宮崎縣に於ける最初の發生は明治三十三、四年にして、當時十八頭の病畜を出したるも止まり、大流行を見るに至らざりしも、大正元年十二月、西臼杵郡(※原文の誤植を修正)三田井に一頭の初發せるを基源とし、更に東臼杵郡(※原文の誤植を修正)に蔓延し、大正三年には一層其勢を逞うし、縣下各所に發し、其罹病頭數百八十八頭に達し、惨害尠なからず。
大正六年に入りて漸く減退するに至れり。
農商務省農務局 大正6年
宮崎縣に於ける最初の發生は明治三十三、四年にして、當時十八頭の病畜を出したるも止まり、大流行を見るに至らざりしも、大正元年十二月、西臼杵郡(※原文の誤植を修正)三田井に一頭の初發せるを基源とし、更に東臼杵郡(※原文の誤植を修正)に蔓延し、大正三年には一層其勢を逞うし、縣下各所に發し、其罹病頭數百八十八頭に達し、惨害尠なからず。
大正六年に入りて漸く減退するに至れり。
農商務省農務局 大正6年