6月4日の犬たち
6月5日の犬たち
大正13年6月5日診察
生年月日 昭和9年6月5日生れ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 兵庫県神戸市
飼主 松井鉄十郎氏
昭和七年六月五日、マツクス・ダハイムの血を受けて大阪の地に生れ、同年の九月十三日金澤に連れて参りました。
四ヶ月には山を運動中十二間の谷間に転び落ちたスポンヂボールを持つて来て主人を驚かせました。
昭和七年十一月頃よりヂステンパー流行し病犬と其の犬舎に住ひ、テンパーを知らずにすみました。
昭和八年三月頃よりはじまり、朝の運動中通にても山にてもお銭、萬年筆、メガネ、ボール等を草の中から見つけ出し、教えへ知らせ又は咥へて来る事が度々ありました。
昭和八年八月富山縣では土佐ブルの喧嘩が禁止せられた為め、多数金澤市内に飼はれる事となり、他人の変つた犬を見ると喧嘩をさせる事を自慢とする人が多くありました。
此の事から香林坊で人間三人と土佐ブル一頭に待ちうけされましたが、人間の喧嘩と成るとペツエは一年二ヶ月たらずで初めてシエパードの勇猛ぶりを見せ、警 官の来た時にはすでに相手の犬に傷をおはせ、人間二人は逃げ、ペツエをムチ打つた男は肩の付根下より喰ひ付かれ大傷致しましたが、警官立會で正當防衛であ る事が證明されました。
これで耳の立つた犬の強さを知られました。
中島登美男「貴き人命を救つたペツエ」より 昭和12年
生年月日 昭和10年6月5日生れ
犬種 ワイヤーヘアードフォックステリア
性別 牡
地域 東京市
飼主 高橋徹郎氏
平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より
昭和14年6月5日診察
ベルトウィン・フォン・ノルドテンロク KZ4241(在郷軍用犬)
リング・フォン・ハウスミナ DKZ1899(在郷軍用犬)
6月6日の犬たち
板倉氏の秘蔵犬はケールスカーの仔犬。市川氏の訓練犬はダゴーの息子。藤松氏のV賞牡犬。宮本氏、齋藤氏、福井氏及小生のはボドーの仔犬。それに拙犬のダツクスの娘と何れも一流犬の直仔揃ひで、大いに将來が期待される。
縣下のS犬界は先づ青森市が第一。S犬と名の付くもの約40頭、その内血統書のある犬が半數。次は弘前市を中心とする津軽地方であるが、各所に散在しておるから其の數は相當多いが、名犬の直仔も居る代り血統書のない犬が多い。新興都市である八戸市付近には一名の會員も無く、連絡がとれぬが餘り名犬の話を聞いた事が無い。
冬の大雪には不尠閉口するが、初夏から秋にかけては實に良い。梅雨が無くて暑さ知らず、S犬の蕃殖には理想的である。
今六月の中旬であるのにまだ冬服を着ておる人がある。S犬も衣替への最中。これからでも遅く無い。會員は足並揃へて優秀S犬の作出を契つた。
「JSZ青森グルッペ誕生」より 事務所 青森市浦町 瀬戸口方
昭和15年
6月7日の犬たち
渋谷區竹下町一七嘉山ふぢさん方の愛犬マル君(雑種牡)は六月七日午後二時頃、五圓十二銭入り赤革二つ折のがま口を拾つて来ましたので、早速原宿署に届けましたが、まもなく落主は同區原宿三ノ二八七福島潔方の女中田崎政子さんと判つて、マル君すつかり男を上げました。
昭和10年
六月七日、札幌三越屋上にて開かれた札幌分會主催道産軍用犬展覧會(當日審査中の安達、島津、石垣の三氏)
昭和11年
六月七日
金子氏を勤務先に御尋ねし、先日の綜合展の経緯をきゝ、協會提出の優賞碑の代金を立替られて居たので夫れをお返しする。金子氏の紹介にて宮田氏入會され會費も受取る。
日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年
當山三十七代日空上人在職中、番犬として六匹の狗を飼育した。
