教育に関する勅語は我が國道徳教育の根本方針である。
學校でも、社會でも、又家庭でも、我が國に於ける總べての教育は勅語の御趣旨に基づいて行はれなければならず、若し御趣旨に基かないものがあるとすれば、それは我が國の教育ではない。従つて我が國の道徳教育とは結局直後の御趣旨を闡明し、之を實践躬行して、聖旨にそひ奉る臣民を教養する教育作用に外ならない。此の意味は教師用書の巻頭に、勅語の本文を奉掲してゐることによつても、又教科書の内容竝に其の機構についても明かに知ることが出來る。
勅語の本文は未だ二年生に授けることは出來ない、―修身教材としての取扱は他日の事に属するにもかゝはらず、巻頭に之を奉掲したのは、すべて「よい子供」の最高理念によつて統一され、その「よい子供」とは結局勅語の孝・友・和・信以下の諸徳を實践し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉る忠良なる臣民の義であることも、勅語の御趣旨をそのまゝ教材の機構に現はしたものと考へなければならぬ。
かくの如く教科書は徹頭徹尾勅語の御趣旨に基づき、御趣旨を兒童に奉體せしめようとしてゐるが、由來教育は心と心、魂と魂の問題である。口に百萬言を費してもそれが魂の叫でなければ人を動かす力はない。で、我々はまづ 躬らを磨かなければならぬ。
「小學修身指導書 尋常科第二學年」より
明治天皇の「教育二関スル勅語」、いわゆる教育勅語は、明治23年以降尋常小学校の修身書に掲載され、教育の指針となっていました。
「学研まんが イヌのひみつ」、「名犬ラッド」、「あっちゆきだよ、ヒャータ」、「ボクちゃんが泣いた日」、「マヤの一生」、「畜犬談」。
子供時代に出会った素晴らしいイヌ本はたくさんありますし、今でも手元に置いて愛読しています。
飼っていたシロ、ハヤ、太朗丸、ラリーたちと接しながら読んだ本の数々。そのおかげで道を踏み外し……、じゃなかった、 犬と暮せる幸せを知ることができました。
子供時代の読書体験とは、後々の人生にまで影響を与えるもの。娯楽といえど侮れませんね。
そうやって読書のジャンルを決めていれば、夏休みの読書感想文を書くのもラクでしたし。
昭和18年の習字帖にラクガキしてあった、戦時中の夏休みの誓い。
戦争が終わったのは、これから2年後の夏です。
児童教育も、子供の人格形成に大きな影響を与えます。しかし、私がイヌ好きになってしまったことに関して、学校の勉強は全くの無関係。 影響力ゼロ。
そういえば自分が小学生の頃、犬を使った教材は……、あったんだっけ?
全く思い出せません。
因みに「尋常小學夏期練習帖」より、夏休みの諸注意
明治43年
私は巡り合えませんでしたが、児童教育の現場では、明治時代からイヌを使った教材が使われてきました。
自然科学の勉強や動物愛護精神を育む上で、身近な動物はうってつけの教材ですからね。
……などというのは戦後教育を受けた世代の考えるコト。「戦中派」の人々は、犬を使った当時の教育を批判的に捉えてきました。
なにしろ、軍国主義を植え付けるためにイヌまでもが利用された時代なのです。戦前の教育を全否定したくなるのも当然でしょう。
批判論で目立つのが、皇国史観や軍国教育の教材ばかり取り上げて「こんなに酷かった!」「兒童を洗脳していた!」とかいう類ですか。
そう言いたくなるのは理解できます。当時の教科書に目を通せば、宗教本や軍記物と見まがうような教材がたくさん載っていて、国語の教科書では神代から日本の歴史が始まったりする始末。旧石器人や縄文人涙目ですよ。国史の教科書とはどうやってバランスをとっていたのでしょうか?
その一方で、近代日本が取り組んできた、海外の文化を学び取ろうとする努力の跡も見られます。モチロン、自然科学や情操教育にも力が入れられていました。
要するにバラエティに富んでいた訳なのですが、すべては国家・社会・学校・家庭の一員を育て上げるのが目的でした。ルールやマナー、責任感や友情、博愛の精神、知識や技術など、「国民の底上げ」に力が注がれてきたのです。
これだけの教育を受けた国民が、なぜあのような蛮行を国内外でやらかし、あげく総力戦の末の敗北へと突き進んでしまったのでありましょうか!?
