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5月4日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月4日診察 

 

生年月日 大正13年5月4日カナダ生れ

犬種 ブルドッグ

性別 牡

地域 東京府

飼主 久保重五郎氏

五月四日の真晝間の午前十一時頃のことであつた。麹町富士見町五ノ二二文理科大学英語教師アンドリユー・エフ・トーマス氏宅の前方で女の悲鳴が聞えたので、同夫妻がとび出して見ると、一暴漢が若い婦人にけしからぬ所業に及ばうとしてゐるので、早速婦人を救ひ出したが、その暴漢が付近の警察病院向ひ側の露路内に潜んでゐるのを知つて追ひつめると、暴漢はそこにゐた犬にけしかけてトーマス氏に向はせた。しかし犬もさるもの、あべこべに暴漢に噛みついたので、彼は難なく取押へられた。
この犬につかまつた暴漢は小石川區松枝町塚田某(二四)であつた。
「暴漢を捕へた犬」より 昭和8年
 
五月四日アルノ號を帯同せる中島監視員は前半夜勤務者数名と共に六道溝付属地境界線に赴き、付近一圓厳重監視中、遥か前方の江上に浮動し來たる一隻の密輸船を發見したるを以て、監視員一同は直に監視網を移動して彼等の上陸見込地點に急行潜伏し居たるに、間もなく上陸せる八名の密輸者は各自叺を背負ひて監視員潜伏箇所より稍上方を通過せむとす。
仍て中島監視員はアルノ號を放ちて襲撃を命ずると共に、一同亦之に続き検挙に向ひたるが、彼等は當方の急襲に敵し兼ね各自背負ひたる粗塩入叺十五俵を遺棄して遁走せり。
満州国税関監視犬月報 昭和11年
 

五月四日

報知新聞社會議室で家畜週間の催物、報知新聞主催の畜犬綜合展審査委員會、定刻に行つて見ると池田氏は既に來て居られた。此催しは先に警視廳會議室で定められた本年の家畜週間(五月十五日より一週間)の催しとして例へば畜舎の清掃とか消毒とか乗馬行進とか家畜衛生設備の検査とかシネマ、ビラ等家畜に関する一般の認識を高める為めの催しを行ふのであるが、畜産聯盟の一員として、馬産、畜牛、養鶏、牛乳等の組合の間に東京市の或る畜犬商組合も加入して警視廳と結び付き、家業繁昌のためか五月十五十六の両日、九段靖國神社前の廣場に於て、大日本畜犬綜合大共進會といふ名の畜犬展を催し、之を報知新聞社の主催の名のもとに取行ふ事になつたのである。畜犬商組合の責任者は日本橋の坂本保氏である。展覧會の會長は陸軍少将坂本健吉氏(軍用犬協會副會長)を推し、審査員長獣医少将内村兵蔵氏、顧問警視廳獣医課長池上幸健氏、仝農学博士板垣四郎氏といふ顔触れで、各犬種は其種類の團体の審査員が審査をするといふ事でもあり、此前の時事新報社の時よりも用意が整つて居る様に見えたので、将來畜犬團体の聯盟を作る階梯に踏みかける一助ともなろうかと思ひ、我が日本コリー犬協會も参加する事に決定し、池田金子及余の三人が出席したのである。會議は多少の波瀾もあつたが何うやら無事に収まつて、九時過ぎ散會した。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

満鐵鐵路總局の警備犬育成所の種犬購買は、阪田主任、市川善七両氏出張、KV各支部、MK支部を通じてシエパード犬優秀犬のみ購買し、他にシユナツア種を試験的使役及び蕃殖の爲め購入し、五月四日無事大連周水子育成所へ繋留した。

昭和14年

 

 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和15年5月4日診察 

 

故安川九州支部長追悼展覧會審査報告

時 昭和十六年五月四日

所 門司市錦町國民學校々庭

「故安川九州支部長追悼のため本展覧會を開催された事は誠に意義のある企である。氏は最初KVを脱しJSVに加入された人である。然し氏の犬界に残された業績たるや當地方に於て不滅のものが有り、両團体を通じて恩顧のある人と聞いて居る。

本追悼展覧會は初め氏の居住地、福岡市に於てJSV會員たるとKV會員たるとを問はず、且又登録犬たると否とに不拘少くとも安川氏を知る者が気軽に集つて其の霊を慰め度いといふ美挙から本年一月早々決定。二月にはJSV會報並に犬界唯一の雑誌犬の研究誌上にも發表されて居たものである。

然るに開催日の切迫せる二週間前に至り、突如KV九州地方支部の主催として前代未聞の春季第二回目の展覧會を、然も安川氏追悼展と同日、同場所に於て開催するといふ事が發表された。 勿論斯の如き不穏當なる企に對し、賢明なるKV理事者が承諾せりとは断じて信ぜざるも、常に犬界に害毒を流す一部徒輩の横紙破り的な意見に迷はされて、此の企を決定せる當事者の責任は回避し得ない筈である。 然も其の理由として挙げられたるものは、‟福岡はKVの縄張であるからJSV展は遠慮してほしい”と。少くとも國民教育を受けた者は嘲笑せざるを得ないであらう。世は既に明治維新を経て大正昭和へと文明的進歩を續けて居る。 封建時代の陋習が今猶當地方に存在せるものとすれば、我國生命線の先陣を承る九州男子の面目果して那邊に在りやと叫ばざるを得ない。

幸にしてKV小川大阪支部長、山野審査員とJSV西脇大阪幹事長、細谷審査員の四氏の間に於て、“KV側は本展覧會を無期延期す。強ひて開催するならば審査員を送らざるは勿論、該當事者を除名するも差支なし。JSV側は其の意を諒として場所を変更され度い”と云ふ諒解成立に依つて不祥事も惹起せずJSVは門司市に變更し無事に終了したのではあるが、之れによつて故安川氏追悼展の意義は全く半減され、且つ最も表彰され來つた九州男子の、否日本民族の美風は完全に破壊されて終つた事は否めない。

縄張だと尊重して居る内にも我々シエパード犬界は日進月歩最高峰へと直進して居るが、憐むべき福岡犬界は封建思想の爲め取残されて、次第に低下するであらうと心ある者は慨歎せずには居られない。展覧會當日はJSV展にも似合ず前日の豪雨も止み、暑い程の好天氣で和氣藹々として終了したが、当日はKV監視員が出張して‟同展への出陳者には今度米を配給される場合にも米を與へない”といふデマが盛に傳へられて居たが、果せる哉約30%の缺席犬があつた。恐らくはデマに恐れたものだらう。 元來米が犬の主食物の様に思つて居る爲めにこんな間違も起る。米は犬に取つては最も悪い代用食である。 シエパード界は斯く叫んで居る。「先づ原産地區獨乙を見よ!我々シエパード犬は米で育てられて來たのではない。日本へ來て初めて日本人がお臺所の都合上好まない飯に肉や魚を入れて空腹の我々に無理から食わせて居るのだ」と。 こんな食事で良い犬が出來る筈はない。本國でジーガー、ジーゲリンを生んだ両親が双方共日本へ來て生んだ直仔でさへ非常な差があるではないか。 正に二十年を経過せる今日に於ても、日本で出來た犬で唯の一頭でも本國のV賞犬に匹敵出來るものがあるのか。これ位の事が判らねば餘程日本人もノールスだね! 戰線からの通信には何と書いてある。“米なんか炊いて居られない。飯と汁で育つた犬は駄目だ。犬は案外弱くて使へない”と度々云はれて居るではないか。當然だよ!仔犬から成犬迄……平常から戰線迄、一定の飼料を作る事が先決問題だよ! 我々は代用食を占取して犬に食わすより適當な飼料を考案して米は戰線の兵士へ、銃後の産業戰士へ、成長期の第二の國民へ與へるべきではなかろうか?彼等は皆空腹で困つて居るではないか。犬を飼つて居る者の務として、これ程大きな問題はない。 一刻も早く飼料を完成する事は飼主の責務だよ。何も知らない役人連を偽つてこの人間に貴重なコメを詐取して居て恥ぢざるは愚か、威張つて居る輩があれば、それこそ真に非國策的な、非國民的な、賣國奴にも等しい奴であるよ! 飼主よ、も少し賢くなれ。社會よ、も少し真實を究めよ!然らば偽る者もなければ偽はされる者もなくなる。而して我々も、適當な食事にありつけて出來る丈けの職域奉公が出來る。こんな嬉しい事は又となからう。ワン、ワン、ワン」

鈴木正男 昭和16年


5月5日の犬たち

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中央畜犬協會

事務所 東京府下立川町二〇七一
設立 大正七年五月五日
役員
川田益雄、臼倉繁次郎、木下豊次郎、大竹博(以上東京)、鈴木仙之助(横濱)、土屋孝、森貞次郎(名古屋)、竹内安吾(京都)、中尾熊太郎(三重)、小菅米策、松尾直次(大阪)、田丸亭之助、八代尚二(兵庫)、小熊庄次郎(埼玉)、伊藤卓蔵(廣島)、高久兵四郎(栃木)
昭和十一年五月中旬総會開催、役員改選の筈
主なる事業
毎年春秋二季に全國畜犬共進會を開催し、各犬種の発達向上に寄与せんことを期す。
第三十回記念大共進會を昭和十一年秋十月第一土曜日に開催の筈

 

五月五日午後八時半、ブリツヂ號を帯同せる上岡監視員は巡邏班員數名と共に下濱江巡察中、電氣會社前方に蠢動する二隻の密輸船を發見したるを以て、直に現場に急行し、之が検挙に當りたるも、三十名内外の密輸團は當方の無勢を侮り包囲隊形を取りて反撃の挙に出でんとす。
仍て上岡監視員は同伴せるブリツヂ號に襲撃を命ずると共に、監視員亦奮然突進して彼等の正面に迫りたるところ、當方の猛襲に狼狽せる彼等は統制忽ち乱れて四散し、中二名はブリツヂ號に抑留せられ茲に左記物品を押収せり。
人絹製品 二十一打(ダース)価格三六.五九円
化粧用品 四打半 価格一○.二七円

満州国税関監視犬月報 昭和11年

 

五月五日

報知主催の大日本綜合畜犬展に参加する赴の通知を會員全部に出す。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

今日はエル號の一周年記念日である。
昨年五月五日、私の愛犬エル號が激烈なヒラリアの發作に罹り
(1)両後脚の運動神経は全部麻痺して微動も不可能となり、且つ其内側一帯には屢々痙攣を発動し、其の都度悲しそうに啼き
(2)歩行は一歩も出來ず
(3)従而大小便も自ら排出し得ず
(4)心臓は異状の結滞を頻発して衰弱を加へ、十三歳の老犬ではあり恢復の可能性は全然なくなつた。
然れども出來る限の看病と治療を加へ、一度は救はねばならぬと決心し、寝食を忘れて心より看病した効あつて三十日後には全快した。

薮中桃水「記念日」より 昭和15年

戦前の犬の相談係の本音トーク・その5 昭和12年

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前回からの続きです。

 

出席者

板垣四郎

遠藤智

久我優祐

佐治正次郎

水野五郎

白木正光

 

○要領のよい質問の仕方

白木

要領のいゝ質問といふものは。

遠藤

簡単に書いて、最も變つた點に力を入れて貰ひたいのです。種類、年齢、平常の状態等を書いて呉れることです。

板垣

體温が必要ですね、内科としては。それが眼脂が出るとか、吐いたとか、食ふ食はぬばかり書いて來る。

佐治

さうです。元氣なく、食慾進まず、これは一體何病でせう、では困りますね。

遠藤

蟲ではセメン圓をやつてゐるのが多い。どのくらゐやつてゐるか分りませんが。

佐治

左様、随分用ひてます。獣醫にかゝらぬ人は一通りやるらしい。薬局で薦めるのでせう。

久我

私などもセメン圓を教へます。五、六十日以内では素人に簡単で世話なしだからです。相談或は電話の間合せにはセメン圓を教へるのです。

 

○病氣の素人見分け法

久我

素人が見て、病氣かどうか見分け易いのは、検温器で、これを使用するのは合理的ですが、大體犬の朝の様子で、具合がよいか惡いか見當のつくものです。犬小屋の犬なら朝起きて行つてみて、平素と違ふ點があるかどうかを見るのです。いつもなら尾を振り飛びついて來るものが、今日は尾の振り方が鈍いとか、物欲しさうに小屋から出て來たとか、又は全然小屋から出て來ない。かういふ平素と違ふ様子が見えたら、何處かに何か異状があると思つてよいのです。かういふ時、病氣の知識があれば、その知識に頼つて考へ、知識がなければ専門家に相談する。病氣であるかどうか、又既に病犬であつても朝が一番よく様子の分る時で、朝、犬の様子を見るといふことは大切です。

ところが、犬の異状を看過して、元氣がないのは運動不足の故だらうとて、自轉車を駆つて一時間も運動をさせ、肺炎などにして取返しのつかぬことにして了ふ。素人は直ぐ運動不足だらうと思ひ込み勝ですが、それは間違ひです。

私は永年犬を扱つてゐますが、なづ朝起きて犬を見、その時の状態で、その日の模様が略ぼ適中すると思つてゐます。犬の體温を調べることは、殊に仔犬の場合には朝夕體温をとるがよいと思ひますが、平素と異なつた態度に注意することを忘れてはいけません。幾度も云ふ様ですが、普段は出てゐない瞬膜が出るとか、目が細いとか、いつもと異つて尾を上げぬとか(かういふ時には肛門の附近に故障があるのかも知れない)平生ないことがあれば何處かに故障があるのですから、様子に氣をつけることは毎日忘れてはならないのです。

病犬を診る時は、犬の顔色によつて内部を想像するのですが、顔色と云つた所で、毛が生えてゐて分らないと素人は思ふでせうが、例へば目がトロンとしてゐるか、瞭りしてゐるかなどいふことは、とりも直さず顔色で、これ等に注意することが非常に大切です。

