関東軍飯島部隊 満洲国 昭和12年
関東軍長尾部隊 満洲国 昭和12年
関東軍山田部隊 満洲国 昭和12年
関東軍坂口部隊 満洲国 昭和12年
ジブラ・フォン・ミカタゼット(満鉄警戒犬)
生年月日 不明
犬種 シェパード
性別 牡
地域 満洲国大連市
飼主 市川喜七氏
「寫眞は、成犬牡一席、関東軍司令部盃を獲得したジブラ・フオン・ミカタゼツト號。父はノルマン・フオム・ゲルトルデウスホフ號、母は満洲國産アルマ・フオン・ミカタゼツト號。それに蕃殖、飼育者は満鐵警戒犬訓練所随一の老練家市川喜七氏である」
旅順要塞司令部検閲済「満洲軍用犬協會ニュース」より 昭和11年
関東軍や満鉄の警備犬群を支えるためには民間資源母体の増強と調達窓口の設立が必要であり、そのため昭和8年に設立されたのが満洲軍用犬協會でした。
内地に依存していた満洲犬界でも、この時期あたりから「満洲国の軍用犬は満洲産で」みたいな声が高まります。
関東軍松橋部隊 満洲国 昭和12年
旅順要塞 満洲国 昭和12年
奉天野戦航空廠 満洲国 昭和12年
敦化守備隊 満洲国 昭和10年
寛城子守備隊 満洲国 昭和11年
奉天陸軍病院 満洲国 昭和12年
関東軍大串部隊 満洲国 昭和10年
山砲第九大隊 満洲国 昭和12年3月
吉林守備隊 満洲国 昭和10年
警戒犬用法例
一、列車襲撃の企圖を断念せしめ、又運行妨害を防止す
延吉守備隊に於ては昭和十年八月匪情に鑑み部隊犬二頭を明月溝守備隊に派遣し、連日鐵道線路巡察或は潜伏斥候として匪情頻頻たる情況下に於て使用良好なる成果を収め、特に同年九月潜伏斥候には兵と協力、良く警戒監視に任じ、特に其鋭敏なる聴力を以て該地谷地方面より線路に進出し、列車襲撃を企圖しありし兵匪をして企圖を断念せしむるの止むなきに至らしめたり。
特に十二月二十四日、南溝亮兵台間の徒歩連絡を命ぜられたる河田上等兵の指揮する線路巡察に配属せられたる軍犬ラース號は、取扱兵茂野一等兵と共に勇躍任務に邁進し、亮兵台に向ひ前進中、新京基点三九二キロ附近約三百米に運行妨害を企圖しあるものを發見、兵の急射撃と共に急襲妨害を未然に防止し得た。
一、昭和十年四月逃亡せる匪賊松花江に飛込みたる際、軍犬勇號を以て襲撃せしめたるに、直に河中に飛込み之を咬、匪逮捕したり。
ニ、糧秣及弾薬の警戒に任ず
昭和十年秋季討伐の際、松井、坂口討伐隊共に兵力の不足を補ふ爲、糧秣及弾薬の監視に軍犬四頭を充けたる。寒夜零下三十度の中に十数回に亘り良く警戒し、其目的を達したり。
三、飛行場及飛行機の警戒に任ず
坂口討伐隊は昭和十年秋季討伐に於て軍犬四頭を以て樺旬縣臨時飛行場及飛行機の警戒に任じ兵力の不足を補ひ良好なる効果を挙げたり。
四、夜間巡察中匪賊を發見捕獲せり。吉林守備に於ては司令部衛兵の夜間巡察には毎夜軍犬一頭を以て巡察捜索警戒に任じあり。
昭和十一年三月十五日、長以下三名の巡察中匪賊一名を認めたるに直に逃走せしを、軍犬テス號を以て襲撃せしめたるに、疾風の如く追撃して直に捕獲し得たり。
捜索
一、分遣隊の夜間警戒中敵匪を發見報告す
吉林守備隊に於ては考爺嶺分遣隊に警戒の爲軍犬はテス號を派遣、警戒勤務に使用中昭和十年六月十八日夜十一時頃、兵舎より約十米地点に配置中異状咆哮をなしたるを以て大塚一等兵以下三名は軍犬の示す方向を軍犬を以て捜索せしに、便衣匪が附近に徘徊、密林に出没しありたるを發見し、匪賊一名を逮捕したり。殊に考爺嶺分遣隊附近は山岳重畳密林地帯にて警戒困難なりしも、軍犬を使用せしに依り豫期以上の効果を収めたり。
二、暗夜出勤中密林雑草中の潜伏匪賊を發見す
吉林守備隊軍犬チエリ號は額赫穆分遣隊に派遣中、昭和十年六月五日六道河驛西方附近に匪賊約四十名が夕食準備中なりとの報に依り村田軍曹以下九名、軍犬チエリ號を連行し該地に出動せしに、夜に入り目視困難なるや軍犬を部隊前方約三〇米前方に斥候として捜索せしめつゝ前進中、該犬は逸早く潜伏せる敵匪を認めて報告せるを以て直に之を逮捕するを得たり。之れに依り敵匪四〇名の蟠踞せる地を白状せしめ、直に攻撃一大打撃を與へたり。
傳令
一、鳩舎と本部との連絡
昭和十年坂口討伐隊は樺甸縣討伐間第一線より飛來せる鳩通信文を約千米の距離を中継し能く傳令の任務を全ふしたり。
(昭和11年5月)
大正時代の犬猫病院
最近でこそ獣医學も著しく進歩はして來たが、もう彼れ此れ二十年も前のこと、私がコリーを飼つた時分には、随分物足りない感じを抱いたものであつた。
或る時私の飼つてゐた犬の背中の部分が、恰度人間で云ふと禿頭病のやうに毛が脱けて來るので、當時は未だ犬に就ての知識は浅かつたが、無論これは一種の皮膚病に相違ないと思つて近所の医者に診せると、入院すれば直ぐに治ると云はれたので安心して其の儘犬を預けてしまつた。
ところが患部が次第に蔓延する一方で、其の医者の言ふのには「これは毛をすつかり苅らないと、どうも薬が巧く塗布出來ぬ」と云ふので、みすぼらしくなる犬の姿を想像すると堪なかつたが、皮膚病が治りさへすればと思つて遂に毛をすつかり苅取らせてしまつた。
然し犬は依然として少しも快方に向はない。すると或る日医者が私を訪ねて「皮膚病は治つたが、腸を悪くした爲め下痢をするので衰弱してゐるから、未だ當分は退院出來ない」と云ふ。私は皮膚病が治つて庁が悪くなると云ふ理はないと思つて更に追及すると、皮膚病に用ひた薬品に石炭酸が混入してあつたのを、犬が舐めた爲めに下痢を起したのだと云ふ。
これでは皮膚病は医者が治して呉れたけれど、其の代りに腸の方は医者が悪くしたことになる。そこで私は憤激してしまつた揚句、犬を伴れ戻して、改めて道権山下の医者の許へ預けることにした。すると其の医者は最初から自分の許へ寄越して呉れたら良かつたと、非常に残念さうに言ひ乍ら兎に角治すからと引受けて呉れた。
一週間ばかり経過してから病院へ行つて見ると、犬は私の姿を見るなり大變元氣らしく尾を振つて寄添つて來るし、帰る時などはしきりに私を追つて仕方がないので、これならもう大丈夫だらうと思つて医者に相談すると、もう二三日預けて置いて呉れゝば必ず良くなるから今日だけは我慢してくれと言ふ。それから二三日程して再び病院を訪ねて見ると、意外にも犬の病勢が危険状態に陥つてゐる。
かうなると前後の事情がさつぱり判らなくなつてしまつたので、医者を詰問すると一向に不得要領な事ばかりを繰返した揚句、「こんな結果になrのだつたら、此の間一層のこと伴れて行っつえ貰へば良かつた」と徹頭徹尾たゞ恐縮してゐるので、「君は犬のお医者さんなのでせう」と私は言つてやつた。
さうかうしてゐる間に大事な犬はとう〃眼の前で息を引取つてしまふし、私はつく〃厭な氣持がした。
結局この犬は最初皮膚病から腸を害し、更にデイステムパーを併發して最後に斃れてしまつたものである。後日になつて二人の医者から経緯を聴取したところに拠ると、先づ第一の医者が使用した犬箱が頗る不衛生のものであつた。即ち内部に壁蝨が澤山ゐたもので、薬品でこれの征伐をしたところ、犬がそれを舐めて下痢を起してしまつた。此の病犬を引継いだ第二の医者には、治療法の上に遺憾の點があつた……、つまり斯う云ふ事になる。
近頃の家畜病院の設備は皆相當立派なもので、こんな犬箱に入れるやうな医者は殆どないだらうが、其の當時には前日まで重態の犬を収容してゐた後へ、ろくに消毒もしないで次の入れると云ふやうな事も有勝ちなことであつた。
藤井浩祐「昔の獣医さん」より 昭和10年
続・北海道の営農犬
いつぞや安達一彦氏の営農犬を取り上げましたが、アレのもう少し詳しいお話を。
https://ameblo.jp/wa500/entry-11541991887.html
圓山青物市場は、この地方で有名な存在である。こゝの品物は新鮮でしかも値段が安い。それは郊外の農家から直接消費者への現金取引であるからである。
この市場は長さ二町に亘り、四列に並んで未明から正午近くまで商賣をして居る。こゝに雲集する(といふても餘り誇張ではなからう)人出を目當に小間物屋、古着屋、蓄音器屋、等々、香具師までもがその附近に店を開くので、とてもそれは賑やかなものである。
ある朝、犬を連れた散歩姿の私の足が、この雑踏の中に向いたのであつたが、その露天の間に實に多くの犬を發見したのである。其犬は大いの、中位の、體型も雑多、何種に近いか判らぬ位のもの、一つの珍犬展覧會とでも云ひたい。
こんな犬が青物の後方に温順にうづくまつて居眠り最中である。私の犬が近づいた氣配を感じてパツと眼を開くが、悪意がないと思ふか又直ぐ目を閉ぢて仕舞ふ。
これ等の犬はみな農家に飼はれて居るもので、真夜中に青物を山盛に積んだ荷車―それは今日の商品の全部であり、又家族から馬、犬、鶏に至る迄の生活を支へる資源である―主人と共に遠いのは二三里もの水戸を元氣横溢、この市場へと運搬して來るのである。そして主人が「安い〃買つてくれ」と叫んで商賣中は休息し、正午近くになると空車を輓いて勇躍帰路に就くのである。
男主人と犬が車を輓き、女は車上で蜜柑の皮をむいて居る等といふ圖は、都會人の想像したことさへないであらう。この市場にかうして使役されて來る犬の數は百を越える。
夫等の犬の體型は雑種ではあるが、又ブラシを掛けたこともない、毛並は乱れ汚れては居るが、その溌剌とした元氣を見ると、何とも言へない尊敬の氣持さへ湧くのである。
と共に「これは軍用犬のシエパードだ」と號しては居るものゝ美衣美食何んの爲すところもなく安逸を貪つて居る犬の存在と、思ひを廻らしたとき、その物足りない姿を悲しみ哀れむと同時に、その飼育者に三鞭自覚を求めなければならぬと痛感するのである。
安達一彦「犬界私語」より 昭和10年
満洲の愛犬家たち
満洲国の畜犬史・その8 満洲犬界の崩壊
飽くなき米英の東亜侵掠政策は、支那の國民政府を使嗾して排日抗日に踊らしめ、更に驕兒張學良を駆りて満蒙に於ける我が日本の既得権益を奪還せんとし、凡ふる抗日侮日の行動を敢てするに至つた。
斯くて昭和六年満洲事變勃發するや精強無敵の我関東軍は直に勇躍出動し、満洲に蟠踞暴威を恣にせし張政権を壊滅せしめ、多年軍閥の搾取暴圧に呻吟せる三千萬民衆は初めて黎明を仰ぎ、民意伸長し其總意の決する處終に満洲建國となり、爾来十年餘國運隆々今日の隆昌を見るに至つたのである。
この満洲事變に於て皇軍赫々の戰果の裏面に、可憐なる軍用犬の勇ましき活動が如實に示されたことは今尚ほ忘るゝ可からざる處にして、爾來軍用犬の育成は、戰力増強の一端として大に奨励されてゐるのである。
満洲軍用犬協會の結成は全くこの目的を達成せんがためであり、安東支部の創立も斯くして企圖せらるゝに至つた。余は當時安東省公署に職を奉し、聊かその創立に参與したのであるが、懐憶すれば既に十年、この間安東支部は着々その内容を整備し、事業を擴充し、今や満洲に於ける軍犬育成機関としては最も重要なる立場を占め、非常に顕著なる功績を挙げつつあることを聞きて實に欣快に堪へない處である。
今や大東亜戰争は愈々熾烈となり、大陸の戰局に於ても、また北邊鎮護の布陣に於ても、軍用犬の活躍する範囲は益々増大せんとしてゐる此の時に際して、満洲軍用犬協會安東支部十年の沿革は時局に稗補する極めて大なるものあるや必然である。
余現に満洲軍用犬協會大連支部長の任にあり、多大の指導を本誌に求め、之を軍犬育成事業の前進に好指針となすもの、請はるゝ儘に一文を序となす次第である
昭和十九年二月 於大連市長公室 別宮秀夫
満州建国以降、中国だけでなくソ連との間でも国境紛争が頻発し始めます。当初は満蒙国境(西部国境)での満洲国軍とモンゴル軍の小競り合い程度でしたが、続いて満ソ国境(東部国境)でも日ソ両軍の国境警備隊が衝突。和平に向けた満洲里会議も決裂し、軍事的緊張が高まります。
ソ連相手の不拡大策をとっていた関東軍も、これによって強硬策へ方針転換。昭和13年7月にはソ連軍3万と朝鮮軍9千が激戦を展開した張鼓峰事件、翌年5月からはソ連極東方面軍・モンゴル軍と満洲国軍・関東軍が大規模交戦したノモンハン事件へと、 軍事衝突は拡大していきました。
長大な満ソ国境線を守るには人力だけでは足りず、双方は多数の国境警備犬を配備。関東軍の将兵は、国境線の向こう側を巡回するソ連軍用犬を頻繁に目撃していました。
張鼓峰事件直後、関東軍軍犬育成所は東部国境での巡回教育を実施します。その際、「敵軍犬に對する特段方法なきや(「山田部隊教育参謀ノ意圖」より)」「敵は多数の軍犬を有し、我が密偵の進入困難なり(「小林参謀ノ意見」より)」などと国境守備隊からの悲痛な訴えがなされました。
ソ軍が國境の警備に軍犬を使用しあることは従來各方面よりの諸情報に依り之れを認識する所なりしも、國境守備隊の編成以來其の國境監視隊、國境偵察班、監視哨下士哨巡察等に於てソ軍軍犬を目撃し、情報偵察監視等の障碍物の一つたることを体験するに至りて、より最早現地将兵の間に軍犬の必要なるを認識せざるものなし。
又ソ兵逃亡者の言に依り國境線脱走上警戒犬は最大なる障碍たることを異口同音に聴取しあり。尚特務機関憲兵隊、又國境部隊の使用する密偵の總ては悲鳴を挙げて曰く「犬のために國境線の突破不可能なり。まご〃して居れば必ず警戒兵に捕獲せらる」となし、咆哮せらるるや直ちに逃げ帰るを常とす。密山特務機関長の談に依れば「密偵の使用上犬の威力に関しては全く處置なしである。犬には負けた。之れからは密偵の使用は警備小哨ザスターワの配置粗なる興凱湖以東の地域を撰ぶが又は山上の監視哨の無き所を通過するか、監視哨間の間隙巡察通過後の隙を窺ひ突破するの外なし」となし、犬を全く嫌遠しあることは事實なり。
倉茂部隊長の如きは敵軍犬誘惑法に関する積極的研究に着手し、虎頭憲兵分隊長は憲兵の勤務に軍犬を必要とすべき意見を上司に上申すべく企圖せられあり
関東軍軍犬育成所『第四 教育實施成績 其ノ一 軍犬ノ必要性ニ對スル一般ノ認識』より
(イ)陣地前の監視哨に軍犬を歩哨犬として配属す(付記)
1.陣地前の監視哨は任務重大にして敵前に直面し、困難にして敵前軍犬を附すことにより精神的にも警戒的にも極めて有利なり。
2.陣地には障碍物まで三線を有するも、國境守備隊に於ては警戒線直後の兵力は一般に少く、且つ集結するものにして歩哨の敵兵進入の發見は極めて迅速なるにあらざれば、戰闘準備困難なり。之れがため軍犬を使用するを有利とす。
3.夜間特に暗黒の度大なる場合、天候又は地形に依りては歩哨兵の敵兵發見困難なる場合少なからず。此の際、軍犬を用ひるは有利なり。
(ロ)特に警戒を厳にすべき時機に要点の監視哨の警戒力増強に犬を使用す。國境に於ては敵の偵察者等進入し、又他方面の國境紛争に伴ひ特に警戒を厳にするを要する場合少なからず。此の際所要の監視隊に犬を附す。張鼓峰事件に伴ふ隣地區の警備に伴ひ綏芬河―グロデコウオ道上の國境監視哨に犬を用ひたるが如き之なり
松山部隊