……などという議論ではなく、この記事では「犬を使った教材にどんなものがあったのか」を取り上げます(犬のブログですし)。
それを確かめるため、明治時代~昭和にかけての国語の教科書を中心に目を通してみましょう。
では、尋常小学生になったつもりでスタート。
尋常小学修身書「ヨクマナビ ヨクアソベ」より 明治42年
【明治時代】
學の庭の第一門たる小學校に入つてから、六年間は夢のやうに過ぎ去つて、今や私は第二の門、―中學校に突進した。
今までは何の障害も迷もなく、唯、一本道を進んだのみであつたが、然しこれからの前途はなか〃険しい。
見渡す所彼岸は遠く、道は蜘蛛の巣の如く多種多様錯雑を極めて居る。或は質朴にして真摯なる學術門あり、風浪荒く競争激しき社會門あり、希望に輝く海外門あり、さては遊楽を以て人を釣らんとする堕落門さへある。
出世門は入るに難く、鍵無き者は扉を開く事も出來ぬ。而るに堕落門は自扉を開いて、素通せんとする人をも招かんとして居る。
嗚呼、我等は将にかゝる難関に臨まんとして居るのである。慎重なれ。一歩の差は千里の差となる。
小塩完次君「門」より 大正2年卒業
明治時代の教科書では、早くも犬の教材が登場しました。動物を主人公としたイソップの寓話も活用されています。
尋常小学読本巻二「慾深き犬の話」より 明治20年
・犬界
幕末の開国によって洋犬が大量流入し、全国へと普及。江戸時代は高嶺の花だった洋犬も、カネを払って購入できる庶民のペットとなりました。畜犬商が登場したのもこの時期です。
いっぽう、地域に根付いていた和犬は、交雑化により姿を消してしまいました。
咬傷被害や狂犬病感染が問題になると、行政は畜犬取締規則をさだめてペット飼育に介入。狂犬病対策でペット分野の獣医学が発展すると共に、残虐な野犬駆除方法を見かねての動物愛護運動も活発化しました。
ネットワークを構築していたのは猟犬界と闘犬界のみで、一般の愛犬家は各個バラバラだった時期です。
・教育界
庶民にまで「読み・書き・そろばん」の教育が広まっていたものの、統一の基準すらなかった江戸時代までの教育制度は、明治に入って殆ど機能しなくなりました。
明治政府は西洋諸国の教育システムを研究し、国家として学校教育の改革に着手。明治4年に文部省が発足すると、国民の水準を向上すべく初等科教育と高等教育の整備が進みました。明治19年から尋常小学校による義務教育もスタートし、師範学校の設立による教員の育成も制度化されます。しかし、児童の就学率は低調なままでした。
明治23年には明治天皇の「教育に関する勅語(教育勅語)」が公布され、道徳の教材を元に臣民の育成が図られました。以降、昭和20年の敗戦まで教育勅語が教育の指針となります。
明治40年には4年制の義務教育期間が6年制に延長され、就学率も向上。エリートや技術者を育成する高等教育機関として、各種中学校・高等専門学校の増設が進みます。各地に設立された帝国大学と共に、慶應義塾大學や早稲田大學などの私立大学も登場。日本を担う人材を輩出していきました。
明治の教育界は外国人講師招聘や留学生支援によって海外の知識を貪欲に吸収。児童の教材にも、従来の漢文のみならず欧米の偉人伝や旅行記などが掲載されるようになりました。
この時代、木口小平二等卒(当初は白神源次郎一等卒と誤認)や廣瀬武夫中佐など、日清・日露戦争の美談も教材化されました。
【大正時代】
わたくしが、一ばんよいきものをきて、お父さんにつれられて、學校へあがつたのは、ちやうど櫻の花がきれいに、さいているときでした。
わたしくは、學校へあがらないうちは、なんにもしりませんでした。けれども先生におしえていただいて、だん〃できてくるようになりました。
それですから、いまでも入學生を見るとおもい出しては、じぶんのがつこうへあがつたときのことを思ひ出します。
神奈川縣 飯島ヤス子さん 大正3年
大正時代から、「ハナ・ハト・マメ・マス」のハナハト読本が登場します。