母狗を多摩(十四歳)と呼び、とく、つる、ふじ、さと、まつの五匹の仔犬と仲よく本堂の床下を住居として毎日食物を漁りに町内へ出掛けた。
町の人は円明寺の狗がきたと食べあました物をめぐんで呉れた。
怖ろしい風の吹く日も、粉雪のちらつく寒い夜も本堂の床下は温かつた。
朝は上人勧経の声を聞き、夕は梵鐘の響を聞いて五匹の仔狗は成長し、母狗は老いて行つた。
蔓延元年二月十二日、仔狗都留を失いし母多摩の落胆悲哀の状は、顔色憔悴し食欲はにわかに減じ、
遂に病に臥するに至つた。
富寺、左登のニ狗は母に侍し離れざること、人の病人を看護するにことならず。
二匹の仔狗は毎日病める母狗を養い看病してゐたのである。
そして一匹の狗は母の傍に侍り、一匹は町に出て食べ物を漁り、ひたすら老いて病める母を看まもつてゐた。
この話しは三島の宿の人々の間にひろがり、箱根をのぼつて江戸へ行く人、箱根を下つて京へかへる人々の口にまで円明寺の孝行狗の話は伝はつた。
人間の寿命があるやうに、狗にも定められた寿命があつて、萬延元年五月廿八日、遂に二匹の仔狗に抱かれたまゝ安らかに息をひきとつた。
三日ほどは二匹の狗は床下を出なかつた。
宿の人々はそれと悟つた。
そしてみんなが哀れかなしんだ。
四日目に二匹の狗が庭の片隅を掘りはじめ、やがて掘り終わると二匹の狗は床下の母の死骸を引つぱつて、そうして甲斐々々しく埋めてしまつた。
文久二年六月廿日、左登の死を最後として飼育の番犬は病死した。
日空上人は懇ろに彼れ等の冥福を弔ひ、墓石に呼名を刻し、後世に不幸の者の誡めとした。
「円明寺の孝行犬縁起」より 昭和9年
いよ〃盛夏の候と相成り、御地にては今梅雨の候でありませう。其の後意外なる御無沙汰を致し申しわけ有りません。御許し下さい。
前日來〇〇戦参加の時痛切に胸に残りし事を一筆申上げます。
将來實地に使用する訓練、殊に攻撃用防護衣の改良、之は是非共必要と思ひます。色を變へる事、軍服目標とする相手國、又各國服の模造、是非共之は御一考を御願致します。
之は我班で〇〇頭の實際使用上の事を申上げるのです。
三四ヶ月は實敵に向ふとほえるだけで咬まぬ。そのくせに戰友等には気に入らぬと一寸咬むが、それだけ氣の荒き犬でさへだめです。
従來使用の防護衣なれば猛烈も猛烈とてもたまらぬ位ですが、平時より事有る時を思ひ是非共之は一考再考を願ひます。これは戰地全軍犬兵の希望であらうと思ひます。
但し逃げる敵なればどんな犬でも行きますが、向ふ敵には一寸行きません(但し之は實際の敵です。普通の防護衣の際は向へば益々猛烈ですがね)。此の事は馬鹿者の寝言と聞かず、是非共にお考へ下さい。
やつと此頃漸く全犬共實際の攻撃が出來だしました。丁度四ヶ月になります。現地で初めより使へる犬を願ひます。
軍犬報國の元締たる我帝犬に無禮なる事を申し相済みませんですが、何卒微力乍ら帝犬又軍犬の事を思へばこそです。無禮なる點は幾重にも御許し下さい。
尚之よりは暑さも増し氣候不順なれば御自愛の上にも御自愛あつて、邦家の爲め軍犬の爲め健康なるお體と共に御発展の程を北支の地より御祈り申上げます。
職員御一同様に宜しく御傳言の程御願ひ申上げます。
六月七日
〇〇部隊軍犬班 寺坂四郎
御参考迄に報告書の写しを同封致しました。
報告書 〇〇部隊
一、R號軍用犬に就て
〇〇〇派遣の経過は良好と申すべきと思ひます。
二、平田上等兵、藤井上等兵の訓練振は熱心にして連絡斥候の動作は訓練者の意の如くに犬は行動を起して居ります。
三、巡察の過度なる當分遣隊には犬の効果最も大にして、暗夜の巡察には欠くべからざるものと信じます。
昭和14年
犬とシイタケ 昭和18年
アンザ・フォン・グリュッツリッペン KZ39030(在郷軍用犬)
アダ・フォン・コトオーソー KZ45318(在郷軍用犬)
フロード・フォン・カネヒロエン 帝国軍用犬籍簿登録申請中(在郷軍用犬)
