『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より
大正12年8月22日診察
兼て知り合の猟友十幾里かの遠方より來て犬を見せて呉れとの事に、モー寝に就てたので犬諸共起き出でゝ、愉快な猟談に花が咲き、十時半頃姉の内(うち)に當時置いて有るメリーの方を見に行こふといふ事になり、その英ポインター、タツプを連行して五丁程離れてる姉の許へ友人と共に連れ立ちました。
嬉々として連行する愛犬タツプ。かつて東都に在京中、數度の入賞までした相當自他共に許した自信の有る犬だつたのに、三丁程來た處でタツプは他犬の臭いでもかいで居た様子を見た時、先方から規定外の速力を出した馬山組の自動車が幽に見ゑたのでした。
馬鹿に早い自動車だと思いつゝあやういと見て取つて、友人はタツプを早くよびなさいとの事をうながさるゝまゝに兼て教練して有る口笛に、敏速なタツプはその自動車の來ると同時に我々の許に馳せ寄ると見た瞬間、アレツといふ間もなく、しまつた、といふ直覚はモーその時すでに死んだナーと感じたのです。
ケン〃と一聲發すると共に矢の様に大谷塩町の横丁をまつしぐらにくらやみに逃げ込んだ故、モシカすると足部の骨折位ゐで、ナラいゝがと直に反對方向ゑ來た道を自宅に向てかけもどツたのです。
内の前迄あえぎ〃歸り見ると、門の處に横になつて苦しみつゝ有るのは哀れなタツプ。モー目の色もあせ長い舌はだれ脈拍はをとろへる、四肢をふるはせながらさも苦痛をうつたへるに似てそれを見た家内に子供。
可愛い々々々愛犬タツプが約十分前は元氣良く飛び出した敏活な活躍振りを、今立ち所に此の断末魔。
何といふ悲惨か何といふ惨酷か。
タツプにとりすがりモー駄目かモーいかんのか、吁!!!
お前はモー死ぬるのか。己れが悪かつた。見す〃御前を殺しに連行したと同様。
しかも寝て居たのをわざ〃起して迄連れて出たその途中の出來事は何といふ悲惨な、何といふ殘忍な。
己れが悪かつた御前を殺したのは己れだ。こらへて呉れ堪忍して呉れ許して呉れと幾度詫びた?
次第に近づく死の前の静かさに、愈々駄目だとは知りつゝカンプル注射もして見た。人工呼吸もして見た。あらゆる方法は今は詮なく十一時、大息を一ツ發すると共に私の腕に抱れながら遂に斃れてしまつたのです。
愛犬タツプの生涯。それは實に長いもので無かつたのです。
満二年、手汐にかけて飼つたタツプはその猟技は欲を云へばきりないが随分いゝ技量を示して呉れたのです。忍びの甘味とゲームに近づきセツトした時の妙味と運搬の愉快さはなか〃忘れる事は出來ないだろふ。
昨年十一月に行はれた當馬山猟友會の當日も此のタツプの働きに依るゲームに向つての打數は決して少くなかつたのですが、その日の失中は特に多く、三等賞に入賞したのが晴れの舞台の最終となつてしまつたのです。
その夜はねんごろに通夜の形を取つて翌朝は依頼して舞鶴山の麓に葬つて、愈々愛犬タツプと永の別れを告げたのです。生き物を飼ふ中はよく罪を作るのものだ仕方ないと諦めて、馬山組の自動車には何等の交渉もせずに、やがては言葉の一ツ位かけて呉れるものと思ふてそのまゝにしてをいたのが、今にそれ等の慰めの吊詞一ツ無いのをいさゝかうらめしく思ふのです。
それは確かに規定外の大速力を出して居た事を一同の者は認めて居たのです。
何にしてもなでさすりして育てた我が飼犬の轢死は實際涙せずに居られなかつたのです。
よく世間に有る事です。
可愛犬を飼つて居らるゝ諸氏、充分の注意を。そして自動車やオートバイなどにのる人相當の反省をうながす次第です。
愛犬タツプと別れし日。
西村八郎「悲惨な愛犬タツプの死」より 大正14年8月22日
ころで、今から三年前の私は、機械商を現在の所でやつてゐましたが、身軽な境遇は餘り商賣に熱心にならずとも良いので、朝から晩まで犬と一緒に遊んで居たやうなわけでした。忘れもしない昭和八年八月二十二日のこと、知人と一緒にブラリとやつて來た中井彦治郎と云ふ人がありました。たゞ知人と一緒に來ただけのことですが、この中井氏と話してゐるうち、談偶々犬のことになり、氏は私が日本一の犬を作出したことにいたく興味を持つて、「何事にもよらず、日本一なら大したものだ。いや、私は日本一を作り出したその心の打ち込み方に敬意を表します……」と云つて歸つて行かれたのでした。
この中井氏、出身校は商大ですが、註文が六ケしくて自ら就職しない。謂はゞルンペン志願だつたのです。何しろ當時氏の困り方といふものは一と通ではなく―こんなことを申すと叱られるかも知れませんが―その時初對面の私から金十銭の電車賃を借りて歸つた始末です。