白木

佐治さん、健康不健康の見分け方を。

佐治

醫者は患家へ行つて便通の状態を訊きます。犬の健康も糞便の具合を観察するとよろしい。一口に云へば、よく喰べ、よい便をすれば健康と思つてよいのです。

 

○困つた質問

板垣

この間かういふのがありました。他處でジキタリスがよいと聞いたが、どの位與へたらよいかといふ質問です。それには體重もなければ、年齢もない。勿論體温も書いてない。大胆には答へる譯にはいきません。で、結局獣醫に相談なさい、が一番安全といふことになる(笑聲)。

佐治

至極同感。

久我

一寸惡かつたら専門家に相談するのが一番よい。手軽であるし、これなら誰にも出來ます。

板垣

しかし一方、相談にはお禮が要ると考へるのでせうな。田舎の人は正直に相談する人もないが、と書いて來る。獣醫として、さういふ人の相談にのり、教へてやることは結局繁榮策になると思ふ。相談料五十銭寄こせ、などとは云へない。

白木

犬猫の相談所はないのですか。

水野

ありません。各自の所へ行けばよいのですから。

遠藤

豫防法の質問といふものが多いですな。テンパーやフヰラリアについて。北研(※北里研究所)と獣疫調査所のテンパー豫防薬とはどんな風に効くかなんて質問です。

白木

効く効かないで大分意見があるやうですが、根本的に國家で試験する機關があればよいのだが。

板垣

澤山の犬について統計をとるより外仕方がない。一萬頭の中罹らぬもの、何千頭といふ風に瞭りさせるのです。十頭、五十頭の例では例になりません。

(最終回へ続きます)
 

『愛犬家はどんな犬病に一番悩んでゐるか』より 昭和12年

5月6日の犬たち

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畜犬取締規則(明治四十二年五月六日警視廳 令第十六號)

第一條
犬を飼養するものは其頭数、名称、種類、牡牝の別、毛色、年齢及特徴を記し三日以内に所轄署に届出べし。
左の場合にありても三日以内に所轄警察官署に届出べし。
一、畜犬の飼養を廃止したるとき
二、畜犬の所在不明となりたるとき
三、所在不明となりたる畜犬を發見したるとき
四、畜犬斃死したるとき
第二條
畜犬には其飼主の氏名を記したる頸環を附着すべし。
前項の頸環は前條第一項届出の際、所轄警察署に提出して左記雛の形刻印及番號の附與を受くる事を要す。
第三條
人畜を咬傷するの處ある畜犬は其の飼主に於て口網又は箝口具を施すべし。
警察官吏に於て必要と認めたるときは前項の施行を飼主に命ずることあるべし。
第四條
警察官署に於て逸走の畜犬と認めたるときは七日以内警視廳内に繋留し明治三十二年三月法律第八十七號遺失物法に依り處分す。
第五條
第一條届出は警察支署巡査派出所、駐在所又は交番所に之をなすことを得。
第一條第二項の届出は口頭又は電話を以てすることを妨げず。
第六條
第一條第一項、第二條、第三條第一項に違背したるもの又は第一條第二項第三號の届出をなさゞるもの若くは第三條第二項の命令に従はざるものは科料に處す。
附則
本令は明治四十二年五月三十一日より之を施行す。
本令施行前既に届出飼養するものは本令第一條第一項により届出をなしたるものと看做す。
前項に該當するものは明治四十二年六月三十日迄に所轄警察官署に頸環を提出して第二條第二項に定めたる雛形の刻印番號を受くべし。

 

生年月日 昭和5年5月6日生れ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 東京市
飼主 松本有義氏

 

生年月日 昭和9年5月6日生れ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 埼玉縣
飼主 土山藤雄氏

 

帝國ノ犬達-関西畜犬共進會

關西畜犬共進会

昭和9年5月5日および6日、大阪天王寺公園にて開催

 

陸軍第九師團軍犬班

師団Ⅸ
第36聯隊
所在地 福井県
軍犬班長 勝見等伍長
軍犬取扱兵 2
軍犬数 1
昭和10年5月6日設置

 

板橋區志村清水町五八土木請負業大貫秀雄氏が五月六日午後二時頃愛犬メリーを連れて初夏の陽を浴びてブラリ散歩に出た。家を出て二三歩行くか行かぬ中にメリー君同家前の原つぱへ一散に走り出し、大聲で吠え立てゝは頻に土を掘る。
大貫氏も駆け寄つて協力(?)して掘ると、ナンと大判小判……ではない五圓札、五十銭銀貨がザク〃(といふほどでもないが)と出て來た。
吃驚した大貫氏早速板橋署へ届け出たが、メリー君の發掘はしめて九圓七十五銭、どんな理由でこの金を埋めたか板橋署で詮議中。
殊勲者メリー君は四歳のセツター種牝で、お守りもすればお使ひにも行くといふ近所で評判の名犬だ。
「昭和の花咲爺」より 昭和10年

5月7日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月7日診察 

 

樺山伯爵や農商務省農務局長道家齋氏、帝國猟友會、日本畜犬協會等が賛助となり、東京猟話會の主催で上野の畜産工芸博覧會場内に猟犬の品評會が開催されたのは五月の十五日であつた。
其の規則書も出来発表したのが五月の七日頃で僅か十日足らずの期間に猟犬の出品を募ると云ふのだから當局者の骨折りは並大抵の事ではなかつた。
愈々當日となれば各猟家連は自慢の愛犬を自動車又は腕車に乗せ會場指して集つて来る。
さすがは猟犬、隣の犬と喧嘩をすると云ふやうなものも見ない。
やがて十時頃になると審査員たる根岸盛太郎氏、男爵徳川厚氏、衆議院議員清山金太郎氏、獣医学博士須藤義衛門氏などが審査表を手にしながらなか〃立派な犬ばかり集つたと首を捻つて居る。
岩崎家のイングリツシユポインター種や参考品として出陳された猟犬商會愛犬売價金壱萬圓のイングリツシユセツター種ドレーク號などは好評で、見物人が黒山のやうであつた。
日本畜犬協會賛助員の男爵新田忠純氏が夫人同伴中上家令の案内で来場した。
愛犬家で聞へた加藤我峰氏のニコ〃した顔も見へ、會場は肩々相摩する程多数の入場者で其の盛會は殆ど驚くべきであつた。
出品された主なる種類はイングリツシユセター種、イングリツシユポインター種、ジヤーマンポインター種、スパニール種、レトリーブアー種、ビーグル種、アイリツシユセター種、ゴールドンセツター種、等で其の数は約百頭程であつた。殊に出品の多かつたのはイングリツシユセター種で、其の流行を證するに余りありである。
まるでイングリツシユセター種の品評會だと誰かが云つたのも適評であらう。
千禄は立派な犬が沢山集つたのを見た時には涙が零れる程嬉しかつた。
其の毛色の美、其の手入れの行届いたのにも感心させられたが、只遺憾なのは犬の姿勢に気に入つたのが尠なかつた事である。
馬で云へばアラビヤの純粋種のやうにスラリとした姿を犬でも純粋のものは有つて居る筈である。随分第三流の芸者でも美しい顔の所有者は居るが、新橋赤坂辺の第一流の芸者に比較して其の姿の區別は一寸言葉では云ひ現はす事の出来ないやうに、犬でも其の通りで毛色の美は有つて居ても丁度四足へ針金でも入つて居るやうに力のある姿勢を所有する犬の尠なかつた事はかへす〃も残念であつた。
然し今後毎年犬の品評會も開催され、段々と改良されて行けば吾々を満足さすやうな姿勢を有つた犬が増加する事であらう。
一時流行されたアイリツシユセター種も此の日僅か数頭の出品に過ぎないのも意外であつた。
ポインター種も殆ど見るに絶へないやうなのが多かつたが、只齋藤氏所有のジヤーマンポインター種は優物であつた。
ビーグル種も退歩したやうで、レトリーブアー種の如きは僅かに壱頭しか出陳されなかつた。スパニール種は神戸から連れて来たのであらう田丸某(※田丸亭之助訓練士)の出品であつたが、五等賞にも入らず落第したのは気の毒であつた。
横濱からも拾数頭出品されたが、金牌を得る犬は一頭もなかつたのは遺憾であつた。横濱の飼犬家の内には平素自慢をして居ていざ品評會でもあると出品を躊躇する者がある。
是等の人達は若し出品して落第してはと云ふ懸念からであらうが、真に畜犬界を思ふの念あらば、進んで出品すべきであらう。
若し不幸にして落第しても、夫れは出品を躊躇した事と其の犬の價値を云々する點に於て何程の相違があらう。
自分が愛して育てた犬、夫れを審査委員に見せると云ふより素人に見せると云ふ點に於ても愛犬家の参考となり、畜犬界を益する事多大である。
吾が愛犬に落第の汚名を負はせるを厭ひ、却てより以上の汚名を負はしめざれば幸なりと横濱一部の飼犬家に對し申したひのである。
さすが横濱は吾が國最初の洋犬渡来の地とも云はれるだけに、出品される十数頭の内に金牌はなくとも落第したのは壱頭もなかつたやうであつた。
兎に角當日は豫想外の盛況で締切り後も尚数拾頭の申込みがあり、夫を謝絶したと云ふ程である。
これも猟話會にこれ迄専ら理事として盡した増沢磯八君、岡本政治君をはじめ舊時事新報社記者吉澤寛夫氏の預つて力ある事と思ふ。
全國狩猟家は狩猟に大関係ある猟犬の事に猟話會が進んで此の擧に出でたと云ふ事を賛するの声高く、或は態々謝状を寄せらるし、狩猟家あるに於て當時者も満足の微笑を浮べた事であらう。
田中千禄「猟犬品評會雑感」より 大正9年

 


 

 

5月8日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月8日診察 

 

 

五月八日

集金郵便で會費請求を六通だけ出す。久富夫人からは十二年度の會費が為替で送られて來た。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

写真週報

昭和13年帝國訓練優勝犬競技大會

開催 昭和13年5月8日
主催者 社團法人帝國軍用犬協會
場所 東京府京王多摩川の河川敷
應募犬數 46頭
当日缺席犬數 13頭
出場犬數 33頭
競技内容 距離五百米ノ二地點間ノ往復傳令勤務

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和14年5月8日診察


 

5月9日の犬たち

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生年月日 昭和6年5月9日生れ
犬種 シェパード
性別 牝
地域 兵庫縣西宮市
飼主 一楽荘犬舎

 

陸軍軍犬購買試験
時日 五月九日 午後一時
場所 中野JSV本部裏庭
別紙詳報の如く、本協會斡旋の四頭全部合格、目出度出征と決す。
出征犬出發
時日 五月〇日 午後〇時
場所 東京驛
出征犬全部京橋庶務事務所前に集合、會員有志多數と共に銀座丸ノ内を行進、東京驛頭に送る。



犬

滿洲國政府の依頼に應じて購買犬の斡旋の労を採つた當支部では、鈴木、斎藤、両本部審査員及び西脇幹事長立會の下に5月9日御堂筋の廣場で購買を實施した。
支部會員の御奔走で優良犬が多数集まり、同國購買官も非常に満足した。
日本シェパード犬協會大阪支部

 

 

犬

五月九日、〇〇部隊と共に壮途に上つた、昨年東京支部展近衛師團長賞のアヤツクス・フオン・ポリスカウノKZ一三〇六〇★(臺湾陳來發氏愛犬)。
向つて左より陳氏、アヤツクス、宮本氏。

昭和13年

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和14年5月9日診察

 


 

 

戦前の犬の相談係の本音トーク・最終回 昭和12年

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前回からの続きです。

 

出席者

板垣四郎

遠藤智

久我優祐

佐治正次郎

水野五郎

白木正光

 

○ダニや蚤の駆除

佐治

ダニや蚤の質問ですが、それ等の駆除に困りませんか。

遠藤

ダニには獨逸の薬でよいのがあります。卵まで死にます。

佐治

私は「駆蟲王」を撒くのです。覿面に死にますね、コチ〃になつて死にます。卵も恐らく死ぬでせう。犬體のものは取つてやりますが、どの程度に希釈すれば犬體のダニが死ぬか、まだやつてみません。

久我

蚤を除くには、なまじ犬體につけるより犬舎の周囲を駆除するといふ方法を採つてゐます。薬はクレシン。クレシンを如露で撒くと蚤は完全に死にます。犬體に掛けず、撒くのです。私はクレシン一點張り。

白木

皮膚病ではアカラスが一番多いですか。

板垣

さうでせうな。疥癬も多いです。

遠藤

合併症も多いやうです。

久我

皮膚病は人間で云へば下層階級に多いもので、疥癬などは、澤山飼つて不潔にして置く所に割に多い。それから馬肉を與へて皮膚病になつた例を知つてゐます。

遠藤

犬の食物について東大あたりで研究して貰へたら。

板垣

生理學的に本當に研究すればよいと思ひます。例へば牛肉と馬肉と成分を比較して何が少いからかうなるといふ風に瞭りさせねばならない。

白木

所で、皮膚病が簡単に治る方法はありませんか。

遠藤

皮膚病は手入れ一つで、薬ではない、と久我氏に伺つてゐるが、その通りだと思ひます。

白木

既に發病して困つてゐる場合は。

板垣

獣醫に相談すること(笑聲)。

久我

名言です(笑聲)。

 

○愛犬家の頭の改造

佐治

病氣の本に療法がないと讀者は滿足しない。本を買ふのは薬目當といふ有様ですが、これは根本的に間違つてゐます。愛犬家の頭から鼓き直さなければなりません。

板垣

ある所で、毛が抜けて困るといふので猫を診たのですが、大事に飼つてゐるらしく厚い座布團の上にゐる。どういふ風に毛が抜けるかと聞いてみると、撫ぜると、二、三本抜けますといふ返事。いやはや、大切な猫だものだから、それを皮膚病と思つてゐたのですね。

それから、之は馬の話ですが、チヤンピオンをとつた馬が咳嗽をするから診てくれと云ふ。聞いてみると、實は昨夜咳嗽を二つとかしたといふのです。生きている馬ですもの、咳嗽の一つ、二つするのは當り前だと笑つたのですが、過敏すぎるのですな。眞面白くさつて薬を持ち出したら可笑しなことになる。