ゼニー・フォン・ヘイアンソウ 帝国軍用犬籍簿登録申請中(在郷軍用犬)
信州柴犬普及元祖 曙園 昭和18年
6月8日の犬たち
大正13年6月8日診察
静岡縣駿東郡富岡村御宿消防組頭杉本清太郎氏方へ五月十五日午前一時頃、焼切泥棒が忍び込み、賣溜金五圓餘りと地下足袋衣類等数點を盗み、更に隣家の菓子製造販賣業古田榮氏方へも忍び入り、レインコート其他を窃取逃走致しました。
届出に依り沼津警察署では非常線を張り犯人捜査中、同日午前六時頃裾野發三島行富士自動車バスに被害者古田榮氏の長男伊豆銀行員古田榮一君が乗車せんと致しますと、車内に窃取された自分のレインコートを着てゐる男を發見。
折柄愛犬ドルフを連れて同所を散歩中の吉川氏に此事を告げますと、感付いた件の男は突然逃走を企てましたが、吉川氏の命令一下、ドルフ號は物凄ひ勢ひで追撃、附近の裾野驛(舊東海道線現御殿場線)構内鉄道官舎の床下に追詰め難無く捕へました。
件の男は本年三月廿七日、仙台刑務所を出所した東京府生れ、當時住所不定前科六犯小山理一といふ各所を荒した犯人でした。ドルフ號は前期の勲功に依り、六月八日縣知事並びに警防義會より金一封を添へ表彰せられました。
ヘラー・フォン・ドージマ KZ31330(在郷軍用犬)
デンケル・フォン・ハウスモリイシ 帝国軍用犬籍簿登録申請中(在郷軍用犬)
6月9日の犬たち
日本ケンネル倶楽部主催の日本畜犬品評會は雨のため一日延期し、去る六月九日午前十時より大森射的場に於て開催された。
出犬の申込は約四十頭、他に参考犬十頭で、四月以來名古屋、京都、大阪等に於て開催された共進會に比して多大の懸隔あり、遜色の見られたのは震災の影響を受けて畜犬の中心が関西方面に移動したのと、今一つは東京及横濱方面の畜犬家が戰國時代を現出して党派的に群雄割拠を爲し各方面に畜犬倶楽部、畜犬協會等を設置せるため其發達を阻害せるの観あるは、我が畜犬界の爲めに反す〃も遺憾である。
大局の上より之等群少の畜犬會は個人的の感情や利益を捨て聯合畜犬協會を設立し、真に斯界の向上發展の爲めに努力せられんことを望みたい。
「畜犬共進會」より 大正13年
六月九日
海老名氏より來書。七月初め豪太利に行かるゝ由、良いコリーがあつたら買つて來らるゝとの事。我コリー界も前途多幸である。伯楽が騾北の野を過ぎるものかも知れない。
日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年
昭和十七年六月九日二十二時五十分、櫻柯橋分哨服務警戒中、分哨前方百米付近を敵兵約八十名隠密に通行し在るを警戒中の虎勇號發見、直ちに擔任者に報告、〇〇本部と連絡を取り事前に對應の處置を講じ事なきを得たり。
6月10日の犬たち
暫らく獲物らしい獲物に出くわさぬから、今日は鳩の一羽でも、秧鶏(クイナ)の半分(尤も半分ではゲームの数に入らぬかも知れませんがね)でもいゝ、久し振りに家族の手前天狗の鼻でも延長しておかうといふわけで、猟期もあと一と月足らずといふ此日午後、ワン公を引き出す。
道々とある池の堤防を通ふとすると、中程で犬がポイントした。
堤の上からのしかゝる様にして汀(なぎさ)を覗き込んでゐる。
ハゝーン、お誂への通り秧鶏だな。
近づいて小声で「ヨシ」と云つてみるが犬は一向にとび込まぬ。一心不乱になつてのぞき込んだまゝ、聊か不審の體である。
そこでフト悪戯氣が起つた。
待てよ、クヒナならば打ち洩らしても惜しくはない。一つどの位ポイントしてゐるか試してやらうといふ氣で、ソツと犬の尻つぺたの所に腰を下して、銃を膝に横たへ、衣嚢からバツトを一本抜きだして火をつけた。
一息吸ひ込んでフーツと烟を犬の尻へ吹きつけてみるが、まだ棒立ちのまゝである。
いよ々々面白くなつて来たから今度は烟草を咬へて双手で「ワン公いゝ加減に行かないか」と犬のからだを押そうとしたら、その瞬間決然として三四尺上方の葦原の中へ、勢猛に踊り込んだ。
