花子(愛玩犬)
トネ(愛玩犬)
カワラ(愛玩犬)
ケーラ(愛玩犬)
生年月日 昭和5年
犬種 ボルゾイ
性別 牝
昭和8年の広告より
大正時代から持て囃されていたにも拘らず、ボルゾイはずっと希少な犬だったんですね。
「日本最優秀犬ビクター號」の子孫となるのがこちらのルカ君
。ケーラ来日の経緯もリンク先に書いてあります。
こうやって、血縁のあるイヌ達の記録を見つけると何だか嬉しくなりますね。「来日後、しっかり根を下ろしていたんだ」と。
靖国神社
猫目小僧
漁犬
後方に見えるは、銚子無線電信局川口送信所の無線塔です。
運搬犬編にて、潟スキーで漁具を牽引する外国の荷役犬を取り上げたことがあります。
小型漁船を繋留するためのロープを曳くアラスカの犬達も同時に掲載しましたね。
我が国の魚市場などでも、海産物を運ぶ荷役犬が戦前から使われていました。
しかし、ニューファンドランドのような「漁師が仕事中に使役していた犬」という記録はナカナカ見つかりません。
猟師が使う「猟犬」がいるからには、漁師が使う「漁犬」も日本にいたのではないか?
そう思いながら史料を漁っていたら、何枚かソレっぽいものを見付けました。
愛犬を連れて魚釣りをするアイヌの漁師。ただのペットにしか見えませんが。
こちらの写真は、氷に穴を開けてカンカイ(寒海。コマイのこと)を獲っている樺太の漁師。
周囲のカラフト犬は、漁獲したコマイや漁具を運搬するために連れて来たのでしょう。
さて、こういった事例は本土でもあったのでしょうか?
気長に調べてみたいと思います。
犬の家庭看護☆戦前編
近代日本の畜犬界は、獣医学と歩調を合わせて発展しました。
かかりつけの犬猫病院があったからこそ、人々は安心して犬を飼うことができたのです。
さて、戦前の獣医さんはどのような治療をしていたのか。
昭和8年、愛犬家へ向けた指導内容を見てみましょう。
板垣博士がフィラリア対策研究に取り組むのは、これが発表された翌年のことです。
愛犬の病気は一家を暗くします。
単に愛犬が元気がない丈けでも、随分気がゝりなものです。又いゝ遊び相手をなくして無聊に苦しみます。
そこで愛犬は常に元気でありたいものです。元気であり、朗らかであることが、どれ位一家を明るく、微笑して呉れるか知れません。
しかし生きものですから、どんな場合に病気に罹らないとも限りません。又元気をなくすることも往々にしてありませう。
そんな時に一刻も早く手當をして、平生の元気に恢復させる。そこに家庭看護の大きい意義があります。
こゝに板垣博士を煩はして、犬の家庭看護圖解を編だのも、その方法を一般愛犬家に正しく會得して貰ひ、應用していたゞきたいからでありますが、これは飽くまで看護法であつて、これ丈けで犬の病気が癒るやうに考へられては困ります。
病気の時には勿論専門医の診断を仰ぎ、その指揮に従はなければなりませんし、殊に技術的のことは巧拙によつて犬に苦痛を與へることも大小ありますから、成る
べく専門家に依頼した方がよろしいが、一方應急處置や看護は何時の場合でも必要で、この位のことは愛犬家常識として心得て置いて欲しいものです。
一、體温の計り方(上圖)
何となく元気がなく、食欲も餘り進まぬので、どこか具合が悪からうと心配するときは、先づ第一に熱があるか否かを検査する。
犬では肛門に検温器を挿入するのが普通であるが、滑らかにする為めに、油かグリセリンのやうなものをつけると便利である。
體温は成犬三十七度乃至三十九度、仔犬はそれよりやゝ高い。
検温をいやがる犬は、乳児にやるやうに股間で行ふがよいが、肛門體温より平均〇,四度位低いのが常である。
二、脈の検査(下圖)
内股に手を當てゝ股動脈で脈をみる。運動や精神の亢奮は脈数を多からしめる惧れがあるので、平静時にやるべきである。脈数は一分間正確に数へる。
脈搏は成犬で六十乃至八十、仔犬八十乃至百二十である。
単に脈数ばかりなく、手に感ずる脈の大きさや強さも知り、又脈が規則正しくうつか否かを知る必要がある。
但し健康犬でも往々不整脈の存することを忘れてはならぬ。
三、口内の見方(上圖)
口が臭かつたり流涎があつたりする時は、口の粘膜、歯、歯茎、舌等を調べる必要がある。
口粘膜の色は貧血を知る上に絶好の資となるもので、黄疸等も口で見るのが最も便利である。