佐治

犬に噛まれて狂犬病の心配があるといつた式の、人に關連した質問は實に熱心です。

板垣

テンパーは人のハシカで、人に感染しないか、といふ質問。さういふ思想は排除したいものです。

水野

犬のフヰラリアが人に感染するとて弱らされたことがあります。ある御隠居ですが、犬の腹水を危険と云つたことが元でしてね。

板垣

千葉の人からフヰラリアを研究してゐるなら、その薬を自分に試みてくれと云つて來たことがあります。

遠藤

人のフヰラリアのですな。

板垣

さうです。

久我

回蟲の話ですが、これはテンパーと両立出來ぬものらしい。回蟲とか瓜實條蟲がゐてもテンパーの加答兒性肺炎とか、下痢で蟲が下ります。テンパーの熱によつて蟲が寄生してゐられないものかと思ふのですが、兎に角テンパーの經過中は自然が駆蟲します。人が駆蟲すると却つていけません。

板垣

南洋か何處かで、黴毒の治療にコブラに噛ませるといふ、中毒のために元の病氣が治るのださうだが、多少さういふことはあるでせう。何にしても一般に駆蟲薬を使ひ過ぎる傾きがありますね。チモールでヘタバルのが随分あります。駆蟲の乱用は戒むべきことで、どんな蟲がゐるのかも知らずにチモールやサントニンを與へるのはよくありません。素人は精々肝油製剤でも飲ませる程度がよい。

久我

必要に應じ、専門家に相談して飲ませるのが安全です。

白木

では、この邊で。遅くまで有難うございました。

 

『愛犬家はどんな犬病に一番悩んでゐるか』より 昭和12年


5月10日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月10日診察 

 

犬

生年月日 昭和4年5月10日ドイツ生れ
犬種 シェパード
性別 牝
地域 大阪府
飼主 望月豊作氏 

 

拝啓

其後は絶えて御無音に打過ぎ失禮仕り候が、當地にての日本犬熱を大に挙げ居り候。殊に訓練に就ては實績益々進み居り、來年四月頃には基本訓練及び高等訓練を終了する日本犬十頭余を出すにさして困難ならざるものと存じ居り候。去る四月小倉市に於て関西セパード畜犬共進會、及び五月十日の門司市招魂祭に於て、小生愛犬雷號の訓練を公開仕り候。

先づ小倉にて多大の好評を博し、又門司にては七千の観衆有之セパード犬の訓練には一向拍手なかりしも、雷號の訓練に於ては満場の拍手を得、日本犬の面目を大に挙げしは甚だ痛快事とする處に有之候。當地の模様は何れ後便にて詳細報告仕る可く候。

尚、訓練犬に適する猪犬の産地を知り直接入手する好都合を得候へば、希望者には今後(一字欠)々と世話致す所存。然る上は當地に於て會員も大いに増す事と存じ候。其の他にも九州にて日本犬の産地發見仕り候が、此の地は未だ余り世に知られざる所にて候へば、多大なる興味を有し居り候へば、何れ近日調査に参る考にて候。次に入會者三名紹介仕り候。會員は近日中に小生の分と共に振替にて送金仕る可く候。

先は乱筆乍右要用迄。

末乍ら御令室様によろしく御傳言御願申上げ度、何れ詳細報告致し度と存じ居り候。

敬具

 

追伸

明日福岡に軍用犬協會支部のセパード犬展覧會訓練競技會有之可それに参り福岡佐賀方面の會員を訪づれる心算にて候。

前川憲策 昭和9年

「九州に於ける日本犬の訓練公開」より

 

初夏薫風好晴の五月十日、牝犬バロン號の仔犬が相當の数に達したので風変りに同族、そして仔犬のみの市中行進を試み、変つた方面から軍犬愛好熱を煽ることとなり、同日午後一時の定刻までにバロンの犬舎前に出動したもの二十餘頭、父親と母親とに前後を護られて市中を行進し、「素敵ね」「可愛いゝわ」の讃辞を浴びながら、平素長崎の軍犬界啓発の爲世話になつてゐる各新聞社を訪問して敬意を表し、街々の人垣をわけて氏神諏訪神社に詣で、満洲の野で活躍してゐるであらう先輩犬兒たちよ、武運長久なれと祈つてのち、公園内月見茶屋の樹陰のもとで観賞、野外座談會に氣勢を挙げたが、何しろ同族會員の會合なので氣のおけぬまゝ各自犬自慢に快い初夏の半日を送つたが、縣下各地からの参加もあり珍らしい催しとて、市人の眼を瞠らしめ、行事は直にラヂオで全九州に放送された。
「長崎支部 仔犬たちの市中行進」より 昭和11年

 

五月十日

銀座のラスキンホールで夕食會合。綜合展準備打合せ會、出陳は十六日一日丈けにする事、出陳見込は十頭位の事、採點は英國式、出陳勧誘は金子氏擔任、當日の係りは宮川、服部、高橋の三氏と決定する(出席者四名、金子、宮川、服部、三上)。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和15年5月10日診察 

5月11日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正15年5月11日診察 

 

日本テリア研究會

事務所 東京市下谷區豊住町一〇
設立 昭和十年五月十一日
顧問 伊藤弥六、田村菊次郎、鶴見孝太郎、遠藤智
賛助 久松敏定
理事 鶴源次郎、堀川静夫、大沢兼吉、渡邊新一、塚本重徳、
主なる事業
1.月例懇親茶話會開催、研究の結果を発表し意見の交換を為す
2.會報発行、當分の内隔月、既刊四號
3.春秋二回観賞會開催(昭和十年六月、十月と同十一年五月の三回既開)
4.犬籍登録(既登録犬五十頭)血統證明書の発行(現在會員数七〇名)

 

犬

武蔵野愛犬同好會主催「名珍犬観賞會」に出陳されたサルーキ。

新宿伊勢丹屋上にて、昭和11年5月13日撮影

 

五月十一日

太田温氏入會費十二年度受取る。交配の都合にて綜合展には出陳出來ぬ由申越された。事務所変更のためゴム印を注文する。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 


古川准尉が征途に上りて早や半歳。
犬友共集り君を〇〇駅に送り、皇軍の武運長久と君の武運を三唱した。
君にW氏N氏達諸先輩ワン公連で贈つた日章旗に「ハツ八幡の八幡宮」と手毬歌で有名な八幡宮の御朱印を頂き、宮の前には鳥居と言ふわけで小生八幡宮の前にサインし、御朱印ならぬワン〃の足跡を梅花の如く散らし、思ひ思ひのサインをして送つた。
犬ずきは、戦線にありても犬が目に付く。
第一信から犬の話しのないものはない。昨日やつとワン公諸彦の写真が到着した。
下の写真の右がバク號、同氏の註によると爆撃記念とか。
左がセイコー號。これは西湖と杭州の混血名?とか。
共に支那軍々用犬を徴発せしものの由。
これで僕は微苦笑するんだが、この術だ。支那軍の手で訓練から飼育迄やらして、いざ鎌倉と云ふ際に、こちらへ慰斗をつけて頂けば濡手で粟の掴み取り。と言ふ工合に甘く往かぬかナア。
と首のコペルニクス転回をする。
犬舎作りの大工姿の氏の姿。戦の寸暇を利用して愛犬のために犬舎を作る。この氣持は愛犬家でなくては味へぬ三昧境。
以下、氏の近況を見ると

前略
其の後皆々様には御変りは御座いませんか。僕も相変らず元気ですから御安心下さい。
最近は急に暑くなつて日中はどこも暑くて仕事も出来ないです。
當地は麦刈りが始まり、苗代も二寸位になつて居ります。然し今年は戦争のため支那農民も我家は焼かれて可哀想なもんです。
最近〇〇地付近の敗残兵は活気づいて夜襲や鉄道破壊等を連続やつて居ます。
いよいよ戦場も長期戦準備も完成し、駐屯の様になりました。

帝國ノ犬達-バク

内務の如きは内地軍隊より以上やかましくなつたです。長期戦の第一歩として小生も家を造つたです。本當に惜しい位、立派な家が出来上つたです。庭も立派になつた。
皆さんに見て頂く為、別封の通り写真を御送りいたしましたから御覧下さい。写真屋さんの技術が悪い上懐中電燈での焼きつけで見られませんが判断してみて下さい。
貴殿は其の後犬の方は如何ですか。小生の支那軍犬セイコー、バク號も最近は日本語を覚へて訓練も上手になりました。
写真も一枚同封しておきました。では取急ぎ乱筆にて近況御通知迄。

五月十一日
古川鶴二

 

その日もその翌日も、南京の皇軍を慰問して廻り、三日の朝南京を出発して上海に帰る途中、〇〇驛に下車して〇〇野戰病院を慰問することになつたのでありますが、其處の驛長さんが支那兵の軍用犬だつたと云ふ變梃子なシエパードを一頭連れて居りまして、私共〇〇部隊まで案内して下さる途中も、それを連れて歩いて居りました。
これを連れて歩けば夜中でも心強いと云つて居りましたが、實に怪しげな警備犬でありました。ヤツパリ支邦の軍用犬は蒋介石の漫畫の様に非常に痩せて居りました。
私も今回實地に戰場の軍犬を見學し、色々なことを聞いて参りまして痛切に感じましたことは、彼の廣大な大陸や鐡道などは、どうしても犬によつて警備しなければならないと云ふことでありました。
私ども會員はどん〃訓練に蕃殖に精進して、出来るだけ多く犬を送らねばならないと痛切に感じたのであります。私は今二頭飼育して居りますが、これから先づ感激を新にして一生懸命軍犬報國の爲活躍したいと考へてゐる次第であります。
私共の慰問團一行は四日上海發、五日長崎に到着、内地各地の軍を廻り十五日廣島の本部展に立寄つて見ましたところ、臺湾からは宮本氏や酒井夫人の顔が見え、臺湾軍犬界の心強さを感じた次第であります。
五月十八日に帰臺致し、廿七日〇〇よりの通信によれば、愛犬のベルヒと一緒にカメラに這入つてくれた軍犬取扱兵が十一日の朝〇〇の戰闘にて名誉の戰死を遂げたと云ふ、實に意外な便りであつたのであります。彼の兵隊さんの冥福を祈ると共に、ベルヒよ敵討をしてくれ、立派な働きをしてくれと祈らずにはゐられません。
有馬享『南支の第一線を訪れて愛犬慰問の記』より 昭和13年

鹿兒島コリー倶楽部とその終焉

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事務所 鹿兒島市高麗町六八七

會長 國分勝彦

副會長 山下悌郎

常務理事 高野季信

理事 貴島源一

理事 上山宗一

 

戦前の日本コリー界は、カナダやオーストラリアから種畜場が輸入した海外系、国産コリーでは神奈川県子安農園系などが主力となっていました。
西日本は特異な状況にあり、一大勢力だったのが鹿児島の「鴨池動物園系コリー」です。宣教師が帰国する際にコリーのつがいを鴨池動物園(現在の平川動物園)へ寄贈。それが50頭近くまで繁殖したのです。
コリーの増加に伴い、地元愛犬家たちは「鹿兒島コリー倶楽部」を結成しました。
北海道、本州のコリー界と距離を置いていた鹿兒島コリー倶楽部ですが、独自路線が裏目に出て徐々に衰退。昭和9年には日本コリー倶楽部と合併し、同倶楽部九州支部として活動を続けました。
日中戦争が始まった昭和12年末には動物園の残存犬も3頭までに激減。戦時体制下において、繁殖の術を失った九州コリー界の状況は判然としません。
 

○鹿兒島コリー倶楽部合併

同倶楽部は十月十七日總會の結果本倶楽部に合併入會することに決定したる旨通知があつた。別項参照。

○役員會

十月二十六日於新宿中村屋

出席者

飯塚、中山、金子、清水、池野、野田、秦、新山、三上、關根、大場、相馬、池田、大浦子爵、齋藤、長倉、由井

決議事項

一、鹿兒島コリー倶楽部を當倶楽部に合併の件承諾

備考

十月十七日午後五時鹿兒島市山形屋六階一號社交室に於て鹿兒島コリー倶楽部の總會を開き、國分會長の挨拶、高野理事長の會務、會計等の報告あり。次で日本コリー倶楽部との合併問題に移り、高野理事長より從來交渉顛末等に關し詳細なる説明あり。審議の結果滿場一致を以て可決。更に内規一部の改正、宣傳方法及観賞會開催の事を協議決定し後ち食卓を囲みて飼育體験談、コリー種の特長、天稟の性情等に關した犬談華やかに月と共に夜を更かして散會。

一、九州支部設置(當倶楽部)

鹿兒島コリー倶楽部合併と同時に九州支部を設置し左の如く組織す。

イ、範囲 九州一圓

ロ、事務所 鹿児島市高麗町六八七番地

ハ、支部經済 支部は自治す。随て本部規定の會費納入を不要。但し會誌は定價の八割を支拂ひ、通信、印刷は其實費を負擔す。

ニ、支部内規 元鹿兒島コリー・クラブの會則を参照して、原案提出のこと。

ホ、犬籍登録と血統書本部犬籍部に於て適當なる方法様式を講究して支部と協定する事。但當分の内元鹿兒島コリー・クラブの舊例により假證發行の事。

ヘ、展覧會 観賞會等は其會規を添え時日場所を定め一ヶ月前本部の許諾を要す。

ト、審査員 開會一ヶ月前候補者を推薦ありたし。之を詮考して本部員を加へて任命すべし。但し場合により本部員を加へざる事あるべし。

チ、報告 毎月一回翌十五日迄に會員の移動其他状況報告の事。

日本コリー倶楽部會務報告より 昭和9年

 

 

 

 

 

 

5月12日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月12日診察 

 

 

 