と同時に間髪を入れず猛烈に大きな怪鳥(そう見えた!)がバタ々々々々と飛び出したではないか。
ヒヤーツと驚いてよく々々見ると、真鴨の雄である。
ウムこれはとばかり銃を取り直すなり座つたまゝで、盲目滅法に打ち出したら、何といふ気まぐれな鴨かコロリト落ちて水面をバタ々々やつてるところを苦もなくワン公が泳ぎついて咬えて来た。
受取つてみると頭をやられてゐるので、小粒弾ながら半死の有様。
イヤ過ちの功名、勿怪のケのケだ。
だが考えてみると、これとよく似た失敗の方の歴史も實はあるので、日外(いつぞや)道端―それは貨物自動車も荷馬車も自転車も通る、おまけに人家近い街道筋―で犬が妙な恰好をするから、「止せ々々小鳥なんかにポイントしちや笑はれるぜ」と若犬振りを叱つてやつたら、豈計らんやそれが餌見の雄雉子だつて、銃を肩にかけたまゝ見事な空中滑走振りを目送し、あべこべに犬に笑はれたことがあるが、こういふことはどちらにしても、あまり他人にはホメてもらへぬ事らしい。
現にこの話はどちらもあとで猟友の軽挙妄動を戒めた揚句、甲君の曰く「苟くも銃を執り犬を連れた者が、猟野に出たる以上……」とか何とか、乙君の曰く「古来油断大敵……」云々、猟夫曰く「ウヘエツ」。
そして頭かき々々口の中でボヤくように「テイー(犬の名)よ、これからはお前を信用したるぜ」
大正十四年六月十日於 松堂医院北窓下稿了
舘康正「続々雀羅庵猟話」より
全日本エーヤデール・テリヤ倶楽部聯盟廃止に付聲明
代表者 今田荘一 白石春雄
我々の倶楽部聯盟は、エーヤデール、テリヤ種の普及と改良進歩を期する爲に、微力ながらも今日まで邁進して参りました。今尚日浅くしてその成績の見るべきものはありませんが、東京大阪の両地を中心として漸次會員の數を増加し、又他の地方に於ても新に倶楽部を設立し、聯盟に加入せんとの準備進捗中のものもあり、且又犬種の改良にも應分の成績を挙げつゝあることは我々の欣幸とする所であります。
是れ偏に大方の御同情の然らしむる所と深く感謝する次第であります。
顧みますれば、我軍犬界は昨年來勃然として長足の進歩發展を來たしました。それと同時にこれが統制上に於ては大に混沌たるものがあつたことも事實であります。
然るに今や陸軍當局の指導と、帝國軍用犬協會の努力に依りまして、統制の基礎が確立し、我々の向ふべき所が大に明になつて参りましたことを、我々は衷心感謝するものであります。それと共に我々の倶楽部聯盟の存否に就ても大に考慮すべき秋であらうと思ひます。
抑我々の倶楽部聯盟は今日迄も他と對立すべき組織のものでなく、従つて我々倶楽部員は軍用犬協會にも自由に加入し、又犬籍登録の如き國家的統制を要する重大な事業は倶楽部として之を行ふことを避け、一に最高機関たる帝國軍用犬協會に頼ることにして居ります。
是れ即ち事實上帝國軍用犬協會に協調する所以であります。
如此ではありますが、更に我々は協調の趣旨を一層鮮明ならしめんが爲、茲に倶楽部聯盟を解くことになりました。
然しながら、各倶楽部は今少時らく之を存続し、一般郡犬界の統制を阻害せざる範囲に於て、鞠躬如として本種の繁栄の爲に努力したいのであります。
蓋し本種は不幸にして我國に於ては真に発芽の状態に在りますので、少くも當分の間、尚少なる単位に於て之を培ふを便とするからであります。否、かくすることに依りて、我軍犬界の本畑に對し準備的の貢献を齎らし得るものと信ずるのであります。
茲に本誌を通じて、叙上の趣旨を洽く大方に聲明し、軍犬界各位の御諒解を仰ぐ次第であります。
何卒本種の愛好家各位は正統に於て軍用犬協會に御協力の傍、我々倶楽部に對しても御同情あらんことを祈る。
昭和八年六月十日
一九二九年十一月帰朝、パテーは初めて日本の土を踏んだのであつた。