関東軍軍犬育成所は国境警備犬の補充強化や訓練運用法の改善を具申しますが、関東軍上層部の反応は鈍いものでした。
支援を受けられない状況で、前線部隊がとれる対策などごく僅か。目の前の脅威に対し、個々の軍犬兵が奮闘するしかなかったのです。
満洲軍用犬協會佳木斯支部幹事長鈴木茂二氏は、厳寒零下卅餘度のソ満國境に活躍中の〇〇部隊へ献納する軍用犬約廿頭購入のため、二月二十一日大阪を訪づれ関係各位方面を歴訪。帝犬大阪支部の斡旋で豫想以上の優秀犬を入手して帰満したが、同氏は次の如く語つた。
「氷結した黒龍江を境としてソ聯と對立、日夜警備に勤務してゐる〇部隊には僅かに二、三頭しか軍用犬が配備されてゐません。慰問袋も至極結構ですが、警備の補助機関として優秀な軍用犬を贈ることは寒夜の歩哨その他警備に當つてゐる将兵にとつてどれだけ力強いかも知れません。私達協會では軍犬報國の意味で廿頭を購入、立派な軍用犬として訓練したのち、部隊に献することになつてゐます」
『佳木斯から軍犬買入れ』より 昭和14年
國境第一線は、ソ聯のゲペウ(GPU:ソ連国家政治保安局)の警戒兵が兵一人に軍犬二頭位でガン張つてゐます。日満両軍も同所から派遣の軍犬で對抗してゐますが、我軍は犬不足で、前線からヤイヤイと請求されてゐますものゝ、一日や二日でオイソレと出來ぬため、名所長松村さん(関東軍軍犬育成所長の松村千代喜少佐)もお困りです
満洲瞥見 玉置義一
私は昭和十四年〇月〇日内地仙臺市より軍犬として勇躍渡満する光栄に浴し、斯くして〇日に亘る陸海の輸送も無事、大陸の第一歩を踏む大連港に上陸し、大休止後大連発〇時間後遼陽驛に到着するや、所員及我々を訓育する将兵〇〇〇名が驛構内に出迎へて呉れた時、僕は此れ程うれしかつた事は有りませんでした。
同時に誰が僕の訓練者だらう、出來得る事なら親切な短氣でない第二の主人を迎へ難いものだと念願せざるを得なかつた。
處が計らずも僕を訓練する人は今回の教育教官で、然も仙臺出身の〇〇少尉で、初めて箱より出して貰ふと直ぐ、君は僕の部隊に補充になるんだよ。今日から僕が約一ヶ月余教育して一緒に任地に生死を共にするのだ。何にも心配するに及ばん。第一保健に注意し誠心誠意努力するんだ。
決して他犬と喧嘩口論するんぢや無い、と注意して呉れた時から此の〇〇少尉が好きになり、一ヶ月間の速成訓練の査閲も良好なる成績にて終了し、〇月〇日任地黒河省(現在の黒竜江省)勝武屯に到着しました。
當時郷里仙臺の真冬の一番寒い時より若干楽な位の寒さで驚かざるを得なかつた。到着の第一夜は先輩と共に煉瓦建の立派な軍犬舎に行く(犬房三平方米、前庭三平方米のコンクリート叩)之は君の犬舎だ。ヨゴスナと仙臺弁で言ふて休ませて貰ひ、旅行中の披露を充分恢復する程休養し、翌朝先輩達と共に野外手入場に繋留されたら、先輩のアルフ號君が僕の側で無闇に僕を見て怒つて居りますので、僕の訓練者(當部隊の軍犬班長)が不可ナイと強い声で怒りましたら、アルフ君すつかり伏臥して悪びれて居りました。
處が後で聞けばアルフ君は我が軍犬班中一、二位の優秀犬で一番喧嘩好との事です。
其後君達は今度内地から急に寒い處に來たから寒地に馴致して後、訓練勤務に服すのだと言ふて逐次馴致訓練を一月下旬迄毎日實施せられ、其間一番寒いのは零下三八度位だつたと記憶して居ります。此訓練も無事終り、十二月二日に班長の命に依りいよ〃第一線たる江岸勤務を命ぜられ、訓練助手たる某一等兵と共に警備の任に就いて毎日巡察、斥候、警戒の重任を寒氣を克服しつゝ無事果し、間もなく第一線の正月を迎へました。
其の際兵隊さんに内地から正月だと言ふて御餅や色々な慰問品が参りましたが、僕等軍犬は同地にて同様警備勤務に服して居るが、唯一人として慰問品が來ないので何となく心細く感じました。銃護の皆々様は吾々の苦闘は充分知つて居つても、慰問品の事迄は御氣附無いものと思ひ、茲に一同を代表して申上げる次第です。
尚其外、僕が北満の雪積地帯で心細く感じた事を末書し、参考に致したいと思ひます。
軍犬にも偽装衣の必要を痛切に感じました。白色雪積地帯で兵隊さんは白衣を着て充分偽装して居るのに、僕は黒色毛を露出して第一線を横行するので敵から直ぐ發見せられ、兵隊さんに迷惑を掛けはせんかと思ひます。
而し近日中に僕の取扱者が慰問袋を縫ひ合せて偽装衣を作つて呉れるとの事でしたから、一日も早くと待つて居る次第です。
今後は偽装衣を着て、訓練者と寝食を共にし、人犬一體となり存分活動し、當部隊の任務遂行に貢献し、物言わぬ勇士の意氣を示し、将來軍犬の亀鑑たらんとする覚悟です」
筆者不明『僕は北満警備のシエパード犬種です』より 昭和16年
内地でいくらノモンハンの活躍を喧伝しようと、最前線の窮状はこの通り。
以前から対ソ戦の研究を重ねていた関東軍ですが、張鼓峰事件ではソ連側の警戒犬に夜襲を察知され、ノモンハン事件でも軍犬班の補給や装具の不備が問題化します。しかし、解決には程遠かった様ですね。
こうやって関東軍が足踏みしている間に、ソ連軍用犬部隊は高度な訓練育成システムを整備し、戦術を磨き上げていたのです。
豊橋陸軍豫備士官學校『赤軍ノ夜間防禦』より 昭和18年
【ノモンハン事件と犬】
来るべき日ソ開戦を予見させたノモンハン事件ですが、軍犬に関してはどうだったのでしょうか?「ノモンハンの殊勲の軍犬」は武勇伝や紙芝居「勇犬軍人號」などで宣伝されたものの、実態はよく分っていません。
関東軍軍犬育成所の資料より、実際の運用例を取り上げてみましょう。
この記録は、充分に訓練を積んだ優秀な伝令犬6頭(ただし、軍の方針で警戒犬として転換訓練中に出動)のデータとなります。
一、行軍
平素訓練を實施し非ざる軍犬と雖も、或る程度は行軍は可能なり(左記條件に基く)
1、日時 自八月末日 到九月上旬
2、場所 ノモンハンより海拉爾(ハイラル)
3、宿営 特別なる設備を施さず、露天放置
4、給養 兵残飯、給水円滑ならず
5、行程 二四〇粁 平均四○粁
一、輸送
1、行程 二四〇粁大休止(一時間)三回
2、日時 八月三日午后十時より四日午後四時
3、給養 輸送間牛罐一個(給水一回)
自動車輸送(軍犬兵共)疲労程度爾後作業に影響を來さず。
戰場に於ける使用状況
一、出動當初警戒犬として使用の目的を以て編成せしも、戰況諸通信機関の破損に伴ひ出動間終始傳令犬として使用す。
一、平素砲の空爆音に對する馴致を全然施しあらざる結果、當初恐怖し之が使用に支障を來せり。
一、附近一帯地形の状況
戰場一帯草地にして所々砂丘あり。點々露軍兵死体放置されあり。且終日砲撃或は空爆せられありて、傳令犬使用上好條件とは云ひ難し。
一、連絡距離並に状況別紙要圖の如し
註 戦闘間終始連絡路変更せられたることなし。
一、給養
給水円滑ならず甚しき時には一日兵の水筒半分程度。一日兵残飯(時として携帯口糧食※乾パン)、水飯盒一杯
註 後方連絡円滑なる場合に於ても右の状態なりを以て十數日間繁劇なる傳令勤務に服しありしも、能力に支障を來さず。
一、作業實施回数
第一回構成(一三〇○米 註 有線通信線三巻使用)※軍犬による電話線敷設任務です
第二回構成(三〇○○米 註 有線通信線六巻使用)
第一回構成(二五〇○米 註 有線通信線五巻使用)
一、待期間に於ける敵砲弾に依る軍犬の損害は絶対なし。
註 同一壕内にありし軍犬兵の砲弾の爲埋られしも、軍犬のみ迅速に壕外に踊り出しあり。且之爲軍犬兵軍犬に救助せられたる實例あり。戰場に於ける軍犬美談として、或は戰場ナンセンスとして称されありたり。
一、平素襲撃能力不良なる軍犬と雖も、戰場に於ける考慮を要せず。
註 彼我混戰し夜に及びたる際、軍犬兵敵兵なるを知らざるも、軍犬の迅速なる發見及敵をして死に至らしめたり。
一、其の他
傳令用首輪の信書嚢を大にするを要す。本戰闘間要圖其の他多数の書類を同時に挿入せられたる結果、現在のものにては形式的なる感あり。駄載具を小さくするを要す。
之を要するに本戰場は附近一帯コロンバイル平原にして、起伏甚しく且所々砂丘地帯あり。夜間の兵連絡には方向維持困難にして諸通信機関亦敵砲、空爆撃等に依り破損頻發の状況にして、軍犬に期待せらるるを尠しとせず。之が給養前述の如きも良く補助通信として其の任務を遂行し得たるは軍犬兵並に軍犬との精神的神話の及ぼしたる影響絶大なるものあり。
戰場に於て各級幹部より軍犬の将來戰に於ける必要性を叫ばれ、軍犬に對する認識を深め、戰場に於て常に賞賛せられ居りしは軍犬係将校として欣喜たるものあり。
昭和十四年十月二十七日記す
赤軍狙撃大隊に組み込まれた軍用犬分隊。仮想敵たるソ連軍の内情については熱心に研究されていました。
豊橋陸軍豫備士官學校『蘇軍戰法教育ノ参考』より 昭和18年
満ソの睨み合いが続いていた頃、隣の中国では日中戦争が泥沼化。抑圧された空気の中で、日本人は鬱憤を犬に向け始めました。
内地では、節米運動を機に「この非常時に愛玩犬を飼う奴は非国民」「無駄飯を食む駄犬は毛皮にしてしまえ」というペット撲滅論が台頭します。
このような状況も、食料が豊富な満洲では対岸の火事に過ぎませんでした。日満犬界関係者が非常時の飼料問題について討議した際、内地犬界が「カイコのサナギは飼料にならないか」などと窮状を訴えた一方、満洲犬界は「余った肉の保存法について」などと別次元の悩みを持ち出す始末。全く噛み合っていません。
日米開戦以降も内地犬界状勢は悪化の一途を辿りますが、満洲犬界では熾烈な空襲や深刻な物資・飼料難に晒されることもなく、表面上は平穏な日々が続いていました。犬の飼育が白眼視されるどころか、MKのドッグレース事業は満員御礼の大盛況。
内地でペット毛皮供出運動が始まった頃、創立11年目を迎えた満洲軍用犬協會は希望に満ちた将来像を描いています。
此の沿革史は、十年の一節を曲りなりにも綴つた。謂はゞ安東支部初歩の記録に過ぎない。必ずや二十年史、三十年史は續けて編纂される事は必然の事と信ずる。幼稚園から國民學校へ、此の段階が本沿革史であるとすれば、中學、大學は次々に物される沿革史が夫れであり、更らに錦繡を綴つて絢爛たる編纂が行はれるであらふ。私は只管に其事を想像して、蟲の好い話だが自ら慰めてゐる
満洲新聞協會 馬場書族 昭和十九年晩秋
昭和20年春、敗戦を待たずに内地犬界は崩壊します。日本から犬が消えたのは、米軍の空襲による爆死や食料難による餓死ではありません。日本が一丸となって遂行した犬のジェノサイド「畜犬献納運動」の結果でした。
この断末魔も、満洲国とは無縁の出来事に過ぎません。しかし、満洲犬界にも未来などありませんでした。
能天気にもソ連の和平工作仲介にすがっていた日本ですが、当のスターリンは日ソ中立条約の破棄と対日参戦をヤルタ会談で密約済み。
日満犬界という双子は、運命を共にするしかなかったのです。
【王道楽土に消えた犬】
拝啓 寒冷の候御変りありませんか。出發に際しては御配慮に預り厚く御禮申上げます。
降つて小生等一同身もちぎれる様な風吹く新京の兵営に在つて盛んに犬の訓練に熱中して居ります。幸ひ犬舎は前の部隊の残したもの在り、不完全乍らもどうやら寒さにはしのぎ易く飼育にはなんの不自由もありません。
ボートは日毎成長して體格などは實に立派に發育致しました。時に見物に來られる人がボートを見て驚いて帰ります。食餌も他犬の二倍です。唯バターは九日より風邪氣分となり元氣がなくなり、十日咽喉部が膨張してゐるのに気が付き、獣医少尉の診断を受けましたが、病名不明とてメンタムの如き薬を塗布致しました。
次の日相変らず元氣が悪いので、再び診断を受けました所、同少尉は市内の専門家の診断を受けさせて呉れましたが、矢張り病名はわかりません。人気者バター、曹長殿の御気入りのバターなる故一同心配してゐる次第です。
丁度おたふくかぜの如く下顎部が膨大してゐるのです。食欲の方は餘り衰へないが、熱が高く元氣がないのであります。馴れない氣候の為か?然しボートは元氣が良いのだから驚きます。
現在バターは暖かい曹長室に於て養生中です。間もなく恢復することでせう。
狭い箱の中の長い輸送、潮風に吹かれ、船酔し、汽車に揺られ汽車酔し、運動もせずして漸く着いた目的地は零下二十度の寒さ。仔犬のバターは遂に降参したのか。其の他の犬は全部元氣ですから皆々様によろしく御傳へ下さい。
尚、輸送間の状態を報告致しませう。
山形神戸間、馬と一緒に貨物列車に積まれました。付添人が二人なる故少しく停車時間はあつたもののホームは見送人のため運動などは不可能にして、一回の放尿脱糞もさせず、然し寒くもなく全部元氣で神戸へ着きました。四十時間ばかりの間、箱から一回も出さなかつたが各犬共用便しないのには驚きました。
神戸に於て五日間ばかりの滞在、馴練は行はずも運動のみは充分にやりました。餌も各旅館より牛肉、鶏卵等栄養價値のあるものばかり。従つて食欲も良好、汽車の疲れも忽ちにして恢復し他らしく感じました。神戸大連間は四日ばかり、幸ひ甲板に位置致しました。空気の流通最も良く、但し寒さは甚だしくも馬とは離れ給餌等は至極便利でしたから、好都合だつたのです。多少船酔ひし食欲もなかつたが、大したことはありませんでした(順のみは全然食欲はなかつた)。
取扱兵全員にて毎日犬の所へ行き愛撫しつゝ無事大連に到着致しました。
大連新京間、約四十五時間でありました。付添人は輸送関係上一名でしたが、其の一名が我々取扱兵に非らず犬には知識のないものでした。水と餌だけを充分にやることにして馬と一緒に積まれました。
話に依れば一晩中吠へ続けたとのこと。無理もない話、寒い満鐵の貨物列車、無論保温設備などは全然ない、犬箱の中は糞と尿とで一杯、それが凍つて冷たい寒いのです。掃除も出來ない付添人、察するに餘りあるものでした。客車にあつた僕達の心配は一通りではありません。一刻も早く犬に會ひたいの氣持で過ごしました。
然し會つた時は思つたよりもよく、全部無事でありました。糞と尿は凍つた故臭気は少なく、唯睡眠は全然しなかつたと思ひます。斯くして永い輸送は終り、つくづく痛感したのは犬の困苦欠乏にたへる力であります。先づは輸送中並に近況御通知致します。
皆々様によろしく。
さやうなら、乱筆多謝。
山本部隊安部隊通信班 渡部勉
昭和13年、献納者であるJSV奥羽支部長菊池氏宛への戦地便りより
15年間に亘って、満洲国には多くの軍犬や民間のペットが送り込まれました。統計すら無いので、その総数を把握することはできません。
巨大に膨張した満洲犬界にも、やがて終焉の時が訪れます。
昭和20年8月8日から9日にかけ、日本に宣戦布告したソ連は満洲へ侵攻。潰走する関東軍から置去りにされ、数多くの日本人入植者が犠牲となりました。
そのような大混乱の中、犬たちの運命など二の次です。
終戦命令により、西八里庄の第501部隊(関東軍軍犬育成所)は海城へ移動。そこでソ連軍に武装解除され、隊員はシベリア送りとなります。