帝國ノ犬達-ジョニー

犬の一生にも栄枯盛衰がある。
今から二年前、昭和八年七月十九日未明の一時頃、人影の絶えた上野驛前で現金七十圓入りの財布を拾ひ途中横取りしようとした人間を追拂つて感心にも車坂交番に拾得物の届出をした天晴れ名犬ジヨニーが、今日はからずも犬殺しの網に引掛かり、昨日に變る餘りにも悲惨な運命の皮肉を歎いてゐる。
十二日の日曜日の朝十一時頃だ。
黒い車を引いた野犬狩の爺さんが上野驛前の御徒町三丁目の小路でやつれ果てた汚ない浮浪犬を見付けて早速、商賣意識を發揮した。
勿論泥だらけの首には首環もなければ畜犬票もない。
名犬の落ぶれた姿とも知らぬ爺さんは、近所で聞いてもとの飼主下谷區西町〇〇元酒商小林富五郎方を尋ねると、妻女のみきさん(三九)が二つ返事で「どうぞ持つて行つて下さい」―。
そこで一緒に最寄の上野署に出頭して正式に廃犬届をした上、爺さんが犬を探しに引返して見ると恐ろしい運命を豫感したものか哀れな犬は車坂交番の前に哀願するやうに慄へてゐる。
無表情な爺さんがノコ〃出かけて、犬殺し用の針金の輪を犬の首に引掛けたとたん
「こらツ!何をする!!」と大喝一聲、その昔名犬ジヨニーの名前を全國に轟かした七十圓事件のお巡りさん白鳥文雄君(四〇)である。
見るに見兼ねた白鳥巡査からじゆんじゆんと名犬のいはれを説き聞かされた犬殺しの爺さんも、商賣そつちのけでスツカリ感激し、直に警察に逆戻りして、先刻差出したばかりの廃犬届を取下げるといふ人情味のシーンを演出した。

東京朝日新聞 昭和10年5月12日

 

 

 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和16年5月12日診察。大混雑。

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和18年5月12日診察 

 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和19年5月12日診察 

ラフ・コリーの日本史

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名犬ラッシーや名犬ラッドの主役として有名な、英国原産の牧羊犬。元の公式名称は「スコッチ・シープドッグ」でしたが、1895年にバーミンガム・ドッグショウ・ソサエティが「コリー」に名称を変更。名実ともに、英国を代表する牧羊犬となります。
第一次大戦におけるドイツへの敵愾心により、イギリスではジャーマン・シェパードが“アルセイシャン・ウルフドッグ(アルザスの狼犬)”と呼ばれていました。これには「シープドッグ=コリーの座を譲りたくない英国人のプライドが影響している」との説も。
……などという「外国のコリー史」はネットに溢れ返っていますので、当ブログでは「コリーの日本史」を解説しましょう。

帝國ノ犬達-コリー
下総御料牧場のコリーとケルピー
 
【コリーの来日から普及まで】

コリーが来日したのは明治初期のことで、殖産興業による緬羊事業の拡大がきっかけとなりました。
海外の牧畜を学んだ日本人は、コリーで羊を制御する放牧方式をさっそく導入。羊を運ぶ貨物船に同乗してオーストラリアやカナダから上陸したコリーは、下総御料牧場をはじめとする各地の種畜場で牧羊犬として用いられます。また、シェトランド・シープドッグを始めとする各種の牧羊犬(短毛種含む)も明治後期の横濱に来日していたのだとか。
 
先日新聞にコリーのことが出て居た。其説に同種は大正年間子安農園で始めて輸入したと出て居たけれど、實はコリーは明治の中葉から輸入されたもので、栃木縣の那須野原の松方さんの牧場には、明治十八、九年の頃からコリーを使つて牧羊をやり、其血統は今でも現に殘つて居るし、横濱の外人屋敷や愛犬家間でもコリーは珍らしい犬ではなかつたのである。伊藤治郎氏なども子安農園で輸入する以前に耳の立つたのを飼つてゐた事がある。
元來以前は今の如く、發表の機関が整つて居なかつたので、何種が何年に初めて輸入されたと云ふ様な事は、よく判らない。
高久兵四郎『明治から昭和へ 犬種今昔物語』より 昭和12年
 
帝國ノ犬達-バフレー 
警視庁警察犬バフレー號(警視庁が警察犬制度を採用した大正元年にシェパードは来日していませんでした)。
 
帝國ノ犬達-コリー
日本陸軍歩兵学校がテストしていたノブ號。歩兵学校の評価テストにより、調達が容易で、血統や飼育訓練法が整備されていて、第一次大戦での実戦経験もあるドイツ産牧羊犬のシェパードが軍用適種犬に選定されました。
昭和3年の軍用犬教範より
 
牧畜以外の用途としては、大正初期に警視庁がバフレー號を警察犬として採用。陸軍歩兵学校でも昭和初期までノブ號などをテストしていた記録があります。
しかし、ペットとしてのコリーは資産階級が秘蔵する高価な希少犬であり、様々な犬を診察してきた獣医師ですら「病気のコリーが持ち込まれた時、初めて実物を見た」という状況だったとか。
更に、大正12年には関東大震災が発生。東京や横浜で在日外国人が飼っていたコリーは壊滅的な被害を蒙ります。
 
帝國ノ犬達-コリー
戦前、日本に輸入されていたコリー。
 
帝國ノ犬達-コリー行進 
三越屋上開催の日本コリー倶楽部第一回コリー展覧会終了後、街をパレードするコリー愛好家たち。昭和9年5月20日
 
帝國ノ犬達-白色コリー 
ホワイト・コリーも昭和8年に来日しております。

関東大震災以降、全国各地の種畜場や西日本犬界で生き延びていたコリーたち。関東犬界の復興と共にペットとしての輸入頭数も回復し、昭和11年に警視庁が登録した東京エリアのコリーは88頭(牡29・牝59頭、うち番犬用途75、愛玩用途13頭)となっています。
あわせて日本コリー犬協會(NCK)や日本コリー倶楽部(NCC)といった愛好団体も設立され、「姿すら見せない資産家の秘蔵犬」から「犬の展覧会へ行けば見る事ができる品種」へと変わっていきました。
 
日本コリー倶楽部(NCC)
 
日本コリー犬協會(NCK)が発行した血統書。洋画家の三上知治も幹部として参加していました。
 
【子安農園と鹿児島のコリーたち】
 
そんな日本コリー界で一大勢力となっていたのが、海外組はオーストラリアおよびカナダ系(なぜかイギリス系は見かけず)、そして国産コリーが神奈川県の「子安農園系」と鹿児島県の「鴨池動物園系」でした。
子安農園羊犬部で繁殖されたコリーは、関東甲信越エリアで流通していたことが記録されています。
 

羊などの家畜を扱っていた関係で、子安農園では大正時代からコリーの繁殖にも取り組んでいました。

 

昭和9年に山梨県の犬猫病院を受診した子安農園系のコリーたち。甲府犬界の資料からは、甲斐犬に並んでコリー、シェパード、ワイヤーヘアード関係の記録も発掘されます。

 

サツマビーグルが作出された鹿児島県も、コリーの一大繁殖地となっていました。

高温多湿の南国鹿児島は、暑さに弱いコリーにとって最悪の環境でしょう。太平洋戦争に参加したアメリカ海兵隊K9チームへなぜかコリーが配備されてしまい、南洋の暑さに耐えられず熱中症で死なせてしまったエピソードが『ドッグメン(ウィリアム・W・パトニー著)』にも載っております。

 

犬

犬 

コリーにとって過酷な日本の夏、 豊島美須麿氏の愛犬がサマーカットや盥の行水で暑さをしのいでいる様子がこちら。

昭和12年撮影

 

しかし、近代日本コリー界において「鹿児島系」が「子安農園系」と並ぶ一大勢力であったのは事実。

そして「殖産興業による緬羊事業の導入と共に来日し、明治初期から全国の種畜場で用いられた牧羊犬」「資産家がステイタスシンボルとして秘蔵する高価なペット」という日本コリー史の通説も、鹿児島コリー界においては通用しません。

彼らの拠点となったのは広大な牧畜場でもお金持ちの邸宅でもなく、鴨池動物園(現在の平川動物園)でした。動物園で繁殖したコリーたちは地元愛犬家へ分譲され、鹿兒島コリー倶楽部の結成へと至ります。

 

勢ぞろいした鹿児島県のコリーたち。サツマビーグルにちなんで「サツマコリー」とでも呼べばよいのでしょうか。

 

鹿兒島コリー倶楽部

事務所 鹿兒島市高麗町六八七

會長 國分勝彦

副會長 山下悌郎

常務理事 高野季信

理事 貴島源一

理事 上山宗一

 

鹿兒島に於けるコリー犬は往年一米國宣教師が歸國に際して其愛育せる牝牡の一双を同地鴨池動物園に寄贈したるにはじまり、漸次増加して今日に至りたるものにして、帝都のコリーとは全く別個の沿源を有す。

今や其數、數十頭の多きに及び、其後熱心なる愛犬家によりて五十名近き會員を有する鹿兒島コリー倶楽部は組織され、本邦に於ける嚆矢としてコリーの誇りを爲したるものなりしが、今回埼玉縣商工課長高橋三郎氏の斡旋に拠り我が日本コリー倶楽部に合併する事となり、之と同時に首記の「是を九州支部として九州一圓を統轄せしむることゝなりたれば、其管下に属する各所の同好コリ犬愛育者諸君は自今續々同支部へ御入會に成り、歴史ある鹿兒島の先輩と提携して其進歩發達を圖り大に九州の氣勢を挙げ、以て本部の塁を摩さんこと切望の至りである。若し暖國九州の氣候を利用しコリーを役して豪州の如く牧畜新興の機運を促進する事ともなれば、コリー天稟の作業犬たる妙技良能を發揮する處の實例を示す事ともなりて其前途に又一段の光彩を加ふる次第ともなるべし。

日本コリー倶楽部會務報告より 昭和9年

 

独自路線を歩んでいた鹿兒島コリー倶楽部ですが、昭和9年10月17日に日本コリー倶楽部と合併。以降は日本コリー倶楽部九州支部として活動しました。

 

 

栃木県種畜場の牧羊犬「ポン公」。 昭和11年撮影

 

結局のところ、牧羊事業が限定的だった日本では牧羊犬が活躍する場も限られていました。北海道の種畜場ではライバルのケルピーが勢力を伸ばし、満州国に入植した牧畜業者には満鉄が大量のシェパードを供給。ペットとしても高価であったため、日本でラフコリーが普及する余地は無かったのです。

 

今春のコリー犬協會の展覧會は五月十六日に報知新聞社主催の日本畜犬綜合共進會を後援して同會の會場で行なわれました。同共進會は靖國神社の境内で挙行された爲、會場は参道を中心に左右に二つに分たれ纏りが無く、余り感じの良い物ではありませんでした。

吾等のコリー部は會員諸氏の努力により十余頭の出陳あり、相當見耐へのするものでした。現在の様にコリーその物も會員も少く、而も今回の様な展覧會に十余頭も出陳された事は先づ成功であつたと思ひます。各出陳犬に付ての批評や成績は、審査された方々より御發表があると思ひますので此處には控へます。

私が何時も犬の展覧會を見ては熟々考へる事は、コリーは何故もつと普及しないのだらうかと云ふ事であります。コリーが如何にリフアインされた犬であり、外観は美しく貴族的で、加へるに訓練して其効率の良い事等は私が今更此處に事新しく書立てる迄もなく此の「コリー犬」を御讀になる程の人は先刻御承知の事でありませう。又シエパードやエアデールテリヤやドウベルマンピンシエル等所謂軍用犬と比較しても優るとも劣らざるものである事も御存じでせう。

それなのに、あゝそれなのに。前記軍用犬の飼育者の無數にあるのに引換へ、コリーの愛育者の少い事全く不思議な位です。勿論此には許多の理由もある事でせうが、其の中でも最大の理由は宣傳の有無でせう。而も内地産犬が親より仔、仔より孫と次第に劣悪に成て行く今日に於て一層考へずには居られません。

最近或コリーの牝にシーズンが來たので婿殿候補者を二頭挙げました。一方で失敗しても他の方と背水の陣を引いた積りでした。然るに運の悪い時は仕方の無い物で、一方はコンデイシヨンが悪く、他の方は不注意の爲に遂に二頭共に失敗して終ひました。サア斯う成とコリーの少い現在ではもう次に頼むに足る様な優秀犬の心當りもなく、止む無く半年を無駄に過すか、みす〃悪いと知りつゝも親と仔とか兄弟犬とでも交配させるより外に方法がつかず、全く困り果てた次第でした。

此様な不運はそう度々ある事とも思はれませんが、今日の様にコリー犬も愛育者も少い状態では良犬を生産する事は兎に角困難な仕事であります。又次第に犬が劣悪に成るのも無理からぬ事に思われます。斯くては吾等のコリー犬協會の目的にそはぬ事になります。我々コリーを愛する者に取ては此以上の悲みは無い事と思ひます。

我々會員はコリーの優秀性には充分の自信を持つて居る者でありますので、必要以上の空宣傳は望みませんが、何とかもつとコリーの普及を企て、一層改良して良犬の増加を計りたいものです。幸ひコリー犬協會の基礎も確立された今日ですから、協會を中心に各會員が細胞となつて一段の努力をしたならば、コリーの改良も、愛好者の増加も其結果は期して待べきものがありませう。

又春秋の展覧會は一般大衆に内客外観共に勝れてゐるコリーを認識してもらう絶好の機會でありますから、出來る丈の力を盡して頂きたいと思ひます。

コリーの犬籍登録制度も三上先生(※洋画家の三上知治)や金子氏等の御盡力で出來上りました。現在のコリーは日本コリー史の第一頁を飾る犬達であります。血統の鮮明は今後の改良蕃殖上唯一の指針でもあります。會員諸氏は愛犬の爲コリーの爲、奮て登録される事を願ひます。展覧會の感想を書く積りが大脱線致しましたが、與へられた紙數も既に超過しましたので擱筆致します。

服部宣和『展覧會を観て』より

 

 

 

