日本で本格的な犬小屋が登場したのはいつの時代なのか、ハッキリとしていません。縄文遺跡からは住居内や墓域に埋葬された犬骨が出土していますので、寝起きする場所もその周囲だった筈。
ヤマト王権の時代になると、「公的な犬」である屯倉の番犬や鷹狩犬たちは飼育係によって大切に飼われるようになりました。しかしそれ以外の「民草の犬」は放し飼い状態で、民家の軒や縁の下、土間などで風雨をしのいでいた様です。
本格的な犬の飼育施設が登場したのは江戸時代のこと。それが、生類憐みの令によって江戸幕府が設置した「犬小屋(御用屋敷)」です。江戸の各所だけでも10万頭以上が収容され、飼育には膨大な資金と労力が投じられました。
迷惑な野犬の収容先として歓迎されたものの、綱吉公が死去した後は廃止が決定。収容されていた犬たちの行方も記録されていません。
この御用屋敷ばかり知られた結果、「江戸の庶民は犬を飼わなかった」という通説が定着したのでしょう。
ただし、江戸時代の日本犬界を関東エリアのみで語るのは間違いです。
上方(近畿地方)のペット事情はどうだったのでしょうか?
こちらは嘉永7年、大坂名呉町(現在のでんでんタウン付近)におけるペットの飼育風景。この犬は民家の土間で飼われていますね。
飼主は廃品回収業を営んでいた一般庶民。狩猟など「何かに役立てる使役目的」で飼っていたワケではありません。
「江戸の庶民は犬を飼わなかった」という通説もありますが、「上方の庶民は犬を飼っていた」ということ。犬の歴史でも江戸視点を捨てて、それぞれの地域性を考慮しましょう。
これを描いた大阪の浮世絵師・暁鐘成は『犬狗養畜傳』『犬の草紙』といったペット飼育マニュアルも発行していました。
そのような本の需要があるほど、上方には愛犬家が存在したワケですね。
どちらにも犬小屋についての記述はありませんが(二冊とも飼育方法の内容は同じです)、犬の飼育場所については下記のように指南されています。
常に臥(ふす)所にハ、莚、藁薦(わらごも)、明俵の類を敷て寝さすべし。犬ハ至つて湿気を嫌ふものなれバ、心をつけて得さすべし。止事を得ずして常に湿気の地に眠る時ハ、必らず病を生ずる事あり。
春秋冬ハ米の明俵、夏ハ炭の明俵をしきてよし。
秋より末に至り雨日などにハ、能馴たる犬ハ、兎角席上(たたみのうへ)に上らんと為す事あり。是狗ハ湿気を嫌ふがゆゑに、床の上に居らんとするなれバ、此時は湿気のなき筵をしきて與ふれバ、其上に臥すなり。
必ず怪しミ禁むることなかれ。
江戸後期の関西地方では三味線が流行したため、犬猫皮の需要が拡大。犬の遺骸回収を生業としていた「犬拾い」も、数十年後には手当たり次第に犬を狩る「狗賊」へ変貌しました。
よって、鐘成さんもペット泥棒対策を呼びかけています。
犬ハ畜るゝ家の四壁のあひだに糞をする事を慎む、故に時によりてハ夜中外面に出んと、頻に戸などを掻くこと有。
市中に於てハ夜中外面に出せバ狗賊の難あり。
裏廣き所あれバ其所に出し遣るべし。尤も斯る事ハ稀なり。
戦時下の昭和14年、杉並で飼われていた柴犬。江戸時代の犬の寝床もこんな感じだったのでしょう。
テキトーに飼われていた民草の犬と違い、特権階級や資産家の愛犬は専門の飼育係が管理していました。
古い時代から現代に至るまで皇族には愛犬家が多く、帝国軍用犬協会の名誉総裁だった久邇宮朝融王、日本シェパード犬協会の会長だった筑波藤麿のような日本犬界を代表する人物もいます。
特に犬好きだったのが大正天皇。彼は狆をはじめ、外国から献上された珍しい犬を飼っていたことで知られています。
皇室の犬小屋がどのようなものだったのかは不明ですが、宮内省の新宿御苑猟犬舎については幾つかの写真が残っていました。
で、大正時代の宮内省猟犬舎がこちら。ポインターやグレイハウンドを飼っていた割に、意外と和風っぽい造りですね。
新宿御苑猟犬舎
