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ニューファンドランド

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使役犬・水難救助犬としてのニューファンドランドの能力は、我が国でも明治時代から知られていました。
明治35年の「犬の博覧会」、明治43年の「犬の話」などにも、この犬の武勇伝が載っています。


帝國ノ犬達-ニューファンドランド
大宮季貞「感ず可き犬の實話」より 明治43年



大正時代の警察犬関係者は、警察犬を「探偵犬」「警邏犬」「水難救助犬」に分類していました。
このうち「水難救助犬」は欧州警察の使っていたニューファンドランドを意味していた様です。

さて、ニューファンドランドが来日した時期はいつでしょう?
日本の貨物船でこの犬を飼っていたという戦前の記録ならあります。
しかし、当時のペット商カタログでは見かけないんですよね。

ニューファンドランドの歴史を取り上げたサイトでも、どうせカナダやアメリカの話しか載ってないんだろうな。
そう思って検索したらその通りでした。

仕方無いので、我が国のニューファウンドランド史をテキトーに漁ってみました。
手許の史料で、一番古い来日の記録はコレ。

「曩に渡欧した東京猟話會々頭、後藤新平男爵は桑港(サンフランシスコ)で一疋の番犬を購入された。
種類はニユウフアンドランド種らしいが、兎に角大きなもので生後二ヶ月、身丈が二尺、長さ三尺、足の太さの周囲の寸法が六寸あると云ふ。
其の祖父に當る犬は仏蘭西で四十二人の人を救助した名犬、父犬は元に桑港に於ける犬の品評會で第一等賞を得たる優犬で、人間一人を宙に吊して歩くと云ふ。
此の種の番犬の特徴は、人が近づけば吠へて、尚留まらざれば其の衣服を咬へて門外に出し、尚従はない時は初めて咬みつくと云ふ。
既に此の犬は四月十五日にコレア丸で横濱に無事に到着した」
「後藤男爵の買つた番犬」より 大正7年


……いきなり有名人が登場したのですが。



沙河会戦 従軍記者 明治37年

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十月卅日
支那の民舎、便所の設けなく、我等をして大に辟易せしむ。
寒天野田に臀を曝し日光に對して屈むなど、きまりの悪さ加減一方ならず。
これでは堪らぬ故、早速戸を集め、戸棚を以てし漸くにして便所なる。


帝國ノ犬達-沙河会戦

十月卅一日
暁發獨り紅寶山に登りて戦況を遠望す。
彼我の砲弾發又發、其光景言ふべからず。
ノートを収め帰途につく。一里余にして満洲犬の包囲に遇ふ。
大喝すれども去らず、石を投ぐれども逃ず、棒打すれども寸毫も動かず、牙を現はし咆哮しつゝ我に向つて迫る数尺、腰間のピストルに弾を込むるに暇あらず、百計盡き、遂に君子危きに近らずの法を取つて一散に……。

十一月一日

結装暁發張良堡の第一線戦を観る。
張良堡に近づくに従ひ、数丁に渡れる塹壕を辿る。行くと僅にして砲声を聞く。
我始めて恐怖の念を生ず。

十一月二日
沙河の會戦後十数日、日露兵の死體既に取り運ばれ、田野所々に小丘のあるを見る。
其頂に十字形の木標あり。
我此積土の墳墓を見て感慨胸に迫る。
一枝手向けんか、平沙百里、茫乎として枯花だになし。

イラストと文・蘆原緑子「絵畫日誌」より 明治37年

日本魂犬

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帝國ノ犬達-日本魂犬
昭和9年の広告より

昭和初期からようやく始まった日本犬保存運動は、滅びかけていた日本在来犬種をギリギリで救うことに成功しました。
消えゆく日本犬を復活させるため、日本犬愛好家たちは利用できるもの全てを使います。
当時華やかだった国粋主義もそのひとつ。
狆に続く「国犬」として、日本犬には大和魂が押付けられたのです。

それをひとつの手段と割り切っていた人もいれば、頭から信じ込んでいた人もいました。
外国盲拝への揺り戻しとして鹿鳴館時代の終焉と共に勃興した国粋主義は、「外国文化と日本文化は対等の價値がある」という自国の再評価へ、そして「日本文化は外国文化よりも優れている」という偏狭なドングリの背比べへと変化していきます。

残念ながら、日本犬の世界でも内向きへの流れは同じでした。
「大和魂犬」なる大仰かつトンチンカンなPR手法もその一例。
いっぽうで……というよりは日本犬保存運動の本流として、日本在来犬種を世界犬界の序列に加えるべく奮闘した「外向きの人々」もいたんですけどね。

マルチーズ

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帝國ノ犬達-マルチーズ
昭和9年の広告より
日本でも「マルチーズ・テリア」と呼ばれていた時期があったんですねー。



トーイ・ヴラエチイーの内では最も古い犬種に属するものであり、我國でも可なり早くから愛育されて居た。
それが怎うしたことか、近来急に影を潜めて、街頭などでは殆ど見受けることが出来ず、僅に二三の共進會で数頭を見掛ける位になつて了つた。
此はこの犬種に愛玩價値がないからではなく、兎角ものに飽き易い我が國民性に災ひされたものとでも謂ふべきであらう。
殊に此犬種は観賞を専らにするものであるから、其犬が美しければ美しいほど、手入れ即ちトイレツトに格別の注意を要する。
所が御犬様の往時から相當にドツグを手掛けては居るものゝ、各犬種の特性を研究して或る犬種に特別の愛着を持つと云つた風の飼育をするのでない我國の謂ふ所の愛犬家は、マルチースに要する格別の手入方を習得實行すると云ふやうな七面倒臭いことは御免を蒙ると同時に、犬そのもの迄に愛想をつかすと云ふ情ない状態に陥つて、遂に此犬種は日本のドツグダムに影を薄ふするに到つたのである、と主張する穿ち屋も居るとか。
何にしても昭和八年の我が犬界は此犬種の極度の受難時代であつた。
それでも幸に神戸や福岡にはまだ〃立派なマルチースが幾頭かは居る。此等優良な此犬種を愛養して居られる方々は、戌歳即ち犬の年である昭和九年に、愛すべく美しいマルチース進出の為めに特別の努力をせられてはどんなもんぢやろかい!?