日本に於ては上野公園に於ける帝犬第一回展に於て訓練の實演を為して以来、軍犬普及の為め實演を為す事前後二十七回、本土は勿論遠く北海道に至る迄殆んど足跡を印せざる所のない程である。
訓練犬として出動したる事は左の三回に及び相當の成績を挙げる事が出来た。
即ちその第一は昭和十一年六月十日川口署の留置嫌疑者逃亡の際、埼玉縣警察部長の求めにて出動、事件後三日に川口署より一里半程距つた竹林中の犯人遺留品に依り犯人の逃走路を指示して犯人捕縛に便ならしむ。
その二は昭和十一年六月十五日浦和警察署の求めで自動車強盗事件に出動して犯行後八時間なりしも能く其の遁走路を嗅出して犯人捕縛に便ならしめた。
その三は昭和十一年七月二十一日大宮警察署の依頼により川越街道に於ける自動車強盗事件に出動し、犯行後五時間に完全に逃走路を嗅示して犯人三人を全部捕縛せしめた。
以上の功績に對して昭和十一年七月二十八日刑事協會長より賞金を受けた。
現在九歳の老齢ではあるが、體重十一貫八百匁、矍鑠として尚ほ壮者を凌ぐ概がある。
以上名誉ある功犬章を授与せられたるを機會にパテーの事業の一端を誌して會員諸兄の笑覧に供した次第である。
浅田護馬「愛犬レディー・パトリシアを語る」より 昭和12年
若松分會に於ては、六月十日より六月十六日迄の一週間、在郷軍人會の後援の許に、若松市大勝館に於て映画會を開催。「フランダースの犬」及び「現代戰と犬」を上映、非常なる好評を拍し、連日満員で各學校生徒兒童等の團體観覧も多數あり、軍犬思想の普及に多大の効果を得たのであつた。
尚「軍犬の訓練」映畫は會員及び有志のみの映畫(最終日映寫)とし、訓練上に之又非常なる参考となつたのであつた。
昭和12年
大阪蘆原署で取調べ中の犬泥棒前科二犯山野庄吉が盗んだポインター種牡(時價三十圓)と日本犬牝(時價十圓)の二頭の飼主がわからぬので、何とかして捜してやりたいと考へつゞけてゐた平野刑事が、六月十日朝、ポンと自分の膝を叩いて微笑した。
早速「この犬の所有者は直ちに當署に出頭されたし。蘆原署」と書いた木札をつくつてワン公の首にブラ下げて放したところ、それから二時間ほどして電話がかゝつて來た。
「こちらは大阪府中河内郡巽村相澤俊夫宅ですが、長い間捜してゐた愛犬がたゞいま首に御署の木札をつけ二頭そろつて無事に歸つて來ました。ありがとうございました」とのこと。
平野刑事の妙案がうまく効を奏して、犬は一里あまりも離れた主人の家へ歸りついたのだ。
「今様越前」より 昭和13年
官舎に我等の教官殿が、犬を飼つてゐられる。名は「ラン」(註、自分が研究したところによると、この犬名は、滿語で狼と言ふ意味ですが、或は滿國花の「蘭」かも知れない)。
〇〇部隊本部の軍犬と満犬の雑種らしい。耳は片耳のみ立つてゐるが、毛色、體形ともシエパードにそつくり。
これが教練と言はず行軍と言はず、何時もついてくる。
営庭がランの運動場だ。生後一年半の彼女は冬も春も跳びまわつてゐた。我が世の春とばかり……。
が、四月初め、可愛いゝ仔犬が七頭生れた。
そのうち、背黒の一頭のみ、他は滿犬の子に似てゐる。此の頃は母について営庭を乳を求めてチヨコ〃と歩いてゐる。やはり先代の血液を引くものだなと思ふ。
ランにしろ、その牝犬にしろ雑種だ。
まして牝犬は滿犬だ。
その仔犬が一頭は真つ黒で、四肢、口吻、目の處に褐色が出てゐる。
もう一頭ゐる。
それは茶褐色で口吻が黒―黒マスクだ。
先づ二頭がシエパードの血統を引いてゐる。
こんなことを書いてゐるうちに、〇〇部隊の方へ轉属になりました。〇〇部隊に來て、ランに訓練を實施してゐましたが、残念乍ら轉属して訓練出來ない状態です。
がこゝでは〇〇部隊の軍犬班が訓練をやつてゐるのを見ます。
エアデールも見ましたが、ほとんどシエパードです。