畏くも、明治天皇陛下を始め奉り、今上陛下(※大正天皇)に於かせられては、犬属を愛好させ玉ふこと深く、幾多の犬属を飼養させ玉へるが、中に分けて獵犬を好ませ玉ひ、主獵頭米田(※虎雄)男爵に仰せ下されて新宿御苑内に獵犬舎を設置させ玉へるこそ難有限りなれ。御料の獵犬は目下其數多からねども、猶十頭内外あり。皆逸物なるべきは申すまでもなし。
其内英吉利セツター種最も多く、獨逸ポインター種これに次ぎ、僅かに一頭を算ふるはグレイハウンド種なり。今順次説明の勞を取らむ。
犬舎人『御料の獵犬(大正2年)』より
宮内省猟犬係と新宿御苑の猟犬たち(いずれも大正初期撮影)
【近代日本の犬小屋】
明治時代になると、西洋のペット文化が流入。犬の飼育・訓練・医療知識も大きく発展しました。
洋書を通して犬の飼育法を学んだ日本人は、「勝手に住み着く近所の獣」から「カネを払って購入するペット」へと犬への価値観も一変させます。
お金持ちのステイタスシンボルと化した洋犬は、餌や運動に気を配り、雨風をしのぐためのケージを設置してやる存在となったのです。
明治26年の『小國民』誌上における犬小屋の解説。当時は市販品ではなく手造りだった様です。
大正時代には高床式・アーチ形入口の犬小屋が一般化していますね。
座敷犬用の室内ケージ(昭和8年)
昭和10年のペット商広告より、さまざまなサイズの犬小屋が販売されています。オートバイは商品の宅配用。
チビ公正月日記より(昭和10年)
昭和9年4月3日、 銀座三越屋上にて開催されたワイヤーヘアード展覧会場のケージ
大多数のペットは小さな犬小屋で飼われていましたが、大型犬や多頭飼育の場合、敷地や建屋内を区切って凝った造りのケージを設置する愛犬家もいました。
俳優の金井謹之助宅にあったシェパード用犬小屋(昭和10年)

シエパードは使役犬でありますので、寒暑に堪えるやう飼育するのが本意であります。然し生物でありますから、或る程度は防寒もし銷夏の方法も取つてやるのは、愛犬家としての心懸ではないでせうか。
私の家は大阪市内のほぼ中央部にあります關係上、犬舎は常に光線不足勝ですので、止むを得ず温室式に上部全部ガラス張りにしてあります。それですから夏季は普通の犬舎より一層暑氣が厳しいのです。それで上部に簾を上下二段に、通風を大いに考慮して張つてやります。
ガラス屋根には開閉式のガラスの建具が三ケ所ありますので、瓦を渡つてくる熱風も簾蔭を廻轉してゐる中に涼風となり、犬舎内を程良く流通してくれます。一夏中晝夜問はず、犬舎内はほぼ一定の温度を維持して、最高でもC三十度までは昇りません。
簾のかけやう一つに少しの思ひやりと工夫とさへ持つてやればよいのです。
日下久悦『犬舎の銷夏施設・夏を涼しく過させる工夫(昭和15年)』より
【犬小屋の衛生問題】
犬小屋において重要だったのが衛生問題。ノミやダニに悩む飼主は多く、飼育環境において様々な害虫対策が工夫されていました。
犬小屋の清潔と乾燥を保ち、熱湯や殺虫剤による消毒を繰返すことは、高温多湿で土地が狭い上に放し飼いが横行していた日本でナカナカ難しいものがあった様です。いくら駆除しても、放し飼いの犬からノミを伝播される悪循環。
害虫駆除にあたる愛犬家の苦闘を、江戸時代から並べてみましょう。
母犬から感染したダニによって仔犬を立て続けに喪った暁鐘成は、生き残った2頭のダニ退治に取り組みます。関西地方の愛犬家は、タバコのヤニを防虫剤や殺虫剤として用いていました。
画像は愛犬をニコチン湯で消毒する鐘成さん夫婦。座敷では仔犬が「浴衣に包みて暫時蒸」されております(嘉永7年)
夫よりして即時に煙草のぢくを求めて煎じ出し程よき湯加減となして、全身及び面までも、眼の中に湯の入らざる様に浴ミさせ、頓(やが)て浴衣に包みて暫時蒸し、其後よく拭ひ櫛にてすき取るに、狗児も心よげに、吾〃が膝の上にて、前後もしらず熟睡たり。
二疋(匹)なれバ、一ハ妻なるものいだきて斯の如くし、一疋ハ予が膝に置きて介抱す。