「昭和8年の犬界を顧みる」より 浅黄頭巾

無能と罵る人々へ・大正の警察犬より

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日本警察犬の父といえるのが、警視庁の荻原澤治警部
大正初期から彼が運用していた警察犬達は、周囲の無理解と過剰な期待への反動から「探偵犬無能」と罵られます。
そして大正8年、警視廳初の直轄警察犬制度は廃止されてしまいました。

現代の日本畜犬史でも、警察犬の知識すらなかった時代の偏狭な新聞報道を根拠に「戦前の警察犬は役立たずだった」などとする批判が見られます。
そういう無知で不公平な評価ばかりだと判官贔屓もしたくなりますので、当ブログでは大正期の警察犬出動事例などを取り上げてきました。

手元の史料を調べたうえでの私の評価ですが、お世辞抜きで戦前の警察犬達は立派に働いていますよ。
中途半端な調査では、「警察犬無能」と書き立てた新聞記事しか目に入らないのでしょう。
山岳戦に投入された台湾総督府の蕃人捜索犬
スターやバフレーといった大正の警察犬
ベル公やアヤックスといった警察犬空白の時代を支えた犬たち
銃後日本で犯罪捜査に従事した戦時の警察犬
戦後復興期の治安を護った国家地方警察の犬たち
彼等の実情すら知らないくせに、よくもまあ無能だ何だと断定できますね。

警察犬制度が廃止となった年、失意の荻原警部は警察犬スターに名を借りた反論を展開しています。
周囲の無理解に潰された、先駆者としての精一杯の抵抗だったのでしょう。
荻原警部に手を差し伸べたのが、この年から軍用犬研究に着手した日本陸軍歩兵学校でした。
警視廳警察犬たちの一部も、歩兵学校へ寄贈されたと思われます。

因みにスターは実在の大正警察犬で、荻原警部の同僚である星加警部の名を取ったもの。犬種はグレートデンでした。



瘠犬君が警察犬廃止の事を云はれたが、夫れは少しく誤解に非ずや。
警視廳が犬の能力試験を始めたのは大正二年の春以来だ。
成程同君の云はるゝ如く最初は能力試験の事故(ことゆえ)、猟犬商會主人田中氏の撰抜して寄贈せられたる怜悧なる牡犬(※リリー號 )と、英國輸入のコリー種牝犬(※バフレー號 )の二頭を以て試験的に教育を施したるが、此二頭の如きは我輩(※スター號 )の米國ルイジアナ州の警察署の父母や祖父母の膝元を離れて遠く日本の東京に来りし大正四年の春は、立派な警察犬(けいさついぬ)として活動出来る様になり、事件発生後七時間位の間に発覚せる事は見事に嗅ぎ別ける様になつて居ましたが、何しろ警察の組織が欧米と違ひ、一般人の頭が亦更に動物利用などと云ふ事に進んで居らぬ為め、可惜(あたら)能力を持ちながら之れが利用をなす事が出来ず、残念に日を過して居たのです。

其處へ我輩は来る、又獨逸種の警察犬の仔犬が来て、夫れ等が教育を受ける様になり、又其外にも種々の犬を試験して見たるが何れも一長一短あるも、有る程度迄は警察犬として使用出来るのですが、何分之れを使用する警察官其人に乏しく為めに残念ながら立派な警察犬も淘汰して、目下では我輩の主人方に我輩とコリー種と欧米各國にて現今飼育する警察犬の総数の七分を占むる(残余三分が各種類の犬属の合計にて占むるもの)シエツパアド種(一名狼犬種)牝牡二頭の計四頭と、九段坂上にエーヤデールテリヤ牝牡二頭居ります。

而して我輩と雖も日本に来て以来、傷人強盗犯、窃盗犯、賭博犯等の犯人は数名之を捕へ、自殺未遂者も二名は救助して居ます。
又狼犬種のネリー嬢の如きも上野山中で少女に怪しかる振舞をなし之れを誘拐せんとした悪漢を捕へ、又自殺未遂者を救助する等の功績あり。
コリー種のバフレー嬢の如きも、彼の有名殺人犯にて一時満都を騒がしたる鈴が森の砂風呂の娘殺し事件に付き顕はしたる功績の如きは實に立派なものでした。
之等功績は皆官の公記録にあるものを追て詳細に掲載する事にします。

又、警察犬の廃止は下馬評でありましやう。
我輩は遠く父母の許を離れて日本に来まして現主人に就たので、別に警視廳に召抱へられたのではありませんから、生命のあらん限り本然の警察犬として日本に御奉公する所存です。
又他の警察犬諸君も同様と思ひます。
特に申上度事は瘠犬君は他の方面の事は先づ我輩は知らぬが、警察犬の事に就いて欧米の事を研究せられたる事ありや否を疑はずには居られません。
成程ブラツトハウンド種は嗅覚力は鋭敏です。
乍併(しかしながら)純種は是非一度實見したいと云ひ居らるゝ位、此近くでは支那の北京に一頭居るとの事に、夫れを試験の為め昨年同地に迄赴くとの事でしたが、排日騒で延期し居るもの。
此位有力な種類であれば、吾輩を米國から連れて来て主人に附與した様に誰か輸入して見ては如何です。

却説瘠犬君は欧米で教育した犬を連れて来ては如何と云はれるが、猟犬の如く単純な者なら知らぬ事。
警察犬の如き複雑な事業に當る者は欧米に於ては教育を開始してからは犬舎を変ずるも宜敷からずと称し、必ず移動式犬舎を建設して勤務所を変ずる時には犬舎も共に移転建設する位に注意しあり。
従つて教育當時より一定の使用者を極め、中途より使用者の変更は厳禁しある位なり。
然るに他國にて教育を施したる者を輸入して直ちに役立つとは實に愕き入りたる見解。
要するに欧米人の犬に對する見方と我國人とは余程隔りあるものと思はる。
而して二萬余圓捨てたとの方言は尚ほ更驚き入ります。