尋常小學國語讀本巻一より、大正6年
・犬界
輸入される品種が爆発的に増加。ペット業界は隆盛を極め、各地で品評会も開催されるようになります。
大正元年に警視廳は警察犬を採用しますが、成果を挙げられず廃止に。
大正8年度、陸軍は軍用犬のテストに着手。将来の実戦配備に向けて研究を重ねます。国家と犬の結びつきは、まだ黎明期にありました。
大正12年の関東大震災によって関東犬界が壊滅すると、一時は国際港神戸を有する関西犬界が日本の中心を担っていました。
・教育界
大正デモクラシーにより、自由な気風が行きわたった時代。
政府の臨時教育審議会は教育制度の改革を推進し、多数の各種学校が設立されます。
教育現場では自由教育への理解も進み、幅広い授業ができるようになりました。綴り方教育の普及により、身近な生活を題材とした作文や詩作の自由表現にも力が注がれます。
いっぽう軍部では、第1次大戦の分析により、将来戦にそなえた予備戦力の充実に迫られていました。
そして大正14年の「陸軍現役将校學校配属令」によって、中学以上の学校には軍人の派遣が決定。これは、宇垣軍縮によって余剰となった陸軍軍人の受け皿でもありました。
将来の「軍人候補者」を育成するため、教育現場で基礎的な軍事教練を施すようになったのです。国定教科書にも、軍事面に関する教材が採用されます。
【昭和初期】
小学校の一年生に入学して、誰一人として忘れることの出来ない思い出と言えば、受持ちの先生から戴いたあの真新しい教科書である。
「サクラ」読本を手にした小学生ならば、最初の国語の一ページの文字が誰でも浮かんでくる懐かしい教科書である。
尋常科用「小學國語讀本巻一」文部省 の教科書を開いてみると
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
国語の読み方の時間になると、一文節ごとに読まれる先生の後をつけて、大きな声を張り上げて音読していたことが、今では、懐かしい思い出になっている。
その文章の下の欄には、親しみやすいように色刷りのさし絵がいくつも描かれていた。
また、現在の道徳の教科書にあたる、兒童用「尋常小学修身書 巻一」の初めのページには、二重橋と宮城の写真が掲載されていた。
関屋文夫氏 「戦争体験を背負った小学生時代を振り返る」より
昭和に入ると、ハナハト読本から「サイタ・サイタ・サクラガ・サイタ」のサクラ読本へ変わります。
「尋常科用 小学國語讀本巻一」より 昭和7年
・犬界
欧米との畜犬輸入ルーが確立され、シェパード、ドーベルマン、ワイヤーヘアードなどの大量輸入も本格化します。
昭和3年、消滅しかけていた日本犬を保護するため、日本犬保存會が発足。
同年には日本シェパード倶楽部も発足し、続いて犬種別の愛犬団体が乱立し始めました。
これにより、全国規模から地域のサークルまで、愛犬家同士のネットワークが拡大します。飼育知識や訓練法など、情報共有化も進みました。
・教育界
昭和恐慌(金融恐慌・農業恐慌)では企業倒産や失業者が急増、「大学は出たけれど」と言われた就職難に陥ります。生糸の輸出減や米価下落で農村も困窮。続く昭和6年の凶作で、子供の身売りなどの悲劇も拡大しました。
深刻な経済不況は、児童の親ばかりでなく義務教育の財源維持にも影響を与えます。
政治経済が大混乱する中、国威発揚を求めて軍国主義が台頭しはじめました。
【満州事変~】
満州事変、日支事変と戦争の続く中、軍歌を歌いながら大きくなった。日の丸の小旗をうちふって、入営兵士や出征兵士、軍用列車の見送りに行った。
出征兵士の武運長久を祈りながら、一針一針、真心こめて縫った千人針、慰問文書き、慰問袋つくりと愛国心は培われていった。
矢野ウメノ「思い出」より
・犬界
昭和6年の満洲事変当夜、関東軍の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。以降、大陸での匪賊討伐作戦や鉄路警備への軍犬配備が拡大します。