斯て日毎に浴みさせ、凡そ半月ばかり怠る事なく手を盡せしが、終に親虱は勿論、蟲子といへる卵までも殺し盡し、二児とも壮健に成長しけるぞ歓ばしかりし。
斯る事ハ思ひよらざる事ゆへ、彼が痛苦を知ずして終にハ死に及べるを、不便なる事なり。慈愛のある人〃ハよく心得たまひて、若これらの如き事あらバ、右の通りにはからひ得させたまへかし。
尤(もっとも)犬の大小にハ拘るべからず。
彼成長の犬に蠅の多くわきたるにも、右にひとしく浴ミさせなバ、可ならんと覚ゆ。
暁鐘成『犬の草紙』より
昭和9年
犬の蚤は人にたかる蚤とは違つてゐるが、一時的には人體にも寄生する。一匹の雌が一時に二十個内外の卵を産み、それが孵化して幼蟲となり、蛹となりて後成蟲となり犬に寄生するのである。
これを驅除する方法は、寝藁を日光に照射させ、時折クレオリン又はリゾール液を撒布して、常に犬舎を清潔に保つやうにすれば次第に絶滅するものである。
藥品による場合は、イマヅの蚤取粉を撒布して、蟲が麻痺したところをブラシにてかき落として終ふのがよい。又クレオリン藥浴によることも出来るが、沐浴の方法は温暖の季節でなければ避けた方がよい。
伊藤藤一『シェパード(昭和7年)』より
一陽來福の春が訪れて、愛犬と散歩に、或は展覧會にと愛犬家にとつて愉快な季節となつて來た。
併し我々にも心持よい春はそろ〃頑敵ノミ、シラミ、ダニ等の蟠居横行にもこよなき天下となることをお忘れなきやう。可愛い愛犬が知らぬ間にこれ等寄生蟲の爲に人知れぬ惱みを想へば真に可愛想で、愛犬家として黙し難いことである。高級犬コリーを飼はれる位の御家庭には進言無用とは萬々承知の上ながら、愛犬趣味も寄生蟲には多少の苦勞の種である。
消毒用としてはクレゾールが王座を占め、其他種々と各自各様の薬品が用ひられてゐる。
事變!戰爭!で特にこれ等藥品は騰つた。二三倍は確實に騰つたのだから、少し良心的に消毒を励行する犬學校等ではその消毒費も馬鹿に出來ない。
軍需品としても大切なこの藥品を金に任せて消毒に撒きちらすと云ふのも時局柄どうかと思ふので、毛色の違つた驅蟲法を申上て見る。
もう暖かであるし、コリーには藁の必要はない。藁は冬季保温には重要な役割を有つものであるが、夏は虫共のこよなき蕃殖場となるから使用しないこと。代用として一般に南京袋が利用されてゐるが、これとて其儘ではノミ賊共の根城となる。
窮すれば―の譬へ、何時も窮して居る私には何かと通じ易い。そこで自然は我々によきものを與へてくれた。
それは荒川堤やお濠端へ行くと何處にもあるヨモギと云ふ草(田舎では彼岸になるとこの草の若芽を摘んで團子を作る)の草を煮て、汁を熱いうちに犬舎に撒き、亦南京袋等の敷物を洗濯して用ひればノミ、ダニ等の減少することは確かである。他の消毒薬の様に異臭なく取扱が簡便で資源が無限である點と、特筆すべきは他のノミ取粉等の驅除剤と異り強烈に鼻粘膜を刺戟しないので、嗅覺の鋭敏を大切に生命とする捜索犬等の犬舎の消毒用には別の意味で重要性があり、是非一度皆様に試みて頂き度いのである。
日本コリー訓練學校「非常時向きのノミ退治法(昭和13年4月)」より
それ以上に深刻な寄生虫がフィラリアでした。日本の風土病とまで恐れられたフィラリア感染により、日本本土のペットたちはバタバタと斃れていきます。
昭和10年には帝大の板垣四郎教授率いるフヰラリア研究會が発足。以降、ほぼ放置状態だった犬フィラリア症に獣医学界が取り組むようになりました。
ミクロフィラリアの感染経路は1900年代初頭に判明していたものの、戦前のフィラリア治療方法は心臓外科手術(昭和14年に阪大が成功)か副作用の強い薬剤注射のみ。
北海道、沖縄、台湾を除く地域の愛犬家には、防蚊しか対抗手段がなかったのです(犬フィラリア症の分布には地域差がありました。戦前の台湾における野犬解剖データでは、犬フィラリア症の感染事例が極端に少なかったと報告されています)。
