編 一ノ瀬正樹、正木春彦
出版 東京大学出版会
発行 2015年3月8日
東京大学といったらアレですよ、日本の最高学府ですよ。
犬好きとしては……「JSVの事務所が東大の近所にある」程度の認識でしょうか。
また、その威光を笠に「俺の意見は東京大学様からの引用なのだ!控えおろう!」と自説を箔付けしたり
「東大ともあろうものが、この程度のものしか書けないとは……」的に貶すことで自分を大きく見せたりと
私のような凡人が劣等感を原動力にする場合、東大という存在は大変便利なものです。
で、今年の3月に東大が犬の本を出版しました。 難解で堅苦しい本かと思って敬遠していたら、コレがまた、上の2パターンを両方楽しめる内容になっておりました。早く読めばよかった。
近代日本畜犬史上、東大が果たした役割というのは意外にも大きくありません。このブログで参考にしているのも、板垣四郎教授を始めとする、日本犬保存活動やフヰラリア研究で活躍した先生の仕事くらいですかね。
他大学の場合、早稲田のシェパード同好会、阪大のフヰラリア摘出手術、北里大学(当時は北里研究所)のジステンパーや狂犬病研究などのエピソードは多々あるのですが。
そんな東大が犬の本を出すのです。東大と犬をつなげるのが、帝大教授だった上野英三郎氏と愛犬ハチ公。
本年3月8日、上野教授とハチ公の像(植田努氏原型)が東大農学部に建立されました。
卑怯ですよねえあの像。ニュースを見たら人前で涙ぐんでしまい、「花粉症ですか?」と心配されましたが。ああ恥ずかしい。
そして、ハチ没後「ハチ十年(原文ママ)」を記念して出版されたのが本書です。
ハチに関する新事実が載っているかも!だって東大だし!と手に取ってみたものの、非常に困惑しました。
たかが犬ごときに本を出版してしまったのが東大のプライドを傷つけたのか、コレを書いた意義だの何だのを述べる前置きがクドクドと長い。シニシズムやディシプリンが何だって?犬の本じゃないんですか?
そのような前口上に延々30ページも費やして、ようやくハチ公の話が始まります。ああよかった。
しかしアレですね。「ハチ公に興味があったので調べました」程度の、夏休みの自由研究みたいな動機では東大的に負けなのでしょうか?窮屈だなあ。
その後ふたたびハチ公は姿を消し、犬のアルツハイマーだのオオカミの解説だの著者のペット談だのといった無関係の話が始まります。イヤな予感は的中してそれらに何十ページも割きまくり、主役のハチ公がなかなか出てきません。わかり易く例えるなら、劇場版パトレイバーにおけるイングラムの登場シーン並みにハチ公が出てきません。
遂には読者が求めてすらいない、アカデミズムに関する仰々しいアジテーションまでやらかしてしまうのです。こっちはハチ公の話を拝聴したいのに、一体何処へ突っ走っているのだ。
普通の犬本というのは犬の話が載っているものですが、アカデミズムがどうたらとか語り出すのは初めて見ました。
例えばコレとか↓
「いま一個体のイヌの像とその“イヌ話”に踊るのは、東京大学である。
この秋田犬の一時の飼い主が所属したという経緯を、ポピュリズムに無批判に寄りかかりながらなにがしかの話題づくりに用いるのが、二一世紀の大学の、隠し通すことのできない哀しき“実力”である。
“イヌ話”の後日談としてしか機能しないのがいまの東京大学であり、そこに埋もれる以外に脳のない(原文ママ)のが教授たちだ。
大学など、小さい。禄を断たれ、理念を刻まれ、ガダルカナルやインパールの将兵のように捨て石にされたとき、知をもって人々に幸せを提起することよりも、第四の権力として温和な社会創りに貢献するよりも、学術自治の真の力を誇りに抱き続けるよりも、一頭の秋田犬に跪く道を選ぶのである。
東京大学は「命の化け物」に喰われるのである。
イヌに踊らされるアカデミズム……。ヒトがオオカミと出会って以降、人間がこれほどの退歩を経験したことはなかったといえるかもしれない。
大学も学者もこのイヌとこの“イヌ話”を消費して、一時を経過しようとする。もはや東京大学など、市場原理の一パーツ、“イヌ話”のバイプレイヤーでしかないのだろう(本書 pp.160-161)」
……難儀なことですねえ(ハチ公の話をしてほしいんだけど)。
非礼を承知の上で
そんなに「東大」に拘るなら、ムツゴロウさんに書いていただけばよかったんじゃないスかね。
ローレンツとの犬歴史対談エピソードとか、すごく面白かったなあ。
◆
野次はこれくらいにして、いつも通り誉めたり貶したりしましょう。
冒頭で書いたとおり、「東大の本」として。
この本における「さすが東大」的なところ
ハチ公に関する解説は、とても勉強になりました。
・ハチが癌にかかっていたという解剖データ。
・秋田犬の歴史と保存運動に関する解説。
・ハチや関係者についての時系列に沿った説明。
などと、興味深い話もたくさんあります。
中でも「ハチ公が渋谷驛通いをしていたのは焼鳥目当て」の説を論破していたのは痛快でした。
本書は昭和60年代からとしていますが、実際はハチ公存命中から「焼鳥目当ての駄犬説」は流布されていまして、日本犬保存会の齋藤弘らと真っ向から対立していました。有名人となった斎藤さんへのやっかみもあったんだろうなあ。
そして戦後、世の中をナナメに斬る歴史批評家サマ(笑)が焼鳥説の伝承者となり、21世紀に至るワケです。
焼鳥焼鳥と念仏の如く唱える人に聞きたいのですが、忠犬は断食しなければならんという規則でもあるのですか?
