
薩摩は武國にて若き人々は山野に出て、鳥獸を獵る事、他國よりも多し。すべて山野に獵するには、よき犬を得ざれば不叶事なり。彼邊の犬、常の人家に養ひ飼ものは長が低く、上方の犬よりも少し小なり。常に座敷の上にて養ふて上方の猫を飼ふが如し。至極行儀よく上方の犬よりは柔和なり。異品といふべし。又獵に用る犬は格別に長が高く、猛勢にて座敷に養ふことなく、上方の犬を飼ふ通りなり。猛勢なる事は上方の犬に十倍せり。先年虎の餌の爲に彼國の犬を入れしに、其犬虎の咽(のど)に咬み付て虎を殺せし事、世間の人の物語りにあることなり。かゝる猛勢の犬ゆへに常々は二三匹寄り集れば早必咬合て喧(かまびす)しきに、大勢獵に出る時などは諸方の犬を皆々各繋ぎて牽行事なるに、町を出るまでは側近く寄れば必咬合騒(さわがし)けれ共、既に山に入ると其犬ども常々はいかやうに仲惡敷(なかあしく)よく咬合ふ犬にても、其仲よく成りて、綱を解き離して犬の心のまかせに馳廻らすれども、犬同士咬合ふ事無く、互に助合て出で山を働くなり。是向ふに猪鹿といふ敵あるゆへに犬ども皆一致の味方に成りて、相互に助け合ひ至極親しかりしとぞ。『西遊記』抄訳
和犬果して獵用に適せざるか。和犬は凡て洋種獵犬に及ばざるか。父祖より代々山に獵する事を夢にも知らざる都市産犬の獵用に適せざるは遺傳力、自然の結果もとよりさる事ならんが、山野獵地の産犬迄も都市犬と一般に不適當と斷定さるゝあるに至ては大に田舎和犬の冤を悲まざるを得ず、茲に於てか不文を省せず聊か見聞する所を記し、以て我國固有の壮健剛勇なる犬種の捨つべからざるのみならず、將來益充分の馴養を盡し、其發達繁榮を謀るべきものたるを信ずるの所由を白し、大方獵家の一顧を煩はす。一、揚木打に用ひて良く雉などを追ひ揚げ得るもの少なからざるは云ふ迄もなし。一、穴中の狐狸を捕ふるには少しも人力を借らず、獨力にて能く穴中にて嚙み殺して引出し來る程の剛のものあり。一、兎狩に用ひては當地方の犬は麑島犬(※麑島は桜島の古名です)の名を知られし通り、能く狩り出し能く追ひ廻はし得る者少なからず。又た罠を用ひて狩る時は、犬は如何なる急速の際にても其鋭敏なる眼光にて罠を見分け其上を飛び越して其罠に觸るゞ事なし。但し未熟犬は此限に非ず。一、飛切打には未經驗なれども、當地方に行はるゝ鶉網に使ふ働き振りを見れば、充分に望みあるが如し。茲に尤も感ずべきは良犬とも云はるゝ者は數人の網手の内多くは自分の飼主の方へ鳥の向て飛び立つ様に追ひ出すこと實に獸類の仕事にはあらじと思はるゝ程なり。又鳥の臭氣に接近せし時は尾を振つて進行し、愈鳥に近づきたる時ハ片手を揚げて指示するもの、或は匍匐して襲ひ掛るものあり。一、以上記せしは凡て小形の犬の方なれども、猪鹿狩等には体も大にして二歳前後の猪迄は犬の獨力にて嚙み殺す如き猛者ありて、兎狩犬の兎を追ひ出す様に良く猪鹿等を狩り出すなり。當地深山方の獵夫等は皆和犬にて毎年多くの猪鹿等を獵獲するなり。右に記すが如くなれども、生は未だ水邊獵には如何なるべきかを知らず。又持て來るの藝を仕込みたる和犬も未だ見掛けざれでおも、如何なる寒中にても主人河を渡れば勇を奮て飛び込む如き犬は甚だ多し(※鹿児島の冬も、ごく偶に雪がちらつく程には寒いのです)。又宅にて主人の外方より歸り來るを見ては喜び跳りて木枝竹等を食はへ來りて主人の愛を乞ひ、又原野にて犬の獨自に兎等を獲し、時は其喰ひ殘しを持ち歸る等を見れば、水邊獵及び持て來る藝等も仕込み難きにもあらじと思はるなり。鹿兒島縣・福山徳水『和犬(明治27年)』より

近時は我獵界の新紀元―、銃獵の進歩ハ洋種獵犬の輸入を仰ぎ、次て雑種犬の驚くべき増加を致せり。
混血又混血、變形又變形、果して之れ進化なるや退化なるやを知らずと雖ども、而も純粋和犬種は次第に影を隠し今は故らに山村僻地に之を求めざれば、殆んど、得べあらざるに到りたるは疑もなき事實なりとす。
現在既に然り、將來果して如何、借問す。
吾人の子々孫々は、其祖先の時代に於て、果して如何なる形如何なる色如何なる鳴聲の犬が此島(※日本列島)に棲息したるものなるやを想像し得べきや否や。
吾人は知らず、今非常の時日と勞費とを擲て、和犬族を保存するは果して利益あるや否やを知らず。然れども吾人は信ず。人類の記録ハ歴史家の責=犬族の記録ハ獵者の責なることを。空山 述『チェサピック・ペー犬の説・付言(明治25年)』より
今若し熱心なる養犬家ありて和犬中最良の血統を撰び其養育教馴等に充分の力を盡すに於ては、或は世人の思ふよりは容易に洋種獵犬に優るとも決して劣る事なき良犬を出すことあるべしと確信す(〃)
