を揃えるのに精一杯で、「そっちまで面倒みられるか」という事情があったのかもしれません。

要するに情報不足で実態不明というのが正直なところ。困ったものです。

 

遠路はるばる満州に到着した満蒙開拓青少年義勇軍の少年たちとワンコ。戦時動員の影響で満洲移民の確保に悩んだ日本政府が、青少年をターゲットに開拓団を組織したものです。現地の管轄は満洲国政府がバトンタッチしました。

 

【満州の警察犬】

 

治安面はどうだったのか。

「広野を駆ける馬賊」のイメージどおり、満洲は窃盗、誘拐、強盗殺人、列車爆破テロと何でもござれ。大陸浪人の中には、匪賊との人質解放を請け負う誘拐交渉人みたいな人もいました。

いずれも内地の犯罪集団とは比較にならない武装と組織力を有しており、町のおまわりさんが対抗できる相手ではなかったのです。

 

警務司(後の治安部)は犯罪対策に取り組んでいたものの、国土が広すぎて監視の目が行き届きません。地方の警務處で対処できないテロや匪賊対策は、関東軍や満鉄自衛隊に任せるしかなかったのでしょう。

近隣の日本(および朝鮮総督府・台湾総督府)、関東庁(関東州庁)の警察機関、山東省の青島公安局なども警察犬配備を進めており、それに倣った満洲国警察も警察犬も配備していました。

 

警察犬の記録が現れるのは、日本が満洲国を承認した昭和7年9月15日からです。

日満議定書の締結に憤慨した満洲の抗日勢力は、満鉄施設への武力攻撃を開始。撫順炭鉱も紅槍会の襲撃を受けました。

この日、関東庁警察の児玉芳平巡査と警察犬エスは、撫順の東南約2kmにある揚柏堡付近をパトロール中に紅槍会の一団を目撃します。児玉巡査は、エスの伝令用首輪に警戒文書を入れて自宅へと走らせました。

昭和七年九月、満州國撫順楠柏堡の巡査派出所に、一匹のシエパードが駆け込んだ。兒玉巡査夫人は風邪のため四十度の發熱で就寝中であつたが、犬の啻ならぬ氣配を見るや、早速起き上つてその通信筒を見ると、「張學良配下の兵數百名、撫順炭鉱附近の炭鉱を襲撃中」とあつた。夫人とらをさんは、高熱になやむ身をも忘れてしまつた。シエパードはエスと言ふ、夫兒玉巡査が之を連れて、巡邏に出た途中、此大事を偵察し寸時も早く手配させる爲め、派出所にエスを使用して知らせたのであつた。とらをさんは、平素教えられ居る如く、一切の手配をした。在留邦人二百七十名を非常招集して炭鉱内に避難させた。撫順炭鉱事務所に電話をもつて急を報じた。それのみでなかつた。彼の女は玄関にまで迫り來つた匪賊の銃火を浴び乍ら、最後まで電話口にしがみつき、撫順本署との連絡を全ふした。彼の女の働きは叙勲に値ひするものとして其筋へ申請された。それも、もとは愛犬エスの手柄によると、兒玉巡査夫妻は謙遜に愛犬の行動を徳として居る。

中根榮『兒玉巡査夫人愛犬の功名』より 昭和9年

 

迅速な避難にもかかわらず炭鉱側は5名が殺害され、反撃に出た撫順守備隊側も平頂山事件で住民の虐殺事件を起こしています。

……こういった対ゲリラ戦ではなく、本来の犯罪捜査に用いられた満洲警察犬の話を知りたいのですが。

 

「敵を山上に潰滅して部隊集合中の軍犬」

紅槍会(敵陣まで密かに肉薄し、槍を振り回しながら一斉突入する戦法を得意としました)のシンボルであった、赤い房のついた槍を押収しています。

前時代的なこの槍は白兵戦でかなりの威力を発揮したらしく、紅槍会との交戦経験がある日本兵は「銃剣で敵と格闘中、目の前にチラつく赤い房に眩惑されて苦戦した」などと証言しています。

 

このエリアで最も先進的だったのが中国の青島公安局であり、警察犬の運用ノウハウにおいて日本や満洲の指標となっていました。

日中の軍用犬関係者による座談会にて、蒋介石軍の李家駒氏が語る青島警察犬の概要をどうぞ(意外にも、日中開戦前までは両軍の交流もありました)。

民國二十三年には青島の港で他所から阿片の密輸入等がございまして、公安局なんかで非常に困つて、まさか一人宛刑事を出す譯にも行かないし、其の警察犬に三箇月の期間を費して密輸入の防止の訓練の科目を施してやらせたところが成功しました。
此の阿片の密輸入の検挙は第一日目から三日間でしたが、二十何人を検挙をしました。さうして其の結果は小いものでも、例へば一グラムかニグラムの阿片でもちやんと犬は間違ひなくみんな検挙しまして、大変成績が良かつたのです。それから阿片の検挙に犬が發達しまして、其の方面は警察犬の訓練は大分發達して來て居ります。
青島の公安局で犬を飼い始めてから、波止場、停車場等に之を配置してから、さう云ふ禁止品を賣る店が百分の九十までなくなりました。青島の公安局では、今警察犬が五、六十頭居る筈ですが、さうして其の使用の途は各分置所、日本の交番ですが、其處に犬をニ、三頭配置しまして、夜の警戒から巡察、夜の不時の召集なんかには其の犬を使つて居るのです。

『黄・李両氏に中國の軍用犬を訊く』より 昭和11年

 

関東州の警察も、青島公安局の影響で警察犬配備に取り組みます。

昭和7年4月、大連警察署の藤井司法主任は満鉄周水子警戒犬訓練所からシェパードの譲渡を受けて警察犬班を創設。更に警察犬訓練所を設置して運用拡大をはかりました。

拝啓 今般當訓練所創設に當り多大の御好意を寄せられ警備用犬として立派なる仔犬御寄贈に預り難有奉感謝候。當訓練所としては創設日浅く設備訓練共に不行届の點多く、随て折角の良犬をして其の天分を十分に発揮せしめ得るや甚だ危惧に堪へず候共、此の御芳志に對しては努めて御期待に叛かざる様致度存念に候間今後共御後援之程祈上候 草々

昭和八年二月十七日
大連警察署長 石井金三郎

 

これが満洲国へ入ると、情報がパッタリ途絶えるんですよね。警察関係者の話も、「配備したいけど犬不足」みたいな話ばかりです。

副島:多い様で軍用犬適性犬は少ないもので……。だから飼育目的の異なる関係もあるかも知れないけれ共、雑種犬の駆逐をすることが大切でせう。
影山:野犬狩も相當やつてゐるが中々減らないで困つてゐますヨ。早くセパードの無料配布時代が來ぬといけません。尚、交尾に注意せんといけまんヨ(笑声)。
副島:狂犬には雑種が多いですヨ。
影山:取扱ひに注意してくれると駄犬もなくなりませうが。
堀内:影山君、先日のもワケはないと思ふのだが。
影山:犯人捜査にはよいのですが、先日のは犬よりも人の問題だと思つてゐますが。
吉村:野犬狩があると姿を消すが、暫くすると又現はれるのはどうしたのですかナ。
影山:野犬狩があると知ると持主が届に來るが、暫くすると又怠りますからでせう。今後は協會と協力して内密にやつて見たいと思ひます。
堀内:早く訓練所からいゝ奴を配布することだナ。
青木:犬がないので困つてゐます。
堀内:何圓も入るといふとだれでも見合はすから無料にすることだ。殊に飼育にゼイタクは無用で有合せでタクサンだといふことを知つてもらふ事だ。
朝倉:角田廳長さんの奉天方面で何かの御感想を……。
角田:奉天方面は非常にコソ泥が多いので困つてゐましたが、犬のをる所は被害が少ないのです。だから隣組など一匹宛位犬を持てゐたらコソ泥など影を潜めるのぢやないかと思はれます。警戒上から見ても又は競犬の場合を考えても軍用犬の普及は大切ですから、それを賽犬によつて大衆に喰入てゆくといふことは有効な方法だと信じます。
朝倉:コソ泥退治はいゝでせう。
角田:出来心のコソ泥などは犬吠一声やられたら飛んで逃げますヨ。
影山:(警務處長)警察署に警察犬を置くことは考へてゐますが、入手難ですから取敢ず訓練所のを借ることだと思つてゐます。
志賀:僕の方も分関監視所十二ヶ所に配置してゐます。とにかく協會の資金を作つて犬を殖やすことですヨ。
影山:警察犬も追跡はヨクやるが相手を間違へたときには困りますヨ。
志賀:氷上なんかの追跡には人間より遙に勇敢ですし、効果がありますな。
福島:體質をヨクする事を考えんと在犬數が年々減少する様です。
志賀:セパードは猛烈だから離しておけん。
影山:セパードに狂犬はないが、ヨリ噛むクセがある様だ。
堀内:それ〃大いに考へねばならん。
朝倉:長い時間有益なお話を承りありがたう御座いました。ではこゝらで……(終り)

鴨緑江日報『軍犬座談會』より 康徳7年 

 

珍しいところでは、安東市警務處で国境警察犬を配備していた話が残されています。

 

森内學校で訓練中の警察官と国境警察犬 昭和12年

殊に私が大書して愛犬家諸氏に喜んで頂きたいのは、渡獨以來の私の希望、日本を去つて満洲に迄來た希望の一部が實現せられつゝある事である。それは朝鮮の北端國境に位する平安北道々廳に於て、國境に警備犬を使用するといふ事になり、其の手はじめとして警官を國境より當校に派遣せられ、十頭の警察犬を訓練實習中である事である。

三年越の希望が此處に實現せんとして、私の責任は亦重すぎるおそれがある。

かく平安北道々廳が本格的に警察犬を使用するに至つた動機は、此道廳の警務課長河野彌平殿の親友にて、此道廳のある新義州を去る四里の所、義州郡の佐瀬復三氏(安義を通じての愛犬家)が年々國境に起る匪賊の被害に備へるために、是非警察犬を使用せられよとの進言によるものにて、亦その勧告を早速に入れられたる河野課長の慧眼英断は、實に感歎の外はない。

私が佐瀬氏を知つたのは、私が満洲視察當時、當安東でドイツ警察犬學校の映畫を見られたのが、はからざる御縁となつたものである。此課長の英断によつて、現に我が校にて受講中の警官達が警察犬達がどうか十分の成績を挙げて、全鮮全満に其の範を示して呉れる様にと、未だ味はつた事のない緊張振りで、朝の四時から晩は七時八時頃まで猛練習を續けて居るが、其の撰にあづかつた警官連中も、殆ど一生懸命に講習中である。

現在講習を受けつゝある警官は第一期生にして、最遠距離は新義州を去る百三十里、最近距離にして四十五里、いづれも交通機関のなき奥地より、或は自動車、或は船、或はトラツクによりて出張せられたる方々である。

慈城警察署三與警察官駐在所勤務(八十里)明閑射左男

中江警察署勤務(百三十里)沼田幸夫

碧潼警察署吾北警察官駐在所勤務(四十五里)後藤公久

渭原警察署勤務(七十四里)鶴山金三

楚山警察署勤務(六十五里)河原角見

この平安北道で警察犬が入る。其の犬と警官との訓練を引受けた私のよろこびはさることながら、これからの責任は幾十倍増したかといふ事を大に考へさせられるゝ。どうか立派にやつてくれ、そしてウンと功績を挙げてくれ、そして我警察犬の威力を諸外國に迄知らしてくれ。

これで私の本望は達するのである。

同時にドイツの學校で受けたる、あの親切なる校長教官其の他に對して、いさゝか報恩の心持ちを果すことが出來るのである。

私は今更に内地の犬界に向つて、訓練を云々する必要はないが、今は文字通に非常時である。イザ鎌倉といふ時に御得意の梯子登りや輪ぬけでは役に立たぬ。どうか此際目ざめていたゞきたい。どうか訓練を興行的に考へないで、本格的にシツカリと訓練する様に十分なる御覚悟が願ひたい。

今は非常時である。第一線に活躍する我が戰友を助くるために、慰むるために。否皇國の安危を彼の肩にも擔はせるために、今こそ我が作業犬の活躍すべき時である。

森内章介『犬の學校を安東に移して』より 昭和12年

 

訓練を託そうとする地元愛犬家は、低レベルなMK安東支部種犬訓練所から森内學校へ大移動。安東市警務處もこれにならったのです。

森内氏に顧客を奪われたMK安東支部は、閑古鳥状態に陥りました。

伊藤訓練士(※MK本部から派遣されたハンドラー)は會員の信用なき處に、一方は俊秀なる技能と完備せる設備を有するを以て、愛犬家より見れば何れに預けるも自由を以て、森内學校に信頼する傾向にあり。現に最近平安北道の警察犬訓練の爲め、五頭の訓練方を森内氏に持込み之れが實績を見つつあり。又安東の會員一般の意向も伊東訓練士の下に送らんことを欲せず人心離反しあり。斯る實情にあるを以て協會と森内氏との間に訓練預託をなさざる如く契約しありと云へ、森内氏は自己の営利に関し生活にも触るるを以て、表面之れを歓迎せるが如きも其實際は然らず。左りとて預託者個の希望として直接森内氏を選び依頼する以上、制裁の施すべき術なく、自然の成行に落付くこと水の低きに流れるが如き結果を呈し居れり。

満洲軍用犬協會『種犬訓練所問題二関シ回答ノ件』より 昭和12年

 

有能なハンドラーは引く手あまたで、森内氏は華北交通が配備する鉄道警備犬のハンドラーとして招聘されました。

ショウドッグと芸当的訓練が横行する内地犬界に見切りをつけ、使役犬が実働する満洲を目指した森内氏。しかしその「実務」は、血で血を洗う対ゲリラ戦の現場でもあったのです。

 

税関

奉天の税関監視犬育成所

 

【税関監視犬部隊】

 

鴨緑江に隔てられた満朝国境では、両国を行き来する密輸業者が暗躍していました。対ゲリラ戦にあたる国境警察犬とは別に、密輸業者検挙のため配備された「国境警備犬」が税関監視犬部隊です。

満洲國財政部は國境関税線を潜行する脱税監視業務に軍用犬を活用せしむるため昭和七年(大同元年)初めて之を試用し、従來防止至難とせられたる密輸業者捕縛に大成功を収めたる實績に基き、昭和十年(康徳三年)奉天北陵に税関監視犬育成所を開設して、計画的に監視犬を育成補充することなれり。

こうして発足したのが、満朝国境地帯を流れる鴨緑江での密輸阻止を目的とした警備犬部隊。現代の「税関犬」のイメージからはかけ離れた、格闘戦を主体とする戦闘犬でした。
近代戦への適応を目指した日本軍犬とは逆に、満洲・朝鮮国境では人と犬との原始的な肉弾戦が展開されていたのです。
東洋一帯を見渡しても、これ程大規模な戦闘犬の運用事例は他にありません。

七月七日午後九時頃前半夜勤務巡邏班に属する于監吏中村監視員は夫々チーベ號、ライカ號を同伴の上班員を二分し、中濱の要所に潜伏中、一隻のサンパン闇夜の江上を縫ひて對岸より遊動し來たるを以て全員緊張息を凝らして其の近接を待ち受けたるに、約二十分を経てギヤング團に護衛せられたる約三十名の密輸者上陸し來り。第一班の張込箇所を通過せんとす。

 

 

好機熟すと見たる于、中村両監視員はチーベ、ライカ両號を放ちて密輸團の中央部に突入せしめ、第一班員亦之に續いて勇躍検挙に突進せる處、虚を衝かれたる彼等は極度に狼狽し直に進路を転じ逃走せんとするを、兼ねて斯くあるべしと豫想し待ち構へたる第二班喊聲を挙げて突撃し之が退路を扼し茲に彼我の大乱闘となりたるも、我が挺身監視隊の奮闘は監視犬の活躍と相俟ちて克く棍棒を以て死者狂ひに打ちかかるギヤング連を撃退し、拳大の投石雨の如き中に在りて犯則者五名を逮捕し左の偸税品を押収せり。

麻布 二六疋

毛糸ズボン 一三打

毛糸シヤツ 三打半

税関監視犬育成所『満洲國税関監視犬月報』より 昭和11年

 

監視犬を運用する税官吏は、満人や日人から採用されていました。

「在奉天育成所に於て監視事務講習を終了せる在満各部隊除隊者新採用監視職員三十餘名の瓦房店税関分関配属あり。監視犬の新配置亦近きに在り。懸案の関税通路指定と共に州境税関監視陣は茲に略完ぺきたるべしと豫想せらる(昭和11年)」とある通り、満洲国税関と関東軍にはある人物を介した繋がりがあったのです。

その人物こそが、関東軍軍犬育成所から転任してきた貴志重光少佐でした。

関東軍獨立守備隊軍犬班の指揮官から始まり、関東軍軍犬育成所所長、税関監視犬育成所所長、満洲軍用犬協會幹部を歴任した貴志少佐は、満洲犬界ネットワークの仲介者でもありました。

今の阿片の密輸入防止を真似たと云ふ譯ですか、朝鮮の鴨緑江の安東縣の向側ですね、そこに貴志少佐と云ふのが、満洲國の税関に入りまして、相當に矢張り犬を持つて居るらしいんですが、満洲が寒くなりまして鴨緑江が凍りますね、さうすると朝鮮の方からどん〃密輸入をして来るのを捉へて居る。矢張り青島の真似らしいんですが。