網戸を張ったフィラリア対策犬舎も発売されましたが、戦後になって有効な経口予防薬が登場するまで、フィラリアは愛犬家の脅威であり続けました。
昭和12年に発売された網戸つきフィラリア対策ケージ
【大規模犬舎】
大正時代には、ヨーロッパで猟犬訓練法を学んだハンドラーが猟犬訓練学校を開設。ハンターから預かった猟犬の訓練を請け負っていました。
昭和に入ってシェパードの飼育ブームが到来すると、全国各地にドッグスクールが開校します。日本シェパード倶樂部の狼谷訓練所、帝国軍用犬協会の赤羽養成所、日本シェパード犬協会の和泉多摩川訓練所といった大規模施設では、顧客から預かったシェパードを飼育する立派なケージも設置されました。
代々木上原の狼谷にあった日本シェパード倶樂部訓練所を訪れた、俳優の井上正夫。後方には訓練委託犬のケージが並んでいます(昭和8年)
社団法人帝国軍用犬協会の赤羽養成所全景図。会員から預かったシェパードを飼育する犬舎が並んでいます。
ちなみに、同養成所の番犬ノーラは普通の犬小屋で飼われていました(昭和13年)
【輸送用ケージ】
猟犬を猟場まで移動する、ペットの通信販売で輸送する、遠方の展覧会へ出陳する、内地の軍犬を戦地へ送るなど、近代に入ると犬の移動手段に公共交通機関を利用するようになります。
車載においては、逸走防止や識別のため、前もって犬箱に収容することが義務付けられていました。犬用ケージについては鉄製の檻、木箱、仔犬の場合は柳行李など、そのタイプも様々です。
日数がかかる鉄道輸送に関しては愛犬家側からのクレームも多く、鉄道省側も対策に取り組んでいたとのこと。
猟期が近づき犬の鉄道輸送が頻繁に行はれる季節になりましたが、愛犬家の大きい悩みは鐵道省の輸送箱が如何にも不潔であることでした。
鐵道省もこの點に鑑み、次の如く今後は輸送二三日前に借主が自由に消毒する便法を設け、愛犬家の便宜を謀ることになりましたが、かくなるまでにはカナイン倶樂部由井彦太郎氏のかくれた努力と、大きい犠牲のあるたことを忘れてはなりません。
東京鐵道局所報付録を以て左の如く公表する
東京鐵道局管内第一回業務改善委員會 沼津驛小荷物掛
書記 井出繁次郎提出
省有犬箱の規定を設けられたし。
理由
近時愛犬熱勃興と共に数百圓金乃至數千金を投じたる犬輸送を要する場合あるも、傳染病特にヂステムパーの感染を恐るること甚敷。
一愛犬家は之が因を爲して斃死せりと推せらるゝもの數件を挙げて之が實行方を熱望し、荷物運送規則第二五七条の私有箱制度は實際問題として一般に實行困難なりと云へり。
當驛にては使用後の清拭及毎月一回の洗浄を施行しつゝあるも、専門醫の説明によれば洗浄は外觀の清潔のみに止まりヂステムパーと称する傳染病菌は數分硫黄蒸し又はフオルマリン等にて消毒するに非ざれば容易に死滅せずと云ふ。
提案者井出氏は、更に詳細實状を説明して其主張の貫徹に力め、各職員又其事情を諒として提案の趣旨に賛成し、種々謀議する處ありたるも、さて其實行方法に 至りては、病菌を撲滅するが如き作業は鐵道驛夫若しくば雇人足等にては到底處期の目的を達し難く、萬一羊頭を掲げて狗肉を売るが如き結果に終りては、鐵道の本意に非らざるは勿論、愛犬家に申譯なしとて結局請求により二三日前に犬箱を貸與し、愛犬家の十二分なる自營消毒に一任する方結果疑ひなく、手數の段は 氣の毒なれども其方愛犬家諸君も安心なるべく、鐵道に取りても本趣に適ふべしとの事に一致し、左の如く所報を以て公表されたりと云ふ。
提案の如き消毒方法は特別の設備を要するを以て實行不可能に付、若し旅客又は荷送人に於て消毒方法希望の向に對しては之に応ずることゝし、犬箱の貸出を爲すは敢て妨げざるべし云々。
白木正光「愛犬家の福音(昭和8年)」より
近代日本の犬の通信販売網は、日本列島のみでなく外地や満州国にまで広がっていました。
仔犬通信販売用の柳行李。見てくれよりも通気性を重視したものです。
鉄道省が定めた犬用輸送ケージ(昭和8年)。色まで記載してある有難い資料です。