関東甲信越コリー界に君臨していた子安農園ですが、何の事情があってかコリーの繁殖事業を中断してしまいました。

鹿児島系コリーも戦時体制へ移行する前から衰退。鴨池動物園もなかなか悲惨な状態となっていた様です。

 

六月十五日

鹿兒島高信氏より子安農園森下氏を通して來書あり。同氏は鹿兒島コリー倶楽部の理事で、同市鴨池公園動物園に關係深く、従來コリーの蕃殖地と自負して居たる鹿兒島市でも、近頃は其品種退化し昔日の感なく、市民よりも當地本家の動物園のコリーが僅か三頭となつて、斯の如き状態にては心細いとの聲さへ聞こえ、倶楽部員の内より優秀なる犬を得たいと思つても何分蕃殖數寡く手に入れ難い。

子安系にて優秀なるコリーあれば、市にても豫算がある事故、是非牡牝二頭鹿兒島市動物園の爲めに求めたいが、子安系がなければその他の物でも結構故(仔犬ならば四ヶ月以上)御世話を御願致したいといふ意味である。

早速返事を出しましたが、高信氏御希望の如き犬は現在のところ殘念ながら、今のところ心當りがありません。

枝庵(※三上知治画伯のペンネーム)「事務所の日記」より 昭和12年

 

【戦時下のコリー】

 

昭和6年の満州事変を機に、日本犬界では軍犬報國運動が勃興。やがて、軍事や国威発揚に役立つシェパードや日本犬は「優能犬」、それ以外の愛玩犬は「国家の役に立たない無能犬」と見做す風潮がはびこります。

狩猟団体も「猟犬報国」「狩猟報国」でこれに追従。何とか自分たちの犬だけは守ろうとした結果、日本犬界は四分五裂してしまいました。

昭和12年に日中戦争が始まると、軍需原皮を確保する商工省は犬皮も統制対象とします。節米運動(食料パニック)が起きた昭和14年以降は政治家や役人やマスコミが「駄犬は毛皮にしてしまえ」と叫び始め、組織的防衛の手段を失った愛犬家は個別撃破されていきました。

 

 

日中戦争が始まった昭和12年、コリーはまだ普通に飼育することができました。

 

顧れば去る七月盧溝橋に端を發したる今回の支那事変は爾來數ヶ月炎天の下、朔風に、黄塵に、雨に泥濘に寒氣に、皇軍は奮戰又奮戰多大の効果を収めて支那軍閥をして遂に屏息せしむるも時日の問題となるに至つた。我軍将士の苦労は言を俟たず、吾々の肝に銘して忘れ得ぬ處である。

それにつけても我が軍用動物の涙ぐましき活動勤務は、新聞映畫等に現はれる毎に家畜に深き關心を持つ吾曹にとつて最も強く胸を打つものがある。人ならば征討の意味が解る。併し乍ら動物は只主人に忠ならむ事を願ふのみである。唯其主人に對する愛慕の純情に依つて弾丸雨飛の間に活躍して、人にも劣らぬ働を爲し甚大なる勲功を建てるのだ。

彼欧州大戰に於て聯合軍側では軍用犬としてコリー種を用ひた。テリヤ種も用ひた。そして多大の効果を収めた事は云ふ迄もないが、我が國は未だ軍用犬としてはシエパード、エヤデル、ドーベルマンを指定したるに過ぎず、軍用適種犬としてコリー種、日本犬種、グレートデン種等は未だ訓練犬としてして採用されては居らぬけれども、コリー種は怜悧機敏戰争有用の犬たる事は争はれぬ。

其長毛美容のみを見て単に優堕なる観賞犬とのみ考ふるは、外観のみを見て真相を知らざるも甚だしい。物は見かけに寄らぬ事が多い。短毛の脊躯ドーベルマンが長毛のシエパードよりも寒氣に強い事は實験者の親しく語る處である。只シエパード愛好者が耳を掩ふて其言を聞かないのである。我々は滿洲北支の厳寒地帯に働く軍用犬としてコリー種は最も適したる犬種たる事を信ずるものである。

併し乍ら我國に於けるコリー種は第一に數が寡ひ。歴史が新しい。従つて飼育者にして、犬を訓練して居る者が甚だ寡い。是はコリーの如き怜悧なる犬を所持する愛犬家として頗る惜しむべき事態と言はねばならぬ。宜しく此犬種の本質を理解してコリー種を単なる愛玩犬たらしめず使役犬としての其本領を發揮せしめる事が飼育者の責務であらう。

人或はコリー種は他に重大な用途がある。牧羊犬としては正にコリーを措いて他に適種を求め難いといふ者があらう。誠に至言である。併し乍ら日本に於て緬羊の大群を飼育するもの幾十百あるであらうか。コリー犬が牧羊犬として活躍するに足るべき牧場は、現在に於て甚多しとしないのである。更に何年を経つて外國から羊毛を輸入しなくとも良い様な時代が來たならば、其時こそはコリー犬は牧羊業者から引張り凧となるであらう。

牧羊にコリーは不可分の関係にあるが故に、我々は今よりしてコリー犬の資性を發揮する事に努力するの必要を強調したい。単なる愛玩犬、お座敷犬として何等の訓育も施さず無為徒食の犬を仕立上る事は我徒の執らざる處である。如何に美なりとも愚なる犬を代々蕃殖する時は遂にコリー犬無能の歎を發ぜしむるに至るやも計り難い。

希くばコリー種愛好者諸賢は小學校一年生の氣持を以て焦らず怒らず、序々に其所有犬の稟性を有効に發揮すれば必らず怜悧な犬になるとの信念を以て愛育訓練する事に勤められ度い。我々は好い犬を作る事を目的として邁進せねばならぬ。

三上知治「近時所感」より 昭和12年11月

 

コリー愛好家はどうかといいますと、日中開戦初期には「羊毛需要に貢献する牧羊犬」としてのイメージを高めようとしていました。

しかし、戦況の激化と共にコリーの記録は激減。HGH(牧羊犬資格試験)の研究をしていた帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会などが、僅かな記録を殘したのみです。

太平洋戦争へ突入した時期になると、日本コリー協会あたりも「使役犬界はシェパードが独占じゃないか。コリーの出る幕はない」と諦めモードに終始。世間の愛犬家も呑気に牧畜見学ピクニックへ出かける余裕すらなくなり、日本のコリーは表舞台から姿を消します。

しかし銃後日本からコリーが消えたワケではなく、軍需原皮の需要増と共に羊毛供給を支える牧羊犬たちは活躍し続けました。

 

“武器なき平和な動物”それは羊である。日本に於ける羊の數は少ないが、その少いうちにも一意増殖を目指して営々として日夜努力を續けてゐる人と動物がある。即ち牧夫と牧羊犬である。

私は最近或國立種羊場を訪問して彼等と親しく語り合ふ事が出來た。牧夫には屢々接する機會があつたが日本に於ける牧羊犬に接するのは私にとつては之が初めてであつた。

獨逸に於ては牧羊犬がある事を前から聞いて知つてゐた。又、輸入種犬の中でもBodo v. d. Brahmenau,Ckersker v. Brug Fasanental,Arman v. Blasienberg等は所謂HGH(牧羊犬資格)の所持犬であることからしても、相當に發達してゐるものであると思つてゐた。然し日本に於ては此の試験制度もなく噂もあまり耳にしなかつたので、殆んどないと思つてゐたが、私の訪問したこの一種羊場だけでも六頭の牧羊犬を見出した。

羊舎のすぐ傍に粗末な犬小屋があつたので、番犬のハウスかと思つたらとんでもない、これが彼等牧羊犬のハウスなのだ。

一通り羊に就いての説明が終つてから場長さんは放牧を見せて呉れるといつた。最初私はさして氣にもとめずに返事をしたが、羊が有柵運動場に出された時思はずハツトした。既に一頭の牧羊犬が群る羊の廻りを吠えながら柵から彼等を出してゐたのである。

牧夫は早くも放牧地を目指して歩いて居る。犬は主人に遅れまいと懸命に羊群を追つて居る。此の姿は正に可憐忠實の一言に盡きるであらう。

私が日本の牧羊犬を見た第一印象は可憐忠實の四文字で充足出來る。此の間約二分!私も彼等に遅れまいと後を追つた。その後姿は又素朴そのものである。

肩先や背に大きなツギのある洋服に縁の廣いムギ藁帽をかぶり、ゴム長をはいて一本道を歩く牧夫の姿。その後を一群をなして行く羊、更にその後を注意深く從つて行く牧羊犬。それは一幅の畫とも云へる。

よく應接間の壁にある油繪などにも畫かれてあり想像もしてゐた事でもあるが、現實に見たこの田園風景には暫し陶酔せざるを得なかつた。

私が放牧地に着いた時には既に羊達は三々五々に散在して牧草を喰つて居た。牧夫と犬(牧羊犬を犬と省略する)は一寸高いところに立つて羊群が一望し得る位置に居た。

私は不躾で失禮とは思つたが牧夫の傍に行つて次の様に質問した。

「この犬は何種ですか」

と牧夫は「スコツチコリーです」と答へた。

一見して雑種としか思へなかつた犬は豪州産のスコツチコリーであつた。年は四歳で二回蕃殖をしてゐるさうだ。

私は更に「獨逸あたりではシエパードを使つて居るさうですね」と、すると彼は「えゝさうです。然しシエパードは強すぎて羊や人を傷ける事が度々あるので困りますよ」。これが彼のいつはり無き告白である。

日本の牧夫達はシエパード犬は強すぎて羊や人を傷けるから不適當だと思ひ込んで居るらしい。然し彼は次の様に話を續けた。

「豪州産の羊はこいつ(スコツチコリーを指す)らの云ふ事を聞きますが、今放牧して居る日本生れの羊共はてんでこいつらの云ふ事を聞かないですよ。又人にも慣れ切つて居ますから困りますね。だから日本産の羊共にはむしろシエパードの様に少しきつい位の犬がいいですよ」と。

私は之を聞いた時、やうやく安堵の胸を撫で下した。日本内地の様に殆んど野獣共の危険のないところではこの温順な犬でよいであらうが鮮満支或ひは北海道邊りでは相當に野獣共がやつて來る可能性があるから、此の地方に於てはシエパードの方が餘程有利である事は敢て多言を要しないのである。

日本産の羊と外地の牧羊犬にはシエパード犬が絶對必要だ。今後益々増殖される養羊界に我が愛するシエパード犬は益々要求されることは確實だ。軍用犬に警察犬に又警備犬に、更に内地に大陸に将又共榮圏各地に活躍するシエパード犬に又新らしい任務が出來た。私は更に牧羊犬の訓練の方法に就いて質問すると彼は「訓練といつても別に大した事もしませんが、小さい時から親に附けて一緒に羊共を追はせます。さうすると自然に大きくなるにつれ、自分一人でやるようになりますな」と語つた。

私と牧夫がこうして話して居る間、犬は羊の方を眺めたり、又主人の顔色をうかがつたりして居た。

敵國豪州産の犬でも今は毎日々々我が國の羊の増殖に挺身して居るのである。然し我等の理想は日本産の羊には日本産のシエパード犬の力で増殖に、素質の向上に、努力したいのである。

終りに一寸羊の重要性に就いて御参考迄に數字を出して置く。

日本に於ける緬羊數 25萬頭

豪州に於ける緬羊數 1億2000頭

勿論この數字は現在のものではないが、その差には大した變化はないと思はれる。或ひはその差は更に大きくなつてゐるかもしれない。とにかく日本の緬羊數は少い。そして一人の兵隊が完全なる防寒服装を附けるには6頭の羊が必要であるさうだ。これをみても如何に今後羊が重要であるかが窺はれる。

北邊の防備に活躍する皇軍将士が國土を泰山の安きに置いて活躍して頂くにはそれ相當の羊毛が絶對必要である。その羊毛を採るためには多くの羊が、その羊の増産には飼養と人と牧羊犬が、その牧羊犬にはシエパード犬が!我等が親愛なる無言の戰士に榮光あれ!

光ヶ丘敏雄『日本のHGH』より 昭和18年

 

敗色濃厚となった戦争末期、厚生省と軍需省(旧商工省)は全国の知事宛にペットの毛皮献納を通達。昭和19年12月から翌年3月にかけて、夥しい数の犬猫が殺戮されます。

国家の役に立つ軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物(日本犬)の殺処分は免除されたものの、牧羊犬たちの運命は定かではありません。