最初にブラツトハウンド種の仔犬を買入れたとしても食料は必要でしよう。
数頭又は数十頭の試験用犬に對して役所として一ヶ月現今の物価で五十圓内外ですから、如何なる採算も瘠犬君の如くにはなりますまい。
又警察犬が出来て居るか出来ないかは、一度上野の山へでも遊びに来た序手(ついで)に我輩の所へ寄つて實見した上で世間の人に表白したまい。
我輩の主人は快心で従来の研究と現在の有様は御目に懸けると云ふて居ます。

終りに愛犬家諸君へ、警察犬と云ふも用法上の分類は種々あり。
又之れを使用する國々に依り各特異の状態にあるが、ある程度迄は勇敢な怜悧な犬でさいあれば教育する事が出来ますから、比較的簡単な事業を少しづゝ教へて御覧なさい。
教育法等は御望みに依りては余白を借りて発表します。
又欧米各國の警察犬史中、古今獨歩と云はれる名犬「ラツシエ」號は雑種犬でありました。
夫た故警察犬は何種類に限ると予断してかゝるのは智恵のない話し。
夫れよりも自分の用ひ方に適すると思ふ仔犬を撰澤するか、捷径若し自己に其経験が薄ければ其道の人、乃ち田中氏の如きに依頼撰擇するが萬全なる策と思ひます。
尚ほ次號には田中猟犬商會の寄贈に係る牡犬リゝー號の伝記を掲げ、尚ほ我國各縣の警察犬の概況を報告します。
軍用犬も目下我陸軍で盛んに研究中です。

荻原澤治「瘠犬君に答ふ・警察犬代表スター號」より 大正9年



大正時代の警視廳がシェパードの配備を計画していた事実は初耳です。
日本陸軍が最初に採用したシェパード「恵須」「恵智」の二頭は荻原警部が寄贈したんでしょうね。
謎の歩兵学校警察犬ネリーの名前が出て来たのにも驚きました。

大正九年八月度の歩兵学校の記録 を見ると
一、現在収容犬数
【獨逸番羊犬】ニ頭 
恵智號、恵須號 其の他ネリー號(牝、委託管理中の警察犬)ネリーの仔5頭(うち死産3頭、生後死亡1頭)

とあります。
「何で日本陸軍に警察犬がいたんだろう?」とずっと不思議だったのです。

荻原さんの取組みを評価したのは、科学的な鑑識捜査の導入を主張する一部の警察関係者のみ。
昭和12年に警視廳が警察犬の再配備を決定したとき、荻原警部は世を去った後でした。
そして21世紀の現在も、荻原さんの警察犬達は「探偵犬無能」と不当な評価を受け続けているのです。

警察犬無能と揶揄する全ての人々へ、警視廳警察犬スター號からの反論でした。

犬の謄本

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拙犬、今度軍用犬候補の試験をパスしたのですが、その手続きの為區役所に出頭致しました所、謄本を提出せよとの事でした。
謄本とは如何なるものですか。お尋ね致します。
尚區の吏員も判つきり知らない様でした。
東京 M・N生


御問合せの軍用犬候補合格犬の謄本と云ふのは、人間の戸籍謄本の様な意味ではありません。
此の場合の謄本と云ふのは、軍用犬候補合格證明書の写しと云ふ意味です。
東京府の吏員にも瞭り意味を解さず写しを提出しても謄本でなければ受付ない人がありますが、その倍井此の由を申して届出下さい。
KV庶務課

昭和10年

営農犬

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戦時下の燃料不足を理由に「農作物の輸送に荷役犬を活用しよう」と提唱されたことがありました。
その資料を探しているのですが、何處へ行ったか見当たりません。
取敢えずソレっぽいお話で誤魔化しておきます。



僕の近所に青物市場が未明から晝近くまで立つ。
こゝには付近の農家が自分の畑から生産したものを運んで来て大変安く売るので人出は中々多く繁昌して居る。
この農家の青物を市場へ持つてくるのは馬車か人力の荷車かであるが、この荷車の多くには一頭の犬が協力して居る。
そしてこゝに集るこれらの犬の数は一〇〇位もあるであらう。
この多数の犬は又實に千差万別の雑種であつて、中には全く異様なものすら発見される。
が併し例へどんな形態であつても使役犬―曳犬―としては立派に其職分を果して居るので人間界に寄与する點感謝に堪へない次第である。

これがみな純血のシエパードやエアデール等であつたら、何んともいへない美事なものであらうに。

世の中には働かねばならぬ使命を持つた犬種でありながら飼育者が無智のために働らかしてくれず、嫌である安逸を強ひられて居るのが相當に多いのである。
犬としては無念至極切歯扼腕して居ることであらう……。

次に厄介な存在は所謂野犬である。
戸毎の勝手口をのぞいて盗食し、子供を襲ひ、自転車に吠え、犬同志喧嘩をはじめ、シーズンには途上何れの場所でも實行して居る。

以上二種の犬は何んとかしなくつてはならん。
この第一の方は飼育者の自覚によつてその用途々々に適する様使命を全うされるとしても、第二に属するものは一體どうしたらいゝであらうか。
こんな犬のために消費される費用、被害額を合するならば、相當な巨額に上ることであらう。
声を大にして「駄犬亡國」を叫ぶ者があつていゝ筈である。

かうした犬があるために、真面目な愛犬家が「たかゞ犬のためにアレは何事だ。このセチがらい世の中に、實に贅沢至極だ」と、犬を医者にかけることを罵しられたりするに至るのである。