その直後、軍犬の資源母体確保を目的とする帝國軍用犬協會が発足。日本シェパード倶楽部を併呑し、全国規模での軍犬報國運動(軍用犬宣伝・シェパード飼育普及)が始まります。
昭和7年には忠犬ハチ公ブームがありました。忠犬物語は人々に感銘をあたえ、動物愛護運動や日本犬保存活動にも大いに貢献します。
国家と犬、ペットと飼主など、日本人と犬との関係が緊密化した時期でした。
・教育界
国際情勢の緊迫化にともない、教育現場からはリベラルな気風が退潮します。
昭和10年、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」と那智・金剛の武勇伝「犬のてがら」が教科書に掲載されました。
それまで情操教育の教材だったイヌは、皇民化教育や軍国教育に利用されるようになったのです。
【日中戦争勃発】
小学校の高等科二年生になって、卒業を間近に控えて、それぞれ目指す目標に向かって進んでいきました。
圧倒的に軍人志望が多く、陸海軍の少年兵を目指していきました。
クラスからも飛行兵・通信兵・戦車兵となっていきました。
満蒙開拓義勇軍となって、満州(現在の中国東北部)に渡っていった人も数名いました。担任は、家庭訪問を繰り返して、勧誘に熱心でした。クラスに割り当てがあったらしいのです。
開拓義勇軍は、終戦の前後、旧ソ連軍の参戦で開拓地は孤立・分断されて、辛酸を嘗めることになりますが、遂に帰らぬ犠牲者もクラスの中から出ました。
黒木竹光「開戦から敗戦まで」 より
・犬界
昭和12年の日中戦争勃発により、内地の軍犬班は続々と出征。シェパードの購買調達も拡大しました。
内地犬界はシェパード飼育熱によって却って隆盛し、ペット業界もその恩恵にあずかります。米国盲導犬オルティの来日は大ニュースとなり、翌年の失明軍人誘導犬事業の実現へ至りました。
その一方、昭和13年には商工省が犬皮を統制下に置き、更には昭和14年の節米運動を機に、「無駄飯を食むペット」の飼育は白眼視されるようになります。
・教育界
まだ戦争は海の向こうの出来事であり、内地の暮らしは戦前からの流れを維持していました。
しかし、日常生活は徐々に戦時体制下へ移行。教育現場でも軍国教育が強化され、学校は戦争支援の尖兵と化していったのです。
「コトバノオケイコ」より 昭和16年
【昭和16年・尋常小学校から国民学校へ】
今まで小学校といっていたのが、国民学校と改称されたのは、私が五年生の、一九四○(昭和十五)年のことであった。
そのときの担任の先生は、「国民学校になって、今までの義務教育六年制がこれからは、八年制になったんだ。それで君たちは必ず高等科二年まで進まなければならなくなった」と説明した。しかし、国民学校と名称が変わっても、周囲で何かが急に変わった訳ではなかった。
私は、こうしてあまり変化のない、刺激には乏しい農村の国民学校の高等科に進んだ。
初等科六年から中等学校を目指して進学した者もいたが、私の家は、父が早くに亡くなり、母親が農家の手伝いをしたりして働いている貧乏世帯であったから、進学など思いもよらなかった
黒木竹光氏「国民学校高等科」より
国民学校への移行と共に、サクラ読本からアサヒ読本へ。
・犬界
昭和15年を最後に海外からのペット輸入ルートが途絶し、国内繁殖個体のみが流通するようになります。
食糧事情の悪化により、太平洋戦争突入前後から捨て犬の数が急増。飼育者の減少は、軍犬調達にも影響を及ぼすようになりました。
軍需原皮の減産から、一部ではペットの毛皮供出に踏み切る自治体も出現。日本ペット業界は衰退の一途をたどります。
・教育界
昭和16年の時点では、海外文化を高く評価するアメリカ旅行記などが教科書に掲載されていました。それも太平洋戦争以降は影をひそめ、やがては敵性語の自粛や英語教材への墨塗りなどへ至ります。 「御國のお役に立つ、立派な國民を育てるため、小学校は國民学校に改まりました(「初等科国史」より)」とあるように、 尋常小学校も「国民学校」へと名称を変更。授業内容も戦時一色へと塗り替えられていきました。
