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ワンワンバラエティー


チビ公日記

日光(やんごとなき犬)

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生年月日 明治12年頃

犬種 日本犬

性別 不明

地域 栃木縣

飼主 アルベルト・ヴィルヘルム・ハインリヒ氏

 

ハヰンリヒ親王殿下の海軍少尉たりし御時、本邦にご來朝あらせられしは、今より二十年の昔なりけるが、予が家は兼て栃木に写真業を開き居りしを、
たま〃流行病を避けむとて、郷里日光に引移り、父が目慣れたる山水廟社を撮影し折りなりき。
然れば殿下の日光御賞遊中、男體行人に御異装あり。一行五名にて写真業あらせらるゝ際、幸榮にも御命を拝しぬ。
然るに是と前後して、當時三歳の予が最愛の一疋の狗兒、九死の危きに陥りたるを、天資英邁にして御仁恵深き殿下の御手に、救助せられたる事ありき。
其狗は即ち殿下の御愛犬「日光」なるか、此事實は古今稀有の一奇談にして、又一美事と云ふべかりし。
故に殿下が再度の御來朝に接して、何となく當時の忍ばるゝまゝ、左に大要を録し、且つ父が写し撮りたる一行の真影を添へて紀念を表すと伝ふ。

予が住家は日光八景の一なる上鉢石の街灯にして、絵の如き朱欄の神橋、飛龍の如き大谷の激流を坐ながらながめられ、結構美を盡したる山内へも最と近かがりしかば、予は僅かに三歳の折柄なれば、母が膝下に餘念なく遊び暮して少しの退屈も覚ゑざりき。
或日、まだ乳房はなれぬ狗兒の、下馬の一隅に捨てありしとて、近所の兒女が持來るを見れば、ムク〃と肥ゑ太りたる三疋の狗兒にして、呱々として其が乳母を索るる様
如何にも可憐なり。
さるほどに家内のもの哀を催して、今は無情に逐ふに忍びず、寧ろ幼き子の為めに、よき友とらせむとて、其まゝに養ひぬ。
予が喜びは如何斗りか、傍近く抱き寄せては、三度の食以外に、菓子など與へつ、三疋の狗兒が踊り狂ふ様を見ては、己も踊りて娯みけり。
而して其が三疋のうち予は人の好まざりし黒斑を、いたく気に入りて、己が所持と寵愛しゝも、後にぞ思ひ當る不思議の縁因なれ。
其より三四月を過ぎて、予が寝覚めの心地勝れざる折なりき。
母には大谷の向岸に、御滞在の獨逸皇族一行の霧降より帰り來らるゝを認めけるが、御弱年の殿下只御一人、本宮坂の彼方より従者を残して、御足早に走らせ給ひしかば、母は何か仔細のなからめやと、予を背負ふて戸外に出ぬ。
殿下には此時疾く假橋を渡りて、三十間あまり岸邊を下られしが、何か水面を御指し、向の従者と問答しつ、屹と瞰下す御顔は、金玉の御身を忘れて、高さ五十尺餘はて
の断崖上より、激湍奔流の淵に抵らむず勇邁なる御気色、あまりの事に驚きし母は、不信の眉に淵を見やれば、アゝ無残、何れ小兒の悪戯なるべし、浪音荒ましき汀に捨てられたる狗兒の只一疋、聲を限りに泣き迷ふこそ、まがふ方なき予が最愛の斑犬なり。
されば予等いたく驚きたれど、婦人小兒の詮術なく、尚も殿下の御挙動如何にと見参らすれば、殿下の雄々しき、さしもの断崖に御身を躍らし、軈て可憐の斑犬を難なく救ひ上げ給ひぬ。
其より殿下には狗兒の不幸を憐み、御身を自身に御飼養せらるゝ御意なりけむ。
遥か隔てゝ控へたる予等に御用意深くも御意を傳へて、従者もろとも御帰館あらせられき、九死の淵より高貴の御手に救はれし斑犬こそ身にあまる光栄なれ。
殿下御帰館のゝちは、乳よ肉よと畜生に過分の美食を與へられしと洩れ聴きつるに、彌々日光御出發の際は、綿を敷きたる筺中に入りて送られき。
當時此事を傳へたる町民は、何れも殿下の天資御勇邁にして御仁恵の深きを称へ奉らざるはなかりき。
扨ても其のち、五年十年と多くの歳月を送りし間、談話の此事に及びしを、幾度と云ふを知らねば、一旦忘れ果てたる予も當時を追懐して、殿下には其の後ます〃御勇壮におはすらむ、斑犬も豆めで幸福なるべしなど徒に想像を畫くに過ぎざりき。
然るに二十年の星霜を経たる今日此頃、殿下再度の御來朝に接し、新聞紙は此間の消息を傳へられぬ。
今や殿下東洋艦隊に司令官長として、沈毅の御名高く、世間の人鎧袖親王を以て称へらるれど、明治十二年親しく此事實を拝観したる予等は、其時既に今日あらせらるべきを推し奉れり。
さはあれど、一旦愛でたる斑犬の、殿下の御傍近く飼養せられて、後には伯林の動物園に入り、萬里の海外に日本犬を代表すべしとは想ひ寄らざりき。
あはれ天下又と「日光」の如き光栄ある犬のあるべきぞ。

 

片岡武「獨逸皇弟殿下の御愛犬」より 明治32年

 

東洋艦隊の海軍士官候補生だったハインリヒ・フォン・プロイセンは、明治12年からたびたび日本へ寄港しています。

日本では狩猟や旅行を楽しんだようですが、そこで拾った仔犬をドイツへ連れ帰ったというエピソードは初めて知りました。
初期にヨーロッパへ渡った和犬の、貴重な記録でもあります。

フリッガ・フォン・シルレルフェルセン(在郷軍用犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 不明

地域 大阪府

飼主 細谷武次郎氏

 

東光尋常高等小学校で実演中の細谷氏とフリッガ 昭和12年6月11日

 

此の前の木曜日のことであつた。

武内先生は朝會で今日晝から軍用犬を見せて下さるとおつしやつたので、もう皆はおどり上つて喜んで「早くお晝がこんのかなあ」といつて待つてゐた。

 

待ちに待つた晝から、軍用犬は其の主人につれられて校長先生の上る台に上つてせつめいをしてもらつた。

其の時、此の犬はドイツで生れ、フリツガ、フオン、シルレルフエルセンといふ名前であつて、日本國中の犬の大會で六等を取つた犬だとおそはつた。

それからいいよ軍用犬の訓練に取りかゝつた。最初犬は主人の左側に居るといふことを見せて下さつた。

次は「ふせ」「待て」について僕らにくはしく見せて下さつた。ほんとうに犬は人間の言葉をしつてゐるやうだ。僕は其の點に特に感心した。

又犬の高飛や幅飛もさせてゐた。ほんとうによく飛ぶので、もう皆は列をみだして見に行つた。

それから主人は、何か遠く森の中へかくして來て後からさがしに行かすと、犬は立派に其の務をはたしてうれしそうに帰つて來たので見物人はびつくりした。

 

今度は犬の度胸をためすといつて、色々の事をしたが、びくともせづにかへつて其の人にかゝつて行く。それだから戦争の時にもやくにたつのだと思つた。

其の時面白い強そうな着物(※防御衣のこと)を着た人は急に犬の前にむかつてピストルでうつまねをしたら、犬は其の手にかぶりつき、ふつても、廻はしてもはなさないので、もうどうなるかとはらはらして見てゐるとき、主人が來て犬の頭をなぜたので、犬はそれをやめた。

其の人のうでには、はがたが入つてゐた。ほんとうに恐ろしい犬である。

けれども、あたりまへの人には少しもほえぬかしこい犬であるのに感心した。

あの犬こそほんとうに軍人の任務をてつだふ大切な友である。

六學年 重里實君 「軍用犬」より

加藤二郎

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金澤市金城女学校教諭。

 

あの頃、牛に草をやりに行く子供は私達兄姉の他にも幾組もあつたし、四月五月にもなると毎日鮒子すきに行く子供が澤山であつた。

近頃の子供は牛やフナなどあまり好きではないらしい。

懐しい牛小屋も梨畑も今はすつかりなくなつて、立派な二階建の住宅が何軒も建つてしまつた。

私は三十を過ぎて矢張り毎日同じ所を散歩する。犬を連れて毎日散歩する。

笠舞町田圃も笠舞町になつて牛と遊びに行く子供もなくなつた様だ。たゞ私は犬を連れて通るのを楽しみにしてるかして

「金城女學校の犬ヤゾ」だの

「ホラ、二郎先生の犬ナ來タゾ」

と友を呼ぶ子等がある。

時折孫を抱いたお婆さんが

「ホラ、二郎ちやんの犬やゾ、見マツシマ」

とやる。

之は一番懐かしい言葉である。

加藤二郎「ノベちやん」より 昭和12年

 

子供が野外で遊ばなくなったのは、戦後になってからの話だと思っていました。

戦前の段階から同じことが言われていたんですね。

加藤先生は、金沢でのシェパード普及活動にも取り組んだ人物です。

昭和14年には盲導犬リタとともに帰郷した失明軍人、平田宗行軍曹を女学校へ招待し、生徒たちに盲導犬の働きを教えたりもしていました。

 

乗合の人は、赤十字のついたハンドルを見て盲導犬だと知つて色々勝手な噂話をしてゐる。
犬の頭を撫でる人もあつた。
リタは大抵黙つてゐたが、時々低く唸る事もあつてあぶないナと思つた。
併し幸ひ事なく済んだ。
汽車では犬箱に入れねばならない。犬を離れてポカンと突立てゐる平田さんの手を引いて汽車に乗せる時、遠くでリタの悲しい声が聞えた。
平田さんも暫しの別れが淋しかつたらう。
金澤の驛で平田さんをホームに待たせてをいて私はリタをつれに行つた。
リタは夢中でグングン綱を引いて行く。
平田さんは元の所に立つてゐる。一歩も動けないのだらう。犬がすぐ傍まで来ても解らないらしい。首環の鈴を、も少し大きくしなけりやいかんと思つた。
主人を見つけるとリタは狂喜して飛びつく。縁なき人々の目にも痛ましく美しい光景で多勢立留つて見てゐた。
学校につくと、生徒達は講堂の席について待つてゐた。
新聞で見て盲唖学校の盲生全部がきゝに來てゐた。會員の他有志の人も集つてゐた。
演壇へ犬をつれて上るのも美しい光景である。
講演は戦争の事とドイツ盲導犬の事と、そして自分とリタのお話であつた。
お話もしんみりした調子でよかつたが、演壇に立つ人とその傍の犬、其の形が感傷の強い八百の乙女達に少なからぬ感激であつたに相違ない。
とりわけ先日ブリンノ
(※金城校で飼っていた犬です)の葬式をすませたばかりであつただけに、女学生への大きな刺激であつた。
あとで、先生あの犬の仔を貰つて下さいと攻められて困つた。
盲生の中でも、此の犬の仔を欲しいと云ふものが幾人も出てきた。
盲導犬の仔なら、すぐこんな作業をすると単純に考へてゐるらしい。
講演が終つて拍手が鳴ると、リタは作業の終つた事を悟つたと見えて停留場の時と同じ様に又平田さんに飛びついて喜び狂ふ。
演壁の上で平田さんも少々之に辟易して居られた

加藤二郎「盲導犬を迎へて」より 昭和14年

関東大震災と犬・その1

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思ひ出すのは、あの大震火災の時である。
僕は救護と防火で夢中になつて居る間に、妻と娘は女中と共に避難したが、其當時飼つて居た、獰猛な土佐ブルでジヤツクと云ふ愛犬が居た。
あの場合一番苦労したのはこの犬であつた。
可愛そうで捨てゝは置けず、犬に引きづられ乍ら、風呂敷包と飯釜をさげて猛火に追はれて、あちらこちらと彷徨つた事は、今なほ忘れられない。
併し幸に奇蹟的に、火災を免れたわれ等の家は、直ちに救護所を開設して、傷病者三千余名を治療した。
焼失地域内では、此の救護所が最初に出来たもので、少なくとも数日間は、唯一の救護所であつた。
不思議な事には、あの騒ぎで主人に放れた、焼け出された犬が、喪家の犬の如く痩せて、何處からともなく、十二三疋も集つて来て、宛ら犬の救護所の観を呈した。
配給された玄米も、大半は彼等の腹にはいつた。

あの騒ぎの中で、面白い話があつた。
毒を投げ込んだと云はれた井戸水を飲んだ男が、真つ青になつてげい〃嘔き乍ら、救護所へ駆け付けて来て倒れた。
早速脈をみたが、大した変りがない。
こつは神経だなと思つたので、直ちに例の井戸水を取り寄せ、よき試験動物とばかりに、群がる犬にこの水を飲ませたが、何んの変りもなかつた。
是を見た件の男は、薬一服も飲まずに、即座に元気回復した。
それから又小供が毒の入つた菓子を喰つたと云つて、大勢の人にまもられてやつて来た時も、犬に試食せしめて、毒でない事を立派に證明した。
こんな具合で、流言蜚語に脅かされて居た民衆を、立所に安堵せしめた犬の功績は、實に偉大であつた。

犬は其後二三週間の内に、主人に引き取られたものか、漸次退散してしまつたが、残つたのはカバと云ふ茶色の犬であつた。
勝手の床下をわが住家として、日夜忠實に奉仕して居たので可愛がつて居た。
それも三四十日たつて舊主人に見出され、主人は大喜びで珍しい野菜を山ほど持つて来て、厚く禮を述べて連れ帰つた。
それからは夕方になると、いつもカバがやつてきて、夜番をする。
夜明け頃になると、七八丁もある焼野原を、いつも同じ道を通つて、首輪の鈴を鳴らせながら、あとふり返つて帰つて行く。
それから一ヶ月位もたつ内に、一日置き二日置きと、段々くるのが遅くなつて、終には来なくなつた。
程経て舊主人を尋ねたら、ちやんと門番をして居た。
恩義を忘れないのには實に感心した。
僕は實を申せば、最初は犬好きではなかつたが、こんな事を見たり、又妻に感化された為か、いつの間にか、仲間に引き入れられた訳だ。

澤田退蔵「趣味のシエパード生活」より 昭和8年

関東大震災と犬・その2

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大正十二年の関東大震災のをりのことである。

九月一日の夜、何處から迷つて來たのか、一疋の犬が臺所にやつて來て、何日経つても去らうとはしない。妻とわたうしだけの無人の家庭では、賑やかになつたことをよろこんで、いつとはないしに飼犬のやうにしてしまつた。

 

ところで、こゝに困つたことが起つて來た。

もと〃わたくしたちは或る人の別荘に住まはせていたゞいてゐたのであるが、その別荘の所有者が、多勢の家族を引きつれて、突然別荘に入り込んで來たことであつた。

わたくしと妻は遠慮して離れの湯殿に寝たり、庭の天幕の中にやすんだりしたが、一番困らされたのは犬に食物をやることであつた。

わたくしたちは比較的たくさんな米を持つてゐたので、米の全部を別荘主の家族に提供したのであつたが、仔犬一匹の食物がとかくその人たちの間に問題となつてゐることが、わたくしの胸にぴつたりひゞく。

 

わたくしたちは臺所から配給されるわたくしと妻の二人分の外には、一粒の食もいたゞかないのであつたが、人々の眼は仔犬に食をやるごとに異様に光る。

大地震を案じて遠い鹿児島から中學時代の恩師がたづねて來て下さつた時、晝食をさし上げたので、わたくしも妻も、その日の晩飯は遠慮した仔犬に食事を分けてやるためにわたくしたちはいつも相當の空腹を我慢しなければならなかつた。

 

わたくしたちがそんな思ひをして仔犬を飼つてゐても、別荘の人たちの眼の冷たさは消えなかつた。

露骨なあてこすりも聞かなければならなかつた。

「一層のこと、短刀で仔犬を刺し殺してしまはうか」とさへ突き詰めた心にもなつた。

 

だが、面白いことにはこの犬は夜になるとよく別荘のまはりを警戒しては吠えた。

別荘の周囲の森や草の中には、東京からの避難者たちが夜露に濡れたまゝ眠つてゐるのであつた。

「これは用心がいい」と言い出す者が出て來た。

いつの間にか、別荘の主たちは臺所の餘り物を仔犬に與へるやうになつた。

 

仔犬の運命が好転すると同時に、わたくしたちは體のいゝ締め出しを喰はなければならなかつた。自分の家でないので、頑張るわけにもゆかぬ。

わたくしは雑嚢と水筒を肩に懸け、妻は五六顆の馬鈴薯と玉葱を風呂敷に包んで、三年の間住み馴れた家を餘所に出て行つた。

 

一時間も歩いてゐると月が出て來た。

行方不明になつた人々の名を呼ぶ聲が彼方でも此方でもこだましてひゞいた。

すいとんを賣る家の前には、疲れた人々が行列を作つてゐた。

 

吉田紘次郎「犬とともに」より 昭和19年
 

児童教育と犬(第5回)軍国教育の実際

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「ごつい犬が來たぞ」と誰やらがでかい聲で言つた。

僕は運動場へ見に行かうと思つたら、サイレンが鳴つた。僕達は運動場へそれぞれ見物する場所を定めてもらつた。

朝陽、城内の生徒もきて東光の校庭がうづまつてゐる。

始め校長先生から犬についての御話があつた。其れがすむとすぐ始まつた。始から最後まで見てすんで、時は午後四時頃であつた。

スベリ臺を上つたり、主人のハンカチをさがしたり、いろいろな事をしたが、主人の命令をよく聞いて居る事には感心した。

僕は犬があんな事をするとは真に考へなかつた。
犬でさへああして戦争に行つて國の為に働くのに、僕の様に身体が弱かつたら……
と思ふと、犬よりつまらない様な心持になつて來る。
そんな事を考へながら家に足をはこんでゐた。間もなく家についた。

僕は二階でいろいろな事を考へてゐたが、父が帰つたので酒を買つて來た。

兄も帰つて來た。電燈がついて明るい。

「お父さん、軍用犬見に行つてはつたな」と言ふと、「おれの見に行つた時にや、犬がハンカチをくはえとつた。一番こつちやの犬はようくはゑなかつたな」

「そやけど、あの犬一番年が若いのですもの」と言ふと「そうか」と言つてうなづいた。

「どんな事すんや」と兄さんが言つたのでいろいろした事を話すと姉が「そう!そんな事すんの。見に行つたらよかつたのに、犬がそんな事すんやな」と感心してゐた。

「なにえ」と母が言ふと、姉と兄が僕の言つた事を親切に言つて聞かせた。
「犬が戦争に行くなんてえらいな」と母が言つた。
「家にや一人も兵隊に行けんやな、義勝はノツポやし武寿はチビやし、あかんわい」
と父が半ば笑ひながら言つた。兄さんもクスクス口に手をやつて笑つた。僕も赤くなつた。
僕のノツポには我れながら寒心する。軍用犬に生れて來たらよかつたのに……とも思つた。

大阪府在住 高等小學校二年 森義勝くん 昭和12年

 

そんなに卑屈にならんでも……。

 

「初等科圖畫」より 昭和18年

 

【教育現場での軍犬報國運動】

 

昭和10年、二つの犬物語が教科書に掲載されました。

ハチ公を題材に、皇国臣民としての報恩・忠義を教えた尋常小学修身書巻二「オンヲ忘レルナ」。

軍国教育として、戦地で活躍する軍犬を讃えた尋常科用国語読本巻五「犬のてがら」。

 

それから2年後、遂に日中戦争が始まります。

 

盧溝橋で始まった軍事衝突は、第二次上海事変の大規模交戦を経て、南京侵攻へと暴走していきました。

和平工作も失敗し、日中は互いをノックアウトできないまま泥沼状態へ突入。内地からは続々と軍犬班が出征し、シェパードの調達も拡大する中で、学校教育の現場にも軍犬が入り込みました。

軍犬の活躍を宣伝し、その資源母体として家庭でも飼育してもらうための「軍犬報國運動」が草の根で展開されていた時代。戦前から兒童におこなわれていた動物愛護教育も、軍用動物愛護へと変質しつつありました。

 

犬

布施市小坂小学校児童を前にした、KV(帝国軍用犬協会)義勇軍犬隊による訓練実演。

昭和14年7月1日撮影

 

さて、「教育現場での軍犬報國運動」が全国規模で統一的・計画的におこなわれたのかどうか。

軍部がそれを教育機関へ強要し、各校に配属された軍人により学校教練の場で生徒に教え込んだのだ!的なイメージを持たれるかもしれません。

しかしそれを調べても、教材化された部分以外では首を傾げるような事例ばかりです。

 

実は、教育現場における軍犬報國運動は国や軍部からの押し付けではありません。

学校教練で配属されていた軍人による指導ですらなく、主導的立場だったのは教師側でした。

学校単位・地域レベルでの単発的な取り組みは多々あれど、いずれも「教師が自発的に軍犬教育をおこなった」というものばかりです。

授業に軍用犬実演を採り入れるべく、教育熱心な彼らは地域の陸軍駐屯地やシェパード団体へ出演を要請。授業の一環として、軍犬報國運動へ加担していました。

モチロン善意で。

 

犬
東京櫻丘女学校での軍犬実演風景。昭和14年7月28日撮影

 

児童に対する軍犬教育は、日中戦争前から始まっています。

「犬のてがら」が掲載されるまでは、軍犬の能力を披露するショー的なものでした。学校や教師側も、進んでこの手の催しを授業に採り入れました。

実演する帝国軍用犬協会や日本陸軍も、軍犬の宣伝活動に加えて「あわよくばシェパードに興味をもってもらい、親に飼育をねだる生徒がいたら儲けもの」と考えていたのでしょう。

 

また、軍部などの軍用犬宣伝活動に、学校を通して参加する児童もいました。下記はその一例で、帝国軍用犬協会により、「軍用犬宣伝行進歌(後の「軍用犬行進歌」)」の歌詞と共に公募された軍用犬宣伝用ポスター当選作品。 昭和11年

 

ポスター

懸賞

軍用犬ポスター圖案當選者發表

軍用犬行進歌詞の懸賞応募と共に全國小學兒童より募集したポスター圖案は約二百四十枚に上つたが、和田三造畫伯、田島庄太郎氏に依り慎重なる審査を行つた結果左記の通り決定、當選兒童にはそれぞれ規定の商品を學校を通じて進呈した。
一等(一名)
シチズン国産腕時計一個及丸善アテナ萬年筆とシヤープペンシルのセツト一組

 

実際の教育現場では、どのような経緯で何がおこなわれていたのか。

今回は、戦時下における軍犬教育について取り上げます。

 

【教育現場における軍犬授業】


「犬のてがら」について、前回までは教材の内容や指導方針を取り上げてきました。

実際の授業方法はどのようなものだったのでしょうか。

「犬のてがら」を読んだ児童の感想は「カッコイイなあ」程度に過ぎず(まだ小学5年生ですし)、大いに感化されたのは教師側でした。

更に教育を深めてあげようと、本物の軍用犬を生徒たちに披露したのです。

・教師からの働きかけ

犬を各方面に使役する事が漸く盛になつて來た。
然し欧米諸國の比ではない。一九三五、六年の非常時は無事切抜たと言つても、未だ非常時に変りはない。
益々内治外交整備し、東洋平和、世界平和の爲に貢献する我が帝國の使命又重い。
小學國語讀本巻五に「犬のてがら」が収録されて以來、「可憐な物言はぬ戦士」の武勲の大きさが大分認識されて來た。
然し一般村民等にもより以上深い使役犬に對する認識の徹底が必要である。
當地方には田舎の事とて、犬の智識たるや實に皆無に等しく、僅かに新聞の之に関する記事より得る位のものである。
現在泉南郡三十有余町村に「會員俺一人」。
實に慨歎せざるを得ない。然し當地方に飼育されてゐる雑種犬の数は實に多い。路傍に軒下に、實にゴロゴロしてゐるのである。
よく数分の散歩に十数匹に出くわす事も珍しくない。
僅かに愛玩と家番にのみ意味のある飼育目的らしい。
「耳が立つて尾の巻いた」の犬で満足の人士は、他犬に向つて「行け!」と言つて他家の犬の逃避する事のみを無上の誇と心得てゐるらしく、
「その犬喧嘩強いか?」と、質問の相場も決つてゐる。
こんな方々には實は「よう言はんわ」だ。「土佐犬かブルドツグを御飼ひなさい」とすゝめる。
身教職を奉じ、シエパード犬飼育数年の体験から、こゝらで緊褌一番、使役犬の爲め、いさゝか微意を表し度いと思つたのが、此度の訓練實演大會企畫となつた。
開催に對して絶對賛意を得た余は、早速一路岸和田在住、シエパード犬界の先輩細谷氏の門をたゝき、實費すら出し得ない様な小學校豫算の苦衷を話すと
犠牲的精神横溢、金銭に淡白な氏は「費用は自弁の上公開してやる」との非常なる熱意を示された。
之に感謝し流石はシエパード犬界の先輩丈けあると感激しつゝ帰つてポスター作成、プログラム編成等大童になつた。
當日定刻御令弟御令室御同伴、あの朗らかな細谷氏が、各種訓練体得叡智を眉間に閃めかして颯爽フリツガー號を脚側にして來校された。
見れば助手数氏も随伴されてある。
小憩の後いよいよ開始だ。定刻数時間前より續々來校した一般観衆は校を埋めて立錐の餘地もない。校長代理、北庄司訓導の訓辞、余の細谷氏及フリツガー號
の紹介、細谷氏の豫備的説話を経て、脚側訓練から開始された。
續々操り展げられる訓練の快技。徹頭徹尾服従する美技。此の可憐な勇士に婦人は涙ぐみ、学童は狂喜感激、陶酔として讃歎する。
フリツガー號のコンデイシヨン萬點、場所慣れした、人と犬實に盛況である。
軒昂揚々と解説する。
余の今日の喜び、数日來の努力は報いられたのである。
約二時間の豫定二十に近い實演種目は、こゝに拍手又絶賛裡に終了した。一段高い指揮台上、愛犬を手に細谷氏は本校学童に
「犬でもこんなによく覚えたのだから、皆さんも先生の教へをしつかり守つて立派な人になりなさい」と教へ、一般観衆に對しては
「駄犬を止めて使役犬、實用犬を飼育せよ」と唇頭泡を飛ばして結んだ。
同氏の面上紅潮を帯び、犬界革正、皇國への至誠が迸つてゐた。
斯くして本大會の有意義たりしを顧み、幸會員諸兄の御骨折りに依り、使役犬の爲、動物愛護精神涵養の爲め、斯くの如き會が催される事を希望し
末筆乍ら貴會の御隆昌と會員諸兄の御健康を祈る 。

日根野高等小学校教員 竹内勣「シエパードと兒童」より 昭和12年

 

そんな熱血教師たちの取り組みを、学校側も快諾。校庭の使用を許可し、近隣学校の生徒まで招いて、熱心に支援しています。


・学校側の立場

過日、使役犬の訓練で有名な細谷氏から斯道に對する大きな抱負と、並々ならぬ御努力の程を承り、且つ當地方一般人の使役犬に對する蒙を啓する意味で、本校々庭に於てその訓練實況を公開したい旨申出がありました。
丁度五月二十七日の海軍記念日を控へて、當日に相應しい催を考慮中でありましたので、私は氏の御申出を感謝を以てお受けしたのでありました。
幸ひ、當日は市内各校の兒童並びに一般参観者が場を埋めるばかりの盛況で、私と致しましても誠に欣快に堪えないところでありました。
當日の興奮、感激はその後、編輯致しました兒童文によつても窺はれますが、兒童にとつて日常最も親しみ易い「犬」が、主人の持物を嗅ぎ分けたり、敵からあくまで防衛したり、主人に危害を加へんとする者には猛然、突撃して行く、その叡智、勇気、戦闘力に兒童等は心からの拍手を送つたのであります。
近代戦に於ては、あらゆる装備が機械化され、科学兵器による科学戦が従前の肉弾戦にとつて変られんとする傾向にあると聞いてゐるのに、これは亦、知能の低劣な「犬」を戦闘に使用するといふ事は時代錯誤ではないのか、と甚だしく漠然とではあるが、私はそんな考へを持つた事があります。
然し本日、訓練された使役犬の活躍を目のあたり見せて頂いて、彼等のすばらしい性能を認めないわけには行きませんでした。
鋭敏な嗅覚と持續性の大きい走力とを兼備へる彼等が、場合によつては人間以上の働きを示す事が可能である事をはつきりと知る事が出來ました。
一般参観者も使役犬の優れた性能に對して今更乍ら驚嘆の眼を瞠つたやうであります。
然し乍らこの驚嘆も「犬」の藝に對する好奇心を満足させたり、闘争のスリルを満喫したに止るのであれば、この催しも無意味であります。
希くは、かうして訓練された使役犬が平時に於ては防禦犬、捜索犬として活動し、或は又、一朝事ある際は皇軍の勇士達に劣らないやうな働きを戦場に於て示し得るものである事を、當日の参観者が認識し、以て皇國の防衛の爲に自らを殉ずる気概を養ふ一助ともならばと念ずるわけであります。
最後に、細谷氏始め、飼育家各位のお骨折に對して、深甚の謝意をお送りすると共に、皇國の爲斯界の發展に益々貢献されんことを心から祈る次第であります 。

東光小學校長 安井省三「訓練の實演を観て」より 昭和12年

 

出演する軍人や畜犬団体関係者はどうだったのか。

「こっちは訓練で忙しいんだ!ガキどもに構ってられるか!」などというコトは一切ありません。

彼らは全国各地の畜犬展覧会で模擬訓練を披露しまくっていたので、この手の依頼は既に慣れっこ。学校側の要請に対し、喜んで応じていました。

 

・演者の声

我々同志は何時も役に立つ犬を作出する事に努力してゐる。例へ千萬のシエパードがあつても、叩き込んでないシエパードでは一朝有事の場合何んの役にも立たない。我々同志は一朝有事に備へて使役犬の作出と普及のために、その努力をいささかも惜しまないものである。既にソヴェート・ロシヤに於てはパラシユートに依つて敵の背後に澤山の軍隊とシエパードを降下さす事に成功してゐると聞く。吾人は更らに前方を遠く見なければならぬと言ふことを痛切に感じてゐる。例に依つて此のシエパード犬の訓練實演を見た同校生徒諸君の赤裸々な批判を受持各先生の御盡力に依つて御恵與願つた。

作文となり、圖畫となつた兒童の努力の結晶を私は涙して、眺めて一人悦んでゐる。

會員諸君、此の可愛い兒童の眼に映じた偽らざるシエパード犬の批判を御覧願ひたい。尚文中黒い犬とあるのは山本豊麿君のチエリー號であつて、特に同犬が日本の國旗を咥へて障害を飛び越える飛越方法は、相手が小學校の生徒だけに巧みに童心をキヤツチしたものだと思ふ。流石に山本君の頭脳の閃き。蓋しシエパード犬以上と言ふところ。

細谷武二郎「小學兒童の作品の前に」より

 

 

生徒の反応はどうだったのか。小学生のことですから、無邪気に喜んでいたのでしょうか?

