大正十二年七月二十七日のこと。深川區西平野警察署から電話で、署員が恐水病に罹つたから直ぐ來てくれとの依頼です。犬の狂犬病は何百頭と診ていますが、當時人間のは初めてだつたので五、六人の技術者が共に自動車で早速深川霊厳町の罹患署員の宅へかけつけました。
患者は畑本と称する三十二歳の巡査でした。妻君は病氣で入院中、家には子供もなく、たつた獨りぼつちの暮しなので、近所の妻君や十數名の署員に看護せられ淋しく床に就いてゐました。
暴れるので、単衣の寝巻の上から數本の帯で手足を縛られ、枕元に坐つた數名の男女が、患者の口から出る涎をひつきりなしに拭いてゐるのです。
この恐水病に罹ると、すべての分泌器官が旺盛となり、殊に涎は止め度もなく出るのです。涎は拭き取らねば、患者自身が吐き出し、殊に此の唾液の中に病原菌がゐると見做されてゐるので、頗る危険なのです。而かも患者は涎を拭ふ手に嚙みつかうとするのですから、これは全く始末に困ります。
この患者の發病は、三日前の二十五日の朝、受持ちの交番に見張りをしてゐた際、感冒の様に頭痛を覚え、少し寒氣を催し、段々氣分が悪化して行き、どうにも耐えられぬ状態に迄立至つたのです。
で、近所の醫者に診察を乞ふた所が病名が判明せず、前夜に至り恐水病と判つたといふ次第です。
そこで罹患の原因ですが、恰度約一年半前の七月二十九日、警視廳の野犬捕獲の人夫と共に野犬狩を督励しておる中に、一頭の野犬に手を咬まれ、その野犬が狂犬と判明したので、十八回の豫防注射を完了したのでした。
然し一年後の今日に至り、突如恐水病の發病を見たのです。豫防注射を施したにも拘らず、斯く發病するといふことは極く稀れなことであつて、千人中に一人か二人を算へる一種の特異體質であつた爲めに發病したものでせう。
發病と同時に北里や帝大に入院を交渉したのですが、かく恐水病と決定の上は、如何とも爲す術がないので、いづれも入院の無用を説かれ、出來るだけ本人を安慰にして、看護するより外に方法がないと、病院からも見放されてしまつたのです。同巡査は死を待つ許りです。
患者の状態を見るに、五分乃至十分或は二十分位毎に發作的に苦悶し、目を白黒させ、恰度子供の引きつけの様な状態を呈し、呼吸は困難、脈搏は頻数、飲食物は絶對に咽を通らず、唾液さへ呑み込むことの出來ぬ(嚥下筋の痙攣が原因)苦しみ様です。恐水病患者が如何に苦しむか、吐くものがない時は赤い血液様のものを嘔吐する苦悶の有様は、今日と雖もまだ私の眼にチラつき、其の強い印象は決して忘れられぬ所です。
私共がこの患者を訪れたのは午前十時頃でしたが、その日の午後三時半に至り、到頭命數が盡きて敢ない最期を遂げてしまひました。同巡査は狂犬病豫防に盡した功績により、特に署葬を以て厚く葬り、各方面の同情は翕然として同巡査の上に集りました。
尊き犠牲といふべきです。
警視廳獣醫課 荒木芳蔵『狂犬病奇談』より
私共は更に出血を見た時の用意に、高調食塩水の静脈注射を用意してゐたが、其儘朝まで異變がなかつた。
併し午後二時より午後十時頃までに、鼻出血の量數百瓦に達し、ハリーはすつかり貧血して仕舞つて、翌朝心身の疲労を現し眠つてばかりゐたが、脈拍に異状も無かつたので、其の儘安静を守らした。
川村一等兵は疲労するし、甲斐一等兵などは四十度もの不明熱の體を激して愛犬の看病にやつて來るなど、ハリーの病氣は軍犬班に實に涙ぐましい情景を見せたのである。
其の甲斐あつて、七月卅日發病三日後全く恢復し、皮膚の血斑も吸収の傾向を表した。
台湾歩兵第一連隊軍犬班 鈴木中尉 昭和9年7月27日
陸軍獣医学校と陸軍歩兵学校を見学中の民間愛犬家一行。昭和10年7月27日