と、かう議論にして仕舞つたが、話は後に戻つて……
こんな引犬を毎日のやうに見せ付けられて居るので、僕の犬(目下エアデール一頭しか居らぬ)にも橇を牽かせることを訓練してやらうと思ひ付いて、子供の手橇と竹棒を紐で結び付けて、二日間やつて見たら、立派に及第した。
この橇をもう少し工夫したら一層よく出来るだらう。

僕は北海道総鎮守札幌神社の付近に住んで居るのであるが、こんな橇の稽古を犬にさせてから二日目が、十二月一日であつた。
月の一日と十五日とは、早朝から神社に参拝する人の多い日である。
変な犬が(まだ當地ではエアデールは珍らしい)変な恰好で、可笑しな橇を引いてるのだから、皆ふりかへつて見ながら通り過ぎて、何んだかさゝやく声が聞へる。
花柳界らしい娘さんから「オヂサン乗せて」などといはれる。
そんな何處の馬の骨だか判らぬものが乗せられるものか。僕には可愛い十一歳の子供が一人居るのだから。
これを乗せて遊ばしてやる。
子供の嬉戯して居る様を見ると實に愉快である。

そうこうして居ると、そこへ高松さんがアルノーを連れて運動に来るのに出会った。
シエパードは勇ましい。エアデールもいゝがシエパードもいゝ。
この二頭は仲好である。早朝の處女雪の中をとても面白さうに飛び廻って、上になり下になりまろびあつて、雪達磨になつて仕舞つた。

かして雪によく馴れて、この頃の零下八度といふ寒気を物ともしない犬でなければ、諸君!諸君!
軍用犬にはなりますまいぞ。

安達一彦「ほつかいだうだより」より 昭和10年



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専門家のインタビューなどから、菌やウイルスの特徴と対策をご紹介します!

2013年6月度月報

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私の悩みは物覚えが悪い事。
忘れっぽいと仕事上でも差し障りがありますし、このブログで使う史料を探し出すのもひと苦労です。
脳ミソのメモリは増設できないので、低スペックの人生を歩むしかありません。

そういえば自分が覚えている一番古い光景は何だろう?
アレでもないコレでもないとうんうん唸りながら辿りついた映像は、バケツの中で泳いでいる二匹のナマズ。
場所は幼稚園へ上がる前に住んでいた家の庭先で、ナマズはおそらく父が釣って来たのでしょう。
ヒゲの生えたナスビみたいな生物のイメージは強烈でした。その刷り込みのせいか、私にとってのナマズは「特別な魚」となったのです。

それから数年経った小学生の頃、都会から田舎の町へと転校しました。
転居先の近くには綺麗な川が流れており、オイカワやカワムツの群れが泳ぎ回っていました。
図鑑や水族館でしか見たことのない光景が目の前に広がっているのです。私は完全に舞い上がってしまいました。
いままでドブ川のザリガニしか知らなかったのです。無理もありません。
それから毎日、下校途中に川へ通っては魚を追い回すようになりました。ナマズと再会したのもこの頃です。
当然ながら学校の成績は急降下。遂には無慈悲な担任から川遊び禁止を言い渡されました。
青菜に塩状態の私を憐れんでか、同級生のマツザキ君が勧めてくれたのが友田淑郎著「琵琶湖とナマズ」。
図書館でそれを読みながら、私は感動に打ち震えました。
おおおおおお!こんなところに俺の同志がいた!!
俺は間違っていなかったのだ(勘違い)!!!
俺にだってあんな大発見が出来る筈(更に勘違い)!見ていてください友田先生!
困った事に、続いて読んだのが開高健の「オーパ!」だったんですよね。アマゾンがナマズ天国であることを知って、私の中二病はますます悪化。
「将来はブラジルで漁師になるのだ」とか本気で思っていました。
“一冊の本との出会いで人生が変わる”などと申しますが、マヌケな方向へ変ることもあるんですねえ。

しかし、生来の怠け者である私のこと。
友田先生のようにビワコオオナマズ級の発見へ至るための努力もせず、松坂實氏のように現地へ渡ってインペリアルゼブラプレコを発見する行動力もありませんでした。
かといって熱が冷めた訳でもなく、現在に至るもナマズとの付き合いはホドホドに続いております。



もう一冊、私の人生を変えた本があります。
それが学研まんが「イヌのひみつ」。
子供向けの漫画ですが、私にとっては一番大切な本かもしれません。小学生の頃からオッサンになった現在に至るまで繰り返し読み続けています。

もしも子供時代に「イヌのひみつ」と出会っていなければ、このブログは全く違う内容になっていたことでしょう。
犬の世界とはとても広く、その歴史も深く、一行知識のように雑多な情報が無数に転がっている事をこの漫画は教えてくれたのです。
それ故、忠犬ハチ公や軍用犬の話だけで日本畜犬史を語ろうとする人々への疑念も早い頃から抱いていました。イヤなガキですねえ。

もしかしたら、あの大人達が書いていることは間違っているのでは?
それならば自分で調べてみよう、などと思ってしまったのが運の尽き。
犬の史料は若造でも掘れば掘るほど新しい鉱脈が見つかるので、私は完全に舞い上がってしまったのです。
おおおおお(中略)俺は間違っていなかったのだ!!!
見ていてください林夏介先生!
そんな感じで、高校・大学の青春時代を古本屋巡りに費やした私でありました。体力と時間とバイト代を他のことに使うべきだったかもしれません。
楽しかったからいいんですけど。

世の中に犬の本はたくさんあります。優れた研究書や犬物語も出版されています。
しかし、私にとってのバイブルは「イヌのひみつ」なのです。

あの本を指針として、子供時代の自分が見たかったブログを作ろう。
できれば他の子供にも見てほしいなあ。
そんなことを思いつつ資料の山と格闘していたりします。

まあ、子供向け検索サイトでは「帝國ノ犬達」も不適切としてブロック対象なんですけどね。この4年間、私は子供に見せられないブログをせっせと作っていた訳です。
脱力感と共に5年目へ突入。