感想文を読むと、ナカナカしっかりしたことを書いています。真面目に見学していたんだなというか、何かの使命感すら伝わってきて「本当に小学生の作文か?」と当惑する程です。


・生徒の反応

午後の一時間目、先生が軍用犬の訓練を見せてあげるとおつしやつた。

私は胸がどきどきした。あの勇ましい犬がすばらしい活躍をするのだと思ふと、嬉しくてたまらなかつた。私達は運動場へ出て犬を取りかこんだ。他の学校の生徒も來て居た。皆で四匹である。

あの勇ましい颯爽たる姿が、今私達の前ですばらしい活躍をするのだ。

其の時、三年生の讀方で習つた、金剛、那智の事が思ひ出されてならなかつた。

其の内に訓練が始まつた。中でも目立つて面白かつたのは、主人の帽子を犬の前へ置いて、他の人が忍びよつて取るのですが、自分の役目を果そうと思つてゐるのか、中々取らせなかつた。主人が行くと平気であつちを向いてゐた。

それにもう一つ感心したのは、主人と違ふ人は肉をやると食べなかつたのが、主人がやると食べた事である。人間でもおいしい物につられて悪い事をするのに、じつと心棒をしてゐたのに感心した。

もう一つ面白かつたのは、あやしいかつこうをして戸の後にかくれてピストルをうつて戸から出て來た。そのかつかうはまるで匪賊のやうであつた。

犬がさかんにほえてその人にかみついた。いくらふり廻されてもどうしても、その袖からはなれなかつた。其の時、金剛、那智が血みどろになつて敵にかみついてゐる有様が目の前にうかび出た。そしてふと首にまいてあるのが甲號徽章かなと思つた。

會が終つてからも、あの勇ましい犬の姿は私の頭から去らなかつた

日根野小学校尋常五年 藤原美奈子さん 「軍用犬の訓練」より 昭和12年

 

【軍犬実演に協力した組織】

 

学校の軍犬実演に協力した組織は2つに大別できます。

・日本陸軍の軍犬班

・ 帝國軍用犬協會や日本シェパード協會など、シェパードの登録団体

これも軍部や団体として動いたのではなく、地域の陸軍駐屯地や団体支部メンバー単位で対応したものばかりです。

 

・日本シェパード犬協會が協力したケース

 

歴史批評家がやらかす情報操作のひとつに、「善悪の構図への脚色」があります。犬の戦時史でも同じで「陸軍と結託した帝國軍用犬協會(KV)と、純粋な愛犬団体であった日本シェパード犬協會(JSV)」という解説を見かけますよね。

解説者としては「当時の犬界事情を善悪の構図に脚色すれば、読者も理解しやすかろう」とでも思ったのでしょう。要らぬ親切大きなお世話です。

陸軍と結託したKVが悪ならば、海軍に犬を供給していたJSVは何なの?と反論されたらオシマイなので、ああいう手法はマネしないように。

シェパードの登録団体は、否応なしに戦時体制への協力を余儀なくされていました。 露骨に軍犬報國を押し出すKVに比べると、JSVは相当にマイルドな姿勢ではありましたが。

兒童の眼に映じたシエパード欄の試みは、近來にない思ひつきで、とかく理論づくめで歯のたたぬ紙上に、一脈、竣工の和やかさを覚え、私は賛成である。

理屈を言へば、大衆の支持なくしてS犬の普及は到底望まれない。

この意味から先づ、家庭の一員たる兒童にシエパードを訊くのは慥かに的である。

兒童が、S犬を正常に理解することは、やがて一家庭全體の、惹いては大衆の理解ともなり、そこからはじめて、力強い支持が期待もされる。

凡て、ものは近視眼的に観てはいけない。急ぐことは決してない。

せつかく、當欄の發展を冀ふ。まだまだ、S犬を無暗と怖れる子供も多い。また、子供と見れば頭から嚇してかかるS犬もかなりにある。

子供と犬の融和もけつして忽にできない。朝夕、親しくしてくれる近隣の幼な友達に乞ふて、その作品を獲た。締切前、近々数日、いづれも貴重な遊び時間を割いて、ものしてくれた。

久保善吉「愚見」より 昭和12年

 

しえぱーどはいぬのうちでも、一ばんよいいぬですから、ぐんたいでもぐんようけんとして、もんばんさせたり、いろいろのつかひをさせたりします。

ほんとうにしえぱーどはりこうないぬです。うちのひとにはほへず、わからぬひとがくるとすぐほへてうちのひとにをしへます。

このやうなりこうなものですから、ぼくも大きくなつたら、しえぱーどをかふつもりでいます。

ほんとうにいぬはかはいいものです。

いしぶみじんじよう二年生 わたなべたつを

 

 

・帝国軍用犬協会経由で陸軍が協力したケース

 

昨日は突然御伺申上げ誠に失礼いたしました。
御多用のところわざ〃犬舎をはじめ十数種の訓練の實況を御見せ下さいまして厚く御礼申上げます。
犬の訓練のよく行き届いてゐますのに全く感服いたしました。
平生の御努力もさこそと私共児童の訓練に當つてゐます身の一入感じ深く拝見して参りました。
特に私は千葉県出身で軍用犬で有名な故板倉少佐と同郷同窓であります関係上、故友をしのぶ事も出来、軍用犬養成の御努力を感謝すると同時に、益々今後の御活躍を祈念いたす次第です。
帰校後同僚諸兄に話しましたら、私の組も、僕の学級もと、あとどしどし拝見に伺ふかも存じませんが、何卒よろしく御願申上げます。
同封の綴方、児童の感想を加へた御礼心の表はれとして何卒御笑覧下さいます様御願いいたします。向寒の候益々御體御大事にと祈上げます」。

第四岩淵小学校訓導 栗原登 昭和9年11月6日

 

きのうはいろいろ犬のおしごとをみせてくださつてありがたうございます。
軍用犬のならし方をまい日おとうさんにきいてゐますが、きのうはほんとうのならし方をたくさんみました。
ときどきともだちとみにきますが、あのぐらゐたくさんみたのははじめてです。
おはりに人がだぶだぶなきものをきててきをくひつかすけいこをしました。
あの時はすごくびつくりしました。
阿部少尉さん、又みにいきたいがみせてくれますか。
かへるとき犬よりもばかな人がたくさんゐました。
左をあるけといふのに右へばかりあるく人がゐるのです。
ぼくは軍用犬みたいな犬がほしいです。
はじめ犬をいれておく家をみてあるくとき、ぼくはあをくなつてしまひました。
だけど一ぴきづつだすととてもかはいいですね。
ぼくはきのふから犬のことばかりかんがへてゐます。
阿部少尉さん、ではさようなら

第四岩淵小学校第二学年一組 狐塚守雄君

 

阿部少尉さん、きのふは軍用犬を見せていただいてありがとうございました。
みんなよろこんでゐます。
軍用犬のいろ〃のげいをしてみせていたゞいてありがとうございました。
おかげでいゝつづりかたもかけるしいゝゑもかけます

第四岩淵小学校第二学年一組 渋木美智子さん
 

これが書かれたのは、那智・金剛・メリーが戦死した満州事変から3年後。まだ、戦争は海の向こうの話でした。

そして昭和12年に日中戦争が始まり、日本犬界も徐々に戦時体制下へと組み込まれていきます。

 

犬

軍用犬の供出は、軍、自治体、マスコミ、愛犬団体、教育機関など、各方面から推進されました。これを「軍犬報國運動」と呼びます。
日本児童協會 昭和14年

 

【戦時中の軍犬授業】

 

昭和12年に日中戦争が始まると、軍需原皮不足を見越した商工省は犬皮を統制下におきました。

駆除された野犬の毛皮は、それまで三味線や太鼓の材料として流通していたのですが、贅沢品向けの用途を廃し「国家の資源」として管理されるようになったのです。

昭和14年に節米運動が始まると、大衆の鬱憤は犬へと向けられました。

「この非常時に、無駄飯を食むペットを飼うのは非国民」

犬への敵視が高まる中で、従来の動物愛護運動は「軍用動物愛護」や「軍犬報國運動」へと変質していきます。

昭和15年を最後に海外からのペット輸入も途絶し、内地ペット業界の衰退の一途を辿りました。

中国との戦争は、人とモノとカネを際限なく呑み込みながら泥沼化します。

 

戦争末期に存在価値が認められたのは、国家の役に立つ軍用犬、治安機関の警察犬、狩猟報國に協力する猟犬、そして天然記念物の日本犬のみ。それ以外のペットは、無価値な存在となってしまったのです。

 

昭和12年6月11日、東光尋常小学校生を前に実演中の細谷さんと愛犬フリッガ。これを見学した兒童たちの感想文と写生画をどうぞ。

 

 

「ほんとうに軍用犬の強さをしつた。そんなに強くかしこくしたのは人間だが、そんなむづかしい事をおぼえた軍用犬もえらいなーと感心した。しばらくして教練は終つた。

今日はためになる。知つておかねばならないものを實際に見せて下さつて軍用犬に負けないよう僕達も一生懸命先生に學問を教はり、かしこくなつて行こうと思つた」

高二 黒石實くん

 

 

「いつか、第二電気館で、「戦線に吠えろ」といふ映畫を見た。あの時も軍用犬の訓練の様子を見ることが出來た。そして軍用犬が戦場で非常に重大な役目をすることが解つた。

初から終まで感心ずくめで終つて、その後でみんながならんでからやかましくいつてゐるので、校長先生が「そんなこつちやあ犬にまけるぞ」といはれた時、私はそうだ犬に負けないやうに立派な功績を世に残さうと思つた」

高校二年 加藤末三くん

 

 

「僕は後から西上さんの仔犬のやうに満洲の第一線へ行つてゐるやうな犬もあり、細谷さんのやうに主人をしたふ犬もあり、通信をするし、塀も越えるし、泥棒、匪賊などを捕へる犬もある。

又主人の物を守ることが出來る。それで軍用犬は國家にとつて大切なものであるといふことがよくわかつた」

尋常六年 和阪諦一くん

 

 

「逞しい栗毛、艶々と光る黒、それからどつしりとした大きな体。いかにも勇ましく、役にたちさうである。

又それだけに頼もしい気もする。この軍犬が重寶がられるのは實にかういふわけである。私は日本の為に身をささげて活躍する兵隊さんや、軍犬に、一人頭の下がるを覚えます。

敵に對して飛びかかるその勇姿、今も目先にちらつく。その首にかけた勲章が燦然と光を放つ神々しさに感をうたれる」

尋常五年 安井恭子さん

 

 

「訓練でさへこんな有様であるから、本當に戦場へ出ればどんな目ざましい活躍をするだらうと思へば、自然に胸が躍動するやうであつた。

あの満洲事変で盛に活躍した那智・金剛・メリーの三匹の霊も、今は赤い夕日の沈む満州の地に静かに眠つてゐるであらう。

犬でさへもこのやうに訓練を受けて人に劣らないやうな働きをするのであるから、僕等も軍用犬に負けないやうしつかり御國の為に盡さねばならない」

高校一年 村田経太郎くん

 

 

「人は益々犬を利用して軍事の為に使用せねばならぬ。まして日本の國においては非常時である。西洋ではきまつて犬を飼つてゐるといふことである。我が國では尚さら犬を飼ふ必要があると思ふ。

人に出來ない事で犬によく出來るといふことがたくさんある。だからこれからの世の中は、犬に對する智識をもつて今までより、もつともつと研究して行かねばならない」

高二 西村十一くん 昭和12年

 

 

「犬もいろ〃とあります。犬の中で一ばんかしこいのは軍よう犬です。ぼくはくわつどうしやしんで見ました。犬は國のために、一生けんめいに働いて、てつぽうのたまをはこんだり、支那兵にかみついたりして、なか〃人間でもできないはたらきをします。
又いつか學校でも軍用犬を見ました。かはれてゐる人のいふことをよく聞きましたのをかんがへると、ぼくも先生のおしへをよくまもつて、よい日本人にならうと思ひます。
しつかりべんきやうをしないと犬に負けるかもしれません。 
をはり」
大阪府 尋常2年 井上國雄くん 昭和13年

 

 

「この間はみんな、らうかの窓から軍用犬のげいを見ました。その軍用犬はいくさに行くのださうです。軍用犬はとても賢い軍用犬です。
軍用犬をあつかふ人の左側に、いつもついてゐます。
又その人の言ふこともよく聞きます。
さうしてその人が奉安殿の後の遠くのたんぼのなかへ何かかくして来ました。
軍用犬はよくみつけてもつて来ました。
その人は軍用犬の頭をなでてくれました。
軍用犬は喜んでゐました。
それを私が見て感心しました。
それから軍用犬がその人の大切な物を蕃してゐる時にエイ子さんの父さんと知らない人が二人とで、取らうとしました。
軍用犬はわんわん吠へました」
山形縣 尋常三年 室岡キヨさん 昭和13年

 

 

「ベンキヤウガヲハリマシタ。
オジギヲシテタイソウバヘデテ、ゲンキヨクアソンデヰルト、先生ガ「キクチカズヲサンノオトウサンガ、シエパードヲツレテ來マスカラ」ト、オツシヤイマシタ。
ミンナ少シオツカナイヤウナカホヲシテ、先生ノオハナシヲキイテヰマシタ。
ミンナオベンタウヲタベテカラ、グランドノマハリニアツマツテ、シエパードヲ見マシタ。
ワタノキモノ(※防御衣のこと)ヲキタヘイタイサンガ、タマヲ入レタピストルヲモツテ、犬ノ所ニウツテヤルト、犬ガカカツテ来マシタ。
コンドハ犬ニ、ピストルノバンヲサセマシタ。
犬ハピストルヲ手ノ中ニカクシテ、ダレニモトラレマセンデシタ。
ソレカラ山ノ方ニワスレテ来タ、シユジンノ手ブクロモサガシテ来マシタ。
デンレイノヤクメモシマシタ。
イロイロノコトヲ見テ、犬モ「人グライリカウダ」ト、オモヒマシタ。
ボクモ、犬ニマケナイヤウニナリタイトオモヒマシタ」
山形師範付属小学校 一年 タカシマロトくん 昭和14年

 

【尋常小学校から国民学校へ】


連合国による蒋介石政府への支援ルートを絶つべく、日本はフランス領インドシナへの進駐を拡大。周辺に植民地をもつ各国はこれに警戒感を募らせ、石油の禁輸を含めた経済封鎖へと動きます。

日本が対米戦へ踏み切った昭和16年、小学校は「国民学校」へと名前を変えました。

軍犬武勇伝の教材化も継続され、「犬のてがら」に続いて、「軍犬利根」が教科書に載ります。

 

犬の描き方とクレヨンでの彩色学習にも、軍事色があらわれています。

「初等科図畫」10.軍犬より 昭和17年

 

陸軍教育総監部は国民学校教科書に対する陸軍要望事項を出し、教育現場も戦時体制へ追加投入する人材の育成に邁進します。

小学生は働き手の若者がいなくなった農家への奉仕作業、高等学校になると軍需工場での勤労奉仕、満州開拓義勇軍への募集、軍事教練へと駆り出され、授業どころではなくなってしまいました。

本土空襲が始まると、犬猫のことより我が身を護ることで精一杯。遂には教育体制も崩壊します。

 

「オンヲ忘レルナ」 の報恩も、 「犬のてがら」 の忠勇も、戦争後期の逼迫した状況下では顧みられなくなってしまいました。

それどころか「もう一度お国へ貢献しろ」とばかりに、彼らの像まで狙われます。

子供たちに感銘を与えた渋谷ハチ公像も、勇ましい軍犬の活躍を末永く記念する筈だった逗子忠犬之碑も、金属資源として供出されました。

どんなに祭り上げられようと、所詮は犬。非常時に於ける扱いはこの程度だったのです。

 

【満州国における軍犬授業】

 

軍犬を使った授業は、日本ばかりでなく満州国でも行われていました。

日本の帝國軍用犬協會(KV)と共に、満州での軍犬報國運動を担ったのが満洲軍用犬協會(MK)。そのMKでも、児童への宣伝活動に取り組んでいた様です。

 

・満州軍用犬協会が協力したケース

子供と犬」は大昔から好伴侶であつた。
純真な童心は詐りの無い犬の心によつて虚無の世界を作る。
子供と犬が絵ともなり、詩ともなる所以であらふ。
過般大連日日新聞社発行の小学生新聞では、子供報道隊員に依つて軍犬の見學を行ひ、其の眼から、耳から受けた軍犬の感想文を綴らした。
童心に映つた軍犬、単に児童の作品として軽く扱えない純真なものがあり、其の一部を抜粋して軍犬と子供の相関性を窺ふ事にしやう。

社團法人満洲軍用犬協會 「童心に映つた軍犬」より 昭和19年

 

満洲

 

・生徒の感想

戦争と犬―近代の戦争は科學戦だといはれてゐるとき、馬や鳩とともに目ざましい活躍をつづけてゐる軍犬のあることを忘れてはなりません。
満州事変の時、人も及ばない立派な手柄を立て、兵隊さんを泣かせたといふ金剛・那智の働きは、あまりにも有名でよく知られてゐます。
これらの軍犬はどのやうにして訓練するのか、一日南山麓の満洲軍用犬協會を見學させて頂きました。
さうして、いろ〃と犬についてのお話をお伺ひしました。
軍用犬とは軍隊で活動するやうになるまでの訓練中の犬をいひ、これにはシエパード、エアデルテリヤ、ドーベルマンピンシエールの三種類があり、約三ヶ月くらゐで訓練ををはつて「一匹前」になるさうです。
もちろん兵隊さんのやうに規律正しい訓練で大和魂をうつされるまでには訓練士の並々ならない苦心があるわけです。
また軍犬とは訓練ををはつて軍隊で活動をつづけてゐる犬をいひます。
では秋田、土佐、樺太などの日本犬はどうして軍犬として使用しないかといひますと、まづ純粋な日本犬は少いのと、自分の主人の言ひつけはよくきくが、他人のいふことはきかないので軍犬には都合が悪いのださうです。
今日ゐた戦友は明日にはもう居ないといふ戦争下、これでは軍用犬として使用できませんから、主に番犬として使用します。
今や大東亜戦争も決戦につぐ決戦のとき、一頭でも多くの優秀な軍犬を、お國のために育てなければなりません。
自分のなぐさみや子供のおもちやのやうに犬飼つてゐる時代ではありません。
よい犬をうんとふやしたいと思ひました」

大連子供報道隊員 日出校六年加納稔くん 「よい犬をうんと」より 昭和19年


現代の軍事オタクよりも、小学6年生の加納君の方が「近代的軍用犬」の概念を正しく捉えていますね。 たとえ満州軍用犬協会の受け売りだとしても、教科書にしたい位の内容です。

これぞ軍国教育の成果。

 

「持つて來い」
投げた物をとつて來る訓練である。
犬(あとで太郎號といふ名前だとうかゞつた)は燕のやうに投げられた棒をめがけて突進した。見つけるとくはえて、うれしさうに王さんのところへ持つてゆく。
みんな拍手してほめてやる。
つづいて城壁のとびこえ、濠のとびこえと何の苦もなくやつてのける。
じつに身がるである。
王さんは帽子を地に置き「これを守れ」と命令した。
係員の方が三人で、その帽子をとろうと太郎號をとりかこんで、すきを見て帽子に手をのばすと、吠えたてて寄せつけない。
何度やつても近よれない。
感心したのはぜつたい帽子から離れないで護るといふことだ。
日本の兵隊さんが軍旗を死守する覚悟にもおとらぬ立派なはたらきである。このやうに訓練するまでには、どんなに苦心されるだらうと、僕は心から感心し、その御苦労に頭のさがる思ひがした。

大連常盤小学校六年 堀田護くん 昭和19年

 

訓練場に整列して待つてゐると、犬舎の方で「私を出して下さい、私を出して下さい」といふやうにけたたましい犬のなきごゑが起つた。
やがて訓練士の王さんが見るからに逞しいシエパードをつれてあらはれた。
いよ〃訓練がはじまる。
最初は脚側行進である。
犬は王さんの左側によりそつて、半歩くらゐさがつて王さんの進む通りついてまはる。
急げば急ぎ、ゆつくり歩けばゆつくり歩く。
「訓練のできた犬かさうでないかは、町で出あつても、これでわかりますよ」と訓練長の吉村さんが説明して下さつた。
つぎは「止れ」「すわれ」「伏せ」「進め」の號令にしたがつて動く訓練があつた。
すわるときは右からまはつて左にすわる。命令をよくききわけるのには感心した。
王さんは、そのたびに犬のくびのところをなでて「ようしようし」と、ほめてやるのだつた。

大連朝日小学校六年 長久保満知子さん 昭和19年

 

 

・南満州鉄道株式会社が協力したケース

 

満洲における軍犬授業ですが、MKのほかに南満州鉄道株式会社(満鉄)でも似たようなことをやっています。

 

満洲国では、満洲国軍や関東軍の軍犬、満州国警察の警察犬、満州国税関の国境警備犬など、多様な警備犬群が活動していました。

満洲鉄路総局と満鉄も警備犬部隊を運用していた組織のひとつ。

その任務は、鉄道や炭鉱の警備から抗日ゲリラへの索敵警戒まで広範囲に亘ります。

これらの警備犬群を宣伝するため、日人兒童だけでなく、満人兒童に対してもPR活動が行われていたのでしょう。

 

 

・満鉄関係者の声

この日―吾々(※満鉄警戒犬)育成所の近くに満人児童を教育して居る瀋陽扶輪小學校と云ふのがあるが、同校は日系の五頭校長を初めニ人の日人の先生があるので、朝 夕出勤列車中で挨拶を交してゐる中、警備犬訓練公開のお話をした所、校長も非常に賛意を表して喜ばれ、是非近い中に御願ひしますとの談合により―五周年記念展の向ふを張るべく(ホホ……)五月一日の吉日を選び吾育成所に五百余りの兒童を招き例に依つて訥弁ながら一場の説明を為し次いで訓練の公開を致しました。
全く珍らしいと云ふか、不可解と云ふか訓練手の一挙手一投足に従つて活動する警備犬の姿及び動作にジーツと見入つて訓練を終了する迄丸で神秘の何物にか引きつけられたる如く静観してくれた熱心さには吾々育成所の連中も非常に感激した。
當日満人児童に映じた感想文(訳文)を一部転記して誌友に御紹介致しませう。

満鉄・細川伊與三氏 「満犬スケッチ」より 昭和12年

 

 

・生徒の感想

五月一日我校三年生以上は十二時過ぎ揃つて警備犬訓練を見に行きました。
この日天に雲なく晴れ渡り遊ぶにはほんとによい日でした。
分校も来ました。
すると向ふから所長さんがおいでになつたので校長さんは我等に起立させ礼をし所長さんから色々話がありました。
それから一人が、犬をつれて場内に来て色々な訓練をしました。
遺失物を拾はせたり襲撃をさせたり、伏せをさせたりなか〃人でさへむづかしいことをよくしますので思はず讃嘆の声を出しました。
終わつて三頭の犬を我等の前につれて来て犬の名や、産地用途等を説明して下さいました。
更に私等高ニ生は犬小屋の方へ参観に行きました。大きな犬や小さい犬が居てワン〃と吠へました。
犬の食料室を見ますと卵や肉や白菜等人の食物よりもよいのに驚きました。
毎日一匹に参拾銭もかゝるさうです。しばらくして学校へ帰りました。
犬のやうに無智な動物でさへこのやうに役に立つのに況して、萬物の霊長たる人が犬に劣つてはなりません。
大に努力して勉強せねばなりません。

警備犬訓練参観記 5月1日
瀋陽扶輪小学校 高ニ甲 鄭張龍くん

 

「初等科図畫・女子用」より 昭和17年

 

この時代の児童が、そして犬が、否応なしに戦争へと巻き込まれていきました。それを考えると暗然とした気持ちになります。

「犬のてがら」や「オンヲ忘レルナ」を学んだ少年たちの多くも、戦争末期には兵士や軍属として各戦線へ送り込まれたのでしょう。

ハチ公のように国家へ忠義を尽くし、那智號のように戦った彼らは、戦争を生き延びることができたのでしょうか。

 

軍犬兵と軍犬。戦時中の撮影

 

 


児童教育と犬(第4回)軍犬武勇伝「犬のてがら」

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犬もいろ〃とあります。犬の中で一ばんかしこいのは軍よう犬です。
ぼくはくわつどうしやしんで見ました。犬は國のために、一生けんめいに働いて、てつぽうのたまをはこんだり、支那兵にかみついたりして、なか〃人間でもできないはたらきをします。
又いつか學校でも軍用犬を見ました。かはれてゐる人のいふことをよく聞きましたのをかんがへると、ぼくも先生のおしへをよくまもつて、よい日本人にならうと思ひます。
しつかりべんきやうをしないと犬に負けるかもしれません。 
をはり


大阪府 尋常2年 井上國雄くんの作文 昭和13年

 

逗子延命寺に建立された軍犬ジュリー慰霊像「忠犬之碑」。

 

日中戦争開戦の二年前に尋常小學修身書へ掲載された、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」。

中身は単なる哀犬物語であり、指導要領から見ても情操教育や皇民化教育に該当する教材でしょう。教える相手も小学二年生ですし。

 

しかし、世の中には「手当たり次第に世の中を斬るカッコイイ自分」を売りにする評論家が存在するのです。彼等の手にかかれば、感動の愛犬物語も「国家による軍国主義教育」へと早変わり。
戦争へ向かう時代、ハチ公物語の教材化にも国家の意図が介在していました。
しかし、「ハチ公物語も軍犬美談のように軍国教育へ利用されたの“だろう”」と、イメージだけで語られては困ります。

結果、そんなタワゴトを鵜呑みにして「ハチ公は軍国教育に利用された!けしからん!」と怒り狂う人が大発生。

「オンヲ忘レルナ」を読むたび疑問に思うのですが、本当にハチと軍国教育は関係あるんですかね?
そもそも、軍犬那智を描いた「犬のてがら」と、忠犬ハチを描いた「オンヲ忘レルナ」は区別できてます?