附言海山生の望にして、同好諸君の高讃を忝ふするを得べくんバ、同志相約し薩摩犬の試育を目論見、其兎追に熟練の犬二頭も取寄せたし。同好諸君如何となす。四、五年前の事(※明治22年頃)なりしが、宮城縣の吉岡警察署長川上某氏が薩摩犬數頭を其國なる薩摩より引寄せ休日休日に犬追を爲すよしを聞きしに、同地近傍の兎は大抵同氏の爲めに獲られしとか聞及べり。同じく手に入るものなれば南洲翁(※西郷隆盛)の遺犬の種がほしゝ如何、福山君も亦撰擇斡旋の勞を取り玉へば幸甚とす。

鹿兒島コリー倶樂部は、日本コリー倶樂部九州支部へ吸収合併されました(昭和9年)
日本犬の保存運動が始まったのは昭和3年。昭和7年以降は文部省の日本犬天然記念物指定や忠犬ハチ公ブームもあって、在来犬の再評価が進みます。
しかし、既に消えかけていた薩摩犬がその対象に含まれることはありませんでした。忠犬ハチ公の像を製作した彫刻家・安藤照(鹿児島出身)は、薩摩犬の衰退について下記のように証言しています。
鹿兒島は昔から兎獵の盛んな土地で、その兎獵によいと云ふので明治三十年代に、川村さんなどがビーグルを使用したのが評判となって、耳たれ犬に限ると云ふことになり(※いわゆる薩摩ビーグルの話です)純日本犬は段々減少した。
又南薩地方には無尾の犬がゐたが、これには面白い挿話がある。
南薩の山に兎を追ふことのとても巧みな山犬がゐた。それが黑で無尾であつた。里人がこれを捕へやうとしたが敏捷でどうしてもつかまらない。
一策を案じ牝の發情期のものを放つてまんまと捕へ、今日殘つてゐるのはその子孫だといふのである。
彫刻家・安藤照「鹿兒島犬(昭和9年)」より
薩摩犬を軍犬にと軍用犬熱の高い鹿兒島市では岩元市長らの賛助を得て、南九州軍用犬協會を設け、シエパードのほかに縣下各地に依頼して薩摩犬を調査してゐるが、現存してゐるのは比較的大隅半島の山村に多い。
「日本犬頻りに厚遇(昭和8年)」より
「兎犬は桜島周辺にいた」という証言は幾つもあるので、昭和期は鹿児島市の対岸にある大隅半島方面で維持されていたのでしょう。大隅地方の記録を志布志や都城エリアまで広げて調べてみたのですが、現地で用いられていた猟犬の品種や体格については判然としませんでした。
消えゆく薩摩犬に対し、保護に取り組もうとしたのは鹿児島市くらい。日本犬保存会が調査に動いた形跡はありません。
日本犬保存会の斎藤弘理事も、投げやりなコメントをのこしています。
更に九州に渡ると、こゝはまだ殆んど調査がとゞいてゐない。たゞ大分、日向境にゐることが判つてゐる位。鹿兒島犬は昔から有名だが、今は殆んどゐない。大島では鹿狩りに日本犬を使つてゐた。臺湾には生番犬がゐる。
齋藤弘「山に日本犬を探る座談會(昭和8年)」より
九州と台湾の犬はひとまとめ、しかも沖縄の琉球犬は無視という。
犬界関係者による東高西低の目線によって、調査から漏れたまま消えていった地犬も少なくなかったのでしょう。
【甑山犬】
もうひとつの「鹿兒島の犬」が、甑島(2014年以前の呼称は「こしきじま」・現在は「こしきしま」)列島で飼われていた甑山犬です。
真偽は不明ですが、薩摩犬と同じ、もしくは近縁の地犬だと言われています。
國粋保存の波に乗り、畜犬界に秋田や紀州地方の純日本犬が珍重されてゐる際、薩摩犬は殆ど絶滅したものとみられてゐたのが、今回鹿兒島縣薩摩郡甑島に薩摩犬が續々發見せられた。
甑島は薩摩灘沖合に浮ぶ秘境である。
「野生の薩摩犬(昭和12年)」より
甑山犬が残存していたことは、戦後になって発覚しました。
1990年代には繁殖活動が試みられたものの、甑島の人口減少によって頓挫。彼らのルーツを調べる術も失われてしまいます。
甑山犬が「島内で維持されてきた独自の系統」なのか、隣県の椎葉犬みたいな「海路運ばれてきた薩摩犬」なのかを知る貴重な機会だったのですが。
椋鳩十の『孤島の野犬』に登場するアカも、この甑山犬という設定だったのでしょう。なかなか人に馴れないアカが、せっかく松吉と心を通わせたというのに、周囲から家畜泥棒の疑いをかけられて毒殺されかける。人間に裏切られたアカは、野生へ帰るしかなかったという悲しいお話。
これを読んだ小学生の頃は、甑山犬という存在すら知りませんでした。得たものと言えば「餌に自分の唾をつければ、その犬と仲良くなれる」という知識くらい。
いつか野生犬のいる甑島へ行ってみたいなあ、とかボンヤリ思っているうちに大人になってしまった訳です。
そんなある日、知人から上甑島への釣り旅行に誘われました。願ってもいないチャンスに、二つ返事で参加決定。
串木野新港からフェリーで1時間ちょい、「へえ、ここが孤島の野犬の舞台か」と感激しながら上陸したものの、孤島の野犬像を見に行こうとしたらレンタサイクルの自転車が全てパンクしていて諦めたという……。
結局、甑島の思い出は魚釣りだけです。キビナゴの天ぷら、美味しうございました。