咽頭に魚骨がささつた疑があれば、口を充分に開いて舌を下方に圧し乍ら検するが、こんな時には特種の開口器を使用するがよい。
四、結膜(下圖)
口の粘膜と同様に、眼の粘膜も必ず検べる。充血とか貧血とか黄疸とかを知るには口粘膜と同じ意義を有つが、又眼の病気、殊に結膜炎を知る上に重要な方法である。
同時に角膜や眼球内部の検査も行ふべきだが、多くの場合特種の検眼鏡や反射鏡等を要するので、専門家に頼まるゝがよい。
五、咽喉頭のしらべ方(上圖)
感冒に罹つたり、テンパーを病む犬ではよく咳をする。こんな時には喉や気管を外部から静かに圧して、どの部分が最も過敏になつてゐるかを検べる。同時に上頸部にある琳巴腺の有無等も検べれば一層よい。
六、腹部の検べ方(下圖)
指頭を以て腹部臓器を検査するには、稍熟練を要する。胃、腸、腎臓、膀胱、雌性生殖器、腹腔の健否を知る一助となる。
犬では腎臓炎や腸内寄生蟲が非常に多いので、痛みのあるなしを検査する。
背をまげて呻吟するやうな犬では、特に此検査法が必要である。
又石をのみこんで腸にひつかゝつたり、腸の畳積があつたりする時も、これは有力な検査法である。
七、散薬ののませ方(上圖)
薬をやつても投薬法に不馴れな為め躊躇する向も少くないやうである。圖のやうに、左の手で口を開き、右手に薬をもつて成る可く口の奥に、而も素早く入れる。
投薬直後暫時上下両顎を手で掴んで居れば尚都合がよい。
又バターに混じて指頭で口の内にすり込めば大抵の犬はいやがらずになめる。
八、水薬のやり方(下圖)
之れも多少の熟練がいる。一側の下唇を圖のやうにつまみ出し、そこから静かに注ぎこむか、或は上下歯間に薬壜の口を入れてやるもよい。
後者では唾液や汚物が薬に混入し易いので、出来るならば匙に少しづゝうつして、下唇をつまみ出して飲せるのが理想的である。
九、カプセルのやり方(上圖)
刺激の強い薬品や揮発性の薬はカプセル(膠嚢)に入れてやる。回蟲、鉤蟲の駆蟲剤は大部分此方法で與へる。
上顎に左手をかけ、拇指と中指を左右の上下歯間にあて、口を開き、右手食指及中指にカプセルを保持して、充分口の奥にさしこみ、指を引いたら直ぐ上下の顎を掴んで暫く嚥下するを見て手を放つ。
カプセルが歯間にあつて噛んだり吐き出したりせぬやうに注意する。
四塩化炭素や、四塩化エチレンでは投薬法の稚拙な為めに非常な危険を供ふことがある。
十、吸入(下圖)
仔犬には肺炎が多い。殆んど全部はテンパーを発するので、種々な内服薬や注射剤を行ふ以外に吸入と湿布をやる必要がある。
吸入器は家庭用のものでよく、二、三時間おきにやる。
吸入薬液は一%硼酸水、重炭酸ソーダ(重曹)液がよい。
一回約十五分位が適當であらう。初めは多少騒ぐが馴れると實施が容易となる。
十一、湿布(上圖)
吸入法と同じく仔犬のヂステンパーに極めて有効な方法である。犬では子供と異なりベツトに寝かすことが困難なために、温湯を使用する湿布は殆んど實施不能で、冷水に浸した布をかたく搾つたものを使用するプリースニツツ罨法が便である。
唯多少の技術を要するもので、拙劣なる湿布は反つて有害無益になるから専門家に相談なさるがよい。
十二、皮膚薬のぬり方(下圖)
疥癬や毛嚢蟲症の如き頑固な皮膚病に薬を応用するには、単に毛筆等で塗る丈けでは充分でない。急性湿疹では刺戟を出来る丈け少くする為め、静かに指頭で塗るが、頑固な病気は充分に皮膚にぬり込む必要がある。
こんな場合には剛毛のブラシを使用するが便利である。
十三、皮膚病の處置方(上圖)
折角薬を塗つて皮膚病が治りかゝつても、事物に摩擦し、口で噛んだりする為め、急に病勢を悪くすることがある。
犬の皮膚病治療に最も注意すべきことである。こんな時には惨酷ではあるが、圖のやうにボール紙で作つた頸枷を使用して咬噛を豫防する。
又騎士のはくゲートルの如き厚革製の物もある。
十四、皮下注射の方法(下圖)
薬効を一層確實にする為めに、内服の代りに皮下注射を行ふ。
犬は皮膚ばなれが良いので、相當多量な液體も容易に注入ができる。注射部は剪毛かつアルコールで充分に消毒し、左の指で皮膚をつまみ上げ、右手に注射器を持つてやる。
唯人間と異り被毛のある関係上、注射部に絆創膏の應用不能の為め、コロヂウム等を使用するが便である。
農学博士 板垣四郎「犬の家庭看護圖解」より 昭和8年
PR: 最強のお部屋探しツール「Nomad.」を体験しよう!