 

教科書に軍国主義的な教材が掲載されていた当時、忠犬物語と軍犬武勇伝の境界が曖昧になるのは仕方ないのでしょう。

そうであっても、批評する以上は対象に目を通すのが必要条件です。自説の根拠が「どこかの誰かのハチ公論をリツイート」とか、何だそれ?

そんなシロモノはアナタ自身の意見ですらありません。

【忠犬物語と軍犬武勇伝】

 

昭和に入り、修身書はハナハト読本からサクラ読本へ

「コトバノオケイコ」より 昭和16年


それでは、児童用尋常小學修身書巻二 「オンヲ忘レルナ」 と、尋常科用小學國語讀本巻五「犬のてがら」を比較します。
「軍国主義の教材」を、一緒に読んでいきましょう。

まずは巻五の二十二番目に載っている、「犬のてがら」から。
こちらは昭和6年9月18日、満州事変当夜に張学良軍の北大営兵舎を襲撃し、敵兵を咬み倒した末に戦死した軍犬「那智」「金剛」姉弟の物語。

軍国教育の見本みたいな教材です。

 

元となった「柳条湖事件」の解説はこちらをどうぞ。

当時の小学生(というか国民全体)は、こんなウソを信じ込まされていたのです。

 

誤「奉天の支那兵が、我が南満洲鉄道を爆破したので」

正「関東軍の板垣某と石原某が、自作自演で我が南満洲鉄道を爆破したので 」

「第六學年用 小學生の國史」より 昭和11年


いきなり教科書を読んでも状況が良く分らないと思うので、「犬のてがら」の背景から説明します。

 

新兵器や新戦術の研究機関であった、千葉県の陸軍歩兵学校。

同校では大正時代から軍用犬研究班を編成し、メンバーは愛犬団体「日本シェパード倶楽部(NSC)」へ入会して最新のノウハウを学ぶなど、実戦化へ向けた研究を重ねていました。


昭和6年3月、歩校軍用犬研究班の板倉至という中尉が満洲へ赴任する事となりました。軍用犬の専門家として、奉天の獨立守備隊から招聘されたのです。
自分が育て上げた軍犬ホープを連れて行こうとする板倉中尉に対し、ホープを宣伝活動に用いたい歩校は同行を許可してくれません。
困り果てた中尉が相談を持ちかけたのは、かつて山東省青島から献納されたホープを歩兵学校まで届けてくれた浅野浩利さん。NSC会員の板倉中尉と、TSC(青島シェパードドッグクラブ)会員の浅野さんは、両団体を通して以前から交流があったのです。
ちょうどその頃、青島の浅野さん宅では、青島公安局警察犬ロード號と愛犬小夜丸の間に仔犬が生れたばかりでした。
浅野さんは、その中から一番賢い「那智(♀)」を板倉中尉にプレゼントします。
那智が板倉中尉の待つ大連港へ旅立つ日。浅野さんの奥様が「那智だけで長旅させるのは可哀想」と言い出したため、弟の「金剛」も一緒に贈られることとなりました。


那智・金剛姉弟と日本から寄贈された「メリー」の3頭は、板倉大尉(満洲で昇進)の元で訓練を受け、関東軍獨立守備歩兵第2大隊所属の伝令犬となりました。
それから半年後の9月18日、満鉄の線路を爆破した日本軍は、それを中国側の仕業として一斉に攻撃を開始します。いわゆる「満州事変」の始まりでした。
張学良軍の北大営兵舎襲撃には、板倉大尉と愛犬達も参加。そして、混乱の中で3頭とも戦死・行方不明となりました。

愛犬を喪った大尉は、新たに軍犬「ジュリー」を購入。その直後、 同年11月27日の白旗堡戦で板倉大尉も戦死してしまいます。
「国家に命を捧げた主人と犬」の話は大々的に報道され、遂には児童用の教材となった訳です。

大尉の遺族はジュリーを連れ、日本へと帰国。神奈川の逗子で平和に暮らしていたジュリーですが、昭和7年に病死しました。

 

板倉少佐

歩兵学校時代の板倉至中尉(前列中央の将校・階級は当時) 
陸軍歩兵学校アルバムより


では、「犬のてがら」と板倉大尉の手紙を読み比べてみましょう。


満洲事変の最初の夜の事でした。
我が軍にしたがつて、傳令の役をして居た軍犬金剛・那智は、いよ〃とつげきとなると、我が軍のまつ先につき進んで、敵軍の中にとびこみ、死物ぐるひで、かみつきまはりました。
はげしい戦の後、敵はとう〃陣地をすてて逃げました。
をりから上る朝日の光に、高くかゝげた日の丸の旗は、勇ましくかゞやきました。
萬歳の声は、天地にとゞろきました。
しかし、あの金剛、那智はどこへ行つたのでせう、いくら呼んでも、かへつて来ませんでした。
犬のかゝりの兵士は、一生けんめいになつてさがしました。
とう〃見つけました。
けれども、それは、をり重なつて死んで居る敵の死がいの間でした。
二匹は、身に幾つものたまを受けて、血にまみれて死んで居ました。
よく見ると、二匹とも、口には、敵兵の軍服の切れはしを、しつかりとくはへて居ました。
これを見た兵士は、思はず涙ぐみました。
軍犬の金鵄勲章ともいふべき甲号功章を、始めていたゞいたのは、實にこの金剛・那智でありました。
小學國語讀本巻五「犬のてがら」 全文

続いて、板倉大尉が浅野さんへ送った那智・金剛の戦死を伝える手紙です。

「漸く寒気身に沁む昨今、而も時局重大の折柄、一兵も皇軍の存在なき御地の近況、如何に候や御伺申上候。
其後は豫想外の御無音に打過ぎ居候も、事変前の暗雲低迷中に過し、極度の緊張を呈し居りし際とて悪しからず御許容下され度候。
去る九月十八日夜の事変以來、既に一ヶ月を経過し時局益々重大を加へ、満蒙百年の大計の為め 目下関東軍は其許されたる権限最大限度まで活動致居候。
當守備隊はかの鐵道爆破により、直ちに非常呼集を以て戦闘準備を整へ、一萬二千の北大営の敵に對し、僅に五百有餘の大隊の採るべき道はそも如何?
攻撃せんか数之に敵せず、防御せんか徒らに敵を強暴にするのみ、既に第三中隊は敵と交戦中なり。
於之『最良の防御は攻撃するにあり』との戦理に基き、大隊は全滅を期して北大営の夜間攻撃を決行致候。
幸天佑と神助により死者僅に二名の犠牲者のみにて北大営を占拠し、次いで東大営を攻撃、翌午前十一時半之を領有し、夕刻に一挙兵営に帰還するや直に鐵道守備本然の任務に復帰し、長大なる鉄路の警備に服し居候。
偖て、北大営の戦闘に際しては、當隊軍用犬も勇敢に参加し、取扱兵と共に敵を攻撃し、又先般御寄贈を賜りし那智金剛の二頭も、敵弾雨下の中に勇敢に傳令の任務に服し活躍致候ひしも、午後十一時より翌朝午前六時に亘る暗夜の激戦の事とて人犬相離れ、主は犬を求め、犬は主を捜すも、天明に至るも遂に那智、金剛、メリー三頭の姿なく、戦闘以來三日後北大営内を隈なく捜索せしに、メリー號は敵弾の為め腹部貫通銃創を、那智號は胸部貫通銃創を受けて、共に戦死しありしを發見せるも、金剛號の行衛は終に發見するに至らざりしも、名誉の戦死を遂げたる事推察に余り、誠に残念に有之候得共、勇敢なる戦士として敵弾の為め名誉の戦死を遂げたるは、軍用犬将來の為め決して無駄死に非ず、後輩数多軍犬の發展上大なる功績を挙げたるものと確信致し居候。
北大営戦死の地に墓標を立て其の霊を慰め申候。
御報告相遅れ申候得共、守備隊の現況並北大営に於ける軍犬の活躍状況簡単ながら御通知申上候。
寒風身に沁む昨今、軍犬も鐵道沿線に配置し警戒の任に服し居候。
先は不敗敢右まで。
敬具
十月二十七日 奉天獨立守備第二大隊 板倉大尉
浅野 浩利様机下」


北大営兵舎へ突撃する板倉大尉と那智。

板倉大尉の手紙と「犬のてがら」、二つの内容は随分と違いますね。
傳令の役をして居た軍犬金剛・那智」は
敵軍の中にとびこみ、死物ぐるひで、かみつきまはり」などせず
身に幾つものたまを受けて、血にまみれて死んで」いたのは確かですが
二匹とも、口には、敵兵の軍服の切れはしを、しつかりとくはへて」いたなど、大尉の手紙には書かれていません。

ところが、戦死した板倉大尉の後任者である貴志重光大尉(同じく歩校軍用犬研究班出身)は「那智・金剛姉弟は敵と格闘の末に戦死、メリーは後日生還」と勇ましい武勇伝に書き換えた上、軍用犬の宣伝工作へと利用しました。
捏造の物語は真実の武勇伝として報道される事となったのです。武勇伝の脚色が重ねられるうち、メリーの名前は抹消されてしまいました。


これに関して「メリーの存在が消されたのは彼女が外国名だったから」という説もありますが、ただ単に「姉弟犬が揃って戦死した」という方が話としてインパクトがあっただけでしょう。
緒戦から敗戦に至るまで、洋犬のシェパードに外国名を付けるのは日本軍でも当たり前の行為でした。敵性語とか無関係ですよ。その後、シェパードを生んだドイツは同盟国となるのですから。

 

帝國ノ犬達-貴志

那智・金剛武勇伝を宣伝した貴志大尉(後列手前)。軍犬は那智達の後に配備されたドル、エス、ジョン。

戦死から二年を経て、那智と金剛には甲功章が授与されています。
しかし、メリーだけは授賞対象から外されました。犬が勲章を欲しがる筈もありませんが、同じ戦いで犠牲となった3頭の評価に差が出た理由は分かりません。
「功章を授与された軍犬」の報道効果は絶大で、那智と金剛は日本軍犬の象徴へと祀り上げられてゆくのでした。
大陸生まれの那智と金剛は、その生涯で日本列島など見たことも無かったのですが。

まあ、そんな経緯があって那智・金剛姉弟だけが教科書へ掲載された訳です。

戦死から2年後、甲功章を授与された那智と金剛。


扨て。
以上の様な事実を以て、「那智・金剛とハチ公は国家に利用されたのだ」と批判されています。
「犬のてがら」は勿論その通りでしょう。

当時、動物を題材にした軍国教育(軍馬や軍鳩も含みます)は普通に行われていました。

目的は、軍用動物の存在を児童に知らしめ、その活躍を讃えることです。

戦地で働く犬がカワイソウ、という素直な感想など許されなかったのかもしれません。
いっぽうで、軍犬・軍鳩・軍馬愛護運動を通して動物への慈愛を育んだ子供も、当時は確かに存在したのです。

 

軍用動物に関する教材は、イヌ以外に幾つもあります。戦地や占領先で出逢った動物の話などを含めると(兵士のペットとか)、かなりの数になるはず。

 

敵陣への突撃で戦死した騎兵中尉と、その愛馬との関係を描いた教材。

國尋常小學学校國語讀本巻九 第二十二「北風號」より 昭和4年

 

軍事用を含め、伝書鳩の働きを解説した教材。

尋常小學國語讀本巻十 第十一「傳書鳩」より 昭和4年

 

 

【軍犬武勇伝の教材化】

 

何かの暗号文みたいですが、進軍ラッパの擬音語です。

「コトバノオケイコ」より

 

軍用犬種の普及と宣伝をはかる社団法人帝国軍用犬協会は(話を最初に改竄したのは彼等ではありませんが)、この美談を軍犬報国活動の為に利用しました。
それ故、話の中身も更に捻じ曲げられて行きます。昭和10年になると、メリーは存在すら抹消されてしまいました。

我等東洋民族の永劫に記念すべき満洲事変勃發の日、柳条溝(※柳条湖)に端を発した戦闘に引續いて第二大隊は北大営攻撃に決した。
故板倉少佐愛育の軍犬那智金剛は第二中隊に配属され、墨を流した様な暗夜、徹宵寒風を突いて、中隊・大隊本部間の傳令に任じ、敵弾雨飛の中を勇敢に其任を遂行した。
が、愈々戦闘酣となり、第一中隊が機関銃槍軍に突入、白兵戦に入るや否や両犬は身を躍らせて敵中に闖入し敵を咬殺、咬傷し人間も及ばぬ働きをしたが、遂に名誉の戦死を遂げた。

帝國軍用犬協會

話が練り上げられた所で、那智と金剛の武勇伝を子供達に広く伝える為の計画が開始されました。
昭和9年12月、那智と金剛の話を教科書に採用する事が決まります。

既報相州逗子小學校兒童の可憐な手で、昨年七月七日逗子町延命寺内に建立された、忠犬銅像の主人公である軍用犬那智・金剛の物語が、明年の國定教科書尋常三年用讀本巻五の第二十一課に「軍用犬」の題で愈々採用される事に十一月二十日の文部省國定教科書編纂會議で決定した。
昭和9年

 

「延命寺内に建立された忠犬銅像」とは、那智・金剛・メリー戦死後に板倉大尉が新規購入した軍犬「ジュリー號」の墓碑のことです。

昭和6年11月に大尉も戦死したことで、彼の妻子はジュリーと共に日本へ帰国。神奈川の逗子で暮らし始めました。

翌年にジュリーは病死してしまい、延命寺脇の竹藪へ葬られます。軍犬の墓が粗末な土饅頭であることを憐れんだ小学生たちは、延命寺住職の許可を得て墓石購入を発案。

校内で募金活動を始めたところ、それが新聞報道されたことで寄付金が殺到します。更には陸軍省までもが介入し、軍犬慰霊銅像の建立へとヒートアップしていきました。

ジュリー像には奉天の関東軍から那智・金剛の遺骨(とされるもの)まで届けられ、ジュリーと共に葬られました。

 

以降、逗子の「忠犬之碑」は軍犬報國運動のシンボルと化したのです。

 

逗子小学校生徒によるジュリー墓碑建立計画では、画像のようになる筈でした。

 

逗子小での募金活動が新聞報道された結果、賛同者からの寄付が殺到。更には陸軍が介入して、こんな銅像が建立される騒ぎへ発展します。

 

因みに、完成した実物。

 

那智と金剛の物語が教材化されたのは、逗子忠犬之碑の完成から二年後のことです。


神奈川県逗子小學校児童の熱誠により逗子延命寺境内に、我が國最初の忠犬銅像として祀られてゐる金剛那智の二忠犬の物語がいよ〃國定教科書に採用される事に決定した。
十一月月二十日文部省に於ける編纂官会議に於て明年度から使用される尋三前期用巻五讀本の第二十一課に『軍用犬』若しくは『金剛那智』の題下に載せられることに協議決定を見たものである

帝國軍用犬協會

当初予定のタイトルは変更となりまして、昭和10年3月、新学期から尋常小学校で使われ始めた小學國語讀本巻五に「犬のてがら」として那智・金剛の話が掲載されました。

今川勲氏は、著書「犬の現代史」の中で下記のように批判しています。

「もはやこの『犬のてがら』は完全に粉飾され、『物語』と化している。あたかも軍犬が兵士といっしょに敵兵に向かって戦い、犠牲になることが本望であるかのように語るこの物語は、読んだ生徒に対し何を印象づけようとしたのか」

何だか陰謀論っぽく書かれていますが、これには同意できません。

 

「犬の現代史」はたいへん優れたテキストなのですが、歴史批判の立場に固執するあまり「印象づけ」を自身もやらかしているのが玉にキズ。
そもそも教科書に載った昭和10年4月の時点で、教材化の目的は世間に公表されているんですけどね。

 

これは昨年(※昭和9年)募集した教材の當選文の一つを書き直して讀本の文章にしたもので、題して「犬のてがら」と云ひ、「那智」「金剛」が敵軍に突進し、 腹部に敵弾を受け仆れ乍らも咬み取つた匪賊の服の一部を離さず、白雪を鮮血に染めて天晴な最後を遂げたその勇敢な行動を簡単な叙述乍ら髣髴たらしめてゐ る。

これが全國何萬何百萬の第二の國民に如何に感激を以つて読まれ、教へられ、印象づけられるかを考へる時、我々軍犬報國を念願とする者の喜びと期待は大きいものがある
「改定新讀本に那智・金剛の美談掲載さる」より 昭和10年4月

「何を印象づけようとしたのか」などと揶揄されずとも、“応募作品の中から選んだ教材は、軍犬の勇敢な行動について「感激を以て読まれ、教えへられ、印象づけられ」ています”と、最初から明らかにされていたんですよ。

犬のてがらの掲載経緯を調べれば、今川氏をふくめて誰もがこの事実に行きあたる筈。それを取り上げるか否かで、イメージ操作も可能となります。

 

この手の回りくどい批判手法にはウンザリしたので、「犬のてがら」の指導要領を掲示しておきましょう。

犬


小學國語讀本指導書 尋常科用巻五 二十二 犬のてがら 

教材観

一、文の主題
この文は満洲事変の際名誉の戦死を遂げた金剛・那智両軍犬の悲壮な物語を書いたものである。
この両軍犬の戦功をば、人間の在り方としての「忠節」としてとらへたものがこの文となつたものとする事が出來るであらう。
二、文の機構
人間の在り方としての「忠節」を主題としてゐるこの文は、然らば如何なる表現形式をとつてゐるかと云ふに、事實物語として、讀者に犇々とせまり來る様に叙べられてゐるのである。
先づ、「満洲事変の最初の夜の事でした」と切り出して、犬の戦功をたてる時と處とを明示してゐる。今回記憶に新しい満洲事変、その満洲事変と聞いた丈けですでに血湧き肉躍ることを禁じ得ないものがある。
次に、いよ〃その時と處との上に、軍犬金剛・那智を登場させてゐる。「死物ぐるひで」と云ふ言葉に、両軍犬の奮闘ぶりを思はせるものが充分にあると思ふ。 戦すんで日の丸が勇ましくかゞやいたが、両軍犬の姿が見えない。そこでそれを探し求めると「血にまみれて死んで」居たのである。
その軍犬が、口に「敵兵の軍服の切れはしをくはへてゐた」と云ふところに、心ばえと云ふものを思はせられるではないか。
最後に「甲功章」を授けられて、その戦功をみとめられたことを記してこの物語を結んでゐるのである。
で、この文を分節して見ると、凡そ次の様になる。即ち
第一節 百一頁五行目まで、時と處。中心語句「満洲事変最初の夜」
第二節 百二頁四行目まで、両軍犬の奮戦ぶり。中心語句「我軍のまつ先につき進んで、敵軍の中にとびこみ、死物ぐるひで、かみつきまはりました」
第三節 百三頁四行目まで、両軍犬の姿が見えないこと。中心語句「いくら呼んでも、かへつて來ませんでした」
第四節 百四頁四行目まで、勇ましい戦死の姿。中心語句「血にまみれて死んで居ました」「敵兵の軍服の切れはしを、しつかりとくはへて居ました」
第五節 終まで、論功。中心語句「甲號功章を始めていたゞいたのは」

 

帝國ノ犬達-犬のてがら2

「犬のてがら」より 昭和10年
画像に写っているのは甲號功章付首輪です(功労軍用動物には、甲・乙・丙の功章制度がありました)


三、子供と教材
戦争の話、犬の話、どちらから見ても、子供の心をとらへずには置かぬものがある。しかもそれが、神奈川縣逗子町の延命寺に記念碑さへ建てられてゐる美はしい物語として、他の讀物で紹介されてゐることでもあるから、一層面白く讀まれることであらうと思はれる。
文も引きしまつたきび〃したもので、この悲壮な物語を語るに好適な形式をとつてゐるので、子供からは喜ばれるであらう。
四、文字・語句
「我」ワが。會意文字。手と戈の合字。自身のこと。戈(ほこ)を取つて身を護る意であらうとされてゐる。
「戦」イクサ。形聲文字。戈(ほこ)をとつてたたかふこと。故に戈を書く。単はその音符となつてゐる。タタカフ義には、戦・闘・鬨の別がある。戦は乱世の 合戦で大勢切りあつてタタカフこと。闘は相手に向つて切りあひ或はつかみ合ふこと。戦の小さいもの。鬨はタタカヒの聲である。
「陣」ヂン。形聲文字。うち正して布き列ねること。軍隊又は陣屋の義とする。
「幾」イク。會意文字。こと戌の合字。物の表れ出ようとするキザシで危いこと。即ち、機微、危機の義。幺幺は隠微、戌は守兵である。兵が敵を防ぐには、危 きを機微の間に察することが大切である。故に幺幺の會意が生れたのであつて、キザシ・アヤフシ・察す等の義とし、転じてホトンド・チカシ・ネガフ義とな り、更に又、幾何と数の多少を問ふ語となつた。
「涙」ナミダ。形聲文字。目液也とある。故に三水偏。戻はその音符である。
「實」ジツ。會意文字。家の中に金銀財寶が充満すること。故にウ冠(原文はウで表示)と貫を合せてその義を示す。實は財貨の義である。転じて虚の反對、マコト・内容・本質・果實等の義とする。
「満洲事変」マンシウジヘン。昭和六年九月十八日、奉天北大営附近の日支の衝突に端を發し、満洲國創建に至つたところの事変。
「傳令」デンレイ。命令を傳へること。
「とつげき」突撃。つきすゝみうつこと。
「死物ぐるひ」いのち限りにふるひ働く有さま。
「陣地」ヂンチ。戦争に軍勢を列ねる場所。軍勢がたむろするところ。
「をりから」其の時に。
「死がい」死骸。しかばね。
「まみれて」塗れて。濡れ汚れて。
「涙ぐむ」涙をきざす。泣かうとする様子。
五、挿畫
挿畫は三つとも、写真凸版である。百二頁の上部のものは、千葉縣の某練兵場で撮影した軍犬使用の圖である。百二頁の下部のものは軍犬の写真。百四頁のものは甲功章を撮つたものである。
云ふまでもなく、これ等の写真にうつされてゐる軍犬は、金剛でも那智でもないから誤解のない様にして取扱はねばならぬ。

 

帝國ノ犬達-犬のてがら1

くれぐれも誤解のないようにね。


指導観

一、目的
この文によつて、軍犬金剛・那智の戦功を思はせ、又、軍犬の大切さを知らせる。なほ、その間、新出文字「我」「陣」「幾」「涙」「實」及び、讀替文字「犬」の讀方・書方を指導する。
二、指導上の注意
この両犬は、板倉少佐の愛犬である。板倉少佐もまた其後間もなく戦死したので、少佐の未亡人は生き残つたヂユリーを連れて逗子に転居した。ところがやがてヂユリーも死んだので、これを聞いた逗子の小學兒童の有志は寄付金を集めて、町の延命寺境内に記念碑をつくるた。
この様な物語もあるのであるが、こゝでは云ふまでもなくこの記念碑を世に紹介しようとするのが主ではない。
が、かうした物語に幾分ふれることは一向さし支へない事と考へる。
それから又、この文によれば軍犬と云ふものは敵を嚙み殺す為めのものの様にとられ易いかも知れないが、軍犬の任務は其處にあるのではない。
偵察・運搬・警戒・傳令・捜索等と云ふほんとの任務があるのである事も、補説するがよからう。つまり、この両軍犬の戦功を通して、軍犬についての認識を深めさせるところにも本課指導の目的があるわけである。
三、朗讀上の注意
勇ましい語であるから、全體から云つて元気よく讀ませてよい。もつとも勇ましく力をこめて讀むえきところは「我が軍のまつ先につき進んで」「萬歳の聲は天地にとゞろきました」等である。
それからこの話は一面にあはれにも悲しい心もちかくされてゐるのであるから、「しかし、あの金剛、那智はどこへ行つたのでせう」「敵の死がいの間でした」「これを見た兵士は、思はず涙ぐみました」等のところは、しづかに悲しみの心をこめて讀むべきであらう。
勿論あまりにわざとらしい芝居がかつた朗讀は禁物である。
四、他教科との連携
忠犬の物語であるから、修身との連絡があるわけである。満洲國獨立の話は、やがて地理・國史との連絡をも考へられる。
五、準備
讀本掛圖、逗子の忠犬の碑の絵葉書、等。
六、時間配當
第一次 全文の通讀、新出文字の讀方指導、主題機構の把捉。
第二次 全文の通讀、主として第一節、第二節の取扱。
第三次 全文の通讀、主として第三節、第四節の取扱。
第四次 全文の通讀、主として第五節の取扱、補説、總括的取扱、應用練習、等。