三重野信大尉 昭和11年

朝倉:志賀税関長の監視犬についてのお話を。
志賀:監視犬は先づその濫用を禁ずると共に危害を加ふるが如き犬の行動を極度に避けてゐます。監視犬は日本内地にはありませんが、満洲では國境税関の内圖門、山海関、瓦房店、安東の各税関に配置されてゐますが、大體監視犬の育成は財政部の頃遼陽軍用犬本部内に於て行はれてゐたものを、康徳二年奉天北陵に移転、本格的訓練を開始し、その育成方法と統轄指導に経済部が乗出し、主事は奉天税関監視科長の兼務を見ることになり、監視犬の配置を受けてゐる各税関には犬舎長をおくことになり、その訓練と利用は異常なる積極性を帯び今日に及んでゐます。現在の監視犬配置數は山海関二七、安東二四、大連二五、圖門三〇で育成所に六十四頭ゐます。
高木:育成所は相當の設備があるのですか。
志賀:あります共。毎年七萬圓の経費を計上してゐます。

鴨緑江日報『軍犬座談會』より 康徳7年 

 

満洲国の税関犬は、更に高度な麻薬探知犬へと進化していきます。これも青島公安局を手本とした試みでした。
満朝国境で暗躍する阿片密輸団に対し、満洲国税関には日本側(朝鮮地域)へ越境して密輸拠点を捜索する権限などありません。水際防禦の一環として、青島公安局が貨物船捜索で使用していた阿片探知犬の導入が決まったのです。

税関犬としての訓練に、或る個々の物品、例へば阿片なら阿片の臭氣を嗅ぎ分ける訓練を施すことがあります。そんな必要がどうして起るかと言ひますと、税関には保税倉庫があつて、その中に阿片の如き、禁止物品のある場合、これを押収しなければならぬからです。

阿片の嗅ぎ分けには非常の優秀な犬がありました。ロザー號は、樽の中に味噌を入れ、その中にトランクを入れ、トランクの中に尚綿を入れ、その中にボール紙に包んだ阿片を、この犬は嗅ぎ出すことが出來ました。

訓練法は、或る物品の臭気に馴致し、その物品を寝臺等にかくし、単に「捜せ」の命令で捜させ、その物品を覚つたならば、吠える様に訓練します。これはひとり税関のみでなく、警察犬としても、また軍用犬としても毒瓦斯に對する豫知法ともなるのではないでせうか。

根本幹太『満洲の税関監視犬』より 昭和13年

 

税関が担当したのはノウハウ開発と訓練のみで、阿片探知犬の運用自体は禁煙総局へと引き継がれました。禁煙総局でも、満州国税関監視犬育成所へ委託して麻薬探知犬と取締官を訓練。阿片の押収に成果を挙げています。

小生が戦前、満洲国税関監視犬育成所に在職中に手がけたアヘンの専門捜査犬について、参考までに参考までに述べてみたいと思います。

ふつう阿片“アヘン”とは生阿片を指すのであって、それはちょうどコールタールを固めたような形態と、生臭いような独特な臭気をもっています。

このアヘン臭については、経験の深い専門職によれば、その臭いによって純粋度や品質を知ることができ、また熟練した税関吏はその所在の近辺を通行したときに、一瞬アヘン臭を感ずるといいますか、ふつう素人では現物を手にとって嗅いでみて、はじめてその生臭いような独特な臭いを知る程度です。

このような特殊な臭気に着眼して、はやくから税関監視犬育成所では、これの専門捜査犬の訓練に着手したのですが、一般旅客を対象とする現地税関では、旅客に対する人権問題を考慮して実現化しえず、単に育成所において実演犬とした程度でした。

まもなくアヘン取締りの総元締である禁煙総局(煙草の禁煙にあらず。煙はアヘンを吸うことを指す)において、その密輸や密売者の隠匿などが甚だ巧妙となり検挙率が低下したのに対し、捜査犬の優れた嗅覚力によって頽勢を挽回しようと、第一次八頭のS犬(基本訓練修了)と八名の阿片取締官の教育を、税関監視犬育成所に委託するに至りました。

ます最初の第一期教育期間を六か月とし、その末期に禁煙総局庁舎内において、室内の諸物件の内部と人物の衣服内に隠匿したものの捜査(嗅出)を総局長以下全員と満洲軍用犬協会本部要員、芝池弥太郎、佐藤啓一、阿比留佐諸氏らの参観のもとに行い、絶賛を受けて好成績裡に終了し、禁煙総局阿片麻薬捜査犬と命名して、一年間をテスト期間として現地に配置したのでした。

この一年間に捜査犬によって検挙したアヘン量は二千両を越え、予期に数倍した好成績を収め、大いにその前途を嘱望されるに至りました。

一ノ瀬欽哉氏

 

 

帝國ノ犬達-ダゴー

昭和13年、税関監視犬育成所の種犬として満洲へ渡ったダゴーは彼の地で生涯を終えます。

昭和18年の広告より

 

満朝国境を警備していた税関監視犬部隊がどのような終焉を迎えたのか、満洲国崩壊と重なって判然としません。戦争後期の記録も僅かに残されているのみです。

昨夜の皆様の御案内でマーチヨを駆つて小雨の中を税関監視犬見學に向ふ。監視課長長藤井一氏に御會ひして犬に就き承る。成績は統計的に見ても、豫想の側から見ても相當である。益々強化し度い意向を持つも、現在は人的資源の不足、即ち犬利用監視官適格者の減少と犬の食糧の入手困難といふ問題の為めに些か成績低調である。之が改良の為めには種々なる意見を上司に具申してある等、種々頼母しいお話を承つて辞する。

次に犬舎を見學。一見にして使へるなと直感する。

之が作業犬種だ。之で良いのだと痛感する。愉快だ。体型の問題等は全然念頭にも浮ばない。斯く言ふたとて茲の犬の体型が悪いといふ意味ではない。

最後に埠頭へ出、密輸團の侵入方法、越境地形、之に對する對抗策、犬の配置、使用法等の御説明を受ける。是等の犬は全部奉天の監視犬育成所に於て會員中久喜氏の指導の許に訓練され、配給を受ける組織に成つて居るとのことである。

故に旅行者は満洲國経済部税関監視犬制度の全貌を知る為めには、此の両者を併せ見學しなければならない。

安東は満洲犬界の弗箱賽犬(※満洲軍用犬協会ドッグレース事業のこと)の發祥地である。是非見學したかつたが、汽車の時間の都合と雨に禍されて止む。

相馬安雄・蟻川定俊 『大陸かけある記』より 昭和18年

 

南満洲教育會教科書編集部『満洲補充讀本 六の巻』より

対ゲリラ戦の最前線にあった満鉄の教科書ゆえ、文部省の「犬のてがら」とは段違いの内容です。

 

【児童教育と犬】

 

日本の尋常小学校では、教材にも犬が用いられていました。有名なのが忠犬ハチを題材にした哀話「オンヲ忘レルナ」や軍犬武勇伝「犬のてがら」など。これらは少国民へ皇民化教育や軍国教育を施すという目的がありました。

満洲の日本人学校では、次世代の満洲国民を育てるためどのような犬の教材が用いられていたのでしょうか?

調べて無いからサッパリわかりません(こればっかり)。

 

日本統治下の教育現場では、皇民化政策として文部省の教材が使用されています。
しかし独立国である満洲では、五族共和のタテマエからも少々事情が異なりました。

 

在満日本人への教育制度が確立されたのは、建国のずっと前。モチロン文部省ではなく、南満州鉄道株式会社教育研究所が運営する学校でした。当初、満鉄では日本の教材を用いていましたが、掲載されている日本の習慣や風物は満洲児童にとって馴染みのないものばかり。
満鉄は関東州司政部との教材統一をはかり、大正11年に「南満洲教育會教科書編輯部」を設立。それから日本式教材からの脱却が始まります。満洲国が建国された昭和7年には、「日本式教材」の排除と満洲独自教材の普及が進められました。
この独自路線が許されたのは昭和12年までのこと。日本人学校の教育行政が満鉄地方部学務課から在満日本大使館教務部へ移管されたことで、方針の大転換がはかられます。
南満洲教育會教科書編輯部が教務部・関東局共営の「在満日本教育會教科書編輯部」へ、続いて昭和15年には大使館教務部が関東局下の「在満教務部」へ移行する過程で日本式教材が復活。
戦況が激化する中、昭和16年には国民学校令が公布され、内地の尋常小学校や満洲の日本人小学校は「国民学校」となります。
更に昭和18年の「在関東州及満洲国帝國臣民教育令」によって、教材も内地と統一されてしまいました。

 

ハイラル日本人小学校で使われていた教科書

 

南満洲教育會の教科書には、さまざまなイヌが登場します。
まず二年生の教材で取り上げられるのは、ハリネズミを見つけたペスのお話。

ほえたてる ペス を なだめて、しづか に 見まもる こと に しました。しばらく まって ゐます と、その まんまるい とげ が むくむくと 動きだして、中から にょっきり あたま を 出しました。
その かほ は ちゃうど たぬき の やうで、二つ の 目は くろく 光って いました。
ペス は なほさら おどろいたらしく いきなり ほえて とびつきました。すると、また もとの まるい くり の いが に なりました。
その かはりかた の 早いこと。
その くり の いが の やう な どうぶつ を もって かへって にいさん に お見せする と
「これ は はりねずみ と いって、まんしう の 山 や のはら に よく 住んで ゐる けもの です」
と をしへて くださいました。それ から 箱 の 中 に 入れて かふ こと に いたしました。

南満洲教育會教科書編輯部『満洲補充讀本二の巻 十四 はりねずみ』より


同じく『二の巻 二十 けが を した 犬』に登場するのは、怪我をした仲間を家畜病院へ連れてきたロシア人の飼犬。

それから一月ほどたったある日のことでした。おいしゃさんの家のドアをかきむしるやうな音がしますから出て見ますと、前にあしをなほしてやった犬が來てゐます。
そのうしろにもう一ぴき犬がゐます。その犬はあしにけがをしたとみえて〇っこをひいてゐます。
おいしゃさんは思はずわらひ出して「これはこれは、おきゃくさまをあんないして來たあ。これはどうもおそれいった」といひながら、その犬にてあてをしてやりました。てあてがすむと二匹の犬は、ををふりふり出て行きました。

続いて三年生の教材。大連の周さんが経営する工場で、火災の発生を報せた黒犬のお話が載っています。

たゞならぬ物音に主人が戸をあけて見ると此のありさまです。おどろきあわててうら口からやっとにげ出ることが出來ました。
其の中に消防隊がかけつけて來てやうやく火をけしとめてしまひました。
にげた人たちはおたがひに手をとりながら
「よかった、あぶないところだった。」
と喜びあひました。
「それも、あの黒犬のおかげだ。」
「犬はどうしたらうか。」
「どこへ行ったらうか。」
人々は急に黒い犬のことが心配になって名をよびながらあちこちをさがしました。いつもなら尾をふって喜んでとびついて來る犬が姿を見せません。
皆はもしやと思ひながら、やけあとをさがしました。すると犬はやけ死んでゐたのです。
周は黒犬を手あつくはうむり、りっぱな石碑をたてました。

『三の巻 二十二 ある犬の物語』

 

四年生では、関東軍軍犬育成所の遼陽軍犬慰霊碑が取り上げられます。

此の塔は、昭和十三年の秋に出來上つたとのことであつた。僕たちを旅の者と見たらしく、少年はなほいろ〃のことを聞かせてくれた。
「もとは、向かるの共同墓地の方にあつたのです。遷座祭の時には、僕等もお手つだひをしましたが、日露戰争の時の英霊が一萬四千三百六十四柱、それに満洲事變で五百柱以上もふえてゐるのですから、なか〃大へんな行列でした。
御遺骨をお運びするのに用ひた棒は、僕等の學校でもらひ受けて、木剣に作りかへてゐます。」
廣場の左に、もう一つ小さな塔があつた。行つて見ると、それは軍犬の忠魂碑であつた。日本人のやさしい心が思はれてうれしかった。静かに風が吹いて通る。白塔の上に朝日がきら〃と上り始めた。
 

『四の巻 十二 忠霊塔巡り』より

 

小学五年生の教材では、遂に牧羊犬と細狗(たぶん)が登場!

私たちがお別れしようとすると、尾の長い犬がのそ〃と近づいて來ました。
「これは蒙古犬なんです。蒙古人は中々犬を手放さないのですが、これはやっともらって來たのださうです。猟犬で兎などを追ひます。一度かみついたら放さないといふ犬なんです。」
案内の方は馴々しく其の犬の頭をなでました。

『十八 公主嶺の農事試験場』より

牧草のある所に着くと、終日自由に草を食べさせたり水を飲ませたりする。追手が小高い所に立って大きな聲で呼びながら鞭を高く上げると、馬は一匹づつ其の前を通る。其所で一々頭數を調べて追って帰るのである。
羊を飼ふのは女や子供や老人などの仕事になってゐる。鞭を持った女や子供が妙な聲を出して羊を呼びながら追って行くのも面白い。
犬もそれにまじって追手の役目を勤める事がある。列をはなれた羊があると、犬は吠立ててそれを整頓する。
蒙古人の生活は總べて家畜本位である。
「お宅の羊は何匹子を産みましたか。」
「今年の牧草の出來ばえはどうですか。」
などと言ふの、彼等の日常のあいさつになってゐる。

『二十四 蒙古の牧畜』より

 

サテ、満洲の教材でもイヌを使った軍国教育はおこなわれていました。
文部省のような薄っぺらの武勇伝ではなく、その歴史や満洲国における運用法を含めた詳細な解説から始まっています。「此の軍用犬は戰争(※第一次世界大戦)の起らない前は、羊の番や護衛の爲に使はれてゐたが、一度訓練をして戰場に出すと、傳令・警戒・捜索など人間以上の働を見せたので、各國でもドイツにならって、急に軍用犬の訓練を始めるやうになった」などとシェパードが牧羊犬であることも述べられていますので、文部省のような「シェパード=軍用犬」と錯覚させるような教育も避けられています。

続いて関東軍の軍犬運用事例が6ページに亘って列挙されます。鉄道破壊工作を阻止した奉天獨立守備隊の警戒犬ドル、エス、ジョン(史実では不審者を逮捕しただけですが、この教材では殺害したことになっています)。文部省の「犬のてがら」と同じ、満洲事變で散った那智・金剛。鋭い嗅覚でゲリラの夜襲を察知したフィリア號、匪賊の大群を迎撃中に犠牲となったピック號。

 

特に那智・金剛の話は、文部省と南満洲教育會の教材を比較すると幾つかの相違点がみられます。日満の軍犬教材を読み比べてみましょう(どちらも小学5年生用です)。

満洲事變の最初の夜の事でした。
我が軍にしたがつて、傳令の役をして居た軍犬金剛・那智は、いよ〃とつげきとなると、我が軍のまつ先につき進んで、敵軍の中にとびこみ、死物ぐるひで、かみつきまはりました。
はげしい戦の後、敵はとう〃陣地をすてて逃げました。
をりから上る朝日の光に、高くかゝげた日の丸の旗は、勇ましくかゞやきました。
萬歳の声は、天地にとゞろきました。
しかし、あの金剛、那智はどこへ行つたのでせう、いくら呼んでも、かへつて来ませんでした。
犬のかゝりの兵士は、一生けんめいになつてさがしました。
とう〃見つけました。
けれども、それは、をり重なつて死んで居る敵の死がいの間でした。
二匹は、身に幾つものたまを受けて、血にまみれて死んで居ました。
よく見ると、二匹とも、口には、敵兵の軍服の切れはしを、しつかりとくはへて居ました。
これを見た兵士は、思はず涙ぐみました。
軍犬の金鵄勲章ともいふべき甲號功章を、始めていたゞいたのは、實にこの金剛・那智でありました。

文部省 小學國語讀本巻五『犬のてがら』より

那智・金剛の二勇犬は、満洲事變の發端をなした北大営の戰闘で、第一線に参加して目ざましい戰死をとげた。
當時大隊本部附の故板倉少佐は愛育してゐた軍用犬メリー・那智・金剛の三頭を使って、中隊と大隊本部との連絡をとってゐたが、第一線が突撃に移ると同時に「行け。」と一聲、兵士に先立って、この三頭を敵の兵営内にをどり込ませた。
彼等は銃火を浴びながら、逃ぐるを追ひ、來るをかみ、よく奮戰したが、暗夜のことであったので、遂に三頭とも姿を見失ってしまった。
戰闘が終ってからも、どうしたものか三頭は姿を見せない。少佐は、たぶんまくらを並べて敵陣に名誉の戰死をとげたものであらうと、わざ〃戰場の跡を尋ねると、那智・金剛の二頭は果して死骸となって發見された。
二頭とも二頭共胸に貫通銃創を受け、其のあたりの地上を真赤に血で染めてゐた。少佐はたとひ犬であっても御國の爲にさゝげた命はたふといものだと、那智・金剛の戰死の地に小さな墓標を建てて、其の霊をなぐさめてやった。

南満洲教育會教科書編輯部『満洲補充讀本五の巻 十二 軍犬の話 二』より

 

おお、日本では存在を抹消されたメリーが登場している。

政府の関与は不明ですが、満鉄関係者は自社の学童に対する軍犬報國運動を展開していました(もちろんボランティアで)。

 