国語の教科書に加え、図画工作の教材も軍事系の内容が多くなります。
国民学校では「体操」が「体練科」へ変更され、授業数の増加と軍隊式教練の導入が進みます。
「初等科図畫」より 昭和17年
【戦争後期】
戦争がはげしくなるにつれ、物も食糧も乏しくなっていった。
学用品もなくなり、鉛筆やノートが買えなくなった。
鉛筆は短くなったものに竹をさして長くして使い、紙は帳簿の古いものの裏を使い、消しゴム等はなく、指先をつばでぬらして消しゴムの代わりにしていたが、古い紙はすぐにやぶれるので困っていた。
履物はズックもなくなり、藁ぞうりかはだし、冬でも靴下はなく、ズボンは半ズボン、女の子は親の着物をといて作ったモンペだった。
子ども達だけでなく、先生の使う白墨も配給で、低学年の受持程よけいもらえた。
その頃は、カタカナ語は敵国語だから使うことは出来なかった。
チョークは白墨、バレーは排球、テニスは庭球といい、唱歌(音楽)の発声練習はドレミファではなくハニホヘトイロハと発声練習をしていた。
そして、唱歌は殆ど軍歌だった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です……」
「若い血潮の予科練の七つ釦は……」
「みたか銀翼この勇士……」
出征兵士を送る歌等々、次から次へと新しい歌が……
その頃「勝ち抜く僕等少国民」という歌の中に「天皇陛下のおん為に死ねと教えた父母の……」という一節があった。
二年生の男の子だった。
急に前に出てきて「うちの父ちゃんや母ちゃんはそげんこつは言わんよ」、と目をくりくりさせて、真剣な顔をして見つめた。
矢野ウメノ「思い出」より
戦前の授業では生物の保護色について教えていたのですが、戦争末期は兵器の迷彩効果が取り上げられるように(軍艦のシマシマは「ダズル迷彩」といいます)。米軍機の目を逃れようと、校舎の屋根や壁をコールタールで迷彩塗装した学校もありました。
「初等科図畫」より 昭和17年
・犬界
ペット業界や畜犬団体が活動を休止する中、多くの庶民は犬を飼い続けました。餌が少なくて済む小型犬や、シェパードなどの軍用犬であれば、まだ飼育継続の言い訳もできたのです。
マスコミがペットの毛皮供出を叫び始める中、愛犬家にとって最後の砦となったのが、廣井辰太郎率いる動物愛護會でした。「戦争目的で国民からペットを奪うような国家は、その地位を自ら貶めるだけだ」「アジアの盟主として、動物を愛護する餘裕をもってほしい」という彼らの警告は、しかし一億玉砕へ突き進む総力戦下では誰の耳にも届きませんでした。
・教育界
昭和17年以降、連合軍の反攻が開始されます。昭和18年、戦線の拡大と戦死者の激増により、高等教育委機関の文系学生から学徒出陣が始まりました。
昭和16年に結成された学校報国隊の機能は強化され、学徒勤労動員も拡大します。昭和19年には中等学校生徒に対して学徒勤労令と女子挺身勤労令が出され、軍需工場への労働力動員がおこなわれました。
【戦争末期】
放課後、受持ちの川村先生が、朝礼で校長が話した「学徒勤労動員」の説明をした。
川村先生は、黒板に大きく「緊急学徒勤労動員方策」と書いた。
数学より書道を担当すればいいのに、とかげぐちをたたかれるだけあって、どうどうとしていてうまい字を書く。
政府は、さしせまった決戦体制を早くかためるため、昨一八日、軍事動員だけでなく、国民動員も徹底しておこなうことにし、中等学校上級生も、戦闘配置につけることを決定したのだ。
もっとも、今回の動員令は、三年生以上が対象で、おれたち一年坊主は関係ない。
動員令がくだると、学業をすてて社会に出、軍需工場で兵器をつくったり、飛行機場で飛行機の整備をしたりして、直接、戦争に役立つしごとをすることになる。