滿洲國での軍用犬の普及は(こんな大きな考へは一介の貧弱な我々にとつては想像すべきことではありませんが)先づ、體の丈夫なことが第一條件でせう。殺人的暑氣にも、呼吸の凍る厳寒にも耐へ得る體力が必要の様に思はれます。
其の上大變不潔で傳染病ならば何でもあり(但し、人間が多いのですが)相當丈夫でないとどうかと思はれます。此の辺の部落は、一部落から一部落まで一、二里あり、人間が進歩すれば衛生も考へる様になるでせうが、現在の有様じや無學文盲の奴等ばかりですから。一度、田舎を去つて、新京やハルピン方面へ行けば是非必要だらうと痛感してゐます。
先づ此の辺であれば、草原地帯を利用して放牧の使役犬として充分活躍出來得るだらうと。緬羊の一群を自由に見張る犬の出現を切望してやみません。
真紅な夕陽が、此の頃であれば緑の地平線の彼方に沈んでゆく。彼方に一群、此方に二群と満人の打ち振る鞭の音も軽く響き傳はり來る其の中を、縦横無盡に走り廻る愛らしき使役犬の努力は成つて、陽の落ちる頃には、懐しい我が家の門をくぐる。犬も人も、そして彼の羊群も、夕餉をたく煙も細く、かうして平和な大陸は暮れてゆく。
こんな想像を思ひ浮かべつゝ筆を走らせてゐる自分であります。
若し再び犬界に現はれ、貴會の御かげで地方人として活躍出來得るなれば、何等かの理想が現實となつて現はれるでせう。色々と駄文を列べて申わけありません。
御會の隆盛を遠きこの地より祈ります。
六月十日 滿洲國三江省依蘭
〇〇部隊〇〇隊
船越輝和
昭和14年
アムステルダム・オリンピックにおける白米食問題が犬用ルームランナー開発に至った話 昭和9年
醫學博士河本禎助『米食の耐久力に關する影響』より 日本コリー倶楽部講演会 昭和9年7月14日木村屋ビル講堂にて
6月11日の犬たち
六月十一日
銀座ラスキンホールにて綜會並に過日の綜合展の授賞を行ふ。出席者八名(海老名、服部、金子、宮川、伊藤、西岡、安藤、三上)。話しは何といつても過日の九段の犬の展覧會の主催者側の不始末についていろ〃材料が出た。それから會則一部変更、委員改選、授賞、犬談に花を咲かせ、十時頃散會した。犬談ではコリー犬の被毛の手入れについて種々説が出て大分賑やかで且つコリー飼育者に取つては有益な話があつた。是から先き、何卒こういふ會には成るべく出席せられて犬談の交換をして頂きたいと思います。
日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年
六月十一日、學校の校庭で、軍用犬の訓練を見せてもらつた。軍用犬は全部で四匹で、その中二匹は岸和田から、他の二匹は濱寺と堺から來たのださうだ。
どこの犬もたくましく、毛並の美しい犬だつた。城内、中央、朝陽の三校の生徒や大人の人によつて、廣い運動場が大きな圓をかいた。やがて校長先生からお話があり、それがすむと主人は軍用犬を連れて來た。
先づ細谷さんが一匹づつの犬について説明して下さつた。
いよいよ軍用犬の訓練が始まつた。犬の中には若い犬がいた。その犬は今訓練中のため時々仕損ずることもあつたが、他の三匹はする毎に皆拍手して喜んだが、中でも一番強さうに見えたのは、濱寺から來たといふ黒色の軍用犬だつた。色々の藝當を澤山見せてもらつたが、僕が一番面白く思つたのは、一番終りのであつた。
厚い支那服のやうな物を着た人が出て來た。その人が戸の後にかくれ、ピストルを撃つと同時にその戸が倒され、軍用犬はものすごく飛びかゝつて、しばらく人と犬とが戰ふのでした。
向ふで見てゐる犬も物凄いけんまくでワンワンと吠えながら、今にも飛かかりそうな様子で待つてゐる。それで大會は終つた。本當に善い事を見せてもらつたと思ひました。
日根野高等小学校尋常5年生 奥田啓一君 昭和12年
六月十一日は僕らの待ちに待つた軍用犬の訓練のある日でした。午後一時さいれんがけたゝましくなつたので、何時もの朝禮の時の様に並んだ。