指導過程

第一次

1、下讀をさせる。この際、新出文字・讀替文字の讀方指導をする。
2、指導音讀。
3、教師の音讀。
4、各兒に自由に黙讀させてから、感想を發表させる。
「忠義な犬ですね」
「二匹とも口に敵兵の軍服の切れはしをしつかりとくはへてゐたのは、てがらをよく示してゐるものと思ひます」
「甲號功章をいたゞいたのは、もつともだと思ふ」
「逗子にこの犬たちの記念碑がたつてゐると云ふ話を聞きました」等等。
5、以上の様な話し合ひから導いて、文の主題及び機構と云ふものをつかませる様にする。
6、全文の讀みの練習。
第二次
1、全文の通讀。
2、前次の復習的問答。
3、第一節・第二節の指導。
第一節はこの物語のあつた「時と處」とを短い語句の中に語つてゐるものであること、第二節は「両軍犬の奮戦ぶり」を叙写してゐるものであること、等を吟味し乍ら、次の語句を取扱ふ。
「満洲事変の最初の夜」「傳令の役」「軍犬」「死物ぐるひ」「かみつきまはり」「陣地」等。
4、新出文字の書写練習。
5、全文の讀方練習。
第三次
1、全文の通讀。
2、前次の復習的問答。
3、第三節の指導。
こゝは捜索の結果、死がいとしてあらはされたこと、しかも「勇ましい戦死の姿」としてあらはれたこと等を吟味し乍ら、次の語句を取扱ふ。
「身に幾つものたまを受け」「血にまみれ」「軍服の切れはし」「思はず」「涙ぐみました」等。
4、新出文字の書写練習。
5、全文の讀方練習。
第四次
1、全文の通讀。
2、前次の復習的問答。
3、第五節の指導。
こゝはいよいよ文の結びであること。又、両軍犬の戦功に對する當然の「論功」としての甲號功章が下賜されたこと、等を書いたものであることを吟味し乍ら、次の語句意をとらせる。
「軍犬の金鵄勲章ともいふべき甲號功章」「實に」等。
4、全文の通讀。
5、感想を發表させる。
6、なほ、質問に應じて補説する。
7、文字、語句の應用練習。

【参考】

忠犬の碑
板倉少佐の愛によつて育てられた忠犬の記念碑は、神奈川縣逗子町の延命寺に建てられてゐる。最初は少佐の愛犬ジユリーの碑として企圖されたのであつたが、 北大営の夜戦に戦死した故板倉少佐の忠犬金剛・那智の二犬も合祀するのが適當でないかとの議が出て、時の陸軍大臣荒木貞夫大将自ら筆をとつて、雄渾な「忠 犬の碑」の四文字を揮毫した。
又、忠犬の碑の上には、軍犬の銅像が彫まれてゐるが、これはこの話を聞いて感激した美術學校の一生徒青柳利男氏が、セパードをモデルにして約一ヶ年を費してつくられたものである。
その碑文は次の様なものである。
(以下略)

同時期に教材化された忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」との関連はどうなのでしょう?これを読む限りでは実にアヤフヤですね。
「ハチ公物語は軍国教育に利用された」と叫ぶ人は、上記の指導要領に目を通した筈。それを踏まえて具体的に説明していただきたいものです(アーロン・スキャブランド著「犬の帝国」が参考になりますよ)。

教師の指導方針がどうだったにせよ、児童が目にするのは教科書に掲載してある部分のみ。
それから又、この文によれば軍犬と云ふものは敵を嚙み殺す為めのものの様にとられ易いかも知れないが、軍犬の任務は其處にあるのではない」とか書いてありますが、現代まで伝えられている教科書だけ読めば殺人犬と誤解されますって。
こうして、血に飢えた日本軍犬のイメージは全国の児童へ植え付けられました。
当時の犬に関する作文には、「授業で教わった那智・金剛」が登場します。それだけ強烈なイメージだったのでしょう。


児童だけではありません。
昭和6年末から広まったこのニュースは軍犬の活躍を国内に知らしめ、シェパード飼育ブームの一因ともなり、之を機にNSC内部の急進派と築山砲兵大尉は NSCへの軍の介入を画策、対立する保守派との衝突は、内部分裂の果てに急進派のNSC脱退とKV創設へと繋がっていきました。

「陸軍への就職窓口」であるKVの設立と共に、人々は自慢の愛犬を在郷軍用犬として登録し、軍からの購買に応じます。その登録総数6万頭。
こうして民間犬を軍犬供給源とするルートを確立した陸軍は、更に多くの犬を戦地へと送り込んで行きました。
海軍はJSV登録犬を中心に軍犬の調達をしていたので、この構図は当て嵌まらないんですけどね。

昭和初期、国内に芽生えた数々の愛犬団体は、軍犬報国の名の下に否応無く戦時体制へと組み込まれていきます。
KVと対立していたNSCやTSCもその流れには逆らえず、次々とKVに吸収合併されました。
板倉大尉と交流の深かったNSCやTSCが、彼の愛犬達による活躍を切っ掛けに消滅してしまった事は皮肉としか言いようがありません。

 

「コトバノオケイコ」より

 

国家と犬の関係が深まっていった時代。

何はともあれ、当時の子供達はこのような物語にふれながら(当然、他にもイロイロありますが)戦争の時代に成長していきました。
「オンヲ忘レルナ」や「犬のてがら」から得たモノも、各人それぞれ。


日本人道會などによる活動と併せ、動物愛護精神をはぐくんだ児童もいた筈です。
犬を愛する児童がひとりでも増えたのなら、プラスの効果はあったと思うのです。
しかし、これの影響でハチのように国に殉じ、戦地で那智のように戦った若者がいたとしたら……、
感動の物語とは、扱いによってはとても怖ろしいモノなのでしょう。


「犬のてがら」を授業で学んだ児童たちは、ソレを真実と受け止めたまま大人となり、戦後の日本へと伝えました。
ハデに脚色されたイメージによって、那智・金剛姉弟は「血に飢えた日本軍犬」の象徴として批判され続けていくのでしょう。実際は伝令文書を運んでいただけなのにね。
「軍国教育」が蒔いた種子は、戦後日本にて開花した訳です。


今もなお、戦前教育を美化したり批判したがる人々に利用される「オンヲ忘レルナ」
今もなお、日本軍犬を美化したり批判したがる人々に利用される「犬のてがら」
虚像の犬が独り歩きした結果、近代日本犬界の実情は見向きもされません。「ハチ公と軍用犬」で思考停止する人々によって、我が国の犬史は大きく歪められてしまいました。

 

これまで教材の指導方針を解説てきましたが、実際の教育現場ではどのような授業がおこなわれていたのか。

次回は、教師と生徒から見た軍犬授業について取り上げます。

 

(次回に続く)

 

児童教育と犬(第3回)忠犬ハチ公物語「恩を忘れるな」

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名称ハチ號
年齢十歳
性別牡
毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫匁、尾左巻
産地 秋田縣
以上のことを日本犬誌に描くと共に、當時犬殺しにおそはれた等のことを聞いたり、いくらよい首輪胴輪をさしても、何時の間にか取りはづして盗んで行く人間 がある等の事を聞いて居つたので、廣く世人に事情を知つて貰つて愛護して貰ひたく、東京朝日新聞に投書したところ、早速大きく報導して下れたのはハチのた めに嬉しいことであつたが、現在の耳垂れの状態を見た記者氏が、秋田雑種と書いてしまつたため、折角の記事が誠に残念なものになつた。
直に抗議を申込んだところ、社の方には諸方から抗議あり申譯ありませんと早速数度に渡つて訂正して下れたので、ハチも冤罪がぬぐはれたわけである。

日本犬保存會理事 齋藤弘  

 

日本が戦争へ向かっていた時代、教育現場では皇国史観や軍国主義を採り入れた授業がおこなわれていました。

しかし、教える相手は小学生ですからねえ。難解な言葉が散りばめられたキョウイクチョクゴとか、理解できるはずがありません。そこで、児童にもわかりやすい題材が選ばれたのです。

例えば、尋常小学2年生の教材には忠犬ハチ公とか。

 

その指導内容はどのようなものだったのでしょうか?

連載第3回目は、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」について取り上げます。

 

渋谷驛の記念スタンプ。駅舎、ハチ公、明治神宮、代々木練兵場(現在の代々木公園)などがデザインされています。昭和9年

 

日本犬の再評価と犬の軍事利用が推し進められた昭和の時代。
戦時体制への突入と共に、「国家と犬」はその関係を深めてゆく。
この流れを児童へ植え付けたのが、軍用犬と忠犬ハチ公だった。
戦争へと突き進む日本は、忠君愛国教育に犬を利用したのだ。
軍用犬は日本の戦争に従事する「無言の勇士」として
ハチ公は「国犬」たる日本犬のシンボルとして
国家への忠義を押し付けられたのである。

……などと、それっぽく書いてみました。恥ずかしー。

 

こんな話を聞かされても、「たかが犬に大袈裟な」というのが一般の感想でしょう。
しかし偉いセンセイがたは、こんな事もいちいち小難しい話に仕立て直さないとダメらしいのです。
肩書や立場があるとはいえ、大変ですねえ。

※因みに、日本の国犬はアキタではなく狆です。

 

雪崩から主人を救った猟犬タマ公、月末怪盗を追い詰めた在郷軍用犬アヤックス、数々の犯罪捜査で活躍した南千住署のベル公、山岳レスキューや映画出演で活躍したシトー、溺れる主人を救ったペッツエ。

大部分は存在すら忘れ去られてしまいましたが、戦前の日本にも数多の名犬や忠犬がいました。

その中で、戦後にまで語り継がれたのが忠犬ハチ公です。

もともとはただの秋田犬だったのですが、周囲の人間が「忠犬」に祭り上げて大騒ぎに。
それが社会批評の格好のネタとなった結果、忠犬ハチ公物語は大袈裟な「国家と犬論」にすり替えられてきました。
まったくの要らぬお世話です。我々が求めているのは涙と感動のストーリーなのですから。

 

そんなことはともかく。

このハチ公物語は、各方面で大いに利用されました。

・日本犬保存會による日本犬復興活動

・日本人道会や東京ポチ倶楽部による動物愛護運動

・ハチ公グッズやハチ公本で一儲け

・文部省による皇民化教育

などがソレですね。

皇民化教育の場合、ハチ公の行動を「忠義」「報恩」の教育へ結び付けた訳です。

ただ、「軍国教育に利用された」という主張には安易に同意できません。

 

当時の教育にもイロイロありましたから、ちょっと掘り下げてみましょう。

「戦前の教育=軍国教育」で思考停止すると、その辺が見えなくなりますので。

 

【忠犬ハチ公とその時代背景】

 

教師用の小學修身指導書より、「オンヲ忘レルナ」の指導要領

 

大正12年末に生まれたハチ公は、飼主の上野英三郎教授から愛育されました。しかし、大正14年に教授は急逝。

転々と預けられた挙句、出入りの植木職人だった小林氏に引き取られたハチは、そこから渋谷駅へ通うのが日課となります。

それから数年が過ぎたある日のこと。消滅しかけていた秋田犬の調査を依頼された日本犬保存會の斎藤弘吉理事は、むかし駒場で見かけた秋田犬を訪ね歩 いていました。そして辿り着いた小林さんからハチの由来を聞いて感激。昭和7年にハチの話を東京朝日新聞へ投書したことで、渋谷駅で邪魔者扱いされていた 老犬は「忠犬ハチ公」へと祭り上げられます。

こうして銅像まで建立され、押しも押されもせぬ大スターとなったハチ公ですが、自身はそれ以降もそれまで通りに暮らしました。

路上に横たわるハチ公の遺骸が発見されたのは、 昭和10年3月8日のこと 。

この忠犬物語は、渋谷駅のささやかなエピソードとして語り継がれるはずでした。

しかし同年春、忠犬ハチ公を題材とした短編「オン ヲ 忘レルナ」が尋常科第二学年小学修身書に掲載されます。忠犬ハチ公は、全国の児童が学ぶべき教材と化したのです。

 

もちろん、鳥獣を用いた教材自体は珍しくもありません。馬、熊、象、虎、鳩、狼、狐、犬、猫、猿、オランウータン、フクロウ、燕、カタツムリなど、多種多様な動物が当時の教科書に掲載されていました。

自然科学への興味や動物愛護精神を育む、道徳や教訓を得るなど、その目的は様々です。

 

そのひとつとして、動物を題材にした軍国教育も行われていました。

戦場に於ける軍馬・軍鳩・軍犬の活躍を描いた武勇伝がそれです。

2年生と5年生の違いはありますが、同じ年の小学国語読本に掲載されたのが「犬のてがら」。満州事変で戦死した那智・金剛・メリーの実話を、教材用に脚色した軍犬武勇伝でした。

 

ハチ公の教材が厄介なのは、上のどちらに位置するのかがアヤフヤな点にあります。

内容は動物愛護を教える情操教育に見えますし、タイトルは忠君愛国を刷り込む軍国教育にもこじつけられますし。基本は人としての心構えを教える皇民化教育に属するのですが、判別が難しいですね。

「犬のてがら」と同じ年に教材化されたことにも、何らかの意図があるかもしれません。

 

【兒童から見たハチ公物語】

 

教科書で忠犬ハチ公物語を学んだのは、当時の尋常小学二年生でした。

「児童用尋常小學修身書 巻二」 より 昭和10年

 

当時の教育事情から見た「オン ヲ 忘レル ナ」は、どう評価されるべきなのか。
こちらは「犬のてがら」以上に批判されているから、子供たちに軍国主義を植え付ける内容の筈。
書籍やネットでもそう解説してあるし、皆んなが怒っているから軍国教育が目的だったに決まっているじゃないか。

だったらワタシも便乗しなければ。
「何て酷いことを!」
「子供を洗脳するなんて虫酸が走る!」
「利用されたハチ公がカワイソウ!」

……などと喚いているソレは、御自身で当時の記録を調べた上での怒りなのですか?

一応、確認しておきたいのですが
まさか「オンヲ忘レルナ」を読みもせずに批判している人はいませんよね?
疑うようで申し訳ないのですが、一行すら読んでいない癖に、「ハチ公が軍国教育に利用された!」などと喚き散らす人を見かけるので念の為。

あの教材を一度でも読めば、「軍国教育」の言葉を用いるのはイヤでも慎重になる筈。

安易な批判は、読んでいないのを白状するようなものです。

ネットが未発達だった頃はソレも誤魔化せたんですけどね。

ハチ公研究が進んだ現在、旧来のハチ公批判に対する一次史料を元にした反論も増えてきたようです。


その手のエセ批評家は無視して、本題に入ります。
きちんと読んでから批判しているマトモな人にお聞きしたいのですが、「オンヲ忘レルナ」の何処に、貴方がそこまで激怒するような部分があるのですか?
何回読んでも、私にはどこが軍国教育なのかさっぱり分かりません。
「ハチを見倣ってお国に尽くせ」なんて一言も書いてありませんし、現代日本の子供たちが読むハチ公物語と同じ内容です。
「コレって軍国教育じゃなくて情操教育じゃないの?」程度の疑問すら持たないのは何で?


批判しているのは「あの時代」にこの物語を教科書に載せたことなのか、それを利用した当時の教育方針なのか、それとも、「恩を忘れるな」という命令調のタイトルが気に食わないのか。
「教科書に載せたのがケシカラン」というなら、どの部分がどうダメなのかを明確にしてください。
それが出来ない「ハチ公批評」など、批評の体をなしていません。

 

先入観や他人の意見は捨て去って
今一度、尋常小学二年生になったつもりで「オン ヲ 忘レルナ」を読んでみましょう。

 

犬

 

オン ヲ 忘レル ナ 
児童用尋常小學修身書 巻二 二十六
文部省 昭和10年


ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル
年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ

(以上全文)

批判派の方へ再度お訊ねしますが、コレの何行目あたりが「軍国主義教育」に該当するのでしょうか?
私にはどうしても分らないのです。

批判されるべき軍国教材はハチ公物語の「オンヲ忘レルナ」なのですか?
軍犬美談の「犬のてがら」の方でしょう。批判の対象くらいちゃんと見極めてください。

 

【軍国日本を象徴する犬とは】

 

教科書に「オンヲ忘レルナ」と「犬のてがら」が載ってから2年後、昭和12年夏に日中両軍は盧溝橋にて激突。

続く第2次上海事変を経て軍部の大暴走が始まり、年末の南京侵攻へと戦線は拡大していきました。まだ戦争は海の向こうの出来事でしたが、銃後日本も息苦しい戦時体制下へ移行します。新聞雑誌では、戦地での軍犬武勇伝が盛んに流されるようになりました。

内地の軍犬班も続々と出征し、その資源母体維持のため、シェパードの飼育も半ば国策として奨励されます。これは当時、「軍犬報國運動」と呼ばれていました。

 

世のハチ公論の中には「ハチ公は軍国日本の象徴だった」とかいう主張も見られますが、全くの的外れ。

ご存知のとおり、日本軍の主力犬種は第一次世界大戦で実戦プルーフされたジャーマン・シェパードです。

軍犬報國運動のシンボルも、小学生が軍犬物語の感想文に記すのも、秋田犬のハチ公ではなくシェパードの那智號でした。

 

……などといい歳こいた大人に対しては反論できるのですが、相手は幼い尋常小学生。

「軍国の犬」に関して、児童の捉え方は二つに分かれていました。

 

帝國ノ犬達-ハチ公像

渋谷驛の忠犬ハチ公像。もちろん、像の設置に軍部は関与していません。

 

その時の軍犬の有様はさながら戦場の敵をかみ殺し、自分も死ぬ覚悟でもつて戦ふ勇ましい有様であつた。

丁度そこが戦場であるかのやうに。背中がスーツと冷たくなるを感じた。

軍犬がいかめしい服を着た兵隊さんと共に、壮烈な戦死を遂げようとする様がありありとうかんできた。

其の軍犬は既に勲章を頂いてゐる。午後の日がピカリとほこらしげに輝かしている。

軍犬は誇らしげに吠へた。

軍犬は勇ましいばかりでなく、主人の体臭は何時までも覚えてゐて主に従ふものである。

忠犬ハチ公もその通りである。

軍犬がこのやうに忠節をつくすのであるからこそ、好ましいのである。

内では主人にやさしく慰められてゐる軍犬も、いざ戦場に向ふと勇気一杯、元気一杯で奮ひ立つのである。

人間も少々ながら及ばぬといはねばならぬ。

尋常五年 安井恭子さん「軍用犬」より 昭和12年

 

ジュリー1

こちらは逗子延命寺の忠犬之碑。 満州事変で戦死した那智・金剛姉弟(「犬のてがら」のモデル)と、ジュリー號(満州から日本へ渡った後、逗子で病死)の慰霊碑です。 「軍犬ジュリーの墓を建てよう」という逗子小児童のささやかな募金活動は、陸軍を巻き込んだ一大イベントへと発展しました。

画像はジュリー像の除幕式にて、功章を授与する陸軍省恩賞課の村山大尉。 昭和8年

 

午後の一時間目、先生が軍用犬の訓練を見せてあげるとおつしやつた。

私は胸がどきどきした。あの勇ましい犬がすばらしい活躍をするのだと思ふと、嬉しくてたまらなかつた。私達は運動場へ出て犬を取りかこんだ。他の学校の生徒も來て居た。皆で四匹である。

あの勇ましい颯爽たる姿が、今私達の前ですばらしい活躍をするのだ。

其の時、三年生の讀方で習つた、金剛、那智の事が思ひ出されてならなかつた

尋常五年 藤原美奈子さん 「軍用犬の訓練」より 昭和12年

 

上記は、大阪の東光尋常高等小学校で開催された軍犬実演の感想文です。軍国教育の成果があらわれていますねえ。

どちらかというと藤原さんのように軍用犬=那智を連想する子が多数派。安井さんのようにハチ公を思い出す子は、資料探しに苦労するほど少数でした。

 

大人の皆さんに対しては、日本犬保存運動と軍犬報國運動の違いを説明しましょう。

しつこくてスミマセンが、ハチ公論の前提として二つは区別する必要があるのです。

 

・戦前の日本犬保存運動

 

犬

日本在来犬の再興には、時流に乗って国粋主義も利用されました。

「主人へ忠義を尽くす犬」「武士道精神をもつ犬」「日本固有の天然記念物」

洋犬との交雑化で日本犬が消滅しかけていた当時、降ってわいた日本犬ブームは最後のチャンスでした。それが終息する前に日本犬の評価を定着させるには、手段を選んでいる余裕などなかったのです。

現代目線でソレを批判するのは大いに結構ですが、日本犬愛好家側も「先人の努力も知らないくせに、日本犬保存史を幼稚な善悪論で語るんじゃねえ!」と大声で主張すべきでしょう。

あの戦時下で、日本犬を護り抜いたのは彼らなのですから。

因みに「非常時だから、シェパード以外の犬は毛皮にしろ」と喚いていた軍国主義者は、日本犬保存活動に敵対する存在でした。この辺も勘違いされているんですよね。

 

・軍犬報國運動

 

 

陸軍による民間シェパードの調達システムは、軍の方針に賛同する何万人もの民間愛犬家によって支えられていました。

軍犬を大規模運用するため必要なのは、シェパードの飼主を増やし、調達の資源母体を維持する事。そこで、帝国軍用犬協会による宣伝活動や蕃殖・飼育・訓練支援が全国規模(外地を含みます)が展開されました。これを「軍犬報國運動」と呼びます。

軍国日本を象徴する犬が、国産の秋田犬ではなくドイツ産のシェパードだったというのも皮肉な話ではあります。 まあ、後の同盟国なので気にしない。

 

ネット上の一言居士の中には、時系列を無視して「ハチ公が有名になったのは軍国教育の結果だ」という妄言を垂れ流す向きもあります。

教科書に載る3年前、昭和7年にハチ公が有名になったのは「軍国教育」とかカンケーありません。

当時のマスコミ報道によるゴリ押しと、日本犬保存会による在来犬保護活動(これは国粋主義と関連付けてもOK)が、捕鳥部萬や花咲爺さんや八犬伝の時代から忠犬・義犬談が大好きだった国民性と合致しただけです。

 

ネットや書籍を見渡しても、当時の時代背景や教育指導要領などを総合して「オンヲ忘レルナ」を論じているのは、アーロン・スキャブランド著「犬の帝国」くらいですかね。

しかし、あの本もページ数の都合上概略のみですし、ソレゆえの強引な展開も鼻につきます。「当時の文脈によると結論はコレコレこうなのだ!」とかいう論法だと、幾らでもコジツケられそう。

 

こうもアヤフヤなままだとアレなので、彼らの主張が信用に値するかどうか、読者側にも判断材料を与えるべきでしょう。

良い・悪いとかそういう話ではなく、ソレがきちんとした歴史考証を経ての批評なのか、根拠のない妄想なのかを識別できるようにするだけです。

 

【教師から見たハチ公物語】

 

そもそも論でいえば、「軍国主義教育」って一体何なのでしょうか?「どこからが皇民化教育で、そのうち何が軍国教育なのか」の定義を誰も示そうとしません。イメージとしては思い浮かぶものの、けっこう曖昧です。

ついでに「軍国教育だ!」と息巻くハチ公論者の方々がナニを論拠にしているのかも、サッパリわからないんですよ。 日本の某最高学府が出版したハチ公本でさえ、その考証を思考放棄する体たらくですから。

 

……他人様へグダグダ文句をいう前に、オノレで当時の指導方針を調べりゃいいんじゃないの?

などと反省して、当時の小学修身指導書から「オンヲ忘レルナ」の指導要領を抜粋してみました。

 

この教材が載った小学2年修身書の、大まかな指導方針は下記のとおり。

 

「第二修身書の教材はその選擇についても尋一修身書の方針をそのまゝ踏襲した形である。

即ちその方針の主なものは左の三項である。

一、兒童の徳性の情的方面竝びに意的方面の陶冶に一層重きを置くこと。

ニ、児童の経験に即し、兒童の心情に触るゝことに特に意を用ひたこと。

三、心得を授け實践を導くに共同生活観念を基調とすること。

勿論修身書が教育に関する勅語の御趣旨を根底とする以上、國體観念を明徴にし、忠良なる臣民たるに適切なる道徳の要旨を授けその實践を指導するといふことが、是等を一貫する原理たるべきはいふまでもない」

「小學修身指導書尋常科第二学年」より

 

「忠良なる臣民」とかキナ臭い言葉が躍ってますね。

しかしながら、教師用の指導要領は、教材と実際の記録を比較しながら「忠犬ハチ公の虚像」を冷静に評価しています。意外と現実的。

 

小學修身指導書より、「恩を忘れるな」の指導要領(「鶴子が老人の恩をいつまでも忘れない話」と併記)

 

尋常小学校二年生の年間カリキュラムより。ハチ公物語は二年生の最後、三月の授業で教わりました。

 

目的

人から受けた恩は永く忘れないやうにすべきことを教へるのを本課の目的とする( 教師用書)

【廣義の恩】

廣義に解釈すれば、我等の生々發展を助くるものはすべて恩である(概略)

【狭義の恩】

善良なる意志を以て何等の行為をしかけられることと、そのしかけられた事に對する自覚を必要とする(概略)

【天地自然の恩】

自然の力によって生存し、繁栄し、且つ楽しい日々を過してゐる。我等はこの自然の恩恵をあだに思つてはならない。どこまでも自然に親しみ、自然を愛し、自然の力の前に謙虚な態度をとらねばならぬ(概略)

【君父・師友・衆生の恩】

我等は自然の恩恵によつて生存し、君父・師友・衆生の恩によつて人としての生活を営む(概略)

【恩を知ることの必要】

恩を知らないものは自己を知らないものである。自己を知らないものは自己の本文を自覚することはない。「恩知らず」が屢々「不徳」と同義に用ひられるのも洵に意味のある事である(概略)

【恩についての指導】

・尋常科第一學年小學修身書では「おとうさん・おかあさん」で親の恩を説き、「きやうだい」では兄弟の恩、「せんせい」では先生の恩、「天長節」では天皇陛下の大御恩を説いた。

・二年になってもこの用意に何の変りもない。「二年生」では進級した喜びと、過去一年間を顧みて、親、先生、友達、その他の人々の直接・間接の恩恵について、深く考えさせようとした。

・「恩を忘れるな」は小學修身書巻二冒頭の「二年生」と照応するもので、続く三年への進學に当たって一層深くこれらの人々への洪恩を考えしめようとするものである。

・第一學期ではこれらの恩について指導した。第二學期では社会・友人の恩について、第三學期には上皇室の御恩恵について謹話した。

・本課は今まで指導した是等の恩恵を考え、一層その意識を深め、長くこれを忘れないように指導するものである。

 

教材観

一、恩をうけては之に報いなければならぬ。報恩は古來重要な道徳的動機とされて來た。但し報恩は感恩・記恩の次に來るべきもので、幼少の者には、ま づ自分の身の上を考へて、いかに多くの人々の恩恵に生きてゐるかを悟り、長く之を忘れないやうにさせるのを指導の第一歩とする。本課の中心使命もこゝに在 る。報恩を主とする指導は別に機會が豫定されることと思ふ。

二、こゝには二つの例話がとつてある。何れも一旦受けた恩を忘れなかつたといふことを中心とする材料ではあるが、鶴子のは實践の指導に便利が多く、ハチは感恩の念を深からしめるに適してゐる。

三、鶴子さんの話につき略

四、ハチは一般に深い感激を與へた忠犬である。たゞこの物語に對して、これを果して恩を知り、恩に感じた事例として扱ふことが妥當であらうか。
本能的の行動を道徳的に取扱ふのは問題だといふ意見もある。
これも一つの考ではあるが、古人が「渓聲元(※便)是廣長舌(谷間のせせらぎからでも仏の教えを見いだせるという中国の詩)」と喝破したやうに、修養に志 すものは、渓聲にも、山色にも、偉大な教訓を見出す。渓聲はもとより自然の響に過ぎないが、熱烈なる修行者の心はそこに自己を眺め、人生を見、更に新な世 界を發見するのである。

耳に響く渓聲は自己の修行によつて體得せる真理の聲であり、眼に映ずる山色は多年の修行によつて到達せる真理の色である。

ハチが十年一日の如く老躯を提げて、亡き主人を渋谷驛頭に待ち侘びたといふ話に感激した人人は、ハチに自己の心を見たのである。即ち生きたハチに限らない、銅像にも人には同様の感激をもつのである。

かう考へて來ると、ハチの行動の道徳性―有意的かどうか―を餘り立ち入つて穿鑿する要はないと思ふ。

 

指導計畫

 

軍国教育と混同される原因って、陸軍記念日の授業と重なっていたからでしょうか?

