名犬ラッシーや名犬ラッドの主役として有名な、英国原産の牧羊犬。元の公式名称は「スコッチ・シープドッグ」でしたが、1895年にバーミンガム・ドッグショウ・ソサエティが「コリー」に名称を変更。名実ともに、英国を代表する牧羊犬となります。
第一次大戦におけるドイツへの敵愾心により、イギリスではジャーマン・シェパードが“アルセイシャン・ウルフドッグ(アルザスの狼犬)”と呼ばれていました。これには「シープドッグ=コリーの座を譲りたくない英国人のプライドが影響している」との説も。
……などという「外国のコリー史」はネットに溢れ返っていますので、当ブログでは「コリーの日本史」を解説しましょう。
![帝國ノ犬達-コリー]()
下総御料牧場のコリーとケルピー
【コリーの来日から普及まで】
コリーが来日したのは明治初期のことで、殖産興業による緬羊事業の拡大がきっかけとなりました。
海外の牧畜を学んだ日本人は、コリーで羊を制御する放牧方式をさっそく導入。羊を運ぶ貨物船に同乗してオーストラリアやカナダから上陸したコリーは、下総御料牧場をはじめとする各地の種畜場で牧羊犬として用いられます。また、シェトランド・シープドッグを始めとする各種の牧羊犬(短毛種含む)も明治後期の横濱に来日していたのだとか。
先日新聞にコリーのことが出て居た。其説に同種は大正年間子安農園で始めて輸入したと出て居たけれど、實はコリーは明治の中葉から輸入されたもので、栃木縣の那須野原の松方さんの牧場には、明治十八、九年の頃からコリーを使つて牧羊をやり、其血統は今でも現に殘つて居るし、横濱の外人屋敷や愛犬家間でもコリーは珍らしい犬ではなかつたのである。伊藤治郎氏なども子安農園で輸入する以前に耳の立つたのを飼つてゐた事がある。
元來以前は今の如く、發表の機関が整つて居なかつたので、何種が何年に初めて輸入されたと云ふ様な事は、よく判らない。
高久兵四郎『明治から昭和へ 犬種今昔物語』より 昭和12年
警視庁警察犬バフレー號(警視庁が警察犬制度を採用した大正元年にシェパードは来日していませんでした)。
日本陸軍歩兵学校がテストしていたノブ號。歩兵学校の評価テストにより、調達が容易で、血統や飼育訓練法が整備されていて、第一次大戦での実戦経験もあるドイツ産牧羊犬のシェパードが軍用適種犬に選定されました。
昭和3年の軍用犬教範より
牧畜以外の用途としては、大正初期に警視庁がバフレー號を警察犬として採用。陸軍歩兵学校でも昭和初期までノブ號などをテストしていた記録があります。
しかし、ペットとしてのコリーは資産階級が秘蔵する高価な希少犬であり、様々な犬を診察してきた獣医師ですら「病気のコリーが持ち込まれた時、初めて実物を見た」という状況だったとか。
更に、大正12年には関東大震災が発生。東京や横浜で在日外国人が飼っていたコリーは壊滅的な被害を蒙ります。
戦前、日本に輸入されていたコリー。
三越屋上開催の日本コリー倶楽部第一回コリー展覧会終了後、街をパレードするコリー愛好家たち。昭和9年5月20日
ホワイト・コリーも昭和8年に来日しております。
関東大震災以降、全国各地の種畜場や西日本犬界で生き延びていたコリーたち。関東犬界の復興と共にペットとしての輸入頭数も回復し、昭和11年に警視庁が登録した東京エリアのコリーは88頭(牡29・牝59頭、うち番犬用途75、愛玩用途13頭)となっています。
あわせて日本コリー犬協會(NCK)や日本コリー倶楽部(NCC)といった愛好団体も設立され、「姿すら見せない資産家の秘蔵犬」から「犬の展覧会へ行けば見る事ができる品種」へと変わっていきました。
日本コリー倶楽部(NCC)
日本コリー犬協會(NCK)が発行した血統書。洋画家の三上知治も幹部として参加していました。
【子安農園と鹿児島のコリーたち】
そんな日本コリー界で一大勢力となっていたのが、海外組はオーストラリアおよびカナダ系(なぜかイギリス系は見かけず)、そして国産コリーが神奈川県の「子安農園系」と鹿児島県の「鴨池動物園系」でした。