11代目片岡仁左衛門
大磯の或る米屋で早朝の出来事があつた。
鶏舎の内の何羽かの鶏は紛失をして、其の近辺には沢山の羽根が散って居るのを見た米屋の主人、テツキリ狐の仕業だらうと思つて其辺を調べると、犬の頸環が落ちて居た。
其の頸環には大磯片岡仁左衛門飼犬と署名してあつたので犬の仕業である事が判つたから、早速米屋から片岡方へ談判すると、宅の犬は昨夜は外出しないから、そんなイタヅラをする気遣ひはないと云ひ張る。
米屋の方では証拠の一品取り出し此の頸環に見ヲボえないと申すか。
サアーソレハサアー〃で幕。
縁生「犬の噂」より 大正7年
神奈川縣畜犬取締令 大正7年
二ヶ月程前から横濱は勿論神奈川縣一帯へ畜犬出入を取締つて居たが、九月の三日から更に六十日間取締の縣令が配布された。
七月から九月迄此の取締をやつた為に狂犬豫防に効果あつたのなら兎に角だが、其の効果がない為に日延をしたのだと横濱の某新聞に出て居る。
効果がなかつたものなら更に向六十日間に効果を得る事は難しからう。
犬の出入を取締るばかりでなく、横濱市中の犬は全部鎖で繋いで若し運動の為にでも鎖を放せば直ぐ罰金なのだから、犬は外出も出来ず鬱々として、病犬続出と云ふ現象である。
横濱一愛犬家投「狂犬病と神奈川縣畜犬取締令」より
PR: 違法コピーは犯罪です。黙認しない勇気を!
ハツネ4兄妹(在郷軍用犬)
生年月日 昭和12年9月28日
犬種 シェパード
性別
ロック・ハツネKZ25227 牡
那智・フォム・ハツネKZ25230★ 牡
ナナ・ハツネKZ25231 牝
バッダ・ハツネKZ25234 牝
戦前・戦中の書籍には、膨大な数の犬の名前が記されています。
しかし、それらは単なる記号の羅列に過ぎません。
エピソードや写真といった関連する資料を加えたとき初めて、この「記号」は血肉の通った犬の記録へと変化するのです。
本当に稀なケースですが、足跡を辿るように「関連資料」が次々と見付かることがあります。
そうやって拾い上げることが出来たのは、デヴィット・フォン・ゴーソーホー、英智、ラーレン・フォム・狼吟荘、ボドー・ハウスクヂャクソウといった犬達。
今回紹介するハツネ四兄妹も、二年前の秋までは単なる記号として見過ごしていた存在でした。
それからずっと彼等の記録を探し続けていたのですが、未整理の史料を漁っていたら遂に写真を発見。
残っていてよかった……。
2011年10月からイロイロありましたので、追加修正した記事を再掲します。
この子がハツネ兄妹の那智。
25230番目にシェパード種帝國軍用犬籍簿(KZ。正式な表記はSKZ)へ登録され、軍用候補資格(★)とKV種族訓育試験資格(K-Zpr)を有する種牡犬です。
フィラリア症が少なく気候も冷涼な当時の北海道は、犬の飼育に適した場所といわれていました。
種畜場、犬橇を使った荷役、狩猟など、各種の使役犬が活躍する地でもあった様です。
そして、軍用犬も盛んに飼育されていました。
北海道は広大なので、畜犬団体も幾つかの地域支部に分かれて活動しています。
帝國軍用犬協會(KV)の場合は、樺太支部(樺太地区)、十勝支部(十勝、根室、釧路地区)、北見支部(網走地区)、東部北海道支部(北海道北部)、札幌支部(北
海道西部)、函館支部(北海道南部)、小樽支部(小樽市、後志支庁管内)、そのほかに室蘭分會など小さな組織も存在。
日本シェパード犬協會(JSV)の場合は、北海道支部で一纏めにしていました。
他にはアイヌ犬保存會なども有名ですね。
KVはそれぞれの支部単位で競技会や展覧会を開催していたのですが、年に何度かはブロックを越えた合同競技會を開催しています。
北海道全域の全道大会から幾つかの支部共催のものまで、その規模も様々でした。
通常は自分の住む地域の支部がメインとなりますが、中にはその範囲を越えて活動していた人もいます。
わざわざ他の支部にまで遠征していたのは、離れて住む犬友たちや、全道へ散った兄弟犬の交流という目的があったのでしょう。
今回はそんな犬の話。
◆
帝國軍用犬協會が、北海道全域での合同競技會を開催し始めたのは昭和13年頃のこと。
第一回非常時北海道・樺太軍用犬展覧會がそのはしりと思われます。
この大会では、北海道の各地から飼主自慢のシェパード、ドーベルマン、エアデールが集まり、その能力を競いました。
それらの中で目立つのが、ハツネ(初音)の犬舎號を持つ「那智」「ロック」「バッダ」「ナナ」の四兄妹です。
彼らが生れたのは、札幌にある松本由戸氏のハツネ犬舎でした。