育成所の犬達は犬舎から放たれますが、残っていた犬は中国八路軍によって接収されました。後日1頭のシェパードが所員宅へ逃げ戻ってきたものの、追って来た中国軍に連れ戻されたそうです。
501部隊員が海城へ去った後、西八里庄には軍属たちが残されました。官舎で病気療養中だった平井彦作氏は遺棄された育成所へ向かい、その最後を目にします。
皆さんが遼陽を出発後二、三日してから部隊へ向かったところ、途中で数十人の現地人が一列になって部隊の物品を町の方へ運んでいるのに出会いました。部隊の中はガランとして軍犬の姿は見えず、運べるような品物はほとんど持ち出されており、手をつけられないような大きい物や全く使いものにならないような物だけが雑然と放り出されており、正視できないような悲惨な有様でした。
後日、少年軍犬手から陸軍官舎の護衛の為に連れてきていた軍犬のうち、アルフ号とアンジェラ号の二頭を貰い受けて飼育していましたが、たまたま官舎にいた時に八路軍の将校が来て、軍犬を一頭欲しいというので止むなく一頭をあげました。軍犬アンジェラ号も一緒でしたが、又八路軍がきてつれていってしまいました。しかし一週間位したらアンジェラ号は我が家へ逃げもどり、人犬ともに無事を悦びあいました。これも束の間でその後また八路軍がやってきて、強引にアンジェラ号をつれて行かれ、その後は再び戻りませんでした。
白塔『終戦から引揚げまで』より 平井彦作氏の証言
当初の問題といえばソ連兵との食料確保交渉くらい。平井氏の周囲は比較的平静だったのですが、そのうち暴徒による略奪事件が頻発し始めます。中国軍進駐後は日本人の安全も確保され、翌年にはコロ島から駆逐艦雪風に乗って帰国の途につきました。
それゆえ、混乱の中でも育成所の最後が克明に記されたのです。
しかしこれは幸運なケースで、満鉄警戒犬や税関監視犬がどうなったのかは全くの不明。満洲軍用犬協会に関しても、協会本部新京軍用犬養成所勤務の阿比留あい子氏の証言が残されている程度です。
養成所は、訓練も学科もなかなか厳しかったので、当時の見習いさんたちは、なかなか優秀でした。戦後、韓国で訓練所をやっておられる方も、2、3おりますが、今でも文通をいたしております。
あれから、もう40年余り経ちましたが、記憶も曖昧で、前後しておるところも多々ありますが、何となく当時を思い出して書いてみました。刈田さんや宮越さんがお辞めになった後、しばらくは平岡好正さんが血統書のお手伝いをして下さいました。その後、松本有義様、津田栄三様、芝池弥太郎様などが、お入りになり、私も家庭専一にと、本部をしりぞきました。
終戦の年の昭和20年8月、ソ連参戦後の13日、私は園部政光様の妹・千枝子さん、松本有義氏の令孫テイ子さんと御一緒に、疎開列車に乗りました。それきり新京の土を踏むことは再びありませんでした。養成所の可愛い犬たちとも、それが最後でした。
阿比留あい子氏 『文苑 幻の満州軍用犬協会』より
公的機関の犬すら記録が残っていない混乱状態。民間のペットがどうなったかなど知る術もありません。
彼らの犠牲は、そのまま忘れ去られました。
かつて毎年3月20日に開催されていた靖国神社軍犬慰霊祭。現在は軍馬・軍鳩・軍犬の合同慰霊祭へ統合されています(2009年撮影)
【満洲犬界が残したもの】
軍国日本の野望の果てに、僅か13年間で消え去った満州国。地雷探知犬や阿片探知犬のノウハウも、満洲崩壊によって完全に失われました。
昭和30年代の陸上自衛隊を見ますと、伝令犬のような完全に時代遅れの運用法を引き継ぐいっぽうで、爆発物探知犬の課目はナシ。税関でも満洲犬界関係者の協力を仰ぐことなく(阿片探知犬訓練士の一ノ瀬欽哉氏が帰国していました)、昭和54年に海外から麻薬探知犬を「逆輸入」する破目になりました。
しかし満洲犬界の遺産は完全に喪われたワケではなく、幾らかは戦後に受け継がれています。
満洲からの引揚げ者には、多くのMKメンバーや満鉄警戒犬・税関監視犬の関係者がいました。彼らの中には、戦後日本犬界の復興に貢献した人々もいます。たとえば聴導犬の日本導入には、税関監視犬育成所出身者が関わっていますよね。
ドッグレース法案が国会に提出されたのも、戦時中のMK賽犬事業があったからこそ(めでたく否決されましたけど)。
日露戰役に於ける遼陽會戰護國の英霊一万四千八百七十一柱を祀る遼陽忠霊塔は昭和十四年五月二十八日移転竣工除幕式を挙行されたが、同時に遼陽市民及び全満愛犬家の總意により帝國生命線確保に斃れた軍犬八百の霊を祀る遼陽軍犬忠魂碑が此の聖域内に建設せられた。
満洲国における軍犬慰霊。敗戦により、このような軍用動物慰霊碑は消滅してしまいます。
忘れてはならない「満洲犬界の遺産」が、軍犬慰霊の継承です。
「日本人による日本の軍犬慰霊」は各地の護国神社などが引き受けていましたが、「満洲国の軍犬慰霊」は宙に浮いた状態。遼陽の軍犬慰霊碑も、管理者たる満洲国や関東軍が消えた以上は運命を共にするしかありません。
昭和23年、501部隊員たちがシベリア抑留から帰国します。そして戦後の生活が落ち着いた頃、メンバーの再結集をはかりました。
敗戦時、育成所を放棄したことへの贖罪意識もあったのでしょう。やがて彼らは、戦地に散った犬達の慰霊碑建立計画をスタート。
昭和38年、逗子延命寺に「動物愛護慰霊之碑」」を再建しています。戦時金属供出で撤去された、逗子忠犬之碑(軍犬ジュリー慰霊碑)の代わりとして。
ジュリーが関東軍で活動していたのは、育成所設立の2年前。主人の戦死と共に神奈川県の逗子へ移住、昭和7年に病死しています。要するに501部隊とは何の縁もありません。
「僚犬那智・金剛の遺骨(とされるもの)を延命寺へ送りつけたのが、後の育成所長となる貴志重光大尉であった」、その程度の繋がりです。
軍犬報国運動のシンボルと化し、散々利用された挙句、物資不足になるとアッサリ供出された軍犬ジュリー像。「板倉少佐の遺犬の墓を作ってやりたい」という逗子小学校児童や延命寺の思い遣りは、戦争によって踏みにじられたのです。
無言の勇士を称えよ!と叫んでいた戦時日本の、これが軍犬に対する仕打ちでした。
元501部隊員たちは、「戦中の軍犬慰霊」の悪しき事例となった逗子から戦後をやり直そうとしたのでしょう。
モチロン、動物愛護慰霊之碑は軍犬の墓ではありません。この地で生涯を終えたペットたちの慰霊碑として生まれ変わりました。
逗子にある動物愛護慰霊碑之碑。在りし日のペットたちを偲び、お彼岸には多くの飼主さんが訪れます。
2009年3月20日、動物愛護の日に撮影。
次に建立されたのが、靖国神社と新潟護国神社の軍犬慰霊碑。平成4年のことですから、動物愛護慰霊之碑設置から随分と時間が空いています。
新潟護国神社が選ばれたのは、関東軍軍犬育成所員の連絡窓口が新潟県にあったからでしょう。現在でも静かに慰霊が続けられています。
しかし靖国神社の場合は違いました。神社の性格上、軍犬像は「慰霊」ではなく「靖国論争の標的」にされてしまったのです。
そうやって思想ごっこをしている間に、統治下や満洲犬界の記憶は忘れ去られました。彼らの視界に入るのは、「日本列島から出征した陸軍の犬」ばかり。
しかしもう手遅れです。
今から学ぼうにも、「彷書月刊」や「犬の現代史」以降はマトモなテキストすらありません。
え?「さよなら、アルマ」がある?
出版時の宣伝で、戦争の犠牲となった犬達を殺人兵器呼ばわりしたアレですか。満洲犬界への無知を自覚していないと、ああいう無恥を生み出すんですよ。
第十六回軍犬慰霊祭の様子(2007年撮影)
【第一回の冒頭に戻る】
今回なんで満洲畜犬史へ寄り道したのかといいますと、「満鉄職員の孫だから」という理由では勿論ありません。
満洲で呑気に駅員をやっていた祖父も、緒戦で迫撃砲弾片を顔面に食らって一発退場となった職業軍人の外祖父も、私に語ってくれた戦争観はビミョーなものでした。「僕は戦争とかどうでもいいんだ、ソ連のせいで職を奪われたことが腹立たしい」とか、「志願入隊したんだから、私が失明したのも自業自得」とか言われると、学校で教わる「赤紙一枚で奪われた青春」だけが戦時ではないことを小学生の時点で心得るようになったワケです。当時は人それぞれの事情があったんだな、と。
個々人の事情を詮索するのもアレなので、祖父の語る満州に関しても遠巻きに眺めてきたんですよ。
それゆえ、かつての私は「満洲犬界=日本犬界史のオマケ」のように捉えていました。結果、「満州犬界について教えて欲しい」とのご依頼を受けた際、オノレの不勉強から満足に回答できなかったことがあります。申し訳ないやら情けないやら、反省して真面目に取り組み始めたのが数年前のこと。で、満州犬界の記録が散逸・消滅し、テキストすら編纂されていない事に愕然となったワケです。博物館へ行ったら、入口でスコップ渡されて「収蔵品が無いからお前が発掘してこい」とか言い渡されたようなもの。日本統治時代の朝鮮半島・台湾犬界は「日本犬界の一部」的な存在であり、(既に記事化したとおり)幾らかの追跡手段も残されています。しかし満州という国家において、畜犬行政がどのように施行されていたのかサッパリわかんないんですよ。公的な記録でその状況ですから、「当時の満州で活動していた畜犬団体は?」「ペット商は?」「犬猫病院は?」という疑問を解く手掛かりなど残っていないのです。ひとつの国が消えるというのは、こういうコトなんですね。強固なネットワークで繋がれていた「隣国」の犬界を知らずして、日本犬界史を知ることはできません。どちらが優先とかではなく、並行して調べなければ。満州の思い出を愛し続けた祖父と違い、私には彼の地への憧憬や郷愁など一切ナシ。王道楽土に消えた犬達の記録を知ることで、「合わせ鏡としての日本犬界」を確かめたいだけなのです。
満州軍用犬協会の登録犬ですが、まさか戦争後期に日本へ渡っていたとは……。両国間の犬の往来は、ずっと続いていたんですね。
昭和18年の広告より
在満一有年、満州國の治安維持、帝國の生命線確保、匪賊討伐、宗哲元軍の熱河省侵入事件等に赫々たる武勲を樹て、去る三月、原隊に凱旋した旭川の第七師團各部隊の輝しい将兵の蔭には軍用犬の活躍をも忘れてはならぬ。
師團の出動と共に満洲の廣野に初出陣をした第七師團の軍犬は九頭であつた。肌をつんざく酷寒も、炎熱灼くが如き酷暑も、匪賊討伐や偵察に数々の殊勲を樹て、文字通り軍犬報國を如實に示した。
そうしてその配属部隊と共に去る三月九日から十九日に亘つて旭川の原隊に凱旋したが、その内、野砲兵第七聯隊第三大隊に属する軍犬ビー號が派遣中昨年七月八頭の仔犬を分娩したが、今回凱旋の途上、三月八日津軽海峡航海中の連絡船で俄かに産氣がつき、安々と四頭の仔犬を分娩し、母犬も健全で旭川驛頭に凱旋をした。
之を聞き伝へたビー號の献納者旭川市松岡源之助氏を始め、軍用犬協会支部役員會員が多數驛頭に出迎へ、ビー號の一有年に亘れる労苦を慰めたが、尚ほビー號は出動中樹てた武勲に依り支部から功労章と感謝状が授與されることとなつた。
『物云はぬ勇士ビー號帰還す』より 昭和10年
満洲国の畜犬史・その7 満洲ペット事情
S犬愛好家JSVの集ひは何處も和氣藹々、實に氣持の良いもので時の過ぎるのが判らず十時を過ぎ、可愛想に安東で一汽車送らされたか犬Benno vom Godstowが着いた時間である。大慌てに慌てて驛に走る。一分一秒でも早く輸送箱から開放し、我慢してゐたであらう大便も小便も済してやり度い。肉もやりたい、牛乳も呑ましてやりたい。ブラシもかけてやりたい。
此の氣持は犬を愛するものだけにしか通用しないものであることは當然であることが判つてゐながら、心ない驛員の不親切と不統一は忘れ得ぬ不愉快な奉天驛の印象である。
此處には來て居ない彼方だ、此方には置いてゐない向ふだ、と同じ處を彼方に走らされ此方に廻される事二時間餘。我慢に我慢を續けて漸く犬を受取つたのは一時半。輸送関係輻輳の今日、無理を言ふものでは決してないが、今少し應接の親切はあつて欲しいものだと思ふのは兎に角として、根本たる事務取扱の不統一振は大満鐵の恥辱ではないか。驛に到着せる犬一、二頭の引渡に二時間餘を費さしめるも言語道断なら、悠々と煙草を吹かし南京豆を食ひ、雑談・談笑自己の仕事の譲り合ひを爲し、此方にありますと案内して呉れた驛人夫を「貴様何の爲にいらぬことをするか」と公衆の面前で足蹴にし、双方罵言の浴びせ合ひをやる等の醜態を演じ、調べて呉れもせず此方には來て居ないと剣もホロロの返事。
それで結果は自己の受持引渡であつたといふに至つては、大満鐵よ如何に人的不足の折とは言へ斯かる人間に禄を與へる位ならS犬に事務を執らせよと言ひ度い位だ。
こんな不愉快な思をして引取つたBennoは今度は旅館に寝かせる處なく、驛待合室に自分のコートでも敷いて寝せるか、次の汽車を待つて引返して帰宅するかの外なく、迷ひに迷つて遂に心臓に鞭打つて夜中二時松村氏の門を叩き、平壌からの遠征犬三頭を預かつて頂く、何と氣の毒な思をしたことか。展覧會遠征は餘程考へさせられることである。此の夜中、自己の犬舎を開放し、食餌の心配迄自ら種々と御配慮下さつた松村氏の御親切は感謝の外なく、改めて茲に御禮申上ぐる次第である。
平壌野生『満洲遠征の記』より 昭和15年
内地と違い、広大な満洲では犬を運ぶのも大変でした。上記は、朝鮮の平壌から満洲国奉天へ犬を輸送した時の苦労話です。
満鐵奉天驛職員の孫たる私としては、これを読んで誠に申し訳ないというか何というか。
爺様よ、お客様から78年越しのクレームだぞ。
奉天駅前の広場にて
【満洲産狗皮】
満洲建国以前から、かの地にはユダヤ系、中国系、ロシア系などの毛皮商が殺到していました。野生動物から家畜まで、大量の毛皮が生産されていたからです。
特に満洲産犬皮は「安価な代用毛皮」としてヨーロッパで重宝されていました。20世紀になると、アメリカ、イギリスが競合する満洲毛皮市場にドイツが参入。列強が激突する中、日本毛皮商が遅れに遅れて乗り込んできたのは大正後期のことです。
「輸出取扱い上には英國、米國系猶太商、露商が最も勢力を有し、近年獨逸商の臺頭は注意すべきものあり。邦國の内には日本毛皮貿易株式會社其他一二の商人が時に取扱ひをなすことあるも未だ見るべきものなく、満蒙に斯る資源のあることさへ今日迄知られざりしは實に遺憾千萬である」
南満州鉄道株式會社 臨時経済調査委員會の資料より 昭和4年
満鐵の資料より、奉天驛に集積・発送されていた犬皮。満洲産毛皮は種類によって取扱地域が違い、犬皮の場合は奉天・天津・錦州が主たる集荷・輸出拠点でした。
安価だった満洲産犬毛皮も、海外需要の高まりによって10~20倍に高騰。満洲国建国以降は、更に價格が上昇しました。
昭和12年には、満州産毛皮の権益をめぐって日本と満洲の毛皮商が衝突したなんて騒ぎも起きています。
満洲の犬は、皮革資源や番犬としての価値しかなかったのでしょうか?
