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Channel: 帝國ノ犬達
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旭倶楽部闘犬巡業 大正初期

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東京では旭倶楽部が毎日曜向島で闘技を公開して大入りを取つてゐた闘犬華やかな時代のことです。
左様闘犬が禁止になつたのは大正五年七月ですから、もうかれこれ二十年も昔になりますが、その頃よく地方から招待されて他流試合に出かけたものでした。
尤も今も云ふ旭倶楽部が毎日曜にあつて、非常に忙しいために、余り地方へ出かけたことはありませんが、記憶に残るものを拾つて見ますと

浦和
埼玉縣廳に努めてゐた伊藤氏が大の愛犬家で、土佐犬を飼つてゐたので、その人の口きゝで縣廳前の廣場で行つた。まづ縣廳前の表玄関で人犬の記念撮影を行ひ、数組の取組があつたが、その時東京から行つた犬で目覚しい働きをしたのは葱善の松月で、十五分のレコードを作つた。

川越
シンドウと云ふ土地の顔役で劇場主でもあつた人が大の土佐犬党で、是非一度来て呉れとのことで行くことになり、最初は劇場内で木戸をとつて見せた。
これが動機となつて川越愛犬倶楽部と云ふものが出来、もう一度行つたことがあるが、この時は劇場前の廣場で行つた。
當時川越には土佐犬が七頭位ゐたが、其の中で最も優れてゐたのは松戸村のハチ三歳で、土佐でも秋田でもない地犬。どちらかと云ふと秋田に近いものであつたが、喧嘩もずば抜けて強かつた。
それに私の荒浪を組まして十三分闘つたが、地犬が、本場の小結である荒浪とそれ丈けの激戦をしたのから推しても、その強さが想像されます。

桶川
こゝにも西宮と云ふ酒屋で土地の顔役と、鳶の頭に犬好きがゐて、この二人が中心となつて土地の犬丈けで喧嘩してゐたが、一度東京の犬と闘はせたいと云ふ。そこで東京から本所の金子、日本橋の恒川、京橋の木本、浅草吉野町の酒屋に私、それに犬分けは土手の小林と云つた當時東京一流の闘犬家が愛犬を連れて大挙して出掛けたもので、これは本當の喧嘩であつた。
彼方の犬は、土佐、秋田の區分のつかぬ地犬であつたが、何れも十二、三貫の大犬であつた。
喧嘩も却々強く、中で今も目に残る取組は、私の野口と西宮の剣のそれで、當時は普通十分が規則であつたのを十二分まで闘つた。その他引分けが多く、東京の本場の犬と互角に闘つたのは偉としなければならぬ。

栃木
土地の森弁護士の肝煎りで明治座と云ふ劇場で入場料を取つてやつた。それも二日に亘る興行と云つては語弊があるが、劇場で入場料をとつて見せたのだから、さう云へないこともない。
この時は東京からは私の大和、野口、荒浪、木本氏の木本二號、キテ、恒川氏の丸キ二號、白ブラ。
二日目には今の楽燕のチヨコも出場すると云ふ風に、當時の東京の代表犬揃ひで、これに犬分け上手の小林に、山手の伊藤の豪華陣。
これに對し土地の犬は二三頭しかゐず、東京の犬の模範仕合ひが主なる見物となつて、愈よ東京方の旅興行の感を深めた。

鹿沼
こゝへは宇都宮の愛犬家羽根石氏から電報が来て行くことになつたが、土地の熱心家の金物問屋の主人で小野口と云ふ人と、写真師の北原氏の二人が主催で、北原氏の庭園で行つた。
彼方の犬は地元には大したものはなく、宇都宮羽根石氏の犬をあてにしてゐたらしいが同氏の犬は流石に強かつた。
私は野口を一頭連れて行つたが、東京の犬の相手をする犬がないので手持不沙汰で、些か拍子抜けの態であつた。

足尾
そこからその足で日光へ行き、足尾銅山へ抜けて、同地の金田屋で工夫相手の興行をやつた。
こゝでも東京の犬の相手になるものはなく、単に形を見せる位で、あとは地元の工夫の犬が喧嘩をするのだが、工夫数百人が押掛け、その方の声援が、本場の犬の喧嘩よりも凄い程であつた。

足利
それから更に山越して足利へ出た。
こゝには足利座の座主で顔役の齋龍親分と云ふのがゐて、折角お出になつたのだから、是非手合せが願ひたいと云ふ。
そこで早速、東京の同志へ電報を打ち、福田氏のトミ、深見氏の鏡水楼二號、伊藤氏の公家、私のゴマ、猪飼氏の小物のブルテリア、ブルドツグ、ジヤツキ等がやつて来た。
土地にも却々強い犬がゐて、本式にやつたのだが、殆んど互角に闘つた。

