いつの間にか11月。しかし例の双葉は双葉のままです。このまま年を越すんじゃないか?
大嫌いなゴルフコンペのお誘いを一年間断り続けていたところ、遂に「古本趣味なんかやめちまえ」などと乱暴なクレームを捻じ込まれました。
これには流石の私も腹に据えかねたワケです。趣味(古本趣味じゃなくてイヌ本趣味だけど)についてとやかく指図される謂れはありません。
「俺があんたに〝ゴルフセットを捨てて本を読め″と無理強いしたら怒るだろう?それと同じコト言われてんだけど」
「ゴルフを嫌がっていたら社会人として通用しないぞ」
「だから他人のゴルフ趣味は否定していないってば。俺を巻き込むなって言ってんの」
「そうやって極論に走るからお前は駄目なんだよ。本なんか読んでも意味ないだろ」
こういうとき理路整然と反論できればと思うのですが、私には黙り込むことしかできません。
先日のこと、池田清彦先生が『池田清彦のやせ我慢日記』にてその辺を文章化されていらっしゃいました。
小学生のころから昆虫採集と標本蒐集を続けているが、よく聞かれたのは「虫を集めてどうするんですか?」という質問である。ベトナムやラオスで虫を採っていると、子供ばかりか大人までも珍奇動物でも見るような眼をして集まってくる。
ベトナムのタムダオといった有名採集地では、虫の標本は売れるということが分かっているので、現地の人が標本を持って売りつけに来る。だから彼らにとってみれば、虫を採るのは売るためだ。
僕らが彼らの持ってきた虫を買うのは、もっと高く買ってくれる誰かに売るためだと思っているのだろう。では、最後に買った人は何のために虫を買ったのか。そこまでは思い至らないのかもしれない。昆虫蒐集という趣味は理解不能に違いない。
滅多に外国人が来ない田舎であれば、虫を採っていて不審そうな顔をされたら、虫をつまんで口の中に放り込むそぶりをすれば、にっこり笑って納得してくれる。食べるために虫を採るのは理解できるということなのだろう。
人間は何であれ、行動に意味をつけなければ納得しない動物のようだ。働くのは金を稼ぐためであり、運動するのはダイエットのため、ボランティアは誰かに喜んでもらうためというわけだ。
翻って虫採りを鑑みるに、虫採りは金を稼ぐためにするわけでも、やせるためにするわけでも、他人を喜ばせるためにするわけでもない。
機能主義に頭の髄まで侵された人たちは無意味なことに耐えられないのだろう。ホモ・サピエンスがかかる最も普遍的かつ重篤なビョーキだ。
池田清彦『近いうちに、働いて稼ぐのが善ではない未来が来る』より
https://www.mag2.com/p/news/374205
……ああ、この文章の通りに反論したらケンカになるな。やっぱり黙ってやり過ごしとこう。