多様な文化が混在する満洲国において、そういう一面的な捉え方をするのは大間違いです。事実、愛犬家だってたくさんいましたし。
例えば、ラストエンペラーとか。
【満洲国の愛犬家たち】
満洲の地でペットを飼っていた日本人は、それこそ明治時代からいました。
ロシア軍の動向を探る軍事探偵の中村三郎(後の中村天風)と行動を共にしていたトボ。日露戦争に出征した櫻井忠温が大連で拾い、旅順攻囲戦で戦死したダル。これら偉人やベストセラー作家の愛犬のほか、名もなきペットたちがたくさんいたのでしょう。
当然ながら、犬を愛するのは日本人だけではありません。満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀も愛犬家の一人でした。
満洲國皇帝陛下が並々ならぬ御愛犬家であらせられることは既に御承知の事と思ふ。昨年私が奉天守備隊に在勤中、當時の井上獨立守備隊司令官が獨立守備歩兵第二大隊保管犬中武功抜群(甲功章を授与せらる)のドル號を献上せらることになり、私は命を承けて皇城の中庭にて一通りの訓練を御覧に入れた所、非常に御満足で、演技に對して、拍手を賜つて、人犬共に面目を施したことであつた。
本年十月機を得て、私はドル號を皇城に見舞つた所、飛び付いて來たが、命令を与へると忽ち立派に動作が出來た。それは朝夕、陛下の御運動の御相手を奉仕し、陛下親から御訓練を遊ばさるゝ結果であると承つたのである。
本年一月七日、皇帝陛下には関東軍司令部廳舎に御成に相成り、其の節、防空演習と、軍用犬訓練實演とを展覧に供したのである。
私は軍犬育成所の種犬二頭と軍用手を引き具して、當日司令官々邸庭園にて、左の課目を實演した。
クロード號(牡、満二年三ケ月)
脚側行進、脚側停座、据座及招呼、伏臥、咥搬、捜索、拒食。
シユタール號(牡、満二年三ケ月)
傳令、連続障碍飛越「高サ一米ノ蘺、高サ一米五十糎ノ高跳、中跳(高サ八十糎、巾二米)、板塀(高サ二米五十糎)、各障碍の間隔は何れも概ね十米」
単獨障碍飛越(高サ一米、巾二米五十糎)、匍匐、木登、襲撃。
午後一時二十分、陛下には、菱刈軍司令官の御案内にて、露臺に出御、訓練に関する司令官の御説明を御聴取になりつゝ、最後迄御興味深気に御覧遊ばされた。
當日は恰も三塞に入り、而も烈風砂塵を捲き板塀は倒れ、支柱により漸く之を支へ得た有様で、天候は甚だ不愉快極まる日であつたにも拘らず、陛下には外套をも御召にならず展覧を賜り、而もイト御満足の態を拝し、軍犬の為感泣した次第である。
満洲國は軍用犬の檜舞臺である。
それは平戦両時を通じての軍犬として、また平素警備に産業に、其の他の使役に、真に作業犬として其の利用の途の廣きこと、活動する犬数の多いことに於て、檜舞臺であると信ずる。
私等は此の檜舞臺上に踊るべき作業犬を蕃殖し且つ踊らしむべく、真に軍犬報國の實際運動に携はる者として、斯の皇帝を戴くことが天恵豊に感じ、やがては軍犬報國の實をも具顕し得ることを信じ、犬方同志の御精進と御協力とを祈念する次第である。
関東軍少佐 貴志重光『軍用犬訓練を満洲國皇帝の御前に演じて』より 昭和10年
婉容皇后の一家も愛犬家揃いで、日本犬の大家、京野右衛門氏も「満洲國皇后陛下の御父君榮源氏に日本犬を贈呈したことは誌したが、この程榮源氏から自筆の篆額及び棋盤、剣奪をお禮に送つて來た」と記しています。
皇后の実弟、郭布羅潤麒(かくふら じゅんき) 氏などは、わざわざ来日して犬の展覧会に参加していました。
郭布羅潤麒氏(中央)と洋画家の長坂春雄夫妻
S犬愛養アマチユーア連の訓練競技會は、七月十八日東都大山公園付近に於て開催された。出場犬は梨本宮殿下の御愛犬を始め、ISTの有坂少佐愛犬等合せて十四頭。之をAクラス四頭、Bクラス十頭に別けて厳審を行つた後、御臨場の満洲國皇后陛下御令弟潤麒殿下、西田事務官、代々木警察署長其他の名士等を中心に、犬談に花を咲かせて盛會であつた。
『アマS犬訓練競技會』より 昭和12年
因みに軍犬ドル號実演会の際、皇帝をエスコートした菱刈司令官も愛犬家でした。
(白はグレーハウンド、黒はシェパード)
関東軍司令官菱刈大将閣下が戌年生れの令息隆永君へ送られた寫眞です。場所は新京官邸前。多忙なる軍務の朝夕、而かも酷寒の雪中愛犬を引具されての運動は、大将の元氣なお姿と愛犬振が偲ばれて、私は殊の外嬉しく思ひます。
写真の裏面に和歌一首。
戌年に犬の姿を写し取り 戌年生れの犬好きにやる
伊藤善吉 昭和9年
エライ人ばっかりではなく、市井の愛犬家たちも取り上げてみましょう(この辺の話は結構見つかります)。
奉天満洲電々會社の前をうろつくワンコ
・藤飯経理課長曰く、「最近用心棒の積りで犬を連れて歩いてゐるが、犬の方がよつぽど男前なので、妓どもが寄つてたかつて來るからたまらんよ」
・伊藤地方係主任の愛犬が、このほど十匹も仔犬を産んだので、奴さん大ホクホク。一匹三十圓で賣り出すさうな。
電話三三三一番。・鈴木正隆銀行支配人、愛犬セパードに引かれて散歩する恰好は、犬に引かれて善光寺参りだ。
城島船禮『あたまをかくペイジ』より 昭和10年
もっとこう、心温まる愛犬談とかうちのワンちゃん自慢とかないのか。
……などと思って市井の話が集まる誌面に目を通しても、奉天の飲み屋のママさんとかカフェーの女給さんのゴシップばっかりでした。
昭和18年の広告より、猟犬も人気の犬種でした。
満洲犬界の飼育訓練法は日本のものを受け継いでおり、目新しいものはありません。
朝倉:犬の飼育について星野さん一つ。
星野:米、肉、野菜、塩などを混合したものを一日六〇〇グラム位与えるのが普通でせう。
副島:仔犬の取扱ひが一番困りますネ。その飼育管理の方法で犬の質に非常な影響があります。
朝倉:では副島さんの體験を。
副島:仔犬のときは廻虫駆除が大変です。始めは医者に見てもらふことが一番安全です。ジステンパーの治療も自然に會得出來てきます。食料の方は離乳期が最も罹病率が高いので注意せねばなりません。三ヶ月目位から食料の加減をして何より粗食に耐える様に仕向け體力に注意せねばなりませんが、運動を十二分にしてやれば粗食も可、活動力の減退なんてありません。
堀内:全くだ。ゼイタクは禁物だ。包米か高粱で澤山だヨ。
志賀:同感だ。ウチにも三頭ゐるが粗食に限る。
副島:食はんときはホツておけば自然に食ふやうになる。
堀内:人間以上のことはいかん。とにかく運動を適當にやることだ。僕は時々ゴルフの玉ヒロひなんかやらせてゐるがそれでもよいと思ふ。
副島:犬の方で食量は極める。
堀内:然し水だけは忘れんことだナ。
星野:綺麗な水をやることです。
志賀:鶏もそうだヨ(笑聲起る)
朝倉:犬の病気はどんなものか、星野さんお願ひします。
星野:仔犬には虫が起り、生後四、五箇月頃にジステンパーにやられやすいから注意が必要で、これは手、胃、胸に出來ますが然し一回やれば免疫性になります。手をやると心臓を犯されます。狂犬病には豫防注射の方法があるので安心です。
朝倉:犬は人の様にモノを言はんから困るな。
星野:然し何か異状のあるときは鼻が乾燥し目が充血して來るので判ります。
朝倉:訓練方法について荒田訓練士のお話を。
荒田:訓練士として始めに一言しておきたいことは、折角訓練所で訓練の上家庭に還しますと放置される場合が多いので、水の泡になることありますのと、又主人に智識のないときは駄目になります。
副島:何ヶ月目頃から訓練はやるのです。
荒田:八ヶ月目頃からです。
星野:仔犬の訓練は全く重要ですネ。
荒田:基本訓練として脚側行進を指導手程度に仕込みます。それから咥搬、伏臥と進み障害、全進、捜査、物品監視となり襲撃に移ります。これだけの訓練をしてその性能により警戒、傳令何れかの部門に編入して専門的訓練をいたします。
星野:これだけの訓練をしておけば犬の質に依つてどうでもなります。
副島:人犬の親和訓練も必要でせう。
荒田:例へば咥搬不能の犬は犯人捜査又は傳令に振向けるといふ様なことになります。
星野:仔犬は大體モノを咥えて戯れる習性があるので、仔犬のときの訓育が大事です。
鴨緑江日報『軍犬座談會』より 康徳7年
一般の飼育マナーはといいますと、内地と同じくロクでもない状況でした。放し飼いの横行により、狂犬病も発生していた様です。
最近の軍犬讀本(満洲軍用犬協會誌)に関東軍軍犬育成所々長の松村少佐(松村千代喜)が次の様な事件を紹介してゐる。
不注意な愛犬家の為め頂門の一針として大いに反省して戴きたい事柄なので、こゝに抄録して御参考に資さう。
★
その最も多い被害は咬傷であつて、関東州に於ける軍用適種犬に對する免税の如きも、州内に於ける犬に依る被害(咬傷最多)の三分の二はシエパードに依るといふ統計が現れて居る為、當局に於いても頭を捻つて中々認可にならないらしい。
此被害の中には、被害者の方が悪いといふ例もないことはないが、大部分は飼育者の不注意に依るものが多い。最近新京に於いて起つた事件の如きは其例であつて、大同学院の学監をして居られる恒吉大佐殿が、日曜日に子供さんをお連れになつて西公園を御散歩中、十一になる御嬢さんと八つになる坊ちやんのお二人が、小高い丘を嬉々として登つて行かれた所、頂上で反對側から突如現はれたシエパード犬の為、二人共咬まれてしまひ悲鳴を挙げて倒れてしまつた。
驚いた大佐殿は直ちに収容、自宅に連れ帰られ、萬一狂犬病が出てはとの御心配から注射をせられたのであるが、遂に其為お二人共數日を間して逝去せられ、二人の愛兒を一時に失はれるといふ人生稀なる悲惨事を惹起してしまつた。
咬んだ犬はシエパード犬なる事は確か(證人もあり)だが、何處の誰の犬だか判らない。附近の心當りを捜したが結局判明せず、其為狂犬病の注射をするかしないかに就いても大分迷はれたらしい。
平素家庭に於いても犬を犬舎外に放飼ひして置く事は悪いのに、況や多數人の集まる公園内で犬を放すなどは以ての外の不徳義である。
只放す積りはなかつたが紐が切れたり、首輪が切れたりして放たれたとあれば已むを得ないが、市街を歩いてシエパード犬が勝手に徘徊して居るのを時々見る事があるが、飼主の心なしに驚かざるを得ない。
一部斯かる不注意の飼主がある為、咬傷の被害者を作り而もそれが原因となつて本事件の如き悲惨事を起すといふ事になると、未だ軍用犬に関して十分の理解のない人に、軍用犬とは虎か狼のやうな恐るべき猛獣であるかの如き誤つた認識を與へ、之が禍ひを為して軍用犬の発達に非常な障碍を生ずるといふやうな事になる虞れがあり、軍犬資源の充實上寒心すべき状態になるのである。
呉々も犬を飼はれる人は、牧場で馬や牛を放し飼ひにするやうな考へを去つて貰はねば事人命に関する重大事件を惹起し忌はしき結果を招来するに至る事を銘心せられたい。
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全く御説の通りで、軍用犬として訓練するには第三者に對して愛玩犬見たいな媚態を呈する様では駄目だし、とすれば多分に危険性を持つ事となる。
又世間には百人の人が百人とも愛犬家ではない。この二點からも苟くも軍用犬を飼育して國家に奉仕しようとする會員各位は又一方に於いて立派な社會人としての模範を垂れて戴き度い。
LM生『愛犬家よ注意せられよ!!』より 昭和11年
【満州のペット商】
満洲ペット界の発展を支えたのが、犬の通信販売網。鉄路や航路を経由して、たくさんの犬が流入していたのです。
下はその一例。
日本畜犬社の通販広告 。満洲までの送料や輸送手段まで分る貴重な資料です。
内地から大陸へペットを移送するのは大変で、特に仔犬となると長旅で体調を崩したり命を落とすケースも珍しくなかったとのこと。
その辺の苦労談は幾つも残されています。
熊本の野田氏が自家所産の仔犬を臺湾と大連へ各一頭宛送られるので、門司に於ける船への輸送方を依頼して来られた。
Odin v.Stolzenfels ― Delfi vom Siekerfelde 418054 SchHの仔で、生後三か月の牡。犬ボーイさんから受取つて犬舎に入れると半立ちの耳をヘラヘラさせて頻りに吠へる。呼んでやれば吠へながら尾を振て来て、僕の手をペロペロなめる。可愛い盛りだ。
出帆まで三日間に僕にスツカリ馴染んだので、モーターボートに乗せて沖の高千穂丸へ行つた時には、自分の飼犬を遠方へ遣る時のやうな感じがした。幸ひに高千穂丸の担當ボーイさんは大のS犬フアンだつたから、船中の世話万端を極めて快く引受けてくれたので大變嬉しかつた。大連航路のハルピン丸も同日同時刻に岸壁出帆だつた。
重ね重ね幸ひな事には、此の船の担當ボーイさんも非常な犬好きである上に、ボーイの取締さんもフアンだつたから、僕の色々の申出を注意深く聴き入つて「大丈夫です、御安心なさい」と氣持のいゝ承諾の返事をしてくれた。
仔犬の輸送に関係する度毎に、僕は常に遺憾を感じ、或一種の強い自責の念に駆られるやうに思ふのは、職業柄にも拘らず、自分が仔犬の輸送に就いて少しの研 究も出来てない事である。仔犬の輸送は勿論、彼の耐久テストなどゝは全然異ふのだから、耐久テストの際に行はれるやうな厳密詳細なる疲労度の調査研究は實 施も出来ないだらうし、また其の必要もあるまい。
だが凡そ仔犬を輸送するには、此の點は斯くして彼の點は斯くすれば仔犬が安全に目的地に着くと云ふ點だけを的確に知つて置きたい。そしてそれを知るには自分は何人よりも便利を具有して居るのだと思ひながら、行使の仕事に追はれて今日未之れを果してゐない。(中略)
第五例・生後五か月の牡
1.輸送區間
大阪―奉天間(関釜連絡船経由)
2.輸送時間
四十五時間
3.輸送時期
十二月初旬
4.輸送容器
鉄道の犬箱。底には寝藁を使用。其他不明。
5.仔犬の取扱
積込前後の模様通知なきにより不明。下関驛で(大阪發車後十時間餘)牛乳一合、生牛肉百匁給與。元気旺盛。敷藁は小便のために濡れてゐたので之れを取替へ。驛前廣場で緩速度の散歩して排便せしむ。釜山で(大阪發車後十八時間餘経過)生玉子一個牛乳一合給與。
6.到着後の状況其他
詳細不明だが受取人から間もなく安着通知の丁寧な禮状を受けた。
吉川美男『身邊雑記』より 昭和11年