子安農園羊犬部で繁殖されたコリーは、関東甲信越エリアで流通していたことが記録されています。
羊などの家畜を扱っていた関係で、子安農園では大正時代からコリーの繁殖にも取り組んでいました。
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昭和9年に山梨県の犬猫病院を受診した子安農園系のコリーたち。甲府犬界の資料からは、甲斐犬に並んでコリー、シェパード、ワイヤーヘアード関係の記録も発掘されます。
サツマビーグルが作出された鹿児島県も、コリーの一大繁殖地となっていました。
高温多湿の南国鹿児島は、暑さに弱いコリーにとって最悪の環境でしょう。太平洋戦争に参加したアメリカ海兵隊K9チームへなぜかコリーが配備されてしまい、南洋の暑さに耐えられず熱中症で死なせてしまったエピソードが『ドッグメン(ウィリアム・W・パトニー著)』にも載っております。
![犬]()
コリーにとって過酷な日本の夏、 豊島美須麿氏の愛犬がサマーカットや盥の行水で暑さをしのいでいる様子がこちら。
昭和12年撮影
しかし、近代日本コリー界において「鹿児島系」が「子安農園系」と並ぶ一大勢力であったのは事実。
そして「殖産興業による緬羊事業の導入と共に来日し、明治初期から全国の種畜場で用いられた牧羊犬」「資産家がステイタスシンボルとして秘蔵する高価なペット」という日本コリー史の通説も、鹿児島コリー界においては通用しません。
彼らの拠点となったのは広大な牧畜場でもお金持ちの邸宅でもなく、鴨池動物園(現在の平川動物園)でした。動物園で繁殖したコリーたちは地元愛犬家へ分譲され、鹿兒島コリー倶楽部の結成へと至ります。
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勢ぞろいした鹿児島県のコリーたち。サツマビーグルにちなんで「サツマコリー」とでも呼べばよいのでしょうか。
鹿兒島コリー倶楽部
事務所 鹿兒島市高麗町六八七
會長 國分勝彦
副會長 山下悌郎
常務理事 高野季信
理事 貴島源一
理事 上山宗一
鹿兒島に於けるコリー犬は往年一米國宣教師が歸國に際して其愛育せる牝牡の一双を同地鴨池動物園に寄贈したるにはじまり、漸次増加して今日に至りたるものにして、帝都のコリーとは全く別個の沿源を有す。
今や其數、數十頭の多きに及び、其後熱心なる愛犬家によりて五十名近き會員を有する鹿兒島コリー倶楽部は組織され、本邦に於ける嚆矢としてコリーの誇りを爲したるものなりしが、今回埼玉縣商工課長高橋三郎氏の斡旋に拠り我が日本コリー倶楽部に合併する事となり、之と同時に首記の「是を九州支部として九州一圓を統轄せしむることゝなりたれば、其管下に属する各所の同好コリ犬愛育者諸君は自今續々同支部へ御入會に成り、歴史ある鹿兒島の先輩と提携して其進歩發達を圖り大に九州の氣勢を挙げ、以て本部の塁を摩さんこと切望の至りである。若し暖國九州の氣候を利用しコリーを役して豪州の如く牧畜新興の機運を促進する事ともなれば、コリー天稟の作業犬たる妙技良能を發揮する處の實例を示す事ともなりて其前途に又一段の光彩を加ふる次第ともなるべし。
日本コリー倶楽部會務報告より 昭和9年
独自路線を歩んでいた鹿兒島コリー倶楽部ですが、昭和9年10月17日に日本コリー倶楽部と合併。以降は日本コリー倶楽部九州支部として活動しました。
栃木県種畜場の牧羊犬「ポン公」。 昭和11年撮影
結局のところ、牧羊事業が限定的だった日本では牧羊犬が活躍する場も限られていました。北海道の種畜場ではライバルのケルピーが勢力を伸ばし、満州国に入植した牧畜業者には満鉄が大量のシェパードを供給。ペットとしても高価であったため、日本でラフコリーが普及する余地は無かったのです。
