あら素晴しいわね……と尖端ガールの目を奪ふのはモロツコ革のきらびやかな靴ではない、まばゆいばかりのドレスでもない。ぢや何だ。
「犬である」。
小鳥熱に押されて(※当時はジュウシマツやセキセイインコが大流行していました)縁の下に小さくなつてゐたワン公時代が再びやつて來て、素晴らしい犬を連れて舗道を行きさへすれば、尖端ガール達はとてもイツト百パーセントのウインクをすら與へてくれやうといふ犬の時代とはなつた。犬になりたいボーイはゐないか。
のツペリ面は見る嫌よ、矢張りバンクロフト型の男でなくちやねと美のピントがさう云ふところに落ちついた三〇年だ。犬だつてお座敷犬なんて奴は軽蔑されセパード種の頗るもつてバンクロ型が喜ばれるのも無理はない。其處で利さといふ犬屋さん、青島に目を付、犬の仕入れに日も足りない有様である。
十一月十一日朝、シエパード種二十六匹を仕入れた神戸市西村泰蔵さんが原田丸で門司に歸つて來ての話。
ステツキを持つより犬を連れよ。ハンドバツクは時代おくれだ。犬を連れよと此の頃の若い人達は犬を連れて散歩することに餘米興味をお持ちのやうです。犬々と一口に申しましても純粋なシエパードなんぞは、二千圓もしますのでね。
其處で比較的安くて見得のいゝ、所謂、青島ものが喜ばれ始めたのです。青島は御存知の通り獨逸が租借してゐた時代は、本國よりシエパードをづい分多く連れて來て軍用犬とし、兵營内に飼育してゐたものですが、日本の租借地となつてから犬まで飼へるかと町に放したゝめ野犬と仲良しになりましてね。同じシエパードも「青島もの」と云ふ有りがたくない呼稱まで貰つたもんです。
犬は何と云はれやうが知らん顔をしてゐますが、青島の愛犬家は「青島もの」の汚名をそゝぐため、ドイツより純粋種をドン〃買ひ込んで犬界廓清をやつてゐますので、再び昔のやうな良質のものが出來ません。
一匹幾らで賣買されるのか、西村さんはへゝんと笑つて答へなかつたが、犬流行時代だ。ぽろりと一萬や二萬の現金はころがり込まうと云ふものである。
『ステツキを持つより犬をお連れなさい』より 昭和5年
警視庁獣医課は十一月十一日から五日間、新舊市内の野犬買ひを行つたが、その結果六百五十頭の犬が集り、うち五十頭はルンペンが鑑札のある犬まで盗み出して來たものと見られるので、十六日から三日間荒川區三河島町八の二、四三〇山口、同町二、三九四武内、板橋區中新井町四の一、四一九岩瀬の各化成所に引渡して、畜犬遺失盗難届出の者に一応首實験をさせた。
『野犬狩で六百五十頭』より 昭和9年
十一月十一日、世田谷駒澤東京高等獣醫學校主催の年中行事である動物慰霊祭は、午前九時半から同校に開催。
これ迄解剖実験の犠牲となつた動物の霊を慰むる爲め、厳かな招魂祭を執行。
式後餘興として學生の運動會、學生芝居、軍用犬訓練實演等が行はれ、一方各種資料展覧會も催された。
夜六時から動物に關係のある映畫があり、終日大賑ひであつた。
昭和9年
實を云へば、小生未だ縣外に親しく接するの経験を有せず、今度初めて當地を覗いたわけで、「地方人」としては廣意的になるかも知れぬが、何卒宮崎縣に就てのみと御承知下さい。
當地の犬界を督視した時、S犬に流行的傾向が濃厚である事に氣が付いた。例へば、飛んでもない雑種犬をS犬に交配させて、其の中の最優良仔(?)を選出し、養育して、得意然として市内を練り歩くのである。観衆は其れを奇とし「軍用犬、軍用犬」と喧騒する。
類は亦、類を産んで、かゝる犬種が多數を占めて居るのである。
是が向上して來ると今度は本當の犬が欲しくなる。即ち、無理算段をし、不孝をしてまでして、購ひ得たS犬は、日の経過するに従ひ運動を制限され、さては全く運動は行はれず、且食費が飼育者に應へて來る。
然し、S犬を所有する事を以て誇とする彼等は之を委託するのである。
「S犬を持つて居ります」と云ひ、「御愛犬拝見」と求めれば「訓練に預けてあります」と答ふ。委託された者は、前者と同じ轍を踏み、S犬は次の委託者に委される。斯くして轉々と飼育者は變つて行く。こんな例は都會にも有るかしら。
當地の所謂S犬訓育蕃殖の先導者は、軍犬班よりの一等兵殿、上等兵殿である。彼等は唯一の獣醫であり、訓練士である。中には訓練等に特に秀で、見て居ても感心せられる者も有るが、随分どうかと思はれるのが居る。