「上級生め、早く動員されればいい」と神戸がいう。おれもうなずいた。
じっさい、敬礼を忘れたの、帽子をあみだにかぶってるのと、すぐ制裁をくわえたがる上級生がいなくなれば、ずいぶんさっぱりするにちがいない。
小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より
日々の節約も限界に達し、増産しようにも資源がなく、B29爆撃機は高射砲が届かない成層圏から悠々と侵入してきました。
「初等科図畫・男子用」より 昭和18年
・犬界
昭和19年末、軍需省と厚生省は全国の知事にペット献納運動を通達。これにより、膨大な数の犬猫が毛皮目的で殺処分されます。供出を逃れたシェパードも、本土決戦に備えた義勇部隊「国防犬隊」への参加が待っていました。
敗戦を待たずして、近代日本犬界は終焉を迎えたのです。
そのような状況下でも、日本犬保存會や日本犬協會では必死の保護活動が展開されていました。食糧難や空襲に晒されながら、日本犬は戦争を生き延びます。
・教育界
本土空襲が始まると、都市部の児童は各地へ集団疎開。地方の児童は農家への勤労奉仕に駆り出され、満足な授業も行えなくなりました。
中等学校生の軍需工場勤労動員は、3月になると全学年が対象の学徒勤労総動員へ拡大されます。学校からは生徒の姿が消えていきました。
高学年の男子は、少年飛行兵や満蒙開拓軍の進路を選択。 男性教師も次々に出征し、教壇に立つのは高齢者や女性ばかりといった状態に。本土決戦部隊の宿舎に利用された教育施設も無差別爆撃され、多くの教師や児童が犠牲となりました。
劣勢からの現実逃避か、SFっぽい超兵器が教材に載るようになります。 アンブロシーニSS4みたいなのもいますね。 こんなのを量産できる資源と技術と工業力があれば、そもそも戦争をしなくて済んだワケですが。
「初等科図畫・男子用」より 昭和18年
【敗戦】
もう一時前だったと思う。地元出身の年老いた先生が職員室から出てきた。
「日本は最後には神風が吹くから必ず勝つ」とよく言っていた先生だった。
「みんな、集まれ」みんなと言っても二、三十人だけだった。
「みんな、良く聞けよ」泣き腫らした目がまだ赤かった。
「戦争は終わった。天皇陛下のお言葉があった。お前たちはすぐ帰って家の人達にも報告しなさい。これから、どうするかはまだ分からない」
切り出しの言葉以外は今、一つ一つの言葉を覚えていない。まだたくさんのことを告げられたように思う。私たちは呆然と聞いているだけだった。
私は戦争が終わったという意味が飲み込めなかった。六年生になっていた私がそうだから、一、二年生など何のことか分からなかったはずである。
五、六年生の中には日本が負けたつよ、米英に負けたつよ、と説明するものもいた。私は帰りながらいろいろ考えた。
「日本が負けた。そっでん、神風はどしたつよ(※それで、神風はどうしたのですか)。最後にゃ神風が吹いて日本が勝つとじゃねかったつか(※最後には神風が吹いて、日本が勝つのではなかったのですか)」
佐藤聿夫「敗戦前後」より
涙を流す父を、生まれて初めて見た。祖父は神棚に祈りをささげた。泣き虫の母だけが不思議に泣かなかった。
戦争は終わってしまった?!考えてもみなかったことが、とつぜんおこった。頭のなかが空っぽになった。眼の前が黒くなったり、赤くなったりした。
冗談じゃないと思った。
そんな馬鹿なことってあるか。この期におよんでなにごとだ。
陛下、なぜ降伏したのですか。このわたくしは、いったいどうなるのですか。
わたくしは、この汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。
ここで戦争を止められては絶対に困る。もし罪滅ぼしができるとすれば、それは、敵兵と刺しちがえることしかない。
敵戦車が上陸したら、おれはまっさきに突撃し、体当たりしよう。そうして汚名をすすごうと思っていたのに、それができぬとは!