今春のコリー犬協會の展覧會は五月十六日に報知新聞社主催の日本畜犬綜合共進會を後援して同會の會場で行なわれました。同共進會は靖國神社の境内で挙行された爲、會場は参道を中心に左右に二つに分たれ纏りが無く、余り感じの良い物ではありませんでした。
吾等のコリー部は會員諸氏の努力により十余頭の出陳あり、相當見耐へのするものでした。現在の様にコリーその物も會員も少く、而も今回の様な展覧會に十余頭も出陳された事は先づ成功であつたと思ひます。各出陳犬に付ての批評や成績は、審査された方々より御發表があると思ひますので此處には控へます。
私が何時も犬の展覧會を見ては熟々考へる事は、コリーは何故もつと普及しないのだらうかと云ふ事であります。コリーが如何にリフアインされた犬であり、外観は美しく貴族的で、加へるに訓練して其効率の良い事等は私が今更此處に事新しく書立てる迄もなく此の「コリー犬」を御讀になる程の人は先刻御承知の事でありませう。又シエパードやエアデールテリヤやドウベルマンピンシエル等所謂軍用犬と比較しても優るとも劣らざるものである事も御存じでせう。
それなのに、あゝそれなのに。前記軍用犬の飼育者の無數にあるのに引換へ、コリーの愛育者の少い事全く不思議な位です。勿論此には許多の理由もある事でせうが、其の中でも最大の理由は宣傳の有無でせう。而も内地産犬が親より仔、仔より孫と次第に劣悪に成て行く今日に於て一層考へずには居られません。
最近或コリーの牝にシーズンが來たので婿殿候補者を二頭挙げました。一方で失敗しても他の方と背水の陣を引いた積りでした。然るに運の悪い時は仕方の無い物で、一方はコンデイシヨンが悪く、他の方は不注意の爲に遂に二頭共に失敗して終ひました。サア斯う成とコリーの少い現在ではもう次に頼むに足る様な優秀犬の心當りもなく、止む無く半年を無駄に過すか、みす〃悪いと知りつゝも親と仔とか兄弟犬とでも交配させるより外に方法がつかず、全く困り果てた次第でした。
此様な不運はそう度々ある事とも思はれませんが、今日の様にコリー犬も愛育者も少い状態では良犬を生産する事は兎に角困難な仕事であります。又次第に犬が劣悪に成るのも無理からぬ事に思われます。斯くては吾等のコリー犬協會の目的にそはぬ事になります。我々コリーを愛する者に取ては此以上の悲みは無い事と思ひます。
我々會員はコリーの優秀性には充分の自信を持つて居る者でありますので、必要以上の空宣傳は望みませんが、何とかもつとコリーの普及を企て、一層改良して良犬の増加を計りたいものです。幸ひコリー犬協會の基礎も確立された今日ですから、協會を中心に各會員が細胞となつて一段の努力をしたならば、コリーの改良も、愛好者の増加も其結果は期して待べきものがありませう。
又春秋の展覧會は一般大衆に内客外観共に勝れてゐるコリーを認識してもらう絶好の機會でありますから、出來る丈の力を盡して頂きたいと思ひます。
コリーの犬籍登録制度も三上先生(※洋画家の三上知治)や金子氏等の御盡力で出來上りました。現在のコリーは日本コリー史の第一頁を飾る犬達であります。血統の鮮明は今後の改良蕃殖上唯一の指針でもあります。會員諸氏は愛犬の爲コリーの爲、奮て登録される事を願ひます。展覧會の感想を書く積りが大脱線致しましたが、與へられた紙數も既に超過しましたので擱筆致します。
服部宣和『展覧會を観て』より
関東甲信越コリー界に君臨していた子安農園ですが、何の事情があってかコリーの繁殖事業を中断してしまいました。
鹿児島系コリーも戦時体制へ移行する前から衰退。鴨池動物園もなかなか悲惨な状態となっていた様です。
六月十五日
鹿兒島高信氏より子安農園森下氏を通して來書あり。同氏は鹿兒島コリー倶楽部の理事で、同市鴨池公園動物園に關係深く、従來コリーの蕃殖地と自負して居たる鹿兒島市でも、近頃は其品種退化し昔日の感なく、市民よりも當地本家の動物園のコリーが僅か三頭となつて、斯の如き状態にては心細いとの聲さへ聞こえ、倶楽部員の内より優秀なる犬を得たいと思つても何分蕃殖數寡く手に入れ難い。