この日―
吾々(※満鉄警戒犬)育成所の近くに満人兒童を教育して居る瀋陽扶輪小學校と云ふのがあるが、同校は日系の五頭校長を初めニ人の日人の先生があるので、朝夕出勤列車中で挨拶を交してゐる中、警備犬訓練公開のお話をした所、校長も非常に賛意を表して喜ばれ、是非近い中に御願ひしますとの談合により―
五周年記念展の向ふを張るべく(ホホ…)五月一日の吉日を選び吾育成所に五百餘りの兒童を招き例に依つて訥弁ながら一場の説明を爲し次いで訓練の公開を致しました。
全く珍らしいと云ふか、不可解と云ふか訓練手の一挙手一投足に従つて活動する警備犬の姿及び動作にジーツと見入つて訓練を終了する迄丸で神秘の何物にか引きつけられたる如く静観してくれた熱心さには吾々育成所の連中も非常に感激した。當日満人兒童に映じた感想文(譯文)を一部転記して誌友に御紹介致しませう。

警備犬訓練参観記 五月一日
瀋陽扶輪小學校 高ニ甲 鄭張龍

五月一日我校三年生以上は十二時過ぎ揃つて警備犬訓練を見に行きました。この日天に雲なく晴れ渡り遊ぶにはほんとによい日でした。
分校も來ました。
すると向ふから所長さんがおいでになつたので校長さんは我等に起立させ礼をし所長さんから色々話がありました。
それから一人が、犬をつれて場内に来て色々な訓練をしました。遺失物を拾はせたり襲撃をさせたり、伏せをさせたりなか〃人でさへむづかしいことをよくしますので思はず讃嘆の声を出しました。
終わつて三頭の犬を我等の前につれて來て犬の名や、産地用途等を説明して下さいました。更に私等高ニ生は犬小屋の方へ参観に行きました。大きな犬や小さい犬が居てワン〃と吠へました。犬の食料室を見ますと卵や肉や白菜等人の食物よりもよいのに驚きました。
毎日一匹に参拾銭もかゝるさうです。しばらくして學校へ帰りました。
犬のやうに無智な動物でさへこのやうに役に立つのに況して、萬物の霊長たる人が犬に劣つてはなりません。大に努力して勉強せねばなりません。

満鉄職員細川伊與三氏『満犬スケッチ』より 昭和12年

 

教育現場でも、軍犬武勇伝を授業に取り入れたケースがあります。軍国教育というよりは、軍犬慰霊にからめた情操教育に近いものでしたが。

 

那智・金剛慰霊祭

奉天加茂小學校で執り行われた那智・金剛の忠犬5周忌。

 

関東軍が犬を大切に弔ったのかというと、軍馬のオマケみたいな扱いでした。指揮官に軍犬の理解者がいる間はチヤホヤ持て囃し、その人物が異動した後は放置状態という「思いつき・行き当たりばったりの慰霊」が横行していたのです。

 

貴志重光大尉・宍戸軍曹のコンビが関東軍軍犬育成所へ異動した後、戦没軍犬の墓は世話をする者もなく荒れ果ててしまいます。奉天の教練場跡に残された両犬の墓は草生すままに放置され、挙句の果てに墓石も何者かによって盗まれていました。
この状況を憂いていたのが奉天加茂小学校の池永校長。校長は両犬の功績を伝えると共に、情操教育の一環として校庭に軍犬の墓を移設する事を提案します。
奉天守備隊、特務機関地方事務所の後援を得て、満鉄当局に9月18日までの墓碑建立依頼が具申されました。

新進気鋭の超エリート校ゆえの、なかなか突飛な取り組みでした。

 

3年前に那智と金剛の遺骨は神奈川の延命寺へ送られており、奉天に残された墓の中は空となっていた筈です。
しかし8月18日に墓を掘り起こしたところ、土中から那智・金剛及び、行方不明になった筈のメリーの遺骨が発見されたと報道されました。

去る十八日、池上校長は奉天神社の神職を招き、午前十時半より全校生徒を集めて忠犬の墓地發掘を行つた処、ビール箱に入れられて抱き合つてゐる「那智」「金剛」の骨が、同じく埋められた軍用犬メリーの骨と共に首輪までついたまゝ發見された。
一同の感激裡に、三つの骨壷に納められて同校ゝ長室の祭壇に安置された。

祭壇の前では、3年生の岡本巌君がこのような文を読み上げました。

君が北大営の戰ひに勇ましい働きをしたことを三年のご本で習ひました。そして皆感心してしまひました。こんな勇ましい手柄をたてた君が、こんな処に埋もれてゐるのは残念です。
これから私達の手で校庭に移して叮嚀に葬ります。君も喜んで私達の処に來て下さい。

昭和11年9月18日13時、加茂小学校校庭にて那智・金剛の忠犬5周忌祭典が盛大に営まれます。「忠犬金剛、那智之碑」と名付けられた新墓標は、土饅頭の芝生も綺麗に掃き清められ、式場には多くの花輪が忠犬の手柄を讃える為に飾られていました。
三浦特務機関長、倉橋地方事務所長代理、宍戸曹長、満洲軍用犬協会本部・支部代表、父兄会、皆川連合町内会長らが列席する中、先ず神官の修祓が行われ、祭詞奉読後に小田部隊長、池上校長、MK代表、児童代表(佐伯君)が祭文を朗読しました。
玉串奉奠の後、忠犬の霊に対して一同心からの敬礼を捧げ、14時に閉会となります。


昭和8年9月6日に奉天から神奈川の逗子小学校に送られた那智・金剛の遺骨。
昭和11年8月18日に奉天の加茂小学校に安置された那智・金剛・メリーの遺骨。
どちらが本物だったのか、今となっては知る由もありません。
軍犬4頭の遺骨が奉天と神奈川に6体分存在する矛盾について、当時は疑問に思う人もいなかったのでしょう。

 

動物愛護精神を育む上で、このような教育は決して有害ではありません(当時の基準で)。しかし、国家に利用された那智と金剛の死を扱うには教育者として余りにも無警戒でした。

奉天以外の教育現場で、どのような指導がおこなわれていたのか。児童たちはどう受け取ったのか。満洲世代に訊ねてみたいですね(私も周囲の満洲引揚げ者に片っ端から聞いたのですが、酒の席ゆえハナシが脱線してばかりでした)。

 

……結局、満洲国政府はどこまで関与してたの?

 

(次回へ続く)

 

満洲国の畜犬史・その3 満州事変と犬

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満洲事變の最初の夜の事でした。
我が軍にしたがつて、傳令の役をして居た軍犬金剛・那智は、いよ〃とつげきとなると、我が軍のまつ先につき進んで、敵軍の中にとびこみ、死物ぐるひで、かみつきまはりました。
はげしい戦の後、敵はとう〃陣地をすてて逃げました。
をりから上る朝日の光に、高くかゝげた日の丸の旗は、勇ましくかゞやきました。
萬歳の聲は、天地にとゞろきました。
しかし、あの金剛、那智はどこへ行つたのでせう、いくら呼んでも、かへつて來ませんでした。
犬のかゝりの兵士は、一生けんめいになつてさがしました。

犬のてがら2

とう〃見つけました。
けれども、それは、をり重なつて死んで居る敵の死がいの間でした。
二匹は、身に幾つものたまを受けて、血にまみれて死んで居ました。
よく見ると、二匹とも、口には、敵兵の軍服の切れはしを、しつかりとくはへて居ました。
これを見た兵士は、思はず涙ぐみました。
軍犬の金鵄勲章ともいふべき甲號功章を、始めていたゞいたのは、實にこの金剛・那智でありました。

画像と文・小学國語讀本巻五『犬のてがら』より

 

メリーの存在を抹消し、伝令犬(文書を運搬する軍用犬)だった那智・金剛姉弟の死を「敵兵の軍服の切れはしをしつかりくはへて」格闘したかの如く改竄、軍国教育の教材とした「犬のてがら」。

その歪曲の過程は別記事で取り上げましたが、今回は那智・金剛・メリーではなく満州事変を中心に解説します。
 

【満州事変勃発】

 

南満州鉄道株式会社の鉄道附属地を警備する関東軍独立守備隊(当初は6個歩兵大隊規模)は、昭和5年頃から軍用犬の本格配備に着手。青島シェパードドッグ倶楽部など大陸の畜犬団体から犬の調達を進めると共に、千葉県の陸軍歩兵学校から専門家を招聘して実戦へ向けた準備を整えます。

 

昭和6年9月18日、関東軍は満鉄の線路を爆破。これを中国側の仕業とした独立守備隊は、張学良軍北大営兵舎への攻撃を開始します。満洲全土を奪取するための謀略工作、いわゆる満州事変の始まりでした。

その夜、独立守備歩兵第二大隊の板倉至大尉は軍犬「那智」「金剛」姉弟と「メリー」を連れて北大営攻撃に参加。陸軍歩兵学校軍用犬研究班の出身であり、日本シェパード倶楽部(NSC)メンバーでもあった板倉大尉は、渡満前から「満洲の地で軍犬の能力を試してみたい」と周囲に語っていました。遂にその時がやって来たのです。

伝令任務にあたっていた三頭は乱戦の中で行方不明となり、やがて那智とメリーが射殺体で発見されました。日本軍犬の初陣は戦死二頭・行方不明一頭という無残な結果に終わります。

 

その能力を一定評価した各大隊では板倉大尉に犬の購入を依頼。9月末になって上海シェパード倶楽部からジュリー、青島シェパードドッグ倶楽部から生後3ヵ月(昭和6年6月10日青島生れ)の「ローン」「クラウ」「エツ」の3兄妹が到着します。
奉天到着後に病死したエツを除き、ジュリー、ローン、クラウに対しては同年11月から5ヶ月間の基本訓練が始まりました。更に3ヶ月間の応用訓練(傳令、線路巡察、襲撃警戒)の間、ドーベルマンのエスカードなども追加補充されていきます。

 

満洲国での抗日運動は続き、中国では第一次上海事変も勃発。大陸での軍犬配備は拡大していきました。

昭和7年

 

【抗日勢力との戦い】

 

日本政府や軍部が不拡大方針をとり、国際連盟が撤兵を勧告する中で、関東軍は暴走を続けました。

満州事変に対し、現地の軍閥は一斉に反発。満鉄を含めた日本側の施設や人員へのゲリラ攻撃を激化させます。

10月18日、抗日勢力の集結する錦州を関東軍が爆撃すると、中国義勇軍第164軍団も反撃を開始。11月26日、それに対する牽制として独立守備歩兵第2大隊に出動が命じられました。 なお、訓練中だったジュリー、ローン、クラウは奉天に残されています。

 

歩哨犬

鉄道警戒中の関東軍軍犬

 

翌27日、第二大隊に先行する日本軍装甲列車は、饒陽河付近で中国義勇軍装甲列車と遭遇。激しい砲撃戦の中、軍用列車間の連絡任務にあたっていた板倉大尉も戦死してしまいます。大尉の戦死が従軍記者の目前で起きた結果、それまで独立守備隊のみで知られていた軍犬のエピソードは「国家に殉じた板倉大尉とその愛犬」として大々的に報道されました(まだ日本軍の戦死者が少なかった時期です)。

板倉大尉の遺族はジュリーを連れて帰国。異国日本で平穏な生活を始めたジュリーですが、翌年に神奈川で病死しました。

 

満鉄沿線の巡察を終えて駈け戻ってくる軍犬と、待機中のパトロール隊。

 

板倉大尉の戦死後、独立守備隊には同じ歩兵学校軍用犬研究班出身の貴志重光大尉が愛犬ブリッヂと共に着任。軍犬普及を目指す貴志大尉は「那智・金剛・メリーの武勇伝は格好の宣伝材料になる」と判断し、積極的な広報活動を展開しました。

現代へ伝わる武勇伝へのハデな脚色は、その過程で為されたものです。その後も尾鰭つきまくり・辻褄あわせのウソが重ねられていきました。

 

さすがに見兼ねたのか、板倉大尉に那智・金剛を寄贈した浅野浩利氏(青島シェパードドッグ倶楽部会員)がツッコミを入れております。

 

七月六日、全國の諸新聞は軍用犬那智金剛の二犬が軍用動物表彰のトツプを切つて金鵄勲章を授與される事に決定、七日板倉少佐未亡人のお住所逗子町に土地の小學兒童が小遣銭を出し合つてこの忠犬の爲め延命寺院境内に建てた記念碑の除幕式當日、恩賞課の村山大尉が出張して碑前に勲章を授けるといふ記事を初號見出しで載せてゐる。

又記事の中には皆一様に両犬の最期を飾つて、支那兵の軍服の切れ端しを咥へたまゝ白雪を朱に染めて云々の文句がある。

何處から此ニユースを供給したか知らないが、いくら満洲が寒いといつても、九月十八日に白雪はチト筆が走り過ぎてゐる。

浅野浩利『軍犬那智、金剛の思出』より 昭和8年

 

独立守備隊の宣伝は大成功を納め、関東軍での軍犬配備は拡大していきます。満州事変によって激化した抗日活動への対処には、犬の力を借りる必要がありました。

 

貴志

鉄道破壊工作員を捕らえた独立守備隊軍用犬の記念撮影。

後列が貴志大尉、前列中央が右腕として活躍した宍戸軍曹。軍犬はドル、エス、ジョン。

 

【匪賊討伐と軍犬】

 

大同元年(昭和7年)9月15日に日本が満州建国を承認したことで、抗日運動は更に激化していきました。同日夜に満鉄撫順炭鉱が紅槍会に襲撃されると、追撃する日本側も平頂山虐殺事件を起こすなど、報復の連鎖が拡大。満鉄の施設や職員へのテロも相次ぐ中、関東軍は紅槍会が立てこもる東邊道への攻撃を決定しました。

 

 

鉄道警備任務に就いていた軍犬たちも、紅槍会討伐作戦に動員される事となります。
この作戦には、第2大隊軍用犬班を中心として第4大隊のローン、クラウ兄妹、同第3大隊の斥候犬エスカード(通称クロ)、ツレフ、瓦房、ウェルジー、エル、レオ、ブリッヂといった優秀犬を選抜。臨時の軍犬隊が編成されました。

10月14日、上夾河部落付近で紅槍会との交戦が始まります。軍用犬班側も犠牲が続出し、作戦期間中にクラウが病死したのを始め、15日には傳令任務中のエスカードが狙撃されて戦死。続いてツレフも戦死しました。

 

「東邊道は一帯に山岳地帯であつて、或所には峨々たる山あり、淙々と流れる渓谷も多くある。その爲めこの一帯は集匪の中心となつて、討匪には相當困難を感ずるのである。三角地帯を追はれた匪賊は、先づこの地帯に潜入するのである。

秋の満州は空高く澄み渡つて、荒涼特に棘々しく胸を刺す感が深い。中間の縦隊に在つた我部隊も、豫定の如く討匪も進捗して、出發以來十數日を苦闘して差懸つた或部落の約千米も手前の所で、部落を中心に廣く両翼に陣地を占領した敵から突如射撃を受けて、騎兵尖兵は戰死者一名、戰死馬五頭を出した。

 

 

第一線は猛烈に攻撃前進を起したので、犬は一線両中隊と大隊本部間の傳令に終始した。暫時して數機編隊の吾爆撃機は頭上を飛んで、各機毎に分れ、山上、村落上を乱舞して物凄い爆撃を始めた。山上には炸裂した爆弾の黒煙が、鯨が潮を吹く様に飛び立ち、部落には濛々と煙が空を覆つて擴まつて行く。一機が放つて落した通信筒をレオ(※新宿中村屋の相馬安雄社長が寄贈した犬です)が持つて本部へ來る。

その頃敵は漸次敗退の色あり第一線は猛撃を加へつゝ部落の縁にとついた。大隊長は部落に残存する敵を掃蕩しつゝ急迫を命じたので、各隊に分属された犬と、本部に残つて居た豫備犬は急に各隊の先頭に配属して、第一線は犬に先頭を警戒させつゝ部落に侵入して行つた。

中間部隊の犬兵は負傷した匪賊に撃たれたが、犬は勇敢に攻撃して捕へた。そこらには敵の戰死者に混つて、満洲名物の黒豚が撃殺されたり負傷してギヤー〃泣いて居る。若犬は餘祐綽々、通りすがりの瞬間豚の鼻柱に齧り付いて怒られはせぬかと、後を向いてこの敵を見て、又駈出す茶目公も居た」

藤村高『北満討匪の軍犬活躍實記』より

 

長距離行軍と戦闘に疲れ果て、乏しい食料を食いつなぎ、敵の夜襲に備えて熟睡もできない日々。作戦に従事した兵は、軍犬の存在は心強かったと述懐しています。

10月23日夜、ローンと本木1等兵が趙家保子附近で警戒中、周囲の野犬が騒ぎはじめます。紅槍会の逆襲でした。
ローンはいち早くこれを察知、部隊に警報を発したことで迎撃に成功。昭和9年、ローンとエスカード(戦死)には甲功章が授与されました。

 

帝國ノ犬達-ローン

獨立守備歩兵第四大隊軍犬班アルバムより、ローンに授与された甲功章付首輪と賞状。

 

【満州事変の総括】

 

日満両国において軍犬武勇伝は大々的に宣伝され、遂には教科書にも掲載されます。日本国民もその活躍を信じて疑いませんでした。

さて、満州事変で軍犬は実際に大活躍したのでしょうか?