愛犬家の乗務員がいる場合は輸送中に給餌を依頼できましたが、大部分は目的地へ到着するまで飲まず食わずのまま貨車へ放り込まれていました。
【軍隊と犬小屋】
民間ペット界では、大小さまざまな犬小屋が自由に造られていました。
いっぽう、公的機関の犬については「犬小屋の標準化」が進められます。
大正8年度から軍用犬の研究をスタートした日本陸軍歩兵学校では、飼育訓練に関する用具の開発にも着手。軍犬の配備拡大へ向けて、戦場で犬を飼育するための規則が定められました。
それらの中には、犬小屋に関する内容も含まれています。
大正8年度に陸軍歩兵学校が設置した飼育ケージ。テスト候補だったポインター、秋田犬、土佐闘犬などは大正10年までに失格となり、暑さに弱いカラフト犬と高価なコリーも昭和初期までに候補犬から脱落。
シェパード、ドーベルマン、エアデールが主力軍用犬種として選抜されます。
犬舎は犬の休養施設にして、氣象の不良感作に對し犬體を保護し飼養管理を容易にならしめ、健康並に能力を保持増進する爲必要欠くべからざるものなり。
故に駐軍間とも雖も爲し得る限り既設建物を利用し或は應用材料を用ひて假犬舎を設くるを有利とす(陸軍歩兵学校 昭和16年)
満州国遼陽の関東軍軍犬育成所で訓練中の日本陸軍ハンドラーたち。戦場で使用する「移動式犬舎」の説明を受けています。
こちらは日本海軍の「固定式犬舎」 。海軍犬の主任務は火薬庫警備でしたが、一部は陸戦隊にも配備されています(『横須賀海軍軍需部軍用犬近況(昭和10年)』より )
日本軍に占拠された蒋介石軍南京特種通信隊の軍犬舎。交戦相手の中国軍は、このようなケージを設置していました(昭和12年)
陸軍歩兵學校教範「軍用犬ノ飼育 第二章 管理(昭和5年)」より抜粋
第一節 取扱
軍用犬ノ取扱者トシテ常ニ心掛ケテオカネバナラヌコトデアルガ、要スルニ犬ノ取扱者ハ犬ヲ犬ト見テハナラヌ。
犬ヲ見ルニ理屈ナシニ我ガ子ト思ツテ欲シイト謂フコトヲ附加シテオキタイ。
日頃少シモ世話ヲシテヤラズ、投ゲヤリニシテオイテ、自分ノ氣ノ向イタ時ニ「持ツテ來イ」ヲ命ジタリ「伏セ」ヤ「座レ」ヲ命ジテ之レニ服從シナイカラトテ叱ツタリスルノハ非常ナ誤リデハナカラウカ。
我ガ子ダト思ヒ家族ダト思ツタラトテモ投ゲヤリニシテオカレヤウ筈ハナイ。
一日數回犬舎ヲ訪レル、其度ニ愛撫ト調教ヲ怠ラヌ許リデナク、變ナ臭ガスル、之ハ不可ナイト思ツテ直ニ犬舎ヲ清潔ニシテヤル。暑サウニシ、寒サウニシテ居ルノヲ見テハ直ニ處置ヲシテヤル。ソレデ良イノデアル。
管理ト謂フモ取扱ト謂フモ、此ノ様ニシテ行ケバ決シテ難シイコトデハナイ。極メテ簡單ナ事デアル。
兎角日本人ハ氣短デ、我儘デ飽キ易イ。
ソレガ動物ノ取扱ガ下手ナ所以デアルト昔カラ謂ハレテ居ル。一ツハ犬ヲ輕視スルコトモアルダラウト思ハレル。
第二節 犬舎及犬舎の清潔並に消毒法(※面倒なので、かな表記で入力します)
犬舎は轉向の感作に對し犬體を保護し安静なる休養を與へると共に、飼養管理を容易にして犬の健康を保全する場所である故に、位置の選定、廣さ、採光、換氣等に注意し清潔を保持しなければならない。
其一 犬舎の設置
犬舎の設置上注意すべき事項を擧げれば左の如くである。
1.犬舎の敷地は高燥にして湿潤せず排水可良で成るべく終日太陽の射照を受ける所がよい。
2.犬舎の入口は東南に向ひ西北を裏面とし、防風、防寒上、地形、地物を利用し得ば有利である。
3.近傍に沼澤、汚水溝等ありて蚊蠅の群集する所は不可である。
4.他人の接近を防ぐ爲、人の出入頻繁なる場所を避けたい。
5.附近は閑静にして運動場に適する草原地が欲しい。
6.犬舎は永く一地に固定することにより土地の不潔を來し、寄生蟲、細菌等増殖して驅除し難きに至るから、時々移動するのが理想である。