子安系にて優秀なるコリーあれば、市にても豫算がある事故、是非牡牝二頭鹿兒島市動物園の爲めに求めたいが、子安系がなければその他の物でも結構故(仔犬ならば四ヶ月以上)御世話を御願致したいといふ意味である。
早速返事を出しましたが、高信氏御希望の如き犬は現在のところ殘念ながら、今のところ心當りがありません。
枝庵(※三上知治画伯のペンネーム)「事務所の日記」より 昭和12年
【戦時下のコリー】
昭和6年の満州事変を機に、日本犬界では軍犬報國運動が勃興。やがて、軍事や国威発揚に役立つシェパードや日本犬は「優能犬」、それ以外の愛玩犬は「国家の役に立たない無能犬」と見做す風潮がはびこります。
狩猟団体も「猟犬報国」「狩猟報国」でこれに追従。何とか自分たちの犬だけは守ろうとした結果、日本犬界は四分五裂してしまいました。
昭和12年に日中戦争が始まると、軍需原皮を確保する商工省は犬皮も統制対象とします。節米運動(食料パニック)が起きた昭和14年以降は政治家や役人やマスコミが「駄犬は毛皮にしてしまえ」と叫び始め、組織的防衛の手段を失った愛犬家は個別撃破されていきました。
日中戦争が始まった昭和12年、コリーはまだ普通に飼育することができました。
顧れば去る七月盧溝橋に端を發したる今回の支那事変は爾來數ヶ月炎天の下、朔風に、黄塵に、雨に泥濘に寒氣に、皇軍は奮戰又奮戰多大の効果を収めて支那軍閥をして遂に屏息せしむるも時日の問題となるに至つた。我軍将士の苦労は言を俟たず、吾々の肝に銘して忘れ得ぬ處である。
それにつけても我が軍用動物の涙ぐましき活動勤務は、新聞映畫等に現はれる毎に家畜に深き關心を持つ吾曹にとつて最も強く胸を打つものがある。人ならば征討の意味が解る。併し乍ら動物は只主人に忠ならむ事を願ふのみである。唯其主人に對する愛慕の純情に依つて弾丸雨飛の間に活躍して、人にも劣らぬ働を爲し甚大なる勲功を建てるのだ。
彼欧州大戰に於て聯合軍側では軍用犬としてコリー種を用ひた。テリヤ種も用ひた。そして多大の効果を収めた事は云ふ迄もないが、我が國は未だ軍用犬としてはシエパード、エヤデル、ドーベルマンを指定したるに過ぎず、軍用適種犬としてコリー種、日本犬種、グレートデン種等は未だ訓練犬としてして採用されては居らぬけれども、コリー種は怜悧機敏戰争有用の犬たる事は争はれぬ。
其長毛美容のみを見て単に優堕なる観賞犬とのみ考ふるは、外観のみを見て真相を知らざるも甚だしい。物は見かけに寄らぬ事が多い。短毛の脊躯ドーベルマンが長毛のシエパードよりも寒氣に強い事は實験者の親しく語る處である。只シエパード愛好者が耳を掩ふて其言を聞かないのである。我々は滿洲北支の厳寒地帯に働く軍用犬としてコリー種は最も適したる犬種たる事を信ずるものである。
併し乍ら我國に於けるコリー種は第一に數が寡ひ。歴史が新しい。従つて飼育者にして、犬を訓練して居る者が甚だ寡い。是はコリーの如き怜悧なる犬を所持する愛犬家として頗る惜しむべき事態と言はねばならぬ。宜しく此犬種の本質を理解してコリー種を単なる愛玩犬たらしめず使役犬としての其本領を發揮せしめる事が飼育者の責務であらう。
人或はコリー種は他に重大な用途がある。牧羊犬としては正にコリーを措いて他に適種を求め難いといふ者があらう。誠に至言である。併し乍ら日本に於て緬羊の大群を飼育するもの幾十百あるであらうか。コリー犬が牧羊犬として活躍するに足るべき牧場は、現在に於て甚多しとしないのである。更に何年を経つて外國から羊毛を輸入しなくとも良い様な時代が來たならば、其時こそはコリー犬は牧羊業者から引張り凧となるであらう。
牧羊にコリーは不可分の関係にあるが故に、我々は今よりしてコリー犬の資性を發揮する事に努力するの必要を強調したい。単なる愛玩犬、お座敷犬として何等の訓育も施さず無為徒食の犬を仕立上る事は我徒の執らざる處である。如何に美なりとも愚なる犬を代々蕃殖する時は遂にコリー犬無能の歎を發ぜしむるに至るやも計り難い。