 

指導の實際

一、鶴子さんの話なので省略

二、ハチの話

 

帝國ノ犬達-ハチ公

「オンヲ忘レルナ」挿絵のため、石井柏亭が渋谷駅でスケッチしたハチ公

 

1.掛圖観察

イ、この大きな犬はどういふ犬か知つてゐますか。

ロ、此處はどういふ場所ですか。

ハ、ハチはどうして此處に來てゐるのですか。

ニ、ハチは今どちらを向いてゐますか。何をしてゐるのでせう。

・筆者石井柏亭氏

 

「ハチはかはいゝ犬です。ハチは、秋田産の日本犬で、耳をぴんと立て、尾をきりつと巻いた全身淡茶色の堂々たる體格の犬です。
ハチが路傍に佇んでゐると、其處を通る學校の生徒は、みんな「ハチ」「ハチ」と言つては其の頭を撫でて通つて行きます。
それは、ハチが性質極めて温順で、殊に恩を忘れない、りつぱな評判の犬だからです」(教師用書)

 

三、ハチの生立―飼主の愛撫

「ハチは、北の國の田舎で、雪の降る寒い頃に生まれました。
生まれて四十五日目に、東京の或家に引取られ、其の家の子のやうにして育てられることになりました」(教師用書)
※ハチの生年月日、上野教授宅への到着日、上野教授の詳細を添付(教師用の補足資料)


「其の頃、ハチはどういふものか體が弱く、よくおなかをこはしたり、かぜをひいたりして、獣医からも「とても満足には育つまい」と言はれた程でした。
飼主は、それをあはれんで、一入ハチをかはいがり、ハチが病気になる毎に、獣医よ薬よと心配し、ふだんもハチを自分の居間に置いて大切にしました。
さうして自分で毎日蚤をとつてやつたり、一週に一度は必ず入浴させてやつたりして、慈愛の限りを盡して養育しました。
全く其のおかげで、半年ばかりたつてあらといふものは、ハチは以前と見違へる程健康になり、それからはずんずん成長して見事な體格の犬になりました」(教師用書)
・博士は犬小屋を作らず、廣い縁側の下にめいめいの箱を作り居場所を定めて飼つてゐた。
ハチは目方が四十五キログラムにも及ぶ。

 

四、ハチが朝晩主人の送り迎をしたこと

「飼主のかような一方ならぬ愛撫に對して、ハチが主人に深くなついて來たことは言ふまでもありません。
主人は其の頃、お役所につとめてゐたので、毎日自宅から電車の驛まで歩いて行き、其處から電車に乗つて通勤してゐました。
それで、毎朝家を出る主人のお供をして、主人を護衛するかのやうに電車の驛まで見送つて行くのが、ハチの毎日の日課となりました。
其の上、ハチは、いつしか主人の帰宅する時刻を覚え込み、夕方になると、きつとひとりで驛まで出迎へて、主人の帰りを待つやうになりました。
さうして、主人の姿を大勢の人ごみの中に見つけた時のハチの歓びやうといつたら、いつもながら大したもの。
はげしく尾を振り、ぴんと両耳を立てて、いきなり主人に飛びついて行くのが常でした。
それから、さも嬉しさうにして、主人の先に立つて勢よくわが家へ帰つて來るのでした。
雨の降る日も風の吹く日も、その通りでありました」(教師用書)
・渋谷驛 東京市渋谷區上通り三丁目。一日の乗降客昭和八年度平均八萬人。

・大ていは青山口。渋谷驛の入口は青山口(裏口)と東横口と本屋口の三つある。

 

五、主人を失つたハチ
1 主人の急死
「ところが、ハチが主人に愛育されてから二年目の春のことです。ハチにとつては何よりの大切な主人が、ふとした病気で急に亡くなりました」(教師用書)
・大正十四年五月二十一日、博士は駒場の學校で脳溢血で急死した。

 

2 ハチ亡き主人を探す
「さうして悲しいお葬式もすんで、主人の姿がもうどこにも見えなくなつてしまつてからの或日のこと。玄関の柱に繋がれてゐた筈のハチは、鎖を切り、急にど こかへ行つてしまつて姿を見せなくなりました。何處へ行つたものかと怪しんでゐると、其の日の午後、用事があつて驛の前を通りかゝつた家人が、いつもの驛 の改札口の所にぼんやりと、悲しさうに佇んでゐるハチの姿を見つけました。
家人は「まあ、ハチ」と言つたきり、ハチが亡き主人の帰りをいつものやうにそこに待受けてゐるのを見て、忽ち瞼の熱くなるのを感じました。

家人が「さあ、ハチ、帰りませうよ。いくらお前がお待ちしてゐても、御主人はもうお帰りにはならないのだよ」と言つて、無理に連れて帰らうとしまし たが、ハチはじつと改札口の方を見詰めたきり、身動き一つしようとはしませんでした。家人は、致し方なくハチを其處へ残して、用事をすましてから、もう一 度驛に立寄つて見ると、ハチはやはり同じ場所に、悲しさうな瞳をまたたかせてゐるのでした。

「さあ、ハチ。私と一緒に帰りませう」と言つて促しても、いつもの素直なハチと違つて、いつかな家人の聲を耳に入れようとはしませんでした」( 教師用書)

 

3 毎朝毎夕驛脇に亡き主をまつ。

「其の夜、遅くなつてから、ハチは首をうなだれて、すごすごと我が家にもどつて來ました。しかし、如何に利口だといつても、そこは犬の悲しさ、再び帰らぬ主人とは知る由もなく、それから毎日毎朝いつもの驛に出掛けて行きました。

さうして夜遅くなつて、すご〃と、さも失望したやうな顔をして帰つて來るのでした」(教師用書)

・いつも午前九時頃送りに行き、夕方の六時頃にはまた迎へにいつてゐる。

 

五(誤植?)、十年不帰の主人を待つ

「家人も、かうした毎日悲しさうに空しくもどつて來るハチが、気の毒で〃たまりません。色々と考へた末、手離すのもかはいさうだけれど、いつそ別の 人に飼つてもらつたならば、元の飼主の事も忘れて、ハチの仕合はせにもならうといふので、かねてハチをかはいがつてゐた出入りの者にハチをあづけてしまひ ました。しかし、此の折角の心遣ひもむだでした。ハチは、新しい飼主の家に飼はれるやうになつてからも、毎日きつと驛に出かけて行つては夜になつて家にも どつて來るのでした」(教師用書)

・植木屋小林菊三郎氏。代々木富ケ谷の驛から十二三町。

・或人の歌に「亡き主の帰りますかと夕な夕な渋谷の驛に老い犬のまつ」

※ハチとジョンが堀越家、高橋家を転々とし、二年後に上野家へ戻されるも転居後で、最後は小林菊三郎氏へ預けられるまでの経緯を詳述(教師用の補足資料)

 

「かやうにして、ハチはそれから毎日、もとの主人を探しに驛に行き、電車の着く度に、出て來る大勢の人の中に主人はゐないかと探しました。

一年たち、二年たち、三年たち、やがて十年もたちましたのに、しかし、まだ昔の主人を忘れずに探してゐる年をとつたハチの姿が、毎日其の驛の前に見られて、道行く人々のあはれをそそりました」(教師用書)

 

 

かくて昭和九年四月二十一日にはその除幕式が盛大に行はれた。この時には多数の参會者があり、多くの祝辞も多く述べられたが、この盛況は外國にまで傳はつて新聞紙に掲げられた。中華民國の「時報第二報」に

東京府近有一義犬、候其故主於車站門口十年、未嘗或離、死後、好事者爲立一銅像、以資記念、圖爲銅像行掲幕禮時之盛況。

と註して其の写真を掲げた。

銅像は前期安藤照氏の原型により、臺石の正面には「忠犬ハチ公」、右側には前掲山本博士「忠狗行」が彫られてゐる。


六、教科書の取扱
ハチは人々から非常に愛された。渋谷驛にハチの姿を見ないと一種の物足りなさを感ずる程になつた。
わざ〃驛長を訪ねたり、遠くから書き寄せたりして、ハチの老軀をねぎらはうとするものが引きもきらずといふ有様であつた。

ボク ハ キノフ、センセイ ニ、ハチ ノ オハナシ ヲ キキ マシタ。
ハチハ エライト オモヒ マシタ。コレ ハ ボク ノ モラツタ オコヅカヒ ヲ タメタ オカネ デス。
カハイゝ デスカラ、ハチ ニ アツタカイ モノヲ カツテ ヤツテ クダサイ。
これは一年生の手紙。


某校四年生女兒三名は
「先生がハチ公のお話をして下さいましたので、私たちは涙が出ました。それで、私たちはおこづかいをいたゞくとその半分を貯金して、これだけになりました。どうぞこれで、ハチ公のすきなものを買つてやつて下さい」


ハチが老いて大分弱くなつたといふ知らせは一層人々の同情をそゝつた。周囲の人からも手厚く手當をされて、それで一時は健康に復したが、年は既に十三、人間でいへば百歳をも越える年なので、昭和十年三月八日、櫻の花も待たないで散つてしまつた。幾多の話題と教訓を遺して。

※最後に、ハチの死をつたえる新聞記事の内容を掲載。

 

【結論】

 

教材にも指導要領にも、軍の字すら出てきませんね。

ハチ公物語が軍国教育か否かは、皆さんそれぞれのご判断にお任せしましょう(アホか)。

……などと逃げたくなる程、漠然とし過ぎてどう結論づけたものやら。

国家・家族・学校・社会生活への忠義を教える皇民化教育であり、動物愛護精神を涵養する情操教育でもあり、しかし児童を戦地へ送り込むための軍国教育なのでしょうか?

教育界の記録からだと、その辺はどうとでもこじつけられる内容です。

確かな事実は、 新聞報道で有名になる前から渋谷駅へ通い、ラッシュ時の雑踏の中でひたすら座り続けていた老犬の姿だけです。

 

だから、一次史料を元にソレっぽいコジツケ論文でも拵えればいいんじゃねえの?的な結論しか出せないのです。スミマセンねえ。

 

「コトバノオケイコ」より 昭和16年


【ついでに】

 

「忠犬ハチ公史」を編纂するには、事実を元に、時系列にそえばよいだけです。しかし、実際は上手くいっておりません。

ハチ公を巡る議論は、なぜにこうも混乱しているのでしょうか?


その原因のひとつが、ハチ公を擬人化し、忠君愛国だの武士道精神だのを背負わせたがる人々の存在です。
あのですね、「愛国」だの「ブシドー」だのを犬が理解できる訳ないでしょう。
ハチの上野教授へ対する思慕の情は、国家への忠誠なんかと関係ありません。
小学生じゃあるまいし、彼らは犬を何だと思っているのでしょうか?

もうひとつの原因が、ハチ公を必要以上に貶めたがる人々です。
「焼き鳥目当てで渋谷へ住んでいた駄犬を、当時の日本社会が忠犬美談に仕立てたのである」などと焼き鳥説の流布に必死なあの人達は、秋田犬に恨みでもあるんですかね?忠犬は待機中に断食しなけりゃならんとか、そんなルールを誰が決めたんですか?


渋谷駅通いは亡き上野教授を迎えに行っていたのか、単なる散歩コースだったのか、エサ目当てなのか。
人語を話せないハチから、その本音を訊きだせた人はいません。

人々は駅に佇む老犬の姿を見て好き勝手に感動したり、焼き鳥を与えては「そらみろ餌目当てだった」などと中傷したり、「ワシがハチを有名にした」と吹聴したり、教科書に掲載したり、勢い余って銅像を建てたりしただけ。
等身大のハチは、人々から愛された一頭の老犬に過ぎなかったのです。

以上。

 

……何の話をしてたんだっけ?

 

(次回、「犬のてがら」へ続く)

児童教育と犬(第2回)犬の教材アレコレ

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ボクノウチニハ、ジヨニートイフ シエパードガヰマス。

ボクガ學校カラカヘツテ來ルト、ヨロコンデトビツイテキマス。

アタマヲナゼテヤリマスト、ハナヲクンクンナラシテ カラダヲコスリツケテキマス。

クボサンノゾンネガ オバサマニツレラレテウチノ前ヲトホルト、ジヨニーハ「ボクモイキタイ」トサカンニホエマス。

チヤ目コウ(茶目公)見タイナ目ツキヲシテ、中々ノイタヅラモノデ犬シヤ(犬舎)ノハシラヤユカイタヲ、ガリガリカヂツテハ オカアサマニシカレレテヰマス。

ケレドモ ホントニカハイイトオモヒマス。

碑小学校一年一組 清水明君「ウチ ノ ジヨニー」より 昭和12年

 

「尋常小學國語讀本巻一」より 大正6年

 

前回は近代日本の教育史と犬との関係を説明しました。

戦前の教育はガチガチの国粋主義だったんじゃないの?とか勘違いしている向きもありますが、鎖国政策は幕末で終了しております。

近代日本は海外の文化を学びながら発展しました。当然ながら、戦前の教科書にだって西洋や中国の教材は載っています。

尋常小学校で取り上げられるのは日本の皇族・武将・軍人のみならず、コロンブスやエジソンやジェンナーやワシントンやナイチンゲールといった偉人伝も勉強します。中学以上になると、教科書でモーパッサンやトルストイなどが論じられていました。

意外なことに、日米開戦直前まではアメリカ旅行記も掲載されています。しかも、アメリカ文化を肯定的に評価する内容で。

こんな教材で相手国について学んでいながら、太平洋戦争突入と共に「鬼畜米英」とか叫びだしたワケですか。

まあ、戦前・戦中の日本人もアメリカの大衆文化が大好きでしたからね。対米戦下で敵性語が自粛される中、多くの人が「禁断症状」に苦しんでいました。軍人も同じで、精鋭の陸軍空挺部隊ですら余暇の時間にハリウッド映画を上映していたり、米艦隊へ突入する特攻隊員も「アメリカと 戦ふ奴が ジャズを聴き」なんて川柳を遺しています。

インテリ御用達だったロシア文学だのヨーロッパ文化だのとは、ちょっと違った感覚だったのでしょう。

 

どのようなイヌの教材があったのか、今回は分野別に取り上げてみましょう。

 

【自然科学教育と犬】

 

小學校教科書用書新讀本「小鳥と蜂」より 明治20年

 

教授の方法は既に前巻に記載するが如く、其分界等を懇に説示し、何獣は何の類にして、何部なるや等を記憶せしめ、而して後其性質効用等に及ぶべし。

動物とは、生命を保存して常に自由の運動を為すべき諸機関を具有する物の總称にして、其類凡そ三十萬に下らずと云ふ。而して之を論ずる學を称して動物学と謂ふなり。

動物を大別して、有脊動物、無脊動物の二網とす。更に又有脊動物を分ちて四網とす。

哺乳類、鳥類、爬蟲類、魚類なり。無脊動物を分ちて、三網とす。多節類、柔軟類、多肢類なり。又其各網を分ちて目とし、目を細別して族となす。

猶植物に於きて、目を分ちて科とするが如し。

哺乳類は有脊動物の最も高階に位する者にして、皆形體を具へて児を生ず。故に胎生と謂ふ。温血にして、其児に哺乳す。因りて哺乳類と名く。其中人類を第一等とし、之を分ちて十二目となす。

長瀬寛二「教授法及動物略説」より 明治16年

 

「小學博物教授法 動物之部」より 明治16年

「狗は世界中處として産せざる地なし。土地の寒暖に依て、種類異なり、家畜中最も能く人いに馴れ、且信義愛情の深きこと、諸獣に卓越す。夜中門戸を守らしめ、又猟の用に供す。大に人に益あるものなり」などとイヌを褒めちぎっている素晴らしい本でありますが、残念ながら文部省検定の教科書ではなく、検定外の副読本か何かと思われます。

 

この本には豺(ヤマイヌ)も掲載されていますが、当時の日本には、まだニホンオオカミとエゾオオカミが棲息していたんですよね。

 

オオカミについては、明治21年の「高等小學讀本巻之二」でも解説されています。

これが日本産狼の生態記録なのか、外国の話なのかは不明(ゾウやトラの話と一緒に紹介されていますので)。

 

猫の解説はこんな感じ。明治16年

 

高等小學讀本よりネコの解説。

 

自然科学の教育も、明治時代から重視されてきました。さまざまな動植物、さらにはケンクリコ(カンガルー)のほか、カモノハシやセンザンコウ、アリクイやハリモグラのような珍獣も紹介されています。

ちなみに、明治10年代の「両生類(遊水類)」はイルカやオットセイといった海獣を指していました。

本来の両生類はどうだったのかというと、カエル、サンショウウオ、イモリは蝦蟆類(カヘルルヰ)で纏められています。時を経ずして教科書でも爬虫類と両生類が区別されるようになりました。

 

「ジラフ」が日本で「キリン」と呼ばれるようになったのは明治40年からですが、明治16年の教材では既にキリンと称されています。何だコレ?とか思ったら、江戸時代から麒麟呼ばわりされていたんだそうで。

 

……さすが教科書、勉強になるなあ。

 

【道徳教育と犬】


 

礼儀やマナー、思いやりや動物愛護を楽しく学べるよう活用されたのが、寓話(童話)です。

「アリとキリギリス」「狼と狐」「犬と肉」「ウソをつく子供(オオカミ少年)」といった動物を主人公にしたイソップ物語が教材化されていました。

イソップの寓話が日本に伝わったのは関ヶ原合戦より7年も前のこと。児童用の題材としても、 明治6年から現代に至るまで活用され続けています。 我が国でも古典なんですねえ。

 

特に「慾深き犬」の話は人気があったらしく、複数回掲載されました。

 

帝國ノ犬達-イソップ

とらト呼ベル犬アリ。
慾深クシテ。常ニ食物ヲムサボリ食フ。
アルトキ。肉屋ニテ一ト切ノ肉ヲヒロヒケレバ。急ギテニゲ去リタリ。
ミチニ小川アリ。
橋ヲ渡リテユカントセシニ 橋ノ下ニモマタ犬アリ。
肉ヲクハヘテオナジク走レリ。
とらハ此ノ犬ヲ見ルニ 己ヨリ大イナル肉ヲクハヘタレバ 忽慾心ヲオコシ。其ノ肉ヲモムサバラントシテ。カミツキタリ。
シカルニ。橋ノ下ノ犬ハ。己ノ影ニテアリケレバ カヘリテ。己ノ肉ヲ水ノ底ニシヅメタリ。

小學教科書用新讀本 「慾深き犬」より 明治19年

 

狼

尋常小學修身書巻一 十九「ウソ ヲ イフナ」より、 明治42年 。 オオカミ少年の他に、「狼と狐」も教材化されています。

 

犬

よい子は助けてもらえるのだ。

尋常小学修身書巻一 二十一「キンジヨ ノ ヒト」より 明治42年

 

【情操教育と犬】

 

庭のすみで、先程からちやらちやらとすゞの音が聞える。
しやうじを明けて見ると、小さな犬ころが二匹、上になり下になりしてじやれてゐる。
あまりかはいら しいので、僕はしばらくそれを見てゐた。
すると其のうちに、僕の見てゐるのに気がついたと見えて、じやれ合ふのを止めて、尾をふりながら、ちよこちよこや つて来た。
僕が庭へ下りて、かはるがわる頭をなでてやると、喜んで僕の手にとびついてぺろぺろとなめる。
僕がえんがはへ机を持出して、おさらひをはじめると、二匹ともくつぬぎに手をついて、ぎやうぎよく僕のすることを見てゐる。
ふと、垣根の外でちやらちやらとすゞの音が聞えた。
二匹はいちもくさんにかけて行つたが、間もなくかはいらしいのを一匹つれて来た。
仲間がふえたので、又一しきりじやれ合ひをはじめた。
尋常小学国語読本八より

 

教訓話だけではなく、動物愛護精神を育む教育は、明治時代から始まっていました。

 

犬

小學修身書初等科之部より、明治16年

 

小學校新讀本参「なさけ」より、雀の雛を救う玉次郎少年。 明治20年

 

尋常小學讀本より、子猫を拾ったお時さんとお竹さん。 明治20年
 

犬

動物愛護教育に関しては、身近な生物を題材にすることが多かったようです。

もちろん、海外の動物愛護も教材化されていました。

 

 

ナイチンゲールはイギリスの大地主のむすめで、小さい時からなさけ深い人でございました。

父が使つてゐた羊かひに一人の老人があつて、犬を一匹かつてゐました。

或時その犬が足をいためて苦しんでゐました。その時ナイチンゲールは、年とつた僧と一しよに通りあはせて、それを見つけ、大そうかはいさうに思ひました。

そこで僧にたづねた上、湯できず口を洗ひ、ほうたいをしてやりました。あくる日もまた行つて、手あてをしてやりました。

それから二、三日たつて、ナイチンゲールは羊かひのところへ行きました。犬はきずがなほつたと見えて、羊の番をしてゐましたが、ナイチンゲールを見ると、うれしさうに尾をふりました。

羊かひは、「もしこの犬が物をいへたら、さぞ厚くお禮をいふでありませう」といひました。

尋常小学修身書巻四 第二十 「生き物をあはれめ」より 昭和2年

 

なお、第二十一「博愛」は、クリミヤ戦争におけるナイチンゲールの看護活動のお話となっています。

 

動物愛護団体も教育現場へ働きかけており、日本人道會は児童や警官(戦前は畜犬取締を管轄していました)に対する動物愛護授業を展開しています。動物愛護會も、明治39年から下部組織である「少年動物愛護會」を結成。各地の小学校で児童会を開催し、動物愛護教育に取り組みました。

これらの活動に、学校側も進んで協力したのでしょう。

 

少年動物愛護會の会則より
 

【算数と犬】

 

尋常小學校算術は、兒童の数理思想を開發し、日常生活を数理的に正しくするやうに指導することに主意を置いて編纂してある。

尋常小學算術に掲げた教材は、数・量・形に関する事項の基礎的なもので、日常生活によく現れ、しかも、兒童の心理・技能に適應するものを選び、これを大體数理の系統に従つて配列し、尚、兒童の心意の發達に應ずるやうに按配した。さうして、専ら學習に興味をもたしめ、進んで心身を働かしめ、最も自然に、且確實にこれを修得せしめんことを期してゐる。

しかし、生活は地方によつてその情況を異にしてゐる。これ等の事情に鑑み、教師は、本教科書の教材について、適宜取捨し、補充し、場合によつては配列を適當に変更して、一層兒童の實際に適應するものたらしめるやうに努めねばならない。

「尋常小學算術第一學年教師用」より 昭和10年

 

私は数字を見るとじんましんが出る体質なのでごじゃるが、小学校の算数は楽しかったなあ。

低学年の場合、「学習に興味を持たしめ」るために様々な工夫がこらされていました。

 

「尋常小學算術第一學年 兒童用」より 昭和10年

 

上の教材について、教師側の指導要領は下記のとおり。

 

「兒童用書第七頁では、犬と鶏とを数へさせる。単位の名は「匹」と「羽」である。

唱へ方は次の通りである。

イッピキ ニヒキ サンビキ シヒキ ゴヒキ ロッピキ シチヒキ ハチヒキ クヒキ ジッピキ

イチハ ニハ サンバ シハ ゴハ ロクハ シチハ ハチハ クハ ジッパ

兒童用書の下方は、小犬とひよこが綱引をしてゐる所を漫畫風に畫いたもので、数へ方の練習をさせるためのものである。

實際のものについて数へさせることは必要である。犬の他に、兎・猫・牛・馬等、鶏の他に雀・烏、鳩等、兒童の熟知してゐるもので、學校の付近に容易に求められるものを選ぶがよい。

しかし、これ等の動物の集合してゐる場合を捉へることは容易でなく、又捉へたとしても、数範囲が適當でなかつたり、對象が動いたりするために、数へることが困難難場合も少なくないから、取扱には注意を要する」

「尋常小學算術第一學年 教師用」より、指導要領・名数の数へ方 昭和10年

 

【唱歌と犬】

 

唱歌はたいせつな學科ですから、みなさんはよく勉強しなければなりません。

皆さん大きくなって、りつぱなえらい人になるのには、小さいとき學校で、おしへて下さることは、なにでもよく出來なければなりません。

唱歌なんかどうでもよい、唱歌なんか出來なくてもよいなどと、おもつてゐらつしやるかたがあるとするならば、それはたいへんなまちがいです。

學校で皆さんに唱歌を教へるのは、みなさんの心を美しくするためです。心の美くしい人は、りっぱなおこなひをする、美しい人になります。

そのほかに、ことばを美しくして、ことばをはつきりさすのも唱歌のちからです。

皆さんが大きくなつて、がくしやになり、せいじかになり、またぐんじんになつても、大きなおしようばいをするのにも、ことばをはつきりいつたり、たくさんの人の前で大きなこえでお話をするのにも、このこえをよくすることや、ことばをはつきりしてゐるのはたいせつなことです。

それで小さいときから、こうしたおけいこをしておかねければなりません。

なほその上みみのきくおけいこをするから、みみがよくなります。

 

「小學唱歌尋常科第一學年用」より 昭和3年

 