 

残念ながら、関東軍自身の評価は「失敗」という厳しいものでした。

日中戦争勃発により「中国戦線の軍犬訓練も関東軍軍犬育成所が支援すべきか」を検討した際、満州事変での問題点が指摘されています。

 

 

将來北支方面軍ニ活躍スベキ軍犬幹部ヲ養成スルニアラズンバ其ノ将來ハ懸念スベキ事情多シ。

先ニ関東軍ガ満州事変後鐵道警戒及討伐ノタメ獨立守備隊ニ軍犬ヲ配備シタルモ、軍犬兵及幹部ノ軍犬教育之レニ伴ハザリシタメ、

軍犬ノ認識ヲ誤リタルノミナラズ、利用不十分ニシテ一時其ノ聲價ヲ失墜セシメタルコトアリ。

事変尚鎮マラザル方面軍ノ現状ニ於テ軍犬幹部ノ養成、軍犬兵ノ教育及軍犬ノ訓練補充ハ目下不可能ナル實情アリト雖モ、将來教育訓練、補充ノ圓滑ナル實施ノ如何ハ直接方面軍軍犬ノ盛衰ニ関係スル所極メテ大ナルモノアルベシ。

関東軍ハ此ノ間ニ立チ、北支方面軍ニ對シ再ビ失敗ヲ繰リ返サシメザル如ク教育、訓練、補充等ニ對シ大乗的立場ヨリ之レヲ援助スルハ両軍共同作戦ノ見地ヨリ関東軍ノ一使命ナリト信ズ。

『北支方面軍ニ於ケル鐵道及沿線警備状況ト軍犬ノ利用價値並ニ所感』より、『其ノ三 関東軍トシテ北支方面軍ニ對スル態度ニ関スル所感』抜粋。

 

 

軍犬の能力というより、それを運用管理する人的システムが不完全だったというコト。貴志大尉と宍戸軍曹が去った後、独立守備隊では軍犬を顧みる者もなく、戦没軍犬の墓も荒れ果て、いつの間にか墓石すら盗難されている有り様でした。長期的な人材育成・技術継承が確立された軍馬関係者と違い、幹部の異動ごときで活動が停滞する軍犬班は持続性に欠けた組織だったのです。

この状況が改善されるには、教育訓練を担う関東軍軍犬育成所や調達窓口たる満洲軍用犬協會の設立を待たねばなりませんでした。

 

 

【満州事変後の軍事衝突】

 

大同元年(昭和7年)に満洲が建国された後も、軍事衝突は続きました。

翌年になると、満支国境に位置する熱河省の帰属を巡って日中両軍が対立。張学良軍が熱河省へ集結すると、関東軍も越境攻撃を開始します。 熱河省の占領と万里の長城(国境線)を確保した日本軍に対し、中国側は国境付近での軍事挑発を続けました。

 

帝國ノ犬達-軍用猫

険悪化する日中のはざまで猫と戯れる熱河省長。

 

熱河

 

5月3日、日本軍は万里の長城を越えて関内へと侵攻(関内作戦)しました。共産軍への対処など諸問題を抱えていた蒋介石は、日本側との和睦へ動きます。

5月31日、塘沽協定の締結によって中国側も満洲建国を黙認。軍事衝突はようやく終わりました。

 

戦闘終結後も、満洲国内での抗日ゲリラ活動は続きます。康徳元年(昭和9年)に満洲へ派遣された陸軍第三師団は匪賊討伐作戦を展開。これに従軍した名古屋歩兵第六連隊軍犬班の証言が残っています。

過酷な行軍や指揮官の無理解など、その苦労が偲ばれる内容です。

 

出席者

・歩兵第6聯隊軍犬班長土屋軍曹以下5名
山田守軍犬兵 
後藤清軍犬兵 
西川五郎軍犬兵 
新美一彦軍犬兵 

 


・緑會
杉原禮三
山田逸
花木釻ニ
兒島景之
鬼頭光次郎
岡本文四郎
岡本松五郎
中尾英一
「ドッグワールド」藤田主幹

 

犬
右から神勇、明星、朝緑の三軍犬が満洲で勤務實況

 

【軍犬の輸送前後】
岡本松五郎(以下松五郎)「彼方へ行く船中は何時間で、その船中の手當は如何でした」
山田守「四十五時間かゝります。その間運動は一日三回の割でしました」
杉原禮三「汽車の中は何日かゝります」
新実一彦「この方は五十三時間で、停車時間中外に出して運動させました」
花木釻ニ「ラツキー(犬名)は出發前腹具合が悪かつたが其後如何でした」
山田「異状ありませんでした」
後藤清「何れも皆元氣でした。任地へついたときも、皆元氣でした」
岡本文四郎(以下文四郎)「任地へ着いてから住民や野犬に對する動作は如何でした」
西川五郎「どの犬も野犬や、日本人以外の住民には噛みつき相にします。特に朝緑 (犬名)を見ると住民も犬も皆逃げてしまひます」
山田逸(以下逸)「満洲ではどんな性質の犬がよいと思はれますか」
後藤「氣の強い犬がよいと思ふがどうです、山田君」
山田、新実、西川「其の通りです」
松五郎「明星 (※岡本さんが献納した犬)は温順の犬で、人に噛み附いたことがありませんが、彼地ではどうです」
山田「なか〃そうでなく、よく噛み附いて、始めは困りました」
松五郎「幸(犬名)は明星同様の犬でしたがどうです」
後藤「これも中々油断なりません。よく噛んで強かつたです」


【討伐出動の回數】
土屋軍曹「討伐は何回位参加したか」
山田「ラツキー、明星は十四、五回かと思ひます」
後藤「神勇(犬名)もその位と思ひます」
西川「朝緑(帰国後、第二次上海事変へ再出征し戦死)は十六、七回かと思ひます」
新実「スター (犬名)は初め二、三回と思ふが、七月交代以後は西川君どうです」
西川「其後は使用しませんでした」
兒島景「神勇、朝緑、ラツキー、明星のみ使用されたやうですが、其他の犬は、役に立ちませんでしたか」
西川「役に立たぬと云ふわけでも有りませんが、演習と違ひますから、どうしても役に立つ犬のみ使用するから、幾分劣る犬は後まわしになるのです」

帝國ノ犬達-犬

戦地のスター號(エアデール)。昭和11年3月19日、匪賊討伐作戦中に戦死しました。

【任地の訓練状況】
藤田主幹「任地に於いての訓練は」
西川「傳令のみ主としてやります」
文四郎「任地で使用するには基本訓練は餘り必要ないと思ふがどうですか。特に襲撃、監視等は全然必要がない様に思ひますがどうです」
山田「御説の様に思はれます。襲撃等絶對必要がありません。前に申した通り、猫の様なおとなしい明星でもよく噛附き、異國人は絶對に寄せ附けません」
文四郎「私の今日までの経験はシエパードは障害物をくぐるか、或は廻り道をするかで、殆んど飛越して行くのはありません。ドーベルは教へなくても大抵の物は飛越して行きますが、満洲ではどうでした」
西川「其の通りです。ドーベルは大抵の物は飛越して傳令に行きます」
後藤「シエパードは難儀をして鐵條網をくぐつて行きます」
兒島「そうすると結局、基本訓練の必要なしですか」
土屋「まあ極端に言へばそんなものですが、基本訓練は御承知の通り人犬の親和を目的として行ふもので、矢張り必要と思ひます」
松五郎「神勇は基本訓練が有りませんでしたが、成績はどうでした」
後藤「任地へ行つても基本訓練を嫌ひますのでやりませんでしたが、傳令はシエパード中第一位です」
土屋「傳令は片道のみか往復もか」
西川「どの犬も往復をやります。唯一往復より出來ぬものと、何回でも出來るものとあります」

【夏と冬と何れが楽か】
逸「討伐は夏と冬と何れがよいですか」
西川「夏がよいと思はれます」
山田「冬は露営又は食料等にも困ります」
杉原「夏は何十度と云ふ暑さでは人も犬も難儀であり、又蚊が喰ひはしませんか」
新実「日光の當る所は暑いが、少し蔭へ入ると實に涼しいです。夜は冷えますから楽です。蚊は居ません」

 

朝緑

満洲から帰国後、第二次上海事変へ再出征する朝緑。上海到着から2週間後の9月7日、伝令中に被弾戦死します。


【犬の食料問題】
松五郎「討伐中の食料は」
西川「或地點まで馬で運ばれたものを各自が分配を受け、二食分(飯ごう一ぱい)の自炊をしますが、兵は二食分ですが、吾々は犬と共同ですから早く食べて後の分を大急ぎで煮るのです。進軍中は煮るひまのないことも度々ありました」
松五郎「かたパン等の時も有りますか」
山田「有ります。其のときは犬には噛んで食さすか、水に漬けて喰はせます」
文四郎「犬の分は犬に背負はしたらどうです」
西川「行軍中はよいでせうが、犬を使ふとき、其荷物に困ります。自分達も持てるだけのものを持つて居ますから、犬の分までは持てませんから……」
中尾英一「そうすると兵隊さんも犬も腹がへりどうしですな」
後藤「さうです。さう云ふことは度々あります。併し水だけはよいのが有りますから結構です。討伐に行くと犬も少しも油断がないのと、食料が不足するので痩せます」

 

【出動犬の手入れ】
松五郎「討伐中の手入れは」
西川「ひまが有る限り藁の様なもので擦つてやりますが、虱がわいたり、よくダニが附いて困るときも有ります」
中尾「民間の犬の食料はどんなものを喰はして置くと、隊へ行つてから都合がよいですか」
山田「粗食です。味噌汁に麦飯が一番よいでせう」
土屋「さうです。秋季演習中粗食せぬ犬が有て困りました」
松五郎「喰ふまで捨てゝ置いたらどうです」
土屋「だん〃痩せて行くのを見ると氣の毒で捨てゝ置けませんから、平常から粗食さすのですな」
山田「明星は何もない飯だけで平氣で喰ひますから、食事の方は楽です」

 

スター

向かって右より、スター、ラツキー、明星、神勇、朝緑(モアレが……)


【軍犬兵の任務】
松五郎「討伐中は日中は傳令に、夜は歩哨に不眠不休の活動であると云ふ事を一寸聞きましたが、歩哨は他の兵隊さんですか」
西川「軍犬兵もです」
松五郎「軍犬兵の方は餘分の働きですな」
山田「そうです。何かに付けて犬だけは餘分ですから、普通の兵より難儀です。其かわり心強いことは多々ありますからよいです」
杉原「他の人が犬を連れて歩哨は出来ませんか」
西川「できますが、其兵が犬の動作を見分けることを知らぬと何の役に立ちません」
中尾「ドーベルは短毛ですから寒氣には如何ですか」
西川「違ひありません。長毛種の犬でも室外へ出たときは顫(ふる)へますが、動作に移ると普通です。ドーベルは幾分毛が長くなるかと思はれますのは、朝緑の背のはげが毛にかくれる様になりました」

【露営と犬の始末】
松五郎「露営のとき犬はどうしますか」
山田「だいて寝ます。犬も大いびきで寝ます。外に異状があればすぐわかります」
文四郎「若しあなた方が今後犬を飼はれるとしたら、何種を飼はれますか」
新実「ドーベルです」
文四郎「ドーベルはどこがよくて希望されますか」
新実「何とも云へぬ可愛らしい性質や姿、毛色等もありますが、第一仕事がよく出來、雨中などの手入れの簡単なこと、はき〃した動作などは何とも云へません。到底他の犬では真似が出來ないと思ひます」
西川、山田、後藤「其通り〃、同感です」

 

 

【訓練中嬉しかつた事】
松五郎「一ヶ年半餘りも軍犬兵として勤務中、どんな事が嬉しかつたですか」
西川「今度の秋季大討伐に〇〇隊に配属されて、六粁餘りも有る、人では徒歩の出來ぬ困難な地から朝緑が二十五分で任務を果した為め有利になり、上下から喜ばれ〇隊長からほめられた時は、吾れを忘れて犬を抱えて嬉しがりました」
山田「今度の討伐は別して好成績に犬が働きました。私は明星、後藤君は神勇、何れもよくやりました。帰隊後教官から手厚いおほめの言葉を頂きましたときの嬉しかつた事は忘れられません」
後藤「帰還の命令を聞いたときも嬉しかつた」
山田「其かわり帰國するとき犬と別れて来るのが悲しかつた。まだ子供の可愛いと云ふ事は知りませんが、犬の可愛いゝのも子供の可愛いゝのも同じ事でせうと思ひます。今でも食事時になると、どうして居るかと思ひ出されて悲しい心持になります」

 

【犬取扱兵の名称に一考】
松五郎「討伐中迷惑又は困られた事(上官よりの命令など)は有りませんか」
西川「有ります。軍犬使用法を十分理解されぬ上官が、突然〇〇地へ傳令に犬を出せと云はれる場合、臭氣線(※あらかじめ部隊間に構築しておく臭いの伝令ルート。伝令犬はこれを辿って走ります)のない所へは行きませんと答へると、そんな不便なものなら用をなさんではないかと小言を云はれます。まだひどいのは犬に芸をさして見よ、と云はれる人も有ります。此時などは軍犬兵は興行師と思はれる様な心持ちがしていやな氣が致します。願はくば下士官以上の方は、もう少し軍犬と云ふ事を理解して頂いて、使用法を研究して頂いたなら、まだまだ使用する場合も多くなり、成果が上がる事と思ひます。
どうか此事は私達許りでは有りません。此後何人も〃交代して行く兵の爲め班長殿は勿論、民間の方々よりも、よき折に申上て下さい。之は吾れ〃犬取扱兵全員よりお願します」
山田「犬取扱兵の名称でさへ、何んだか兵隊でない様な名称ですが、其れでも岡本さんだけはいつも軍犬兵と云つて下さるので、一同喜んで居ります。軍犬兵と云ふと兵隊の様でせう。地方人(※軍人から見た民間人の通称)は何と思はれます」
一同「さうですな。犬取扱兵と云ふとなんだか臨時雇の兵隊の様ですな」
松五郎「では皆さんいろ〃有難う御座いました。お蔭で満洲に於ける犬の様子が十分判りまして、誠に喜ばしい次第です。厚く御禮申し上げます」

座談會『満洲から帰還した軍犬班員に満洲に於ける軍用犬活動の實情を訊く』より 昭和10年

 

関東軍の装甲列車上で警戒にあたる犬
 

この状況が日中戦争までに改善されたのかどうかといいますと、関東軍はもちろん日本軍全体では更に悪化していきました。

 

満洲事變を契期として在満部隊に於ける軍犬の用途は俄に急を告ぐるに至り、各部隊競ふて其の整備に焦慮したるも、使用數年後の其の成果と實績に徴し漸く軍犬使用に對する不満は各地現地より勃發し、一時軍犬の價値を疑はしむるに至りしは昭和十、十一年頃の事實とす。今より其の當時を回顧すれば、必ずや其處に片端なる發達の跡を認めざるを得ず。即ち誇張されたる宣傳、軍犬の整備と軍犬教育の不調和に依る用法及び取扱の不認識、軍犬素質の不備之なり。就中軍犬の利用成果を誇張したる結果は、軍犬は生れながらにして各種の勤務に服し得るものなるが如く、或は直接戦闘に必要なる兵器と匹敵すべきものなるが如く認識せしめたるは最も遺憾とする所なり(関東軍軍犬育成所)

 

軍上層部の無理解、ハンドラー育成制度の不備、日中戦争の激化などによってベテラン軍犬兵が払底。まだ第二次上海事変の段階で素人の兵と未訓練の犬を集めた即席軍犬班が乱立し始めます。

満洲国内にいた関東軍の犬達も平穏無事ではありませんでした。国境地帯でソ連軍との軍事衝突が激化していったのです。

 

(次回に続く)

満洲国の畜犬史・その2 満鉄の犬たち

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驛のセパードが、素性も知らぬ支那犬と〇〇してゐたと云ふ投書が舞ひ込んで、江川驛長、(満鉄)本社から始末書一札まき上げられた。
ところが、だん〃調べて見ると、驛に飼つてある二頭のセパード―これが嬢と君の一對である―が、恋々の情さり難く人目を忍んだのが運悪くみつかつて、器量の悪い方が支那犬に見誤られたわけ。
人間ならば勤務中に不届なる行爲とあつて早速首が飛ぶところ。犬であつた爲めに驛長の始末書で事件落着。犬の風紀取締に頭を悩ましてゐると云ふ江川さん受難の巻。

『撫順』より 康徳2年


駅でシェパードを飼っていて、しかもその不始末で駅長クラスが満鉄本社から叱責されるとは。忠犬ハチ公が堂々とうろついていた内地の渋谷駅と比べ、満洲の鉄道会社はどうにも不可解です。
実はこのシェパード、駅員のペットやマスコット犬ではありませんでした。
国策会社であった南南洲鉄道株式会社の犬は、当然ながら「国策」として沿線に配備されていたのです。

 

帝國ノ犬達-満洲
九一式広軌牽引装甲車上の警備犬。
昭和11年、石井勇氏撮影

 

【撫順炭鉱警備犬】


日本の軍用犬が実戦デビューするよりも早く、大陸では昭和3年から警備犬部隊が活動していました。南満洲鉄道株式会社によって配備された「満鉄警戒犬(社線警備)」と「満鉄警備犬(国線警備)」がそれです。
満鉄理事で鉄路総局長でもあった宇佐美寛爾は、内地軍犬界がまだ試行錯誤を繰り返していた昭和4年に警備犬の配備を決定しました。
宇佐美局長は社員をドイツへ派遣し、DSV(伯林シェパード協会)から36頭のシェパードを購入。日本犬界で有名な獨逸SVではなく、満洲犬界ではDSVに協力を仰いでいたんですね。これらの犬は満鉄の育成所で訓練を施した上で、各施設の警備に用いられました。
ドイツから購入した種犬は優秀な個体が揃っていたようです。しかし無秩序な近親交配を重ねた結果、昭和9年頃には優良犬が皆無という惨憺たる状態になってしまいました。