希くばコリー種愛好者諸賢は小學校一年生の氣持を以て焦らず怒らず、序々に其所有犬の稟性を有効に發揮すれば必らず怜悧な犬になるとの信念を以て愛育訓練する事に勤められ度い。我々は好い犬を作る事を目的として邁進せねばならぬ。
三上知治「近時所感」より 昭和12年11月
コリー愛好家はどうかといいますと、日中開戦初期には「羊毛需要に貢献する牧羊犬」としてのイメージを高めようとしていました。
しかし、戦況の激化と共にコリーの記録は激減。HGH(牧羊犬資格試験)の研究をしていた帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会などが、僅かな記録を殘したのみです。
太平洋戦争へ突入した時期になると、日本コリー協会あたりも「使役犬界はシェパードが独占じゃないか。コリーの出る幕はない」と諦めモードに終始。世間の愛犬家も呑気に牧畜見学ピクニックへ出かける余裕すらなくなり、日本のコリーは表舞台から姿を消します。
しかし銃後日本からコリーが消えたワケではなく、軍需原皮の需要増と共に羊毛供給を支える牧羊犬たちは活躍し続けました。
“武器なき平和な動物”それは羊である。日本に於ける羊の數は少ないが、その少いうちにも一意増殖を目指して営々として日夜努力を續けてゐる人と動物がある。即ち牧夫と牧羊犬である。
私は最近或國立種羊場を訪問して彼等と親しく語り合ふ事が出來た。牧夫には屢々接する機會があつたが日本に於ける牧羊犬に接するのは私にとつては之が初めてであつた。
獨逸に於ては牧羊犬がある事を前から聞いて知つてゐた。又、輸入種犬の中でもBodo v. d. Brahmenau,Ckersker v. Brug Fasanental,Arman v. Blasienberg等は所謂HGH(牧羊犬資格)の所持犬であることからしても、相當に發達してゐるものであると思つてゐた。然し日本に於ては此の試験制度もなく噂もあまり耳にしなかつたので、殆んどないと思つてゐたが、私の訪問したこの一種羊場だけでも六頭の牧羊犬を見出した。
羊舎のすぐ傍に粗末な犬小屋があつたので、番犬のハウスかと思つたらとんでもない、これが彼等牧羊犬のハウスなのだ。
一通り羊に就いての説明が終つてから場長さんは放牧を見せて呉れるといつた。最初私はさして氣にもとめずに返事をしたが、羊が有柵運動場に出された時思はずハツトした。既に一頭の牧羊犬が群る羊の廻りを吠えながら柵から彼等を出してゐたのである。
牧夫は早くも放牧地を目指して歩いて居る。犬は主人に遅れまいと懸命に羊群を追つて居る。此の姿は正に可憐忠實の一言に盡きるであらう。
私が日本の牧羊犬を見た第一印象は可憐忠實の四文字で充足出來る。此の間約二分!私も彼等に遅れまいと後を追つた。その後姿は又素朴そのものである。
肩先や背に大きなツギのある洋服に縁の廣いムギ藁帽をかぶり、ゴム長をはいて一本道を歩く牧夫の姿。その後を一群をなして行く羊、更にその後を注意深く從つて行く牧羊犬。それは一幅の畫とも云へる。
よく應接間の壁にある油繪などにも畫かれてあり想像もしてゐた事でもあるが、現實に見たこの田園風景には暫し陶酔せざるを得なかつた。
私が放牧地に着いた時には既に羊達は三々五々に散在して牧草を喰つて居た。牧夫と犬(牧羊犬を犬と省略する)は一寸高いところに立つて羊群が一望し得る位置に居た。
私は不躾で失禮とは思つたが牧夫の傍に行つて次の様に質問した。
「この犬は何種ですか」
と牧夫は「スコツチコリーです」と答へた。
一見して雑種としか思へなかつた犬は豪州産のスコツチコリーであつた。年は四歳で二回蕃殖をしてゐるさうだ。
私は更に「獨逸あたりではシエパードを使つて居るさうですね」と、すると彼は「えゝさうです。然しシエパードは強すぎて羊や人を傷ける事が度々あるので困りますよ」。これが彼のいつはり無き告白である。