陛下、なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。
小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より
敗戦の報に呆然とするもの、涙を流すもの、激怒するもの、徹底抗戦を叫ぶもの、流言飛語に惑わされるもの、安堵するもの、喜びに浸るもの。
教師と生徒は、それぞれの気持ちを抱いたまま敗戦の日を過ごしました。
【戦後】
何もかもない物資不足の中でも、子ども達の顔に、明るさがもどってきたのは嬉しかった。
復員された若い男の先生も何人か着任され、学校に活気が出てきた頃、進駐軍がジープで多勢やって来た。
何事だろうかと恐ろしかった。校長室にはいっていった。通訳がいて何かはなし合っていたが、六年生の女子級をえらび、受持ちの先生は教室から出されて一時間位自分達が占領した。
はじめにおとぎ話をしたらしかった。
次にアンケート用紙をくばり、いろいろ調査があったらしく、先生にも親にも言うなと口どめされたようだったが、進駐軍が引きあげると子ども達は内容をみんな話してくれた。
好きな先生やきらいな先生の名前、そしてどこかに兵器がかくされているところはないか、アメリカ兵の墓はないか等が主目的だったらしい。
二、三日おきにはやって来て、学校で遊んでいたが、何年か後の新聞記事によると、落下傘で降りた一人の兵士(※撃墜されたB29の搭乗員)の名前がわからなかったらしいとかで、日の谷の松の木にひっかかって、重傷を負っていた兵士が死んだのだそうで、その兵士の名前をさがしに来ていたとの事だった。
来校したたびにオルガンを弾く兵士がいた。
青い眼の兵士は弾くなり、今日もまた、スコットランドの曲「故郷の空」
青い眼の兵士は故国を偲びてか、来るたび弾くは「故郷の空」
矢野ウメノ「思い出」より
・犬界
8月15日以降、どこに隠れていたのか、殺戮を逃れたペットたちが姿を現し始めます。北海道などでは纏まった数のシェパードや日本犬が残っており、戦後犬界の復興に貢献しました。
出征していた愛犬家が復員してくると、休眠状態だった愛犬団体も各地で再スタート。昭和23年あたりからペット輸入ルートも復活し、日本犬界は急速に復興を遂げました。
国家地方警察体制のもとでは計21県警が敗戦直後から警察犬の運用を再開、復興期の治安回復に貢献します。警察予備隊や保安隊でも軍用犬の再配備に取り組んでいました。
いっぽう、生産・流通ラインがズタズタに破壊されたところへ海外からの引揚者が殺到、食糧難は悪化します。日々の食すら覚束ない時代、犬の肉も密かに流通していました。
・教育界
敗戦後の教育現場では、まず戦時体制から通常授業への回帰が促されました。
9月末には、文部省が戦時教材の排除を通達。教科書の墨塗り作業が始まります。
10月11日、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で、「参政権付与による婦人の開放」 「労働組合の組織推奨」 「教育の自由主義化」 「秘密警察の廃止」 「経済制度の民主主義化」の五大改革が実施されました。
教育現場にはGHQの担当官が入り込み、皇国史観・軍国教育の排除が徹底されます。進駐軍の指導は絶対であり、教職員に対しては戦時思想の是正も図られました。
21年1月1日、「天皇が神である」ことが否定され、その月のうちに修身や国史の廃止、奉安殿の撤去などが完了します。
昭和22年、戦後教育の指針となる「教育基本法」と教育制度を定めた「学校教育法」が施行。新時代への対応と共に、各種学校がごちゃごちゃ混在していた状況も整理されました。
それまでは、「過渡期」の授業が続けられます。
敗戦のショックに呆然としていた教師や生徒も、それぞれが新しい時代に何とか対応しようとします。
価値観は180度反転し、戦時体制からの脱却が始まりました。
やがて進駐軍は教育現場へ介入。教材から皇国史観や軍国主義を徹底排除します。
戦時教育との決別を象徴するのが、進駐軍の指導による「墨塗り教科書」でしょう。修身や国史のように教科書ごと廃棄されたものから、該当部分の切除や墨塗りで対応した部分まで、その方法は多岐に亘ります。
墨塗り教科書の一例を取り上げてみました。
明治43年から文部省唱歌となった「我は海の子」。敗戦を経て、現代まで歌い継がれています。画像は「初等科國語七」掲載分。
敗戦直後の初等科國語七では、軍事色の強い7番の歌詞が墨塗りされています。
同じく初等科國語にて、八「日本海海戦」と九「鎮西八郎爲朝」をカットし、 七「姉」と十「晴れ間」を器用に繋ぎ合わせた例。 修正部分が何ページにもわたる場合、墨塗りではなく丸ごと切除されました。