当初、満鉄社内は警戒犬配備に消極的で、導入費2千円の予算を計上する宇佐美案にも難色を示していました。
それを押し切って大規模な警備犬の配備を進めたのには理由があったのです。

 

満鉄所有の撫順炭鉱では、近隣住民による石炭泥棒が頻発していました。一人が盗む量はザルや荷車一杯程度にせよ、毎晩のように集団でやられると総被害額は相当なものとなります。
満鉄側も警備員を配置しますが、相手の数が多過ぎてお手上げ状態。アベコベに、警備員が脅されるケースまでありました。

 

被害を看過できなくなった満鉄は、昭和3年にハルピンから番犬を購入。それに効果があったことで、炭鉱や貯炭場への警備犬採用を決定したのです。

撫順には炭鉱警戒犬訓練所が建設され、訓練と配備をスタートしました。

 

こちらが撫順炭鉱警戒犬

 

鉄路総局の細川伊興三氏は、撫順炭鉱の情況について下記の様に記しています。

斯うして廣い炭礦で毎日失敬される石炭の量が莫大なもので、金に見積つて月に三萬圓位の損失はザラに打ち續き、お蔭で炭礦の周囲には小さい鍛冶屋が盗つた石炭を燃料としてウヨウヨ出來、どうにも始末の付け様が無かつたものだが、一度警戒犬の配置を見てからは、これ迄警戒係の叱聲を屁のカツパ位に聞き流して居た盗棒(どろぼう)連中が、見るも痛快な程我等が軍犬のために、攻撃の良き模範生となつて右に左に、或は前に後に引き倒され、剰へ餘計な血潮まで景品として出した。
で、この噂が全炭礦に傳はり出してからは日一日と盗棒も減少してきたのだが、根が資本不要の商賣だらう!一度や二度位噛まれてもと云ふ篤志家があつて、其後も相不変警戒犬の御厄介に成るため、その活躍は愈々必要こそあれ一歩も油断を許さず
(中略)
まあそう云つた調子で此の炭礦には現在六、七十頭の警戒犬がゐる。全部S犬(※シェパード)で体格も堂々たるものが居り、一寸見た丈で警戒犬として満點の凄物がゐる。

『満洲軍用犬界のことども』より

炭鉱警備犬対策として、熊手や棍棒で武装した石炭泥棒も現れます。しかし所詮は訓練された犬の相手ではなく、犬を殴る前に内懐へ飛び込まれ、散々噛みつかれた挙句に退散するのがオチでした。
更にはガードドッグとして満蒙犬を引き連れて突入、犬同士が闘っている間に石炭を失敬しようとする知能犯も登場。しかし、炭鉱全体には多数の警戒犬が配置されていましたから、いくら獰猛といえど1、2頭の満蒙犬では相手になりませんでした。

当時の日本シェパード倶楽部では、「盗んだ石炭で営業していた鍛冶屋が、警備犬の配備によりバタバタと潰れていった」との結末が紹介されています。

この「ガードドッグ盗法」は満鉄全域への泥棒へ継承・拡大されました。時には満鉄警戒犬側が敗退するケースもあったとのこと。

 

御無沙汰いたしました。私は八月中旬より二ヶ月に渉り、満洲國を旅行してやつと青島に帰つて來ました。将來のシエパードは如何しても満蒙です。このことはNSCの會報にも私の談として記載して貰つたですが、ソヴエツト・ロシアのシエパード熱は非常に旺で日本より多く、且亦訓練も義務的に頗る進んで居ると承つて居ります。

日ソ戰争を豫定に入れなくても、匪賊は十年位絶へざる處はなし。それに、世界有数の牧羊地、森林事業、鉱業等々、十萬位のシエパードの必需は戰争はなくとも将來如何にも起つて来るとの確信を抱かせます。それに気候、風土は獨逸のそれと酷似して居ります。将來獨逸を凌いで満蒙を世界に冠たるシエパード王國たらしめねばなりません。
みんな協力せばそれは可能性ある仕事です。
一寸感じたことは満洲特有の野良犬、狼、蒙古犬等バツコいたし、これ等の奴はみなシエパードより強く喰ひ殺されるシエパードが時々ある由。此頃(※満鉄)沿線の泥棒も悧巧になり勤務中のシエパードを持参せる強き野良犬とを喧嘩せしめ、其間に石炭や貨物を持行くとのことも承りました。軍や警察は中型犬は恰好でせうが、牧場や貯炭場は大型頑強にして野生犬や狼に負けないのが必要かとも思ひます。

青島シェパードドッグ倶楽部 奥野直義 昭和7年

 

満鉄が受けた被害は撫順炭鉱ばかりではありません。満鉄沿線では電線泥棒が頻発し、断線により鉄道運行にも支障を来していました。

 

昭和10年、被害の甚大な奉吉沿線の北陵站(駅)には、電線泥棒対策として瀋陽警備犬訓練所からフローラ、オルサの満鉄警戒犬2頭と3名の訓練手(日人2、満人1)が派遣されます。
警戒チームが20時頃から駅の南600mの草叢に潜んでいた処、22時15分頃になって休止態勢を取っていた犬が突然起き上がりました。附近は真っ暗闇でしたが、兎に角250mばかり前進を開始して地面に耳を附けた処、何者かが行き交う足響を探知します。
犬が咆哮しない様に命令しつつ、更に100m前進した地点で数名の人影が慌しく動き回るのを発見。左右二手にわかれて30mまで接近した所で、犬達に襲撃命令が発せられます。
闇の中で突然大型犬に襲い掛かられ、5名の電線泥棒は為す術もなくお縄となりました。


こう書くだけなら普通の銅線泥棒逮捕劇なのですが、鉄道沿線警備は満鉄警戒犬の重要な任務へと発展していきました。
この電線盗難・切断事件は単なる窃盗だけではなく、約10万ともいわれた匪賊や抗日ゲリラによる満鉄への破壊工作も含まれていたのです。

 

満鉄が日本で購買した鉄道総局警備犬たちの出征風景。

勘違いされやすいのですが、内地から出征したのは「陸軍の犬」だけではありません。

 

【満鉄警戒犬と鉄道総局警備犬】

 

当初は電線切断程度だった抗日テロも、満州事変を境に列車の脱線転覆・乗員乗客の拉致殺害等へと次第に過激化していきました。
また、満鉄社員、保線作業員、測量・鉄路建設作業員、食糧運搬者への襲撃も多発。満鉄自衛隊(警備隊のこと)にも多数の犠牲者が出ています。

建設線の警備は契約に基き満州國で當る取極めとなつてゐるが、實際は関東軍が當つた。然し廣汎な建設工事區域を限りある帝國の軍隊を以て警備することは至難なので、会社は軍の手薄を補ひ且工事の進捗を圖らむが爲、昭和七年四月から在郷軍人出身者及鮮人満人白系露人を採用して、これを満鐵警備隊と呼称(昭和十年一月満鐵自衛隊と改称)し各現場に配置することゝした。この警備員は時により多少の増減は免れぬが昭和十一年三月末現在で約八○○名を算した。
然るに凶暴飽くなき匪賊は皇軍及会社自衛隊の日夜を分たざる警備にも拘らず、間断なく出没して驛舎又は列車の襲撃或は線路の爆破を爲し、建設著手以來昭和十一年三月末現在に至る迄に、建設線並その付近一帯に於ける匪賊の來襲回數は累計一、三八四件の多數に及び、又従業員(社員・自衛隊・請負人)にして犠牲となつたもの一ニ四名、負傷者一六八名、被拉致者一、一五六名(主に請負関係者の苦力)の多數に達した。

『南満洲鐵道株式會社三十年略史』より 昭和12年

 

橋梁警備中の関東軍兵士と軍犬(関東軍軍犬育成所畫報より)


満州事変直後の昭和6年11月から11年3月までのデータによると、満鉄側の犠牲は下記の通り。

満鉄社員 襲撃2回:死亡18名、襲撃4回:負傷6名、襲撃4回:拉致1名
満鉄自衛隊 襲撃10回:死亡9名、襲撃17回:負傷12名
請負人 襲撃57回:死亡32名、襲撃103回:負傷26名、襲撃1,121回:拉致31名
軍属 襲撃30回:死亡153名、襲撃37回:負傷133名
その他 襲撃122回:死亡10名、襲撃103回:負傷17名、襲撃845回:拉致5名

 

満州事変から一年後の昭和7年9月15日、日本は満州建国を承認。これに憤る抗日ゲリラ「紅槍会」は直ちに撫順炭鉱を襲撃し、炭鉱所長をはじめ5名が殺害されました。

この事件の際、炭鉱警備犬が役立ったかどうかは詳細不明。「匪賊を目撃した警察官が警察犬を使って伝令文書を運び、迅速な避難活動に成功した」という話があるだけです。

掃蕩作戦中には紅槍会シンパと疑われた住民が虐殺される「平頂山事件」も発生し、血で血を洗う対ゲリラ戦は激しさを増していきました。

 

以降も満鉄への攻撃は続き、満鉄では昭和8年から社線区に「満鐵警戒犬」の投入を決定。更には国線を管轄する鉄路総局(後の鉄道総局)も「満鐵警備犬」を配備します。

満洲の鉄道犬には、「社線の警戒犬」と「国線の警備犬」がいた訳ですね(警戒犬と警備犬は双方を区別するために使われていた呼称です)。

實際彼等に拉致されたが最後、夜となく晝となく囚人同様に縛された儘テクらされるそうで、若し疲労が出て歩行困難なら其場でズドン!だ。 又歩行中睡魔に襲はれ縦隊の一隊からおくれるとか、多少でも居眠りの型(?)をとると、棒見たい様な物で嚇された上ポカンと來るそうな。つまりは彼等匪賊も襲撃後殊には拉致した場合には、必ず日満軍の討匪工作あるを知つてゐるので無茶苦茶に引廻して居を變へる関係上、晝夜の別なく谷と云はず川と云はず軽々として行動するからだ。

十九日の事件は幸ひ貨車であつた爲め被害は満人車掌が一人犠牲になつたに過ぎなかつたが、茲に注意すべき彼等の工作は相當用意周到なるものがあることは見逃せぬ。即ち転覆に関し第一、第二の工作を施して、貨車脱線の現場より更に一粁先きに第二の脱線装置をなし、應援の装甲列車転覆を計畫してゐる事なのだ。 雨は降る、墨を流した様な真暗さで而も炎々と燃え上つて居る現場を見ては、急援車が急ぐのも無理ないのと、まさか第二の工作があらうとは知らないので進行するうち装甲車の脱線と云ふ二重の計畫を樹てゝのことで、實に言語道断のやり方だ。

まあ、語ればもつと詳細に言ひ盡さねばその氣分は出ないのだが(こんな匪賊の話が目的でないので)、ソコでだ、軍犬の使役範囲に関して一考を要するに、軍犬生來の性能を利用し通信傳令の一件なのだ。

細川伊與三『満洲軍用犬界のことども』より

 

帝國ノ犬達-鉄道警備犬

こちらは関東軍軍犬班による鉄道警備

 

満洲の広野に敷かれた鉄路を守るため、満鐵警戒犬と満鐵警備犬は駅間の傳令と沿線の警備に分けて運用されます。

満鐵本線殊に大石橋から遼陽の間は小岳が起伏して地形上から絶好といふわけか兇悪な匪賊の鐵道爆破は晝夜を通じて監視する満鐵保線區員や獨立守備隊兵の、隙をうかゞつて最近頻發し、十七日深更には八百餘名の、生命を預かる上り旅客列車が間一髪で粉砕を免れた。といふ椿事があり、満鐵當局の神経を昂らせてゐる。
しかし、この爆發は線路を距る三百米のところから、スイツチを切るといふ電氣仕掛で、いかに列車に武装警官や、守備兵が乗つてゐても、また夜行旅客列車の直前に先駆列車や、これに代る貨物列車を走らせても、この装置にかゝつては無効に近い。
といつていかに不眠不休といへども広漠たる広野の暗に包まれた線路の警戒に對して人力には限りがあり、事前の發見はとても不可能とさへ思はれるくらゐ、困難であり、しかも、その一瞬の喰ひ違ひがどんな悲惨事を起すかもわからないのであるから勇敢俊敏な警備兵もホト〃手を焼く有様。

 

満鉄警戒犬による沿線パトロール風景

 

そこで拾七日の事項から満鐵鐵道部ではその自衛方法につき協議の末、目下満鐵が各方面の貯炭所の警戒のため飼育してゐる石炭番のシエパード犬を總動員して、鐵道警備の第一線に送り出すことになり、周水子にある訓練所、南関嶺貯炭所、その他沿線からとりあへず六拾餘頭のシエパードを遼陽、大石橋間の保線區に配置した。すなはち、この犬の持つ鋭敏な嗅覚と聴覚とを利用して暗夜にうごめぐ匪賊や、彼等の装填した火薬をかぎ出させようといふ計畫で、一人の保線區員が二頭づゝ曳いて間断なく線路付近を巡り、この犬の神経に全旅客の生命と貴重な貨物の安全を託さうといふのである。勇猛果敢なシエパードの極寒零下三十度の深夜の活躍、それはそのまゝロマンチツクな一幅の繪であると同時に、各方面からこの名案は称賛されてゐる。

大毎大連特信『シエパード總動員』より 昭和8年

鉄路警護軍の各大隊には15頭ずつの警備犬が配属され、400メートル間隔で沿線の警備に就いていました。満鉄警戒犬も従来の施設警備任務に加え、激化する対ゲリラ戦へと投入されていきます。

これら大量の満鉄警備犬・警戒犬を確保するため、活発な購買調達が実施されました。


犬


上は満洲の警備犬購買公告。「満洲の警備犬」が、満州国軍の軍犬なのか、満州国警察の国境警察犬なのか、満州国税務部の税関監視犬なのか、南満州鉄道株式会社の鉄道警戒犬や警備犬なのか、この史料では判別不能です。

満洲に向け、内地からも数多くの犬が「出征」していきました。

 

満洲國の國鉄沿線警備用として這般我が陸軍省を通じ協会に依頼せられた軍用犬の購買に関し、購買官は予定の通り十三日来廣、軍部側山根顧問、森幹事、濱田嘱託を始め、支部より古川支部長、田頭、芳野、野崎、沖本、濱西、浅倉各幹事と市内廣楽會堂に会し、種々打合せを行つた。
翌十三日購買官細川氏始め、支部役員田頭、芳野両幹事、濱田嘱託に依り體型、歩様、稟性等に就いて検査し、特に任務の関係上歯牙の頑健と満洲の氣候に鑑み、皮膚病の経歴に就いては厳重な試験を行ひ、三時間を要して正午終了した。
購買成績は左の通り。
一、購買申込數 二四頭
二、書類上除外 二頭
三、検査欠席數 四頭
四、検査實施數 一八頭
五、仮合格數 十一頭
六、合格後取消 一頭
七、合格犬 五頭
八、購買價格 最高一九○圓、最低五○圓、平均一○四圓
尚ほ、合格犬は十七日午後二時半、廣島驛より輸送した。

帝國軍用犬協會 昭和11年

 

過般帝國軍用犬協會を通じ買上げた満州國鐵路總局鐵道警備犬の内、東京、大阪、名古屋で買上げた五十五頭(エヤデール四、ドーベルマン六、シエパード四十五)は去る三日、神戸出帆の日本郵船勝浦丸に乗込み七日午前七時大連に入港したが、途中一頭の事故もなく無事陸揚げされ、満鐵大倉庫を解放した涼しいところに一先づ落着いて、満鐵周水子警戒犬訓練所野津主任及訓練士満犬関東州支部玉置氏等によつて一頭宛引出され、久し振りに大地を踏み、排便をして充分運動してから冷水、牛肉の御馳走を食つて犬箱の掃除をして貰つて、すつかりいゝ氣持になつて午後二時頃には仮寝をしてしまつた位である。
大連から奉天までの輸送は関係者の心やりでゆつくり休養させ、涼しい様にと風通しのいゝ畜類貨車で同日午後十一時、大連發の三六三列車で一路奉天鐵路総局へと向つた。買上犬の前飼育者よ安心し給へ。彼等は満洲で優遇を受けてゐる。

昭和11年

 

康徳五年(昭和十三年)八月十四日には、鐵路總局警戒犬の購買があり四頭のセパードが合格購買された。購買員は總局愛路課坂田辰治氏であつた。
アセーラ 牝 一三〇圓(伊藤健蔵氏)
ドル 牝 一二五圓(前田喜七氏)
ロン 牝 一一五圓(木村慶三氏)
ホル 牝 一二〇圓(風間源治氏)

『満洲軍用犬協會沿革史』より

 

満鐵鐵路總局の警備犬育成所の種犬購買は、阪田主任、市川善七両氏出張、KV各支部、MK支部を通じてシエパード犬優秀犬のみ購買し、他にシユナツア種を試験的使役及び蕃殖の爲め購入し、五月四日無事大連周水子育成所へ繋留した。

昭和14年

 

歩兵学校がエアデールの代替犬種としていたシュナウザーを、満鐵もテストしていたとは知りませんでした。 この動きがもう少し早ければ、内地のシュナウザー愛好団体も規模を拡大できたのでしょうか。

 

「祝 渡満 満鐵警備犬ジーミイ號へ」の幟も勇ましく出征する満鉄警備犬。送り出す側に軍犬出征のような悲壮感は無かった筈ですが、敗戦時の運命は関東軍の犬も満鉄の犬も同じでした。

 