美味かんべえな

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浮世の波をよそにして山里は昔ながらの松風の声につつまれて居ます。
千禄先生、私は雉子の初猟記を拝見して日本中何處へ行つても同じ階級の人の多いのを今更に感じました。
忠實な私達の同伴者のために一しほ気の毒に存じました。
私達は毎日犬に石をあてられたり門の扉へ石を投げつけられたり、朝に晩に怒らなければならぬ事が相変らず多いのでございます。

日本人は何故こんなに動物を虐待したがるだろうと、同じ日本人のそれも山家の松の声より知らぬ私は心外に堪えぬ事が多くございます。
生ているのですもの、犬だとてたまには野原へ遊びに行きたかろうぢやありませんか。
側へよつたと云つては石を投られ、通つたと云つては棒を振廻されては、何といふ悪い癖だろうと大目に見ながら人に怪我でもさしたらば大変だと注意に注意してつれてゐるこちらだつて、十度に一度は知らん顔して思ひ切り追廻させてやり度くなります。

こわいのだろうか、憎いのだろうか、悪戯をしたいのでせうか。
ホケキヨーの囀渡い此處でも犬を単獨で運動に出すことは絶對に出来ません。
屋外一歩出したらば魔の手はまつてゐます。

「東京から買つた犬だとよ、うまかんべいな」
男が私の犬を見てさう申しました。
いゝ犬だとはほめてくれません。うまかんべいな、とぢき言ふのですから情なくなります。

濱島葉子「野の犬だより」より 大正9年

ポチ(霊犬)

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生年月日 昭和15年頃 佐賀縣武雄市
犬種 不明
性別 不明

ポチはもう四つに成りました。
去年の春、余所様の鶏をくわえましたので、主人が大変叱りましたら、これ迄一番好きであつた主人を一番こはがるやうになり、主人の在宅中は自分の箱に籠城し切りで碌々食事もいたゞかぬ始末で、主人もポチの可憐な姿を見て可哀想になり、世間でよく犬が鶏を捕つて困るなどのお話を聞いて居りますので、犬の心理状態を究むる気になりまして、雛を十羽ばかり買つて来て、ポチの側に置くことにして飼ふことにしました。

所が、驚きました。
ポチは其雛を自分の子供のやうに可愛いがり、雛も亦チヨコ〃とポチの背中の上に乗つて見たり、顔の辺りに集まつて、何か物云ふ如く、真當の親子の様にいぢらしい毎日がつゞきましたが、近頃では鶏も相當大きく成つて、時を歌ふやうに成りました。
鶏が歌ひ出しますと、ポチも鶏の歌に唱和するので御座います。
更に驚くべきことは、鶏に先きに餌をやらなければ自分は決して御飯を食べません。
ポチに先きに御飯や御やつをやつたりしますと、鶏にもやれとワン〃吠えます。
また余所の犬や猫が庭を覗きでもしやうものなら、夫れはそれは大変で、ワン〃といかにも悲しそうに啼いて大騒ぎ、身を挺して鶏を護ります。
まるで嘘のやうな事實で、近所の人達も、ポチの悧巧なのに舌を巻いて驚いてゐます。

私も近頃勤労奉仕に出ますのでよく家を留守にしますが、ポチが番をして呉れますので、安神して出掛けられ、帰つてから御褒美においしいものをポチに与へますと、鶏にもそれをやれと啼きます。
禮儀を弁えぬ人間はほんとうに恥しい位で御座います。
今この手紙を認めながら庭を眺めましたら、冬の陽を一ぱいに受けて、ポチを、鶏共が取巻いて仲よく遊んで居ります。
この美しい情景は絵のやうです。


山崎八重子女史より多々良てい子女史宛て「霊犬ポチ」より 昭和18年

戦争後期の駄犬駆逐論争

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二月二十三日、毎日夕刊「建設」欄に出た「犬と人間」の投書は私も読みました。
欄は建設だが論は破壊ですね。
日本人は概して聡明ですが、それでも一億もの中に愚物や馬鹿が相當あるのは免れますまい。
貴下の御書面中、私に一矢を酬いて貰いたいとありますが、夫れは貴下の御慫応がなくとも、ムズムズしてしやうがないのが私の性分です。
しかしこれを反駁して果して利ありや否や疑問です。
私の考へでは、この種の便乗的僻論は凡そこれを黙殺し一括しこれを墓穴に葬るに限るのです。
何んとなれば、浮つかり其手に乗つて反駁なぞすると投書家の思ふ壺にハマルと云ふものです。
苛烈な戦局下、常識を喪失した人間は多少現はれませう。没法子(メーファーズ、しかたがないの意)。
彼等は狂犬と同様に憐むべき人々ですよ。

「獨り野犬ばかりでなく此際畜犬も處置せよ」とは投書家は言つて居りますが、この種の議論は非日本的な、利敵行為に属する、低調にして、嫌忌すべき僻説です。

私に暫く時を借して下さい。
萬一こんな馬鹿気た議論が反響を呼んで、誤つて取上げられでもすれば、其時こそ私は猛然として起ちます。
それ迄は沈黙します。

動物愛護會員犬儒「某氏に答ふる書」より 昭和18年

当時はインターネットが無かったので、この手の言い争いも月イチで進行しておりました。
秒単位でヒートアップしていくネット上の論争に比べれば、如何にもノンビリとした口喧嘩ですね。言い争いのレベルやスルー力の無さは現代と変りませんけれど。
廣井辰太郎さんも宗教家なんだから―犬儒氏が廣井さんだとは言いませんけど―ここまでケチョンケチョンに相手をけなさんでもよいでしょうに。

商工省の皮革統制により、昭和14年から幾つかの自治体で散発的に始まった犬猫供出運動。
一旦はおさまったに見えた駄犬駆逐論は、戦況悪化と共に野火のように広まっていきます。
公定価格の低さを原因とする深刻な軍需原皮の欠乏は、やがて昭和20年の全国一斉犬猫献納へと発展しました。
「聡明な日本人」は姿を消し、「非日本的な、利敵行為に属する、低調にして、嫌忌すべき」意見が主流を占めてしまったのです。
国家の非常時を前に、動物愛護運動は余りにも無力でした。