やがて、兄妹はそれぞれ違う飼主と暮し始めました。
住んでいた地域もバラバラですが、ハツネ兄妹は申合せたかの様に同じ競技会に参加しています。
首席入賞の栄冠は他の犬が攫っていくものの、ハツネ兄妹も健闘していました。
念の為ですが、「北海道の初音」であっても、某クリプトン社のボーカロイドとは一切関係ありません。
那智・ロック兄弟。
ナナ號
バッダ號
下圖№1916にあるのが、KVに犬舎號を登録されたハツネ犬舎です。
全道へ散った4兄妹ですが、定期的に札幌の競技会で顔を合わせていた様です。
当然ながらインターネットなんか無い時代。広い北海道で消息を確認する為、4頭の飼主が申し合わせて兄妹が集まる機会としていたのかもしれませんね。
おそらく、上の画像にある第一回非常時北海道・樺太軍用犬競技會(昭和13年)を最初に那智・ロック兄弟は再会した筈。初回の開催場所は小樽ですね。
この大会、東京からは荒木貞夫陸軍大臣の愛犬シトー・フォン・ニシガハラ(俳優犬)がゲストとして招かれています。
これ以降、兄妹は札幌で開催される競技会を中心に活動していた様です。
顔合わせといっても単なる家族交流会気分ではなく、競技は真剣勝負。
特に那智とロックは歴戦の入賞犬であり、昭和13年~16年の記録にかけて幾つもの大会記録にその名が記されています。
理由は不明ですが、那智は釧路、ロックは網走から遠路はるばる札幌の競技会に参加していた様です(本来の拠点は十勝支部なのですが)。
記録によると、那智號の出陳者は釧路在住の皆元武さん。
ロック號の所有者は網走郡美幌町在住の有里栄一さん。
昭和13年、最初の入賞となった第1回非常時北海道・樺太軍用犬競技會。
画像では那智の主人が「皆方武」氏となっていますが、これは誤植。
正しくは皆元武氏であるとのご指摘をいただきました。
第1回非常時北海道・樺太軍用犬競技會で、那智が授章したメダルが現在も残されているそうです。
このたび関係者様の御厚意により、那智に関する画像の掲載について御許可をいただきました。
貴重な資料をご提供くださいまして、誠にありがとうございます。
通常は「〇〇賞」あたりが印刷されている位ですが、皆元氏は授賞時のデータを詳細に書き込んでいます。
入賞の嬉しさが伝わってきますね。
因みに通常はこんな感じです。
狛犬を象ったKVメダルは他にもありますが、小豆色に着色されたタイプは初めて見ました。
小樽支部で独自のデザインを採用していたことが分ります。
※画像ご提供 おじょう氏
昭和14年後半から15年頃にかけて、那智の飼主は釧路の皆元氏から札幌市南十二条在住のブリーダーである伊地知季雄氏に変っています。
とつぜんの所有者変更は、皆元氏の大陸赴任が理由とのこと。
皆元氏と伊地知氏の間では何らかの引継ぎがあったらしく、その後の活動も以前と同じペースで続けられました。
昭和15年にはロックも網走から札幌へ移り住みます。こうして、ハツネ兄妹は故郷の札幌に再集結したのでした。
那智号とロック号が参加した第3回非常時北海道樺太展覧会。
第3回非常時北海道樺太軍用犬展覧会におけるシェパード犬部の審査風景。
下の画像は幼犬組なので関係ありませんが、成犬牡組の画像には(もしかしたら)那智かロックが写っているかもしれません。
昭和15年7月、那智は帝國軍用犬協會認定の種牡犬に合格します。
我が国の軍用種牡犬には二種類ありました。
ひとつが民間のKV登録犬を審査し、厳しい条件をクリアした個体を交配用の種牡犬に認定したもの。
那智がコレに該当します。
もうひとつが軍所管犬の中で繁殖に用いられた個体。軍犬管理規則上の「育成所犬」に該当する軍犬です。
昭和16年、那智の種牡犬認定期間は昭和18年にまで延長されました。
この期間、札幌でシェパードを交配する場合は那智が選ばれたという事。那智の子供もたくさん生まれた筈です。
もしかしたら、那智の血を引く犬が今も何処かで暮らしているかもしれない……、などと想像するのも楽しいですね。
戦時下の犬については悲しい話ばかり聞かされているのです。
偶にはこんな妄想くらい許してください。
因みに、ハツネ兄妹が札幌に拠点を移した頃のKV札幌支部には、NHKドラマ「さよなら、アルマ 赤紙をもらった犬」のモデルとなった軍用犬アルマ號と飼主の江上雅巳氏が在籍していました。
おそらく、昭和15年の秋までにアルマは戦地へ出征したと思われます。配備されたのが札幌の第25連隊だとすると、出征先は樺太方面ですかね?