幸いにも、戦時を生き延びた牧羊犬の記録は残されています。各地の牧畜業者たちは、必死で犬たちを護り抜いたのでしょう。

雪の北海道!と云はれる此の北國も今年は例年になき暑さが續き吾々を驚かしたが、さすがに秋は早くも訪れて、早朝アデラ・デイザーと共に自転車を走らす私の手に冷たさを感じる。遥かに見える山裾を掩ふ朝霧に朝日が映えて美しい。
九月八日、今日は空知平野の一角、幌倉種畜場を見學し、HGH研究の第一歩を踏み出す日。運動を早目に切り上げて帰宅、犬體の手入れをし乍ら岩見澤の岡川直次氏の來訪を待つ。程無く來られた岡川氏に犬舎を御覧にいれた後、家内と三人で驛に向ふ。
瀧川驛より東北に向つて約十五分、線路の両側の稲は黄金の穂を垂れてこれからの食生活に明るい裏付けをして居る。
種々の迫害や食料難と戰ひつゝ、S犬種保存の爲に愛犬を守り續けて來た。そしてこれからの飼育に光明を見ひ出した今日、この喜びを知る者は一人私のみではあるまい。
幌倉驛に下車して北に向つて約十分、坂を登ると正門に着く。事務所への通路に添つて植へられた空衝く様な落葉樹並木の向ふには悠々と草を食む乳牛の群とコリー種と思はれる一頭の牧畜犬が見える。
羊のみと思つて來た此の牧場に澤山の乳牛が居る事と、牛にも牧畜犬を使つて居る事に非常に興味と希望を持ちつゝ事務所に辿り着く。
受付の女の子に名刺を渡して豫め昨日電話で連絡した來訪の意を告げる。先づ地方技官の吉田稔氏の許に案内され、初對面の挨拶後改めて牧畜犬の日常を見學に來た旨を申し上げる。
「それでは實際を見て戴きつゝ御話しよう」と早速羊群の放牧されて居る草原に御案内下さる。緩かな南斜面の見渡す限り果てなき草原遥かに見える山々は未だに消えぬ朝霧の中から頂上を清く澄んだ青空にクツキリと表して居るのも清々しい。
岡川氏と私とは交々吉田氏に尋ねる。
「先程事務所の前に乳牛が澤山放牧されて居りましたが、こtらには羊の外に色々飼育されてゐるのですか?」
「そうです。勿論羊が主ですが、牛、豚、鶏、あひる、鵞鳥、蜜蜂、と云ふ様になんでも飼育して居ります」
「羊はどれ位居りますか?」
「千頭足らずでせう」
「牧羊犬は何頭位居りますか」
「作業に使用して居るものは十二、三頭位ですが、大半老齢の犬ばかりです」
「コリー種ばかりですか?」
「そうです。他から思ふ様に血液が求められず、その蕃殖も又飼育も思ふ様に行きませんので、體型も小さく次第に低下して來た様ですね」
と、行く手には一群の羊が三三五五草を食んで居るのが見える。
「此處に居る羊は何頭位ですか?」
「222頭です」
「此の犬はコリーの純粋ですか」
「そうです。私が此處に來た頃は三才の若犬でしたが豪州から昭和11年に輸入したキングと云ふ牡の仔で、今年11才です」
「老犬とは思ひましたが11才とは元氣ですね」
「併し作業はつらそうです」
「毎日作業してゐるのですか?」
「そうです、ほとんど毎日です」
「誰の云ふ事でも聞きますか?」
「全然聴かぬと云ふ譯でも有りませんが、何んと云つても担當者の云ふ事は一番良く聴きます。担當者と一處に居ては他の者が何んと云つても駄目ですね」
「山下さん、一つ作業を見せて上げて下さい」
「トムは私の担當ではありませんが、割合に良くなついてゐるのです。―移動をやらせませう」
と、その附近一ぱいに三三五五草を食んでゐる羊群の方を向いて「トム!!」と云へば今迄家内の前にうづくまつて居た老犬の面影は何處へやら、キツと身構へて指導手を見つめるその瞳。
「ゴウ―!!」
羊群の一角を指して命ずれば一散に右手依り大きく迂回して羊群の裏手に廻る。羊は驚いて走り出す。
指導手は視符と聲符とを以て犬をリードする。犬は段々と遠くの羊を左手に誘導する。と、その内に犬はどうしたのか追ふのをやめて指導手の近くに走り帰つて途中で止る。指導手は再び視符と聲符を與へる。
「どうしたのですか?」
「年を取つたので目も遠く見えなくなり、耳も聴えないのです。それで遠くなるとあゝしてわざわざ聴きに來るのですね」
その間にも羊群は左へ左へ移動する。と犬は又帰つて來る。指導手は再び命令を與へる。
犬は真直に羊群の真中に飛び込む。羊は移動を止めて四方に散る。指導手は再び犬を呼び返す。
犬は足許に帰つて休止する。疲れたのか長々と延びて又元の老牡の姿に還える。私はこの老コリー犬の若犬に還つた様な溌剌とした作業振り、緊張し切つたその態度、そして作業慾に燃えた動姿の美しさを見遁す譯にはいかなかった。

堀川源蔵『HGH見學記』より 昭和22年

 

そのような過去が忘れ去られた1950年代、日本で「名犬ラッシー」の放映が開始されます。ラッシーの宣伝効果は絶大で、戦後日本でコリーは人気の犬種となりました。

ラッシーの放映が終了して何十年たっても人気は衰えなかったらしく、私が幼稚園児だった頃に祖父がコリーを飼育していたのを覚えています。

 

帝國ノ犬達-コリー 

日本コリー史も意外と奥が深いのです。昭和15年の広告より。

5月13日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月13日診察 

 

生年月日 昭和5年5月13日生れ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 東京府
飼主 松本有義氏

 

帝國ノ犬達-ヌートリア

生年月日 1935年5月13日 ドイツ生まれ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 大阪府
飼主 中谷氏 

 

廃犬ジヨニー入院

(5月)十三日朝、下谷車坂交番へは薬壜を提げたり、圓タクを乗り付けたりする人で立番のお巡りさんも應接に忙しい。既報「廃犬ジヨニー」を助けたいといふ人々だ。
早朝どこかのお内儀さんが硝子の一升壜に「鉱泉の水」をいつぱい入れて持参、「これを塗けてやつて下さい。宅の猫が同じ病氣で癒りましたから」と來るかと思ふと、次には貝入りの油薬を持つて來るなど後から〃交番や飼主呉服行商小林富五郎さん(四〇)方に殺到する。
結局必ず引受けて治すといふ大森區田園調布の犬猫病院佐治正次郎氏がジヨニーを圓タクに乗せ引取つた。ジヨニーは當分入院。
東京朝日新聞記事より 昭和10年

 

五月十三日、黒枠の封書が獨逸から届いた。
シユテフアニツツ翁の死!
此の豫感と、之を否定したい気持ちが相交錯して暫くの間、開封する事が出來なかつた。果して手紙は、翁の死を報ずる遺族からのものであつた。先頃出した私の手紙に對して、あの几帳面な翁から何故返事が來ないのだらうかと不審に思つて居たのが漸く解つた。
翁の若い頃の颯爽たる軍服姿や、晩年の好々爺然たる俤が走馬燈の様に頭を過ぎる。そして最後には翁の一生を捧げた大事業たるS犬の事に思いは走せる。
獨逸土着の舊い牧羊犬に萬能作業犬の素質を發見したる時の驚異と愛國的な興奮。
Horand von Grafrathなる犬を見出した時の歓喜とS犬の各標準の決定。三四年間に二千數百マルクに及ぶ宣傳乃至は説明の私信郵税等々の初期時代の翁の苦労。
次いで蕃殖犬籍簿、種犬選定制度、蕃殖監理制度等の制定に拠つて、欧州大戰後の獨逸S犬界の危機を辛くも乗り切つて今日の盛大に致したる翁の偉業。
獨逸S犬界の海外進出と共に、外國に於ける蕃殖の邪道的傾向に伴ひ、犬種に對する愛國的痛心憂慮、獨逸S犬界の世界的、永久的名声維持の為めの諸外國S犬界との提携。
JSVとの契約締結。
ナチス統制下に閑地に追はれたる晩年等々、彼の生涯の偉大な軌跡を偲ぶ時、感慨無量のものがある」
日本シェパード犬協會理事 相馬安雄 昭和11年

 

犬

武蔵野愛犬同好會主催「名珍犬観賞會」に出陳されたサルーキ。

新宿伊勢丹屋上にて、昭和11年5月13日撮影

 

犬

武蔵野愛犬同好會主催「名珍犬観賞會」に出陳されたケリーブルーテリア。
新宿伊勢丹屋上にて、昭和11年5月13日撮影

 

犬

武蔵野愛犬同好會主催「名珍犬観賞會」に出陳されたチャウチャウ。
新宿伊勢丹屋上にて、昭和11年5月13日撮影

 

一省一部主義で、軍犬普及充實に邁進!滿洲軍用犬協會総會で決定す!
滿洲軍用犬協會昭和十一年度總會は、五月十三日午后一時から國都新京記念公會堂で開催。高柳會長以下本部役員並に在京各地會員及び來賓として田崎関東軍獣醫部長を始め、加藤、有馬、田名部獣醫部員の出席あり。
先づ高柳會長の挨拶についで岩朝理事から前年度の事業、並に會計報告あり、本年度の事業計畫並に役員増員について審議を行ひ
一、本年度一省一部主義を以て事業の擴張を行ふとともに映畫、刊行物その他を以て軍用犬の普及に努むること。
一、協會の事業発展上、現在三十五名の理事を五十名に増員すること。
一、来年度の事業豫定。
等各議案其滿場一致原案通り可決して午后二時四十分閉會した。

「満洲軍用犬協會沿革史」より

 

五月十三日午後七時十分、チエリー號を同伴せる李監視員は同僚一名と共に石建坪上流松洞谷口付近を警戒中、闇夜を利用し豆満江を渡渉し來る數名の密輸入者を発見、猶も潜伏し其の上陸するを待ち誰何せるに、彼等は監視員の少人數なるを侮り、其の儘強行突破を企圖せるに依り、猶豫なくチエリー號をして襲撃せしめたる處、同號は其の先頭に突入し物凄き襲撃を加へ、監視員亦機を失せず驚愕狼狽せる犯則者の検挙に着手せるを以て、彼等は急遽荷物を水中に抛棄して對岸に遁走せんとし、内二名はチエリー號の追跡に堪へ兼ね更に粗塩百八十斤をも遺棄せり。 

満州国税関監視犬月報 昭和11年

 

福岡全國畜犬展
福岡養犬社主催にて五月十三、四の両日、福岡市玉屋デパート屋上に開催。出犬數百四十頭の多數に及び、審査員も公平を期するため東京木下豊次郎、大阪小菅米策、名古屋土屋孝の三氏に依嘱したが、場所柄と土、日の好晴に立錐の餘地もない程の人出であつた。
なほ一般人氣投票を行つたところ、意外の犬が優勝したりして一層人氣を浚つた。
昭和11年

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和17年5月13日診察 

 

昭和十八年五月十三日四時三〇分頃、新店警備隊土屋伍長を長とする鐡道巡察隊員は、新店南方部落約一〇〇米の地點に達するや挙動不審の土民を發見せり。又一方の怪しき土民も巡察隊員たる事を察知してか、何物か持参せる物品を麦畑に投入し逃走せんとせり。
折柄巡察隊員に加り、鐡道巡察の任を受け隊員に同行せる軍犬兵鈴木一等兵は、好機とばかり同伴せし軍犬速を以て得意の襲撃を令したり。
軍犬速號は好機とばかり追跡、難なく咬捕せり。土屋伍長以下の巡察隊員一行は、早速取調に懸りたる其の結果、彼の持参せる物品は鐡道用材と判明せり。敵は屢々鐡材不足を補ふ爲土民を利用し、占領地區の鐡道を秘かに搬出せんと企圖せり。
本行動は日頃の適切なる訓練と、軍犬速號の良稟性の賜と云ふ可きなり。軍犬速號及鈴木軍犬兵の敏速なる活躍は警備隊一同の信頼と賞賛の的となれり。
支那派遣軍ゝ犬育成所「軍犬使用戰例」より 昭和18年

5月14日の犬たち

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『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月14日診察

 

帝國ノ犬達-全日本テリア共進會

全国日本テリア共進会

昭和9年5月14日、名古屋松坂屋屋上にて開催。

 

五月十四日午後七時情報に接し于監吏外四名(監視犬マルス號、ノルド號同伴)は田家付属地北入口に警戒張込を爲し、潜伏待機すること實に六時間、即ち午前二時半頃に至り宮家屯より潜行し來れる密輸團百餘名を発見す。
仍て直に散開し前方よりマルス號を、側面よりノルド號をして襲撃せしむると共に監視犬取扱者以外は速に鐡道線路を占拠し有利の隊形を採り以て一挙制圧の方策に出でんとしたるに、右計画を察知せるにや密輸團護衛ギヤング二十余名は逸早く棍棒投石に依り抵抗を開始し、團員大挙して線路伝いに襲撃し來たり。
衝突形勢一時逆賭し難き事態にありしが、監視人犬必死となりて防戰し、監視犬を鐡道線路に進出せしめて尚も頑強に反抗し來る一味に對し猛烈なる襲撃を加へしめ、遂に浮足立ちたるに乗じ拳銃の威嚇発射を試み、漸く之を州内に遁走退散せしめ、放棄せる人絹布十七疋を押収するを得たり。 

満州国税関監視犬月報 昭和11年

 

去る五月十四日、臺湾日報三面の三段抜きトツプニユースに初號活字で「高雄が産んだ名犬ドルフ、元気で奮闘中との消息に、献納主の感激」と云ふ記事が出て、私共を非常に喜ばした。
その名犬ドルフとは高雄萩原重安氏の愛犬ドルフ號である。
ドルフは體型は優級、軍犬候補検査も優秀な成績でパスし、訓練競技會では第一席と云ふ實戦向きの犬である。
〇〇軍〇〇と共に私共の頭に浮んだ「あれならと云ふ民間軍用犬の中」最初に頭に浮んだのが萩原氏のドルフであつた。
此の犬は確か七歳位ではなからうか。實に圓熟した技の持主で、資格こそ持たないが、近頃では獨逸本場のメルデフンド(伝令犬資格犬)やポリツアイフンド(警察犬資格犬)であつた。臺湾全島で名訓練犬ドルフの名を知らない者はない。斯様な犬をポンと軍に提供する萩原さんも素晴らしいものであるが、これを使役する高橋部隊の軍犬班は實に幸福である。
兎に角、今度の臺湾部隊の軍犬はドルフはじめ名犬揃いである。

帝國ノ犬達-ドルフ
出征時のドルフ。 昭和13年


5月15日の犬たち

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東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月15日診察 

 

エス號(左端)
生年月日 昭和5年5月15日生まれ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 満州国奉天市
飼主 奉天獨立守備歩兵第2大隊

 

 

 

静岡縣駿東郡富岡村御宿消防組頭杉本清太郎氏方へ五月十五日午前一時頃、焼切泥棒が忍び込み、賣溜金五圓餘りと地下足袋衣類等数點を盗み、更に隣家の菓子製造販賣業古田榮氏方へも忍び入り、レインコート其他を窃取逃走致しました。
届出に依り沼津警察署では非常線を張り犯人捜査中、同日午前六時頃裾野發三島行富士自動車バスに被害者古田榮氏の長男伊豆銀行員古田榮一君が乗車せんと致しますと、車内に窃取された自分のレインコートを着てゐる男を發見。
折柄愛犬ドルフを連れて同所を散歩中の吉川氏に此事を告げますと、感付いた件の男は突然逃走を企てましたが、吉川氏の命令一下、ドルフ號は物凄ひ勢ひで追撃、附近の裾野驛(舊東海道線現御殿場線)構内鉄道官舎の床下に追詰め難無く捕へました。 