7.多數の幼犬を収容する際には、各犬房毎に廣大なる運動場を設けるの贅澤を許さぬ場合が多いから、各犬房毎に小運動場を設け、別に共同の大運動場を設けて小地域の利用を圖るを可とする。此小運動場は排尿排便を兼ねるものである。
共同大運動場は露天で周圍には金網を繞らし、五、六犬舎に對し約五十坪とし、乾燥を害せぬ範圍に於て所々樹木を植え夏季炎暑を防ぐ如くし、又土地には勾配を附し排水溝を作り、土地の湿潤不潔を防止せねばならない。
犬舎は夏季清涼で冬期温暖なることが必要である。之れがため夏は通風を良くし清涼ならしめることに努め、特に賊風の侵入を防ぎ、保温設備を完全にせねばならぬ。
(8番欠)
9.多數の犬を飼育するものにあつては使用の目的によつて成犬舎、幼犬舎、分娩犬舎、病犬舎等を準備しておけば結構である。尚右の外訓練所、食餌調理所及管理者控所等を設備しておくが良い。
其二 犬舎の種類
犬舎の構造は収容頭數、氣候風土、使用の期間等に依り一定し難いけれども、大要移動式犬舎と固定式犬舎とに區分し、移動式犬舎は更に解體式犬舎と箱型犬舎に分つことが出來る。
1.移動式犬舎
解體式犬舎は其構造組立、解體に自由なる状態に製作せるもので、必要に應じ随所に携行し得るの便益があるは其一例である。
箱型犬舎は概ね左の標準に依り作製すればよい。
(1)入口は床より約十糎上方を底邊とし、幅四十糎、高さは十糎、必要に應じ開閉戸を附す。
(2)幅一米、奥行一米二十糎、高さ(屋蓋及脚を除く)九十糎。
(3)後面上方に開閉窓を附す。
(4)屋蓋は著脱式とし、高さ三十糎左右に傾斜し四方に相當の庇を有せしめ、尚屋根の前方及後方に三、四箇の換氣孔を附す。
(5)脚の高さは二十糎内外。
移動犬舎は犬の自由を束縛する缺點あるも、取扱容易なるを以て通常移動性多き部隊に於て使用す。
2.固定式犬舎
固定式犬舎は半永久的施設であるから、其施設は前述せる犬舎設置の注意事項を参酌して其完全を期せなければならない。殊に犬舎の清潔消毒並に排水に對する設備の良否は犬の保育衛生上重大なる關係を有するものである。
固定式犬舎の構造は犬房及小運動場に區分する。其構造の概要は左の如くである。
(1)固定式犬舎の床下及小運動場はセメント、コンクリート、アスフアルト、石敷等を最適とする。之れ保存期限長く且つ清潔消毒に便で寄生蟲を驅除し病毒に汚染せられること少きを以てである。床下及小運動場には多少の勾配を附して排水を可良とする。
(2)犬房の床は地上より約四十糎の高さに設け、後方に換氣の爲開閉小窓を附す。又前面には扉を設け、其一部に犬の出入する口を設ける。尚安眠休養に便ならしむる爲長さ約九十糎幅七十五糎深さ約十五糎の寝床を備ふるを可とする。
(3)小運動場は犬房前に設け、大部分は露天で廣さは約三平方米とし、其前方は金網とし兩側は板又は金網にて張る。小運動場には食器及飲水容器を置き雨天等の際は犬房の一部にて食事をなさしめる。
通常付属運動場を有し、起居、運動自由にして保育上良好なるを以て移動性なき部隊に使用す。
関東軍軍犬育成所に設置された固定犬舎
・病犬治療舎
伝染病犬は隔離犬舎に収容す。隔離犬舎は前項の外消毒に至便にして他と確實に隔絶し、排泄物の處置に便なるを要す。
必要に応じ、普通犬舎を病犬舎とし、或は多数伝染病発生の場合は現在の犬舎を其の儘隔離犬舎に充當せざるべからざることあり。又、犬舎にあらざる他の既設建物を病犬舎、隔離犬舎として使用するを便とすることあり。
此の場合には状況に応じ適宜加修又は模様替を行ふを可とす(歩兵学校 昭和16年)
・分娩犬房および仔犬育成犬舎
民間ペット界からの購買調達が原則であった日本軍犬ですが、優秀な血統を選別して部隊内で「育成所犬」の繁殖もおこなわれていました。出産と育成のため、特別な犬舎が設置されます。
一、犬舎の構造には單室式と複室式とあり。
二、犬舎は成るべく明暗、換氣を調節し得る如く窓及扉を設備す。
三、犬舎内外は乾燥せしむる如く、特に付属運動場を設備し、又排水を良好ならしむる施設を要す