当時の札幌でハツネ兄妹とアルマが邂逅したのかどうか、記録は残っていません。
●KV種牡犬の認定期間を更新された那智。所有者が皆元氏から伊地知氏へ変っています。
繁殖を優先される種牡犬は、軍部の調達対象から外されるか後回しにされていました。
また、札幌を代表する在郷軍用犬として、那智・ロック兄弟は各種軍用犬研究にも参加しています。
各支部の在郷軍用犬による持久走・傳令・臭気追跡などの研究成果は整理分析の上、軍犬の訓練運用技術に反映されていきました。
札幌支部の臭気追跡研究に参加した那智。昭和16年
札幌支部第三回展覧會では、ロックと那智が兄弟揃って入賞。
札幌へ移り住んだ那智とロックは、やがて小樽支部や本州で開催される大会にまで活動範囲を広げていきました。
ロックは道内各地へ遠征、那智も宮城県仙台市で開催された全国大会の出陳リストで名前を見掛けました。
●小樽支部の展覧会に参加した那智。
中には少々気になる記録も。
太平洋戦争へ突入した昭和16年末、那智の健康状態について下記の様な指摘があります。
栄養不良の割に、しっかりと帝國防衛犬試験(K-SchH)に合格していますね。
米穀などの食料が配給制となった昭和16年。
那智の栄養状態には、当時の食料事情の悪化が影響しているのでしょう。
伊地知さんも那智の飼料確保には相当苦労した筈。しかし、個人の努力ではどうしようもない時代でした。
この頃から、帝國軍用犬協會の各支部は行政側に対して軍用犬種への飼料配給交渉へと動いています。
「軍用犬には国家が餌を支給してくれた」という通説はウソで、犬用飼糧配給の可否は各地方自治体との交渉次第。
中には配給を受けられなかったKV支部も存在した訳です。
昭和15年を最後に海外からの畜犬輸入ルートは途絶し、印刷用の紙資源、犬の移動に要する燃料も不足していきました。戦時下の日本では、犬の展覧会も次第に先細りとなっていきます。
ペット店で愛玩犬が売られていたのは昭和18年まで。
昭和17年以降は犬の記録自体が激減、18年~19年にかけて日本シェパード犬協會や帝國軍用犬協會も次々と活動を停止します。
日本が破滅へと向かっていった戦争末期、人々は日々を生き延びる事で精一杯でした。
そんな状況下で、犬を顧みる余裕など無かったのです。
こちらは札幌で開催された家庭使役犬訓練競技会。
競技會風景。
出場を待つ参加者の面々。
実は情操教育も熱心だった時代。札幌の子供達も犬の競技会を見学しています。
ロックの活動が確認できるのは昭和17年まで。ナナたちの名はそれ以前から消えてしまいます。
ハツネ兄妹の中で、最後まで活躍し続けていたのが那智でした。
昭和17年の展覧会では遂に首席で入賞。
そして、昭和18年9月の競技会参加が、私の手元にある資料では那智に関する最後の記録となります。
オメデトー。
昭和18年、那智に関する最後の記録。
戦争末期の資料は欠落しているものが多く、正確に調べるのは不可能。
おそらく、那智はこの後も活動を続けたのでしょう。
戦争末期は、日本畜犬史上で最悪の時代となりました。
昭和14年、軍需毛皮不足を解決するために商工省は野犬の毛皮を統制下におきます。
以降も原皮公定価格の低さから軍需毛皮生産は減少の一途を辿りました。
太平洋戦争突入後、毛皮不足は深刻化。
野獣や海獣、そして一部の自治体では飼犬や飼猫にまで対象が広げられました。