宇都宮
羽根石氏の斡旋で、同氏と宇都宮の新聞社が主催となり、矢張り土佐犬党の舊本丸の鈴木さんと云ふ人の市中を見はらす庭園で行つた。
東京から行つたのは葱善の松月、木本氏の木本二號、深見氏の鏡水楼二號、伊藤氏の公家、恒川氏の丸キ二號に私の犬等で、犬分けは小林、高梨であつた。
何れも本格的に闘はせて、中でも目覚しかつたのは松月と木本二號の取組みで、この時松月は左の牙を折つたが、これを見ても如何にその闘ひが激しかつたかゞ判る。
松月はその後牙に金歯を被せられたが、犬の金冠は恐らくこの時が初めであらう。

黒羽

顔役の愛犬家福田鉄五郎氏に招かれて、三日間と云ふ長期興行であつた。
地元の犬は烏山、宇都宮、白河の各方面から駆集め、相當のものが集つてゐた。中でも一番強かつたのは浅間の温泉宿の犬で筑波山と云ふ犬であつた。
見たところ顔付は純粋の秋田犬で、私の荒浪と取組ませ、引分けとなつたが、公平に見てこの方が荒浪よりも優勢であつた。
この戦績によつて、東京方も初めて秋田犬の價値を認め、東京へその血を移入しやうと云ふ議がこの時初めて起り、秋田大舘の田山彌一郎氏を通じ、相當の秋田犬が入つて来た。
さう云ふ東京の土佐犬改良の一エポツクとなつた意味で、この黒羽は特筆に値する。

松本
信州松本で行つた時は、その前奏曲が大きかつた。
と云ふのは上田に競馬があつて、私も當時は馬を持つてゐて見物に出掛けたが、たま〃同縣知事に會つて闘犬の話に及んだところ、それは面白い、是非見たいと云はれるので、早速電報で犬を取寄せた。
そして東京から代表的の犬三頭が上田驛に着き、驛前の交番前を通ると、チヨツと待てと呼び込まれ、他府縣から犬の移入まかりならぬと云ふ厳命。
これは當時狂犬病豫防のためか或は他に原因があつたのか、長野縣では他府縣からの犬の移入を一切禁止してゐた。
しかしこちらも知事の頼みで犬を連れて来たので鼻息が荒い。そんなこんなで騒ぎが大きくなり、長野へ引上げて又一悶着の挙句、松本で手打かた〃見せると云ふことになつて、城内で同地方の日本犬、秋田犬をかり出し、此方の模範仕合ひを見せて芽出度く引上げたが、一時は却々の騒ぎであつた。

大舘
秋田大舘は秋田犬の本場であり、こゝへ遠征した時は、東京方も全く真剣で、それ丈けにいろ〃の逸話が多い。
このことは闘犬回顧座談會に述べたからこゝには除くことにする。

甲府
これはごく最近の昭和四年の春であつたが、山梨愛犬倶楽部、山梨畜犬角力倶楽部が主催で舊城濠埋立地で畜犬共進會を催した際、土佐犬のみ三十五頭集つた。
そして鶴舞公園で土佐犬の模範仕合ひを行つた。
地方で土佐犬がこれ丈け沢山、しかも各地の代表犬の集つたことはまづない。後に東京の闘犬の愛好家天野氏は、この時初めて闘犬を見て好きになつたと云はれる。
この時の最高の犬は金子光一氏の戦勝號で、喧嘩にも優勝した。
又阿部直吉氏の甲斐錦は横綱の適任證を與へられた。

塚本素州「土佐犬の地方巡業」より 昭和12年

おお、我が国での本格的なブルドッグ闘犬録は初めて見ました(宣伝チラシやストリートファイトの記録はあるんですけどね)。
あと、犬の金歯の記録も。

松本でのトラブルですが、狂犬病が発生した場合は地域をまたいでのペットの移動は禁止されていました。
この措置は牛疫などの家畜伝染病でも同じです。
我が国の防疫は当時から徹底していたのですよ。先年の口蹄疫のように、パンデミックへ発展するのは対応に何かしらの欠陥があるのです。

こんな時代から地域をまたいで巡業までこなしていたとは
我が国で犬のネットワークを早期から構築していたのは、やはりハンターと闘犬家だったんですねえ。


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