校長先生からお話があつて、各位置に着いた。
いよいy軍用犬が來た。細谷さんから一匹づつの軍用犬について、お話をしていたゞいてから訓練が始まつた。
其の中には物を投げて持つて來さす訓練もあつた。主人のハンカチの臭を犬にかがしてをいて、犬を他の場所へ連れて行き、ハンカチを五枚程置いて、主人のハンカチを持つて來さすのもあり、肉を犬の顔に突つけ食べさゝうとすると、主人がやると食べるが知らぬ人がやると少しも食べないのもありました。
やはり犬も訓練すると人間以上に賢こい働きをするものだとしみじみ感心した。又犬を棒にくゝり附け、主人の帽子を犬のそばに置き、知らぬ人が帽子を取りに來ると吠えて帽子を取りに來た人をかまうとして居た。それから障碍物を飛越えるさまはいかにも勇ましかつた。
最後に厚い支那服の様な服を着剣道の面をつけ、匪賊のまねをして戸のかげからピストルを射つて戸を倒すが早いか、犬はものすごい勢ひで飛び着いたと思ふと犬は振り廻されていた。それでもひるまずかみついて放さなかつた様な勇ましいことも見せていたゞいた。こうして軍用犬の訓練は終つた。大へん面白いだけでなく非常にためになつたと思ひながら家に歸りました。
日根野高等小学校尋常5年生 仙崎昭親くん 昭和12年
去る五月二十七日の海軍記念日に軍用犬訓練のやうすを實演して見せて下さる筈だつたのが、當日は雨だつたので出來なかつた。そして六月十一日にいよいよ行つた。
説明して下さる言葉ははつきり解らなかつたが、實演を見て大變に面白かつた。
犬を坐らせて主人が前方に進んだり、或は前方に進み、又歸つて犬のそばを通つて後方へ行く。犬は等しく後をふり歸つては主人を見てゐるが、主人について行かうとはしない。
我が家でも三月程親類の犬を預つて飼つたことがある。犬の世話は主に私がした。初の五日程といふものは馴れないので、食物もろくろくとらないで、夜になると哀れな聲で鳴きたてたが、一週間、十日と、私に大そうなついて、私が表のしきゐをまたぎでもすると、鎖の切れる程引張つて私の方へ來ようとする。犬といふものは、どこの犬でも大抵主人のそばばかりついて歩くものだ。それも言語も通じない犬に教へることがよくも出來たものだと感心した。
同じやうな五つのハンカチ、しかも主人のどんなものか一度も見たこともないのに、その五つの中から主人のものを見つけだす。こんなことは私達の到底出來たことではない。これを敏感な鼻によつてそれを見つけ出すのには大いに感じ入つた。
次に飛越をやつた。これは黒い犬が一番上手だつた。
犬の前へ主人の帽子を置いて、外から他の人が之をとりに行く。すると犬は吠えついて絶對に帽子を其の人に渡さない。物品の見張りを命じられれば、絶對にそのつとめを果すさうである。
すべり臺の後方の段を上がるのは實に感心した。前脚と後脚を巧に使つて丁度人間のやうに上つた。
最後に一人の人が面をつけ、ものすごいいでたちで出て來て犬と反對側の戸板の後へ立つた。手に玩具の二連發銃が持たれてゐる。犬の主人が各々犬をつれて、一人づつ出發して戸板に近づく。戸板の後の人は頃を見はからつて二連發銃をぶつぱなす。犬はすかさずその人にとびつく。腕にかみついたらふり廻はされてもはなさない。これでないと戰場に出ても役に立たぬと思つた。
いつか、第二電氣館で、「戰線に吠えろ(※正式タイトルは「戰線に吠ゆ」)」といふ映畫を見た。あの時も軍用犬の訓練の様子を見ることが出來た。そして軍用犬が戰場で非常に重大な役目をすることが解つた。
初から終まで感心ずくめで終つて、その後でみんながならんでからやかましくいつてゐるので、校長先生が「そんなこつちやあ犬にまけるぞ」といはれた時、私はそうだ犬に負けないやうに立派な功績を世に殘さうと思つた。
日根野高等小学校二年 加藤末三くん 昭和12年