……などとカリカリしていると低レベルな罵り合いになるのですが、本書はその辺を「ハチが駅で待っている午前の時間帯、焼鳥の屋台は出店していない」などと丁寧に反論しています。
あと、「忠犬ハチ公」の虚像を無闇に持ち上げる人々へ、「そうじゃないでしょう」とやんわり諌めるような態度にも好感が持てました。
ハチ公は国家の忠義を体現した犬ではなく、主人の上野教授を愛しただけの秋田犬だったのですから。
「東大ともあろうものが……」的なところ
・「オンヲ忘レルナ」が軍国教育だの、ハチ公物語が軍国の魂だのといったハナシを無批判のまま載せている態度にはガッカリ。
軍国教育に該当する部分は「オンヲ忘レルナ」の何行目で、それをどのような教育方針で指導し、児童にどのような影響を与えたのか。「オンヲ忘レルナ」の本文について論じるでもなく、サンプルに当時の児童感想文を集めるでもなく、その辺の検証は全くナシ。
子供達はハチ公を忠犬と讃えたけれど、それって軍国教育ではなく動物愛護教育じゃないの? では、当時の日本人道會や動物愛護會や東京ポチ倶楽部による啓蒙活動を取上げてみましょう。……などとイロイロできた筈なのに。
「軍国の犬像」とやらのイメージ操作も陳腐過ぎます。
軍用犬関係の記録を繙く限り、それはハチ公ではなく「犬のてがら」の那智・金剛姉弟だよね。彼らのシンボルとなったのも「逗子忠犬像(軍犬ジュリー慰霊碑)」であり、渋谷のハチ公像ではありません。
オオカミ話だのペット自慢だのに何十ページも費すヒマがあるなら、このような部分を掘下げればよいのです。それを、たった1行で説明終了とは。
通説だから、常識だからと思考停止するのが、あれだけ力説していた「アカデミズム」なのでしょうか?
「オンヲ忘レルナ」と「犬のてがら」をキッチリ区別していたのは、溝口元氏の「エピソード4」だけでした。
・ 「戦前の犬の寿命は短かった」という話も、クドクド説明している割に「戦前の日本」の定義がアヤフヤ過ぎます。
戦前の犬について語っているんだから、近代日本のエリアである日本列島(内地)プラス外地で考えましょう。
本書ではフィラリア症を短命の原因に挙げていますが、ソレはその通り。しかし、フィラリア症が極端に少なかった樺太、北海道、東北、沖縄、台湾のデータが入っているかどうかは判然としません。戦前の北海道犬には、10歳以上の長寿個体なんかザラにいた様ですし。
イヤ、それらの地域にも大規模な畜犬界が存在したんだから、戦前日本犬界を語る上で無視されては困ります。
最初から「戦前の東京の犬限定」とか書いていれば、つまらぬ揚げ足取りなどされずに済むんですけどね。
無理して守備範囲を広げなくても、東京大学だから「東京の畜犬史」で構わんのですよ。
ツッコミ部分はそれ位です。
一番うなずかされたのが、オビに書かれた「ハチは犬らしく生き、犬らしい死を迎えただけなのに、過剰に美化されたり、根拠のない誹りを受けた」という林良博氏(国立科学博物館館長)の言葉でした。
ハチ公論にとって大事なのは、等身大のハチと、虚像の忠犬ハチ公を冷静に比較する事なのでしょう。
◆
さて、本書が日本近代畜犬史における良質のテキストかといえば、うーん……。
全力を挙げて犬の歴史発掘に集中している「犬の現代史(今川勲)」「犬の日本史(谷口研吾)」「犬の帝国(アーロン・スキャブラン)」等といった同ジャンルの本より、かなり見劣りします。最初から最後まで「東大の肩書き」に拘束された本書と、「犬が好きだあああ!」という軽やかな動機で畜犬史を掘り起こした他書との違いでしょうか。
これまで犬の本を読むたび、私は何かしらの影響を受けてきました。
圧倒的な熱量や優れた分析や丹念な調査を見て「よし、俺だって!」と触発されるか、あまりの薄っぺらさに「あーもう、見てらんない!」と発奮するかのどちらかだったんですけどこの本の読後感はどうにもこうにも中途半端で、気の抜けた風船みたいな感慨しか持てませんでした。困ったなあ。
……えーっと、
ハチ公を調べる際は、是非ご一読を(フォロー)。
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東大ハチ公物語 上野博士とハチ、そして人と犬とのつながり
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