戦争末期は、日本の動物愛護運動史における暗黒の時代。
明治時代に芽生えた我が国の動物愛護運動は、戦時体制への突入と共に軍用動物保護活動へと姿を変え、負け戦の中で最悪の結末を迎えたのです。

大正天皇

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福原君(福原八郎鐘紡重役・南米拓殖社長)は、思ひ出したやうに、これ亦同郷人である岳父の令姪の夫君、故横地長幹将軍が名犬二頭を曾て大正天皇がまだ皇太子でゐらせられた時、御献上申上げた美しい物語を語り始めた。
これには私も非常な興味と感銘を覚えて「そげんか有益な話ばナシもつて早く俺に話して呉れんぢやつたか(意訳:そのように有益な話を何故もっと早く私に話してくれなかったのですか?)」と私は同君に言つた。
今右記題目の下に、左に其片鱗を謹記する。



年月は審かではないが、何んでも日露戦役後間もなきことであつたと云ふことは確かである。
参謀総長上原勇作元帥が旭川師團長の自分に陸軍の大演習が行はれ、多分明治天皇の御名代としてゞあつたらうと推察し奉るが、まだ皇太子で在らせられた大正天皇が大演習御統監の為に北海道に行啓に相成つたのである。

大演習終了後の御賜宴の席上に於ける大ひなる一挿話が本文の骨髄である。
惟ふに推古天皇が猟を廃して薬狩りを以て是れに代ふると仰せ出された事と云ひ、仁徳天皇が皇后の宮と共に毎夜鹿の啼く声を聴こし召されて是れをあはれませられたことと云ひ、明治天皇の数限りなき動物愛護の御製と云ひ、今上陛下が献上の生き物や植物が或は病み或は凋ぶのを御覧になると痛く宸襟を悩まされることゝ申上げ、又御幼少な現皇太子殿下が那須の離宮の御園に放牧された馬の頬を御愛撫遊ばされた御ことゝ云ひ、吾がニツポン歴代の御皇室は大慈大悲の権化として、常に動物愛護の範を臣民に御示しに相成つてゐる。
實に尊くも有難き極みである。

大演習後の賜宴で、上原師團長以下の労を犒はせられた席上に於て、偶々犬が御話題に上つた際、上原師團長は近くに着席してゐた横地長幹聯隊長を一瞥して、大正天皇に、犬ならばそこの横地が二頭の名犬を持つて居りますると申上げたとのことである。
此時聡明な横地聯隊長は、殿下は屹度自分の犬を御所望に相成るに相違ないと直感したので、大急ぎで立派な箱を二個誂へて恩命の下るのを待つた。
而し、翌日は何んのこともなくて過ぎ、其翌々日に成つてから横地聯隊長に出頭せよとの御下命があつたので、聯隊長の横地は早速二頭の名犬を用意の二つの箱に入れて参殿の上賜謁の光栄を有したが、殿下は果してお前は非常に良い犬を持つてゐるさうだが夫れを見せろと仰せられたのである。
御申付けの犬ならば只今持参して居りますると申上げると、横地の気転を大層御嘉賞に相成り、それでは直ぐその犬をこゝに伴れて来いとの御言葉があつたから、横地聯隊長は待たしておいた犬を聖覧に供した所が、一目御覧になった殿下は痛くその犬が御気に入つたと見えて、一頭を譲受けたいとの仰せであつた。
仍て、聯隊長横地は是れを無上の光栄として、實は二頭共に献上申上げる積りで二個の箱を拵へて参殿致した次第で御座りますると申上げた。

殿下は、二頭共献上すると云ふお前の言葉は喜ばしく思ふが、二頭共貰つてはお前の子供達に済まぬとの畏れ多き言葉を拝聞して、横地は電気に撃たれたやうな感激を覚え、御言葉は恐懼に堪えませぬが、二頭共に御嘉納賜はる様に御願申上ますと御答へ申上ぐると殿下は大変御悦びに相成り、お前が夫程云ふならば二頭共に申受けて、一頭は御母君に差上げる事にしやうとの御言葉であつたとのことだ。
「お前の子供達に済まぬ」と云ふ御言葉は何んと有難き思召しではあるまいか。蓋し是れは歴代天皇の民草に對する一貫共通の大御心である。

當時の旭川師團長上原将軍は横地聯隊長を高く評價して居つたと傳へらるゝが、この後の横地将軍は極めて硬骨漢であつて、少将で予備に成つたのは彼の剛直が一つの原因ではなかつたかと私は思つてゐる。
私は横地長幹将軍は大尉時代からの知合であつたが、晩年には郷里柳川に退耕し、将軍町長として声望が高かつた。
而して此一文を草するに當り、故横地将軍を偲ぶの情甚だ切なるものがある。

廣井辰太郎「大正天皇の御逸話を拝聞して」より 昭和18年

皇族の動物好きに関しては、鳥獣を詠んだ歌の多さからも窺い知ることができます。
このブログでも、帝國軍用犬協會名誉総裁の久邇宮朝融王や日本シェパード犬協會長の筑波藤麿侯爵が度々登場されていますよね。

日本工兵の父、上原勇作の愛犬家振りに ついては以前ご紹介したとおり。

その部下である横地連隊長が大正天皇に献上した犬は、樺太でロシア将校から譲り受けた純白の小犬でした。
「ポーランド産の狆」ということですから、おそらくはポメラニアンかジャーマン・スピッツだったのでしょう。
もしかしたら最も古いスピッツ来日の記録かも。
この犬に関しては、続編の横地長幹少将の記事にて取り上げる豫定です。
そういえば、日露戦役で皇室に献上されたロシア犬は他にもいたような……。