四、犬舎内には特に保温施設を必要とせざるも、厳寒期に在りては寝箱を配置し、寝藁を與へ得る得く施設するを有利とす。
五、犬舎の地域は、通常點燈せざるを可とす。
六、犬舎内及其の付近の土地又は樹木の幹等は壁蟲の棲息地となり晩春乃至夏季犬體に寄生し大害を與ふることあるを以て、最初より壁蟲の棲息に適せざる構造と爲し、或は之を驅除し易き構造に設計するを可とす。
七、病犬舎、分娩犬舎、仔犬犬舎等は他と隔絶し、其の用途に応じ特殊の構造のものを設置するものとす。
・折中犬舎
移動犬舎を圍内に配置したるものにして前者の缺點を除き、保育に適し移動性あるを以て一地に駐留する部隊に於て之を使用するを有利とす。
・應急犬舎
應急犬舎又は野外の假犬舎として、既設建物、幕舎、輸送箱、土窟等を利用することあり。
軍用犬小屋についてのルールは定められたものの、実際の戦場では理想通りに行くワケもなく、行軍中には道端や民家の軒先で野宿することが多かったようです。そのように犬小屋が用意できない場合の寝床は「應急犬舎」と呼称されました。
応急犬舎の特殊なケースだったのが、医療施設で飼育されていた陸軍省医務局の失明軍人誘導犬。
盲導犬は屋内飼育が原則であり、ケージなども設置されず、失明軍人のベッドの下が寝床になっていました(当時の陸軍病院内ではペットの飼育が許可されています)。
問題は、失明軍人が社会復帰した後のこと。
日本式家屋で盲導犬と共に生活するための手段はイロイロ検討されたものの、戦況激化にともないウヤムヤのままで終わります。
東京第一陸軍病院で失明軍人の平田軍曹を誘導する盲導犬リタ。
其三 犬舎の清潔及消毒法
犬舎の清潔並に消毒は犬の衛生上最緊要なる事項で、其實施不確實なるときは病毒の蔓延、寄生蟲の増殖を免れ難く、犬の保健殊に幼犬の養育上には大害を及ぼすものであるから、次の様にするを可とする。
1.一ヶ月毎に消毒した犬舎に移轉せしめる。其の方法は豫備犬舎を置き、一定の使用期間(一ヶ月)を經れば犬を其豫備犬舎に移し、洗滌消毒を行ひ、少くも二週間空房として日光に乾燥し順次交代消毒を實施するのが最も良い。
2.移動式犬舎にありては一ヶ月一回土地を移轉する。
3.豫備犬舎なきときは一ヶ月一回大消毒を實施する。犬舎消毒には熱湯消毒、クレゾール、石鹸液、クレオリンの三%液、石灰一〇%液等の何れかによる。
4.右の外毎日清潔に掃除し二週間に一回、〇・一%過マンガン酸加里液にて洗へば一層よい。
5.尿の流出を良くし、糞便は直に除去しなければならぬ。地上の糞便は共に除去の必要がある。
6.寝床は晴天のときは毎日取出し、若し汚染しあれば洗滌し、日光にて乾す。移動犬舎は屋蓋を脱して行へばよい。
7.寝藁も亦寝床と共に日光に晒し、不潔となりし部分を交換する。寝藁の分量は一日一頭二百匁、冬季のみ用ふればよい。
8.小運動場の土砂(舗装せるか或は堅固なる地盤を除く)は一ヶ月一回厚さ三寸許り表土を取去り、日光に曝露せる乾燥土と交換し、搗固する。表面土を砂とするときは水分濾過し糞の排除に便である。
・軍犬の輸送用ケージ
陸軍の場合、犬の輸送に関する規則も定められました。日本列島から海を渡って大陸の戦場へ送られるため、鉄道輸送に加えて船舶輸送の項目が追加してあります。
戦況が悪化した時期、輸送船もろとも撃沈された軍馬や軍犬は多数にのぼりました。
内地から満州の関東軍へ送られる軍用犬の輸送ケージ。途中の給餌や清掃のため、民間ボランティアの輸送担当者が輸送に同行する場合もありました。
・輸送衛生
輸送を完全に遂行すると否とは直接爾後の使役に影響する所大なるを以て、鉄道、船舶或は其の他の輸送に方りては準備を周到にし、輸送軍紀と輸送衛生を厳正的確ならしめ、輸送をして状況に合せしめ、輸送に因る疲労及輸送病の豫防に萬全を期せざるべからず。
・輸送準備
輸送に方りては豫め停車場に於て左記事項を準備するを要す。