【鉄路愛護村の犬たち】


満鉄は、沿線警戒及び伝令任務で警備犬を使用する事を考えていました。

事變勃發後匪賊は頻々として鐵道を襲撃し、昭和七年高粱繁茂期に於てはその状勢頓に悪化した。仍てこれが警備策として事変以來會社の採つた主なる對策を列挙すれば
一、警備員(現業員を以て成る)の配置
ニ、銃器の配置
三、警戒犬の配備
四、防弾具の配備
五、應急装甲列車及修理列車の配置
六、先駆列車の運転
七、機関車及車掌車の装甲施設
八、無線電信施設
九、電流鉄条網の施設
一○、密偵の使用
等であるが、更に昭和八年八月から十一月に互り鐵道愛護村設立され漸次好成績を収めつゝある(満鉄資料より)

 

ここで問題となったのが満洲の広さです。
站と站の間は10㎞に及び、数駅通過すると伝令犬の行動範囲を超えてしまいました。鉄路警護軍では康徳元年(昭和8年)から3ヵ年計画で1千頭の警備犬を訓練し、各站毎に伝令犬を列車輸送、異状発生と同時に発進站へ走らせる態勢作りと共に、鉄路総局では、沿線地域に「鉄路愛護村」を作ることで、附近住民への匪賊浸透を阻止する手段を講じています。

愛護村住人に対しては、交通網の発達についての啓蒙活動とともに、慰安列車の回送による病人の無料施療、雑貨の供給、高粱・大豆等の種苗支給、家畜の貸与と物心両面での宣撫工作が行われました。

 

満州開拓村

満州開拓村の猟犬

 

鉄路総局では愛護村とは別に、内地からの入植者向け「自警村」拡充も計画。入植支援として羊を8千頭ばかり貸与しており、牧羊犬を兼ねた番犬も配置されています。

綿羊業が発展しなかった日本では、牧羊犬の利用も限定的でした。日本コリー犬協会なども普及活動に苦労しつつ、コリーとケルピー中心の日本牧羊犬界が構築されます。

遅れて参入したジャーマン・シェパードドッグ(直訳すると「ドイツの羊飼いの犬」)に残されたのは軍事の道だけ。牧羊犬としてのシェパードは満州の地で「職場」を獲得したのです。

 

軍犬の使役範囲に関して一考を要するに、軍犬生來の性能を利用し通信傳令の一件なのだ。これが愈以つて必要化されて來ると思ふが、如何せん國線の各站間(各驛間のこと)は地圖を見る迄もなく大體十粁以上の區間距離を持つてゐる爲め、或る站(驛)から訓練犬を積込んでも四、五站通過すれば既に四五十粁以上の通過となり、傳令犬の負擔距離として、又實際問題として歩校の専門訓練犬の成績から見ても一寸頭を傾けざるを得ない次第だ。
殊に匪賊の襲撃場所が工事や何かの入札で契約をとつた規定のものと違つて、何時如何なる地點で襲撃を受けぬとも限らん次第なので、茲於遠大なる計畫を樹て康徳元年より向ふ三ケ年に約一千頭の警備犬を整備し、各站よりは次站へと列車を輸送し、事故のあり次第之を發站に向け帰すと云ふ意味に於て、或は現在の社線を見ても判るが如く、匪賊潰滅の末期には追々と沿線近くに出沒し村民を装ふては工作すること必定とも見られるので、通信傳令等の訓練犬たらずとも我が家の警戒位は、主人に枕を高うして寝ませてくれる警備犬の、一頭や二頭は従事員に配置する必要がある。
或は總局では鐡路愛護村と云つて沿線の村落に對し常に其の向上發展に意を拂ひ、延いては鐡道の公共機関たる所以を充分認識させ、自村を愛することはその發展になり、交通機関を發達させる事は一國の繁栄ともなる趣旨を以て指導し、物質的には慰安列車を廻送して無料施療をし、又雑貨入手の不自由な所には之を供給し、其他大豆、高梁等の耕作物の改良優秀種を無料配給する外更に牛、羊、豚等の種物を貸與して彼等の農業開發に資する様努めてゐるが、此の中羊の……と云へば直ぐ想像もつくと思ふが、所謂牧羊犬だね。
斯の方面にも使役して見度いと思つてゐる。現在種羊場には二千頭程居るのだが、間もなく七、八千頭として各愛護村に配給される豫定だから之に何頭かの犬を配置するとしても實に前途洋々たるものがある。
又總局の一つの大事業として自警村と云ふものがある。肥沃なる土地を選定して與へ、四ケ年間は之が開墾者に有給の補助をなし、其後は之が自分の土地となる。換言すれば自作農となるワケだが、此の自警村にも警備のため警備犬が必要なので、現在でもニ三配給してゐるが、何れも村民(内地より単身或は夫婦揃つて來た農業に経験ある人々)からは警備犬として非常に喜ばれて居る次第だ。
まあ犬に関して總局の事業の一端を語れば右様の次第なのだが、要は總局として相當數の警備犬が入用なのだ。

 

牧羊犬
満洲の開拓村にて羊を監視するシェパード。この写真は当時の満州国宣伝図書にも引用されました。

田村仠氏撮影 昭和13年

 

右の様な次第で従來の蕃殖方針を改正して、瀋陽驛から約二粁南の所に、警備犬並に傳書鳩の蕃所を設け、専ら蕃殖を計ることゝなり、九月下旬頃には完成の見込みなのだ。
此處では約七、八ヶ月育成し、其後は沿線各地の訓練所に配置し訓練専一にやり、基本から應用就中構内警戒と沿線警戒の二つに大別して訓練する次第だ。訓練所は奉天局管内に瀋陽、錦縣。新京管内に吉林、圖門。斉斉哈爾管内に斉斉哈爾、白城子。哈爾賓管内に三果樹、哈爾賓の各警備犬訓練所があり、訓練手は何れも在隊當時軍犬取扱兵を採用して之に當ててゐる。
斯うして總局の訓練所が沿線にある関係上、各地方の軍犬熱を揚げること與つて大いに力あり、又事實之が刺戟となつて満犬支部の發會式を見たものに吉林満犬支部があり、又吉林警備犬訓練所は歴史が古い丈けに、新京満犬支部設立に間接の刺戟を與へたものと見て差支へあるまい。又近くは哈爾賓訓練所を中心として愛犬家が集合する等、直接間接に軍犬發達史に何物か彩付けてゐる様に思ふよ。

細川伊與三『満洲軍用犬界のことども』より 昭和10年

 

全線主要各駅には、これらの訓練所で2ヶ月間の実習を受けた150名の訓練手と、数十頭の警備犬が配属されました。警備犬たちは、視界が悪くなる高粱の繁茂期にはパトロール隊の前方50mを先行偵察するという高度な任務もこなしていました。
いっぽうで損害も多く、敵との交戦以外に列車に跳ねられて死傷する犬もいたそうです。

此處(周水子)の犬舎にも、瀕死の重傷を負ふて不思議と命拾ひをしたのが豫後を静養していた。此犬は累々功績があって殊勲者を以つて遇せられてゐたのであつたが、誤つて汽車に跳ね飛ばされて、鼻梁は挫かれ、四肢は三本までも打ち挫かれ、尾は央より切断されて、惨状見るに忍びないものがあつたので、寧ろ殺して苦痛を免れしむるに若かずとさへ云はれたが、伊藤所長としては従來の功績を思へば如何なる手當を施すとも命だけは助けてやり度いと、奉天医大の医博を煩はして治療に手を盡した(日本シェパード犬協會)

 

これらの犬を訓練した施設の実態はどうだったのか。

社線の周水子警戒犬訓練所と国線のチチハル警備犬訓練所について取り上げてみましょう。

 

鉄道犬

満鉄のグループ会社、中国の華北交通でも警備犬部隊を運用していました(任務や編成は満鉄とほぼ同じ)。

 

【周水子満鉄警戒犬訓練所】

 

任務の拡大とともに、満鉄の警戒犬育成所はその数を増やしていきました。中でも最大の規模を誇ったのが、大連・奉天鉄道事務所の周水子訓練所です。

 

此の周水子には既に君も承知の滿鐵警戒犬訓練所があつて、滿鐵沿線の主要貨物驛に夫々警戒のため配置すべき犬を蕃殖飼育訓練する次第なのだ。過去六、七年の歴史も持ち、今は體形も略整ひ訓練に餘念が無い。主任は野津氏が温厚なる人格者として所内の信望を一身に集め、嘱託には伊藤中佐が居られて相談役を務められ、又有名な市川老人が十年一日の如くコツ〃と全精神を本訓練所に傾注してやつて居られる様は、良き後輩の指導者として我々も敬意を表するに吝かなる者で無い。
と云ふと大きく申す様だが、別に大言壮語では無い。そして滿鐵では此處で充分訓練終了後、社線主要貨物驛へ二頭ー五頭位宛配置し、主として夜間の警戒に當てるワケだ。其の効果たるや實に有効にして、今更喋々と申す迄も無い。嘘だと思つたら配置驛の係員に尋ねて見給へ、ハハ……。
とにかく歴史を持つてゐる丈けに今日では立派な訓育所であり、數も三、四百頭はゐると思ふ。周水子驛で下車すると驛前の左に約二粁程離れてトタン塀で囲はれた同所が見へる。周囲は一萬坪以上の宏大さで事務室、医務室、分娩室、犬舎等整備されてゐると同時にガツチリした建物だ。

細川伊與三『満洲軍用犬界のことども』より 昭和10年

 

周水子警戒犬訓練所は昭和三年三月二十日南関嶺に創設せられたる警戒犬訓練所に其の端を發す。當地貨物構内の盗難防止策として支那犬を使用せんことを企圖したるも、現満鐵理事宇佐美寛爾氏を中心として哈爾濱地方より在來シエパード犬種、ドーベルマンピンシエル種及びグレートデン等を購入、訓練するを必要と認められ、小規模に構内貯炭場の監視に使用して効果を修め、次で普蘭店驛に使用して同様盗難防止に顕著なる成績を挙げ得たる實績に基き計畫的に瀬さん補充の機関を確立して、軍用犬を各驛に普及するの必要に迫られ、昭和四年末現周水子訓練所市川善七氏を獨逸に派遣して元DSV(Deutsche Schäferhund Verband)より優良種犬一七頭を購入して組織的に事業に着手し、昭和六年周水子警戒犬訓育所を開設して今日に到る。同所は所要地積十五萬四千平方米突を有し、理想的設備と周囲の地形に恵まれ、主任野津長三郎氏以下職員二十六名、献身的努力に依り其の成績見るべきものあり、従來満鐵鐵道部に所属したるも、昭和十一年十月機構改革と共に目下大連鐵道事務所の所属に移れり。

関東軍軍犬育成所『満洲に於ける軍犬事情』より 昭和13年

 


大連市周水子に、総工費1万2千円を投じて「南満洲鐵道株式會社鐵道部警戒犬訓練所」が建造されたのは昭和3年のこと。周水子訓練所の施設概要について、昭和11年2月の資料では下記の様に記されています。

南満州鐵道株式會社 鐵道部周水子鐵道警戒犬訓練所素描

一、業務開始
昭和三年三月二十日
一、職制々定 
昭和九年四月一日
一、設備

・位置 大連市周水子(満鐵本線周水子驛より金大道路に添ひて一キロ半)
・敷地 十五萬四千平方米
・建物 事務室 炊事室 調教室 獨身宿舎 倉庫

・分娩犬舎(温水暖房装置)ニ棟二十室

・犬舎(煉瓦造)十二棟、百二十頭分

・同(木造)十棟、四十八頭分 
・病犬舎(煉瓦造、温水暖房装置付)二棟、二十頭分
・山羊舎 
・豚舎 
・給水設備 各犬舎前に給水栓取付 

・訓練場
第一訓練場 一五、〇○○平方米

第二訓練場 一五、〇○○平方米

應用訓練場 構内及附近ノ満鐵附属地
・従事員 野津主任、獣医、庶務、訓練士、誘導者(助手)、雑務等三十二名、外に沿線各驛よりの講習生數十名。
・飼育犬 全部セパード犬にして現在數二百四十三頭、但し内五十頭は社線驛構内へ警戒に配置。

・備考 満鐵警戒犬は全部S犬のみにして(※昭和10年に日本からドーベルマン2頭を購入)、その任務は鐵道、鐵橋、倉庫、貨物、炭鉱、埠頭、驛構内等の警戒にして、満州事變及び前後、満鐵社員と共にS犬の素晴しき活躍は幾多涙ぐましきものあるも、これは社外に發表せられざるため世人の知るところ少き事を遺憾とします。

満鐵は種牡、牝は獨逸より直輸入され、血統書の如きも満鐵に於て發行され、その設備、訓練士の充實、東洋一と申すも過言ではなきと信じます。これぞS犬の王城とでも申すのでしやうが、いづこも同じ秋空で、昨年末より猛烈なテンパー流行で所員一同の苦慮、奮闘は全くお氣の毒な位でした。


満鉄
近くに撮影禁止の日本軍施設があった為、全景を写した画像は存在しないと思われます。

満鉄
 

満鉄

 

満鉄

寫眞外に(右)訓練場、(左)建物あるも後方に要塞撮影禁止物あるため切断す。


満鉄
満鉄警戒犬の放牧場

満鉄
周水子訓練所犬舎

 

【犬舎の構造】
1棟あたり約10頭を収容する犬舎は、充分な採光を考えて間隔を置いて設置されていました。
構造は煉瓦造で屋根はトタン張り。内部はコンクリート張りの床に上げ板が張ってあり、其の間には通風装置と排水溝がありました(排水口には扉が設けられ、隙間風を防ぐ仕組みになっています)。
犬舎入り口は両開きの分厚いドアで仕切られ、犬は左側扉下段にある潜戸から出入りしていました。寝台は2尺5寸大の箱で、中には藁が敷き詰められています。

 

【特別な犬舎】
病室と分娩室は金網付きの硝子張りで、内部は羽目板を設置して煉瓦板との間には断熱用のオガ屑が詰めてありました。奥の上げ板の下にはヒーターが通っており、母子や病犬にも大陸の冬をしのげる構造となっています。

 

帝國ノ犬達-満鉄

襲撃訓練中の満鉄ハンドラー
 

【鉄道総局警備犬訓練所】


既に全長1500キロメートルの社線を持つ満鉄では、満州国国有鉄道(国線)を経営する鉄路総局を新たに開設。別途に警務処防犯課を設けて国線を警備していました。鉄路総局に属する大連・奉天鉄道事務所の庶務課、錦県、吉林、牡丹江、ハルピン、チチハル各鉄路局の警務処でも、鉄道警備犬訓練施設を建設しています。
鉄道総局の警備犬繁殖所は遼陽の満洲軍用犬協会内に設置され、200頭あまりを蕃殖育成していました。更に錦県、円門、白城子にも繁殖所が新設されたそうです。
その下部組織である奉天鉄路局は瀋陽警備犬訓練所を、新京鉄路局には吉林警備犬訓練所、ハルピン鉄路局には三果樹警備犬訓練所、洮南鉄路局にはチチハル警備犬訓練所を設置。計4箇所で訓練を行っています。
繁殖所で生まれた子犬は半年以上経ったころに各訓練所へ送られ、日満のハンドラーに依って日本語の訓練を施されました。
各訓練所の人員は約10名。日人は3名程度で、日本陸軍の軍犬班出身者や内地でハンドラーをやっていた人が雇われていたそうです。

 

チチハル
こちらはチチハル警備犬訓練所の満洲鉄路総局ハンドラー達。

 

チチハル

 

満鉄

チチハル警戒犬訓練所の高訓練士と楊訓練士。満系のハンドラーも多数所属していました。

これだけの最新設備でしたが、完成直後の周水子ではジステンパーに集団感染。一挙に100頭以上が死亡するという惨事がありました。
しかし、大量配備のためには集団飼育を続けざるを得なかったのです。

本訓練所の使命は所謂南満線(社線と称す)鐵道警戒犬の訓練補充にあり、目下約三百五十頭を保管し、内九十餘頭は沿線警備として現地にあり、吾人が旅行中車窓より見る駅構内の犬舎は即ち之れなり。
育成犬は一ヶ年にして基本訓練を開始し(三ケ月)次で応用訓練を施し、概ね一年八月を以て警戒犬を養成す。
訓練の重点は襲撃を主とし、前進、巡回、警戒等直接現地勤務に即応せしむるにあり。
尚、警戒犬取扱員教育のため各鐵道局警備犬訓練所及び各驛現業員を選抜して警備犬取扱訓練講習會を開催し、飼育及び用法の普及に努めあり。現に使用しある鐵道警戒犬の用途を列記すれば左の如し
1.駅区構内及び社宅の警戒
2.鐵道線路及び橋梁の警戒
3.鐵道電線巡回員の警護
4.工事作業員の警戒
5.列車警戒、特に貨物輸送途中盗難事故の防止
6.貴重品の監視
7.事務所間の書類送達
8.通信機関の途絶、又はその他設備なきときの伝令
9.特殊任務従事員の警護
10.逃亡者の捜索

『満洲に於ける軍犬事情』および『満鐵関係軍犬補充訓練機関及軍犬用法の概要』より(同一の内容) 昭和13年

 

ヘロルド

犯人護送訓練中の華北交通警備犬。これら中国の鐵道警備犬部隊も、対ゲリラ戦において多大な犠牲をはらいました。


満鐵線各地警備犬配備調査表(昭和十二年六月調)