青木秀夫『S犬の殊勲』より 昭和11年

 

犬

 

五月十五、六日、臺北市船津技手によつてオゾンガスがヂステンパーの特効薬であると云ふことが發見されたと云ふ快ニユースがラヂオと新聞で大々的に發表された。未だ直接船津兄の世界的アルバイトを拝見してゐないからどの程度のものか判明しないが、ヂステンパーの病原菌に對してオゾンガスとやらが選擇的に作用するのならテンパー以外は駄目かも知れない。
併し恐らくそうでもあるまいから、さうなると人間の麻疹やインフルエンザ、其他テンパー類似の傳染病に對して特効薬になるかも知れない。兎に角臺湾の獣醫界が政界に誇る大發見と云ふことになる譯だ。併し假にも特効薬と名づけられた以上、良薬には相違あるまい。
その良薬の発表までには随分苦心されたことと思はれる。安静食餌療法で放任して置いても全快する様な患犬を、治療試験動物として其の効果を決定した譯ではなからうし、そうかと言つて激烈な胃腸や肺炎に冒され、更に神経をやられてピク〃始め出し、おまけに十二指腸蟲でもフンダンに寄生してゐると云ふ様な重症の患犬が二、三本の注射で全く健康を恢復すると云ふ神話の様な事柄が現實にありさうにも考へられない。謎の様な犬界の福音である。
人間に於ける所謂特効薬は「只今特効薬を注射した」と云へば患者は一種の力強さを感じ、大した効力がなくとも患者に慰安を與へることになるが、人語を解せぬ動物の場合はそれが出來ない。
癌や結核や淋疾の特効薬の様に、犬界の發達と共にヂステンパーの特効薬も多くなることであらうが、熱心にして合理的なる平素の飼育管理が、萬病の特効薬であることを私共は忘れてはならない。
宮本佐市「臺湾犬界雑話」より 昭和11年

帝國ノ犬達-軍用犬検閲
五月十五日札幌市に於ける三毛第七師團長の會員飼育軍用犬査閲(向つて左より、三毛七師團長、鈴木七師団團獣医部員、黒澤札幌分會長)
昭和11年

 

五月十五日

九段で愈大日本綜合畜犬展が今明日催されるのだが、我々の方は明日出陳ときめてあるので今日は行かず、それでも金子氏から電話がかゝつて午後三時頃様子を見に行かうと思ふが出て來ないかとの事であつた。金子さんは令兄が大病だといふ事であつた。自分は今午後は人と約束して鷹司さんを訪ねて其鳥を見せて貰ふことになつて居るので、それが済むでから九段へ行かうと思つたが、今日は莫迦莫迦しい暑さでヘトヘトに参つて了い、九段の方は失敬して澁谷から帰宅してしまつた。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年


 

5月16日の犬たち

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犬

生年月日 大正12年5月16日生れ
犬種 イングリッシュセッター
性別 牡
地域 東京市
飼主 守安清氏

 

帝國ノ犬達-フリーダ
フリーダを抱く安藤四郎伍長。昭和13年

生年月日 昭和7年5月16日生れ
犬種 シェパード
性別 牝
地域 宮城県仙台市
飼主 菊池精次氏

 

今春のコリー犬協會の展覧會は五月十六日に報知新聞社主催の日本畜犬綜合共進會を後援して同會の會場で行なわれました。同共進會は靖國神社の境内で挙行された爲、會場は参道を中心に左右に二つに分たれ纏りが無く、余り感じの良い物ではありませんでした。

吾等のコリー部は會員諸氏の努力により十余頭の出陳あり、相當見耐へのするものでした。現在の様にコリーその物も會員も少く、而も今回の様な展覧會に十余頭も出陳された事は先づ成功であつたと思ひます。各出陳犬に付ての批評や成績は、審査された方々より御發表があると思ひますので此處には控へます。

私が何時も犬の展覧會を見ては熟々考へる事は、コリーは何故もつと普及しないのだらうかと云ふ事であります。コリーが如何にリフアインされた犬であり、外観は美しく貴族的で、加へるに訓練して其効率の良い事等は私が今更此處に事新しく書立てる迄もなく此の「コリー犬」を御讀になる程の人は先刻御承知の事でありませう。又シエパードやエアデールテリヤやドウベルマンピンシエル等所謂軍用犬と比較しても優るとも劣らざるものである事も御存じでせう。

それなのに、あゝそれなのに。前記軍用犬の飼育者の無數にあるのに引換へ、コリーの愛育者の少い事全く不思議な位です。勿論此には許多の理由もある事でせうが、其の中でも最大の理由は宣傳の有無でせう。而も内地産犬が親より仔、仔より孫と次第に劣悪に成て行く今日に於て一層考へずには居られません。

最近或コリーの牝にシーズンが來たので婿殿候補者を二頭挙げました。一方で失敗しても他の方と背水の陣を引いた積りでした。然るに運の悪い時は仕方の無い物で、一方はコンデイシヨンが悪く、他の方は不注意の爲に遂に二頭共に失敗して終ひました。サア斯う成とコリーの少い現在ではもう次に頼むに足る様な優秀犬の心當りもなく、止む無く半年を無駄に過すか、みす〃悪いと知りつゝも親と仔とか兄弟犬とでも交配させるより外に方法がつかず、全く困り果てた次第でした。

此様な不運はそう度々ある事とも思はれませんが、今日の様にコリー犬も愛育者も少い状態では良犬を生産する事は兎に角困難な仕事であります。又次第に犬が劣悪に成るのも無理からぬ事に思われます。斯くては吾等のコリー犬協會の目的にそはぬ事になります。我々コリーを愛する者に取ては此以上の悲みは無い事と思ひます。

我々會員はコリーの優秀性には充分の自信を持つて居る者でありますので、必要以上の空宣傳は望みませんが、何とかもつとコリーの普及を企て、一層改良して良犬の増加を計りたいものです。幸ひコリー犬協會の基礎も確立された今日ですから、協會を中心に各會員が細胞となつて一段の努力をしたならば、コリーの改良も、愛好者の増加も其結果は期して待べきものがありませう。

又春秋の展覧會は一般大衆に内客外観共に勝れてゐるコリーを認識してもらう絶好の機會でありますから、出來る丈の力を盡して頂きたいと思ひます。

コリーの犬籍登録制度も三上先生(※洋画家の三上知治)や金子氏等の御盡力で出來上りました。現在のコリーは日本コリー史の第一頁を飾る犬達であります。血統の鮮明は今後の改良蕃殖上唯一の指針でもあります。會員諸氏は愛犬の爲コリーの爲、奮て登録される事を願ひます。展覧會の感想を書く積りが大脱線致しましたが、與へられた紙數も既に超過しましたので擱筆致します」

服部宣和『展覧會を観て』より 昭和12年

 

犬
東京支部、小林嘉蔵氏愛犬ハラス號は軍犬購買合格、五月十六日○○驛より壮途に上つた。

昭和13年

 

只今左記之通り悲報に接しました。御報告致します。

拝啓
向暑の砌益々の御清栄之段奉賀候。陳者貴殿御献納の軍犬「福」號去る五月十六日名誉の戰死を遂げられ候。
去る十四日払暁以降、約五ヶ師(団)の敵我が飯田部隊に對し四周より攻撃し來り候。敵は屍體一二○○兵器弾薬その他多數遺棄して十九日全く潰乱致し候。
福號も五月十五日○○西北地邊に出勤急峻なる山地に於て傳令勤務に服し、敵弾雨飛の間常に任務を完遂し、部隊間の連絡を確保致し居り候。無念にも紅に染まり倒れ候。
之を目撃せる軍犬兵は直ちに駈寄り應急手當を致し候も、腹部盲管(銃創)にて出血甚しく遂に六時十分、戰死致し候。
顧るに、福號は當隊配属以先、或ひは○○警備に、或ひは○○會戦に、或ひは又敵冬季攻勢反撃に常に第一線に出勤、模範犬として傳令勤務に服し居り候ひしが、今後益々福號に期待するところ大なるものある時、圖らずも名誉の戰死を遂げられ、茲に亡き福號の遺毛を送ると共に、その武勲を御傳へ献納せられる貴殿の誠に對し感謝の意を表し度如斯に御座候。
敬具

六月十一日
中支派遣軍甘粕部隊 赤廉東彦
池田三郎殿

右御報告申上候
六月十九日
池田三郎

 

五月十六日

早朝金子氏より電話、昨日は金子さんも行かなかつたとの事。一寸安心する。今日は九時頃に九段に行くからとの事に自分も大急ぎで朝食を喫し、正九時には九段へ行く。犬は數頭來て居るだけで、殆ど犬界人らしいものは來て居ない。シエパードなども出陳が寡いらしく、KVの大橋氏など駆出されて來たといつて犬を連れてやつて來た。十時頃になつてだん〃犬も人も集つて來た。午後になつて天候が険悪の相を見はして來たので急いで審査を始める。訓練公開はKVのシエパード、東京犬の學校のシエパード、及び我が海老名氏のコリー、ポン號であつた。審査は慎重考査の結果、金子池田三上の三名に依つて決定され、事務所に申出て發表授賞を待つばかりとなつたが、他犬種の審査は却々長引いて済まない。その内天候は墨雲垂れ下つて來て今にもザーと遣つて來そうなので、賞品は後から届ける事にして別記の通り賞級を發表して各自思ひ〃に散會する事となつた。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

警視廳自慢の警察犬五頭のうちナンバー・ワンとして嘱望されてゐた「オーデン」クンが五月十六日夕方、テンパーにかかつてポツクリ死にました。
警視廳でもその死を憐れんで廿一日朝、犬猫墓地板橋の大泉霊園で吉岡防犯係長、荒木技師、阿部訓練所主任ら廿餘名参列して盛大な告別式を行ひ、同園内にねんごろに埋葬しました。そして同園内に警察犬墓地が出來ました。
『警察犬悲喜二題』より 昭和12年

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和17年5月16日診察 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和19年5月16日診察(これが平林病院戦時最後の診療記録です)

 

5月17日の犬たち

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帝國ノ犬達-台湾軍用犬

大正3年5月17日、バトラン蕃地討伐作戰のため臺北停車場を出發する臺湾守備歩兵第一聯隊本部第五及び第六中隊。

 

『東葛家畜病院亀戸分院『診察簿 大正十二年六月二十一日以降』より

大正13年5月17日診察 

 

NSCは結成三ケ月後の五月十七日、上野博覧會場内で第一回展覧會を開いた。シエパード犬単獨の最初の展覧會で、出陳犬も僅か二十頭足らずと云ふ少數であつたが、その主なるものは渡邊(彦)氏のボブ、塩田氏のアスター、亀谷氏のドルフとアダ、寺田氏のパシヤ、幼犬では三島氏のリリー、中根氏のナナ等で、審査は行はず、會員の人氣投票により渡邊氏のボブが最高點を占めた。
ところがこの投票が問題となり、亀谷、塩田、寺田の三氏は脱退して日本ポリスドツグ協會を新に設立するとのパンフレツトを出す等の騒ぎがあつた。
「日本シエパード犬の發達小史」より

 

帝國ノ犬達-ジョニー
手術翌日のジョニー。

 

白木氏からジヨニーの病氣の経過に就いて御問合せがあつたので、病氣経過と併せて、過日新聞の報道の誤れる部分を讀者諸賢に御紹介する。ジヨニーの飼主小林氏に関して、可成無情の人間の様に書かれてあつたが、事實は其れと反對で、大の愛犬家であると云ふことを知ることが出來た。
それでは何故、名犬を野犬狩の手に渡すに至つたか。
ジヨニーの犬舎は小林氏宅の厳寒の一隅に、簀ノ子板を敷き、其の上に藁を置いてあるのだが、悪性の肉腫?から發散する臭氣は、餘り廣からぬ屋内の隅々まで匂ひ、良く今日まで我慢して來られたものだと感心する程であつた。近時事業に不遇であつた愛犬家小林氏に取つては、あゝもしてやり度い、こうもしてやりたいとは心に思ふばかりであつて、ジヨニーに對する不憫さは、日毎に増して行つたのであつた。
かつては町内の人氣者、民衆警察の一役を買つて警視廳初め、朝日新聞社に於ても表彰された名犬でも、栄枯盛衰、今日では誰一人として顧みる者も無く、子供に近づけば汚ないと云つて、其の母親に石を投げられ、近隣の家に入れば臭いからと云つて棒で追はれる。
小林氏はジヨニーの爲めに貧しい財を割いて、治療を求めたことも数回あつたさうだが、結局不治の病であると宣告された。自ら殺すに忍びず、警視廳の手に依つて安らかに眠らせてもらつたならと考へて廃犬届を出したものゝ、引かれ行く哀れな姿を見ては耐難く成り、ジヨニーは再び主人の手もとへ戻されたのであつた。
時分は昨年の秋、永年飼育した犬コリーを失つて、淋しく暮らして居る矢先でもあつたから、ジヨニーを見舞つた際に、若し小林氏が飼ふ意志が無いものなら、飼つてやらうし、飼ふ意志があれば、病気を癒してあげ度いと話したのであつた。
病氣の癒る癒らぬは、人力の如何ともすることの出來ぬ處であつて、筆者は新聞紙上に報道された如く、必ず癒るの、引受るのと云つたのでは無く、唯力の及ぶ範囲の治療をして見ようと云つた譯であつた。
ジヨニーの病名はポリツプ。
本病は牡牝生殖器及び乳房にのみ出來る腫瘍であつて、本犬に於いては包皮内全面と、海綿體の一部にも喰込んで居り、更に包皮外に極めて稀に見る大型の「ポリツプ塊を露出して居る。手術は可成り順調に進み、約三十分で終つた。
ポリツプは人の癌腫と同様に、少しでも病的組織が残つて居ると、後日再發の恐れがあるから、十二分に切り取つて、更に烙白金で病根を焼切つて表皮を縫合したのである。幸に今日の處経過も良いが、絶對的の楽観は今なほ許せない。
筆者この名犬が全快して渋谷驛に於けるハチ公の如く、上野のジヨニーとして主人の許に帰る日の、一日も早からんことを祈る次第である。
「名犬ジヨニー救はる 病因と治療経過の報告」より 昭和10年5月17日記

 

五月十七日、春の遠足として行員一同山中温泉に。湯女にフラレて帰り途、福井の町を見物した。終列車を待つ間駅前のカフエーに陣取つた所へ一人の青年愛犬を引具して颯爽として這入つて來た。
こゝではお馴染の顔らしい。
彼氏ビールを一杯引つかけてやをら立ち上ると御自慢の訓練と言う段取。
今夜は見物客が多いといふので頗る得意の躰である。女給連中七、八名を引張り出し夜の街頭で捜索訓練だ。
一人の女給からハンカチーフを借り、愛犬を停座せしめて彼氏闇の彼方へ隠して來る。捜せ!の命令と共に犬はスタスタ真つしぐらに走つて行く。人間の眼には闇であるが犬は闇を通してよく見ておる。
少しの危氣も無くハンカチーフを喰へて來た。巧い!巧い!うまいの女給連の總拍手。取り残された我等の友こそいゝ面の皮であつた。
自分も名乗り出たかつたが躊躇した。餘りに彼氏の鼻息が荒過ぎたから。
関西でもよく聞くが、主人公が犬の散歩を口實にカフエー廻りをするので犬の方がカフエーをちやんと覚へてしまつた。後持主が代つてもカフエーも前へさしかゝると停してしまい動かぬそうである。美しい女給さんんい一片の肉を貰つた味が忘れられぬと見へる。どんな高い値についたか知らぬが?