吾輩は犬である

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吾輩は犬である。

〇出征しては―
忠勇なる軍犬と成り、吾輩一流の聴覚を以て方向を探知する。優れた嗅覚を以て、地雷や他の危険物を嗅ぎ出して戦友を死地から救ふ。

〇銃後に在つては―
倉庫、工場、主家の番をする。吾輩は最も忠實なる番人であるよ。

〇又吾輩はお子サン方の良き遊び相手でもあり、御主人の散歩や運動のお供もする。

〇吾輩は残飯魚骨以外、何物も求めない。吾輩とても生を天にうけたる者、素より最低限の生活権を有する。
吾輩の勤労は報酬目あての勤労ではない。吾輩は死を賭して欣然主人に仕へる。
而かも吾輩はタツタ壱銭の月給も貰はぬ。滅私奉公を地で行く點に於いて、吾輩は断じて人間に劣らない。

〇人間は月給を取るが、吾輩は絶對に是れを貰はぬ。米も人間と異つて絶對の必要物ではない。而し、吾輩とて生んが為には何かを喰はして貰はねばならぬ。

〇その吾輩を近頃兎角邪魔物扱ひにする薄情者が輩出する。吾輩を穀潰しと妄断する為であらう。
吾輩は初手からの米食獣ではない。
人が吾輩を米食に習慣づけたまでであるから、吾輩は何時でも、吾輩の生活を戦時態勢に切替へる覚悟を有つてゐる。
現に吾輩の口には米はいくらも這入らぬ。主人は吾輩の為に八圓四銭の税を拂つて呉れるが、吾輩に米の配給はない。
而し、米不足に怨嗟しない。悲鳴をあげるやうな時局への認識不足者ではない。
吾輩は、心なしの一部の人間共が何んと言はうとも、たゞ黙々として絶米に近き生活をし乍ら、節米に協力してゐる。

〇日本軍人は、吾輩を人犬一如と云つて、或は労はり或は愛撫し、剰へ吾輩を戦友と呼んで呉れる。だから吾輩も亦、生命護惜の本能を一擲して、戦友の為に欣んで死ぬる気になるのだ。

〇吾輩は、義、恩、忠を口先でこそ振廻さぬが、常に是を行動化してゐる。コレが吾輩の身上である。

動物愛護會「吾輩は犬である」より 昭和19年

これが書かれたのは昭和19年の5月。
半年後、厚生省と軍需省の認可によって全国で犬猫献納運動の嵐が吹き荒れます。
たくさんの犬達が「穀潰し」の烙印を押され、その命を奪われました。

破滅へと向かう日本犬界による必死の抵抗。
このヘタクソなパロティは、日本の近代畜犬史に記し続けねばならないのです。

渋谷行きのバス

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毎週土曜日三光坂下から渋谷行のバスに乗る。
田町渋谷驛間を往復するバス丈がどうやら乗客を人間扱ひにしてゐる。
このバスに限りて始発から終點まで立通しのことは絶無だ。

九月十一日例刻、このバスに便乗して渋谷に行つた。
終點の少し手前の並木橋停留所を発車してから間もなく、バスは停まる筈の場所でない所にピツタリ立停つた。
乗客は皆この不時着に淡い不審を抱いたかの如くであつた。

運転手と車掌は何んだか小声で語り乍ら、車の上から左右と前方とを見下ろしてゐた。
危く子供でも轢こうとしたのではないかと私は心配した。
不斗車窓から地面を見おろして見ると、車の横から小さな仔犬が一匹、あぶなけば足取りで歩み出して来て、運転手も車掌も、はては心ある乗客もホツトしたやうであつた。

惟ふに、バスが走つてゐる横合から、その仔犬がバスの行手を横切らうとしたらしい。
親切な運転手君は仔犬の轢殺を避ける為めに萬全の策を講じて漸く事なきを得た。
沈着なる運転手の早業は、尊い一つの生命を救つた。
これを不必要に犬仔を脅かす徒輩に較べると、此運転手の行は何んと立派な日本人らしき行為ではないか。
私は一匹の仔犬に心を痛めた運転手と車掌の立派な人格に心から敬意を表した。

運転臺の掛札を見ると、運転手織原利喜蔵、車掌高橋きよ子とあつた。
私は後日の為めその氏名を手帳に書留めておいた。そして今こゝに日本動物愛護會の名に於いて織原君と高橋嬢とを表彰する。

お願ひ
尊貴なる情操生活の基底を成す動物愛護、又はこれを破壊して人間を弱化し社會を変化する動物虐待に就ての御感想、御見聞等を、長短に不拘、御寄恵下さい。

廣井辰太郎「織原・高橋二君表彰」より 昭和18年


クロ公(軍犬)

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生年月日 不明
犬種 シェパード
性別 不明

戦線で活躍する無言の勇士「忠犬クロ公」からの戦地便りが一日朝、飼主の堺市大谷章次氏に寄せられ感激を生んでゐる―。

大谷氏は妻こきみさんとともに日ごろから大変な愛犬家で、子供のないところから昨春買ひうけたシエパード犬の「クロ公」を愛児のやうに可愛がつてゐたが、支那事変で同氏はたぎる愛國心から従軍志願をしたが許されず、そこで自分の身替りにクロ公を送つて奉公させようと毎日早朝から一生懸命訓練をしたうへ献納願を提出したところ、幸ひ許可され、昨年めでたく出征したのだった。
當時大谷夫妻は「クロ公や立派な武勲を立てておくれ」と人に物いふごとく赤襷をかけさせ「祝出征」の幟までこしらへて見送り、温情溢るゝこの感激場面に付近の人達の胸をいたく打つたもので、その後クロ公は戦線へ征つたまゝ消息なく、蔭膳据えて武運を祈つてゐた夫妻も戦死したものと出征日を命日に冥福を祈つて居つたところ、クロ公は北支田村部隊付となり富田伍長の手にいだかれ、いつも〇隊長の薫陶をうけ、硝煙弾雨をくゞつてよく連絡の重任を果し、戦場では「エス公」と呼ばれ、無言の勇士として愛されてゐるといふ快報が吉井〇隊長や富田伍長から齎され、無事な写真まで添へてあつた。