連京線
大連埠頭 頭数四
同貨物東駅 頭数一
沙河口鉄道工場 頭数四
甘井子 頭数一
南関嶺 頭数一
瓦房店 頭数一
營口 頭数三
湯崗子 頭数一
千山 頭数一
鞍山 頭数一
蘇家屯 頭数一
奉天 頭数一
鉄嶺 頭数一
開原 頭数二
四平街 頭数二
公主嶺 頭数三
大官屯 頭数二
新京 頭数十三

奉線
ケイコク 頭数一
張家堡 頭数一
湯山城 頭数二
高麗門 頭数一
南攻 頭数二
火連塞 頭数一

安奉線
安東 頭数二

国線と社線の訓練所を卒業した犬とハンドラーたちは、こうして満鉄全線に散っていきました。

満鉄社内だけでもこれだけ大規模な犬の運用をしていたのです。満洲全土では、更に多様な犬界が構築されていきました。

 

(次回に続く)

満洲国の畜犬史・その1 満洲の在来犬たち

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満洲國の展覧會だから、満系の出陳犬も多分にあることであらうと思つてゐたが、それは絶望であつた。
首都に於てさへも日満の社会的提携は却々むづかしいものか、一寸街路に立つて観察した所では日人が満人を軽侮するの悪風は、昔ほど顕著ではないがまだまだ改善を急務とするものがあるのではなからうか。それは軍用犬を通じてでもいゝ、規善の糸口を作るべきだ。

陸軍歩兵大佐今田荘一『新京みやげ話』より  昭和15年

 

「去年中国へ行ったらな、爺ちゃんが満鉄時代に住んでいた家が残っとったぞ」

「へー。満鉄ではどんな仕事してたんスか?あじあ号の運転手?」

「いや、僕は通信の技師だった」

「そういえば、満鉄では警備用にシェパードを飼ってたそうだけど。知ってます?」

「セパード?ラリーの事か?」

「ラリーは15年前に飼ってた犬でしょ。満鉄の話」

「満鉄か。ああ、また満洲へ行きたいなあ」

「満洲はもうありませんよ。当時の写真とか残ってないの?」

「そんなもん、引き揚げの時に全部捨てた。ソ連が攻めてきたからな」

「終戦の時は大変だったみたいですねー」

「ソ連の大砲の音は物凄くてな、目玉が飛び出るかと思った」

「で、満鉄警備犬の話なんd「それから引き揚げ船に乗るまでが大変でな、汽車に飛び乗ったはいいが(以下、3時間分省略)」

元満鉄職員紅殻祖父「満洲むかし話」 より 何かの飲み会にて

 

帝國ノ犬達-満州軍用犬
チチハル駅貨物置場を監視中の満鉄警戒犬ナア号。昭和10年

 

日本畜犬史を調べる上で幸いなのが、外国(進駐軍含む)の介入が極めて少なく、外来犬と在来犬が明確に区分され、各々のルーツを容易に辿れること。巨大な犬界が構築されていたゆえ、戦災を乗り越えた記録も豊富に残っていますしね。

いっぽう、台湾や韓国で犬の歴史を調べようとする人は、ひとつの問題に直面する筈です。ある時期まで歴史を辿ると日本が割り込んできて、そのまま官民ともに犬界の主導権を奪ってしまうのですから。

他所者によって犬界を変革されたコトへの憤りと、それで歴史が断絶したという事実。日本側からロクでもない記録ばかり漁って、あんな酷いことをしていた、こんな悪行を働いていたと非難したくなる気持ちも分かります。

しかし、それで何が得られるのでしょうか?犬への愛も何も無い、薄っぺらで殺伐とした年表が出来上るだけなのに。

……などと思いきや、ワレワレ側の態度も同じく酷いものです。「俺たちが発展させてやった」と統治者気取りのくせに、統治下の犬界に関するデータベースはほぼ皆無。その体たらくで、ナニをどう発展させたか説明できるんですか?

 

日本がチョッカイを出した地域として、他には南樺太と満洲国があります。

特に満洲国では、日本人の手によって意図的に、計画的に、組織的に、国策として独自の犬界が構築されていました。統治下の犬界は「近代日本犬界の地方支部」的扱いに過ぎませんでしたが、満洲国犬界だけは日本犬界の双生児であったのです。


四方を海に囲まれた閉鎖的な島国であった日本。
多様な民族・文化が混在する大陸に、馬賊や抗日勢力や密輸団が跳梁し、国境を挟んでソ連や中国と対峙していた満州国。
それぞれの近代犬界も、国情や地理的条件を反映したものとなりました。

全く似ていない双子ではありますが、「満洲国の犬界史」だけは日本人の手で編纂する義務があるのでしょう。

 

それも、本来はきちんとした研究者が為すべき仕事なんですけどね。

私のようなガリンペイロ型が宝石職人の真似事をしても、このように石コロが並んだショーケースしか拵えられない訳です。ホゲー。

 

犬

康徳6年の広告より、ドイツで生れ、来日後は日本シェパード犬協會と帝国軍用犬協會に所属し、満洲に渡ったけれども満洲軍用犬協會には登録されていないシェパード。

日満犬界の間を、たくさんの犬が行き来していました。

 

昭和6年9月18日、柳条湖で爆破工作を仕掛けた関東軍は軍事行動を開始。満洲全土の奪取を狙い、満洲事變を引き起しました。

国際社会の非難を避けるため、翌年には傀儡国家である「満洲国」が建国されます。大陸での権益確保を狙う日本は、莫大な費用を投じて満洲にインフラを構築しました。
奪ったが故に、奪い返されないための軍事力も増強されます。しかし、余りにも広いエリアを守るには人間だけではとても無理でした。
やがて、施設警備、国境監視、治安維持、入植者支援を目的とした、日本とは全く異なる使役犬達が運用され始めます。

ソ連軍と対峙する関東軍の軍犬、満鉄が配備した鉄道警戒犬(社線)や鉄道警備犬(国線)、鉄路愛護村や入植者に貸与された牧羊犬、満洲国税関の国境監視犬や阿片探知犬、満洲国警察の警察犬。

それらの資源母体・財源確保としての満洲軍用犬協会の賽犬や民間ペット界。

僅か13年で消え去った満洲国には、巨大な畜犬界が存在したのです。

 


島国日本で生れ育った私には、“大陸の広さ”というモノがなかなか実感できません。初めてアメリカや中国を旅した時など、車でいくら走れども途切れない地平線に唖然となった記憶があります。

所詮は日本人、狭い土地に寄り添って暮らしている方が落ち着くのです。


長引く不況と急激な人口増加。更には昭和恐慌の影響で、戦前の日本は都市も農村も疲弊していました。

閉塞感漂う日本から「王道楽土」と謳われた満洲での可能性を求めて移住した人々は数多くいます。
今は故人となった私の祖父も、大連で働いていた兄を頼って渡満した一人でした。南満州鉄道株式会社(満鉄)へ入社した後は、奉天で技師として働きはじめます。
新天地での生活も、ソ連の対日参戦によって終わりを告げました。
満洲崩壊に巻き込まれた祖父は、着の身着のままで故郷へ引き揚げてきます。一歩間違えれば父や私は生まれて来なかった訳ですね。


そんな目に遭いながら、卒寿を前に「もういちど満洲へ行きたい」などと云い出した祖父。「おじいちゃん、満州はもう無いんですよ」という周囲の説得にも耳を貸さず、とうとう中国旅行へ出かけてしまいました。
昔とは風景も変わってしまった筈ですが、受け入れ側の知人が案内してくださったお蔭で、充実した旅になった様です。
若い頃に住んでいた満鉄の社宅がそのまま残っていたとかで、家族の心配や周りの苦労を他所に本人は結構喜んでいました。
めでたしめでたし。

……ではなくて犬の話。
子供の頃は、祖父が懐かしがっている“マンシュウ”とやらが何モノなのか、さっぱり判りませんでした。おそらくは柔らかくて温かい食べ物ではなかろうか?などと想像していたのですが、どうやら国の名前らしいと知ったのはだいぶ後のこと。

幸いにも、図書館へ行けば満洲や満鉄に関する書籍や写真集が沢山並んでいました。

早速借りてきた満鉄の写真集をパラパラ捲っていると「満鉄警戒犬」なるシェパードの写真を発見。何だコレ?

解説では、「満鉄が鉄道施設の警備に使っていた番犬」と書いてあります。
祖父が大型犬ばかり飼っていたのは、この辺に理由があったのでは?そうでなくても、満鉄の犬について何か知っているかもしれません。
などと思って訊ねたのが冒頭に挙げたヨッパライ同士の会話。

アレコレと聞いてみたのですが、結局「僕の職場にセパードなんかいなかった」との返事でした。
「会社が犬を飼っていた事は?」
「知らん」
あら、ソウデスカ。

 

えー、導入部のネタも空振りに終わりましたので、満洲国犬界については次回以降に取り上げていきます。

さて、近代的な犬界が成立し、洋犬が普及する以前の満洲にはどのような犬がいたのでしょうか?よそ者たる日本が持ち込んだ満鉄や関東軍の犬を語る前に、「そもそもの満洲犬界」へ目を向けてみましょう。

 

満洲

 

【さまざまな在来犬たち】

 

狭い日本列島の在来犬だけでも、北海道犬から琉球犬まで各地域のタイプに分化しています。広大な満洲では、更に多様な地域性が見られました。時代によってモンゴル民族、満洲族、漢民族と勢力範囲も変遷し、そのたび彼らの飼う犬も入れ替わります。

これら満蒙犬(満洲犬や蒙古犬の総称)の大部分は、愛玩動物というより家畜扱いでした。夜番や汚物処理などに用いられるほか、死しては皮革や食肉として利用されたのです。

政治的變動と、終始軍事的な災害、匪賊、馬賊の被害を蒙ることに慣らされていたこの蒙古、漢人は、自衛といふことには早くから目覚めさせられ、この爲に番犬として犬が大いに重要視されて、一軒には少くとも二頭、多いところでは十四五頭も飼つてゐます。牧畜をやる関係から多いと見る方もあらうが、決してさうではなく、私には凡てこの自衛の立場から、家犬が飼育されてゐるやうに思はれました。

此地方の家畜は泥土で塗れてあり、遠くより望むとたゞ楊の木が植つてゐるため、人里があるといふことが判る位のもので、夜分などはこの番犬が、外來人の來るのを知つて、まづ一キロ半位の所から吠え立てるので、その吠聲で、村落の近いのを知る譯です。

(中略)

愛玩の目的はあるかといふと、訓練はよく行きとゞいてゐますが、頸輪の如きものは見當らず、犬を扱ふ上において只實用的立場より飼つてゐるとしか思へませんでした。スパニールの類を見たのが北京・天津系の赤毛の狆で、それも僅かしか見ませんでした。

農林省嘱託 岸田久吉『満蒙の犬の話』より 昭和9年

 

残念ながら詳細な調査はされなかった為、現在知りうるのは下記のような分類のみ。

 

満洲犬は体型性能上概して南満地方のものと北満地方のものと區別し、且つ山地帯のものと平地帯のものとし區別して観察することを得。即ち南満平地方面に棲息するものは一般に垂耳にして性鈍重なるも北満山地方面に棲息するものは立耳のもの相當散見せられ、野性味を有し、性概して悍威にして行動敏活警戒性旺盛なるもの多きが如し。殊に東邊道及東部國境山地方面に於ては大型なるものはシエパードに、小型なるものは日本犬に類似する体型と性能を有するものあり。

古來蒙古犬は性勇敢なりと称され、且つ耳立の種類あり。又北方ロシヤより満洲北方地方に在來せりと称せらるる所謂ロシアシエパード(俗称ハルピンシエパード)は体型素野なるも稟性悍威に猛け、警戒心旺盛なるが如し。此の犬種以外にありても一般に北方山地に棲息する九種は野生的本質を保持し、稟性警戒犬に適するもの多きが如し。

関東軍軍犬育成所『満洲在来土犬を軍犬として利用價値の研究』より 昭和14年

 

【狗】

 

明治37年、日露戦争に従軍した兵士たちは、満洲の地で大型犬に遭遇します。

それが「狗(ゴ)」と呼ばれた満蒙犬でした。秋田犬とよく似た犬で、性格は極めて獰猛。人里で暮らすものと、群れで原野を徘徊して死肉を漁るものがいたそうです(実際、私の手許にある史料にも戦死体を漁る満蒙犬の写真が載っています)。

 

狗は生きている人間も遠慮なく襲撃しました。

日露戦争当時から、兵士や従軍記者の被害が記録されています。「野犬くらい銃で追い払えばいいだろう」と思われるかもしれませんが、相手が悪すぎました。

被害者たちの証言をどうぞ。

 

帝國ノ犬達-野犬

沙垞于方面の敵頑強なりしため、我が軍多數の死傷者を出し、其の結果數日間是れを後方に運ぶこと能はず、夜に入れば野犬多く集りて死體を漁り、為めに負傷者の如きは終夜自己の飯盒を鼓いて野犬の近づくを防ぎたるほどなり。

 

處が此野良犬といふ奴は満洲何れの地にも此等野犬は群をなして横行してゐる。敵味方の死屍は常に食物に飢えてゐる彼等に於いて屈強の御馳走である。
否死屍而巳(のみ)ならず時としては我我健全者をも喰はんとする事がある。現に或日の事、私は夜間勤務で二三人と共に隠蔽物に據りながら勤務してゐると、一人の同僚の背中に突然喰付いたものがあると。暗夜といひ不意のことであるから同僚は大いに驚き、銃剣取る間も無く喰い付いた奴をいきなり取つて押へると、何ぞ圖らん其對手は名にし負ふ満洲の野良犬であつたのである。
此方も再度吃驚したが野良犬も大きに驚いて、押へられた手を振放し宙を飛んで何處とも無く逃去つて仕舞つたが、犬の方では我々がじつとして動かぬのを見て、多分死體とでも思つたのでありませう。戰争に出て、敵に殺されないで犬に喰殺さるゝやうな事があつては名誉の戰死所か、それこそホンの犬死にだと一同笑つたことです。

絵と文・戦時畫報より 明治38年

 

帝國ノ犬達-鹵獲
潘家台の鹵獲物資集積所にて、大型犬と戯れる日本兵

明治38年

 

十月三十一日
暁發獨り紅賽山に登りて戰況を遠望す。彼我の砲弾發又發其光景言ふべからず。ノートを収め帰途につく。一里餘にして満洲犬の包囲に遇ふ。大喝すれども去らず、石を投ぐれども逃ず、棒打すれども寸毫も動かず、牙を現はし咆吼しつゝ我に向つて迫る數尺、腰間のピストルに弾を込むるに暇あらず、百計尽き、遂に君子危きに近らずの法を取つて一散に……。

 

野犬

狗の群れと対峙する蘆原記者(自画像)

蘆原緑子特派員『繪畫日誌』より 明治37年

 

蘆原さん、2ヶ月くらい後にまた襲われています。

横井君の宿舎で一杯傾け、さらば御免又來らんと別れて三里の長堤(レール道)途中で日は暮れ、往復六里餘の道に靴下の破れから豆を踏み出し跛足引き〃宿舎を引きつける思ひにて急ぐわれを、何んと見てか不意に襲ふ野犬の群、足許に噛み付く様の恐ろしく、手早く外套投出し腰なる拳銃取るより早く一發放せば、砲に音あつて向ふに手答へなし、しまつたと氣をあせれば次の弾見事三發外れて相手は愈々猛る、ホウ〃の體で逃る姿の見苦しさ、犬なればこそ笑ひもせまじきが、おー恐かつた。

 

帝國ノ犬達-沙河会戦

再度追いかけられる蘆原記者(自画像)

 

狗とのトラブルは満洲事變以降も頻発。野犬群に襲撃された歩哨が発砲し、それを匪賊の夜襲と勘違いした日本軍部隊が全力で応戦し始めたという珍事もありました。

その他の証言を幾つか。

 

丁度其時、一睡もしない疲れた瞳に映つたのは火を咬へた犬である。頻りに火を消さんとして居るのでよく見ると、子供の死體を火葬場から引出して居るのであつた。これは死體であるが、まだ呼吸の通つて居る戦傷兵に襲ひかゝつてものにしようとする犬が居る。某隊兵であるが、前には敵匪を控へ、腹背には恐ろしい野良犬の牙に襲はれ、同君は不幸足の肉を喰ひ切られて戦傷は快癒したが、まだ犬にやられたのが快らんと言つて居た。東邊道の山奥に行くとまだ耳の立つた立派な犬が少しは居る。著者は一頭手に入れて馴して見たがどうしても馴れない。殆んど二週間位馴して見たが遂に失敗して仕舞つた。満人の話によると、此奴は馬賊の襲撃を受けた時、猛然土壁を越へて賊を襲つたそうな。満人部落には大抵一軒に三、四頭の猛犬を飼つて居る。これ等は皆馬賊の奇襲に備へるのだそうである。

元関東軍獨立守備隊軍犬班 藤村高『軍犬と訓練』より 昭和10年

 

満洲の犬について。渡満後先づ目についたは、犬だ。「あつ!!」とびつくりしたのは、體形、毛色とも、愛好シエパードに似てゐる。一頭だけかしら、と思つて明くる日もその明くる日も、観察するが見れば見る程よく似て、その上心臓が強い。たゞ異つてゐるのは、毛がいやに深い。寒さの加減もあるだらう。そして密毛だ。耳がだらりとしてゐるが、中にはライオンの様な耳をしてゐて、目はラン〃と輝いてゐる。まつたく野生犬だ。實に毛色はシエパードそつくり。黒褐色、真黒な尾のくせのないのが居る。
自分が向つて行くと「ヴウー」。変な底力のある声をたてゝヂリ〃後すざりする。そしてバツと身をひるがえして兵舎の外へ、満人の家の彼方にかくれてしまふ。尾はだらりと下げてゐるものもあるが、大概先がまがつてゐる。一度見た犬は、丁度、ダツクスを思はす様な尾にそつくりの奴がゐた。
彼等は何を食糧にしてゐるか。先づ栄養百パーセントの兵食の残飯求めて炊事場に近より、我先にと飯箱に顔をつき込む。