日本の牧夫達はシエパード犬は強すぎて羊や人を傷けるから不適當だと思ひ込んで居るらしい。然し彼は次の様に話を續けた。
「豪州産の羊はこいつ(スコツチコリーを指す)らの云ふ事を聞きますが、今放牧して居る日本生れの羊共はてんでこいつらの云ふ事を聞かないですよ。又人にも慣れ切つて居ますから困りますね。だから日本産の羊共にはむしろシエパードの様に少しきつい位の犬がいいですよ」と。
私は之を聞いた時、やうやく安堵の胸を撫で下した。日本内地の様に殆んど野獣共の危険のないところではこの温順な犬でよいであらうが鮮満支或ひは北海道邊りでは相當に野獣共がやつて來る可能性があるから、此の地方に於てはシエパードの方が餘程有利である事は敢て多言を要しないのである。
日本産の羊と外地の牧羊犬にはシエパード犬が絶對必要だ。今後益々増殖される養羊界に我が愛するシエパード犬は益々要求されることは確實だ。軍用犬に警察犬に又警備犬に、更に内地に大陸に将又共榮圏各地に活躍するシエパード犬に又新らしい任務が出來た。私は更に牧羊犬の訓練の方法に就いて質問すると彼は「訓練といつても別に大した事もしませんが、小さい時から親に附けて一緒に羊共を追はせます。さうすると自然に大きくなるにつれ、自分一人でやるようになりますな」と語つた。
私と牧夫がこうして話して居る間、犬は羊の方を眺めたり、又主人の顔色をうかがつたりして居た。
敵國豪州産の犬でも今は毎日々々我が國の羊の増殖に挺身して居るのである。然し我等の理想は日本産の羊には日本産のシエパード犬の力で増殖に、素質の向上に、努力したいのである。
終りに一寸羊の重要性に就いて御参考迄に數字を出して置く。
日本に於ける緬羊數 25萬頭
豪州に於ける緬羊數 1億2000頭
勿論この數字は現在のものではないが、その差には大した變化はないと思はれる。或ひはその差は更に大きくなつてゐるかもしれない。とにかく日本の緬羊數は少い。そして一人の兵隊が完全なる防寒服装を附けるには6頭の羊が必要であるさうだ。これをみても如何に今後羊が重要であるかが窺はれる。
北邊の防備に活躍する皇軍将士が國土を泰山の安きに置いて活躍して頂くにはそれ相當の羊毛が絶對必要である。その羊毛を採るためには多くの羊が、その羊の増産には飼養と人と牧羊犬が、その牧羊犬にはシエパード犬が!我等が親愛なる無言の戰士に榮光あれ!
光ヶ丘敏雄『日本のHGH』より 昭和18年
敗色濃厚となった戦争末期、厚生省と軍需省(旧商工省)は全国の知事宛にペットの毛皮献納を通達。昭和19年12月から翌年3月にかけて、夥しい数の犬猫が殺戮されます。
国家の役に立つ軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物(日本犬)の殺処分は免除されたものの、牧羊犬たちの運命は定かではありません。
幸いにも、戦時を生き延びた牧羊犬の記録は残されています。各地の牧畜業者たちは、必死で犬たちを護り抜いたのでしょう。
雪の北海道!と云はれる此の北國も今年は例年になき暑さが續き吾々を驚かしたが、さすがに秋は早くも訪れて、早朝アデラ・デイザーと共に自転車を走らす私の手に冷たさを感じる。遥かに見える山裾を掩ふ朝霧に朝日が映えて美しい。
九月八日、今日は空知平野の一角、幌倉種畜場を見學し、HGH研究の第一歩を踏み出す日。運動を早目に切り上げて帰宅、犬體の手入れをし乍ら岩見澤の岡川直次氏の來訪を待つ。程無く來られた岡川氏に犬舎を御覧にいれた後、家内と三人で驛に向ふ。
瀧川驛より東北に向つて約十五分、線路の両側の稲は黄金の穂を垂れてこれからの食生活に明るい裏付けをして居る。
種々の迫害や食料難と戰ひつゝ、S犬種保存の爲に愛犬を守り續けて來た。そしてこれからの飼育に光明を見ひ出した今日、この喜びを知る者は一人私のみではあるまい。