「愛犬クロ公はお役に立つたぞ」より 昭和13年

破局の前触れ

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この頃よく頸輪をはづした立派な大小の犬共を路傍で散見する。
これは言はずと知れた廃犬群だ。
筆者はこれ等の可憐な犬に出會ふごとに廃犬する心の持主の人間性を打診して、その犬を憐むよりも反つて其人をあはれむを常とする。
「人間でも米が足りぬ時節に犬まで」と無慈悲な廃犬者共はほざくであらうが、一度びこれを養つた以上は仮令區町村の戸籍にこそ載つてゐなくても、事實、立派なる家族の一員ではないか。
少しでも責任観念を持つ犬の飼主なら、自分の食糧の一少量を割愛し、足りない分は最寄りの食堂なり、料理屋なり、その他に交渉して残物を獲得する道がある筈ではないか。
筆者はこれを實行してゐる幾多の立派な日本人らしき人々を知つて居る。
自家の犬を廃犬にする人間には、やがて、親を粗末にしたり、妻を捨てたり、子供を虐待したり、友を裏切つたり、甚しきに至つては國を売ることさへ為し兼ねまじき人間である。

廃犬する心―、夫れはただ廃犬する心や行動で終止せぬのだ。

廣井辰太郎「廃犬する心」より 昭和18年

警視廳獣医課の調査によりますと、飼育犬登録数が減少すると同時に野犬が増えはじめたのは太平洋戦争の前後あたりから。
これは、戦時食糧難によって捨て犬が激増したことを意味しています。
各地の陸軍駐屯地では、「軍犬にしてくれ」とシェパードを寄贈する人も相次ぎます。
軍用犬種飼育者の場合、飼いきれなくなった愛犬を軍部へ託したのでした。
いきなり大量の犬を寄贈された軍犬班では、あまりの数に訓練どころではなくなってしまったそうですが。

日本犬界の破滅は、既に戦争中期から始まりつつあったのです。

ティー(猟犬)

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生年月日 不明
犬種 イングリッシュポインター
性別 不明

暫らく獲物らしい獲物に出くわさぬから、今日は鳩の一羽でも、秧鶏(クイナ)の半分(尤も半分ではゲームの数に入らぬかも知れませんがね)でもいゝ、久し振りに家族の手前天狗の鼻でも延長しておかうといふわけで、猟期もあと一と月足らずといふ此日午後、ワン公を引き出す。
道々とある池の堤防を通ふとすると、中程で犬がポイントした。
堤の上からのしかゝる様にして汀(なぎさ)を覗き込んでゐる。
ハゝーン、お誂への通り秧鶏だな。
近づいて小声で「ヨシ」と云つてみるが犬は一向にとび込まぬ。一心不乱になつてのぞき込んだまゝ、聊か不審の體である。
そこでフト悪戯氣が起つた。
待てよ、クヒナならば打ち洩らしても惜しくはない。一つどの位ポイントしてゐるか試してやらうといふ氣で、ソツと犬の尻つぺたの所に腰を下して、銃を膝に横たへ、衣嚢からバツトを一本抜きだして火をつけた。
一息吸ひ込んでフーツと烟を犬の尻へ吹きつけてみるが、まだ棒立ちのまゝである。
いよ々々面白くなつて来たから今度は烟草を咬へて双手で「ワン公いゝ加減に行かないか」と犬のからだを押そうとしたら、その瞬間決然として三四尺上方の葦原の中へ、勢猛に踊り込んだ。
と同時に間髪を入れず猛烈に大きな怪鳥(そう見えた!)がバタ々々々々と飛び出したではないか。
ヒヤーツと驚いてよく々々見ると、真鴨の雄である。
ウムこれはとばかり銃を取り直すなり座つたまゝで、盲目滅法に打ち出したら、何といふ気まぐれな鴨かコロリト落ちて水面をバタ々々やつてるところを苦もなくワン公が泳ぎついて咬えて来た。
受取つてみると頭をやられてゐるので、小粒弾ながら半死の有様。
イヤ過ちの功名、勿怪のケのケだ。
だが考えてみると、これとよく似た失敗の方の歴史も實はあるので、日外(いつぞや)道端―それは貨物自動車も荷馬車も自転車も通る、おまけに人家近い街道筋―で犬が妙な恰好をするから、「止せ々々小鳥なんかにポイントしちや笑はれるぜ」と若犬振りを叱つてやつたら、豈計らんやそれが餌見の雄雉子だつて、銃を肩にかけたまゝ見事な空中滑走振りを目送し、あべこべに犬に笑はれたことがあるが、こういふことはどちらにしても、あまり他人にはホメてもらへぬ事らしい。
現にこの話はどちらもあとで猟友の軽挙妄動を戒めた揚句、甲君の曰く「苟くも銃を執り犬を連れた者が、猟野に出たる以上……」とか何とか、乙君の曰く「古来油断大敵……」云々、猟夫曰く「ウヘエツ」。
そして頭かき々々口の中でボヤくように「テイー(犬の名)よ、これからはお前を信用したるぜ」

大正十四年六月十日於 松堂医院北窓下稿了

舘康正「続々雀羅庵猟話」より

吉田隆

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帝國ノ犬達-吉田隆
吉田氏と等子夫人の愛犬たち。昭和13年

夫君(外務省アメリカ第三課勤務)は、目下上海方面に出征中。
夫人は愛嬢と十数頭の愛犬陣に銃後の護りも堅く、夫君への日々の通信も愛犬の動静が大半を埋めるとのことです。
夫君又大の愛犬家で、犬の消息をもつと詳しく知らせろとのことに、かくの通り慰問袋に送ることゝなつた。

ダンディとパッビー(愛玩犬)

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生年月日 昭和12年
犬種 ラフコリー
性別 ダンディが牡、パッビーが牝

帝國ノ犬達-コリー
吉田等子氏の愛犬 昭和13年

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