小学校の唱歌にも、犬をテーマにしたものがありました。それらも取り上げてみましょう。

まずは初期のものから。

 

第一学年用第十九「犬」  明治44年
1.外へ出る時とんで來て 追つても追つても附いて來る
ぽちはほんとにかはいいな
2.内へ帰ると尾を振つて 袂に縋つて嬉しがる
ぽちはほんとにかはいいな

 

第二学年用第十七「雪」 明治44年

「いーぬは喜び庭駆けまはり、ねーこは火燵で丸くなる~」という有名な歌。

これは、放し飼いが当たり前だった時代に見られた風景でした。しかし、自治体の畜犬取締規則が厳しくなるにつれて消えていったそうです。

 

雪が好きだといふと、他人はよく狗兒のやうだといつた。
だが今日では雪の降る日に街路で雪まみれになつて戯れる狗兒を見ることは稀になつた。應挙だの蘆雪だのの描いた雪中の狗兒。
私の少年時代には、それは街頭嘱目の小景であつたのだけれど、飼主の無い犬の生存は許されない今日では、市路傍は犬の子のうちむるる様などは有り得ないこととなつた。

鏑木清方「雪といぬころ」より 昭和10年

 

家畜である犬は、人間のルールにあわせて生活を変えてゆくのでしょう。我が家のフクも、真夏と真冬はエアコンが効いた部屋から頑として出ようとしませんし。何百年か後の飼犬は、換毛すらしなくなるんじゃないですかね。

 

「ポチトタマ」 昭和10年

1.このこは ぽちと まうします

ちんちんおあづけ みなじやうず

いまにおほきくなつたなら ごもんの ばんを よくしませう

2.このこは たまと まうします

まいにちげんきに あそびます

いまにおほきくなつたなら ねづみのばん をよくしませう

 

犬が登場する唱歌といえば、桃太郎もそうですね。

 

幼年唱歌「桃太郎」

僕が知っている桃さんと違うぞ。

唱歌じゃなくて軍歌みたいになってる……。

 

♪ひとつ私にくださいな。の唱歌もこの時代からありました。

 

「犬の芝居」

♪チャッポンチャッポンチャッポンポン テテンガチリチリ チャッポンポン

コイヌガ ヒヨコ ヒコヨ タツテデタ ヒゾメノ テヌグイ ホホカムリ 

という唱歌もあるのですが、歌詞からは状況がよく理解できません。

 

国民学校の時代になると、初等科國語掲載「軍犬利根」を元にした唱歌も現れました(因みに軍用犬行進歌は「軍歌」です)。

 

国民学校芸能科音楽初等科音楽一年「軍犬利根」
1.行けとの命令まつしぐら
かわいい軍犬まつしぐら
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン

弾の中

 

2.あの犬うてうて うちまくれ
のがすなのがすな うちまくれ
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン

敵の弾

 

3.よし來いよし來い 利根來い來い
わたしだわたしだ 利根來い來い
カタカタ カタカタ カタカタ
ダンダンダン 弾の中

 

これは伝令犬(通信文書を運ぶ軍犬)の活躍を歌にしたものですが、実際の戦場では犠牲が続出する危険な任務でした。
 

【習字と図画】
 

ミミズがのたくったような字しか書けない悪筆の私は、習字の授業が大の苦手でした。

いまでも墨汁の匂いを嗅ぐとじんましんが(以下略)

 

尋常小學國語讀本巻一より 大正6年

 

習字の題材に犬を用いる先生もいました。

教師本人が愛犬家だった場合、趣味全開の作品群が教室を飾ることとなります。

 

「生活の友、愛犬の手入れも愚妻一任の始末、研究も又出來ない余だ。
研究欄に目見えるにはあまりに心臓も弱過ぎる。これも先輩各位に御願ひする事にする。
然しこれでは浮世の義理も立つまい。S犬の名さへ知らぬ余を導いてくれたものは會員諸兄の他にはない。
出來る骨折りはし度い自分だ。とうとう子供になきついた。
「先生を助けろ」
「萬事OK」
余に代つて御目見えしてくれたのが愛しの教へ子だ。別掲作品を御披露する。
吾が會のスローガン、巻頭の明朝体で綴られた吾等のモツトーだ。
腰の刀は伊達ぢやない。今一度、今一度反省顧慮する必要も有るんぢやなからうか。
今や本校児童は「軍用犬」「シエパード犬」で持ち切りだ。「あの犬色々覚えてるよ」「強くて負けないわね」と。
然し「体裁良いね」とは言わない。純真な兒童、心理学者の所謂「単純な心理」も穿つたこと言ふものではあると、感心させられる。
こんな子供の正直な告白として再認識し度い。敢て學童を引張り出した所以である。
幸に御笑覧を得ば吾等の幸甚此の上もない」

日根野高等小学校教師 竹内勣「南泉版」昭和12年

 

「万事OK」って言葉、この時代からあったんですね。

 

武内先生が生徒に書かせた習字。 

 

国民学校時代の習字には、このような題材も。

「初等科習字」より 昭和17年

 

尋常小學國語讀本巻一より 大正6年

 

因みに、オハナは尋常小学2年の教科書にも出演しています。

 

尋常小學國語讀本巻二「カゲエ」より 大正15年

影絵の教材ってコレ位ですかね?

 

犬の描き方とクレヨンでの彩色教材。戦争後期は愛玩犬ではなく軍用犬がモデルとなります。

国民学校の初等科図畫「軍犬」より

 

初等科図畫より「ポスター」。テーマはカラダヲキタヘヨ(体を鍛えよ)。

昭和17年

 

身近な存在である犬は、絵画やマンガ、彫刻などの題材としてもうってつけであり、実際よく描かれています。

しかし戦争が激しくなるにつれ、この分野も軍事色が強くなりました。

子供たちの人気者だったのらくろも、紙資源のムダであるとして内務省の役人から連載を中断させられてしまいます。

 

 

【軍国教育】

 

もともとは自然科学や情操教育の教材であった筈のイヌ。しかし、戦時下へ移行すると共に、ハチ公物語や軍犬武勇伝が皇民化教育や軍国教育として利用されるようになります。

 

さて、桃太郎は軍国教育の部類に入るのでしょうか?

 

小学校で開催された軍用犬実演の写生画。

 

さて。

忠犬ハチ公物語は「軍国教育」の範疇なのか?それ以外の「皇民化教育」なのか?単なる「情操教育」ではないのか?

そもそも軍国教育の基準とは何ぞ?

そのへんアヤフヤなまま戦時教育を批評する向きに、「基準」を提示するには?

というお話は次回取り上げましょう。長くなるので。

 

 

(次回、忠犬ハチ公物語に続く)

 

児童教育と犬(第1回)近代教育と犬 

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教育に関する勅語は我が國道徳教育の根本方針である。

學校でも、社會でも、又家庭でも、我が國に於ける總べての教育は勅語の御趣旨に基づいて行はれなければならず、若し御趣旨に基かないものがあるとすれば、それは我が國の教育ではない。従つて我が國の道徳教育とは結局直後の御趣旨を闡明し、之を實践躬行して、聖旨にそひ奉る臣民を教養する教育作用に外ならない。此の意味は教師用書の巻頭に、勅語の本文を奉掲してゐることによつても、又教科書の内容竝に其の機構についても明かに知ることが出來る。

勅語の本文は未だ二年生に授けることは出來ない、―修身教材としての取扱は他日の事に属するにもかゝはらず、巻頭に之を奉掲したのは、すべて「よい子供」の最高理念によつて統一され、その「よい子供」とは結局勅語の孝・友・和・信以下の諸徳を實践し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉る忠良なる臣民の義であることも、勅語の御趣旨をそのまゝ教材の機構に現はしたものと考へなければならぬ。

かくの如く教科書は徹頭徹尾勅語の御趣旨に基づき、御趣旨を兒童に奉體せしめようとしてゐるが、由來教育は心と心、魂と魂の問題である。口に百萬言を費してもそれが魂の叫でなければ人を動かす力はない。で、我々はまづ 躬らを磨かなければならぬ。

「小學修身指導書 尋常科第二學年」より

 

明治天皇の「教育二関スル勅語」、いわゆる教育勅語は、明治23年以降尋常小学校の修身書に掲載され、教育の指針となっていました。

 

「学研まんが イヌのひみつ」、「名犬ラッド」、「あっちゆきだよ、ヒャータ」、「ボクちゃんが泣いた日」、「マヤの一生」、「畜犬談」。

子供時代に出会った素晴らしいイヌ本はたくさんありますし、今でも手元に置いて愛読しています。

飼っていたシロ、ハヤ、太朗丸、ラリーたちと接しながら読んだ本の数々。そのおかげで道を踏み外し……、じゃなかった、 犬と暮せる幸せを知ることができました。

子供時代の読書体験とは、後々の人生にまで影響を与えるもの。娯楽といえど侮れませんね。

そうやって読書のジャンルを決めていれば、夏休みの読書感想文を書くのもラクでしたし。

 

昭和18年の習字帖にラクガキしてあった、戦時中の夏休みの誓い。

戦争が終わったのは、これから2年後の夏です。

 

児童教育も、子供の人格形成に大きな影響を与えます。しかし、私がイヌ好きになってしまったことに関して、学校の勉強は全くの無関係。 影響力ゼロ。

そういえば自分が小学生の頃、犬を使った教材は……、あったんだっけ?

全く思い出せません。

 

因みに「尋常小學夏期練習帖」より、夏休みの諸注意

明治43年

 

私は巡り合えませんでしたが、児童教育の現場では、明治時代からイヌを使った教材が使われてきました。

自然科学の勉強や動物愛護精神を育む上で、身近な動物はうってつけの教材ですからね。

……などというのは戦後教育を受けた世代の考えるコト。「戦中派」の人々は、犬を使った当時の教育を批判的に捉えてきました。

なにしろ、軍国主義を植え付けるためにイヌまでもが利用された時代なのです。戦前の教育を全否定したくなるのも当然でしょう。

 

批判論で目立つのが、皇国史観や軍国教育の教材ばかり取り上げて「こんなに酷かった!」「兒童を洗脳していた!」とかいう類ですか。

そう言いたくなるのは理解できます。当時の教科書に目を通せば、宗教本や軍記物と見まがうような教材がたくさん載っていて、国語の教科書では神代から日本の歴史が始まったりする始末。旧石器人や縄文人涙目ですよ。国史の教科書とはどうやってバランスをとっていたのでしょうか?

その一方で、近代日本が取り組んできた、海外の文化を学び取ろうとする努力の跡も見られます。モチロン、自然科学や情操教育にも力が入れられていました。

要するにバラエティに富んでいた訳なのですが、すべては国家・社会・学校・家庭の一員を育て上げるのが目的でした。ルールやマナー、責任感や友情、博愛の精神、知識や技術など、「国民の底上げ」に力が注がれてきたのです。

これだけの教育を受けた国民が、なぜあのような蛮行を国内外でやらかし、あげく総力戦の末の敗北へと突き進んでしまったのでありましょうか!?

……などという議論ではなく、この記事では「犬を使った教材にどんなものがあったのか」を取り上げます(犬のブログですし)。

それを確かめるため、明治時代~昭和にかけての国語の教科書を中心に目を通してみましょう。

 

では、尋常小学生になったつもりでスタート。

 

犬

尋常小学修身書「ヨクマナビ ヨクアソベ」より 明治42年

 

【明治時代】

學の庭の第一門たる小學校に入つてから、六年間は夢のやうに過ぎ去つて、今や私は第二の門、―中學校に突進した。

今までは何の障害も迷もなく、唯、一本道を進んだのみであつたが、然しこれからの前途はなか〃険しい。

見渡す所彼岸は遠く、道は蜘蛛の巣の如く多種多様錯雑を極めて居る。或は質朴にして真摯なる學術門あり、風浪荒く競争激しき社會門あり、希望に輝く海外門あり、さては遊楽を以て人を釣らんとする堕落門さへある。

出世門は入るに難く、鍵無き者は扉を開く事も出來ぬ。而るに堕落門は自扉を開いて、素通せんとする人をも招かんとして居る。

嗚呼、我等は将にかゝる難関に臨まんとして居るのである。慎重なれ。一歩の差は千里の差となる。

小塩完次君「門」より 大正2年卒業

 

明治時代の教科書では、早くも犬の教材が登場しました。動物を主人公としたイソップの寓話も活用されています。

尋常小学読本巻二「慾深き犬の話」より 明治20年

 

・犬界

幕末の開国によって洋犬が大量流入し、全国へと普及。江戸時代は高嶺の花だった洋犬も、カネを払って購入できる庶民のペットとなりました。畜犬商が登場したのもこの時期です。

いっぽう、地域に根付いていた和犬は、交雑化により姿を消してしまいました。

咬傷被害や狂犬病感染が問題になると、行政は畜犬取締規則をさだめてペット飼育に介入。狂犬病対策でペット分野の獣医学が発展すると共に、残虐な野犬駆除方法を見かねての動物愛護運動も活発化しました。

ネットワークを構築していたのは猟犬界と闘犬界のみで、一般の愛犬家は各個バラバラだった時期です。

 

・教育界

庶民にまで「読み・書き・そろばん」の教育が広まっていたものの、統一の基準すらなかった江戸時代までの教育制度は、明治に入って殆ど機能しなくなりました。

明治政府は西洋諸国の教育システムを研究し、国家として学校教育の改革に着手。明治4年に文部省が発足すると、国民の水準を向上すべく初等科教育と高等教育の整備が進みました。明治19年から尋常小学校による義務教育もスタートし、師範学校の設立による教員の育成も制度化されます。しかし、児童の就学率は低調なままでした。

明治23年には明治天皇の「教育に関する勅語(教育勅語)」が公布され、道徳の教材を元に臣民の育成が図られました。以降、昭和20年の敗戦まで教育勅語が教育の指針となります。

明治40年には4年制の義務教育期間が6年制に延長され、就学率も向上。エリートや技術者を育成する高等教育機関として、各種中学校・高等専門学校の増設が進みます。各地に設立された帝国大学と共に、慶應義塾大學や早稲田大學などの私立大学も登場。日本を担う人材を輩出していきました。

明治の教育界は外国人講師招聘や留学生支援によって海外の知識を貪欲に吸収。児童の教材にも、従来の漢文のみならず欧米の偉人伝や旅行記などが掲載されるようになりました。

 

犬

この時代、木口小平二等卒(当初は白神源次郎一等卒と誤認)や廣瀬武夫中佐など、日清・日露戦争の美談も教材化されました。

 

【大正時代】

わたくしが、一ばんよいきものをきて、お父さんにつれられて、學校へあがつたのは、ちやうど櫻の花がきれいに、さいているときでした。

わたしくは、學校へあがらないうちは、なんにもしりませんでした。けれども先生におしえていただいて、だん〃できてくるようになりました。

それですから、いまでも入學生を見るとおもい出しては、じぶんのがつこうへあがつたときのことを思ひ出します。

神奈川縣 飯島ヤス子さん 大正3年

 

大正時代から、「ハナ・ハト・マメ・マス」のハナハト読本が登場します。

尋常小學國語讀本巻一より、大正6年

 

・犬界

輸入される品種が爆発的に増加。ペット業界は隆盛を極め、各地で品評会も開催されるようになります。

大正元年に警視廳は警察犬を採用しますが、成果を挙げられず廃止に。

大正8年度、陸軍は軍用犬のテストに着手。将来の実戦配備に向けて研究を重ねます。国家と犬の結びつきは、まだ黎明期にありました。

大正12年の関東大震災によって関東犬界が壊滅すると、一時は国際港神戸を有する関西犬界が日本の中心を担っていました。

 

・教育界

大正デモクラシーにより、自由な気風が行きわたった時代。

政府の臨時教育審議会は教育制度の改革を推進し、多数の各種学校が設立されます。

教育現場では自由教育への理解も進み、幅広い授業ができるようになりました。綴り方教育の普及により、身近な生活を題材とした作文や詩作の自由表現にも力が注がれます。

いっぽう軍部では、第1次大戦の分析により、将来戦にそなえた予備戦力の充実に迫られていました。

そして大正14年の「陸軍現役将校學校配属令」によって、中学以上の学校には軍人の派遣が決定。これは、宇垣軍縮によって余剰となった陸軍軍人の受け皿でもありました。

将来の「軍人候補者」を育成するため、教育現場で基礎的な軍事教練を施すようになったのです。国定教科書にも、軍事面に関する教材が採用されます。

 

 

【昭和初期】

小学校の一年生に入学して、誰一人として忘れることの出来ない思い出と言えば、受持ちの先生から戴いたあの真新しい教科書である。
「サクラ」読本を手にした小学生ならば、最初の国語の一ページの文字が誰でも浮かんでくる懐かしい教科書である。
尋常科用「小學國語讀本巻一」文部省 の教科書を開いてみると
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
国語の読み方の時間になると、一文節ごとに読まれる先生の後をつけて、大きな声を張り上げて音読していたことが、今では、懐かしい思い出になっている。
その文章の下の欄には、親しみやすいように色刷りのさし絵がいくつも描かれていた。
また、現在の道徳の教科書にあたる、兒童用「尋常小学修身書 巻一」の初めのページには、二重橋と宮城の写真が掲載されていた。

関屋文夫氏 「戦争体験を背負った小学生時代を振り返る」より

 

犬

昭和に入ると、ハナハト読本から「サイタ・サイタ・サクラガ・サイタ」のサクラ読本へ変わります。

「尋常科用 小学國語讀本巻一」より 昭和7年

 

・犬界

欧米との畜犬輸入ルーが確立され、シェパード、ドーベルマン、ワイヤーヘアードなどの大量輸入も本格化します。

昭和3年、消滅しかけていた日本犬を保護するため、日本犬保存會が発足。

同年には日本シェパード倶楽部も発足し、続いて犬種別の愛犬団体が乱立し始めました。

これにより、全国規模から地域のサークルまで、愛犬家同士のネットワークが拡大します。飼育知識や訓練法など、情報共有化も進みました。

 

・教育界

昭和恐慌(金融恐慌・農業恐慌)では企業倒産や失業者が急増、「大学は出たけれど」と言われた就職難に陥ります。生糸の輸出減や米価下落で農村も困窮。続く昭和6年の凶作で、子供の身売りなどの悲劇も拡大しました。

深刻な経済不況は、児童の親ばかりでなく義務教育の財源維持にも影響を与えます。

政治経済が大混乱する中、国威発揚を求めて軍国主義が台頭しはじめました。

 

 

【満州事変~】

満州事変、日支事変と戦争の続く中、軍歌を歌いながら大きくなった。日の丸の小旗をうちふって、入営兵士や出征兵士、軍用列車の見送りに行った。
出征兵士の武運長久を祈りながら、一針一針、真心こめて縫った千人針、慰問文書き、慰問袋つくりと愛国心は培われていった。

矢野ウメノ「思い出」より

 

 

・犬界

昭和6年の満洲事変当夜、関東軍の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。以降、大陸での匪賊討伐作戦や鉄路警備への軍犬配備が拡大します。

その直後、軍犬の資源母体確保を目的とする帝國軍用犬協會が発足。日本シェパード倶楽部を併呑し、全国規模での軍犬報國運動(軍用犬宣伝・シェパード飼育普及)が始まります。

昭和7年には忠犬ハチ公ブームがありました。忠犬物語は人々に感銘をあたえ、動物愛護運動や日本犬保存活動にも大いに貢献します。

国家と犬、ペットと飼主など、日本人と犬との関係が緊密化した時期でした。

 

・教育界

国際情勢の緊迫化にともない、教育現場からはリベラルな気風が退潮します。

昭和10年、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」と那智・金剛の武勇伝「犬のてがら」が教科書に掲載されました。

それまで情操教育の教材だったイヌは、皇民化教育や軍国教育に利用されるようになったのです。

 

 

【日中戦争勃発】

小学校の高等科二年生になって、卒業を間近に控えて、それぞれ目指す目標に向かって進んでいきました。
圧倒的に軍人志望が多く、陸海軍の少年兵を目指していきました。
クラスからも飛行兵・通信兵・戦車兵となっていきました。
満蒙開拓義勇軍となって、満州(現在の中国東北部)に渡っていった人も数名いました。担任は、家庭訪問を繰り返して、勧誘に熱心でした。クラスに割り当てがあったらしいのです。
開拓義勇軍は、終戦の前後、旧ソ連軍の参戦で開拓地は孤立・分断されて、辛酸を嘗めることになりますが、遂に帰らぬ犠牲者もクラスの中から出ました。

黒木竹光「開戦から敗戦まで」 より

 

 

・犬界

昭和12年の日中戦争勃発により、内地の軍犬班は続々と出征。シェパードの購買調達も拡大しました。

内地犬界はシェパード飼育熱によって却って隆盛し、ペット業界もその恩恵にあずかります。米国盲導犬オルティの来日は大ニュースとなり、翌年の失明軍人誘導犬事業の実現へ至りました。

その一方、昭和13年には商工省が犬皮を統制下に置き、更には昭和14年の節米運動を機に、「無駄飯を食むペット」の飼育は白眼視されるようになります。

 

・教育界

まだ戦争は海の向こうの出来事であり、内地の暮らしは戦前からの流れを維持していました。

しかし、日常生活は徐々に戦時体制下へ移行。教育現場でも軍国教育が強化され、学校は戦争支援の尖兵と化していったのです。

 

「コトバノオケイコ」より 昭和16年

 

【昭和16年・尋常小学校から国民学校へ】

今まで小学校といっていたのが、国民学校と改称されたのは、私が五年生の、一九四○(昭和十五)年のことであった。
そのときの担任の先生は、「国民学校になって、今までの義務教育六年制がこれからは、八年制になったんだ。それで君たちは必ず高等科二年まで進まなければならなくなった」と説明した。

しかし、国民学校と名称が変わっても、周囲で何かが急に変わった訳ではなかった。
私は、こうしてあまり変化のない、刺激には乏しい農村の国民学校の高等科に進んだ。
初等科六年から中等学校を目指して進学した者もいたが、私の家は、父が早くに亡くなり、母親が農家の手伝いをしたりして働いている貧乏世帯であったから、進学など思いもよらなかった

黒木竹光氏「国民学校高等科」より

 

国民学校への移行と共に、サクラ読本からアサヒ読本へ。

 

・犬界

昭和15年を最後に海外からのペット輸入ルートが途絶し、国内繁殖個体のみが流通するようになります。

食糧事情の悪化により、太平洋戦争突入前後から捨て犬の数が急増。飼育者の減少は、軍犬調達にも影響を及ぼすようになりました。

軍需原皮の減産から、一部ではペットの毛皮供出に踏み切る自治体も出現。日本ペット業界は衰退の一途をたどります。

 

・教育界

昭和16年の時点では、海外文化を高く評価するアメリカ旅行記などが教科書に掲載されていました。それも太平洋戦争以降は影をひそめ、やがては敵性語の自粛や英語教材への墨塗りなどへ至ります。 「御國のお役に立つ、立派な國民を育てるため、小学校は國民学校に改まりました(「初等科国史」より)」とあるように、 尋常小学校も「国民学校」へと名称を変更。授業内容も戦時一色へと塗り替えられていきました。

国語の教科書に加え、図画工作の教材も軍事系の内容が多くなります。

 

国民学校では「体操」が「体練科」へ変更され、授業数の増加と軍隊式教練の導入が進みます。

 

「初等科図畫」より 昭和17年

 

【戦争後期】

戦争がはげしくなるにつれ、物も食糧も乏しくなっていった。
学用品もなくなり、鉛筆やノートが買えなくなった。
鉛筆は短くなったものに竹をさして長くして使い、紙は帳簿の古いものの裏を使い、消しゴム等はなく、指先をつばでぬらして消しゴムの代わりにしていたが、古い紙はすぐにやぶれるので困っていた。
履物はズックもなくなり、藁ぞうりかはだし、冬でも靴下はなく、ズボンは半ズボン、女の子は親の着物をといて作ったモンペだった。
子ども達だけでなく、先生の使う白墨も配給で、低学年の受持程よけいもらえた。
その頃は、カタカナ語は敵国語だから使うことは出来なかった。
チョークは白墨、バレーは排球、テニスは庭球といい、唱歌(音楽)の発声練習はドレミファではなくハニホヘトイロハと発声練習をしていた。
そして、唱歌は殆ど軍歌だった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です……」
「若い血潮の予科練の七つ釦は……」
「みたか銀翼この勇士……」
出征兵士を送る歌等々、次から次へと新しい歌が……
その頃「勝ち抜く僕等少国民」という歌の中に「天皇陛下のおん為に死ねと教えた父母の……」という一節があった。
二年生の男の子だった。
急に前に出てきて「うちの父ちゃんや母ちゃんはそげんこつは言わんよ」、と目をくりくりさせて、真剣な顔をして見つめた。

矢野ウメノ「思い出」より

 

戦前の授業では生物の保護色について教えていたのですが、戦争末期は兵器の迷彩効果が取り上げられるように(軍艦のシマシマは「ダズル迷彩」といいます)。米軍機の目を逃れようと、校舎の屋根や壁をコールタールで迷彩塗装した学校もありました。

「初等科図畫」より 昭和17年

 

・犬界

ペット業界や畜犬団体が活動を休止する中、多くの庶民は犬を飼い続けました。餌が少なくて済む小型犬や、シェパードなどの軍用犬であれば、まだ飼育継続の言い訳もできたのです。

マスコミがペットの毛皮供出を叫び始める中、愛犬家にとって最後の砦となったのが、廣井辰太郎率いる動物愛護會でした。「戦争目的で国民からペットを奪うような国家は、その地位を自ら貶めるだけだ」「アジアの盟主として、動物を愛護する餘裕をもってほしい」という彼らの警告は、しかし一億玉砕へ突き進む総力戦下では誰の耳にも届きませんでした。

 

・教育界

昭和17年以降、連合軍の反攻が開始されます。昭和18年、戦線の拡大と戦死者の激増により、高等教育委機関の文系学生から学徒出陣が始まりました。

昭和16年に結成された学校報国隊の機能は強化され、学徒勤労動員も拡大します。昭和19年には中等学校生徒に対して学徒勤労令と女子挺身勤労令が出され、軍需工場への労働力動員がおこなわれました。

 

 

【戦争末期】

放課後、受持ちの川村先生が、朝礼で校長が話した「学徒勤労動員」の説明をした。

川村先生は、黒板に大きく「緊急学徒勤労動員方策」と書いた。

数学より書道を担当すればいいのに、とかげぐちをたたかれるだけあって、どうどうとしていてうまい字を書く。

政府は、さしせまった決戦体制を早くかためるため、昨一八日、軍事動員だけでなく、国民動員も徹底しておこなうことにし、中等学校上級生も、戦闘配置につけることを決定したのだ。

もっとも、今回の動員令は、三年生以上が対象で、おれたち一年坊主は関係ない。

動員令がくだると、学業をすてて社会に出、軍需工場で兵器をつくったり、飛行機場で飛行機の整備をしたりして、直接、戦争に役立つしごとをすることになる。

「上級生め、早く動員されればいい」と神戸がいう。おれもうなずいた。

じっさい、敬礼を忘れたの、帽子をあみだにかぶってるのと、すぐ制裁をくわえたがる上級生がいなくなれば、ずいぶんさっぱりするにちがいない。

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

日々の節約も限界に達し、増産しようにも資源がなく、B29爆撃機は高射砲が届かない成層圏から悠々と侵入してきました。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

・犬界

昭和19年末、軍需省と厚生省は全国の知事にペット献納運動を通達。これにより、膨大な数の犬猫が毛皮目的で殺処分されます。供出を逃れたシェパードも、本土決戦に備えた義勇部隊「国防犬隊」への参加が待っていました。

敗戦を待たずして、近代日本犬界は終焉を迎えたのです。

そのような状況下でも、日本犬保存會や日本犬協會では必死の保護活動が展開されていました。食糧難や空襲に晒されながら、日本犬は戦争を生き延びます。

 

・教育界

本土空襲が始まると、都市部の児童は各地へ集団疎開。地方の児童は農家への勤労奉仕に駆り出され、満足な授業も行えなくなりました。

中等学校生の軍需工場勤労動員は、3月になると全学年が対象の学徒勤労総動員へ拡大されます。学校からは生徒の姿が消えていきました。

高学年の男子は、少年飛行兵や満蒙開拓軍の進路を選択。 男性教師も次々に出征し、教壇に立つのは高齢者や女性ばかりといった状態に。本土決戦部隊の宿舎に利用された教育施設も無差別爆撃され、多くの教師や児童が犠牲となりました。

 

劣勢からの現実逃避か、SFっぽい超兵器が教材に載るようになります。 アンブロシーニSS4みたいなのもいますね。 こんなのを量産できる資源と技術と工業力があれば、そもそも戦争をしなくて済んだワケですが。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

【敗戦】

もう一時前だったと思う。地元出身の年老いた先生が職員室から出てきた。
「日本は最後には神風が吹くから必ず勝つ」とよく言っていた先生だった。
「みんな、集まれ」

みんなと言っても二、三十人だけだった。
「みんな、良く聞けよ」

泣き腫らした目がまだ赤かった。
「戦争は終わった。天皇陛下のお言葉があった。お前たちはすぐ帰って家の人達にも報告しなさい。これから、どうするかはまだ分からない」
切り出しの言葉以外は今、一つ一つの言葉を覚えていない。まだたくさんのことを告げられたように思う。

私たちは呆然と聞いているだけだった。
私は戦争が終わったという意味が飲み込めなかった。六年生になっていた私がそうだから、一、二年生など何のことか分からなかったはずである。
五、六年生の中には日本が負けたつよ、米英に負けたつよ、と説明するものもいた。私は帰りながらいろいろ考えた。
「日本が負けた。そっでん、神風はどしたつよ(※それで、神風はどうしたのですか)。最後にゃ神風が吹いて日本が勝つとじゃねかったつか(※最後には神風が吹いて、日本が勝つのではなかったのですか)」

佐藤聿夫「敗戦前後」より

 

涙を流す父を、生まれて初めて見た。祖父は神棚に祈りをささげた。泣き虫の母だけが不思議に泣かなかった。

戦争は終わってしまった?!考えてもみなかったことが、とつぜんおこった。頭のなかが空っぽになった。眼の前が黒くなったり、赤くなったりした。

冗談じゃないと思った。

そんな馬鹿なことってあるか。この期におよんでなにごとだ。

陛下、なぜ降伏したのですか。このわたくしは、いったいどうなるのですか。

わたくしは、この汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。

ここで戦争を止められては絶対に困る。もし罪滅ぼしができるとすれば、それは、敵兵と刺しちがえることしかない。

敵戦車が上陸したら、おれはまっさきに突撃し、体当たりしよう。そうして汚名をすすごうと思っていたのに、それができぬとは!