一、輸送車両は動物輸送用有蓋車又は手荷物車を利用するを有利とす。
二、輸送用犬箱各駅備付のものは其の數僅少なるを以て多數の輸送に當りては豫め相當數を回送準備せしめぜるべからず。
輸送箱は大型(高さ、幅各七十糎、深さ一米)のものなるを要す。但し、陸軍自隊の輸送用犬箱を使用する場合は此の限りにあらず。・輸送中止
輸送に方りては豫め犬の健康檢査を行ひ、其の内異常あるものに對しては適宜障碍防止の處置を講じ、又は輸送を中止するの要あり。
・船舶輸送
船舶輸送に方りては、豫め船舶輸送司令部(碇泊場司令部)と所要の打合を遂げ、左記事項を準備するを要す。
一、船倉に搭載する場合は換氣、採光、運動、排便の施設を、甲板に搭載する場合は暑熱、風雨の障蔽施設を完備す。
二、若干の餘裕ある如く飼糧其の他の準備
ちなみにアメリカ海兵隊の犬用輸送ケージがこちら。アメリカ国内で最後のグルーミングを済ませ、日本軍との戦いへ赴く場面です。
【戦時下の犬小屋】
昭和18年の千葉県にて、ヘチマ棚の下に設置されたケージで夏の日差しを避ける 鈴木喜代志氏の愛犬 。
同年にはガダルカナル戦敗北、連合艦隊司令官山本五十六戦死、アッツ島守備隊玉砕、そして学徒出陣が始まります。
戦時体制下において、ペットの飼育は白眼視されるようになりました。
昭和12年、日中戦争が勃発。皮革の最大輸出国であった中国と交戦状態へ突入したことで、仏教的殺生観から皮革業界が小規模だった我が国は、輸入頼りだった皮革資源の国内調達に迫られます。
軍需皮革を確保するため、商工省は「皮革配給統制規則」を施行。昭和14年の規則改正により、それまで三味線用だった犬革も国家の管理下へ置きました。
食糧難の到来を予測した農林省も、昭和15年から「ペットに回す食料は無い。国民精神総動員運動を利用してペットは毛皮にすべき」と主張し始めます。
戦時体制下で耐乏生活を強いられた一般市民も、「この非常時にペットを飼うのは贅沢だ」という同調圧力を生み出しました。
ペット商のカタログには、物資不足による代用品が並ぶようになります。犬小屋の販売広告も、太平洋戦争突入以降は姿を消してしまいました。
皮革不足も深刻化し、昭和19年末に厚生省と軍需省(旧商工省)は全国の知事宛にペットの毛皮献納を通達。多数の犬猫が毛皮目的で殺戮されます。
軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物(日本犬)だけは供出を免れたものの、米軍の爆撃機がペットだけを見逃してくれる筈もなく、戦争末期に残存していた犬たちも空襲や食糧難の犠牲となりました。
こうして、日本犬界は敗戦をまたずに崩壊。全国各地の都市は空襲で焼け野原となり、犬小屋どころか人間の住居すら失われていきました。
ペット業界で犬小屋の販売が再開されるのは、敗戦から数年を経て社会復興が落ち着いた頃からです。
戦争が苛烈となると共に食糧の不足は何処も同じで、終戦の時には此の土地にはS犬が3、4頭の番犬級の犬のみが残っていた。堺市の爆撃された時は光洋犬舎では30頭余りのS犬が焼死した。
その中でベルトウイン.V.ムゲンチクは奇蹟的に助つていた。当時光洋さんの実家に(3里程の距離)食糧等を取りに行つた時、彼は第二の家を覚えたのであろう。爆撃の危急の中にて人も犬も皆離れ離れになつた時、ベルトウインは身に数ヶ所の火傷を受け乍ら深夜の田舎道を走つて難を逃れたのである。光洋さんとしては知らぬ間の鍛錬が彼のよい伝令の訓練になり、彼を助けたのである。此の時分からベルトウインと自分の因縁が出来た。戦後田舎で手に入る犬の喜ぶような食糧を、彼の為に堺へ運んだ事も再三だつた。辛苦を共にして恵養した光洋さんの伏櫪の恩に報いてか、ベルトウインは大成した。ジーガーのタイトルを3年獲得して関西の名種牡と謳われた。
猪子繁『索莫として何事ぞ、夢よ今一度(昭和30年)』より
昭和20年6月、空襲の焼け跡で暮らす被災者とスピッツ