獣医と云つても、牛、馬等の大動物を扱ふものと、犬、猫の小動物を扱ふものと、大體二つに別けられる。
前者は主として地方在住の獣医で、後者は都會、特に大都市で開業してゐる獣医である。以前は都會地でも獣医に診察を頼みに来るのは、殆んど牛馬に限られてゐたが、愛犬思想の普及から次第に犬の患者が増え、猫も連れて来ると云ふ風で、今日では殆んど犬猫が専門となり、犬猫病院の名まである。
これに反し地方では依然、牛馬の家畜が主で、犬や猫をわざ〃金を出して医者に見せる人は尠い。
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それはともかく獣医師になるには、獣医学校を卒業し、本籍地の市町村に獣医師免状の下附を願ひ、それから開業の段取りになるのであるが、開業の際は所轄警察署に開業届を出して、その許可を受けなければならない。
獣医学校は現在中等程度、専門程度、大学とあつて、大学では東大と北大の二つ、専門程度は盛岡高等農林と、駒場の東大實科と、駒澤の東京高等獣医学校の三つ、中等程度は大抵の府縣にあつて、東京では麻布獣医、日本獣医等が歴史も古くよく知られてゐる。
この外中等程度のもので、全國的に有名な学校をあげると大阪、鹿児島、盛岡、北海道岩見澤等である。
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しかし犬の獣医師になるには、地方の獣医学校より成るべく大都市の獣医学校に学ぶのが便利である。その訳は實習として来る病患が地方では先にも云ふ通り牛や馬に限られて、犬や猫が尠く、これに反し大都市では犬や猫が多く、自然学校にゐる間から、それ等の小動物を常に手がけることになるからである。
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次に開業地であるが、これも犬の獣医師は都會地、それも成るべく大都市を選んだ方がよいことは以上の理由で明白である。
尤も最近はシエパードなどの高級な軍用犬種の飼育熱が盛んになつて、地方でも追ひ〃飼はれるやうになつたから、或はさうした土地に開業した方が、他に競争者がなくて奇利を博するかも知れぬ。しかし大體論としては、矢張り都會地で開業した方が安全である。
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開業場所はいろ〃であるが、今日の情勢から見ると、市中よりもむしろ郊外のなるべく交通の便利な場所、又は驛の附近等の郊外生活者の目に付き易いところがよいやうである。
市中には既に有名な病院が多く、その中に割込むことは容易でないし、新しく犬を飼ふ人も余りない様であるが、郊外生活には是非犬が要つて新規に飼ふ人も多く、インテリ階級が多いのであるから、犬の病気に對しても理解があり、病院を利用する率も多いのである。
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次に病院の設備費は、慾を云へば限りがないが、普通に開業するとして、是非必要と思はれるものは、顕微鏡一ケ、それも糞便の寄生蟲卵を検査する程度なら百五十圓も出せば十分であり、その他の医療器具百圓内外、薬品は必要の都度に購入し、次第に整備して行けばよいから、最初は十五圓もあれば十分であらう。
それにイス、テーブル、診療着等は学校時代のものでも間に合せば合はないことはない。大體この程度でも立派に開業出来る。
そして収入が増えるに従つて、段々に設備を改善し、医療器具等も、特殊なものを購入し、入院犬の犬舎も増設して行く。
最初から犬舎を設け、その他外観等も人目を惹くやうにするには先づ千圓の金は要る。
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最後に犬の獣医師として繁昌の秘訣は、誠實であることゝ研究心を常に忘れぬことである。研究心の中には技術の研究も勿論必要であるが、同時に犬の獣医師は犬そのものゝ研究も怠つてはならない。
よく大都會の獣医で毎日患者と云へば、殆んど犬や猫であるにも拘はらず、犬の種類も知らない程に無関心な人もある。
獣医であるから病気をなほせば足ると云へばそれまでゞあるが、愛犬家は趣味で飼つてゐるのであり、殊に犬は種類が多く、その種類に依つて形状、習性等も非常な相違がある。
愛犬家の信頼をつなぐには、是非共犬そのものゝ知識がなければならない。そしてむしろ、愛犬家を指導する位の用意が必要である。
このことは今日の獣医学校の建前が、主として牛、馬の大動物本位になつて、学校で犬、猫等に就いて学ぶところが尠いから、犬の獣医師になるには、特に大切である。
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誠實の反對のインチキは最も慎まなければならぬ。よく初めのうちは知つたか振りをするものであるが、その時はごまかせても何時かはばけの皮がはげるもの故、判らぬことは最初から判らぬとサツパリ白状した方が将来の信用をつなぐ所以である。
獣医学校入学案内
◆東京高等獣医学校(所在地世田谷下馬)
入学資格中等学校卒業、出願期日四月六日まで。詮衡方法は無試験検定と試験検定の二種
◆日本獣医学校(所在地目黒區下目黒)
募集人員・本科一年百五十名、二年補欠若干、蹄鉄工科三十名。本科一年は高等小学校卒業又は中学二年修業のものは無試験、蹄鉄工科は尋常小学校卒業は無試験、期日四月五日まで
◆麻布獣医学校(所在地麻布區新掘街)
本科蹄鉄工科の無試験入学資格は日本獣医に同じ。期日四月七日まで
筆者不明「犬の獣医になる手引」より 昭和9年
犬猫病院が出現したのは明治から大正にかけてのこと。大正時代の東京・大阪には犬の病院が幾つもありましたから、それだけ多くの愛犬家もいた訳ですね。
我が国における犬猫病院の登場と発展は、畜犬史や獣医学史や狂犬病史と密接に絡んでいます。
戦前の愛犬家にとっても、狂犬病の恐怖に慄く人々にとっても、獣医師という存在はたいへん大きなものでした。
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犬のお医者さんになるには・戦前編
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