陛下、なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

敗戦の報に呆然とするもの、涙を流すもの、激怒するもの、徹底抗戦を叫ぶもの、流言飛語に惑わされるもの、安堵するもの、喜びに浸るもの。

教師と生徒は、それぞれの気持ちを抱いたまま敗戦の日を過ごしました。

 

 

【戦後】

何もかもない物資不足の中でも、子ども達の顔に、明るさがもどってきたのは嬉しかった。
復員された若い男の先生も何人か着任され、学校に活気が出てきた頃、進駐軍がジープで多勢やって来た。
何事だろうかと恐ろしかった。校長室にはいっていった。通訳がいて何かはなし合っていたが、六年生の女子級をえらび、受持ちの先生は教室から出されて一時間位自分達が占領した。
はじめにおとぎ話をしたらしかった。
次にアンケート用紙をくばり、いろいろ調査があったらしく、先生にも親にも言うなと口どめされたようだったが、進駐軍が引きあげると子ども達は内容をみんな話してくれた。
好きな先生やきらいな先生の名前、そしてどこかに兵器がかくされているところはないか、アメリカ兵の墓はないか等が主目的だったらしい。
二、三日おきにはやって来て、学校で遊んでいたが、何年か後の新聞記事によると、落下傘で降りた一人の兵士(※撃墜されたB29の搭乗員)の名前がわからなかったらしいとかで、日の谷の松の木にひっかかって、重傷を負っていた兵士が死んだのだそうで、その兵士の名前をさがしに来ていたとの事だった。
来校したたびにオルガンを弾く兵士がいた。
青い眼の兵士は弾くなり、今日もまた、スコットランドの曲「故郷の空」
青い眼の兵士は故国を偲びてか、来るたび弾くは「故郷の空」

矢野ウメノ「思い出」より

 

・犬界

8月15日以降、どこに隠れていたのか、殺戮を逃れたペットたちが姿を現し始めます。北海道などでは纏まった数のシェパードや日本犬が残っており、戦後犬界の復興に貢献しました。

出征していた愛犬家が復員してくると、休眠状態だった愛犬団体も各地で再スタート。昭和23年あたりからペット輸入ルートも復活し、日本犬界は急速に復興を遂げました。

国家地方警察体制のもとでは計21県警が敗戦直後から警察犬の運用を再開、復興期の治安回復に貢献します。警察予備隊や保安隊でも軍用犬の再配備に取り組んでいました。

いっぽう、生産・流通ラインがズタズタに破壊されたところへ海外からの引揚者が殺到、食糧難は悪化します。日々の食すら覚束ない時代、犬の肉も密かに流通していました。

 

・教育界

敗戦後の教育現場では、まず戦時体制から通常授業への回帰が促されました。

9月末には、文部省が戦時教材の排除を通達。教科書の墨塗り作業が始まります。

10月11日、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で、「参政権付与による婦人の開放」 「労働組合の組織推奨」 「教育の自由主義化」 「秘密警察の廃止」 「経済制度の民主主義化」の五大改革が実施されました。

教育現場にはGHQの担当官が入り込み、皇国史観・軍国教育の排除が徹底されます。進駐軍の指導は絶対であり、教職員に対しては戦時思想の是正も図られました。

21年1月1日、「天皇が神である」ことが否定され、その月のうちに修身や国史の廃止、奉安殿の撤去などが完了します。

昭和22年、戦後教育の指針となる「教育基本法」と教育制度を定めた「学校教育法」が施行。新時代への対応と共に、各種学校がごちゃごちゃ混在していた状況も整理されました。

それまでは、「過渡期」の授業が続けられます。

 

敗戦のショックに呆然としていた教師や生徒も、それぞれが新しい時代に何とか対応しようとします。

価値観は180度反転し、戦時体制からの脱却が始まりました。

やがて進駐軍は教育現場へ介入。教材から皇国史観や軍国主義を徹底排除します。

 

戦時教育との決別を象徴するのが、進駐軍の指導による「墨塗り教科書」でしょう。修身や国史のように教科書ごと廃棄されたものから、該当部分の切除や墨塗りで対応した部分まで、その方法は多岐に亘ります。

墨塗り教科書の一例を取り上げてみました。

 

明治43年から文部省唱歌となった「我は海の子」。敗戦を経て、現代まで歌い継がれています。画像は「初等科國語七」掲載分。

 

敗戦直後の初等科國語七では、軍事色の強い7番の歌詞が墨塗りされています。

 

同じく初等科國語にて、八「日本海海戦」と九「鎮西八郎爲朝」をカットし、 七「姉」と十「晴れ間」を器用に繋ぎ合わせた例。 修正部分が何ページにもわたる場合、墨塗りではなく丸ごと切除されました。


pp.115-124の「いけ花(戦地の兵隊も生け花を楽しんでいるという話)」「ゆかしい心(戦地の通信班が傍受した東京放送、兵士のペットの猫、戦地で詠んだ俳句の短編集)」を切除し、残りは墨塗りが面倒くさかったのか×印で抹消した例。ページがカットされまくった結果、元の3分の2くらいの厚みになっています。

 

裁縫の教材も、軍国的なデザイン(日の丸の意匠など)は墨塗りに。なぜか防空頭巾の作例はOKでした。「初等科裁縫」より

 

戦争後期には、進路として軍人を志願した生徒も少なくありません。少年飛行兵から特攻隊へ配属された場合、ある者は出撃して戦死し、ある者は出撃前に敗戦を迎え、「自分だけ死に損なった」という負い目を抱えたまま復学しました。そして、所謂「特攻くずれ」として母校へ鬱憤をぶつけたのです。

教え子に軍国教育を施した教師は、それに黙って耐えるしかありませんでした。

 

入学式から二・三日後のことであった。その日から授業が始まると言うことで、我々新入生は、不安と期待で緊張して先生の来られるのを待っていた。

その時である。

「黙想」と言う、われ鐘のようなどなり声が聞こえて来た。そして、教室の戸を荒々しく開けて特攻帰りの先輩達が入って来た。

飛行服、飛行靴、首には真っ白なラッカサンのマフラーをまきつけていた。

その中の一人が教壇にあがり、「貴様等は、この伝統ある小林中学校に入学してきた。しかし、貴様等の態度はたるんでいる。いまから気合を入れてやる。目をつぶれ」とどなられ、持っていた青竹で教卓を激しくたたいた。

我々新入生は生きたここちもしなかった。

そして「我々は祖国を護るために戦場におもむいた。しかし、戦いに敗れ、いま、このように生き恥をさらしている」「」貴様等は、戦争に敗けてくやしくないのか」等の説教が終わると、「よーし、これから一人一人に聞くからはっきり答え、いいか」と言って、前列の方から個人尋問が始まった。

「おい、こら立て」「お前には姉がいるか」

「います」と答えると

「名前は、住所は、姉の名は、年齢は」と聞かれる。

「よし、坐れ。明日姉さんの写真を持って来い。分かったか」

「はい、分かりました」といった具合である。

いよいよ私の番が来た。必死に目をつぶっている体に緊張が走った。

「立て、名前は」

「柊山です」

「出身学校は」

「飯野国民学校であります」

「姉はいるのか」

「いません」

「馬鹿もん、何でおらんのか」と言ってほっぺたをたたかれた。自分の番が終わると全身の力がぬけていくのを感じた。

この説教が終わる長い間、教科担の先生は廊下の入り口の外に立って教科書をかかえ待っていたのである。

柊山富弘氏「特攻生き残りの先輩たち」より

 

戦時中「予備戦力」を育成していた教職員たちは、その反省を踏まえて「教え子を戦場へ送るな」をスローガンに戦後教育に取り組みます。

イヌを使った教材も、本来の情操教育用途に戻されたのでしょう。動物愛護精神を育む上で、たいへん喜ばしいことです。

戦後の教育現場からは徹底的に軍事色が排除されました。しかし、その残滓は本当に拭い去れたのかどうか。

 

何だかキナ臭くなりつつある昨今は愛国心教育(?)なるものが復活しつつあるそうで、生徒より先生のほうがザワザワしていらっしゃいます。まあ、そんなことはどうでもいいんですけど。

問題なのは、イヌが利用される恐れはないのかってこと。

さすがに軍犬武勇伝が教科書へ載ることはないと思いますが、対抗手段である平和教育のテーマに「戦争と犬」を用いるケースもある筈。

 

犬が戦争の犠牲となったことを授業で教えること自体は、とても大事です。

しかし、その目的が日本畜犬史を学ぶためではなく、「都合の良い戦時ネタ」と勘違いされているのは残念ですね。

日本の犬の歴史は、センセイがたの思想闘争の道具ではありません。そもそも、日本人と犬の1万年にわたる関係のうち、何で戦時中のハナシばっかり切り取りたがるワケ?

「日本の犬の歴史」とは、日本史の授業でサイドストーリーとして扱うべき部類のものでしょう。

押し付けと反発がせめぎ合う21世紀の教育現場で、双方が忠犬ハチ公や軍用犬を「再利用」しないよう、切に祈るのみです。

 

犬

「尋常小學修身書巻一」より 明治42年

 

このような歩みをたどってきた日本を、これからどうもりたてていけばいいでしょうか。

それは、民主主義ということばをほんとうに生かしていくよりほかに道はありません。

ことばを生かすということは、身に行うということです。

こうして、みんなの歩調がそろったときに、はじめて、日本が正しい、美しい國となることができましょう。

「國語 第五学年」より 昭和23年

 

(次回へ続きます)

2016年8月度月報

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教育と犬のハナシは、「忠犬ハチ公の記事を焼き直ししてどうにかこうにか誤魔化そう」とか思ったものの、どうにもこうにもなりませんでした。

うへえ、この暑いなか図書館巡りで調べものかよなどとゲンナリしていたところ、唐瀬原用に集めていた資料が役に立ってしまったので、案外あっさりと叩き台が完成。

叩き台のまま投稿したりするから、後の修正作業が大変になるのですが。

 

 

 

 

 

吉田紘次郎

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父にはじめて犬を飼つてもらつたのは、わたくしが三、四歳のころのことであつた。

黒の小ひさな犬であり、耳が立つて、尾が上に巻いてゐた。遠い昔のことであるから、まだ洋犬といふものはなく、純日本犬であつたと思ふ。

小ひさな犬であつたが、ひどく気が強く、よく人に吠えついたので、近所の人にわるいといつて、父が遠い田舎の人にゆづゝてしまつた。

子供心にもさびしかつた。

 

これは大きくなつてから飼つた犬であるがエスと名付けた。

気のやさしいセツタア種であつたが、近所で鼠捕りのビスケツトを食べたらしく俄かに死んでしまつたが、庭から急に座敷に上つて來て、わたくしの膝にもたれたまゝ死んで行つた。

星の美しい、寒い夜であつた。

本郷駒込の榮松院の墓地に葬つてもらつた。三十四五年も前のことであるが、今でもはつきりエスの姿は記憶してゐる。

 

その次に飼つた犬は雑種の大きな犬であつた。

生後六十日くらゐで貰つて來たが、四つ目の可愛い犬であつた。成長するにつれてとても強くなり、近所の犬を慴伏してしまつた。

わたくしが「タゴールの哲學と文芸」といふ著述をつゞけていたころだつたので、ゴールと名付けてやつた。

止むを得ない事情があつて、ゴールとも別れなければならぬ日が來た。色々貰ひ手を物色してゐる間に日暮里あたりの活動館の主で犬を可愛がつてくれる人があり、その人に貰つていたゞくことにした。

ゴールと別れてから二年ばかり経つたころのことであつた。

或る日小石川傳通院あたりの高木といふ髪結さんの家に出かけて行つた妻が、俥で帰つて來たと思ふと玄関で泣いてゐた。

「何うしたの?」と訊ねたら、妻は湯島の切通でゴールに逢つたといふことであつた。

「あたしが切通の坂を下つて行くと、突然大きな犬が俥の上のあたし目がけて飛びついて來るではありませんか。そして何うしても離れないのです。

ゴールだったのです。映畫館の主さんにつれられて散歩に出かけてゐるところだつたのです」と妻はハンカチーフで眼を拭いてゐた。

その後わたくしたちはゴールのためにおみやげを購めて、活動写真館に訪ねて行つたが、すでに写真館の持主はかはつてゐて、ゴールに逢ふことはできなかつた。

 

「犬とともに」より 昭和19年
 

児童教育と犬(第2回)戦時教育とその終焉

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涙を流す父を、生まれて初めて見た。祖父は神棚に祈りをささげた。泣き虫の母だけが不思議に泣かなかった。

戦争は終わってしまった?!考えてもみなかったことが、とつぜんおこった。頭のなかが空っぽになった。眼の前が黒くなったり、赤くなったりした。

冗談じゃないと思った。

そんな馬鹿なことってあるか。この期におよんでなにごとだ。

陛下、なぜ降伏したのですか。このわたくしは、いったいどうなるのですか。

わたくしは、この汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。

ここで戦争を止められては絶対に困る。もし罪滅ぼしができるとすれば、それは、敵兵と刺しちがえることしかない。

敵戦車が上陸したら、おれはまっさきに突撃し、体当たりしよう。そうして汚名をすすごうと思っていたのに、それができぬとは!

陛下、なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

 

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

まだ中学生の主人公が「戦争を止められては困る」だの「罪滅ぼし」だの「汚名をすすぐ」だのと素っ頓狂なことを喚いているのは、止むに止まれぬ事情があったからです(原作を読んでね)。

今までの価値観が一変した昭和20年8月15日。

戦時体制下で軍国教育を受けた児童たちは、それぞれの戦後を歩み始めました。

 

初等科図畫より 昭和17年

 

【満州事変~】

満州事変、日支事変と戦争の続く中、軍歌を歌いながら大きくなった。日の丸の小旗をうちふって、入営兵士や出征兵士、軍用列車の見送りに行った。
出征兵士の武運長久を祈りながら、一針一針、真心こめて縫った千人針、慰問文書き、慰問袋つくりと愛国心は培われていった。

矢野ウメノ「思い出」より

 

 

・犬界

昭和6年の満洲事変当夜、関東軍の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。以降、大陸での匪賊討伐作戦や鉄路警備への軍犬配備が拡大します。

その直後、軍犬の資源母体確保を目的とする帝國軍用犬協會が発足。日本シェパード倶楽部を併呑し、全国規模での軍犬報國運動(軍用犬宣伝・シェパード飼育普及)が始まります。

昭和7年には忠犬ハチ公ブームがありました。忠犬物語は人々に感銘をあたえ、動物愛護運動や日本犬保存活動にも大いに貢献します。

国家と犬、ペットと飼主など、日本人と犬との関係が緊密化した時期でした。

 

・教育界

国際情勢の緊迫化にともない、教育現場からはリベラルな気風が退潮。火災などから御真影を守るため、各校では奉安殿の設置が進みました。

昭和10年、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」と那智・金剛の武勇伝「犬のてがら」が教科書に掲載されます。それまで情操教育の教材だったイヌは、皇民化教育や軍国教育に利用されるようになったのです。

 

 

 

いずれも国民学校教材より

 

初期の防空演習で用いられた 聴音機、狙塞気球、対空銃架に載せた機関銃、防毒マスク。 想定されていた「幾重もの防空網を突破してきた少数の中国軍機が、1~2発の爆弾を投下する」空襲では、この程度で十分でした。しかし後年の本土空襲では、高速・重武装の艦載機とB29爆撃機の大編隊が飛来します。

 

第1次上海事変で戦死した「爆弾三勇士」の美談も、教科書に掲載されました。

 

 

【日中戦争勃発】

 

小学校の高等科二年生になって、卒業を間近に控えて、それぞれ目指す目標に向かって進んでいきました。
圧倒的に軍人志望が多く、陸海軍の少年兵を目指していきました。
クラスからも飛行兵・通信兵・戦車兵となっていきました。
満蒙開拓義勇軍となって、満州(現在の中国東北部)に渡っていった人も数名いました。担任は、家庭訪問を繰り返して、勧誘に熱心でした。クラスに割り当てがあったらしいのです。
開拓義勇軍は、終戦の前後、旧ソ連軍の参戦で開拓地は孤立・分断されて、辛酸を嘗めることになりますが、遂に帰らぬ犠牲者もクラスの中から出ました。

黒木竹光「開戦から敗戦まで」 より

 

 

・犬界

昭和12年の日中戦争勃発により、内地の軍犬班は続々と出征。シェパードの購買調達も拡大しました。

内地犬界はシェパード飼育熱によって却って隆盛し、ペット業界もその恩恵にあずかります。米国盲導犬オルティの来日は大ニュースとなり、翌年の失明軍人誘導犬事業の実現へ至りました。

その一方、昭和13年には商工省が犬皮を統制下に置き、更には昭和14年の節米運動を機に、「無駄飯を食むペット」の飼育は白眼視されるようになります。

 

・教育界

まだ戦争は海の向こうの出来事であり、内地の暮らしは戦前からの流れを維持していました。

しかし、日常生活は徐々に戦時体制下へ移行。昭和13年には国家総動員法が施行され、教育現場でも国のため尽くす事が教えられました。学校は戦争支援の尖兵と化していったのです。

 

 

 

援農訓練に励む小学生たち 昭和15年

 

 

 

 

「コトバノオケイコ」より 昭和16年

 

【昭和16年・尋常小学校から国民学校へ】

今まで小学校といっていたのが、国民学校と改称されたのは、私が五年生の、一九四○(昭和十五)年のことであった。
そのときの担任の先生は、「国民学校になって、今までの義務教育六年制がこれからは、八年制になったんだ。それで君たちは必ず高等科二年まで進まなければならなくなった」と説明した。

しかし、国民学校と名称が変わっても、周囲で何かが急に変わった訳ではなかった。
私は、こうしてあまり変化のない、刺激には乏しい農村の国民学校の高等科に進んだ。
初等科六年から中等学校を目指して進学した者もいたが、私の家は、父が早くに亡くなり、母親が農家の手伝いをしたりして働いている貧乏世帯であったから、進学など思いもよらなかった

黒木竹光氏「国民学校高等科」より

 

国民学校への移行と共に、サクラ読本からアサヒ読本へ。

 

・犬界

昭和15年を最後に海外からのペット輸入ルートが途絶し、国内繁殖個体のみが流通するようになります。

食糧事情の悪化により、太平洋戦争突入前後から捨て犬の数が急増。飼育者の減少は、軍犬調達にも影響を及ぼすようになりました。

軍需原皮の減産から、一部ではペットの毛皮供出に踏み切る自治体も出現。日本ペット業界は衰退の一途をたどります。

 

・教育界

昭和16年の時点では、海外文化を紹介する教材が豊富に掲載されていました。それも太平洋戦争以降は影をひそめ、やがては敵性語の自粛や英語教材への墨塗りなどへ至ります。 尋常小学校も「国民学校」へと名称を変更。 「國民学校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ爲スヲ以テ目的トス (「国民学校令」より)」とあるように、 授業内容も戦時一色へと塗り替えられていきました。

学科が国民科・理数科・体練科・芸能科と実業科(高等科のみ)へ再編されると共に初等科教科書も変更され、修身はヨイコドモ、国語読本はコトバノオケイコ、算数はカズノホン、図画はヱノホン、唱歌はウタノホンとなります。

太平洋戦争へ突入後は、毎月8日が大詔奉戴日に定められました。

 

 

「エノホン」より 昭和16年

 

国民学校では「体操」が「体練科」へ変更され、授業数の増加と軍隊式教練の導入が進みます。昭和18年

 

 

中学校からは軍事教練も強化されました。

 

集団登校する国民学校生徒。昭和19年

 

「初等科図畫」より 昭和17年

 

【戦争後期】

戦争がはげしくなるにつれ、物も食糧も乏しくなっていった。
学用品もなくなり、鉛筆やノートが買えなくなった。
鉛筆は短くなったものに竹をさして長くして使い、紙は帳簿の古いものの裏を使い、消しゴム等はなく、指先をつばでぬらして消しゴムの代わりにしていたが、古い紙はすぐにやぶれるので困っていた。
履物はズックもなくなり、藁ぞうりかはだし、冬でも靴下はなく、ズボンは半ズボン、女の子は親の着物をといて作ったモンペだった。
子ども達だけでなく、先生の使う白墨も配給で、低学年の受持程よけいもらえた。
その頃は、カタカナ語は敵国語だから使うことは出来なかった。
チョークは白墨、バレーは排球、テニスは庭球といい、唱歌(音楽)の発声練習はドレミファではなくハニホヘトイロハと発声練習をしていた。
そして、唱歌は殆ど軍歌だった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です……」
「若い血潮の予科練の七つ釦は……」
「みたか銀翼この勇士……」
出征兵士を送る歌等々、次から次へと新しい歌が……
その頃「勝ち抜く僕等少国民」という歌の中に「天皇陛下のおん為に死ねと教えた父母の……」という一節があった。
二年生の男の子だった。
急に前に出てきて「うちの父ちゃんや母ちゃんはそげんこつは言わんよ」、と目をくりくりさせて、真剣な顔をして見つめた。

矢野ウメノ「思い出」より

 

戦前の授業では生物の保護色について教えていたのですが、戦争末期は兵器の迷彩効果が取り上げられるように(軍艦のシマシマは「ダズル迷彩」といいます)。米軍機の目を逃れようと、校舎の屋根や壁をコールタールで迷彩塗装した学校もありました。

「初等科図畫」より 昭和17年

 

・犬界

ペット業界や畜犬団体が活動を休止する中、多くの庶民は犬を飼い続けました。餌が少なくて済む小型犬や、シェパードなどの軍用犬であれば、まだ飼育継続の言い訳もできたのです。

マスコミがペットの毛皮供出を叫び始める中、愛犬家にとって最後の砦となったのが、廣井辰太郎率いる動物愛護會でした。「戦争目的で国民からペットを奪うような国家は、その地位を自ら貶めるだけだ」「アジアの盟主として、動物を愛護する餘裕をもってほしい」という彼らの警告は、しかし一億玉砕へ突き進む総力戦下では誰の耳にも届きませんでした。

 

・教育界

昭和17年以降、連合軍の反攻により戦況は激化。出征で働き手を失った農村への勤労奉仕など、教育現場への影響も拡大します。昭和18年、戦線の拡大と戦死者の激増により、高等教育委機関の文系学生から学徒出陣が始まりました。

昭和16年に結成された学校報国隊の機能は強化され、学徒勤労動員も拡大します。昭和19年には中等学校生徒に対して学徒勤労令と女子挺身勤労令が出され、軍需工場への労働力動員がおこなわれました。

 

 

 

 

 

ニフエイ(入営)

 

 

 

将兵関係の絵画教材は、陸海軍ともにリアル志向でした

 

 

伸びきった戦線を維持するために大量の兵力が投じられ、連合軍の反攻がはじまると戦死者も激増します。

 

国民学校の教材より

 

【戦争末期】

放課後、受持ちの川村先生が、朝礼で校長が話した「学徒勤労動員」の説明をした。

川村先生は、黒板に大きく「緊急学徒勤労動員方策」と書いた。

数学より書道を担当すればいいのに、とかげぐちをたたかれるだけあって、どうどうとしていてうまい字を書く。

政府は、さしせまった決戦体制を早くかためるため、昨一八日、軍事動員だけでなく、国民動員も徹底しておこなうことにし、中等学校上級生も、戦闘配置につけることを決定したのだ。