昭和19年末、厚生省と軍需省(旧商工省)は、「軍用犬・警察犬・狂犬病豫防注射済の猟犬、天然記念物指定の日本犬」を除く全ての飼犬を供出対象として認可。
これが、悪名高き戦時犬猫献納運動の始まりでした。
昭和20年1~3月にかけて全国で多数の犬が殺処分され、更には空襲と食糧難が追い討ちをかけました。
戦争最後の年、犬に関する記録は殆んど残っていません。
何処かに手掛かりが残っているとよいのですが。
戦後、日本シェパード界は北海道などに残っていた個体を元に再起します。
その復興スピードは驚くほどでした。
終戦から僅か数年で全国各地のシェパード団体が復活。各種畜犬団体の統合計画まで立てられています。
こうして新時代のシェパードたちが誕生していく中で、「戦中世代」の犬達は人知れず姿を消して行きました。
ハツネ四兄妹も含めて。
大陸から戻った皆元氏ですが、愛犬との再会は果たせなかったそうです。
◆
忠犬ハチ公はともかく、普通の犬達が生きていた証は飼主個人の大切な思い出として消えていきます。
戦時下の北海道に暮らした4兄妹についても、私が捜し出せたのは断片的な記録ばかり。
ただ、それらのカケラを繋ぎ合わせれば、遠い昔に暮らしていた兄妹について知る事ができるのです。
日本の畜犬史は、軍犬武勇伝や忠犬美談だけで作られている訳ではありません。
狂犬病や動物虐待や戦時犬猫供出といった惨い史実ばかり集めても、それは歴史の一面に過ぎません。
日本の畜犬史とは、無数の犬達やそれに関わった人々、畜犬団体、動物愛護運動、ペット業界、獣医学、宗教、行政、国家にまたがる膨大かつ種々雑多な出来事の集積です。
それらを無価値なモノと切り捨てた結果、我が国の大切な近代畜犬史は思考停止状態に陥りました。
金太郎飴みたいなハチ公論と的外れな軍犬談だけが、壊れたレコードの如く繰り返されているのです。
そうやって切り捨てられた欠片を拾い集めるのが、このブログの役目なのだと思っています。
まあ、使命感ではなく単なるシュミですけどね。
薩摩ビーグル
いぜん薩摩犬
の記事で取り上げましたが、薩摩ビーグルの起源については「明治30年代の川村さん」など諸説ある様です。
洋犬は明治20年代までに全国へ勢力を広げており、同時期に西洋式のレジャーハンティングも大流行。
それらの猟につかうポインターやビーグルが南九州へ持ち込まれていていたところで、何の不思議もありません。
古来の習慣を守り続けた猟師も少なくないのですが、明治中期のハンターは随分と近代化されていたんですよ。
今回は、大正初期の鹿児島でビーグルを猟に使っていた記録を。
明治時代もこんな感じでビーグルが広まり、鹿児島に定着したのかもしれませんね。
薩摩ビーグルとは関係ないですけど、大正7年撮影のビーグル。
大日本猟犬商會 田中浅六獣医
近頃の狩猟家は猟季になると銃を肩にして洋犬とも和犬ともつかない何が何やら殆ど鑑定がつかない犬を連れて居て、雉子や鶉の沢山を獲る事の出来ないのは銃が悪いのであるとか何とか叱言を並べるが、これは大きな間違であらうと思ふ。
無論其の獲物の多少は射撃の上手下手にもよるが、其の猟犬の技能如何に関係する事又大なりと余は信ずるのである。
猟銃に一千金を投ずるより猟犬の良きものを選ぶ事が第一必要である事は、余が此處に喋々せずとも汎く狩猟家は同感であらうと思ふ。
一例を挙げて見れば、或る猟場に於て二羽なり三羽の雉子の居る事を知つて出掛ける。
