生年月日 不明
犬種 アイリッシュセッター
性別 牝
地域 鹿児島縣
飼主 有川武彦
本年はとかく不順にて花未だ十分ならざるに東風北雨既に之を散らしむるといふ次第、御吟懐いかゞ。
さてどうしても御助け願はねばならぬ事に相成りけり。實は拙宅ポインタの一牝出産、美濃町(編輯者註 佐藤順太先生)にても當方牡を父とする一群出生にて、此中より一頭は少くとも(場合によれば二頭)棹代として参る筈。
尤もその中幾分は各地へ散らばる事ならむも、矢張り結局は總員六頭を下らざる様なり。之れ悲鳴の所以に候。
然も多年熟練の犬ボーイ今春卒業と共に将來を慮つて徒弟修業に出しやり、後任者はその弟の尋常五年生なれば殆どモチに足ふみ込みたるやう也。
依て茲に一大妙計を思ひ付きてアイリツシユ牝を老臺に無理無体におしつけむとす。如何三頭以上はいかに名犬たりとも不要とは老臺の標語なれど、之は小生にとりてはどうでもよし。要はこの悲鳴境を脱するにあり。
場合により、かの珍面和犬子によく御説論ありて「犬は主家を忘れぬが本分ぞかし、とく立帰れよ」と御さとしあるも可ならむか(編輯者註 有川先生の許に珍面和犬あり。先生、山鳥揚木を試みんとて友人に一ヶ月ばかり借用せられし所、其後、幾度舊主に返却されども、珍面子は安珍を追ふ清姫の如く先生を慕ひて戻り來るに、先生も貸されたる友人もシビレを切らし、遂に珍面子の情を掬み、先生の許にて飼養せらるゝことになりしといふ)。
アイリシ牝犬ボブ、犬博士(?エヘン)なる小生には不向きの芸風ながら、水には極めてよく行き、運搬巧妙、山に行きてはポイントなどせずして無二無三に猪突して居るだけの鳥を皆追ひ立つ處最も痛快。
老臺の理想を其儘實現せし所、まことに以て絶好の老臺向き名犬ならずや。間違へても飾り犬として令室の御愛撫には氣の善良と容姿の優美は御寵愛を博すらんか。たゞ右足の前髁を腫らし、半日使へば脚を引くところ稍々主人の物真似する所、まことに殊勝に候はずや。じかも引きつゝ元氣旺盛とび廻る。どうせタゞのものに完全のもののありやう無かるべしといふが味噌にて、之を呈上する事最も時宜に叶へるに似たり。如何呈上すといふ以上焼いて召上られようと煮て食べ給はんと御自由。生きても死んでもそこらに心残りは俟はず。
むしろ尊邸入りをするといへば嬶メの手前も晴れがましく、又犬メも姥捨山に貴邸を選ぶ事無上の光榮。鼠のサツマ汁を戴ける至幸ありとのみ云はんや(編輯者註 先生は有名な悪食家にて、先達も先生主催の月刊雑誌短詩文の顧問の御連中、藤井、吉澤両博士を始め御歴々を招待して鼠の照り焼きを献立に出されたといふ。其の記事は短詩文第三號にある )。
御支障無くば(否でも應でももはや御承引ありしものと勝手にきめて)直ちに、或は目下發情中故御面倒ならばそれの閉止したる頃見計ひ、遂犬仕る手筈。時期につきては御指示を俟ち候。
有川老臺待史
康拝
「舘康正氏より有川先生へ贈るボブの副書」より 昭和7年