満洲国にも、これらの愛犬家を支えるペット商や家畜病院が存在した筈なのです。内地よりも厳しい気候風土により、愛犬家の健康管理にも一層の神経をつかったことでしょう。
その実情はどうだったのかというと、サッパリ分かんないんですよね。南満洲教育會の教科書に獣医師の話が載っていたり、他には関東軍の獣医さんが風土病やフィラリア症の報告を幾つか残している程度ですか。
冬の厳寒も大して影響のないのは、現にハルビンで露人その他が一千頭位のシエパードを飼育してゐるのでも知れます。又その他大連、遼陽附近に約一千頭のシエパードが飼はれて居り、それ等から推して満洲全土に三千近いシエパードが飼はれてゐると見られてゐます。病氣はテンパーと皮膚病を除くと、これと云つて目立つたものはありませんが、テンパーは殆んど内地同様で、私の赴任した昨年の五月は恰度四月頃からテンパーの洗禮を受けて、猛烈に猖獗を極めてゐた時期で、全部で百二十頭から冒され、その治療に行く匇々から忙殺されたものです。その後昨年の暮に他から寄贈された二、三頭にテンパーが發生して、その所属部隊の犬十四五頭に傳染したのと、今春四月、内地から購入した犬にも四頭程怪しいものが出て、早速隔離犬舎に移したけれど既に遅く、結局十七八頭に出た例があり、これは却々油断が出來ません。又皮膚病は満洲の風土のせいか、或は食物のためか、原因は未だ不明ですが、殆んど風土病と云つてもよい程、慢性の湿疹が一年を通じ、どの犬にもあつて、これには全く弱ります。
或は疥癬の類ではないかと検べましたが、さうでもなく単なる慢性の湿疹で、大して猛烈と云ふものでもありません。或は満洲の土着犬が大抵これに冒されてゐるので、それ等から何等かの機會に傳染するのではないかとも思ひますが、前記の如く未だ明確なことは判つてゐません。
獨立守備隊一等獣医 湯川忠一『満洲の軍用犬の實情を述べ、内地シエパード界へ衷情を披歴する』より 昭和8年
「満洲には犬の咽喉に寄生する謎の虫がいる!」と騒ぎになった際、血色食道虫症であることを正確に診断したのも湯川先生でした。
昭和八年十一月三日、私の飼犬リツチ號が突然斃死した。
剖検の結果、胸部後大動脉壁並其の附近食道壁に大豆大乃至鶏卵大の食道蟲結節を形成し、其の中の一つが血管壁を破壊したために胸腔内に大出血を來して斃死した事が判明した(局所の病変部は今尚獣疫研究所に保存してゐる)。
其の症状の大要を記して見やう。リツチ號は牡、二年六ヶ月、銀灰色、體高五七糎、體長五八.五糎、胸囲六三糎、生來怯懦にして栄養不十分であつたが、漸次怯懦性は除去せられたが、被毛の光澤不良にして栄養の恢復は充分ではなかつた。
食慾は不定にして往々残食したが、嘔吐は特に認めなかつた。各種の検査法を試みたが、別に寄生蟲卵も認めず、其他臓器に異常症状を認めなかつたので、只少しく過敏に失するがために栄養が充分でないのではなからうかと思つて居た。
然るに十月二十日頃より一層元気衰へ、食餌も目立ちて不定になり、運動を好まず、時によると終日犬舎内に蟄居して居ることがあると云ふので、十一月一日、旅行先から帰つて、早速診断したが、却々其の病状をつきとめることが出來なかつた。
十一月二日、早朝再度健康診断を行ひたるに體温卅七、五度、呼吸廿一、脈搏四五にして、脉膊僅に充實せず、不整の感ありしも心臓機能には特別の変状を認めないが、結膜は成可貧血して居つた。
元気は乏しく、呼吸に應ぜず、兎もすれば舎内に潜入横臥し、不安の状を示して居る。
牛乳一合、鶏卵二箇を與へしに良く採食し、更に要求するを以て、牛肉と鶏卵を混合して與へたるにスープ及鶏卵は食するも、牛肉は全然食せず。
因て消化剤を投與し運動を中止したるも、終日犬舎内に横臥し夕方よりは軽度の呻吟を呈するに至つた。
十一月三日午前五時、呻吟の度増加せるを以て検診するに、體温三八、一度、脉膊四七、結膜僅に充血し、呼吸促迫にして、浅く胸部其他に触るれば叫鳴し、特に季肋部の疼痛を訴ふ。
食餌全廃、元気全く亡失し、起立不能となり、精検せるも診断不能に終る。
斯し午前十一時過、僅に苦悶し遂に斃死するに至る。即ち上述の如くにして、其の症状は極めて不明瞭で、結局解剖する迄は其の病名が判明しなかつたのである。食道蟲症は由來満洲に多く、内地では比較的少い疾病であつて、而もS犬に於て其の發生例を多く見なかつたのが、一つは診断不明に終らせた原因もあらうが、兎に角診断容易ならざる疾病である。
然しながら事實は現地満洲に多い疾病であり、而も私の貧弱なる體験を以てしても、既に二例の動脉破裂を見たのであつて、軽視すべからざる疾病であると思ふのである。吾々は今後本病の診断治療には、一層研究して行かねばならぬものと思ふ。
満洲軍用犬協會『犬の食道蟲症』より 陸軍獣医湯川忠一 昭和10年
満洲怖えええええええ!とか怯える必要はありません。この寄生虫は日本にも分布しております(気休めになるかと思って)。
【新天地へ向かう犬界関係者】
満洲建国以降、日本犬界と満洲犬界の交流は活発化します(両者が合同することは決してありませんでしたが)。
満洲への移住者には、愛犬を連れて海を渡った人々もいたことでしょう。また、内地犬界のヌルさと閉鎖性に嫌気がさしていた犬界関係者も、新天地を求めて満洲へ旅立っていきました。
中には三下り半を叩きつけて日本から出ていった人もいます。
森内さんが神戸で経営していた「犬の學校」
今年の春、花には遠き二月の始め、私は突如として神戸犬の學校を引きまとめ、家族も共に満洲國安東縣へ移住。既に六ケ月を経過した。此の間殆ど内地とは交渉を絶つて、専心學校の建設につとめ、辛じて此程建築の落成を見るに至つた。
犬の訓練に於ては最も古い歴史を持つ神戸犬の學校を、思ひきつて満洲に移した其の動機は、三年前のドイツ視察である。一九三四年ドイツに行つて、作業犬の真價を餘りにも痛切に感じせしめられた私は、何とかして我日本をも此處迄引上げねばと、東に走るシベリアの汽車の中も、其の事ばかりに胸を高鳴らせ、手に汗を握つたのであるが、さて帰國以來東奔西走して、或は活動寫眞により、講演により、又は諸誌を通じ、時には訓練の實演迄して活躍して見たが、結局何の効果も挙げ得なかつたのである。
餘りに莫迦々々しくて、「もう訓練は止めだ」と、幾度心の中に叫んだかも知れなかつた。言葉にもつくせぬ悲痛な心持に、幾夜眠らずに過した事か。實際に死線をさまよいつゝ、日本の犬界を考へたのである。
が、結局日本内地の犬界では、訓練の本格的にならぬのが本當である。内地の訓練はサーカス的のお座敷で澤山である。
本格的の訓練はどうしても第一線だ、満洲だ!!と思ひ決して、全満を視察すること二ヶ年、竟に意を決して學校を安東に移したのである。が、偖て住みなれた神戸を後に満洲に來て見ると、すべての點に於て観察當時とは又違つた不便や困難もあつて、此處迄來るには中々の苦労ではなかつたが、幸な事には満鐵の野津長三郎氏、大連の愛犬家訓練家の大家坂田氏等の並々ならぬ御後援の外に、軍部にありては関東軍々犬育成所長松村少佐、安東の特務機関長陸軍歩兵中佐田中信男殿、地區司令部陸軍中将張閣下、同副島上尉殿、満洲軍用犬協會安東支部長大野中佐、常任幹事草場氏等の並々ならぬ御援助によつて、やうやくここに満洲軍用犬學校を設立し得たのである。渡満後僅か六ケ月の経験乍ら、零下二十度の極寒から百二十幾度といふ炎暑の最高潮迄過して見れば、多少此の気候の犬に及ぼす影響も會得して、現在では四十三頭の訓練犬及種牡牡牝仔犬を所有し、訓練に蕃殖に従事して居る次第である。
此學校の所在地は中興鎮街と称し、安東の町を去る約一里、殆ど日本人の影を見ない満人の中の一軒家であるが、學校の敷地一萬坪の外に、裏山一帯は果もなき芝山にて、捜索に傳令に、全く理想の訓練地帯である。前には海にもまがふ鴨緑江をへだてゝ朝鮮半島を一望の許に見下す風光絶佳、一寸内地では想像のつかぬ勝地である。
私は此村を一人で犬の村と名づけ、満人の間にも軍用犬の飼育を奨励し、関東軍、鐵道總局等の買上げに際し、補充の便宜を計り度いと思つて居る。手初めとして既に當村長辛氏の家には優秀なるシエパード牝を飼育し、つい先達て十二頭の仔犬を分娩し其の尖端を切つて居る。
森内章介『犬の學校を安東に移して』より 昭和12年
満洲へ移住した森内さんの安東訓練スクールは大繁盛。しかし顧客を奪われた満洲軍用犬協會安東支部が困窮状態に陥り、業務提携を持ち掛けたことで空気が一変します。
愛犬の訓練を託すならば、森内氏のスクールを選ぶのは当然のことです。運営の危機に陥った安東支部では、森内学校との連携を模索。提携案をMK本部へ提出します。
昭和十二年六月廿四日協會本部主事 松村千代喜氏宛
安東支部は別紙状況報告書の如き實情に直面しあるを以て、當支部に於ける犬の飼育、訓練、増殖等に関する實務方面に就ては到底森内學校に對立するを得ざるのみならず、安東の如き一小都市に目的を同ふする同業者二個の併立は甚だ不合理にして、両者共に不利益なる摩擦を構成するに過ぎず、考慮を廻さざるを得ざる所なり。茲に於て小職は将來當支部が支部としての職能を果たし、支部設立の目的を達するに必要なる手段と、一面森内氏が抱持せる主義目的とを貫徹するに最も至便なる方法とを熟慮し、両々相全きを得んことを欲するものなり。
今回得たる當支部経営上の方針左の如し
一、森内氏を支部訓練所長に推し、會長の任命を受くる事
二、伊藤訓練士を同所附となし、監督、指導を受けしめ一層有用なる人物たらしむ
三、本部種犬は森内學校に移し、其保管飼育利用方を森内訓練所長に依嘱す
四、本部種犬交配の取扱は總て本部の規定に依る
五、森内學校は本部及支部又は軍の指導を仰ぐ事。殊に支部とは密接の関係を保持し、總て當支部と連絡し、支部を経由して左の事業を行ふことを得
(イ)會員所有犬に對する預託訓練及飼育料金は本部の規定に依る
(ロ)會員相互間に於ける軍犬の交配、分譲、仲介
右(イ)(ロ)に對する収入總額の一割を支部の維持費として毎月納付するものとす
六、前項に掲ぐる事項に関係ある帳簿書類は支部長又は支部監事に於て随意に之れが査閲を爲す事を得るものとす
七、森内學校は毎月五日までに、左の書類を支部に提出するものとす
一、預託、訓練飼育、病犬の収容頭數、料額明細月報
二、交配、分譲、仲介取扱明細月報
八、支部長は訓練所長を指揮監督し、協會定款の示す所に従ひ、支部管内の業務並に會員と學校との関係、連絡、調整、統一等を計るは勿論、必要なる整理を締結し、本部の承認を受くる事
九、軍犬の増殖、改良、普及の徹底を期する等本協會地方機関としての使命に邁進すること
以上のA實行事項は森内氏との懇談の結果一切の内諾を得たり。それが實現實施に就ては本部の承認を受くる必要あるを以て豫め貴職の内意と其高見を承り、然る後許可を受くべき意向なり。大至急何分の御指示相賜り度相伺候也
追而本件に関し尚要すれば支部長、森内共に本部への出頭の用意有之候に付申添候
『支部對軍犬學校提携案』より
これに対する本部の回答は厳しいものでした。
昭和十二年六月二十四日附満犬協安支發第三八號の二を以て申出相成候主題の件に関し聊か不明の點在之候條左の件更らに御説明願上候
一、森内軍犬學校と協會事業とは全々其趣を異にし、森内軍犬學校にては一、訓練士養成、二、訓練済犬の發賣、三、種付のみに止め、協會の事業たる一、預託訓練、二、仔犬の分譲等は絶對に爲さざる契約に候。従つて同校の設立に依り支部には何等影響無きものと被存候果して如何に候哉。
ニ、貴意見に依れば支部種犬訓練所を閉鎖する形(建物は森内氏に於て使用するとするも)となるやに被存申候も如何に候哉此點尚詳しく承知致度候。
三、森内氏を訓練所長となし其指導を仰ぐことは誠に賛成に候へ共、第二項の如く事實上支部訓練所を閉鎖し人犬共森内氏の學校に入り込むは、安東支部種犬訓練所設立の本旨に悖り、協會の面目上賛成し難く候條之亦詳細御報告願上申候
右折返し御回答願上申候
松村千代喜『安東支部経営方針に関する件質疑』より 6月28日
MK安東支部にとって最大のライバル、森内章介氏の満洲軍用犬學校
康徳4年
安東支部の提案にMK本部は厳しい態度で臨み、両者の質疑応答が重ねられました。
安東支部種犬訓練所設立の本旨は、森内學校の存立の如何に関せず獨立して之れを経営すべき原則を忘れたるに非ず。寧ろ之れを凌駕して進み度意向を存したるも、既に設立を歓迎して之れを後援するの態度を以て今日に至りたるのみならず、遺憾ながら伊藤訓練士一人にては訓練的實力に於ては如何ともする能はざるを以て、支部としては寧ろ森内學校を利用してその長所を長所として發達せしめ、支部の短所を補ふ如くし以て軍用犬の増殖普及たる大目的を達するに如かざるものと思料し、経営の方針を改めんと欲するものに候。
要するに大體の観察によりすれば支部は支部の訓練所として森内學校を利用し、森内學校は學校として支部の後援あり。支部の重視する所となり心強く、両々相俟つて發達を遂げ得べく、協會本來の目的たる軍犬の増殖軍犬思想の普及上に對し、一層の強化たると共に両目に関するが如きことなきものと信ず。只訓練的の事項に對し森内學校を善用するを以て其點は支部訓練所は表面消極的なるが如きも、其實際は能き訓練を與へて會員も満足せしめ、引いて軍犬の増殖を促す手段となり効果却つて大なり。
満協安支發第三九號『種犬訓練所問題ニ関シ回答ノ件』より 昭和12年7月1日
この辺から本部の態度も軟化、森内學校との提携を承認します。
安東支部大野幸作殿
七月一日附満犬協安支發第三九號に拝誦仕り候。就て左の如く實施相成度及回答候
一、大體貴意も明瞭致し候に就き、御申出の通りにて差支え無候へ共、之れが實行に當りては申すまでも無く充分の研究と彼我の完全なる了解の許に詳細なる契約書を作製し後日に至り問題を惹起する如き事無き様希望仕候。
二、支部種犬訓練所を全然空となし全部森内學校に入り込む事は、前回も申上げ置き候通り協會の體面上絶對に賛成し得ざる處に有之唯相互の便宜及利益上内面的に協同する事は差支へなきものと存申候。
三、貴支部係留協會種犬よりも森内學校種犬評判宜敷爲めに協會種犬に種付申込なきに於ては、徒らに貴地に繋留する事は無意味且不経済と思はれ候。條其場合は種犬を本部に引挙げ可申従つて伊藤訓練士も同時引挙ぐる形と相成可申候條此點豫め御了承願上申候之れを要するに協會竝に貴支部の體面は飽迄重視し之れを汚損せざる範囲内に於て、支部の利益となる方法を以て本問題を解決する如く御配慮御實施相成度く重ねて申込置申候。