これで持主は愛犬のお蔭で女給にもてると言ふ。女給は金になるから犬を賢いと誉める。どちらもいゝ勝負だ。
自分に言はしむればである。彼氏犬を連れて行かなければ女給にもてぬと言ふのは其處に何等かの缺陥が存在するのではないか?手練がまづいのか、手管が足らぬのか!
矢張これも訓練のコツに似たものではあるまいか。と申したからと言つて自分もその一党であると早合點されては困まる。自分は彼氏をS犬フアンの名を冒涜する者であるときめつける。
瀬戸口弘「高麗狛随筆」より 昭和11年

 

五月十七日午後四時「黄昏時を期し降雨中を利し密輸あり」との密告に接し、七時三十分より田家付属地南口西方に横山監視員(マルス號同伴)外一名、同東方に于監吏(リー號同伴)外三名同東南方に渡邊監視員(ノルド號同伴)外二名を配備し、各潜伏待機し居たる處、昼間より小雨は夜に入りて土砂降りとなり、遂に咫尺を弁じ難く、監視員は殆んど同伴監視犬の聴覚のみに依りて警戒に任ずるの外なきに至れり。
午後九時を過ぐる頃、鐡道線路西側に沿ひ、雨中を百餘名の密輸團付属地に向け前進中なるを帯同せるマルス號により發見せる横山監視員は猛雨を幸ひ密輸團に迫り、至近の距離に到達するやマルス號をして奇襲せしめ、一方班員をして警笛を連呼せしめ、先づ棍棒組目差して突入し格闘を開始し、百餘の両班亦此の合圖に応じ、即時後方及側方より監視犬を放ちて一斉に襲撃せしめ、監視員は前後より挟撃して之が検挙に立ち向ひ、不意を突かれて周章狼狽為すところを知らず、更に篠突く雨と泥濘に愈々進退窮まりたる彼等は猛り狂へる監視犬の活躍に意氣沮喪し完全に壊滅し、大雨中克く毛織布一疋、蚕糸網十四疋、人絹布五疋を押収するを得たるは監視犬の奮闘に依るところ多大なりと謂ふべし。 

満州国税関監視犬月報 昭和11年

 

帝國ノ犬達-旭川訓練競技
旭川新聞主催、旭川支部後援訓練競技會が五月十七日開かれました。その襲撃。
昭和11年

 

五月十七日

関根さんが見えて昨日の九段の綜合展は商品の分け取りの事で大分混乱したそうで、腕力沙汰にも及ぶ處であつたとの事、相変らず犬商は犬商らしい考であり、愛犬家にも徒に賞を欲しがる半商的愛犬家の絶へない事に驚いた。本協會から提出した賞碑の内一個は関根氏が受取つて届けてくれた。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和14年5月17日診察

 

天然記念物指定犬 チイ公 昭和14年5月17日撮影

 

犬 

生年月日 昭和20年5月17日生れ
犬種 シェパード
性別 牝
地域 北海道札幌市

5月18日の犬たち

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ハタ號(牡六歳セパード種青島産)昭和七年補充以來成績優秀、特に先の功績を挙げ、昭和十一年十一月戰死し目下表彰方申請中。

(イ)昭和十年五月十八日午後四時、裏門警戒中満人が潜入し毛布を窃取逃走せんとするを發見し咆哮して衛兵に急を報しめたり。司令は兵二名を巡察せしめ、且ハタ號の繋鎖を解きて襲撃を命じ、人犬一致して之を逮捕す。

関東軍独立守備歩兵第6大隊

 

シュテファニッツ翁が亡くなつたといふことを、つい二時間程前に白木君から聞いた。白木君は之を相馬氏から、今年のジーゲルの名と共に聞いたといふのだから勿論間違ではあるまい。日は四月二十二日とか。さすれば今年のジーガー展は二十五日六日だから、その三四日前だ。
何ういふ病氣だつたか、永く患つてゐたのか、それとも急にいけなかつたのか。それらのことは何も判らない(中略)
RDH(ドイツ畜犬聯盟)になつてからの翁の動静なり心境については何も知らない。SVを単にRDHのシエパード犬専門部として、國家に捧げた翁の心中は恐らく、我が事終れりとの安堵と自適の念しかなかつたであらう。
「獨逸シエパード犬」が完成されたら、立派な桐の箱に入れて贈らう、と有坂君と相談してゐたのだが、本務多端にして、未だに第四巻の刷替へが間に合はず、遂に翁の墓石へ供へるより外ない仕様になつたのが心のこりであるし、また愛犬に彼等の生みの親たる翁の死を知らせる術のないのが残念でもある。
でも翁はたとへ死んでも、祖國と犬種の将來を護るであらう。さうだ!今日は犬の首へ喪章でも巻いて、遥かな悲みをおくらせやう。
帝國軍用犬協會理事 永田秀吉 昭和11年5月18日

 

五月十八日

金子氏と電話で打合せをしたらば、コリー犬は府知事賞が附いて居る事を新聞で見たといふ話である。午前中犬商の伊藤とか言ふ人が使で判らぬがといつて協會賞一個と賞状と副賞とを置いて行つた。畜犬商組合の方では商品を渡して金圓を要求するらしく、其目算が甘く行かなかつたので、大恐慌を來して居る様子である。當て事と犬の褌みたいなものである。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和14年5月18日診察

 

安東市中興區花園街に工事中の新賽犬場は、其後降雨其他の関係で工事遅々として進まず、賽犬場走路及犬票販賣場の一部竣工の儘、康徳十年五月十八日十年度春季第一次賽犬を新賽犬場に於て開催。六月一日を以て第一次十回十日間の開催を終了した。
勿論今次開會は、賽犬機構改正に依り、勝犬票發賣の事務總ては安東支部直営として行はれたものであり、請負契約解除とは言へ、全従業員の圓滿接収に依り事務は圓滑に進捗、何等支障無く勝犬票及福券の總賣上三十一萬八千圓の成績を見たのである。
勿論過去の成績に比し、幾分低下してゐるが、それは新賽犬場が舊賽犬場に比し市街に遠ざかつた事と、過去約七ヶ月間休賽の為め市民への宣傳不徹底の諸因が斯ふさせたのであつたが、其後漸次賣上向上の足取りを示してゐる。 

満洲軍用犬協會沿革史より 

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より

昭和17年5月18日診察 

 

犬 

生年月日 昭和18年5月18日生れ
犬種 シェパード
性別 牡
地域 北海道札幌市

 

5月19日の犬たち

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犬 

日本犬保存会・帝国軍用犬協会共催・第一回軍用犬耐久力試験 昭和10年


果して誰が本大會最高栄誉を担ふか。
本大會は第一回昭和十年五月十九日若松東山温泉にて開催。若松の大剣號對東京の阪龍號の三十分、闘技犬史上空前の大熱戦引分外、廿九組の好取組あり。
第二回は同年十一月廿四日、塩川町にて開催。新潟の虎徹號對増田の小鍛冶號の三十六分の激戦外廿一組の、是又闘技犬史上空前の平均闘争時間最大長の記録であつた。
本日は東北闘技犬界の恩人、土佐犬普及會長京野兵右衛門氏及び京都の里田原三氏の顔を見えたが、當會の重鎮林平蔵氏が急用にて上京中であつた事と、東北の代表犬新潟の雷光號、虎徹號、土崎の天龍號、上の山の丹下號等が不出場であつたのは遺憾であつた。
中島土佐犬普及會理事開會の挨拶を述べ、午前十時岡崎(郡山)、上原(東京)、永田(土崎)、東海林(増田)氏、何れも斯界の権威の審判にて決戦の火蓋は切られた。
土佐犬普及會記者「福島愛犬協會代表名犬闘技大會」より 昭和11年

 

「スグコイ」と、京都にゐる主人からの招電によつて、私は勘ちやんに伴はれ、五月十九日の夜汽車で東京驛を發ちました。
翌朝七時には京都驛へ着くと、プラツトホ^ムに主人が迎えに來てゐまして、輸送箱から私が出されるのを待ちきれず「どうだ、コンデイシヨンは……?」と訊いてゐる主人の聲が聞えました。
去る四月の展覧會に出場すべく、その用意とてか、三月のまだうすら寒い中旬の或る日、勘ちやんに洗つてもらつたのが原因で風邪をひき、腸加答兒を併發して、一時ひどく痩せ細つて元氣がなかつたものですから、主人はそれを心配してゐたものと思はれます。
「大ぶん恢復しました。もう少しです」と勘ちやんは答えてゐました。
その通りです。その後の勘ちやんの手あて宜しきを得ましたので、人前に出るのは未だ萬全でないまでも、元氣だけは充分といふところでした。
「今日はこれから撮影をやる」とのことで、主人の宿に三十分と落ちつく間もなく、自動車で比叡山の麓の八潮に行きました。東京附近ではちよつと味へない景色のいゝ、幽邃な地で、そこには、京都警察犬協會所属、高谷三平氏の愛犬アンテオス・バルダ號も來てゐました。
今日の撮影の應援出場だといふのであります。

新国劇「恐怖の家」撮影のエピソード 昭和11年

 

五月十九日

姫路の筑木氏から會費拂込についての問合せがあり、直に返辞を出す。

日本コリー協會事務所 枝庵(三上知活)「事務所の日記」より 昭和12年

 

青葉薫る五月十九日朝からどんよりと曇りがちな蒸せる様な日の午後五時半でした。
まだうら若き身にて輝く将来に幾多の希望を抱きつゝ行年四歳を一期として愛犬ポーラー號は遂に長逝致しました。
生者必滅の譬がありと申しながら、愛する者との死別の悲しみ、思へば過ぎ来し二年有余の春秋、子供に恵まれぬ私共に取りては彼女こそ唯一の我生活の慰めであり、恵みでもあり光りでもござゐました。
終日夜もすがら私共の声を聞けば、姿を見れば耳をねかし尾を振り振りかだらをくねらして欣喜雀躍する彼女でござゐました。
全く彼女なしでは一日の日も過す事の出来ない私共でした。
ほんとに見るからは優しい人懐い理智的な眼ざし、漆黒な背の毛並、四肢のタンの濃さ、あらゆる美點を具へて生立ちし彼女でありました。
尚特筆すべきは母犬としての母性愛に富んでゐた事、涙ぐましい程よく子供を哺育し、又訓練犬としての資格も充分備へてゐました。
二階の出産に於て産まれし彼女の直仔は、各地展覧會にて入賞なし、犬界にワカヤマオオタ名声を挙げしは皆様の御記憶にも新らしい事と存じます。

彼病魔に犯されてより約一ヶ月余、其間獣医様の懇篤なる治療を受け、今一度元気な姿にせんものと全く寝食を忘れて看護に全力を捧げましたが、ああ運なるかな命なるかな、死の一週間前にフイラリヤ症と決定しましたが、最早手遅れでございました。
直ちに特効薬フアジンを注文しましたが品切れ、東京へスチオールを注文しましたが、それを試みる間も待たで私の手を枕に静に永眠したのでございました。
死の直前まで喜んで食事も摂りましたのに、一瞬にして急変したのでございました。
可哀想に適切なる處置を初期に於て施してやらなかつた私共の悔恨や亦深しでございます。
涙に暮れて涙に明かし、終日を在りし日の愛犬の追憶に過してゐます。

呼べばハウスに声あるかと思はれて、亡き彼女を日に幾度か呼びつづけて涙に咽ぶのでござゐます。
ほんとに諦め得ぬ悲嘆の日を送つてゐます。
世の愛犬家の皆様、今後は此哀れな私共の轍を踏み給はぬやう最善の御注意が肝要かと存じます。

目下私共の犬舎には去年十月家族の一員に加はりしライナルド・フオム・ハウス・シユツテイングとポーラーが遺児生後百余日を経しクノー牝犬、チラ牝犬あり、母親の死も知らずに嬉々としてすくすく生立つてゐます。
今や私共は薄命にして逝けるポーラー號に對してせめてもの報恩謝罪の意味に於て彼等三頭の飼育に全力を傾注し、日夜精進を怠らぬ決心でございます。
可憐のポーラー號よ、暗涙にむせびつゝ此稿を閉づ。

和歌山県 太田しげ子「愛犬ポーラーの死を悼む」より 昭和12年

 

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