pp.115-124の「いけ花(戦地の兵隊も生け花を楽しんでいるという話)」「ゆかしい心(戦地の通信班が傍受した東京放送、兵士のペットの猫、戦地で詠んだ俳句の短編集)」を切除し、残りは墨塗りが面倒くさかったのか×印で抹消した例。ページがカットされまくった結果、元の3分の2くらいの厚みになっています。
裁縫の教材も、軍国的なデザイン(日の丸の意匠など)は墨塗りに。なぜか防空頭巾の作例はOKでした。「初等科裁縫」より
戦争後期には、進路として軍人を志願した生徒も少なくありません。少年飛行兵から特攻隊へ配属された場合、ある者は出撃して戦死し、ある者は出撃前に敗戦を迎え、「自分だけ死に損なった」という負い目を抱えたまま復学しました。そして、所謂「特攻くずれ」として母校へ鬱憤をぶつけたのです。
教え子に軍国教育を施した教師は、それに黙って耐えるしかありませんでした。
入学式から二・三日後のことであった。その日から授業が始まると言うことで、我々新入生は、不安と期待で緊張して先生の来られるのを待っていた。
その時である。
「黙想」と言う、われ鐘のようなどなり声が聞こえて来た。そして、教室の戸を荒々しく開けて特攻帰りの先輩達が入って来た。
飛行服、飛行靴、首には真っ白なラッカサンのマフラーをまきつけていた。
その中の一人が教壇にあがり、「貴様等は、この伝統ある小林中学校に入学してきた。しかし、貴様等の態度はたるんでいる。いまから気合を入れてやる。目をつぶれ」とどなられ、持っていた青竹で教卓を激しくたたいた。
我々新入生は生きたここちもしなかった。
そして「我々は祖国を護るために戦場におもむいた。しかし、戦いに敗れ、いま、このように生き恥をさらしている」「」貴様等は、戦争に敗けてくやしくないのか」等の説教が終わると、「よーし、これから一人一人に聞くからはっきり答え、いいか」と言って、前列の方から個人尋問が始まった。
「おい、こら立て」「お前には姉がいるか」
「います」と答えると
「名前は、住所は、姉の名は、年齢は」と聞かれる。
「よし、坐れ。明日姉さんの写真を持って来い。分かったか」
「はい、分かりました」といった具合である。
いよいよ私の番が来た。必死に目をつぶっている体に緊張が走った。
「立て、名前は」
「柊山です」
「出身学校は」
「飯野国民学校であります」
「姉はいるのか」
「いません」
「馬鹿もん、何でおらんのか」と言ってほっぺたをたたかれた。自分の番が終わると全身の力がぬけていくのを感じた。
この説教が終わる長い間、教科担の先生は廊下の入り口の外に立って教科書をかかえ待っていたのである。
柊山富弘氏「特攻生き残りの先輩たち」より
戦時中「予備戦力」を育成していた教職員たちは、その反省を踏まえて「教え子を戦場へ送るな」をスローガンに戦後教育に取り組みます。
イヌを使った教材も、本来の情操教育用途に戻されたのでしょう。動物愛護精神を育む上で、たいへん喜ばしいことです。
戦後の教育現場からは徹底的に軍事色が排除されました。しかし、その残滓は本当に拭い去れたのかどうか。
何だかキナ臭くなりつつある昨今は愛国心教育(?)なるものが復活しつつあるそうで、生徒より先生のほうがザワザワしていらっしゃいます。まあ、そんなことはどうでもいいんですけど。
問題なのは、イヌが利用される恐れはないのかってこと。
さすがに軍犬武勇伝が教科書へ載ることはないと思いますが、対抗手段である平和教育のテーマに「戦争と犬」を用いるケースもある筈。
犬が戦争の犠牲となったことを授業で教えること自体は、とても大事です。
しかし、その目的が日本畜犬史を学ぶためではなく、「都合の良い戦時ネタ」と勘違いされているのは残念ですね。
日本の犬の歴史は、センセイがたの思想闘争の道具ではありません。そもそも、日本人と犬の1万年にわたる関係のうち、何で戦時中のハナシばっかり切り取りたがるワケ?
「日本の犬の歴史」とは、日本史の授業でサイドストーリーとして扱うべき部類のものでしょう。
押し付けと反発がせめぎ合う21世紀の教育現場で、双方が忠犬ハチ公や軍用犬を「再利用」しないよう、切に祈るのみです。
「尋常小學修身書巻一」より 明治42年
このような歩みをたどってきた日本を、これからどうもりたてていけばいいでしょうか。
それは、民主主義ということばをほんとうに生かしていくよりほかに道はありません。
ことばを生かすということは、身に行うということです。
こうして、みんなの歩調がそろったときに、はじめて、日本が正しい、美しい國となることができましょう。
「國語 第五学年」より 昭和23年
(次回へ続きます)