満洲軍用犬協會本部 昭和12年7月3日
しかし、MKの官僚主義を目の当たりにした森内氏は態度を硬化。「満洲軍用犬協會安東支部長大野幸作ヲ甲トシ森内軍用犬學校長森内章介ヲ乙トシ協定契約スル條項左ノ如シ」から始まる協定契約書への押印を拒否したことで、交渉決裂に至ります。7月20日には満洲軍用犬協會本部および全支部幹部宛てに経緯が報告されました。
満犬協安支發第四四號
昭和十二年七月廿日
満洲軍用犬協會安東支部 支部長 大野幸作
主事 松村千代喜殿
支部種犬訓練所経営方針ノ件報告
首題の件種々検討の爲には再三貴本部の懇篤なるご指導を煩し候處其根本精神に於て相違ありしため森内氏の調印を得るに至らず遺憾乍ら協定契約締結に至らず候條左記の通及報國候也。
7月20日、安東支部は本部に対して「首題ノ件種々検討ノ爲ニハ再三貴本部ノ懇篤ナル御指導ヲ煩シ候處其根本精神ニ於テ相違アリシタメ森内氏ノ調印ヲ得ルニ至ラズ。遺憾乍ラ協定契約締結ニ至ラズ候條左記ノ追及報告候也」と顛末の報告を行うと共に、以後の交渉打ち切りを決定しました。
之れに依つて協會本部の意向も確乎となつたので、大野支部長は直ちに森内學校長森内章介氏との折衝に移つたのであるが、折衝は決して順調に進まなかつた。それの其の筈、瀕死の協會支部の訓練所に反し私設とは言へ其の聲名は在安東全軍犬愛好者間に響いてゐる錚々たる森内學校であつて比較にならない對立なのである。夫れを無理押しに支部認定の一訓練所としてやると言ふのだから、話の纏らないのは當然の事で、此の問題も結局は決裂となつたが、大野支部長が作成した所謂協定契約書なるものは左の通りで、相當に大野氏の強直振りが全條件に躍如として見られると共に、瀕死の痛手を負ひながらも良くも此處までに強引に高飛車に而も協定談合決裂まで、初志を断乎として押し通し一歩の譲歩を見せなかつたものと、流石は武人であつた故人の気概が偲ばれる(満洲軍用犬協會沿革史より)
前途洋々の筈だった、設立当初の安東支部種犬訓練所
以降、MK安東支部は「会員が減ったのはこいつらのせいだ」とばかりにペット商とハンドラーを罵倒し始めました。
安東に於ける民間愛犬家の多くは永住者よりも寧ろ俸給生活者なりしため移動も亦相當頻繁なりしが、賣買の輸入等に至つては柳生、森内両者が盛んに内地より輸入して愛犬家を個別訪問して賣買に努めしが、其結果は内地犬は満洲に於ては實用犬とならず間もなく斃死するもの多く、且つ暴利賣付けの批難などありて永續せず、成績不良に終る。
などと威勢のよい批判を展開しておりますが
安東には支部創立當時より柳生秀雄なる者内地より移住して盛んに購入賣買をなしつゝありしが、其後清田徳一なるものに譲渡して新義州に移り、相呼應して営業しつゝありしも、両者共に自衛の道立たず遂に閉鎖の止むなきに至りし頃、其以前より渡満して犬商賣開始の好適地を物色中なりし森内章介氏が内地よりの両者との関係上清田の持犬を引受け安東郊外、中江鎮街に満洲軍用犬學校なる名義下に大規模の設備をなし種犬交配、仔犬増殖及分譲、訓練預託、訓練手養成等を開始し、大宣傳に努めたる結果、森内種犬を利用するもの多く、且つ訓練實習等も森内學校に比し其設備、技術等に大差あるため大部同校に奪はるるの状態となり、支部事業は一時衰運に陥り、将來を憂べしめしも昨冬森内氏の學校閉鎖満鐵入社に依り稍復舊の曙光見へ辛じて事業を経営し居れり。
結局は太刀打ちできなかった事実を白状する混乱ぶり。
結局は「日本人が構築したコミュニティ」である以上、新天地の満洲にも島国根性がはびこっていたワケですね。
安東の市場に見切りをつけ、犬界関係者は次々と去っていきます。森内さんは満鐵のグループ会社「華北交通」から鉄道警備犬訓練士として招聘され、安東からはペット商も有能なハンドラーも消えてしまいました。天敵が去って我が世の春が来たどころか、状況は更に悪化したのです。
その後の安東支部は、ドッグレース事業で起死回生の一発逆転に成功するのですから世の中分かりません。出る杭を打ちまくった挙句に衰退した地方都市が「カジノ誘致で再興を」とか喚いているのと似ていますね。
社団法人と営利企業が共存に失敗した安東縣。トラブルになったが故に、満洲犬界の排他性が記録されてしまった不幸なケースでした。
他地域のペット業者やハンドラーは、問題なく現地に溶け込んでいったのでしょう。
【満州の畜犬団体】
満洲に愛犬団体が存在したのかどうか、白系ロシア人などを含めて実情はよく分りません。系統立てた蕃殖は行われていた様なので、ブリーダーは多かったのでしょう。
隣の関東州あたり、大連では複数の団体が活動していたそうです。
満洲の表玄関ともいうべき大連は、ドイツ、青島からシェパードを大量に陸揚げする基地でもあることから、シェパード・ファンも非常に多いところであった。大連シェパード倶楽部、愛犬倶楽部、愛犬同志会という三つの団体が競い、対立していた。そこに満犬が関東州支部を設置して三者を糾合した。ここにも訓練所があったが、規模の点では満鉄、税関、関東軍のそれと比較にならないものの、犬本犬設備をそなえていたという点では、満洲随一の犬舎だったという。
今川勲『犬の現代史』より
満洲犬界に君臨していた満洲軍用犬協會ですが、決して安穏とはしていられませんでした。内地からも、帝国軍用犬協會や日本シェパード協會といった強力なライバル団体が進出し始めたのです。
まあ、発足当初の満洲軍用犬協會は日本シェパード犬協會に事務所を間借りしたりで関係は良好。帝犬vs.JSVのような醜態は晒しませんでしたが。
JSV満洲グルッペ趣意書(一部抜粋)
扨、去る日吾等JSV在奉天會員一席懇親の宴を張り、犬談に花を咲かせました。適偶在満シエパード犬界を省て今日の發展をみたるは實に満犬協會の御盡力と御指導宜しきを得たるものと厚く感謝し、更に軍犬の層一層普及向上されんことを祈つた次第で御座います。又あらゆる角度から観察しましてシエパード犬の存在たるや確に現地満洲に於ける最も必要な犬種なることを痛感し、爰にシエパード犬のみ特に研究致し度い希望を各自披露するに及びまして、在満JSV會員の集ひを興し満犬の會員である傍シエパード犬を目標としてその蕃殖に育成に訓練に全能を傾注、以て研究を重ねJSV満洲グルツペなる會を作ることに成りました。
昭和12年
其の後も、MKとJSVは互いに事業内容を紹介し合うなどの協力体制を継続していきます(その辺、KVの立ち位置は不明)。
JSVにとっても、軍事、治安、牧羊事業と「シェパードの就職先」が多岐にわたる満洲はまさに理想郷でした。
MKでは持久走や軍犬パレードなどのデモンストレーションも開催していました。画像はMKの軍用犬市中行進。
……結局、MKに話が戻っただけですね。
この無限ループから脱したい、せめて満洲ペット事情の輪郭だけでもつかみたいと思うのですが。
(次回に続く)
満洲国の畜犬史・その6 満洲軍用犬協会
僕は君も知つての通り、一昨年即ち昭和八年二十三日、我等帝國臣民が待ちに待ち申した皇太子殿下御誕生の最も意義あるお芽出度き日に神戸を出帆し、若き血潮と希望に燃えて鐵道省から滿鐵に入社し勤務は總局と云ふ事になつたのだ。所が不思議にも翌二十四日、此の遼陽で今日の社團法人満洲軍用犬協會が初聲を揚げて雄々しくも發會式を挙行、関東軍及諸官廳を初め民間よりの絶大の後援を得てその将來を約束されたワケだ。ーまあざつと満犬協會の生まれた所並に日に付いては右の様な次第だ。
勿論生れ出る迄の悩みは大いにあつたらうがそれは省略しやう。
で、會長には陸軍中将高柳閣下、副會長には僕も知る所の總局長であり又滿鐵理事である宇佐美寛爾氏と満人側から一名と、都合二名其他軍部並に各方面よりの名士及有能の士を網羅して四ツに頑張つて帝國の生命線大満洲を土俵として活躍の火蓋は切られた譯さ。
細川伊與三「満洲軍用犬界のことども」より 昭和10年
関東軍、満州国軍、満州国税関、満州国警察、満鉄といった満洲国の組織は、さまざまな警備犬部隊群を運用していました。
それらの需要に応えるため設立された調達窓口団体が、社團法人満洲軍用犬協會(MK)です。
内地の帝國軍用犬協會や日本シェパード犬協會とは違う、全くの独自路線を歩んでいたMK。今回は、その活動内容について解説しましょう。
満洲軍用犬協會安東支部の賽犬開催ポスター(初期のもので、場所も移転前の練兵場となっています)
「満洲軍用犬協會沿革史」より 昭和20年
【日満軍用犬協会計画】
大陸での権益確保のため、満洲の防衛は最優先事項。人手が足りないので、満洲国政府、満鐵、関東軍は軍犬を大量配備しました。その供給源として、民間の資源母体育成と、調達窓口機関の設立が急務となります。
しかし五族協和なんて建前に過ぎず、満洲国民の意識には大きな差がありました。現地で「軍犬報國」などと騒いでいるのは日人のみ。「満洲人ハ大部セパード種ヲ好マズ、目下飼育セルモノハ僅ニ二、三名ニ過ギズ(関東軍軍犬育成所の安東地方調査結果)」とあるように、漢・満・蒙・韓系は「何で日本軍のために犬を飼わねばならんのだ?」と我関せずの態度を貫きます。ハルピン系シェパードをはじめ、独自の畜犬界を構築していた白系露人も似たり寄ったり。
それなら日本人だけでやったるわ!的な開き直りかどうかは知りませんが、満洲建国の翌年から全土を対象エリアとした軍犬報國団体「満洲軍用犬協會(MK)」の設立計画がスタートしました。要するに、社団法人帝国軍用犬協会(KV)の満洲版です。
当初は「日満軍犬協會」の設立が想定されていました。昭和8年
満MK設立の動きは、このようにして始まります。それまで主導的立場にあった青島シェパードドッグ倶楽部にとっても、対岸の大連に満洲国側の窓口団体ができるのは好都合だったのでしょう。MK側への協力体制を構築しています(結局、内地の帝国軍用犬協会に併呑されますけど)。
【沿革の概要】
MKとはどのような団体だったのか。まずはその定款を見てみましょう。
定款
第一章 總則
第一條 本會は社團法人満洲軍用犬協會と称す
第二條 本會は本部を新京特別市舊治安部に置き適當の地に支部を設く
第三條 本會は治安部大臣の監督を受く
第四條 本會は日本帝國軍犬協會と緊密に連繋するものとす
第二章 目的及事業
第五條 本會は満洲に於ける軍用適種犬の増殖、素質の向上竝之が實用化を圖り、畜犬思想の普及發達を助成し、軍警用の需要に即應するを以て目的とす
第六條 本會はその目的を達成する爲左の事業を行ふ
一、満犬に於ける軍用適種犬に関する資源調査
二、満洲に於ける軍用適種犬の種族に関する研究、調査
三、軍用適種犬籍登録、血統書の發行竝性能審査證明に関する事項
四、優秀犬の蕃殖に関する事項
五、低廉且良好なる飼料及畜犬器材に関する研究、調査及之が購入分配の斡旋に関する事項
六、軍用犬育成訓練所の経営及會員犬の育成訓練の指導又は受託に関する事項
七、訓練士養成及検定に関する事項
八、軍用適種犬の交配分譲及購入の斡旋に関する事項
九、幼犬の協會引受又は買上等之が處分に関する事項
一〇、病犬の實費診療に関する事項
一一、軍用適種犬に関する講演會の開催竝印刷物の刊行に関する事項
一二、軍用適種犬に関する講演會の開催竝印刷物の刊行に関する事項
一三、軍の行ふ軍用適種犬取得事務の協力に関する事項
一四、其他本會の目的達成に必要なる事項
(以下略)
MKは大同2年(昭和8年)から活動をスタートしていますが、団体としての公認をうけたのは康徳2年(昭和10年)8月のこと。
歩兵学校軍犬育成所、関東軍軍犬育成所の公認とタイミングを合わせていますので、軍犬報國運動に於ける何等かの意図があった筈です。
満洲事變勃發以來満洲獨自の立場より軍犬の資源開發を必要とするに至り、之が指導機関として全満を統一したる満洲軍用犬協會の設立は遂に其の気運熟し、関東軍當局に於て其の議を進め、昭和八年十二月二十四日関東軍々犬育成所の創立と同時に関東軍、関東廳、満洲國、満鐵等の後援の下に遼陽に開設せり 。
関東軍軍犬育成所「満洲に於ける軍犬事情」より 昭和13年
第一回全満軍犬訓練競技大會場に翻るMKの旗
てなワケで、満洲軍用犬協会発足のお披露目は12月まで延ばされました。初代会長には高柳陸軍少将、副会長には満鐵の宇佐美理事が就任します。
準備期間も十分にあり、満洲国政府、関東軍、満鉄という強力な支援者も確保できたことで、MKはあっという間に勢力を拡大していきます。
メンバーは普通會員(個人会員)と團體會員(官庁・法人会員)とに分れ、普通會員は正會員、賛助會員、特別會員に区分されていました。
各々は「正會員は毎年會費六圓を醵出するものとす。賛助會員は趣旨に賛同し國幣百圓以上を本會に寄附したる者とす。特別會員は本總會に於て推薦せられたるものとす(定款第十條)」と規定されています。
犬籍簿登録や交配管理は他団体と同じですが、「戰時又ハ事變ニ際シ軍用犬ニ関シ軍ノ要求アルトキハ進ンデ之ニ應ズルコト」という部分がMKたるところ。
実際、康徳10年12月23日には会員から軍用犬購買忌避者が出た事で処分が通知されています。
組織は設立されたものの、当時の満洲や日本で飼われていたシェパードは青島系とハルピン系が大部分。彼らが東洋へ渡った後も本国で交配改良が重ねられたドイツ産は、満鐵が所有している程度でした。
昭和9年1月20日、MKは5万圓を投じた種犬輸入を計画。購買は渡邊関東軍獣医部長へ依頼し、ドイツ駐在武官西中佐を介して若松獣医へ命じられます。
私は陸軍から派遣されて二ケ年間獨逸に留學し、帰朝間際に満洲軍用犬協會から種犬五十頭(内譯満洲軍用犬協會四七頭、帝國軍用犬協會三頭)の購買を依頼され、約一ケ月半に亘つて獨逸の各地犬界を観察しました。そんな譯で以前は犬に對する知識を殆んど持たなかつたのですが、必要に迫られて、浅い乍らも、その知識を得たわけで、その浅い知識でお話しする次第です。
陸軍獣医學校若松有次郎獣医正「獨逸土産 シエパード種犬五十頭の購買に親しく犬界を視察した話」より 昭和9年
現地で若松獣医を補助したのは三菱商事と伯林シェパード協會(DSV)でした。意外にも獨逸シェパード犬協會(SV)ではなかったんですね。