かうして氏と知己になりましたが、ある日氏が欣然として私を訪れて來たのです。
「辻君、山をやらう」
「山?山つて何です?」
「九州の天草で炭礦を見付けて來た。掘り出さうではないか。僕は君を信頼する。あの犬を作出した勢ひで、この仕事に當つてくれゝば、日本一の犬を作出する君のことだ。必ずや山は成功する」
断乎として中井氏は卓を鼓いた。と、かういふ譯だつたのです。
私も氏の人格を信じてゐましたし、「よからう、では始めてみるか」と云ふことになつて、それから資金調達に東奔西走、恰度昭和八年九月廿六日から中井氏と協同で仕事を始めました。採掘に掛つてみると、案外よい石炭が出る。これは素晴らしい、と買主を探して見本を見せると、「こんな立派な石炭が無暗に出るものではない。単なる標本に過ぎないだらう」と相手にしてくれないのです。
ところが、三井鉱山部が山を調査してくれて、「これは立派な炭山だ」と折紙をつけてくれた爲め、品質の價値は此處に確認され、商賣は順調に進み始めました。
私共はホツと一息。
「中井君、これも犬の引合はせだね、僕がエリザ號を作出したばかりに、君とも知己となつて、仕事もやつと緒についた」
「全く犬が仲立ちだ。仕事が進むのも、君が犬達に盡した、その犬達の恩返しだ。犬には私心がないから恩返しは洪大無邊、この上どんなに山が發展するか分らないよ」
私達は全く犬の恩返しだと思つてゐるのです。恩を返して貰はうと思つて、犬を世話した譯ではないのですが、かうなるのは、これは屹度犬の恩だらう、と固くさう信じているのです。
果せるかな、山はその後一大飛躍を遂げ、本年始めから七十五萬圓の會社となることが出來ました。山は天草の魚貫といふ所にあるので、魚貫炭礦株式會社と名づけ、犬によつて結ばれた中井氏と私は、二人共専務で社長は置きません。私は東京事務所詰め、山は中井氏の受持ちです。
何しろ二人とも山には素人ですが、私共は今専心この仕事に没頭してゐます。私心を去つて來た様に、今は仕事の中に自分を投じ、仕事即自分で生活してゐます。だから私共には多くの報酬は要らないのです。食へて住まへればよい―。これがモツトーで生活は頗る簡易です。煙草、酒……。かういふものには縁がなく、たゞ犬だけが私の生活を彩つてゐると云つてよいでせう。
私共の炭礦は、何しろスタートが犬なんですが、魚貫炭礦の街では、盛に犬が飼はれてゐます。以前は冬になると、犬を喰ふ習慣があつて、冬場は犬の數が非常に減つてしまふのです。これを知つた私共は、犬肉を喰ふなどは飛んでもない。以後犬を喰ふと、うちの山では働いて貰はぬから、さう思へと布告を出したものですが、これが利いて、犬を喰べる者が段々減り、今では喰べる所か苛める者もなく、誉めるばかり可愛いがる愛犬家が續出する有様です。とにかく犬には縁の深い炭礦です。
さて、私と中井氏を結びつけたエリザ號ですが、本年の春まで、中延の私の宅で元氣に朝夕を過してゐましたが、三月十三日のこと、出勤の際は何ともなかつたのですが、出勤後事務所へ、エリザ號急變の知らせです。
驚いて宅へ駈けつけると、彼女はもう息を引取つて冷たい屍體と化してゐました。今朝まであんなに元氣でゐたのに、この變り様は何といふことだらう……。
あまり急な出來事にしばらくは涙も出ませんでした。私の運命にサイを投げてくれたこのエリザ、そして生活の光明へ私を導いてくれたエリザ、彼女の死はあまりにも悲しい思ひ出です。エリザの死因はフイラリアによる心臓麻痺でした。早晩いけなくなるとは思つてゐましたが、こう突然に死ぬとは夢思つてゐませんでした。命などといふものは全く分らぬものです。今宅にエリザの仔が二頭ゐて、朝夕は犬を遊んでゐます。
私共の仕事もこれからです。中井氏云ふ所の犬の恩、犬は何處まで恩を返して行くでせうか―。
『愛犬が取持つ成功美談の主』より 昭和11年
二十ニ日より体操用被服を支給せられ、動作も軽快となり犬に誘導されて歩行する時、暗黒を征服したるの感愈々高まりたり(舛田准尉)
各個の訓練課程を終へ、今日は道路の概念を訓練する。就中左右の観念を与へる爲め、第一日として左側を通過せしめ左を確認せしめる様訓練した。蟻川氏の適切なる指導により、進歩は目覚しいものがある。當局の御熱心により服装も軽快なる運動衣を與へられ、朝の大氣を全身に吸ひ、何んの危険も感ぜず歩行した時は、恰も雛鳥が巣から初めて飛び立つた様な爽快さである。恐らく戦盲の人で此の様な爽快さを味つた者は無いであろうとさへ思はれた(平田軍曹)
陸軍省醫務局『戰盲勇士の誘導犬記』より 昭和14年8月22日