幌倉驛に下車して北に向つて約十分、坂を登ると正門に着く。事務所への通路に添つて植へられた空衝く様な落葉樹並木の向ふには悠々と草を食む乳牛の群とコリー種と思はれる一頭の牧畜犬が見える。
羊のみと思つて來た此の牧場に澤山の乳牛が居る事と、牛にも牧畜犬を使つて居る事に非常に興味と希望を持ちつゝ事務所に辿り着く。
受付の女の子に名刺を渡して豫め昨日電話で連絡した來訪の意を告げる。先づ地方技官の吉田稔氏の許に案内され、初對面の挨拶後改めて牧畜犬の日常を見學に來た旨を申し上げる。
「それでは實際を見て戴きつゝ御話しよう」と早速羊群の放牧されて居る草原に御案内下さる。緩かな南斜面の見渡す限り果てなき草原遥かに見える山々は未だに消えぬ朝霧の中から頂上を清く澄んだ青空にクツキリと表して居るのも清々しい。
岡川氏と私とは交々吉田氏に尋ねる。
「先程事務所の前に乳牛が澤山放牧されて居りましたが、こtらには羊の外に色々飼育されてゐるのですか?」
「そうです。勿論羊が主ですが、牛、豚、鶏、あひる、鵞鳥、蜜蜂、と云ふ様になんでも飼育して居ります」
「羊はどれ位居りますか?」
「千頭足らずでせう」
「牧羊犬は何頭位居りますか」
「作業に使用して居るものは十二、三頭位ですが、大半老齢の犬ばかりです」
「コリー種ばかりですか?」
「そうです。他から思ふ様に血液が求められず、その蕃殖も又飼育も思ふ様に行きませんので、體型も小さく次第に低下して來た様ですね」
と、行く手には一群の羊が三三五五草を食んで居るのが見える。
「此處に居る羊は何頭位ですか?」
「222頭です」
「此の犬はコリーの純粋ですか」
「そうです。私が此處に來た頃は三才の若犬でしたが豪州から昭和11年に輸入したキングと云ふ牡の仔で、今年11才です」
「老犬とは思ひましたが11才とは元氣ですね」
「併し作業はつらそうです」
「毎日作業してゐるのですか?」
「そうです、ほとんど毎日です」
「誰の云ふ事でも聞きますか?」
「全然聴かぬと云ふ譯でも有りませんが、何んと云つても担當者の云ふ事は一番良く聴きます。担當者と一處に居ては他の者が何んと云つても駄目ですね」
「山下さん、一つ作業を見せて上げて下さい」
「トムは私の担當ではありませんが、割合に良くなついてゐるのです。―移動をやらせませう」
と、その附近一ぱいに三三五五草を食んでゐる羊群の方を向いて「トム!!」と云へば今迄家内の前にうづくまつて居た老犬の面影は何處へやら、キツと身構へて指導手を見つめるその瞳。
「ゴウ―!!」
羊群の一角を指して命ずれば一散に右手依り大きく迂回して羊群の裏手に廻る。羊は驚いて走り出す。
指導手は視符と聲符とを以て犬をリードする。犬は段々と遠くの羊を左手に誘導する。と、その内に犬はどうしたのか追ふのをやめて指導手の近くに走り帰つて途中で止る。指導手は再び視符と聲符を與へる。
「どうしたのですか?」
「年を取つたので目も遠く見えなくなり、耳も聴えないのです。それで遠くなるとあゝしてわざわざ聴きに來るのですね」
その間にも羊群は左へ左へ移動する。と犬は又帰つて來る。指導手は再び命令を與へる。
犬は真直に羊群の真中に飛び込む。羊は移動を止めて四方に散る。指導手は再び犬を呼び返す。
犬は足許に帰つて休止する。疲れたのか長々と延びて又元の老牡の姿に還える。私はこの老コリー犬の若犬に還つた様な溌剌とした作業振り、緊張し切つたその態度、そして作業慾に燃えた動姿の美しさを見遁す譯にはいかなかった。
堀川源蔵『HGH見學記』より 昭和22年
そのような過去が忘れ去られた1950年代、日本で「名犬ラッシー」の放映が開始されます。ラッシーの宣伝効果は絶大で、戦後日本でコリーは人気の犬種となりました。
ラッシーの放映が終了して何十年たっても人気は衰えなかったらしく、私が幼稚園児だった頃に祖父がコリーを飼育していたのを覚えています。
日本コリー史も意外と奥が深いのです。昭和15年の広告より。