Mkの種犬訓練所
獨逸シエパードの分布状況を見ますと、一口に獨逸シエパードと云つても、産地に依つて生れながらにして多少の異なる特徴を持つて居り、細部に亘つて區別すると、産地と用途によつて、たとへば通信犬は生れながらに通信犬と云ふ風に違つてゐますが、大體アルプスによつた山地方面で飼はれてゐるものは體力もよく、海に近づくに従つて、それが劣つて來ます。
私が満洲國のために買つて來たものは、各地から購入した関係上、體型も各々異なつて居り、将來日本シエパード界にもいろ〃役立つことが多いと思ひます。
購買に際して感じたことは、一時に四五十頭の種犬を買ふ事を公に發表すれば、値の一定したものでありませんから、需給の関係で犬の價格が暴騰しますので、DSVでもそれを心配して、潜行的に物色して呉れましたが、協會が斯様に内外人を差別せず、親切に取扱つてくれたのには感服しました。又購買の際は血統の正しいものを選ばねばなりませんが、血統のかくかくのものと指定すると、それにあてはまるものを探すのが厄介で、價格がずつと高くなります。
今度の購買でも満洲國のは単に種犬に適するもの何頭といつたので安かつたのですが、帝犬の三頭は、血統を指定してあつた爲めに、その範囲が狭まり、價格も可成り高いものになりました。で、これからの購買には餘り具體的には表はさず、大體の條件をつけて、協會の任意選定に委せた方が良いと思ひます。
又飼養及び管理に就ては、シエパードは日本に來て弱いとか、死に易いとかいひ、又人に噛みつく猛犬だなどゝいはれてゐますが、こう云ふことは、獨逸では全く見られぬことであつて、特に猛犬扱ひどころか、或時は、親に叱られて泣いてゐる子供のお守をする位で、猛犬らしさは毫も見られません(若松獣医)
これら47頭の種犬をMK各支部へ分配し、交配業務(種犬けい畜)が開始されました。
事業の遂行に関しては、帝國軍用犬協會と姉妹関係に立ち、関東軍々犬育成所と密接なる脈絡を保ち、満洲に存する軍用適種犬の現状と日満共同防衛の見地に立脚して速かに實用使役犬を満洲に準備せんことを期し、先づ一省一支部と一戸一犬主義を標榜して其の機関と資源の培養に努め、今や支部の設立十三に達し、會員約二千、登録犬約五〇〇を算するに至れり。協會事業の一般を列記すれば概ね左の如し。
(1)種犬繋畜
満洲内に優良軍犬を普及し、併せて改良蕃殖の使命を全ふする爲め、協會設立劈頭の事業として購買費五萬圓を投じ昭和九年五月乃至六月に亘り獨逸より優秀種犬四十頭を輸入し、爾後年々更新しつつ常に五十頭前後の種犬を常置し、而して地方會員犬に對する種付に便なるため各支部に概ね二頭の種牡犬を分置し、最近の塔的に徴すれば仔犬の分譲數一六四頭、會員より出産届出數は三七一頭に達しあり。
(2)犬籍登録
(3)訓練及び育成預託
(4)軍用適種犬の検査
(5)血統證明書の發行
(6)軍用犬共進會並に訓練競技會の開催
(7)満洲國並に満鐵の當該施設に協力援助
各支部に分配された種犬はABCにランク分けの上で交配に用いられ、生れた仔犬はメンバーに分譲されることとなります。こうして蕃殖・普及活動は順調に展開しました。
それで昨年は先づ協會の助成金の一部を種犬購入に向け獨逸から五月と六月の二回に亘つて約四十五頭程輸入、協會の種犬として飼育蕃殖に當つてゐる。一寸君も不思議に思ふだらうが、満犬は帝犬と違つて協會其のものが自給自足(経済的?)の途を講ずべく民間に種犬をABCの三階級に分け、A級は五十圓位、B級は四十圓位、C級は三十圓位として交配をし、又協會内で蕃殖された仔犬成犬(牝は約十五頭位)は、六七十圓で民間の希望者に分譲してゐる(生後約二ヶ月位)此の特異な點に就き君とも愚論を闘はして見様と思つたが、先づ君に通知して置くと云ふ程度で失敬する。
兎に角、優秀な軍犬即ち将來の舞臺を満洲と假定し、有能なる資源の整備を爲し、一朝有事に際し充分の活躍をなさしめんとする國家的見地より見ての事ではあるまいかと想像してゐる。購入犬に関しても兎角噂をする人もあるが、まあ馬耳東風と聞き流しておけばよいよ。どうせ蔭口や悪口と言ふものに心からの親切氣があるワケでは無さそうだから。
此の満犬主催で全満軍用犬展覧會も既に三回の歴史を飾つた次第だ。第一回大連、第二回奉天、第三回は去る六月九日安東で開催した。
第四回は多分來年新京で大博覧會があるので其のチヤンスを握つて開催されるだらう。左すれば先づ一通り主要都市での展覧會が終了するから、後は地の利を得てゐる奉天が中心になつて開催地は奉天と決定するのでは無いかと見る向きが多い様だ。
満犬としての事務的業務は大體帝犬と同一の様に思はれる。血統書發行、登録犬の審査等着々とやつてゐる。今年度は更に種犬七頭購入の議が去る五月下旬の支部長會議で可決されたので、其の際僕は大いにドーベルマンピンシエル種の使役有効なる點を論じ、遂に二頭購入の賛成を得たワケで、一席辯じた甲斐があつた。帝犬の構成並に内容と比較すれば未だ未だ幼稚な程度かも知れないが、追々採長補短で君達の後を追つて行くから御手並可然拝見したいと思つてゐると共に、連絡なり指導宜敷く頼む(細川伊與三氏)」
軍犬普及のため、MKは積極的に事業を展開しました。
一省一部主義で、軍犬普及充實に邁進!満洲軍用犬協會総會で決定す!
満洲軍用犬協會昭和十一年度総會は、五月十三日午后一時から國都新京記念公會堂で開催。高柳會長以下本部役員並に在京各地會員及び来賓として田崎関東軍獣医部長を始め、加藤、有馬、田名部獣医部員の出席あり。
先づ高柳會長の挨拶についで岩朝理事から前年度の事業、並に會計報告あり、本年度の事業計畫並に役員増員について審議を行ひ
一、本年度一省一部主義を以て事業の擴張を行ふとともに映畫、刊行物その他を以て軍用犬の普及に努むること。
一、協會の事業発展上、現在三十五名の理事を五十名に増員すること。
一、来年度の事業豫定。
等各議案其満場一致原案通り可決して午后二時四十分閉會した。
満洲軍用犬協會主催 第四回満洲軍用犬共進會
第二満洲建國の大業、日満両國善隣不可分の関係を永遠に堅固ならしめんとする、東亜史上歴史的の盛儀「治外法権撤廃条約調印」の慶びの日も目捷に迫りたる昭和十一年五月卅一日。若葉、青葉の風薫るこゝ大満洲帝國の首都、新京四公園に満洲軍用犬協會主催、全満軍用犬共進會は開かる。昭和八年大連を振出しに奉天、安東と回を重ねる事四度、今日ぞ晴れの大會に全満各地より馳せ参ずる優秀犬九十餘頭のベンチに満洲國張國務総理、韓特別市長を始め日満用心各位の晴れやかな笑顔。午前九時半、入場式をスタートに開會は宣せられ、成犬は田名部一等獣医、伊藤正綱歩兵中佐、貴志重光歩兵少佐。未成犬は松村千代喜歩兵少佐、関憲次の各審査員に依つて審査開始さる。
訓練實演部は協會本部特派の協會飼育犬と訓練士の模範訓練。満洲國税関監視犬の特殊訓練に、森内章介氏(※後述)の大日本犬の學校安東分校々清田徳一氏(※後述)がエアデールの訓練等々に軍犬熱を煽り立てた。午后四時半審査終了、審査委員長田崎獣医部長の講評に引續き、會長高柳閣下より入賞犬へトロフヰー賞状の授與あり。出場犬全部に参加賞が與へられ大會幕を閉ぢた。
「満洲軍用犬協會ニュース」より 旅順要塞司令部検閲済 昭和11年
これだけ協力を仰いでいた森内氏と清田氏に対し、MKは「事業妨害された」と誹謗中傷し始めるのです。
【協會機構改革の始まり】
昭和13年、大野幸作MK安東支部長は「満洲軍用犬協會ノ強化統制ニ就テ」を協會本部總會へ提出すると共に、MK各支部宛にも一斉発送しました。
本協會は昭和八年軍の指導に基き満洲に於ける軍用適種犬(軍隊に使用する軍犬、警察犬、鐵道警備犬、税関監視犬、鉱山森林伐採農牧其他一般産業界に使用する監視警備犬を總称す)の増殖を助成し、畜犬思想の普及向上を圖るを以て目的とし、定款第二條に依り始めて満洲に君臨せしものなり。然るに本協會の實質そのものを見るときは満洲に於ける軍犬の育成、繁殖、管理等のに於てその統制なく、又之れが機能機関として充分なる實権なく、既往五箇年間に於ける本協會の足跡を検討するに、其使命達成上遺憾の點多し。洵に関心に堪へざる所なり。其實左の如し。
一、満鐵に於ては周水子に於て鐵道警備犬の増殖育成の爲め年々數萬圓を投じて數百頭の軍犬を擁し、膨大なる資本の背景を得て其設備等協會の比にあらず、本協會に對立す。尚撫順に於ても殆んど之れと軌を一にする設備を有せり。
二、満洲國税関に於ては奉天に於て税関警備犬の育成をなし、其用途を充たし毫も本協會に頼る處なく獨立自営の立場を構成す。
三、此外に遼陽には関東軍育成所、本協會育成所等ありて恰も三権乃至四権分立の體勢にて進み、放任の形に置かれ各々其使用目的により異れる生産、育成、訓練の様式を取り、錯雑にして一糸乱れざる統制なき有様なり。而して此等の各官廳、會社、團體に於ける集團育成事業は過去の歴史に鑑み、多くは充分の成果を認めず。成績不良にして近親交尾の弊害又は経費負担の加重等尠からざる難色あることは既に定評の存する所なり。
而して之れが存在は各地供給側民間に對し軍犬の需用起らざる重大原因たり。安東の如き軍犬買上補充頭數は年僅かに一頭なり。飼育奨励の爲め多額の費用を投じ宣傳し普及を圖るも、何等の意義をなさず。民間をして軍犬飼育の不必要を感ぜしむる結果を招來しつつあり。
此際集團育成主義を放棄改善して一家一犬主義を採り、軍犬の供給資源培養は總て之れを民間に求め、之れが需用官廳會社團體は購買官をして各地方在郷犬より之れを徴發又は買収すること恰も在郷兵又は野耕労役馬を用務に徴集する如くし、 軍犬の生産業務は原則として之れを民間に委する如く國家並軍犬界百年の長計を樹立するに如かざるものと認むる實勢に逼まり居れり。惟ふに本協會は創立後満五ヶ年上下一致苦心経営の基礎時代を過ぎ來るべき五ヶ年間に於ては全満軍犬界の統制發達と其革新に俟つべきや論を待たず、機今や将に全熟の感あり。新事業年度の更新と共に断々乎として第二段階に向つて堂堂歩武を進むべき必要あるものと認む。
一、強化統制上の重要種目
(1)指導統制権の確立
(2)訓練手及訓練使用法の畫一(全満挙つて軍の規定に従ふ)
(3)満洲に於ける軍犬を協會犬籍簿に登録す(登録してなかったのかよ)
(4)軍犬總動員に関する事務機関として本協會の業務範囲を擴大し軍犬資源の培養、調査、確保、統制を期す。
ニ、協會の事務的革新
協會をして軍當局との連絡を緊密ならしめ、真に満洲に於ける軍犬統制機関たらしめんには、本協會の事務的改革を行ひ協會本部を新京に移転し満洲を獨逸に勝る軍犬産地たらしむべき抱負と希望を有し、左の機関を附設するの要あり。
(1)訓練手養成所
(2)軍犬の生産、保育、種犬適種犬繁殖等の研究試験所
三、軍犬功労者の優遇
五周年を一期として地方にある軍犬功労者に對し會長の感謝状を附與する等功労者優遇の途を講ず。
四、各支部の指導強化
各地支部の指導強化は先づ満犬協會自體を強化したる後に於て起る問題なり。支部現在の姿に於て各地支部自體のみの強化を望まんと欲することは頗る合理性を失し却つて衰徴の恐れあるを憂ふる所なるを以て、協會自體の強化こそ之の望まんと欲するものなり。宜しく先づ全満に於ける軍犬の指導統帥権を確保し、その根源を培ひ、以てその基礎を鞏固にしたる後に於て指導統轄せば各地支部は自然その流れに随つて枝葉の繁茂を期するに至るべきものと信ず
これに対し、3月25日には幸田成MK本部主事が賛同を表明。関東軍軍犬育成所長の高浪金治少佐も、4月27日には「満洲軍用犬協會支部状況に関する件照會」のアンケートをMK各支部に送付して実態調査を始めました。
その翌日、MK幸田主事は全MK支部長に対し満洲軍用犬協會強化統制委員會の開催を通知。5月15日夜の常盤旅館における準備協議を経て、16日9時より大連市老虎灘料亭「ライオン」にて第一回強化統制委員会を開会しました。
経過報告は5月23日に高柳会長へ届けられ、9月24日の第二回委員会(新京市日満軍人會館にて開催)の場で協會改組の方針が確定。
以降はMK本部と関東軍軍犬育成所が主体となって改組實践準備調査が進められます。高浪少佐とMK本部員は自ら全支部を巡回視察し、各地の状況と軍犬資源現況を調査・関係書類の収集をおこないました。
旧体制のMK総会は昭和14年3月5日が最終となり、本部および全支部は新機構への事務整理にあります。
4月からの新体制として、MK本部は遼陽から国都新京へ移転。高柳会長は退任し、第二代会長には治安部大臣の于琛澂氏が、専務理事には出口平吉陸軍少将が就任しました。
安東ドッグレース場を視察する于琛澂第二代MK會長
昭和六年勃發しました満洲事變に於ける軍犬の活躍が動機となりまして、昭和八年我陸軍軍犬機関の設置となり、之と時を同ふして、満洲に於ける軍用犬資源培養の指導機関として関東軍指揮の下に、満洲軍用犬協會が設立されたのであります。爾來茲に満五星霜。今や支部を數ふること十五、會員約四千名。
全満に於ける軍犬約〇千頭、登録犬約〇千頭を算するに至りましたが、之をソ聯の二十五萬頭以上、米國の二十萬頭以上、獨逸、英國の各十五萬頭以上、佛国の十萬頭以上に比すれば尚ほ及ばざること頗る遠いのであります。爾後関東軍は漸次軍犬を各部隊に配置充當して、作戰警備上主として警戒警備勤務に實用すると共に、有事に備へつつあつたのであります。然るに昭和十二年支那事變勃發と共に、ソ聯の極東兵備は遽かに増強せられ、関東軍は之に對し國境の警備強化と邊彊に對する作戰準備の強化に、又其補備に軍犬の利用が著しく促進されたのであります。特に昭和十二年以來、ソ聯軍が満ソ國境に遽かに軍犬を増配して極めて積極的に使用してゐますことは、我軍犬整備の急を要する一因となつたのであります。
尚満鐵、税関、治安部、諸會社並一般民間に於ても亦軍用犬の利用を擴張し、又は新に利用を企圖せられる向も少くありませんでしたが、昨昭和十三年初頭、此の状勢に應じ協會内部に組織強化の聲起り、爾來案を練り議を重ね、遂に本年四月一日を以て協會を満洲國政府に移し、改組強化を實行し、治安部が主管官廳であります関係上、現治安部大尽于琛澂閣下を推戴して會長とし、協會の總帥として統督の任に當られ、又協會役員も此趣旨を反映すると共に、支部も亦地方行政機関及協和會等と密接なる関係を保持し、本協會の目的とする満洲に於ける軍用適種犬の増殖、素質の向上、竝に之が實用化を圖り畜犬思想の普及發達を助成し、直接軍警用の需用に即應するに足る使命を完ふする爲めに支部員挙つて此の目的の遂行に邁進努力する決心であります。