ところが其の時に自分の愛犬が主人の何處に居る事も殆ど知らぬかの様に走つて行き、メチヤ〃に此の雉子を追ひ飛ばして仕舞つたら、折角目指した獲物は一羽も我が嚢中へ入れる事は出来ない。
これは云ふ迄もなく犬の芸が熟練して居ないからで、若し此の時に良犬を所持して居れば、ポインター種ならばポイントを、セツター種ならセツトをして主人の命令を待つて居たであらうに。
余の家は代々猟を好み、猟犬は飼つて居たが五六年前迄に父が洋犬を嫌ひ和犬のみを猟に使つて居た。
余が或る知人から純洋種のビーグルの牝犬を一匹貰つて来た。
未だ生れて三ケ月と経過しない耳の長い可愛らしい犬であつた。
父はこれを見て余に向ひ洋犬は飼つてはいけないと厳命した。
然し余は此のビーグル種を手放すのは何となく可哀想でもあり且つ其の兎猟に先天的の技能を持つて居ると云ふ事を友人から聞いて居るから、今に父を驚かしてやらうと父の命令にも従はず不相変愛養して居た。
段々成長したので兎猟に訓練し様と猟場に連れて行くと、其の上達は豫想以上で兎を追ひ出してはこれを飽迄追及し、約三時間にして自分より大きい五六百目もある兎を捕る事があつた。
其後父が強情を張つてあの洋犬を未だ飼つて居る様だが兎を追ふかいと余に聞いたから、追ふ追わぬどころぢやーない連れて行つて御覧なさいと答へた。
其翌日、父と共に余は此ビーグルを連れて出猟した。
父の連れた和犬との比較にて勝利を期待して、余は何となく愉快であつた。
ビーグルは猟場へ行くと最早兎を見出して追鳴し乍ら追及して居る。
父の連れた和犬はと見れば未だ兎を探しあてない。此一日の猟はビーグルが五羽の兎を獲さして呉れたのに對し、和犬は僅二羽であつた。
五對二で見事にビーグルの勝利。
父は遂に降参して、和犬を廃し洋犬を使用する様になつた。
此犬即(すなわち)ビーグル種が来てからは余の家の近辺には兎が少数となり三里も四里も行かねば面白い兎猟が出来なくなつたので、近村の狩猟家も迷惑して居る程である。
此辺から推しても猟犬の種類は選ぶべきものだと痛切に感じた所以である。
鹿児島日報社 上田要熊「猟犬には洋犬を撰べ」より 大正7年
スターターピストル
猟犬の足の速いのには腰部へ射撃を加へるのに限ると云ふ事を、或る其の途の通がる人から聞いた。
某君自分の愛犬に試みた。
驚いたのは愛犬で、スコンと云ふ音響と共に御尻へ激痛を感じたので、傷は間もなく治癒したが夫れからと云ふものは銃の音がすると恐怖し、遂に猟犬の用をなさなくなつたと云ふ事である。
「訓練失敗話の一」より 大正7年
馬鹿な親分を持つと子分が苦労するという一例。
足枷
犬は及ばぬ足を億劫さうに獲物を捜索する為に山へ入つたが、いつまで経つても山から出て来ない。
吉田氏も心配になるから其の山へ入つていくら犬を呼んでも如何しても居ない。
居らぬも道理、犬は足へ結びつけられたる紐の為に動作の自由がきかぬ為、何十丈の崖下へ落ちて死んで居た事が跡で判然つた。
早速神戸の某に向つて談判したけれども、教へる方が悪いか教はつた方が悪いのかと友人に注告されて、成程と兎に角愛犬の死を諦めたと云ふことである。
「訓練失敗話の二」より 大正7年
脚が遅いから愛犬に発砲してみた名ハンターに続き
脚が速いから愛犬に足枷を付けてみた名ハンターも登場。
こんな吉田さんですが、幸いにも友人には恵まれていた様です。
……「神戸の某」って、当時有名だったK猟犬学校とかT訓練所のことじゃないですよね?