もっとも、今回の動員令は、三年生以上が対象で、おれたち一年坊主は関係ない。

動員令がくだると、学業をすてて社会に出、軍需工場で兵器をつくったり、飛行機場で飛行機の整備をしたりして、直接、戦争に役立つしごとをすることになる。

「上級生め、早く動員されればいい」と神戸がいう。おれもうなずいた。

じっさい、敬礼を忘れたの、帽子をあみだにかぶってるのと、すぐ制裁をくわえたがる上級生がいなくなれば、ずいぶんさっぱりするにちがいない。

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

日々の節約も限界に達し、増産しようにも資源がなく、B29爆撃機は高射砲が届かない成層圏から悠々と侵入してきました。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

・犬界

昭和19年末、軍需省と厚生省は全国の知事にペット献納運動を通達。これにより、膨大な数の犬猫が毛皮目的で殺処分されます。供出を逃れたシェパードも、本土決戦に備えた義勇部隊「国防犬隊」への参加が待っていました。

敗戦を待たずして、近代日本犬界は終焉を迎えたのです。

そのような状況下でも、日本犬保存會や日本犬協會では必死の保護活動が展開されていました。食糧難や空襲に晒されながら、日本犬は戦争を生き延びます。

 

・教育界

本土空襲が始まると、都市部の児童は各地へ集団疎開。地方の児童は農家への勤労奉仕に駆り出され、満足な授業も行えなくなりました。

中等学校生の軍需工場勤労動員は、3月になると全学年が対象の学徒勤労総動員へ拡大されます。学校からは生徒の姿が消えていきました。

高学年の男子は、少年飛行兵や満蒙開拓軍の進路を選択。 男性教師も次々に出征し、教壇に立つのは高齢者や女性ばかりといった状態に。本土決戦部隊の宿舎に利用された教育施設も無差別爆撃され、多くの教師や児童が犠牲となりました。

 

 

 

日本の誇る連合艦隊は壊滅、戦艦大和も片道特攻の途上で海の藻屑と消えます。

 

 

戦況悪化からの現実逃避か、何だか凄そうな地下要塞やSFっぽい超兵器が教材に載るようになります。 アンブロシーニSS4みたいなのもいますね。 こんなのを量産できる資源と技術と工業力があれば、そもそも戦争をしなくて済んだワケですが。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

粘土工作の作例・高射砲、爆弾、魚雷 国民学校教材より

 

保土ヶ谷の化学工場に勤労動員された学生たち。昭和20年

 

学生たちも、軍需工場や生産農家への勤労奉仕に駆り出されます。

 

【敗戦】

もう一時前だったと思う。地元出身の年老いた先生が職員室から出てきた。
「日本は最後には神風が吹くから必ず勝つ」とよく言っていた先生だった。
「みんな、集まれ」

みんなと言っても二、三十人だけだった。
「みんな、良く聞けよ」

泣き腫らした目がまだ赤かった。
「戦争は終わった。天皇陛下のお言葉があった。お前たちはすぐ帰って家の人達にも報告しなさい。これから、どうするかはまだ分からない」
切り出しの言葉以外は今、一つ一つの言葉を覚えていない。まだたくさんのことを告げられたように思う。

私たちは呆然と聞いているだけだった。
私は戦争が終わったという意味が飲み込めなかった。六年生になっていた私がそうだから、一、二年生など何のことか分からなかったはずである。
五、六年生の中には日本が負けたつよ、米英に負けたつよ、と説明するものもいた。私は帰りながらいろいろ考えた。
「日本が負けた。そっでん、神風はどしたつよ(※それで、神風はどうしたのですか)。最後にゃ神風が吹いて日本が勝つとじゃねかったつか(※最後には神風が吹いて、日本が勝つのではなかったのですか)」

佐藤聿夫「敗戦前後」より

 

敗戦の報に呆然とするもの、涙を流すもの、激怒するもの、徹底抗戦を叫ぶもの、流言飛語に惑わされるもの、安堵するもの、開放感に浸るもの。

 

教師と生徒は、それぞれの気持ちを抱いたまま昭和20年8月15日を過ごしました。

 

国民学校教材「紀元節」より

 

 

【戦後】

何もかもない物資不足の中でも、子ども達の顔に、明るさがもどってきたのは嬉しかった。
復員された若い男の先生も何人か着任され、学校に活気が出てきた頃、進駐軍がジープで多勢やって来た。
何事だろうかと恐ろしかった。校長室にはいっていった。通訳がいて何かはなし合っていたが、六年生の女子級をえらび、受持ちの先生は教室から出されて一時間位自分達が占領した。
はじめにおとぎ話をしたらしかった。
次にアンケート用紙をくばり、いろいろ調査があったらしく、先生にも親にも言うなと口どめされたようだったが、進駐軍が引きあげると子ども達は内容をみんな話してくれた。
好きな先生やきらいな先生の名前、そしてどこかに兵器がかくされているところはないか、アメリカ兵の墓はないか等が主目的だったらしい。
二、三日おきにはやって来て、学校で遊んでいたが、何年か後の新聞記事によると、落下傘で降りた一人の兵士(※撃墜されたB29の搭乗員)の名前がわからなかったらしいとかで、日の谷の松の木にひっかかって、重傷を負っていた兵士が死んだのだそうで、その兵士の名前をさがしに来ていたとの事だった。
来校したたびにオルガンを弾く兵士がいた。
青い眼の兵士は弾くなり、今日もまた、スコットランドの曲「故郷の空」
青い眼の兵士は故国を偲びてか、来るたび弾くは「故郷の空」

矢野ウメノ「思い出」より

 

・犬界

8月15日以降、どこに隠れていたのか、殺戮を逃れたペットたちが姿を現し始めます。北海道などでは纏まった数のシェパードや日本犬が残っており、戦後犬界の復興に貢献しました。

出征していた愛犬家が復員してくると、休眠状態だった愛犬団体も各地で再スタート。昭和23年あたりからペット輸入ルートも復活し、日本犬界は急速に復興を遂げました。

国家地方警察体制のもとでは計21県警が敗戦直後から警察犬の運用を再開、復興期の治安回復に貢献します。警察予備隊や保安隊でも軍用犬の再配備に取り組んでいました。

いっぽう、生産・流通ラインがズタズタに破壊されたところへ海外からの引揚者が殺到、食糧難は悪化します。日々の食すら覚束ない時代、犬の肉も密かに流通していました。

 

・教育界

敗戦後の教育現場では、まず戦時体制から通常授業への回帰が促されました。

9月末には、文部省が戦時教材の排除を通達。教科書の墨塗り作業が始まります。

10月11日、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で、「参政権付与による婦人の開放」 「労働組合の組織推奨」 「教育の自由主義化」 「秘密警察の廃止」 「経済制度の民主主義化」の五大改革が実施されました。

教育現場にはGHQの担当官が入り込み、皇国史観・軍国教育の排除が徹底されます。進駐軍の指導は絶対であり、教職員に対しては戦時思想の是正も図られました。

21年1月1日、「天皇が神である」ことが否定され、その月のうちに修身や国史の廃止、奉安殿の撤去などが完了します。

昭和22年、戦後教育の指針となる「教育基本法」と教育制度を定めた「学校教育法」が施行。新時代への対応と共に、各種学校がごちゃごちゃ混在していた状況も整理されました。

それまでは、「過渡期」の授業が続けられます。

 

敗戦のショックに呆然としていた教師や生徒も、それぞれが新しい時代に何とか対応しようとします。

価値観は180度反転し、戦時体制からの脱却が始まりました。

やがて進駐軍は教育現場へ介入。教材から皇国史観や軍国主義を徹底排除します。

 

戦時教育との決別を象徴するのが、進駐軍の指導による「墨塗り教科書」でしょう。修身や国史のように教科書ごと廃棄されたものから、該当部分の切除や墨塗りで対応した部分まで、その方法は多岐に亘ります。

墨塗り教科書の一例を取り上げてみました。

明治43年から文部省唱歌となった「我は海の子」。敗戦を経て、現代まで歌い継がれました。画像は「初等科國語七」掲載分。教師用のものらしく、指導要領が細かく書き込まれています。

 

敗戦直後の初等科國語七では、軍事色の強い7番の歌詞が墨塗りされています。

 

同じく初等科國語にて、八「日本海海戦」と九「鎮西八郎爲朝」をカットし、 七「姉」と十「晴れ間」を器用に繋ぎ合わせた例。 修正部分が何ページにもわたる場合、墨塗りではなく丸ごと切除されました。


pp.115-124の「いけ花(戦地の兵隊も生け花を楽しんでいるという話)」「ゆかしい心(戦地の通信班が傍受した東京放送、兵士のペットの猫、戦地で詠んだ俳句の短編集)」を切除し、残りは墨塗りが面倒くさかったのか×印で抹消した例。ページがカットされまくった結果、元の3分の2くらいの厚みになっています。

 

裁縫の教材も、軍国的なデザイン(日の丸の意匠など)は墨塗りに。なぜか防空頭巾の作例はOKでした。「初等科裁縫」より

 

戦争後期には、進路として軍人を志願した生徒も少なくありません。少年飛行兵から特攻隊へ配属された場合、ある者は出撃して戦死し、ある者は出撃前に敗戦を迎え、「自分だけ死に損なった」という負い目を抱えたまま復学しました。そして、所謂「特攻くずれ」として母校へ鬱憤をぶつけたのです。

教え子に軍国教育を施した教師は、それに黙って耐えるしかありませんでした。

 

入学式から二・三日後のことであった。その日から授業が始まると言うことで、我々新入生は、不安と期待で緊張して先生の来られるのを待っていた。

その時である。

「黙想」と言う、われ鐘のようなどなり声が聞こえて来た。そして、教室の戸を荒々しく開けて特攻帰りの先輩達が入って来た。

飛行服、飛行靴、首には真っ白なラッカサンのマフラーをまきつけていた。

その中の一人が教壇にあがり、「貴様等は、この伝統ある小林中学校に入学してきた。しかし、貴様等の態度はたるんでいる。いまから気合を入れてやる。目をつぶれ」とどなられ、持っていた青竹で教卓を激しくたたいた。

我々新入生は生きたここちもしなかった。

そして「我々は祖国を護るために戦場におもむいた。しかし、戦いに敗れ、いま、このように生き恥をさらしている」「」貴様等は、戦争に敗けてくやしくないのか」等の説教が終わると、「よーし、これから一人一人に聞くからはっきり答え、いいか」と言って、前列の方から個人尋問が始まった。

「おい、こら立て」「お前には姉がいるか」

「います」と答えると

「名前は、住所は、姉の名は、年齢は」と聞かれる。

「よし、坐れ。明日姉さんの写真を持って来い。分かったか」

「はい、分かりました」といった具合である。

いよいよ私の番が来た。必死に目をつぶっている体に緊張が走った。

「立て、名前は」

「柊山です」

「出身学校は」

「飯野国民学校であります」

「姉はいるのか」

「いません」

「馬鹿もん、何でおらんのか」と言ってほっぺたをたたかれた。自分の番が終わると全身の力がぬけていくのを感じた。

この説教が終わる長い間、教科担の先生は廊下の入り口の外に立って教科書をかかえ待っていたのである。

柊山富弘氏「特攻生き残りの先輩たち」より

 

戦時中「予備戦力」を育成していた教職員たちは、その反省を踏まえて「教え子を戦場へ送るな」をスローガンに戦後教育に取り組みます。

イヌを使った教材も、本来の情操教育用途に戻されたのでしょう。動物愛護精神を育む上で、たいへん喜ばしいことです。

 

戦後の教育現場からは徹底的に軍事色が排除されました。しかし、その残滓は本当に拭い去れたのかどうか。

何だかキナ臭くなりつつある昨今は愛国心教育(?)なるものが復活しつつあるそうで、生徒より先生のほうがザワザワしていらっしゃいます。まあ、そんなことはどうでもいいとして、問題なのはイヌが利用されることです。

さすがに軍犬武勇伝が教科書に載ることはないとは思いますが、対抗手段である平和教育のテーマに「戦争と犬」を用いるケースもある筈。

 

犬が戦争の犠牲となったことを授業で教えること自体は、とても大事です。

しかし、その目的が日本畜犬史(日本史のサイドストーリーとしての)を学ぶためではなく、「都合の良い平和教育ネタ」と勘違いされているのは残念ですね。

日本の犬の歴史は、センセイがたの思想闘争の道具ではありません。そもそも、日本人と犬の1万年にわたる歴史のうち、何で戦時の15年間ばっかり切り取りたがるワケ?

動物愛護精神を育むならまだしも、犬を道具扱いすることを教えてどうすんだと。

押し付けと反発がせめぎ合う21世紀の教育現場で、双方が忠犬ハチ公や軍用犬を「再利用」しないよう、切に祈るのみです。

 

「エノホン 一」より 昭和16年

 

このような歩みをたどってきた日本を、これからどうもりたてていけばいいでしょうか。

それは、民主主義ということばをほんとうに生かしていくよりほかに道はありません。

ことばを生かすということは、身に行うということです。

こうして、みんなの歩調がそろったときに、はじめて、日本が正しい、美しい國となることができましょう。

「國語 第五学年」より 昭和23年

 


JSVとKVの合併協議 昭和10年

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我等が昨年來屢々主張して來たシエパード犬界の合理化運動が、愈よ實際方面から具體化せんとしてゐるのは、犬界にとつて最も大きい吉報と云はねばならぬ。

この吉報の詳細を犬界人、尠くも軍用犬シエパードに関心をもつ人々に、少しも早くお傳へしたく思つたが、生憎今月も超満員の讀物に紙幅をとられたのと、こと重大にして、餘りにお先走りをすることを虞れて、来月まで静観することゝした。

只こゝに銘記したいことは、軍犬資源十萬を目標としてゐるのに、僅か一萬内外のシエパードで既に一部に於て飽和状態の如き観を呈するのは何故か。

その矛盾は何處にあるか。

この點に何人も思ひを致し、各方面が虚心坦懐に和協の實を致さねばならぬ。

白木正光 「巻頭言」より  7月

 

白木正光

「いやそれよりももつと根本的に、つまり犬種を生かすか、殺すかゞ問題で、それにはシエパードならシエパードの統制を計る何等かの方策を講じて貰ひたいと云ふのです」

有坂光威帝犬理事

「それが一番大切なことだ」

白木

「そして實際問題として、ブリーダーは帝犬とJSVに呼びかけて、なんとか發展の一路を辿つて行くやうにしたいと望んでゐるのです」

坂本健吉帝犬副会長

「それは前云つたやうにすれば解決できると思ふ」

中元銀弘エアデール協會理事長

「金を多く拂ひ過ぎてゐるのではないですか」

白木

「金の問題ではなく、折角いゝ種牡がゐるのに、よい犬を作らずに終らせたくないといふのです」

有坂

「それには統制機関が必要です。會が分立してゐてはいゝ牡がゐても充分利用が出來ない」

白木

「それです。それに現在は犬が一局部に偏在し過ぎて仔犬のはけ口も悪いやうです」

(中略)

坂本

「それで、今の犬の動きだが、警視廳や地方廳、それから銀行會社へも犬を貸すといふことにする。さうすれば、或る程度までギヤングなども抑へられる」

白木

「それも統制機関があると有効です」

永田秀吉帝犬理事

「實際、これは犬界全般の喫緊事であるから、犬界人はすべからくその気持を持つて貰ひたいものです。さうなれない人は、共に明日を語るに足りない。で、全犬界の将来を思ふ人達が團結して、人と犬の結合を強固ならしめると共に、その向上を計ることになれば本格的です。この秋の訓練競技會はKVとしても他團體の人にも参加を願ひ、他團體もその意味を理解して協力を惜しまないとすれば、それだけでも今までの競技會に比して、進歩したものだと云はねばならない」

平岩米吉日保理事

「今までのアベコベをやれば、良い事が澤山出來る」(笑聲)

白木

「猟犬の方面では、目下四つの團體があつて、その一つは大いに進歩的な考へを持つてゐます。催しの際には豫め期日を他の三團體に計つて日取をきめる。これは催のダブルことを虞れてのことです。又競技會の審査員は各團體から一名づゝ出て貰ひ、お互に手を取り合つてやらうと云ふのです」

「犬界時事検討の集ひ」より 8月開催

 

齋藤弘日保理事

「軍用犬なり天然記念物となつたことは、地方人をして犬の趣味を起さしめるに非常によいことです。結局日本の犬の世界も、もう一と息といふ所ではないでせうか。

大分判りかけて來たと思ひます。

普及宣傳から統制にはいる時期と考へます。で、この際犬界全體の将来を考へて提携して行かねばなりません

今泉

「各クラブ内で統制を乱す人が分在するやうなことはありませんか」

坂本健吉帝犬副会長

「それは自己の利害から起る。これを除いて掛らなければ駄目です」

今泉源吾ワイヤー倶楽部理事長

「統制を乱したものは如何に處置するか。六ケしい問題だと思ひますが、ある會で除名された人が、他の會へ平気で這入れるやうでは何時までも會の完全は期しがたい。

これは各會で連絡をとり注意するやうにしたら如何でせう。現に私の會でさうした例があつて、自發的に退會して貰つた例があります」

齋藤

「吾々の方にも任意退會して貰つた例があります」

座談会「日本の畜犬界向上策」より 9月開催

 

合併の音頭をとっていた筈の齋藤さんですが、その辺の裏事情はおくびにも出しておりません。

 

我々の期待はもつともつと大きいのです。

たとへば犬界の統制、各畜犬團體の提携連絡、又宣傳方面では犬界諸雑誌の動員等も、帝犬なら多少の強要が唯々として聞かれます。

そして最も焦眉の急はJSVと何等かの形式で握手することですが、その機運が最近やゝ停頓の形であるのは遺憾千萬です。

一日も早く 輿論の軌道に乗つて、實現を期せられたいものです。

白木正光「軍犬燦たり」より 11月

 

帝犬とJSVの合同問題は本誌上で屢々慫慂し、その實際運動のことも多少触れたが、餘りに先ばしりして、却つて不首尾に終ることを恐れて、讀者には甚だ不忠實ながら具體的のことは報導するのを差控へて居た。

しかし今日ではJSV主脳部でも又最も合同に難色のあつた帝犬幹部の一部でも、釈然として合同説に傾いてゐる。

たゞ問題は帝犬とJSVの大團體を如何なる形式によつて握手させるか、これにはまだ相當頭をひねらねばならぬ。

白木正光「犬界近事」より 12月

 

(追記)

 

上記の噂話に対し、JSV側は徹底した沈黙で対処していました。

白木さんと相馬JSV理事が接触したことは公表されたものの、その内容は「JSV会報の体裁が雑誌化しつつある。営業雑誌への圧迫だ」と冗談を言われたことくらい。合併問題に関しては皆無です。

もともと「JSVは他団体への批評を避けるべし」というスタンスだったのですが、外部の報道と内部の情報封鎖のギャップに戸惑うJSV会員もいたようです。

犬の研究8月號にシエパードの合理化を告げ、KVも愈々我JSVと提携の運びに或は成るかの如き言あり。主催は9月號にと又KV奈良支部展の際A大尉も理想論として意味ありげな話あり。

僕等は犬の研究9月號を一日千秋の思ひを以て迎へた處、詳細はおろか何等具體的の記事を發見する事は出來なかつた。

若し此の運動が實現すれば犬界はどれだけ朗らかに成るか。

インチキ血統書、業者會員の問題、仔犬の洪水、蕃殖統制等々。犬界は必ず刷新されると確信する。

従來の矛盾は少なくとも両者の對立にあつた。シエパード犬の黄金時代は過ぎた。是れから真面目な蕃殖のみに與へられる訓練の時代である。第一の急務は愛犬家の自覚だ。

松浦一帆「秋風」より 昭和10年

アダ・フォン・ヤマトガワ(愛玩犬)

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生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牝

地域 愛知縣名古屋市

飼主 高田定俊氏

 

何處へ行くやら真帆片帆、沖じや汽船が黒煙り、幽かに見ゆるは神風薫る伊勢路の姿、大自然の風景に恵まれた、朝倉海岸に宏壮な近代的別荘を建て、愛犬と居を共に此世の春を謳歌してゐられる同氏を、残暑の日盛りを汗だくで訪問すると、「マア、御暑いに、ようこそ」と御出向ひ下さつたのが、良い意味での現代美人と折紙付の御夫人。

その後からフオン・アサクラ主人「サア、どうぞどうぞ」と導かれた處は陽炎燃ゆる海面を一眸に見晴せる奥座敷。

 

「恵まれた土地で飼はれて、イヌも幸福ですね……」

と伺ふと

「そこですよ、私は決して海水浴を目的として建てたのではなく、夏は涼しく、冬暖く、この邊一帯はオゾンの發生地として名高いばかりでなく、何んと云ひますか、磯臭いとでも云ふのでしよう。この沃度を含んだ香りは全く良犬作出の好適地ですよ」

と御しやる。

高さ丈餘の阪石燈篭の真下にあたつて、エチオピヤ色を染め出した河童連が未だ來て間のない伊太利色童と戦争ごつこの真最中。

で、見て居ても涼しさを増す眺めである。

 

扇風機のスイツチを入れながら「マア一度仔犬を見て下さい。女中にAddaを連れださせますから、上着を取つて寛いで……」

と勧めらるゝまゝに、よく冷へたサイダーを戴いてゐると、「どうぞ、こちらへ」と御夫人の御案内で犬舎拝見に……。

 

「こうして金網を張つて、晝でも蚊取線香を焚いてゐますの」と御説明になる。

犬舎の内で、「一寸見て下さい。小さくても目方はとても重いですよ」と高田氏の差出されたものを手に取つて見ると、よく整つた、俗に云ふ固肥の何れ劣らんぬ逸物ばかりである。

良犬作出の好適地で全注意力を傾けての御骨折の賜物であると感服するの外はない。引止められる儘に、二階の應接室へ腰を下す。

 

華美を盡した調度の彼方に高級ピアノが、ドツシリと控へてゐる。これ一臺でも相當の犬が手に入るがなーと逐ひ淋しい心を起してゐると、冷たい飲物とパイナツプルを御女中と二人で御運びになつた令夫人。

何度見ても見飽かぬ淑やかな、それでゐて溌剌たる健康美の所有者ではある。

あの白魚の如き指もてキーを打たせ給ふとき、その妙へなるリズムは近き人里に、海の彼方に、と書いて來ると何んだか閨秀作家の筆のやうで筆者の脳味噌では後字が續かんからやめにして、たゞこの音律に會ふ人も犬も魚も果報者だとして置く。

 

一寸センチになりかけた時、片隅の机に向つて仔犬の命名に懸命だつた、フオン、アサクラ氏が「牝にBieneつてどうです」との聲に、「エゝ、 Biene と。 Biene は蜜蜂か。蜜蜂の牝と」と無意識に、こんな事を云つてゐる内に訪問子心理が頭をもち上げて來た。

「結構ですなー、蜜蜂の牝は女王ですから、時にAddaは仔犬を可愛いがりますか」と質問すると、「それはそれは可愛いがりますの。今もねー、私の留守中に他人の臭が、ベビーちやんに付いてゐるが、どうしたんですと云ひたげに全身を舐め廻してゐましたのよ」と御笑ひになる。

 

同行のO氏も海千山千だ。

早速「奥さん、Addaに云つて下さい。私達の手に毒は付いてゐませんから心配しないでいゝよつてねー」と應酬して、「マア、マア」と止めらるゝのを辞退して御夫妻に見送られて玄関を出ると、婦人乗の自転車が目に止まつたので、「唯方が御乗りになりますか」と尋ねると、「主人は毎日名古屋の御店へ参りますので、私か女中か手の隙いてゐる方が乗つてAddaの運動を致しますの」と仰しやる。

 

幸福なる者よ。汝の名はAdda von Tamatogawa……。

この好運兒AddaはTitus vom Stolzenfelsとの仲に生れた。3頭の仔犬の成長を楽しみに、ベストを盡してゐるのである。

幸ち多かれ……。栄冠を目指して育くまれつゝある仔犬共に……。

 

S生「名古屋支部訪問記」より 昭和10年

 

ロザー(麻薬探知犬)

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生年月日 不明

犬種 ドーベルマン

性別 不明

地域 満洲國

飼主 満州国税関

 

満朝国境で暗躍する阿片密輸団に対し、満州国税関監視犬部隊は阿片探知犬の訓練を開始。しかし、日本側(朝鮮地域)へ越境して密輸拠点を捜索することは許可されません。

税関では鴨緑江での水際防御に努め、流入した阿片の取締りは満洲国禁煙総局へ任せることとなります。

禁煙総局も、満州国税関監視犬育成所へ委託して麻薬探知犬と取締官を訓練。阿片の押収に成果を挙げました。

 

 

税関犬としての訓練に、或る個々の物品、例へば阿片なら阿片の臭気を嗅ぎ分ける訓練を施すことがあります。

そんな必要がどうして起るかと言ひますと、税関には保税倉庫があつて、その中に阿片の如き、禁止物品のある場合、これを押収しなければならぬからです。

阿片の嗅ぎ分けには非常の優秀な犬がありました。ロザー號は、樽の中に味噌を入れ、その中にトランクを入れ、トランクの中に尚綿を入れ、その中にボール紙に包んだ阿片を、この犬は嗅ぎ出すことが出來ました。

訓練法は、或る物品の臭気に馴致し、その物品を寝臺等にかくし、単に「捜せ」の命令で捜させ、その物品を覚つたならば、吠える様に訓練します。

これはひとり税関のみでなく、警察犬としても、また軍用犬としても毒瓦斯に對する豫知法ともなるのではないでせうか。

 

根本幹太「満洲の税関監視犬」より 昭和13年

葬儀と犬 昭和11年

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大牟田のさる料亭の主人が死んだ。

其の料亭は市の一流料亭で、新佛の主人には私も二三の面識がある。

ある日の午後、オフイスの窓から街を眺めて居ると、偶然其の葬式の列が通るのに氣がついた。

田舎町の而も有名な料亭の主人の葬式だ。原始色いとも華やかな花島が数へられぬ程通り、其の後から輿丁に擔がれた棺が續く。

と、棺側の白衣の遺族に混つて、二頭のシエパードが牽かれて行く。グレーの五ヶ月位のが二頭。

私はこの思ひがけない興味に思わず目を瞠つた。

最近の大牟田に於けるシエパード犬熱は、中々素晴らしいものがある。無論一時の流行的のものではあるが、茲数年間、私の懸命な宣傳も係はらず全市を併せ同犬の数は十指にも満たなかつた。

それが今では四、五十頭にも及ぼうか。そして今見る葬列の扈従である。

白芽荘 西村六二「大牟田犬信」より

 

毎度おなじみ、戦前の九州犬界事情を発信し続けた西村さんのお話。

「結婚式と犬」「出産と犬」「葬儀と犬」「墓を守る犬」など、郷土史あたりでチラホラ見かける記録を集めたら面白いかもしれません。

 

Urka vom Haus Aoshima JSZ5993(種牝犬)

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生年月日 不明 

犬種 シェパード

性別 牝

地域 東京市

飼主 鈴木亦一氏

 

 

ちなみに、同じ犬舎出身のアルゴス・フォン・アオシマは帝國軍用犬協會登録犬でした。

http://ameblo.jp/wa500/entry-11951131846.html

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