對支長期作戰建設とソ聯國境警備に對し、國家總力戰準備を強調せられます今日、従來人的要素には極めて恵まれてゐると自他共に許して居ましたが、此總力動員に對しましては現下既に人的要素の缺乏は凡ゆる方面に叫ばれつつありまして、悲痛の感さへあるのであります。而して精神を以て犠牲的に人間に奉仕協力します動物は、目下の處犬を措て他には見出し得ないのであります
「満洲軍用犬協會ノ改組強化ニ就テ」より 昭和14年
いち地方支部が提議したMK全体の改革案は、こうして実を結びました。
なんで安東支部が機構改革に必死だったのかというと、存亡の危機に立たされた同支部が本部の支援を必要としたから。大野支部長は「自分ガ功利ニ走ラントシタリ又安東支部自體ノ保護又ハ利益ヲ考ヘタルモノデナク、全ク本協會ノ爲メ将又軍犬報國ノ一念ニ燃ヘタ結果」であると演説していますが、関東軍軍犬育成所の巡回調査ではその困窮ぶりが暴露されております。
発足当初の安東支部。地元の愛犬家を無理やり集めただけで、シェパードの所有者も少数のみ。MKの目指す軍犬報國運動とは程遠い陣容でした。
【安東支部の起死回生・ドッグレース事業の始まり】
MK各支部が活動する中、朝鮮国境にある安東支部だけは深刻な停滞状況に陥っていました。
最大の原因は、顧客獲得競争に負けたこと。安東には強力なライバルが存在したのです。
そもそも、MK安東支部は最初から低空飛行を続けていました。
支部の発足から訓練所建設までの流れはよかったものの、安東地域の愛犬家はごく少数。無理な会員獲得が祟って会費を払わないメンバーも含まれ、支部の財政状況は悪化していきます。
そのような苦境下、内地でも高い評価をうけていたハンドラーの森内章介氏(日本PHV)が移住してきたのです。
伊藤訓練士の技量思はしからず、且つは貧弱な支部の財政は訓練所の設備にも萬全を期し難く、所内の設備不十分の結果は巨費を投じて購入された預託犬の斃死頻發と云ふ憂ふ可き結果を招來した。
兎角する間に會員間の空氣は次第に悪化し、支部の信望は全く地に萎したのみで無く、一部會員間に支部訓練所に見限りをつけて、柳生某等を担いで軍犬訓練所を創設せしめんとの謀議さへ抬頭して來たのであるが、斯ふした氣運は遂に具體化して森内章介氏の満洲軍用犬學校の設立となつたのである。
森内氏は神戸で軍用犬訓育所を経営してゐた人で、殊に軍犬先進國と言はれる獨逸に學んで、軍用犬飼育訓練の實際を體得して來た當時の軍犬の権威者であると言ふのと、安東氏中興鎮街に九千餘坪の厖大な土地を領して建設した完備された訓練所に早くも全人氣が集まり、安東支部会員の預託犬は殆んど全部が軍犬學校に移される有様で、茲許支部訓練所は有名無實の窮地に逐ひ落されて終つた
困窮した安東支部は、森内學校との業務提携を画策。本部に申請したところ、猛反発に遭います。愛想を尽かした森内氏も協定書への調印を拒否し、交渉は決裂しました。板挟みとなった安東支部は「こうなったのは森内のせいだ」などと逆ギレする始末。切々と森内氏らの暴挙を訴えたものの、そんな業者にすら太刀打ちできないダメ組織であることを白状するようなものでした。
この体たらくが、機構改革による本部の支援直訴につながるワケです。
所管内に於ける軍用犬飼育の状況は、一般を通じ現下の處良好と云ひ難し。元來安東は支部創立當時は相當愛犬家もありて飼育熱も旺盛なりしも(※嘘)、前述の如く柳生、清田、森内、中條氏等の如き犬商が等しく営利の目的を以て犬界を攪乱せしめた一抹の暗雲を認めしも、幾ばくならずして四名共に安東を退きたれども、其の餘波を受けて兎角不振の方なり。茲に着目する處ありて支部は勿論協會本部全體の機構を改革し、真に意義ある軍犬資源の擴大を欲し、諸般の設備完成を望み、本年總會の際強化統制試案を提出し、本協會の復興を畫策建言するに至りたる次第なり
関東軍軍犬育成所の改組実践調査より
窮地に陥った安東支部にも、ようやく転機が訪れました。華北交通から招聘され、森内さんが安東を去ったのです。
森内氏らを「営利目的」と非難していた安東支部は、営利による一発逆転へ打って出ました。
森内學校との交渉決裂は然し寧ろ安東支部としては其の将來性に却つて利益となつた。と云ふのは華々しい鳴物入りで開校した森内學校も結局を私利を眼目の営利學校である。開校幾千も経ない間に兎角の問題を惹起、規模が大きい丈けに之れに伴ふ収入挙らず経営困難の現實暴露に足掻く事となつたが、同年末校長森内氏に對し華北交通會社から招聘の聲が掛かるや逸早く安東を去つて華北に向つたが、後事を託された撫順在住の中條義賢氏が間もなく安東入りをして森内學校を受け継ぎ、訓練、交配、賣買等の業務を継續してゐた。然しこれとて確乎たる基礎を有しての経営で無く、単に設備のみを買つて森内の跡に据つただけに、幾月ならず森内の前轍を履んで経営不如意の結果を招いて、茲に完全に森内學校の閉鎖となつたのである(満洲軍用犬協會沿革史より)
負け犬の遠吠えも、ここまでくると清々しいですね。
天敵が去って我が世の春が来た!……という訳にはいかず、低レベルなままのMK安東支部に地元愛犬家が回帰する筈もありません。
つまりはペット商やハンドラーから見捨てられ、犬の供給手段と指導者を喪失しただけ。登録頭数も僅か15頭にまで激減しました。
森内學校閉鎖により活況が戻った!などと自称していた安東支部の、其の後の状況は下記のとおり。
現在會員數は日本人一〇七、満人四〇、計一四七なるも内一五名軍、官の要位にある人は顧問、相談役等を依嘱しあるため、會費を徴取せず。軍犬飼育の状況は前述の如し。民間側として完全なる設備を施し飼育せる人は十戸を出でず(昭和13年)
会費や交配手数料といった収入を断たれ、地道なレベル向上をやっている時間もなく、安東支部は追い込まれます。
貧すれば鈍するで、こういう時は一攫千金の儲け話に飛びつきたがるのが人情というもの。
で、安東支部も例に漏れずギャンブルへ走りました。犬の団体ゆえドッグレースという副業へ打って出たのです。軍犬報國運動は置いといて、とにかく運営資金の確保が優先でした。
安東支部のカネ儲けは、犬とは無関係の裕民彩票(宝くじ)販売権獲得からスタートします。
先決問題資金の増収策として、満洲國経済部發行の裕民彩票に着眼、それを軍犬協會安東支部で取扱つて、それから挙る利益金を以て支部の財政を潤さうとの議が起り、支部後援會の發會段取となつた(「満洲軍用犬協會沿革史」より)
これが軌道に乗ったことで、ドッグレース事業を主催する「賽犬會」の設立計画が持ち上がります。
堀内支部長は早くも之れに一看點を置いて、グレーハウンドに代るに軍用犬を以てし、軍犬資源増殖の一方途とし度いとの念願から、多大の興味を以て軍犬競走の研究調査に激務の余暇を傾けてゐた。軍用犬セパードを互に競走さした例としては、獨逸に於て一例、而も貧弱な興味本位のものがあつたのみで、夫れとて永續も進歩もしてゐないものであつた。世界何れにも軍用犬を競走せしめる事は全く未開の事であつたので、機に触れて話される堀内支部長の企畫に當時何人と雖も歯牙にもかけられぬ空想として、寧ろ周囲の嗤笑を買つてゐた程であつた。
然し一念凝り固まつた堀内支部長は、そうした些事で挫ける弱い意志の持主では無かつた。康徳七年大野氏を失つた後の安東支部幹事會の席上、堀内氏は座談的に自己の信念を打ち撒けて、此の企畫が實現するとすれば軍犬熱の昂揚と共に資金獲得の大きな財源となり、全く一石二鳥の名案では無いかと諄々として所信を説いた。列座の支部幹事の一同も堀内支部長の熱意に打たれた。面白い、實際に試走さして見てはどうかとまで衆議は傾いた(満洲軍用犬協會沿革史より)
第一回試験レースは、犬同士が道草を食ったりケンカを始めたりで大失敗。続いて康徳8年(昭和16年)3月、訓練を重ねた上で第二回試走が開催されました。
支部では此の機會を利用して支部名義を以て、参加の犬主及参列者全部を招待、粗宴後一同を馬車に分乗せしめて、予て計畫して置いた仮設競走場であるゴルフ場に半ば強制的に運び込み、競争の實際を観覧せしめたのであつた。
此の一行中には日満軍官民の在安知名士の大半が網羅されてゐたのは勿論であり、支部の狙は其の點に有つたのであるが、果してその反響は大きなものとなつて忽ち軍犬競走は決して空想で無い、實現可能だとの評判が忽ち全市に廣がつた(〃)
上海のドッグレース場を視察するなどした結果、安東支部賽犬會はドッグレース事業の実現を確信。逡巡する幹部を説き伏せて、中央政府への賽犬事業許可申請に動きます。
斯る準備工作の中でも更らに難中の難であつた事は中央の許可申請であつた。折柄協會本部より出口専務理事が就任後の初度巡視として來安したので、堀内支部長から厖大化する軍用犬協會の財源捻出方法として賽犬を實施する事の妙案である事を具さに語つたのである。
出口少将は既に東京に於て一萬米突の軍犬鍛錬競技の成績を實地に見て知つて居り、堀内氏の意見に大賛成を表すると共に政府筋への許可運動に協力を約すると共に帰京後直ちに競犬會實施に對する政府及軍部の意響を叩いたのであつた。
然るに同方面に於ては賭博場グレーハウンド競犬場の先入主観念から、軍犬を愚弄するも甚だしい企畫であるとの猛烈な反對意見があり、結局軍犬増殖の美名を掲げて一儲を企む賭博事業だと頑として応ずる色さえ無かつたのである。
出口専務理事は言を盡して軍馬に於ける鍛錬の夫れと共に、軍犬にも鍛錬競技の必要欠くべからざるものでる事を強調、一部分に漸く意志の疎通を見出したので、此旨安東支部に對して通報、本部支部密接な連繋の下に政府への出願を為すべく願書の作成を慫慂したのである(〃)
MK賽犬場の鍛錬コース
満洲中央政府への「軍用犬鍛錬競技施行許可申請書」は、安東警察處を経由して提出されました。
満洲國に於ては國防、勦匪其他の必要に依り、軍用犬の増殖は其の必要愈々切なるものあり。茲に於て政府は曩に満洲軍用犬協會を組織し軍犬増産十箇年十萬頭計畫を樹立、目下之が遂行中なるも、協會経費の不足、軍犬思想の不徹底は畜犬経費の負担難 等の為め微々として振はず計畫第二年後たる現在に於て全満僅に二千五百頭(安東省は計畫一萬頭に對し現在登録漸く九十六頭に過ぎず)の不成績にして現状に 放任せんが前記計畫の遂行は絶對不可能の状態にあり。
當支部は前期目的達成の為め別記要領に依り軍犬基礎訓練課目を以てする賽犬を實施し一に以て協會経費の調達と畜犬家負担の軽減(訓練のために、一箇月三十 圓を要しあるも奨励上此経費は無料とするを可とす)に資し、他は國民軍犬思想の向上竝に之が訓練の奨励(現訓練は極めて幼稚無趣味なるため訓練士委せなる も本賽犬開始の節は競犬に趣味を持ち且つ競技が應用訓練事項なる為め一般の趣好心を喚起すること必要なり)に資し、以て國策實現に資せんとす。
今や安東市付近は大東港建設を中心とする各種投資に依りインフレーシヨン的傾向顕著にして統制経済、特に労働賃金の騰貴を來たし憂慮すべきものあり。此際娯楽と趣味とを兼たる本賽犬の實施は此種弊害の除去上にも亦有利なりと信ず
ドッグレースには反対意見が多く、出口少将や堀内支部長が必死になって根回しした結果、ようやく中央政府から回答が届きます。
許可条件
一、各回毎ニ開催期日五日前ニ開催届ヲ提出スベシ
二、賽犬實施要領及賽犬福券發賣規程ハ見易キ場所ニ掲示シ、周知徹底ヲ期スベシ
三、福券ハ賽犬場以外ニ於テ發賣スルコトヲ得ズ
四、福券ノ受拂及福券發賣金ヲ明瞭ナラシメル為メ必要ナル帳簿ヲ備フベシ
五、毎回賽犬終了後十五日以内ニ賽馬法施行規則第三十六条二依ル各項及福券ニ関スル収支明細書ヲ各四部提出スベシ
六、實施期間中ト雖モ官廳ノ都合ニ依リ禁止スルコトアルベシ
安東賽犬場全体図(安東市旭日區北二條通満洲第二二三部隊練兵場)
次の問題はレース開催の場所でした。
安東賽馬場でのレース共催計画は、満洲馬政への影響を懸念する遊佐馬政局長の猛反対で頓挫。安東支部では関東軍に交渉し、 連山関 守備隊練兵場を借受けてドッグレース場に改装します。
こうして安東賽犬會が発足すると、安東地域はおろか対岸の朝鮮側からも客が殺到。あっという間に資金面の問題は解決されました。
安東支部の成功を目にした他の支部も、軍犬報國そっちのけで次々とドッグレース事業に参入していきます。
ドッグレース事業が満洲各地に広がったため、康徳9年には安東賽犬會を解散して満洲軍用犬協會支部事業へ移管することが決まりました。
モノゴトは重なるもので、安東支部は関東軍から練兵場の返還を求められます。次のドッグレース場候補地として満鉄所有地の購入が進められたものの、ある方面からのクレームにより貸借の形がとられました。
解氷期の康徳10年4月、新賽犬場建設がスタート。翌月18日には施工途中のまま十年度春季第一次賽犬が実施されます。
昭和14年には、MKの総力を挙げて「適種犬増殖十年計畫」がスタート。軍用適種犬の増殖、種犬の増殖、種犬各支部配置、康徳6年度の14支部から康徳15年には21支部に増設するなどの取組がなされています。
満洲軍用犬協會事業施行計畫案
一、満洲軍用適種犬増殖十年間年次別計畫
軍用適種在郷犬の必要量は時と共に變るであらうが満洲に於ても相當數の實在を要求せられて居ることは疑ひなきことであらう。翻つて満洲に於ける適種犬の在郷數は従來協會の非常なる努力にも拘はらず其の總數未だ僅かに四千頭に達せざる有様である。今や非常時局に直面して協會は更に緊褌之が増殖に手段を竭し、目的達成に勉めねばならないのである。依て先づ其の目的を十萬頭とし次表の通儒年間年次別増殖計畫を樹立せんとするものである。
ドッグレース事業の成功もあって、我が世の春を謳歌していた満洲軍用犬協會。満洲国が存在する限り、MK関係者は益々の発展を確信していたことでしょう。
しかし日本の戦況は悪化の一途を辿り、昭和20年の夏を迎えるのです。
創立10周年を迎えたMKでは、20年、30年先を見据えた未来予想図を描いていました。
(次回へ続く)