當地は蚊が多い所で、十一月でも尚、藪蚊が頻りに嘯ぶいて居る。
試みに聞いてみる。
「フイラリアは如何ですか」
「何、フイラリア。なあに、あんなものは。……それよりヂステンパーですよ。あいつは、大概の仔犬がかゝりますからね」
何とも、恐れ入つた御返答で、頗るシドロモドロである。次に訓練に付いて聞いてみる。
「伏せは軍隊で頭を地に付けぬのを、教へますか」
「いやあ、そんなものは教へんです」
此處までは良かつた。但し其の後が悪い。
「ありや、伏せじやないですよ」と。「それじや、何ですか」と聞いてやりたかつた。
※田村氏にツッコんでおきますと、日本軍の訓練用語においては、下顎を地に付ける姿勢を「伏せ」、頭だけを上げた状態は「休止」となります。
S犬に對する認識不足と云ふか、兎に角當地の人はS犬を懼れる事夥しい。田間に散在する農夫は遥かにS犬の接近するのを見て、妻子を顧みて注告を與へる。妻子は、道路より數間の間臨を保つて、之を慄迎する。
先日、小生がS犬を引具して畦道を散歩中、前方より來る車上の人があつた。其の人はS犬を認めるや否や、忽ち色を變じ、自轉車より飛び降り、己は畑に身を没して自轉車を楯に惶慄してゐた。
小生氣の毒やら可笑しいやらで、「何もしませんよ」と云つてやつたら「へえ」と甚だ心細い返事をした。之では運動も碌々出來やしない。
以上、拙文を述べて誠に赤面の至りである。然し、此の地へ來て直感した事を、面白いから諸賢にも御紹介しようと思つたのと、十月號に編輯部が「文苑」が少いと報じて居たから、少しでも、其の埋め合せの手助けになれば幸甚であると考へたのが動機で、此處に愚稿を發表した次第であります。
日本シェパード犬協會 田村茂雄『地方人特色二ツ三ツ』より 昭和11年11月11日
昭和十一年十一月十一日秋季討伐に参加し興京縣黄土溝附近の合流匪約二百の攻撃に際し、塩見小隊内田軍曹之を連行し終始尖兵と行動を共にし、警戒捜索に任じ十二月天明次雪中に攻撃開始、戰闘熾烈を加ふ。小隊長は本状況を約二千米を隔つる本部に通報すべくハタ號に之を託す。該犬は途中左顎部に盲管銃創を受けたるも十数分を費して本部に達し、其の使命を全ふし本隊よりの側面攻撃を促進せしめ、遂に匪團に徹底的打撃を與へしむるを得たり。部隊は十三日午後八時撫順に凱旋せるも、疲労衰弱甚しく、加療の効なく十一月二十一日午前八時終に斃死す。
本年五月初旬桓仁縣倒木溝附近の楬匪討伐に全犬を参加せしめ、夜間の警戒、傳令等に使用す。特に傳令犬チハル號は支隊の本部―古谷小隊間約二千米の山岳地に於て数回に亘り作命の逓送及他の連絡に優秀なる能力を發揮せり(昭和12年7月)
関東軍独立守備歩兵第6大隊
11月11日付の御便り拝見いたしました。
山へ御入りになつた事は玄蕃様から承りましたが、何處の山か解りませんのでつい失禮してゐました。
私は出征以來至極元氣ですが、牧場へ置いて来たArzの仔が二頭とも(ジステンパーに)やられたとの報せを聞いて、がつかりしました。
私の出征の時テンパーも大分よくなつて食慾や元氣には變りなくなつてゐたのでしたが、殘念な事をしました。こんな事になるのでしたら親牡を陸軍へ献納するのではなかつたと思つてゐますが、後の祭で仕方がありません。
長野の方へ居りまし牝を送つて貰う様に依頼しておいた所、妊娠中外傷のため死亡した由、犬達が私の身替りになつてくれたと思つてゐます。
中島様が當地を御旅行されたのは25年前と云ひますから随分古い事で、今と異つて不便の時代だつたと思ひます。
私も久しく蒙古馬に乗つて行軍いたしました。多分中島様のお乗りになつたのもこんなのではないかと思ひ写真を御目にかけます。
尚、當地へ来る間にアイヌ犬みた様な又シエパードの雑種みた様な犬が居りましたので寫して來ましたのが二、三枚ありますから「北支の犬」として御覧下さいまし。
多分昔御覧になつた事とは存じますが……。
陣中の事とて焼付もうまくゆきません。
右乱筆にて失禮いたします。皆々様によろしく御傳へ下さい。
中島基熊(※日本シェパード犬協会理事)様 北支にて 大井守雄
昭和12年