飼養犬届
春秋二季の候は野犬の蕃殖著しき頃で、此の飼主なき犬より受くる被害大なるは一般人士の均しく感ずる所である。
茲に於てか當局者として之が駆除を為すべく所謂野犬狩を遂行してゐることは其の當を得たもので、市民としても之れが激励を為さゞるを得ない次第である。
然し乍ら此の飼養者なき野犬の外に犬自身何等生活の不安なく生活し得る庇護を有する、且つ年々飼主より多額の租税をも拂つてゐる飼養犬にして往々野犬と均しく取扱はるゝことのあるは、吾人が物質以外に一の家族として愛撫せる上より之れが當局者の不注意―否用意の足らざる無謀ともいふべきか―を歎かずには居られない。
尤も野犬狩の行はるる時期には殊に特別の警戒も呉へられてはゐるのだが、何しろ畜生のことゝて何時鎖や綱を放れて飛出さないとも限らない。
仍ち斯る場合に於ける備への為めに所謂飼犬の特長を列記せる飼養犬届なるものが納めてあるので、吾人は直ちに之れを以て當局に其の保護方を要求し得られ、且つ又充分の保護をも受くることが出来るものと信じてゐた。
然るに右の飼養犬届の手続を踏んで飼養し居る犬を連れて道を行く途上、圖らずも之れを強奪されたといふことは時折あることで、数日前も予が或る路傍にて子供を連れた一婦人の慟哭してゐるのを見たが、よく事情を聞けば仍ちそれであつた。
飼養犬愛護の意味からして、吾人は切に當局の反省を促す。
岡山市 OE生「野犬狩に就て」より 大正7年
投身
兵庫縣下武庫郡〇〇村字〇〇、向泰三の妹ふく(二十三)は、五年前より憂鬱症に罹り精神に異状を来して神戸精神病院に入院加療中、一時全快し居たるも、本年三月初旬實兄泰三が重病にて東京帝國大学医科大学付属病院に入院してより之れを心配する余り又々病勢募り、遂に十九日夕刻七時頃、家人の不在中愛犬を連れて無断家出せるより家人は大に驚き、八方手分けして捜索中、二十日午前五時頃付近の山中に於て愛犬の姿を発見したるより、ふくは多分付近に潜伏し居るに相違なしと目星を付けたるに、愛犬は捜査人の着物の裾を咬へてとある溜池の土手に逃れ行きたるが果して溜池の北岸にふくの下駄が脱ぎ捨てあり、愈々怪しと早速溜池中を捜したるに、死後数時間を経過せるふくの屍體を発見せしかば直に引揚げ、其の筋に届出たれば、警官は付近の村瀬医師と共に出張、検死を遂げ引渡したり。
縁生「愛犬主人の投身を知らす」より 大正7年
逆鉾与次郎(7代関ノ戸)
鹿児島出身のお相撲さん。
とはいうものの、愛犬は薩摩ビーグルではないようです。
大正7年撮影
愛犬家の力士といえば、江戸時代にこのような話が残されています。
今より僅十四五年ばかり以前、浪華の江南にて何某とかや名乗る角觝人(すなとり)、他國の相撲の興行あるによりて、未明より家を出て旅立けるが、折ふし狗賊両人一疋の犬を双方よ指挟んで、既に打殺さんとす。
此角觝人これを見るより両人の狗賊をさゝへ、是を價を以て買んとて、この犬を助けける。
斯て其價を定め、行嚢(うちがへ)より金を出して與へける。
此時狗賊ハ其の行嚢に用意の金子、若干あるに悪心發り、両人たがひに目くばせしつ、双方より欺し打にぞ撃殺しけり。
あはれむべしさしもに力者の丈夫なれども、狗賊のために空しく横死を遂るぞ無慙なり。
(中略)
前の続
偖も余後(そののち)二年ばかりを経て、公の罪を犯せしものゝ刑罰に行はるゝありて、浪華の市中を引渡さるゝ砌、此罪人をさし担ひ行く者あり。
此罪人ハ御調べ中に牢死せしゆへに、塩に漬け有るを、罪科みはまりて刑に行ひたまふゆへ、桶に入て〇〇の者に荷はせ引渡すなり。尤も〇〇の中にて殊に賤しき者、これをかき荷ひ行くなり。
時に先年角觝人の横死せし傍邊を通行するに、何方よりか来りけん、一疋の犬現れ出て、彼罪人を担ひたる者にとびつき、袖を銜へて頻りに引き放たざるに、警固の人〃不審ながら、漸くに追ひ退くるに、犬は大に吠めぐりて、行方しらず成りにけり。
斯て刑罰の仕置すみて後、其時役目に立せ給ふ武士、はじめより右の形勢を甚不審(いといぶかし)く思はれしゆへ、下官(したづかさ)に命じて此の者を搦め捕らせ、強く拷問ありしかば、豈はからん先年角觝人何某を殺し、金を奪ひし狗賊にして、其一條落もなく白状に及びしにより、偖は彼角觝人に助けられし犬の恩義を能知りて、敵(かたき)を訴へしこそ感ずるに有りと。
公にも只管賞美しとなん。斯て今一個の同類をも直に召とり、厳く刑に行はせ給ひしとなり。
實や唐土本朝と萬里の山海を隔つれども、其事のよく相似たるぞ奇といふべし。
尤も人情に古今なしとは雖も、いにしへ人の正直なる、當世(いまのよ)の人心邪なるなど、人気におきては其違ひ少なからず。
爾はあれど畜類に於ては、聊も古今の差別なく、犬よく恩を知り仇を酬う事、人にも勝る事どもなり。
彼は古に変らざれども、人気は世〃に同じからず。
嗚呼いたましい哉、浪華に生るゝ犬狗、天命の畜齢を保たずして、悉く狗賊の為に害せらる。
憐むべきの至りなり。
暁鐘成「犬讐(あだ)を訴へて恩を報す」より 嘉永7年