海軍記念日のもよほしの一つとして、本校で殘つてをつた民間軍用犬の實演を、六月十一日午後一時から本校校庭にて行つた。犬は四匹來た。そうして一列にならんで立つた。どれも皆强さうな顔をして、直立してゐる。
一番初めに各犬の所有してゐる人の名を言ひ、各犬の名を言つて、運動場を一回廻つた。それからもとの所へ歸つて、犬を吠えさせたり、三つほど、藝をやつて、それからいよいよ物凄い物になつて來る。
牛肉を持つていくと食はないで吠えたてるので、なぜ吠へるのだらうと不しんに思つてゐると、電話線の架設を怪しいと思つて、吠えてゐるのだと放送してゐる。犬が主人の帽子を護つてゐるのを、取らうとすると、猛烈な勢で吠え立てゝよせつけない。油断してゐる間に取らうと思つても油断する所か、増々吠え立てる。そこへ主人が取りに行くと、尾をふつて、護つたかひがあると言ふような顔をして、うれそそうに鼻をすりつけに行く。
又ハンカチを犬にかがして、遠い所に他のハンカチを、いくつかと一緒にまぜてをき、彼の犬に「行けツ」と號令をかけると、犬はまつしぐらに走つて來て、一つ一つかいでいたが、これと思つたのか、それを食はえて行かうと思ふと「まちがひました」と言ふ聲が聞える。犬は少し立止つて、考へるやうにしてゐたが、又もとの所へ來て、それを捨てもう一つのハンカチを食はへて、主人のもとへ尾をふつて走つて居つた。廣い校庭に圓陣を作つて、見學の學童達は一勢に拍手喝采を送つた。とぎれとぎれに「アツ、あひました」と言ふ聲が聞へる。
次は、高い所を飛びこえるので、主人は「いけツ」と言ふと、犬は三、四歩地をけつて、さつと飛んだと思ふと、見事に飛びこえた。ワツと言ふ見學生の感動と共に、拍手喝采が又も送られた。
眞黒の犬は口に旗を食へて飛んだので、よけいに興味が深いので、生徒を喜こばせた。
次は巾飛で「居ケツ」と言ふと、走つていつて上手に飛んだ。それで、もう少し巾を廣くすると犬は走つていつたが、自分はよう飛びこさんと思つたのか、一つだけこしてこつちへ來た。
次は戰地のまでねである。あちらのすみから、からだに電話線をくゝりつけ、主人のもとへ走つてくる。つまり戰地では、こちらの陣地からあちらの陣地へ電話線をひいて、自由に話が出來るやうにするのである。
次は一番物凄いやつで、マスクをつけ、分厚い服を着た假装の匪賊が、戸の陰からピストルを發射すれば、猛然匪賊に噛みついて、振り廻されても放れない。とうとうかまれた所がやぶれてしまつて、他の犬もわんわんと吠えてゐる。
匪賊になつた人は、こわそうに生徒の坐つている間を通つてあちらの方へ行つた。もう時間がないので、それくらいでやめて解さんした。
日根野高等小学校2年 古江四郎君 昭和12年
6月12日の犬たち
六月十二日(日曜晴)
カメのお産
朝早くお母さんに呼ばれて起るとカメのお産があつた。其子は黒で足の先は白いのが一匹、黒と白のまだらが二匹、茶色が一匹灰色で顔が白いのが一匹、皆で五匹である。
お母さんは犬はほんとにお産の軽いものですねェ、とお父さんに云ふた。
カメは正午頃まで出ませんでした。
京都市下京區祇園新地切通シ冨永町下ル 梅村勝之助 明治38年
六月十二日、板橋區志村清水町五八興國會山本甚三郎外八氏から競馬の向を張つた犬の競走場設立の許可願ひが警視廳 保安部に出された。
其の内容は匿名組合で、資本金五十萬圓、資金は一口十圓で五萬株を一般から募集し、志村附近の空地三萬坪に競技場を設置、入場料一圓、五圓の犬券を發行、一回に七頭の犬を走らせ一等の當選者に七割の拂戻しをなし、三割を経営費にあてると云ふ組織。
「競犬場また出願」より 昭和8年
六月十二日
山中英司さんと遇つたので、血統説明書の印刷を急ぐ旨依頼して置いた。登録申込もある事故早く欲しいものである。
日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年