久しぶりに暖いある日、ひまなまゝに研究した。初年兵が食器と残飯を入れた圓筒を持つて忙しさうに捨てゝ行く。それまでは何處に居るのか分らないが、さて二分とたゝぬ間に先づ、一番弱さうな犬が、四周を警戒しつゝ近づく。頭を入れものに差し込んでパクつき始める。食ふ度に、背中の毛がピク〃と動く。そうかうしてゐるうちに物凄い奴がのそり〃と四周を睨みながら近づく。弱い奴が「俺が折角栄養食にありついてるのに野郎來たな」と言ふ様な顔つきで低いうなり声を立てつゝあわてゝ残飯入れに顔、否首全體を入れて、あとはおきまりの喧嘩だ。

満州國三江省依蘭 〇〇部隊〇〇隊 船越輝和 昭和14年

 

関東軍軍犬育成所も満洲犬の軍用化テストを試みていますが、やっぱりというか途中で放棄。「犬というより猫みたいな性格」と評価を下しているのが面白いですね。

 

 

性質鈍重にして一般に無氣力無表情なり。殊に人犬の親和に於ては軍用三犬種(シェパード、ドーベルマン、エアデール)と其長短著しき差異あり。即ち三犬種にありては約十日間の親和を以て概ね訓練に入ることを得るも、満犬にありては二乃至三倍の親和期間を有するも、三犬種に比し其度は猶遠く及ばざるものあり。

満洲犬は土地に馴致するも人に對する馴致親和は著しく不良なり。今回の研究中、訓練の中期以降に在りても紐を脱するときは直ちに犬舎に逃皈り、招呼に應ぜざるもの多し。又犬舎内(一定の野繋場を含む)に在りては近接者に對し咆哮して威嚇的態度を表顕するも、野外に連行したる際、主人を背楯として威張る等の如も動作少し。

満洲土犬は土地及主家(犬舎)に對する守護防衛性を有し、外來者に對し威容を示すも、其警戒領域を離脱するときは全く臆病となり、攻撃氣勢頓挫するもの多し。古來「犬は人附き、猫は家附き」と称せらるるも、此點満洲犬の習性は概して猫族に類似しあり(関東軍軍犬育成所)

 

【細狗】

 

満洲の犬には、サイトハウンド系の細狗(シーゴー)もいました。こちらは満洲犬と蒙古犬のどちらに属するのか、資料によって混乱が見られます。
細狗

蒙古犬 蒙古名ネリン、ノヘイ、訳して細狗といふ。細狗の最も優秀なるものは柳條邊の近くに居り、興安嶺地方に入るとやゝ劣り、興安嶺を西に超ゆれば全く居ない。恐らくは蒙古人古來の家畜ではなくて、その移住以前からこの地方に飼はれてゐたものだと思はれる。遼代の墓から発掘された犬の木塑の如き明かに之を示すものである。
挙動頗る軽快、番犬より狩猟用に使ひ、普通では耳を切る。それは狼に噛りつかれぬ用心である。
満洲風俗寫眞より、細狗の解説。1927年10月撮影

中近世の日本にも南蛮犬や唐犬が輸入されていました。その中には、大陸の犬も相当数混じっていた筈。
下の犬は欧州から来たグレイハウンドなのか、大陸の細狗なのか。

 

犬

江戸時代の図譜より、九州北部に渡来、帰化していた獒犬(ごうけん・「大きな犬」の意)。

 

近代に入ると、細狗を輸入する日本人も現れています。
大原芳夫氏 
蒙古の貴族犬、細狗(シーゴー)の花子さんの管理に手が廻らぬので、一日も早く愛犬家に可愛いがられて幸福に暮らすやうにしたいと、この際彼地から運んだ實費程度のごく低廉の値でお譲りするとのことであるが、この防共花形を引取る篤志家はありませんか。

『人の噂』より 昭和14年

 

例によって関東軍も「蒙古犬」としてテストしていますが、評価は芳しくありません。

 

・体質及抵抗力

蒙古犬は當該地方の氣候風土に對しては能く馴化し体質亦極めて強健なるも、地理的に都市より全く隔離せられありしため、消化器寄生虫及犬族特有なる傳染病等所謂文化の洗禮を受けあらざるを以て、此等病原に對する感受性は案外敏感なるのみならず、一度病原に感染するや其の抵抗力は薄弱なるが如きと考察す。

・体型習性ト性能

蒙古犬は古來蒙古人と共に其の地に土着して番犬に使役せられありしため、監視警戒の本能は相當に保存せられあるも、別紙(附表第四)体格測定の成績に徴すれば、其の体格一般は速力系なるを以て一瞬時の快速を發揮し得べきも、シエパード犬の如く持久力を要求し得るや否や。従て行軍力の點に於て将來の研究を要すべきものなり。

・犬種的観察ト能力

近時蒙古地帯に於ける支那人の移住に伴ひ、支那犬侵入し漸次純蒙古犬は自然雑種化せられんとしつつあり。元來蒙古犬は毛色淡褐を主とし黒色、灰褐色之に次ぎ、顔面骨細長鼻端光り口角深く切れ、歯牙鋭利にして小耳は直立して体躯細長、腹は著しく撒縮し四肢長く、運動軽快稟性悍威に富むを特長とせられあるも、本試験犬の成績に徴すれば、概して稟性に乏しく耳は弛緩し精悍の相を備へざる所より見て、古來の蒙古犬は漸次凡庸化せられつつあるものと推定すると共に、其の能力も亦必ずしも一律に期待し得ざるにあらざるや(関東軍軍犬育成所・昭和14年)

 

 

【内蒙古の犬たち】

 

日本は内蒙古(南モンゴル)も勢力下へ置き、昭和12年には蒙古聯盟自治政府(後に蒙古聯合自治政府へ統合)を発足させます。

この地域に分布していたのが「蒙古犬」。もともと蒙古犬と満洲犬は別種でしたが、交雑化が進んだことで「満蒙犬」などと総称されるようになりました。

この犬を科学的に調査した記録は少なく、旅行記などで語られる程度です。

 

帝國ノ犬達-蒙古犬


帝國ノ犬達-蒙古犬
内モンゴルのゲル(中国語ではパオ。遊牧民の移動式住居)で飼育される蒙古犬。

関谷獣医少佐撮影

 

この蒙古犬を飼い慣らした日本人もいました。日露戦争で後方攪乱任務に従事した軍事探偵・中村三郎がその人です。

明治35年に渡満した軍事探偵たちは、2年後に日露戦争が勃発すると行動を開始。中村少年も、ロシア軍の背後で偵察・諜報・破壊工作を展開します。
戦いの日々を送る中村三郎には、一頭の蒙古犬が同行していました。

軍事探偵と云へば中には非常に派手な仕事のやうに思ふ方もあるかも知れませんが、映畫に出て來る様なものではありません。軍事探偵位凄惨を極めた仕事はない。明治三十六年頃のまだ火蓋の切られない間の軍事探偵の苦心は火蓋を切つた後の苦心よりはるかに大きいものであります。
私は明治三十五年十二月五日……、明治三十五年と云へば日露戦争は夢にも考へて居らない時であります。……その十二月五日に日本を出發しまして、一番先に奉天から汽車で今日は三時間かゝります新民屯に参りまして約三ヵ月、その後コロンバイルに這入つたのであります。その時今申し上げました蒙古犬の生後八ヶ月許りのを私の親友の橋爪君から貰ひ受けて來て、今日から連れて行かうと云ふことになりました。
名前は最初蒙古名があつたのでせうが、この蒙古犬は恰度狛犬のやうに如何にもトボケタ顔で愛嬌があるので、友達の橋爪と『トボケ〃』と呼んで居りましたところ、自分の名が『トボケ』と云ふのだと思つてしまひまして『トボケ』と云つてもすぐとんで來る。
この犬のお蔭で夜の世界に安心して眠ることが出来ました。
犬が居なかったら安心して眠ることは出来ない世界であります。諸君のやうに屋根のあるところではなし。軍事探偵の寝るところは殆ど森の奥か、縁の下、或は倉庫の中……、倉庫の中は上等な方で……、大抵縁の下で(中村三郎)

 

トボの品種については「西蔵蒙古犬」とされていますが、チベタンマスティフのことでしょうか?
トボは軍事探偵を追跡する露探(ロシア軍に雇われた軍事探偵)の待ち伏せを察知したり、病気で落伍した仲間を探し出すなど大活躍。戦時を通じて軍事探偵たちをサポートし続けています。訓練すら受けていなかった犬ですが、中村少年にとってはかけがえのない戦友となりました。

中村さんはトボのことを忘れず、後年になっても人々にその功績を語り聞かせました。

 

かの偉人、中村天風の若き日のエピソードです。

 

帝國ノ犬達-中村天風

昭和11年のイベント告知より、この席でもトボの話をされています。

 

【ハルピン系シェパード】

 

このような在来犬が闊歩していた満洲の地に、大正時代から大量の洋犬が流入し始めました。それが革命から満洲へ逃れてきた白系ロシア人のペット「ハルピン系シェパード」です。
ドイツ租借地の山東省青島へ移入された青島系シェパード、国際都市上海に輸入されるシェパードなど、ドイツから輸出されたシェパードたちは南北複数のルートを辿って東アジアへ到達したのです。
 
このハルピン系こそが、青島系シェパードと共に日満シェパード界の黎明期を支えた存在でした。
しかし現在は、青島系と共に存在自体が黙殺されています。青島系やハルピン系に頼っていた過去を忘れ、まるでドイツ直輸入ルートが日本シェパード界の源流の如く語られているんですよね。挙句、戦後になると「あれは雑種だった」などと黒歴史抹消を画策する始末。
東洋犬界軽視も極まれりで、欧米ばかり有難がっている日本の愛犬家は自分たちのルーツすら辿れないのです。

哈爾濱は全満を通じて最も犬、飼犬の多い都會で、現在犬牌を持ち、従つて畜犬税を拂つてゐる飼犬が一萬數千頭の多數に及んでゐる。

之は白系ロシヤ人が他のヨーロツパ人と同様(或ひはそれ以上に)動物に愛着を持ち、従つて殆んど例外のない迄に大なり小なり、純粋種なり雑種なりを飼育してゐる事が最も大きな要因であらう。又國際色の濃いだけに番犬の必要も他の都會より切實なものがあるのかも知れない。

事實何處に行つても犬のニ三頭を見ない路はなく、あのヨーロツパ風の背の低く、間をすかせた垣根越しに廣い芝生の上を子供達と戯れてゐる犬の姿は、全く内地や、又満洲でも他の都會では見られないもので旅愁をなぐさめて呉れると同時に、内地の多くの犬達の生活と思ひ比べてうらやましく感じた次第であつた。

従つてシエパードの數の多い事も尤もであらう。そしてそれ等シエパードを見る時、ニ三の共通點のある事に気が附く。即ち一般にハルピンシエパードと云はれてゐる一つの型である。

これ等の犬の祖先は多く白系ロシヤ人が欧露からシベリアへ、そして又シベリアから満洲へと逃避して來た、それに従つて來たのか、東支鐵道時代鐵道(※満鉄の前身となった路線です)官吏に伴はれて來たシエパードであるが、所謂ハルピンシエパードとはこの様な血統的な區分よりも、むしろ外貌的な一つの型を云ふのであつて、大體左の様なシエパードに對して俗称されてゐるのである。

一、骨格の構成が繊弱な感じを與へる。即ち口吻細く且つやゝ短く、四肢は細く角度不十分、胸郭部狭く、従つて體幅も狭い。

二、毛色は灰色を基調として褐灰―銀灰が多く、黒―褐色でも鞍部の黒色の部分は極く小さい。被毛は短かいが下層毛は發達してゐる。

三、過剰爪(狼爪)のあるのが目立つが、之は切除されない為めに内地の犬と比較してもこのやうな感じを與へるのかも知れない。

四、耳朶は比較的小さい。

五、眼色は相當明るいものもゐるが、反面暗いのも多く、この點では内地産犬と餘り差はない様である。

六、サイズは體高的に見れば相當大型もゐるが、前述の様に體幅不足の為めに餘り大きな感じはしない。そして一般に體高は小さい。

以上の様であるが、御氣付かも知れないが、所謂「青島シエパード」に酷似してゐて、要は無計畫な蕃殖、無関心な飼育管理の結果に依る一つの退行的現象とも云ふべきもので、特殊な系統的特徴と見る事は出來ない。

これ等シエパードの型を打破して近代的な(よい意味に於て)シエパードに鋳直さうと云ふのが満犬(※満洲軍用犬協会)哈爾濱支部の最大の仕事である。併しこの事業たるや一朝一夕にして成るものでなく、まことに多難な前途が横つてゐると考へてよいであらう。

幸ひ幹事長に熱の人として全満軍犬界と云ふより畜産界に重きを為す秋山次郎氏、之を援ける高桑、太田のコンビ、其他秋山氏の命令一下、市公署の防疫課はたちどころに總動員の態勢をとり得る機構は、この困難な事業を着實に一歩一歩切開きつゝある。

刈田尚志『満洲犬信』より 昭和16年

 

以上、日本が介入する以前から「満洲犬界」というものはあったワケですね。満洲建国以降、これとは全く異質な「満洲国犬界」が構築されてゆくのです。

 

満洲の地を巡り、各国の野望がぶつかり合った時代。日本もその争奪戦に加わったことで、日本犬界と満洲犬界は深い関係を持つことになりました。

 

(次回へ続く)

 

2018年3月度月報

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一月中に纏める予定だった満洲犬界史が、ようやく完成したのは二月末。
年明けからの体調不良により、積み上げた資料を読むだけで精一杯だったんですよ。五分も入力作業をしていると閃輝暗点と片頭痛で倒れ込むの繰り返し。
食欲まで減退して、酸っぱい物かヨーグルトしかのどを通りません。大丈夫か俺。

ゲッソリやつれたまま訪れた定期検診の日、「ついでに頭痛の件も診てもらおうかね」と思いつつ採血検査したところ、全ての数値が正常化していることが判明しました。「生活改善の結果ですね!」とお医者さんに褒められたものの、喜ぶべきなのかコレは?体調不良の相談をするのも忘れてしまいました。

いっぽう健康のため禁煙を始めた上司は、口寂しさからアメ玉を四六時中食べまくったため急激に肥満。禁煙を勧めた周囲を困惑させております。
糖尿病が心配になってきたので「いきなりの完全禁煙より、最初は本数減らすだけでいいのでは?」と話すのですが、強い意志で禁煙とアメ玉を継続中。私はタバコを喫ったことがないから分かりませんけど、やっぱり禁断症状はキツいんだろうなあ。
病気になって体質改善できたり、健康のため不健康になったり、人生儘ならねえなと嘆息する今日この頃。

 

犬と一緒に高尾山

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浅田慶一郎氏撮影 昭和13年

 

 

 

鉄道警戒犬の真似をしている犬(愛玩犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 不明

地域 どこかの線路脇

飼主 鈴木喜代志氏

 

抗日ゲリラとの死闘を繰り広げた満鉄や華北交通の鐵道警戒犬。そんな心配のない内地では、鐵道警戒犬も必要ありませんでした。

昭和13年

 


牧山羊犬(そのまんまだ)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 不明

地域 不明

飼主 長谷川恵海氏

 

昭和13年

 

牧馬犬(そのまんま)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 不明

地域 東京府

飼主 石崎四郎氏

 

昭和13年

 

異種格闘戦的な

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阿部幸次氏と愛犬

昭和13年

 

名無しの猟犬(猟犬)

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生年月日 不明

犬種 セッター

性別 不明

地域 東北地方

飼主 不明

 

 

 

東北地方の豪農宅で飼われていた猟犬。幼犬時代から成犬まで、何枚か纏めて出てきました。

大正時代撮影

 

 

キンシ・ミルクマン

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金鵄ミルク(練乳)って海軍にも納入されてたんですね。

大正時代撮影

 

 

サンバイザーマン

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岐阜県にて、山田金次郎氏と愛犬。

サンバイザーって戦前から輸入されていたんですね。モボやモガの時代からでしょうか?

昭和13年

 

将来の猟犬(猟犬)

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生年月日 大正12年生れ

犬種 不明

性別 不明

地域 東北地方

飼主 不明

 

残念ながら成犬時代の写真は無し。

 

大正十二年三月一日寫

 

 


山形の橇犬(愛玩犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牡

地域 山形縣

飼主 菊地傳次郎氏

 

 

昭和13年

 

 

金沢の海岸にて

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加藤次郎氏 昭和13年

 

ヌイグルミ?

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お姉さんが抱いているフワフワの物体はイヌなのか鳥なのか

 

年代不明

 

 

禁猟期間の猟犬

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暇そうなセッターと東北地方の春。

ツクシかノビルでも摘んでいるんですかね。

 

大正時代の撮影

 

お金持ちハンター

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大正時代の東北地方にて、高価なセッターを多頭飼いしていた人。

 

同じく大正時代、さらに大金持ちだった佐竹義春侯爵とポインター。

このような裕福層は、勢子や荷役夫などを連れての豪勢な狩猟ツアーをおこなっていました。

 

 

 

 

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